鳥についての一考察



「『インプリンティング』という言葉を知ってるか」
 そんな言葉が隣の席の男の口ならぬ口から発されたのは、どこからか入り込んだ鳥の羽が一枚、ひらりと空の皿に舞い落ちてすぐのことだった。
「インプリンティング?」
「いわゆる『刷り込み』だ」
 そのへんの鳥だの四つ足だのにある、と説明を加えながら、黒い指が皿から羽を拾い上げる。
「生まれたばかりのヒナが、初めて見たものを親だと思い込んで付いてくってやつだ」
「あァ。それならわかるぜ」
 風に吹かれる木の葉さえ延々と追っていく、などという謂われを思い返して、馬鹿なものだと笑ったスプリングマンの言葉に、違いない、と相手も同調してみせたが、そんな落としどころのために持ち出した話題でないことは、薄々わかっていた。
「で、その刷り込みがなんだって?」
 珍しい、と内心に唱えながら、問いを重ねる。生きた時間だけは無駄に永い自分に、仲間たちが助言、とまでは行かずとも、経験に基づく意見や知識を求めてくることはままあることで、その点ではここにいるブラックホールも例外ではない。だがこの相手の場合、例の賑やかなオモチャ仲間などとは異なり、議題は試合や戦術に関するものがほとんどで、こうした酒の席にふさわしい話の種を持ち出してくることはほとんどなかった。あまつさえ、同席していた仲間たちが切れた酒の調達やら一時の酔い覚ましやらと場から消え、自分と二人きりになったからこそ漏らしたのだろう言葉を、年長者としてのあれこれはさておき、単純な興味から言って、気付かぬふりで流す選択はない。
 手にした灰褐色の羽を一度、二度とためらいを表すように揺らしてから、ブラックホールは口を開いた。
「オレの従弟のことは、知ってるだろう」
「そりゃァな」
 この男がそれなりに名のある家系の出身で、一族の中に正義超人の親類がいるという事情は、仲間うちではとうに知れた話だ。故郷を出奔した、などと言うから絶縁済みなのかと思いきや、親交は切れていないらしく、従弟が、叔父貴が、などとわりあい気軽に語ってみせる。本家だ分家だと面倒な話もあるようで、正義側の連中なぞとつるみやがって云々、と部外者が単純に口を出せるものでもないのだとは、かつて多くの血族を持っていたというエジプト超人の言だ。
 奇妙な力と姿を持つ彼ら異次元の一族においても、とりわけ、今や地球の超人界でも実力者の一人に数えられる正義超人、ザ・ペンタゴンの名は、ブラックホールの最も近しい縁者として、よく話題にのぼった。自分たちが任務失敗の咎を受けて墓場にいた頃、周りが今日はどう怠けようかと思案するなか、この男は一人真面目に玉集めに精を出していた。何かあるのかと理由を問うと、「ここへ来る直前、従弟と組んで試合に出る約束をしたので、さっさと帰らねばならない」などとあっさり答えたものだから、そこまで本物の繋がりであったのかとさすがに驚かされたのを憶えている(その会話ののち、仲間の中に玉を落とした者と拾った者が出たようだが、まあ別段どうでもいい話である)。
「あいつは、オレよりだいぶ歳下なんだ」
「らしいな」
 十年近い差があるという話だったか。少なくとも成年までは常人とほぼ同じ育ち方をする一族のようであるから、それなりの開きと言えるだろう。
「今は生意気に背も育っちまったが、昔はそりゃあチビでな。オレの腰まで無いような頃もあった」
 羽を持つのとは逆の手でグラスを取り上げ、中を一口含んでから、昔語りが続く。
「地球に行った連中にまた真っ白いのが出た、今度はそれが叔父貴の息子、要するにオレの従弟だって言うんで、生まれた次の日だか、その次の日だかに親父に連れられて見に行ったが、まあチビな上に、頭から足まで白いもんで、やたらに弱っちく見えたな。羽なんざちっぽけ過ぎてあるんだかないんだか……こんな生き物がこの世にいるのかと感心したぐらいだ」
 淡々と追想を並べる顔に、まだ真意は見えない。もとより、この異相から何がしかの思惑を読み取ろうというのは、いかに付き合いの長い仲間であれ、そうたやすい業ではない。
「まあ、兄貴分なんぞと言われたからには、オレもなんだかんだ粋がって面倒見たし、ほかに歳の近い親類がいないのもあって、あいつも割に懐いてはきたがな」
 波のない口振りからただひとつ明確に浮かぶのは、このありふれた思い出話の中に男の真意はなく、このまま話し終えても、結局のところ真意にはたどり着かないのだろうという推測だけだ。
「あのよォ」
 それなりの面倒も感じたが、まだ少し興味が勝っていた。次の徒言が落ちる前に、道筋を正す口を挟む。
「結局、何があったんだよ。会ってきたんだろ、この前。その従弟に」
 手にした羽をかすかに動じさせつつも、ブラックホールはスプリングマンの言葉を否定せず、黙って頷いた。それ自体は大した確認ではなかった。たまの空き時間を使って人の街にくり出そうというのはままある話だ。まして自在に空間を越える力など備えていれば、なおのこと気軽な習いであるに違いない。つい数日前にも、従弟の試合を見に行くと自ら告げて、男は軽い動作で次元の穴へと消えていった。
 多少は肩を竦めてやりもしたが、それすら今は約束事の一連でしかなく、親類でありタッグパートナーである相手の試合見物という、まあごく普通の範疇に収まるだろう行為を、仲間たちはごく普通に聞いて見送り、ブラックホールもごく普通の態度で行って戻ってきていた、ように見えた。実際はその無機質な顔に動揺がひそんでいたのか、今となっては知る由もない。
 ずばり投げかけた問いに、はっきりそれとわかるほどの躊躇いの間を置いて、男は低く短く答えた。
「……『欲しい』と、言われた」
「はァ?」
「オレも同じ反応をした。聞き違いなんぞじゃあなかった。……オレが欲しい、と」
 共に生きたい、この先ずっと、共に在りたいと、そう、言われた。
 それぞれの語の意を今一度確かめるがごとく、訥々と紡がれた言葉に、さすがにすぐには声を返せなかった。係累を持たず、また必要ともしない器物から生まれた身と言えど、その謂いに込められた、あまりに鮮烈な他者への望み、いっそ血なま臭くさえある慾を、ほかの何かと取り違えられるものではなかった。
「あー、その、なんだ」
 意味のない音を吐いて冷静を保ちつつ、疑問符の山をかき分ける。
「そういうカンケイだったのか、お前らは」
 ようやく選び出した割には上等とも言えない問いに、ブラックホールは寸間置かず首を振った。
「そんな馬鹿な話があるか」
 濁った酒を深くあおり、吐き捨てるに近い語調で一蹴する。
「確かにオレにとっては特別に近しいやつだ。ガキの頃には想像しなかったぐらいにな。友で、パートナーだ。血の繋がりがきっかけだと言われればその通りだが、今の関係を否定しようとは思わん」
 だがな、と、饒舌な独白が続く。
「それを延々踏み続ける必要がどこにある。追い続ける必要がどこにある? オレもあいつも、郷だの家だの、とっくに出たんだ」
 初めて前を動いたもんは木っ葉でも追う、そんな馬鹿げた話があるか――
 手の中の羽があっけない音を立てて二つに折れる。詰るように問いを吐いてこちらを向いた顔の、ぽかりと空いた一つ眼には、前に座す仲間の姿も、遠く住まう縁者の姿も映ってはおらず、ただ底のない虚ろの奥に暗黒が揺らめくばかりであった。
 並ならば腰抜かしてしかるべき景に今さら戦慄くほど、会って間もない仲ではない。それはくだんの相手も同じだろうに、と言ってやろうかとも思ったが、やめた。
「で、お前、なんて返してやったんだ」
 こちらの意見は述べず、逆に問いを重ねれば、ゆっくりと首が前へ戻り、
「……あの馬鹿ガキ、自分の言いたいことだけ言ってさっさと飛んで行っちまいやがった」
 苦々しげに答えを落とした。
 ふゥん、とひとつ相槌し、スプリングマンは自分のグラスに向き戻る。
 終いまで聞けばなんのことはない。結局のところ、それこそがこの迂遠な話そのものの答えであり、この男のまれな煩悶の正体なのだろう。ある望みを告げられ、答えることができなかった、どうすればいい、と、ただそれだけの悩みだ。返答の時間が与えられなかった、というのは言い訳に過ぎない。たとえ相手が空を飛んで行ったとしても、次元の壁さえ跨げる者がそれを捕まえられないわけがないのだから。
 ――そんな馬鹿げた話があるか。
 ひとつはっきりと浮かんだ念は、告げられた望みに対する回答にはならない。ブラックホール自身それを知っていたからこそ、その場は黙って戻るしかなかったのだろう。そうして今ようやく、酒精任せに表へ吐き出された。
「……チビで弱っちいガキだった。いつも人の真似してあとを付いてきやがる。郷を出る時も、あいつが一番最後まで追ってきた」
 再開された昔語りは、もはや誰を聞き手と定めてもいない。前へ垂れた頭から、胡乱な声が空の杯にただ落ち続ける。
「少し見ないあいだにすっかり生意気にでかくなりやがって、オレの言うことなんざ聞きもしないが、オレも聞かないぶんにはあいこだ。まぁ悪かない、と、そう思って――」
 身じろぎの拍子に片肘がずるりと天板の上を滑ったが、一度途切れかけた声はかろうじて先へ続いた。
「それが、なんで今さらまた追おうとする……? 昔を持ち出してガキ扱いするたび文句垂れるのは、てめぇのほうだろうが。そんな馬鹿げた話、オレに……オレ、は」
 ひたり、言葉が止まり、下を向いた首がかすかに横へ振り立てられたように見えた。無残に朽ち折れた魔界の凶鳥の羽を黒い指が奥へ弾き散らし、あいつの、と、続く言葉が改められる。
「あいつの羽は、こんなに煤けて汚れちゃいない」


       ◇


「今帰ったぜぇー。あー重て。なぁ、やっぱこういうのはよ、次からはクジなんぞじゃなくテキザイテキショってやつにしようぜ。ぱっと行ってぱっと帰ってこれるやつがいるんだからよー」
「ゲヘヘヘ……模擬戦での順位をやめてクジにしようと言ったのはお前だったろう」
 岩戸を開けて賑やかに現れた二人の仲間は、こちらが手振りを示す前に中の異変に気付いたらしい。顔を見合わせ、ほんのわずかに足音を抑えて歩み寄ってくる。
「なんだ、ブラックホールのやつ潰れちまったのか?」
「珍しいな」
 頭上からふたつの声を浴びても、卓へ突っ伏した黒の上体はぴくりとも動かなかった。残りの酒を全部呑まれたからな、と結果だけ伝えると、ステカセキングが遠慮なく非難の声を上げた。
「ヒトが買い出しに行ってやってるあいだぐらい加減してろよなぁ。しかもこれ、このまま朝までほっといて風邪でも引きやがったら、オレら連帯責任でまた教官にどやされちまうんじゃねェか? ……こいつのマント肩引っ張りゃ出てくんだっけ?」
「やめとけやめとけ。弾みで宇宙の果てにすっ飛ばされた馬鹿をそう何度も探しに行くなんざゴメンだぜ」
「あれは迂闊に触ると刃が出るぞ。ほら、部隊のほうのを使え」
「へいへいっと」
 差し出したマントが雑にかけられる様子を横目に、ただの暴飲でないことはさすがに察したのだろう、魔雲天が何事かあったのかとこちらへ訊ねかけてくる。少し考え、さァな、と首竦めて答えた。
「何があったにしても、オレらがどうこうするもんじゃネェよ」
「まあそうだな」
 暇に任せて話を聞く程度のことはする。だが、あのお優しい正義超人どものように、相手の憂いを我が憂いとも受け止めて、心底気をかけてやるなどといった、いかにも面倒で不毛な作法は悪魔の世界には存在しない。
(つっても、こいつをへこませた元ってのが、そのお優しい正義超人サマだけどな)
 長らく構い遊んでやっていたらしい白い羽。歩みを早めて後へ置き残し、いつしか横手を飛ぶのを遠く眺めるようになった鳥が、不意にすぐそばに降り立ち前へ立ち塞がったものだから、しかもそれが思いのほか育って大きくなってしまっていたものだから、動けずに窮している。詩的に語ってやってさえごくごく単純な、その程度の話だ。
(ま、程度なんてのは当人と他人とでデカさもまるきり違ェんだろうけどよ)
 なまじそこそこに頭の回るぶん、ものを小難しく考える者もいるというわけだと、黒の装束をかけた寝姿を見下ろし思う。そうした考え方の極まったゆえに、この揃いの外套を捨てた者もいたのだろう、と、そんなことを次へ思いかけてはたとなり、舌打ちとともに思考を切った。
「なに辛気くせー顔してんだ? せっかくオレ様が仕入れてきてやったんだぜー。呑めよ」
 酒のなみなみと注がれたグラスを横からずいと差し出され、反射的に受け取る。見やった顔は、簡素な線しか持たない機械のそれであるにもかかわらず、いつもながら妙に表情豊かだ。
「……お前みたいに単純に生きれりゃラクでいいんだろーがなァ」
「んだそりゃ? 褒めてんのか?」
「好きに取っとけ」
 不思議げに首傾げる相手とは問答も長く続かず、外へ出ていた二名も呼び戻されて、あっさりと酒宴が再開される。この二幕目もお開きとなり、やがて朝が訪れてのち、目覚めた男は自分に何か言ってくるだろうか。おそらく何も言わないだろう。差す指さえすり抜けさせてしまう、捉えどころのない涼しげな顔のまま、また独り何かを考えるのだろう。自分もまた、足下に転がっているようにしか思えぬ答えをあえて蹴り寄せはしない。
 立ち塞がる身を邪魔だと斬り払うことも、差し伸ばされた手を得意の業でかわすこともできぬまま、馬鹿なと疑い、それらしい定説を頼むばかりでは、そう長く保つ煩悶とも思えず、やはり口を出すだけ馬鹿らしいというものだ。
(どっちが刷り込まれちまってるんだか)
 一心に親を追う鳥が馬鹿げているなら、その稚さゆえに目を奪われ、愚直さゆえに心をかけるべきと鳥を見定めてしまった親代わりは、より馬鹿げていると言えはしないか。いつかはさかしく育つことを忘れていたわけでもあるまいに。
 いいや案外、頭の回るやつは想像力に欠けるなんて言うからなと、弁護か揶揄か己にもわからない評を胸の内で贈った相手は、喧騒の中やはりこのまま朝まで夢に沈んだままいる様子で、その手元にあった灰色の羽のかけらも、いつの間にやらどこぞかへ消えてなくなっていた。


Fin.

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