ねことオオカミの秋の夜



 紆余曲折、というほどの騒ぎにまでは育たず、ある種すんなりと収まったやり取りのとおり、〝二人きり〟の佳き日を享受しようと決めてくれたらしい日向は、例によって例のごとく酔いに耐え切れず、夕餉終わりの手を合わせるが早いか(そこまで理性を保っただけでもなかなかの強固さではあると思うのだが)、猫の耳尾を顕わに木吉へ身を寄せてきた。
「きよしぃ……」
「ん、おいで」
 無論、こちらには拒む選択などあり得ず、もはや迷いも戸惑いもなく、手を広げてその身を懐へ迎える。喜色を浮かべて胸元に入ってきた黒猫は、所作はいとけなく見えながらも全身に色香を満ちさせ、雄の慾を駆り立てる。
「風呂は?」
 横を向かせて両腕に抱き上げ、顔へ唇を降らせながら問うと、ふにゃ、とくすぐったげに首をすくめ、
「あとで、いい」
 早く褥へと言わんばかりに、木吉の着物を指で引き、尾をくるりと腕へ懐かせてくるので、わかったと笑って請け合った。
「じゃあ、またあとでゆっくり入ろうな」
「ん」
 何しろ部屋を出ればものの数歩で湯を求められるのだ。小使いの手を借りるまでもなく、身を清めるも、さらに熱く絡めるも思いのままであり、それだけ時間やその他のあれこれを気にする必要もない。やはり来て良かった、と心身ともに無防備の様でいる懐中の猫の姿に感動を深めながら、急く心を自ら焦らすようになだめつつ、閨へ足を踏み入れた。


「ぁん、んんっ、ふあ……」
 胸にすがって離れない日向を腕に抱き込んだまま布団に坐し、間に潜らせたもう一方の手で裸身をまさぐる。勝手知ったるなめらかな肌の、覚えの点をひとつひとつなぞり下ろしていくと、しなやかに引き締められた身体が敏感に揺れ、甘い啼き声を肩口にこぼす。
「日向」
 名を呼べば、とろりと潤んだ瞳が視線を上げ、薄く開いた口から紅い舌を覗かせるので、誘われるまま口付けを落とした。啄ばみ、吸い、絡める。不変の思慕を分け合う喜びと心地良さに酔うと共に、揺れる息の間に鳴る水音が身の内へ響き、深奥から淫らな熱を高めていくのを感ずる。
 腹に遊ばせていた指を横へ滑らせて片腰を掴み、最中の動作を思わせる動作で上下へ揺らさせると、びくりと背が跳ね、毛を逆立たせた尾が腕を巻いた。許しを請うようでも、またねだり急かすようでもあるその仕草に喉が鳴るのを感じながら、指をもう一度ゆっくりと腹側へ戻す。細いあえぎと共に揺れた性器は刺激を期待して勃ち上がり、気早な蜜をこぼしていた。
「ん、むぅ、……っぁ、ぁあっ」
 口付けに応えていた舌が外れ、熱い吐息の中に艶声を奏でる。ゆるく握り込んだ陰茎に自分の欲をぐいと押し当て、頭頂に寝た耳に囁いた。
「俺も悦くなりたいな、日向……」
 いいか? と問うと、寸暇もなく頷きが返り、早く、と腰揺らめかせて誘ってくる。声で返す代わりに耳を食んで応え、媚態に煽られ既に硬く張り詰めた自身を共に指の輪に握り、まとめて扱き上げると、高くあえぎが上がった。
「あ、ァ、やあぁっ……ひ、ぅ」
「っは……」
 後ろへ引きかかる腰を抱き止め、脈打つ性器を手と己の雄とで前後から嬲る。手の中で互いの先走りが混ざり、ねとつく肉の擦り合わされる音が淫猥に閨に響く。
「ひぁ、あんっ、あぁぁっ……!」
 がくがくと揺れる下肢を押さえ、獰猛に追い立てれば、ほどなくして日向は全身に緊張を伝わせ、あえかな嬌声と共に白濁を噴き上げた。受け止めた精を指に伸ばしながら後ろへ滑らせると、かすめた後孔が誘いかけるようにひくりと蠢く。
「……っあ、ぁ」
「日向、手を」
 まだ絶頂の余韻の中にある身体を一度抱えるようにして前後向き直らせ、背から抱きしめつつ、やわらかく前へ押して促す。え、とされるがまま両腕を敷布に下ろして四つ這いの姿勢になった日向は、いざ上から覆いかぶさろうと木吉が肩の外から手をつくと、不意に戸惑いの反応を示した。
「やっ……」
「日向?」
 上へ身体を這いずらし、まさしく「逃げ腰」を見せるのに、怪訝を感じて呼びかける。今の今まで我から急かす態度さえ見せていたのにどうしたのだろうか、と見下ろすと、尾が木吉の身体を離れ、先を巻いて我が身の下へ入り込んでいた。
「日向、……怖いのか?」
 見れば、肩も性感ではない何かに対し震えを立てている。よもやと問うと、日向は頷きこそしなかったものの否定も紡がず、耳をしゅんと気弱げに横へ伏せ、言葉のない答えを返した。
 どうやら、マタタビによって引き出された獣の本能が、こうして背を取られ押さえ込まれる体勢になることを無意識に恐れるようだ。番いとは言え神体だけを見れば巨躯の狼と尋常の猫である。牙持つ巨獣に命の危機を感じる姿勢を取られるのだから、普段は人の理性で自然にやり過ごしていても、本来奥底にわだかまる恐怖は相当のものなのだろう。身も心も特別に房事に備える春の盛りとはやはり少し異なるらしい。なだめるように頭を撫でるが、丸めた尾が揺れるばかりである。
(けど、初めはこのほうがいいと思うんだよな)
 この稀な機会、残る二日の秋の夜長をあらゆる意味でゆっくり過ごそうと画策している身としては、最も負担の軽い方法から始めるのが望ましい――と、常ならひとくさり罵詈を頂戴しそうなそんな思惑も、今夜の恋人どのは看過してくれるのか、肌を粟立たせながらやめろと言い出しはしなかった。日頃から小さな不満の種であるらしい、種や体格の差をことさら思い知るだけ矜持も傷付くだろうに、褥の上の情を重んじてくれるのは申し訳なくも嬉しい。と、同時に、
(怖がってる日向、可愛いな……)
 などと、口にしたならこれはさすがに怒りを買うだろうことも考えてしまう。
 どうも自分には、と言うより、土地や群れの統治と支配の座にある獣一般には、と思いたいのだが、少々嗜虐の志向があるらしい。脱兎の衝動を懸命に堪えながら、抗いがたい本能に身を震わせている猫の姿は、いじらしく愛らしく、そしてまたなんとも言えず慾をそそられる。
 しかしもちろん嬉々として無理強いをしたいわけではなく、さて如何にしたものかと考え巡らせていると、胸の下から、木吉、と細い声に呼びかけられた。
「……んで」
「え?」
 小さくかすれた言葉を聞き取れずに問い返すと、一瞬の逡巡の気配のあと、
「逃げねぇ、ように……、くび、……噛んで」
 訥々と、言う。え、とまた声を落としたつもりだったが、今度はこちらの舌が働かず、息だけが漏れた。
「噛んで、って」
 ここを? と確認の手を眼下の肌に落とす。短い襟足のかかる、白い首。つっと指先で撫ぜると、ひゃん、と甘く猫の啼き声が揺れる。
「い、いいのか?」
 問う声が上ずった。もはや余すところなく開かせ暴いた身体だが、それでもやはり特別の場所だ。おいそれと他者に許さぬ一番の急所、猫の恭順と官能を引き出す要の部位。触れれば必ず艶めいて愛らしい反応があるものだから、普段はむしろ木吉の側から戯れの愛撫を仕掛けて形ばかり叱責を頂戴するのがお決まりであり、結果がどうあれ日向から積極的にさらされたことはない。まして、自ら噛んでくれなどと――
「日向、それ、『シたいけど身体が怖がって逃げちゃうから無理やり大人しくさせて犯してにゃん』っていう……」
「い、言うなよ、だぁほぉ……」
 さすがの酔いでも聞き逃せなかったのか、ひとつ悪態が返るが、反論ではない。自分の動揺をごまかす思惑もありあえて明け透けな言葉にしたものの、要旨としては間違っていないはずだった。そこを他人に預け接触を許す意味と結果は、当の日向が誰より知っているわけであり、羞恥いっぱいの様子で紡がれた言葉を噛み分けるほどに、言い表しがたい歓喜と劣情がとめどなく胸に湧き上がる。
「日向っ……!」
「ふぁっ」
 衝動任せに抱きすくめ、反射に逃げかかる身をなだめる余裕もなく、首元に顔をうずめる。烈火のごとき欲動に頭の奥が焦がされるのを感じながら、盆の窪の中心に唇を落とし、舌を這わせた。熱く息吐いて床へ崩れる身体を追い、うなじに甘く歯を立てると、それだけで軽く極めてしまったのか、びくりと背が大きく反り上がり、尾の先まで弱い痙攣が走った。
「や……、ぁっ、やぁあ……っ」
「やっぱりここ、すごいな」
 一度落ち着くのを待ち、改めて首裏に愛咬を施す。薄い皮膚を舐り、牙の先でくすぐる度に、日向は怯えに代えて愉楽の震えを示し、敷布に押し付けた口から熱く吐息を漏らした。
「っあ、き、よし、ぃ……」
「もっと?」
「違、ぁ、んん」
「違うのか? こんなにやらしい格好して……」
「やぁ、ぁっ」
 首への甘噛みをくり返しながら、交接をねだるかのごとく高く上げた腰を諸手に掴み、するりと胸まで撫ぜ上げる。触れた乳頭を指先に捏ねてやると、日向はひときわ甘く啼き、尾を淫靡に揺らめかせた。
 戯言に収まらず、今の日向の行動は、多少無理にも情を遂げんとする雄へ従順の意を示し、果ては自ら求めるも同義なのだから、恋しい者を我が腕のみに囲うことを望む狼の心は、喜悦に昂ぶるばかりだ。執拗に口を舌を寄せ、己の存在を刻み込むように紅く跡を散らす。
「日向……」
「ひ、ぁっ」
 後座に欲の先端を宛てがい、精のぬめりを辿って抽送まがいに股の間へ滑らせれば、反り立った肉が会陰をかすめて性器の裏を撫で、悲鳴に近いあえぎを引き出す。無意識だろう動作で腰を後ろへすり付けるようにしてくるのを目を細めて見下ろし、すぐにも組み伏せ繋がろうという衝動を堪えて、重ねた身の隙間へ手を少々無理やり潜らせる。孔の上を撫ぜる指がまた蠢動に請われるに任せ、中へ差し入れると、酔いに弛緩した身体はすぐに蕩けて異物を奥へ受け入れた。二本、三本と増やして押し拡げながら中を探るうちに、苦しげに詰めていた息がまた色めいて揺れ始める。
「んぅ、んっ、う……」
「……すまん、日向」
 密着させた身体から快感が伝播し、煮え滾つ獣の血が獲物を求めて吼え立てる。怯えさせた詫びにせめてゆっくりと馴らしてやろうという殊勝な心がけはすぐに尽きてしまい、一度上体を起こして身を後ろへ離し、先んじて謝してから、抜いた指で開いたそこへ、ひと息に肉棒を突き入れた。
「ひあ、ぁっ……!」
「っ、く」
「んぅ……ぁ」
 ぐぷりと精の膜を破る音を立てつつ先端を呑ませれば、後はさまでの抵抗なく沈み込んでいく。最奥へ至って肌を触れ合わせ、ひと呼吸置き、雁首が抜けかかるまで腰を引いてはまたゆっくりと埋める。緩慢な動きで愉悦の点をかすめる度、背がなまめかしく反り、雄を銜え込む内壁が熱く吸い付くように蠕動して激しい性感をもたらした。
「っは……」
「やっ、ァ、あぁ」
「ん……俺の形、覚えちまってるな、ここ……っ」
「っ……」
 次第に腰を早めながら落とした呟きに、日向は猫の耳をぴくりと揺らして首をねじり、含羞宿る瞳でこちらを見上げた。
「駄目って意味じゃないぞ」
 無用な誤解を生む前に笑みかけ、むしろと言葉を加える。
「俺のじゃねーと駄目」
 ここも、と言って上体を倒し、首根を齧る。
「ぁんっ、んにゃ、ぁ」
「日向、可愛い。……俺の日向」
「やぁっ……!」
 敷布を握る指に上から手を重ねて縫い付け、背に覆いかぶさったまま、ずちゅずちゅと音の立つほどに深く強く腰を打ちつける。間断なくあえぎを漏らす口から、やがて切羽詰まった呼びかけが上がった。
「ひぁ……っ、あっ、木吉、きよしぃっ」
「こっちで達けるか……?」
 びくびくと揺れる陰茎には触れず、なお後ろを責め立てれば、頷きの代わりに高い艶声とうねる内部が能弁に答える。
「やぁ、イく、ぅ、あ、あぁっ」
「ん、俺も一緒に、なっ」
「あ、ぁんっ、やぁっ、ああぁぁっ……!」
「くぅっ……」
 全身を震わせて達する日向の内に雄を締め付けられ、自らも奥へ精を放つ。全て注ぎ込み、余韻を味わいながら眼下の身体をぎゅうと抱きしめると、かろうじて立っていた日向の膝が後ろへ滑り、完全に布団へ伏す恰好になった。どうにか手をつき、潰してしまわぬようゆっくりと身を重ねる。
「日向」
 横から覗き込むようにして大丈夫かと呼びかけると、頭を倒してこちらへ向き、胡乱な瞳で木吉の顔を捉えて、みゃあ、と鳴いた。無意識であったらしくあれと人の言葉が続きかけたが、すぐに口付けに呑んだ。まったく、仔猫の声とはいついかな時に聞いても心揺さぶられるものだ。
「風呂、行くか?」
 幾度か唇を啄んでから、間近に視線を合わせて問う。頬を薄赤く上気させた恋人は、面映ゆげに一度目を伏せ、小さく頷きを示した。


 手桶で手早く身体を流し清めてから、冷えてしまわぬうちに湯に浸かる。部屋四半個ほどの広さの天然の湯船は、並んで脚を伸ばしてもまだ幾らか余裕があった。熱は高過ぎず低過ぎず、心地よく身に沁み入る。
「やっぱいいなー、温泉」
 うちにも湧かねーかなぁ、と落とした呟きが反応なく湯気の中に消える。おやと思って隣を見やれば、普段なら呆れとまでは行かずも何かしらの語を返してくるだろう日向は、首どころか口の上まで湯に入り、目をぼんやりとさせたまま水面にぷくぷくと泡を吹いていた。
(うわ、可愛い)
 遊んでいるのか意味もなくそうなっているだけなのか、妙に稚気を出した様子が珍しく、またたまらなく愛らしく映る。とは言えほうっておくと溺れてしまいかねなかったので、脇に手を入れて引き寄せ、少し体勢高く座らせ直す。夜風にさらされる恰好になった肩を抱いて湯をかけてやると、日向は抵抗なく頭をこちらへ寄りかけてきて、くるくると喉を鳴らした。
「いいなぁ、温泉……」
「んー」
 感動を噛み締めつつまた独りごつ。特段の理由も付けず同浴できるのだから、たとえ何事もない夜であれ、こうしてゆったりと睦むには絶好の場である。
 しばし静やかな幸福に心身をひたしていると、木吉、と横から名を呼ばれた。先よりも幾分か意識がはっきりしてきたようだが、明瞭に覚めているとはまだ言いがたい声。のぼせてしまったかと目を向けると、とろりと熱にじませる金緑の瞳と視線がかち合い、返しかけた言葉を失った。湯に熟れた紅い唇がひそり、紡ぐ。
「……もうしねぇの?」
「っ……!」
 胸内の言葉を一も二もなく翻す。ゆったりと睦む幸福もいいが、もちろん何事かあるならあるでやぶさかではない。
「したくねぇ、なら」
「したい!」
「んにゃ」
 閨事になると妙に控え目になってしまうことのある番いへ即座に応を返し、ぐいとさらに身近く抱き寄せる。目を瞬かせるのを構わず耳元へ低く囁いた。
「日向の身体がつらくねーなら、何度だって犯したい。……わん」
 少し露骨に過ぎたかと最後に付け足した鳴き声に、今さら飼い犬ぶんなよ、と愛しい人は目を細めて笑ってくれた。


「ん、ぅんっ……」
「っは……、動ける、か、日向」
「んん、うぁ、や」
 湯船の縁に腰掛け、向き合う日向の腰をゆっくりと引き下ろす。既にやわらかく融けた身体は木吉の屹立をさほどの難もなく呑み込んだが、力の抜けた脚を立て動かすのは難しいようだった。それでも少し腰を回すようにしてやれば、過敏に反応を示す。
「あぁ、ァ、ひぅ……、んっ」
「んっ……本当に、独り占めしちまってるみてーだな」
「ぅ、あっ……な、に……」
「こうやって、知らねー場所で二人っきりだと、さ」
「っあ、きよしっ……そこ、やぁっ」
 自重で奥深く性器を銜えたままの身体を揺らすと、安定を欠く姿勢から倒れまいとしてか、両腕が強く背にしがみ付いてくる。木吉も刺激に反る身体をかき抱き、隙間なく肌を合わせた。二つの鼓動が入り交じり、重ねた情を高らかに叫ぶ。
 故郷の森にいれば、彼も己も個ではなく、土地に生きる者たちに恵みをもたらす護り神だ。それは自分たちの責であり、喜びでもあって、わずらわしく感じたことなどはない。だがこうして日々の習いを少しだけ離れ、常の彼を知る者も他の誰とてなく、あまねく注ぐ陽のぬくもりを感じられるのは今確かに自分だけであると、この腕の中で快楽に酔い、甘やかに啼く姿を見ているのは自分ただ一人であると思えば、心は熱にのぼせ上がる。
「日向、好きだ……」
「あぁっ、ん、木吉、ぃっ……」
 名を呼び、深く口付ける。ひゅうと風が吹いて肌が震え、猫の尾が背後の湯面を叩いたのを合図のように、縁石に腰掛けた身体をずらして共に湯の中に落ち込んだ。急の動作に日向が悲鳴を漏らして愉悦にむせぶ。
「ひあぁっ……! あ、ぁ、やっ、お湯、入っ……」
「く、っ、日向、日向っ……」
「きよし、んぁ、熱、ぃ、ああぁっ」
 浮力を得て軽くなった身体を一転激しく揺さぶり、突き上げる。湯に沈んでなお熱い身を互いの腕いっぱいに抱きしめ、睦み合う番いの艶めく啼き声が、秋の夜を鮮やかに彩った。


      ○


「ごめんな日向、ちょっと浸かり過ぎたな」
 くたりと布団に沈んだ身体を手拭いで扇ぎ、障子戸の隙間から入る風を送ってやりつつ言えば、んみゃ、と不明瞭な猫の声が返る。もはや酔いも覚めているはずだが、本当の意味でのぼせてしまったらしい。頭頂の耳をすっかり寝かせ、火照りを外へ逃がすようにふぅふぅと息をしている。
「水飲めるか?」
「うー」
 頭を起こすのも大儀な様子なので、身じろぐのを手で制し、湯呑みに汲んだ水を含んで口移しに流し込んだ。舌であやすように教えれば、んく、と嚥下の音が聞こえる。
 まだ木吉の身体のほうが冷たく感じるのか、心地よさげに尾が揺れるのを見て隣に寝そべり、口を離す。熱い頬を撫でるとうっとりとした表情を見せつつも、
「……もうできない」
 もう出にゃい、と、回らない呂律でそのものずばりなことを言うので、もうしないよ、と笑って答えた。
 正直なところを言えば、房術そのものというわけでもないが、最中に日向の陽の気を吸い込んでしまう木吉は、どれほど激しく情を交わしてもあまり疲労をしない。続けようと思えば叶ってしまう事情がまだ続く夜を惜しむ心に変わり、重ねた唇から伝わったのだろうか。初めのうちに気をやらせ過ぎてしまったなと、反省とも残念ともつかない、いずれにせよ口に出せばやはり眉を寄せられそうな思いをよぎらせつつ、丸めた背を撫でる。特に抵抗がないのを見てそのまま引き寄せ、腕に抱き込んだ。高さの異なる熱が混じり、穏やかに緩び融け合っていく。
「たまには、こういうのも悪くないよな」
 生まれ持つ責務をひと時手離して、知らない土地で、愛する者とただ二人過ごす。無論、ひとつの地を預かる以上そうたびたび成し得ることではないが、今度のようにたまの気晴らしと思えば許される時間だろう。
「年に一度ぐらいならまた遠出してみてもいいんじゃねーか?」
 何気なく問うと、
「……そうだな」
 思いがけず前向きの肯定があり、腰の後ろで我が尾が揺れるのを感じながら言葉を続ける。
「秋もいいけど、冬に雪の綺麗なところに行くのも良さそうだな」
「俺、あんまり寒ぃとこはやだ」
「じゃあ逆にあったかいとこに行くか? 知らない場所のんびり歩いて、色々なもん見て、旨いもん食べて」
「マタタビが名物じゃねぇとこならな……」
「狭くても静かな宿にして、やっぱり温泉があるといいよな!」
 それで、と肩口に寝かせた顔を覗き込み、
「夜は、こうやって二人きりで、な」
 囁いて、羽の触れるように額へ口付ける。深色の瞳が瞬き、眉根にいつもの皺を寄せつつ、ごく小さくも確かな頷きを示すのを見てから、さらに胸深くその身を抱きしめた。とくりとくり、激情を力の限り叫ぶものではない、ごく穏やかな、しかし揺るぎなく命と心を紡ぎ重ねる脈動に、陶然と聞き入る。
 しばしまどろみに似た心地にたゆたったのち、忍び入る風の冷たさに気付き、そろそろ身体も冷えたかと足下から布団を引き上げにかかると、胸元にうずまった口からくぐもった声が漏れ聞こえた。
「……はやばや次の話始めてやがるけどよ、明日も泊まるんだろ」
 ここに、と言うのに、もちろんそのつもりだと返す。
「滝のほう、案内してくれるっつってただろ」
「ああ。紅葉がすげー綺麗で、夕陽も良く見えるんだってな、楽しみだ」
「ほかにもまだ、できるだけ色々、見て回りてぇから……」
「そうだな」
 本物の眠りに誘われ始めたのか、途切れがちになる言葉をおざなりにせず、そのやわらかな音色を愉しみながら聞く。頭を撫でればころころと喉鳴らし、ここに帰ったら、と言葉を続けた。
「最後だから、また豪勢なメシ、出してくれるんだろうし、……まぁ、俺はどうせ酔っ払っちまう、けど」
 口ごもり、そのまま先を続けるでなく、それでと題を転じ、
「てめぇだって、……俺のもん、なんだからな」
 ほつり、いささか唐突に言い落として、目を丸くする木吉の胸へ全て隠れてしまうように、ぎゅうと強くしがみ付いてきた。
 日向、と次に呼びかけた時には、照れ屋の黒猫は既に夢の中へと逃げ込んでしまったようだった。
「……まったく、お前はさ」
 出会って何年が過ぎても、番いの胸を甘く騒がせ、喜びに乱すことをやめようとしないのだから、敵わないというものだ。
 なお気を落ち着けなければ妙な夢を見そうだと苦笑の息をつきつつ、途中で止めた布団を再び引き上げ直し、双つ身を包み込む。さんざん我がものと主張したことへの意趣返しでもあったのだろうか。地縁と共に生きる神霊が、たとえ真に己のもののみ、彼のもののみには在れまいと、同じ想いを通わせるなら、それは永劫、叶っているも同然の願いだ。
 すうすうと安らかに寝息を立てる愛しの君と、彼に愛される幸福者に久遠の幸あれかしと、我が地を離れてこそ望みうる神恩を紡ぎ、残る二人の日を浮き立つ心で想いながら、秋夜を訪う甘い夢へと目を閉じた。


―了―

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