21時のモラトリアム



 あの日の最後に交わした言葉を、今はもう憶えていない。


 そういえば近頃は夕立なんて単語もあまり聞かなくなったな、と、手を顔の前にかざして足を速めながら、ぼんやりと思った。
 降り始めたのは書店を出て駅へと歩き出し、大通りをひとつ渡り切らないうちのことだった。空が暗いと気付く間も、遠い雷の音に顔を上げる間も与えず、ばらばらと音立ててアスファルトを打つ大粒の雨。まさに、最近は「ゲリラ豪雨」などという大仰な名前で呼ばれているたぐいの、激しい驟雨である。
 幸いここは都心の繁華街で、雨宿りの場所には事欠かない。濡れ鼠になる前に、信号の先にあった銀行ビルの屋根下に飛び込んだ。隣に立った高校生らしい二人連れが呆気にとられたように見上げてくるが、まあそんな反応は慣れたものだ。
 夏の暑い盛りの夕立がもたらす独特の空気、町全体が同じものに気を配り、そわそわと囁き合っているような一体感が、昔は嫌いではなかったように思う。しかし情緒など感じる暇もなく急転する近頃の空は、そんな郷愁とも無縁で、ただただうっとうしいばかりだ。自然が変わったからなのか、あるいは、もう子どもと呼べない歳を迎えた自分が変わったからなのか、それはわからない。
 特に急ぐ用事があるわけでもなく、まあ三十分もしないうちに降りも落ち着くだろう、とこの場で待つことに決めて、鞄の中から携帯を取り出す。どこか時間を潰せる店にでも入れれば良かったが、このあたりは百貨店の前を逃せば企業のビルと居酒屋ばかりだから仕方がない。書店に戻らなかったのがそもそものミスだったのだろう。
 雨宿り仲間たちの会話を横耳にしながら、十数分前に届いていた大学の友人からのメールを確認していると、隣にまたひとり人が駆けこんできた。雨粒が手に散りかかり、反射的に顔を起こす。視線が合い、あ、と声を漏らしたのはほぼ同時だった。それは互いに知った顔で、そのうえ、ちょっとした知人、という枠におさまる相手ではなかった。
「日向?」
「……木吉?」
 共に間の抜けた声で名を呼び合う。果たして、肩を雨に濡らして隣に立っていたのは、元チームメイト、誠凛高校バスケ部初代主将・日向順平だった。
「うわ、なんかでけぇのがいるなと思ったらお前かよ。びびるわ」
「オレも驚いた。すげー偶然だな」
 思わぬ遭遇に興奮の言葉を交わす。確か、昨年の冬から顔を合わせていないはずだ。そんな相手と、互いの家や大学の近くならともかく、そのどちらにも当てはまらない、普段から通っているというわけでもない、あまつさえこれほど人の多い場所で隣り合わせようとは。
 ふた言み言、驚きのような挨拶のような意味のない言葉を連ねてから、ともに前へ向き直る。雨にけぶる都会の大通りはたちまち閑散としてしまっていた。
「雨ひでえなぁ」
「あー、傘とか持ち歩いてねぇし勘弁してほしいわ」
 息をつく日向は、場所が悪かったのか、木吉よりだいぶ激しく降られたようだった。鞄の底に入れっぱなしにしていたハンドタオルを思い出し、ほらと差し出すと、サンキュ、とすぐに受け取る手が伸びてくる。半年以上話していなかったとは言え、自然な会話に困るほどのブランクではないし、こうした貸し借りに気後れを覚えるような間柄でももはやない。
「お前、大学このあたりじゃなかっただろ? 何してんだ?」
 濡れた髪と首すじをぬぐい、人心地ついた顔でタオルを返して寄こしながら、そう訊いてくる。平日の夕方、馴染みの薄い街、互いにしてしかるべき問いと言えた。自分同様、日向の大学もまだ夏季休暇に入るにはだいぶん早いはずだ。
「午後のコマが休講になって時間ができたから、本を見に来たんだ」
「本?」
「専門書で、でかい書店にしか置いてねーからさ」
「ああ」
 木吉の通う学科の名に思い至ったのだろう、なるほどと頷きが返る。こちらも同じ問いをかけようと口を開いたところで、手にしたままだった携帯が震えを立てた。見下ろしたディスプレイに「CALL」の文字が表示されている。
「すまん、電話」
「おう」
 断りを置き、二歩ほど端へ離れてから通話のボタンを押した。雨音にまぎれないよう、口の前に手をかざして話す。
「もしもし。……ああ、メール見た。いや、急の話だったし仕方ねーさ。こっちこそわざわざスマン。……はは。うん、まあ、なんとかするよ。ああ。じゃあまた、ありがとな」
 用件のみの短い会話を終えて戻ると、日向も自分の携帯を取り出していた。メールか何かの文章を作っていたらしい手を止め、なんか約束か、と見上げてくる。
「いや、ちょっと頼みごとしててな。今日はもう帰ろうと思ってた」
「ふぅん」
 短い相槌を打って、もう一度携帯の画面を見る。文字を打つのを再開するわけでもなく、またすぐに鞄へしまいこんだので、おそらく時間を確認したのだろう。確かじきに七時といったところだった。
「お前、飯とか食っ――」
 ぐううぅ。
「……ってねーな、その様子だと」
「おう」
 なんともタイミング良く鳴いた腹の虫に、笑いが重なる。じゃあ、と日向が横手を指して言った。
「用事ないならどっか入らねぇ? オレも食ってねーし、そのあいだに雨もやむだろ」
「ああ、そうするか」
 日向が言わなければきっと自分がしていただろう提案に、異論なく頷く。それじゃあと狭い屋根沿いに隣のビルへ移動し、看板から適当な居酒屋を選んで、小さなエレベーターに乗り込んだ。



「本日大変混み合っておりまして、二時間制となりますがよろしいですか?」
 入り口での確認に頷きを返し、通された二人がけのテーブル席に座る。移動式の衝立で隣と仕切られており、おそらく後から二次会の団体客か何かが入るのだろう。金曜の夜ということを考えればカウンター席でないだけ運がいい。そもそも長居するつもりでもなかったが。
「とりあえずビールでいいか?」
「ああ。ほかも適当に頼んでくれていいぞ」
 メニューを開いて店員を呼び止め、ひと通りの注文をする。居酒屋らしくものの一分で出されたビールのジョッキを手に取り、思わぬ遭遇に乾杯を鳴らした。
「考えてみたら、日向と二人で呑むのは初めてだな」
「あー。つうかそもそも、高校の時のメンツと居酒屋ってのはなかったしな」
 大学生ともなればそれぞれ当たり前に使う店だが、去年までは全員が未成年だったこともあり、さすがに年齢確認をパスしてまで集まろうとはしなかった。最後に同学年のメンバー全員で会ったのは去年の冬、後輩たちのウィンターカップ最終試合を見届けた日だったが、忘年会を兼ねた夕食は小金井推薦の中華料理屋、二次会はマジバで終えている。
「ほかのみんなとは会ってるのか?」
「伊月はなんだかんだ、ふた月にいっぺんぐらいは会うな。カントクとはバイト始めてからあんますれ違わなくなった。あとは会ってねぇな……お前は?」
「オレも似たようなもんだなぁ。あ、でもこのあいだ大学の近くの駅で土田を見かけたぞ。彼女と一緒だったから声はかけなかったが」
「あー、もう爆発しろとも思わねぇな、あそこは」
 おとなしく結婚式の招待状待ってようぜ、と笑う。
 今年の三月に卒業したひとつ下の代を含め、高校を出てからも選手として生活する道を選んだのは、アメリカへ留学した火神だけだった。同じ大学に進んだのが水戸部と小金井、あとのメンバーはそれぞれ別に進学している。木吉は療法士を志して四年制大学の専門学科に籍を置き、スポーツ推薦の話もあった日向は、悩みに悩み抜いたすえそれを蹴り、猛勉強を経て、著名な研究者が教鞭をとる大学の史学科に進んだ。それでも皆、サークルや地域のクラブなど、なんらかの形でバスケとは関わりを持ち続けているようだ。
 何十、何百という時間をともに過ごし、同じ夢を追いかけた仲間たちも、今はそれぞれ別の未来に目を向け、別の道を歩いている。色褪せぬ記憶の輝きはそのままに、この先も少しずつ遠ざかっていくのだろう。一抹の寂しさを感じながら、けれどもそれが自然のことなのだと納得する程度には、自分たちも時を重ねている。
 また機会を見て集まろう、と頷き合い、いつの間にかテーブルにそろった料理をつつきながら、今度は互いの近況に話題が移る。大学のほうはどうだとの問いに、進級してから実習科目の比重が増し、大変だが学び甲斐がある、と答えて、同じ質問を返した。
「オレも今年から教職の科目が増えたから、割に忙しいわ。大学入って土曜の休みがなくなるとは思わなかったよな……」
 まあどうせ部のほうに顔出すからいいんだけどよ、と言う。
「結局とることにしたんだな。教師を目指すのか?」
「んー……」
 去年の時点では、確かまだ教職課程をとるかどうか迷っている、という話をしていた。日向は木吉の問いに後ろ首を抱え、
「正直、最初は史学科なんて就職に有利なことほとんどねぇし、せめて教職でもとっとかねーと、ってノリではあったんだけどよ。いざ講義始まって、真剣にその道目指してるやつとか、例の教授の――昔、中学で教えてたことがあるらしいんだけどさ、その人の話とか聞いてたら、オレも真面目にやってみようか、とか……最近は思い始めてる」
 そう、改めて言葉を確かめるように、ゆっくりと語った。
「そうか。日向ならきっといい教師になるぞ!」
「また根拠なく言い切りやがってお前……」
 その無駄にいい笑いやめろ、と眉をしかめる。
「日向が誠凛の教師になって、バスケ部もってくれたらオレたちも嬉しいしな」
「しかも誠凛かよ。それこそ針の穴通すみてぇな話だぞ。今の教採の倍率いくらだと思ってんだ」
 息をつき、まあでも、と口の端を持ち上げ、
「そんな夢見んのも、……悪くねーかもな」
 レンズの向こうの目をやわらかく細めて、ほろり、言う。
 相槌を打つでもなく、木吉はその穏やかな顔をじっと見つめていた。

 大学に入ってから、正確には、高校時代の終わりごろから、日向は急に言動が丸くなった。長い付き合いの伊月や相田に言わせれば、丸くなったのではなく単に元に戻っただけだということだ。常に眉間に力を入れ、激しい言葉で部員たちを叱咤し、試合ともなれば敵味方なく毒を吐きまくる、頼もしくも厳しい主将、として慕われ畏れられていた日向だが、根は温和で優しく、口は悪いが裏では小心なところも見え隠れする、ごくごく普通の学生だった。
 おそらく「険」の部分を最も強くぶつけられていた木吉も、そのことは知っていたつもりだった。しかし、最後の引退試合を終えたあの日。大きな花束と口々の感謝の言葉を受け取って、張りつめさせ続けていた糸が弾けたように、後輩たちを両腕に抱きしめたまま、声もなくはらはらと涙を落とし続ける姿を見た瞬間。改めて、と言おうか、ようやく、と言おうか、その必死の繕いの厚さに気付かされた。初めにその名を負わせた人間として、申し訳ないとも思ったし、同時に、心の底から、彼で良かったとも思った。
 全国に名のとどろくようなスタープレイヤーではない。強力なカリスマでまわりを導くようなタイプの人間でもない。だが、だからこその努力と、一途に前を見据えるひたむきさに、仲間たちは信頼を寄せ、ともに歩もうと、決して大きくはないその背を追った。
 日向なら必ず、生徒たちに慕われる良い教師になるはずだ。根拠は目の前にある。自分も、自分こそ、彼の背に行く道を示された一人だった。

「――そういや、さっき土田の話が出たけどよ」
 声に、沈み込みかけていた意識がふっと浮上する。慌ててああと相槌を打つと、幸い聞き逃しをしたわけではなかったようで、怪訝な顔を見せるでもなく言葉が続いた。
「お前はカノジョとかできてねーの? 大学で」
「あー……、今はいないな」
 短く答えた言葉に、日向は片眉を上げ、にやにやと茶化すような笑いを浮かべて言う。
「てことは前はいたんだな。今はたまたま切れてるけどって? 相変わらず鉄心さんはおモテになることで」
「だから鉄心はやめろって……」
 この揶揄だけはいい加減改めてほしい、と眉を寄せながら、お前はどうなんだと返すと、
「いたら金曜の夜にこんなとこでフラフラしてるわけねぇだろ」
 言って、あーあ、と息落とし、大げさな動作でテーブルに突っ伏すようにする。下を向いた口から低い声が漏れてきた。
「ハタチにもなって恋人のひとりもできてねぇとか、マジ……」
「何言ってんだ日向。恋人がひとりじゃなかったら浮気だろ?」
「そういう意味じゃーねーよダァホ」
 くっそこんなボケ男がモテやがんのにオレは、などとぐずぐず続く言葉を横耳に、久しく聞いていなかった口癖をなんとなく頭の中でくり返しながら、そういえば、と思い出す。電話に取り紛れてしまって、日向がこのあたりを歩いていたわけを訊いていなかった。
 フラフラしていた、ということは、特段の用事があったわけでもないのだろうか。だが同じ繁華街なら、家か大学の近くにもっと日向の好みそうな、たとえば大きなスポーツ用品店だとか、変わり種のフィギュアだのジオラマだのを置いている店だとか、そんなものの並ぶ駅もあったはずだ。わざわざ電車を乗り継いでまで来ているからには、何か理由があるようにも思う。
 つらつらと考えるうちに、日向が顔を起こし、またこちらが問うよりも先に口を開いた。
「まあ、恋人うんぬんはともかく。ハタチっつったら、もう成人だけどよ」
「ああ」
 いずれにせよ雑談の範疇であって、さえぎってまで訊ねようとは思わなかったので、相槌を返して話に乗ることにする。
「実際、こうやって合法的に酒が呑めるってぐらいで、オトナになったって感じもねえよな」
「そうだなー。結局はまだ学生だし、気分的にもな」
「だよな。なんつーの、あれ……確か高校でやったよな、モラルなんとか? だったか?」
「モラトリアムか?」
 倫理か何かの授業で習った用語に、そうそれ、と日向が頷く。あーオレこのへんもちゃんと憶えないといけねぇんだよな、などと早くも社会科教諭の将来を見据えたようなことを呟き、話を続けた。
「体裁上は大人でも、まだやることもあって未熟だから猶予されてるってことなんだよな。まあ正直自立とかできてねーし。お前みたいに独り暮らしがそこそこ長くなりゃ、少しは違うのかもしれねぇけど」
「いや、オレもそう変わらねーさ。最近は飯も作ったり作らなかったりだし。コンロと流しがどうにも狭すぎてなぁ」
「そういや結局、あの風呂でちゃんと身体洗えてんの?」
「天井に穴開かねえかって心配になったから、もう開き直ってしゃがんでシャワー浴びてる」
「マジか。だっせ」
 木吉の進んだ大学は、それまで暮らしていた家からは通いづらい立地にあった。進路の選択の折から、もう充分に孝行してもらったから、と半ば諭すように勧めてくれた祖父母に甘え、入学前から最寄りの駅の学生マンションで独り暮らしを始めている。春休暇中の入居だったこともあり、引っ越しの日はバスケ部のメンバーがこぞって手伝いにきてくれたのだが、何しろ色々なものが小作りな独居物件である。自分と火神とで鴨居やら天井やらに合計何回頭をぶつけたか数えられなくなったほどで、その度のまわりの爆笑の顔は今も忘れられない。
 思い出し笑いを噛みつつ、実はオレも今年は実家出るつもりでさ、と日向が言う。
「大学の近くに家探してんだよ、今」
「そうなのか。良さそうなところが見つかるといいな」
「とりあえずしゃがまなくてもいい風呂な」

 笑い合い、しばし家の話に興じていると、椅子の背にかけた鞄から携帯の振動音が聞こえてきた。
「メールか?」
「ああ」
「オレ、便所行ってくるわ」
 気を遣った、というわけでもないのだろうが、そう言って席を立った日向に了解を返し、鞄から取り出した携帯を確認する。メールは先ほどの大学の友人からのもので、あれからどうしたかという確認だった。気配り屋と言うか、日頃からマメな人間で、頼みごとの件をまだ気にしてくれていたらしい。
 こっちは大丈夫、今はばったり会った高校の時の友達と呑んでる、といった内容の短い返事を送り、そのまま、メッセージの並ぶ画面にじっと目を落とす。
(友達、か)
 自分で選んだ言葉だが、どこかしっくりとしなかった。その枠に含まれるのは確かだ。しかし、ならば今メールを交わした相手と同じほどの位置にいるのか、と言われると、それも確実に否であるという気がした。
 高校の頃は、(主として日向が)好むと好まざるとにかかわらず、コンビのように扱われることがしばしばあった。二枚看板という大層な二つ名を与えられてもいた。だがそれは互いの部内での立場、そしてプレイヤーとしての性質から導き出された、ある種の事実に過ぎない。同窓生、チームメイトといった言葉も同様だ。
 まさに以心伝心を体現していた水戸部と小金井を指すような、「親友」としての立ち位置なら、日向には誰より気安い友である伊月がいた。ひとつ下の二人の後輩が掲げていた、「相棒」という言葉なら、ともにチーム作りに尽力した女監督の相田が最もそれにふさわしい。
(オレと、日向)
 落とした視線の先で、日向の置き残した携帯が振動を始めた。機械と木板の立てる乾いた音をぼんやりと聞きながら、考える。
 友人で、大切な仲間。その関係は揺るぎない。けれども、二つきりの言葉で全てを語るには、まるで足りていない。
 自分だけが強いて掴み、暴かせた心があった。彼だけが見抜き許さず、吐露した想いがあった。
 自分たちはきっと、あまりにも早く近付きすぎた。出会ってほんの数か月のうちに、まだ名のある関係にもならないうちに、互いの胸の中心にひと息に踏み入り、一番奥底に眠らせていた心に直に触れてしまった。ぐずぐずと柔らかい、ぬかるみの泥のような、熟れすぎた果実のような、お世辞にも触り心地のよいとは言えないそれが、しかしひどく愛おしく、大切に大切に手に取り上げ、自分の胸に引き寄せて、傷付かぬよう抱きしめた。
 どれほど大きな名を、役目を負っていても、自分たちはやはりまだ分別のない子どもだった。許された猶予に背を預けて、交わし合った声なき言葉に、分かち合った形なき想いに名前をつけてやらないまま、ただ必死に前へ前へと歩んでいた。立ち止まることも、振り返ることもできなかった。そうして、最後の日の、最後の時まで、彼と自分は良き友人であり、良きチームメイトであり続けた。
 あの日、蕾をめいっぱいに膨らませた、今にも咲きこぼれそうな桜並木の下、彼と最後に交わした言葉を、今はもう憶えていない。
(けど)
 無意識に、拳をかたく握りしめる。
 この猶予はいつまで続くのだろう。近ごろ揶揄される若者のそれのように、ずるずると引き延ばされていくのだろうか。それとも、ほかの数多の出来事と同じように、いつかは大人の分別を得て、そんなこともあったのだと色味のない笑いに紛れさせながら、記憶の隅に埋もれていくのだろうか。
 いつの間にかグラスの向こうの振動はおさまり、おそらく自分の知らない相手からだろう、着信を知らせる白色のランプが、無機質に点滅していた。



「さすがに金曜のこの時間はやべーな。めちゃくちゃ混んでたわ」
 疲れたように言いつつ席へ戻ってきた日向に、電話が来ていたことを教える。頷いて一度画面を確認した日向だが、携帯はそのまますぐテーブルの上に戻された。
「誰からだ? 出なくて平気だったのか」
「ああ、大学の知り合い」
 初めの問いにだけ答え、ほかに説明もなく箸を取り上げる。重ねて気にかけるより先に、木吉は返った言葉を胸にくり返した。
(『知り合い』か)
 それもまた、随分と意味の広い言葉だ。まわりのほとんどの人間がその中におさまってしまう。
 もしもその「知り合い」に訊かれたら、お前はどんな言葉でオレのことを語るのだろう?
 埒もなく考えるまま、名を呼ぶ。
「日向」
「ん?」
 視線がこちらに向き、促すように首が傾ぐ。本当に、穏やかな間柄になったものだ。面と向かって嫌いだ苦手だとくり返されていたあの時間こそ、自分たちの奇妙な結びつきの表れだったと思えば、懐かしくも、どこか寂しい。実際にそんなことを口にしたら、きっと笑われるのだろうけれど。
「なあ、高校の卒業式の日、最後に話したことって憶えてるか?」
「は? 卒業式?」
 返した頷きに、怪訝の眉が寄る。
「……わかんね。そもそも最後ってどの時点だよ」
「最後は最後だろ」
「知らねぇよ。お前は憶えてんの?」
「ん? うん、憶えてねーなぁ」
「はい?」
 怪訝を通り越して理解不能、と言いたげな目に見つめられる。眼鏡のレンズの中に映り込んだ自分の顔は、甚だしく苛つく、と評されるところの真顔だった。
「最後に話したことは憶えてないな。……けど」
 ひとつ確かに、胸にとどめていることがある。曖昧な猶予の時間の中で、ずっと抱き続けているものがある。それはきっと、この手の中だけでなく――
 途切れた言葉の上、交錯する視線の色が変わる。ゆっくりと口が開かれるのが見え、それは確かに木吉の名を呼ぼうとしていたが、くぐもった振動音にさえぎられ、初めの音の形のまま止まった。霧が晴れるように追憶の絵がかき消え、後に残ったのは、今ここを教える酒場の喧騒と、規則的な機械音だけだった。

 日向はわめく携帯を手に取り上げもしなかった。じっと目だけを注いでいるところへ、声をかける。
「電話、出てきていいぞ?」
 今も先ほども、かなり長く鳴り続けている。間を置かない呼び出しが急用でないとは思えなかった。しかし日向は勧めに頷くことも首を振ることもなく、代わりに深いため息をひとつ、テーブルの上に吐き落とした。
「マジ、進歩ねーわ。オレら」
 がくりと力が抜けたように肩を下げ、いかにも実感こもった、といった調子で言う。自分も巻き込まれているひと言にぱちりと瞬きを返すと、日向は一度途切れてまた鳴り始めた携帯を手元へ引き寄せ、しかし通話は変わらず放ったまま、落ち着かなげな身じろぎののちに口を開いた。
「……このままだとぜってー回りくどい話にしやがるから、言う。この電話に出たらな、オレは説教を喰らうんだよ」
 なんで来ねーんだよ馬鹿、ってな。あっさりと落ちた言葉に、木吉は目を開いた。
「え、じゃあ、用事があったのか? 何時から?」
「八時」
「完全に過ぎてるじゃないか」
 時計を見ればもう告げた時間を三十分以上も越していた。どうりで何度もかかってくるはずである。一体何の用だったのかと問えば、
「合コン」
「え?」
「だから、合コン」
 またあっさりと、答えが返った。
 あまりの自然さにぽかんとしてしまっていると、いいんだよ別に、と言葉が続く。
「どうせそう仲いいわけでもないメンツの頭数合わせだし、五人ずつだから、一人抜けたってたいして変わらねぇよ」
「いやでも、行くつもりでいたんだろ? 今からなら……大体、なんでまた」
 もともとは雨宿りのための時間潰しだ。用があったなら教えておいてくれれば、もちろん無理に引き止めなどしなかった。たとえ語るとおりの集まりだったのだとしても、真面目な彼が人との約束をすっぽかすなんて。
 そう思って言いかけた言葉に、だから、とほとんど開き直ったような投げやりの声が返る。
「行くつもりで出てきて、途中で優先順位が変わっちまったんだから、仕方ねーだろうが」
 いやそれって仕方ないのか、と真っ当な返答をすることなどできなかった。あまりにも――目がくらみかけるほどに、あまりにも明瞭に過ぎた。

「すまん、ちょっと待ってくれ」
 展開に追いつかない頭を抱え、喉の奥から絞り出すように言う。速まる血の流れにこめかみが脈打ち、ずきずきと痛みさえした。
「それはその、……色々な意味に、取れるんだが」
「好きに取ったらいいんじゃねぇの」
 投げ出すように言いながら、視線はこちらを見ずに、テーブルの上をさまよっている。
 ちらりと時計の針の位置を確かめる。八時四十五分。今ならはっきりと猶予がわかる。残り、十五分。思えば午後九時という時間は、昔から感覚として事実として、子どもと大人を分けるひとつの境界であってきたようだ。
 続く答えはあえて呑み、取り出した自分の携帯をネットに繋ぐ。そのまま口を幾度か開け閉めし、告げた。
「日向。オレも、ひとつ黙ってたことがあるんだ」
「……おう」
 頷き、視線が上がったのを確かめてから、続ける。
「オレも今日、もともとは予定が入ってて、それが急になくなったんだ。予約してた店を代わりに使ってくれないかと思って、ここに来る前の電話の相手に頼んでたんだが、都合がつかなかったみたいで」
 だからまだ、キャンセルの連絡をしていない。
「とりあえずさっきの、二軒目に行けるって意味で、取っていいか?」
 言って、ここ、と店のページを表示させた携帯を差し出す。日向は受け取った画面を覗き込み、ややあってから、ぷはっと笑いを噴いた。
「お前、予約してたって……これカップルシートじゃねえの?」
「……実は、そうなんだ」
「……え?」
 暖色の灯りがともる並び席の個室の写真を見て、お得意のボケ、とでも思ったのだろう。頷き返した言葉に日向が表情を固まらせる。伝染した開き直りの勢いに押され、ぽつぽつと語った。
「せがまれて取ってたんだが、三日前に振られたんだ。いい店だし勿体ないから、友達とその彼女に行ってもらうつもりだった」
「三日前って、……マジか」
「ああ。『優しすぎて、もの足りない』ってさ」
 苦笑とともに言うと、日向はまさになんとも論じがたい、といった風情で眉を寄せ、
「……まあ、そもそもお前みてぇな年寄くせーやつに、刺激的なレンアイとか期待するほうが間違ってたな」
 そんなことを漏らした。ひでぇなと笑いを返し、改めて正面に顔を見つめ、言葉を続ける。
「店なんてどこでもいいんだが、もう少し、話がしたい。二時間ぽっちじゃ、まだ言ってないことが色々ありそうだろ? お互いにさ」
 進歩ねーからさ、オレ達、と先の日向の言葉を引き取って言えば、ふっと眉がなごみ、そうかもな、と穏やかな声が落ちる。


 あの日の最後に交わした言葉を、今はもう憶えていない。
 それでもただひとつ忘れ得ず、この手の中に、そしてきっと彼の手の中にも。身を小さく縮こまらせて、しかし強く握れば火傷してしまいそうな熱をはらんだまま、今も消えずに残っている。あの日の最後に“交わしていたかもしれない”シンプルな言葉。
 それを口にするには、あの日の自分たちは、身も心も近くにあり過ぎた。結んだ絆はただひたすらにうつくしく、意味のある形を与え、名を付けることが、できなかった。それは触れてはならない禁忌の実でさえあるようだった。
 けれども一度眠り、夢から覚めれば、なんのことはない、ただ弱く、ただ幼かっただけだ。その場にとどまることを許された、子どもだったというだけだ。そうして今までずっと、まさに今日この日までずっと、幼く未熟な自分に甘えてきたのだ。何も告げず、何も語らず、思考さえも投げ出したまま。
 二十一時、十分前。団体客を迎える準備に、店員が忙しく働き始める。
 子どもの時間が、もうじき終わる。


 っし、と部活中の気合を思わせる声を発し、日向は退席の身支度を始めた。
「行くか、二軒目」
「ああ」
 追って伝票を手に立ち上がり、レジで会計を済ませて店を出る。人の行き交うビル街には、まだほんの少し雨の気配が残っていた。
「店どこだ?」
「地下鉄で一駅なんだ。歩いたほうが早いぐらいだな」
「そうしようぜ。んな食ってもねーけど、腹ごなしに」
 地図を確かめて歩き出す。隣に並ぶ黒髪を懐かしい角度で見下ろし、静かな心地で口を開いた。
「日向。これは単なる確認だから、怒らないで聞いてほしいんだが」
「なんだ」
「……いいのか?」
 前も後も省き、ひとこと訊ねかける。一度、二度、こちらを見上げた目が眼鏡の向こうでゆっくりと瞬き、
「いろんな意味に取れるけど?」
 悪戯めいた笑みを口の端に差して、言った。
「好きなように取ってくれ」
 そう、こちらも笑って返す。
「……とりあえず、店員の引きっぷりは覚悟してるな。下手したら三分もしねぇうちに呟かれるぜ。『居酒屋でバイトしてたらカップルシートに大男ふたり入ってったなうw』とかいって」
「ありえるなぁ」
 現実的な答えにうんうんと頷くと、あとは別に、と軽い声音が続く。ひとつ呼吸の間を置き、ぽつりと声。
「オレは小心者だから、刺激的なレンアイとか、したくねぇし」
 落ちた言葉に視線をやれば、もう目は合わず、唇を曲げ結んだ横顔だけが見えた。頬が少し色差して見えるのは、とりどりの看板の灯りのためだけではないだろう。
 参ったな、と隣へ聞こえない大きさで苦笑の息をついた。胸を満たす焦燥は、どうしようもなく愉快な苛立ちだ。
 通りの先にあるビルの飾り時計が、あと十数秒で鐘を鳴らす。モラトリアムの幻想はほどけ、無垢の輝きに満ちた子どもの日々は、一歩一歩、背の向こうへ遠ざかっていく。
 戻れない時間に幾ばくかの寂寥を感じながら、それでもきっと自分は今夜、への字に尖らせたその唇にキスをしてしまうのだろう、と思った。


-fin-
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