Cheek!



「あ、ブラック! いらっしゃい!」
 ワームホールから降り立ってひとつ目の角も曲がらぬうちに、高い声音に大きく名を呼ばれ、ブラックホールはその場に足を止めた。声の方向へ振り返るのと同時に、とたとたと駆けてきた足音が軽やかに地面を蹴って腰へ飛び付いてくる。
「ようペンタゴン。ヘキサの叔父貴はいるか?」
 小さな身体をいなすようにして片腕に受け止め、もう一方の手に摘まんでいた封書をかざして訊ねると、年下の従弟、ペンタゴンはふるふると首を横に振った。
「父さんなら母さんと一緒に買い物に行ってるよ。私は学校の勉強があって留守番してたんだ。……あっ、でももう帰ってくると思うから、家で待ってって!」
「宿題なら手伝わないぞ」
「ちがうよー」
 すぐに飛び帰らせてはならじ、とでも言うように腕へしがみつかれて、手紙のことづけは諦めざるを得なくなる。まあ使い走り代として茶を馳走になっていくぐらいは妥当だろうと、戸口へ向かう幼い足取りにこちらの歩調を合わせてやりつつ、端から「子どもの話ひと回り分の休憩時間」を考えている甘さに気付いて苦笑した。


「――それで板が割れて、そいつらみんな池に落っこちたんだよ! 泥だらけになって泣いて帰っちゃって、おかしかったなぁ」
「ほーぉ」
 子ども相応の何ほどでもない日常が子どもらしい大仰さで語られるのを聞き入るでもなく聞きながら、勝手知ったるリビングのソファに陣取り、ゆるゆると時を過ごす。案の定、と言うべきか叔父夫婦がすぐに帰宅する気配はなく、二杯目の茶をカップの半分ほどまで傾けた頃、一瞬前まで隣ではしゃぎ話していたペンタゴンがふと言葉を収め、じっとこちらを見上げてきた。
「どうした」
「うん。あのね、……ブラックは『キス』って知ってる?」
「ぶっ」
 幸いにも嚥下の途中ではなかったため噎せ込まずには済んだが、手にしたカップの中身は大いに波立った。慎重に皿へ置き戻してから、いきなりなんだ、と予期せぬ問いかけを訊ね返す。
「このあいだ二人で遊んでる時に、メアリちゃんに言われたんだよ」
 「キスして」って、と、あっけない口調で言う。
「でも意味がわからなくって、なんだろうと思って考えてたら急に『意気地なし!』って怒られて、ビンタまでされちゃった」
 もうあのコとは遊びたくない、と拗ねた顔をするのを見下ろし、二人の子どもそれぞれに同情の念を贈った。なるほど郷を離れて異種族の地で育つとこんな問題も起きるのかと、妙な感心を覚えるブラックホールをよそに、小さな従弟はなお問いを重ねてくる。
「ブラックならきっと知ってるぞって、次会ったら訊こうと思ってたんだ。ねえ、『キス』ってなに?」
 きらきらと音さえ出そうな期待の表情を向けられ、咄嗟の答えに窮する。幼い弟分に頼られるのをなんだかんだと得意にも思っていたが、信頼をこれほどの荷に感じることがあるとは知らなかった。
「……お前、何歳になった?」
「六つ。もうすぐ七歳だよ!」
「そうか……」
 じきに十六の自分と九歳違いの従弟なのだから、訊かずとも自明のことではあったが、改めてその齢に思いを馳せる。さてこの年頃の己にはいかほどの知識があったろう、と首をひねるが、どうにも記憶が戻らなかった。なにせ十年前だ。軽くひと昔と言っていい。
 両親には訊いたのかと確かめると、予想通りに首を振られた。この様子では教えかけたことさえないのだろう。郷の血族とは別の意味で放任主義の気のある家だから、自然に知るに任せようとでも思っているのかもしれない。
「ブラック?」
「あー」
 お陰で甥が苦労をこうむっているぞ、といまだ帰らぬ叔父夫婦への恨み言を心中こぼして、曖昧に問答を引き延ばしつつ、当座の切り抜け方を考える。知らない、とごまかして期待外れと思われるのは却下だ。面白くない。ならばそのままずばり教えてやろうか。いずれは知ることなのだから、少々早いぐらいは構わないだろう。
 そう思い決めて、
「キスってのはな、好きな相手とすることだ」
 まずはお定まりの意味を述べたが、やはり続く説明に詰まった。道義云々をさて置いたとしても、まだ何より大きな問題が残っている。なにしろ我らが一族には、その行為に欠くべからざる器官、表層に見える身の一部という意味での「口」が存在しないのだ。
(多分こいつは、意味そのものより『意気地なし』だの言われたことのほうが気になってんだろう)
 意気盛んな少年にとってはなかなか屈辱的な評価だ。とすると、本当にありのまま答えた場合、次の説明は「この土地で世間一般的にそう言われる行為は、お前にはできない」と教えるところから始まることになる。いや、どこから話そうが結論的にそうなる。仕方ないのだ。無いものは無いのだから。
 しかしどんな理由であれ、周りが事もなくできるものをきっぱり無理と言われれば、子どもの心は傷付くだろう。それをすることで意気地なしの評価を払拭したいならなおさらだ。
「好きな相手?」
「ああ」
 ブラックホールの苦心に気付かず、ペンタゴンは小首傾げて言葉をくり返した。さすがに気恥ずかしさを感じたが、この期に及んで嘘へ言い直す理由もなく、ひとつ頷く。
 そうして、多分そのメアリとかいう子はお前のことが好きなんだろうから、今度会った時には――と言い添えてやる前に、じゃあ、と隣で弾んだ声が上がった。
「私と『キス』しよう、ブラック!」
「は?」
 思わず心のままの声が表へこぼれた。ひるみもせずに、小さな従弟がこちらへずいと身を乗り出してくる。その顔は(おそらく件のガールフレンドにはそうした機微も伝わらなかったのだろうが)問いの直後にも増して期待に輝いていた。
「いや、オレは……駄目だろ……」
 予想だにしない展開に難渋を深め、妙な誤解を正す言葉を探したが、
「だめなの? だって私はブラックのこと好きだよ?」
 不思議げに言われて、当該の課題のさらなる難に気付く。この年頃の子どもが、音こそ同じく語られる言葉それぞれの微妙な差異を、しかと理解できるはずもない。
「……ブラックは私のこと嫌いかい」
「そういうわけじゃない、が」
 今度は相手の当惑をよく察し、少ししょげた声で問うてくるので、すぐに否定する。なら好きかと重ねて訊かれれば、まあ、と頷くほかなかった。好きか嫌いかの二元にされれば好きに違いないだろう。歳の差が大きいだけあれやこれやと困らせられることはあれど、かわいい弟分である。
「じゃあ、『キス』しよう!」
「いや、だからな……」
 とは言え、ここまでの難題をぶつけられたことは今までになかった。やはり適当に言い逃れておくのだった、これなら近所の不良どもの喧嘩でも買っているほうがまだ十倍は楽だ、と痛む頭を揉みつつ、上手いあしらいを求めて思考を巡らせる。
 今さら実は知らない、はもちろん却下だ。沽券に関わる。むくれられてはあとが面倒で、無碍に撥ねつけてへこませるのも本意ではない。ならば応じてやるのか、と言えばそもそもの話、
(オレだって口はないんだぞ……)
 ということになる。一般の知識として得てはいても、元来はそうした行為の概念自体を持たない生まれなのだ。この顔にあるのは、せいぜい額の飾りと、すべてを虚空へ呑み込む大穴のみである。
 と、そうまで考えて、再び気付く。世間一般に言い表されるところの「顔」はなくとも、顔と呼ばれる部位自体がないわけではない。自分の大穴は顔にあると言えるし、従弟の五芒の星も顔にあると言える。であれば――
「ペンタ」
「うん!」
 名を呼ぶなり喜色みなぎらせて姿勢を正す子どもに苦笑しつつ、背をかがめて頭を近付ける。逃げていくならそれはそれで、と思ったが特に動きはなかったので、そのまま隣へ並べた顔の側面を、同じく相手の顔横についと触れさせた。
 すぐに起き戻って見下ろせば、事を飲み込みかねた表情がある。
「今の、キス?」
「……の一種だ」
 少々のばつの悪さを感じつつも、嘘は言っていない、と強引に自分を許して答えた。チーク・キスだとか言ったか、これも我が一族にとっては生来に知るものではないが、口を使わず頬を寄せて正式な行為に代える文化が、この星には確かに存在している。それもいわゆる恋情ではなく、友人や家族のような親愛を結ぶ相手へ示して自然な行いであるから、この場を逃れるに――いや、この場で教えるには最適の選択だろう。
 我ながらよく思いついた、とひそやかに自賛しながら、肝心の子どもの納得のほどをうかがい見ると、その顔からは既に怪訝の色も消え、無邪気に従兄の言葉を受け入れて喜ぶ高揚だけが読み取れた。無意識にだろう、背の翼がはたはたと犬の尾のように揺れているのを、単純さに呆れつつもほほ笑ましく眺める。
 まだ当分はガキだな、と初めに喰わされた衝撃へのせめてもの意趣返しのごとく内心で唱え、正面へ向き戻ろうとしたその瞬前、
「ブラック、もう一回!」
 せがむ声とともに首元へ勢いよく飛びつかれて、慌てて自分と子どもの身体ふたつを後ろへ付いた腕で支えた。ああともいやとも声を発せぬうちに、小さな頭ごと頬を顔へすり寄せられる。
「……っ、こら、ペンタっ」
 懐に入ってぐりぐりと頬を懐かせてくるのを片腕でどうにか抑え、体勢立て直した手を前へ戻して、爪先で軽く額を弾いてやる。いたっ、と声上げて白い首が後ろへのけぞり、ようやく身が離れた。
「ひどいー」
「いきなり飛び付いてくるやつが悪い」
 恨みがましげに訴える顔を指してぴしゃりと言い切ったが、ペンタゴンは反省の態度を見せるでなく、だってブラックとキスしたかったんだ、と不服の声を重ねた。
「オレにそう何度もする必要はないんだ」
「なんで?」
「一日に同じやつと二度も三度も挨拶しないだろ」
「挨拶なの? 好きな人とするんでしょ?」
 ほら見ろこんがらがってきやがった、と疑問尽きさせない子どもと浅慮に答えた自分にため息して、そういうものなのだと強引にあしらいにかかる。
「好きでもオレみたいな親戚連中にならその程度でいいんだ」
「けど……」
「あとは平手もらったガールフレンドにでもしてやりな」
「メアリちゃんは好きじゃないよ。すぐ怒るんだもの」
 表へ見える口があればつんと尖らせていただろう不満いっぱいの声で言い、ブラックがいいのに、とこぼして羽をしおれさせる。ずれた認識を植え付けまいと思えばほだされてやるつもりもなかったが、ここで甘やかしては、と意固地になるほどの問題ではそもそもない。発端からを改めて考えるだに、どうにも馬鹿馬鹿しい話だ。
「覚え立ての言葉だの技だの、何度も得意がって披露するのはガキの証拠だぞ」
 ませた子ども相手には覿面に効く忠告を挟みつつ、絶対にするなとまでは言っていないだろう、と適当なさじ加減でフォローする。これ以前にあった大小のやり取りを思い返すにつけても、いかにも地球育ちらしい、穏やかで人懐こい気性の従弟は、身近な存在に拒絶されるのを特別に耐えがたく感じるらしい。
「意味がわかったんなら、その通りに正しく使えってことだ」
 くどい逃げ方だな、と冗漫なやり口を自ら腐したが、ペンタゴンはさすがに裏の思惑まで勘繰ってはこず、神妙な面持ちで承服した。
「挨拶ならいいんだよね」
「まあな」
 それでもなおの確認にはこちらも一定の妥協とともに頷いてやり、
「ついでに言うと――」
 こうまで来た以上、また誰ぞかに平手を頂戴しない程度には補足してやらねばと、今の「挨拶」とは別種の行為があることを語ろうとしたが、今度は部屋の外で響いた帰宅を告げる声が、続く言葉をさえぎった。
「あ、父さんたちが帰ってきたよ」
「……ああ」
 なんとも間が悪い。留守中に上がり込んで子どもにあれやこれやと説教しても何も言われない(どちらかと言えば歓迎される)だけの信用はあれど、むしろそれほど近しい親類であるだけ、あまりこの手の話題は聞かれたくないところだ。
「ねぇ、ブラック」
 こちらへ近付く足音を測りながらさてどうするかと考えていると、ひそり、先に声をささやきに変えたのはペンタゴンだった。
「今日の話は、二人だけの秘密だからねっ」
 両の拳を握って言う顔は真剣そのものだったが、その意味するところは今ひとつ受け取れなかった。開け広げに語るかどうかは別の問題として、そもそもが一般常識の範囲に収まる知識なのだ。今日の自分が教えずともそう遠からぬうちに知り得ただろう話であり、ことさら秘密にするまでもない。
「お前が女にビンタ喰らったって話か?」
「ちがうってー」
 もう、と膨れるのを笑っている間に叔父がリビングへ現れたため、声量を落とした会話はそれまでとなる。初めの問いへの答えは結局半端なまま流れてしまったが(途中どれほど脇道にそれていたのかと改めて呆れる)、まああと数回平手をもらうぐらいの経験もあってしかるべきだろう、と外から勝手に裁を下して善しとし、それ以上の踏み入りは避けた。面倒の思いも多分にあった。
(どうせまた学校だ大会だと、すぐほかに興味が移って忘れちまうだろ)
 そんな予測を立て、これで終いと決め込む。実際、二人いるなら久々にまとめて修行でも見てやろうか、などと気まぐれを言い出した叔父にペンタゴンは飛び上がって喜び、あとは身体を動かすことに夢中になって、その日のうちには話をしたことさえ忘れてしまったように見えた。
 そのため、ひと昔前を思い出しかねたままにしたブラックホールが、どうやら自分は子どもの宣言だの決心だのの固さを少々軽く見積もったらしい、と気付くのは、それから十数日後。
「いらっしゃい、ブラック!」
 顔を合わせるや否や、腰どころか首の高さまで飛びついてきた従弟に痛いほど頬をすり寄せられた場面でのこととなったのだが、その瞬間でさえ、それがその後数年に及ぶ「挨拶」の習いになってしまうなどという展開には、まだ一片の想像も及んでいなかった。


       ◇


 それから、さらに十余年ののち。
「……おい」
 決別があり、再会があり、すったもんだの末の落ち着きがあって、今。
「さっきからなんなんだお前」
 幼く無知な子どもに代わり、どこからどう見てもいっぱしの大人である男が、二人掛けのソファの上、大穴の異形の顔に我が頬をぐりぐりとすり寄せている。
「んー?」
「何をしているんだと訊いている」
 何か問題が、とでも言いたげな音を返されて、短く平坦に問い重ねる。
 留守宅に上がり込んだのを特別に気に留めてこないのはいつものこととして、あ、とこちらへ気付いた声を最後に、一往復の会話すらなく抱きついてきてからのこの奇行である。問題ばかりしかない、とさえ言えたので、もはやひとつひとつを丁寧に取り沙汰している気にはならなかった。なんぞ疲れてでもいるのかと放置してやる時間も、三分を回れば充分に寛大と言えるだろう。
「何って、ブラックにキスしてるけど」
「馬鹿な犬かなんかがのしかかってきてるようにしか感じんぞ」
「そうかい? おかしいな。これがキスだって昔誰かに教わったのに」
 顔横に白々しく落ちた言葉を聞き、やはりあの時のネタか、と薄々連想しかけていた記憶を改めて鮮明にする。いつも無邪気に問いを投げかけてきた当時の子どもは、ブラックホールのあえての沈黙にも構わず、同じ姿勢のまま説明を続けた。
「今日の感謝祭に私のファンだっていう小さな女の子が来ていて、握手のお礼にキスしてくれたんだ。名前を訊いたら、なんて言ったと思う?」
 メアリ、と、記憶の中の答えに現実の声が重なる。
「子どもの頃に同じ名前のガールフレンドがいて、ああそういえば昔キスのことで誰かに騙されたなって、ふと思い出してね」
「お前、その手の話になるといつもそんなこと言ってるが、別に騙したわけじゃないだろ」
「でも子どもだからってはぐらかそうとしたには違いないさ」
 その点を難じられれば否定の種もなく、また沈黙を返す。お陰で私はそれから三回ばかり余計に女の子の不興を買ったと思う、とペンタゴンは恨み言を連ねた。
「まあ女の子ならビンタ程度で済むから別にいいとして、問題は、それを教えてくれたはずの誰かが、それから何度キスしてもまったく全然、本当にこれっぽっちも私の気持ちに気付いてくれなかったことなんだ」
 深い消沈の声で言い、当時の再現のようにまたついと頬をすり寄せてくる。
「少しはわかってくれてるはずだと思っていたのに、何年かして『お前いい加減にその甘え癖を直さないと成長しないぞ』なんて真剣な顔で言われた日にはもう、どれだけショックだったか……落ち込み過ぎてろくに食事が喉を通らなくなって、そのあと十日も寝込んだんだ。そうしたらキミが、寝込ませた張本人だってのにすごく心配そうに見舞いに来たな。初めは文句のひとつも言いたかったんだけども、ひと晩そばで看病してくれたり早く良くなれって優しく励ましてくれたりしたものだから、あーやっぱりブラックが好きだ、いつか絶対振り向かせてやる、なんて逆に惚れ直させられてしまってね……あの時は参ったよ」
「毎度くだらんことばっかり憶えてやがる……」
「くだらないなんてことはないさ。全部キミとの大切な思い出なんだから」
 さらりと言い切る横顔に、ひと昔前に笑ってやった幼さの影は微塵もうかがえない。ブラックホールの評価を待たず、饒舌はさらに続いた。
「まあ、キミが気付いてくれなかった理由も大人になって少しわかったけれどね。いまだに人に言われてぴんと来ないし、やっぱり私たちには馴染まないやり方なんだろう。こうしていても、沸き立つと言うよりはほっとするって感じだ」
 キミは? と問われ、まあなと曖昧に返す。日頃ふと思う話題でさえないのだから、何かを断ずる根拠もなかった。強いて回りくどく理由を探せば、我が至高の武器(かつ、その裏写しとしての弱点)を有する部位を、信頼に欠ける他者へおいそれと差し出そうなどとは思わない、というだけの話に尽きる。
 好感情の体現には違いないが、さらに上の心を証すものかと言えばまた別であって、その点で地球育ちの子どもと外界育ちの若造とのあいだに溝が生じた。成長の過程で数年嵌まった。くだらないかどうかはともかく、やはり大層に語る出来事ではない。
 まして、
「できないことを不憫がってくれる仲間もいるけど、全然惜しくも思わないな。触れることも、抱きしめることもできるんだから」
 けろりと語る、そんな明確な意思とともに差し伸べられた手を認めてしまった今となっては、見よう見まねの口付けごっこなど、文字通りの児戯に過ぎない。
 ようやく起き離れた頭の代わりに白い手が頬へ寄せられ、輪郭をたどってゆっくりと首筋を降りる。鎖骨窩の赤をなぞる指のこそばゆさに肌が粟立ち、それ以上進む前にひとつ苦言した。
「当たり前の顔で何をしようとしてんだ」
「あれ、駄目だった?」
「ほかに済ませることが山ほどあるだろ」
 壁の時計を顎でしゃくって示す。到底遅いとは言えない時刻を見て、ペンタゴンは意外げな声を発した。
「まだこんな時間だったのか。帰ってすぐ寝てもいいぐらいに思ってた」
 冗談とも聞こえず、してみると、疲れているという見立ても間違いではなかったらしい。ことさら口に出して確かめはしなかったが、古馴染みはブラックホールの不可視の目線の意味をすぐに察して答えた。
「ファンと遊ぶぐらい疲れもしないんだが、今日は委員長に捕まってね。どうも新しいユニットだか何かを考えているらしくて、誘いから逃げるのに骨が折れたんだ」
「また飽きもせずいつものお遊びか」
「大所帯をまとめるには何かと要り用なんだろうさ。私も公にパートナーを引っ張り出せるなら、そういう遊びの辞退が楽になるんだけれど」
 胸張って恋人を世界に自慢してやりたいなあ、誰かのお許しが貰えたらなあ、などとまたあからさまな調子でぼやき始める。常であれば黙殺するところだが、ふと頭に浮かんだ言葉があったため、あさっての方向を仰ぐすまし面へそのまま投げつけてやった。
「『二人だけの秘密』じゃあなかったのか?」
 愚痴が止まり、きょとんとしてこちらへ向き戻った顔が、すぐに苦笑に崩れる。
「なんだい。キミだってちゃんと憶えてるじゃないか」
「あれだけしつこく言われりゃな」
 努めて忘れまいと誓うほどの大層な話ではなくとも、容易に薄れぬ記憶はあるものだ。それが今なお隣にある無二の者と重ねた時間であるなら、ほかの大事をさしおいて、ひと昔どころかふた昔を過ぎてもこの身に居座り続けるのだろう。
 あれは隠したかったわけじゃなくてさ、と、不意打ちの衝撃より喜色の強くにじむ声で、往時の子どもの言葉が釈明される。
「ああ言えばキミを少しでも独り占めできるかなと思って。もちろんあの頃だって、私だけの人だって言えるものなら大っぴらに自慢したかったさ。けど、子どもだったからね。キミがそうと決めたらすぐに置いてかれてしまうって自覚はさすがにあったんだ」
「ほぉ。今は違うとでも言いたげだな」
「言うとも。現にこうしていられるし」
 茶々を入れれば一瞬の躊躇も見せず頷き、再び背に腕を回して抱きついてくる。
「もし置いていかれてしまったって、どこへだってすぐに飛んで迎えに行ってみせるさ」
 事もなげに言って広げた翼に囲われれば、もはや互いの姿以外は視界に入らない。かつては拙い羽ばたきで毛を散らすばかりのヒヨコだの、せわしく振れる仔犬の尾っぽだのを思わせるような、いかにも頼りなげな代物であったのに、いつの間にやらうっとうしいほど立派に伸び育ってしまったものだ。
「……別に今さらどこへ行くあてもないがな」
「それは良かった」
 言いつつさらに力強める腕を叱る代わりに、自分も翼の付け根まで手を伸ばす。もはやあれこれ教え諭す兄貴分として見られていないことは知れている。それこそどこへでも飛び行けるだろう羽の使い道など、持つ者が好きに決めればいい。
 しばし無言のまま乱れた羽毛を梳き撫でていると、やがて胸元に頬を懐かせていた男が、過ぎた日のような幼びた呼び声を発した。
「ね、ブラック」
「なんだ」
「そんな風に気持ちのいい撫で方されると、そろそろ浴室バス寝室ベッドかに移動したいなーなんて思い始めてしまうんだけど」
「お前は本当に場の空気をぶち壊す天才だな」
 今度は心置きなく譴責の念を込めて手元の羽を引き掴んでやる。痛い痛い、とペンタゴンは笑い混じりの抗議とともに起き上がり、こちらをまっすぐに見下ろして、表層に持たない口を開いた。
「そんな私のことも、『嫌いってわけじゃない』だろう?」
 飄々と言い放つ顔にあまりに確信めいた微笑が浮かんでいたので、
「……Cheek ナマイキ者め .」
 舌打ちに代えて小さく悪態づいてやったが、生まれ育った国の俗語ではないからかどうか、年下の従弟、兼恋人はかすかにもひるまず、静かに笑みを深めたのみだった。


Fin.

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