コールユー・コールミー



「ひゅうがー」
「ひゅーが、なぁ、ひゅうがぁ」

 今日も今日とてハードな練習の長めに取られた休憩の間に、今日も今日とてのんびり穏やかな呼び声が響く。
 壁にぐったりと預けていた頭を前へ戻すと、木吉が隅に腰を下ろした日向のもとへ歩み寄っていくのが見えた。部で一番の長身で体格もいい木吉だが、そうして名を呼びながら歩く姿には、どうしてかひょこひょこ、だの、ほてほて、だのといった、どちらかといえば犬の2号にふさわしいような幼ならしい擬音が似合う。
「じゃあそれで頼むな、ひゅーが」
「おー」
 短いやり取りを交わし、日向が頷いたところで会話は終わったようだが、木吉は壁に手をかけたままその場を去るでもなく、バインダーに挟んだメモに何事かを書きつけている日向を横から見下ろしている。早い時間であれば律儀に何か用かと訊ねるなり追い払うなりする日向だが、疲労が溜まってくるとそれに割く気力もなくなるようで、ほぼ放置状態になる。木吉のほうもそれを承知で気にせず話しかけにいくので、部活終盤の体育館においてはふと見ると二枚看板が並んでいる、というのがお馴染みの光景だった。
「なぁひゅうが、この前な……」
「お前さぁ」
 いつもの景色を目の端にぼんやりと眺めていた黒子は、聞こえてきた声に、おや、と意識を改めてそちらへ向け直した。この時間に日向が木吉の言葉を遮ってまで話しかけるとは、少し珍しい。
 同じことを当の相手である木吉も感じたようで、垂れがちの目を瞬かせ、どうしたと首を傾げている。日向はメモを繰る手を止め、隣の長身を見上げて、平坦な声音で言った。
「前から思ってたんだけどよ」
「ああ」
「オレのこと『かな』で呼んでねぇ?」
 かな? と黒子は胸の内で、木吉は声に出してその言葉を疑問符とともにくり返す。頷き、日向は言葉を続けた。
「漢字じゃなくて、ひらがなで呼んでねぇか?」
 木吉はぱちくりと目瞬きをくり返している。付け足された説明は問いの意味は通したものの、筋はまるで通していないので無理もない。とは言え、黒子にはなんとなくその指摘せんとするところがわかった。
 日向も自分の質問が妙なものであったことは自覚しているようで、少し気まずげに眉を寄せながら、まあ特別わざとでもねーんだろうけどよ、と置いてから、
「人の名前をやたらにのべーっと呼びやがるから、ひらがなに聞こえるつってんだよ」
 漢字で呼べ漢字で、と、居直り交じりの尊大なポーズで言い切った。
「のべー……?」
「……別にそこの音はどうでもいいんだよ。もっと力入れてしゃきっと発音しろ」
「ひゅーが」
「直ってねぇ」
「難しいな」
「どこがだよ?」
 首をひねりながら隣に腰を下ろした木吉に、ほかのヤツと同じように呼びゃいいんだ、と日向が調子よく文句を続ける。どうやら休憩時間残りいっぱい、長期戦の様相を呈してきたようだ。
「けどひらがなって結構良くねーか?」
「何が」
「なんかやわらかいっつーか、口当たりがいいっつーか、ゆったり優しそうな感じがするだろ?」
「そりゃそうかもしれねぇけど、オレはそのどれも当てはまんねーし初めからきちんと漢字があるんだよ。使えよ」
「いい名前だよな。オレひゅーがの名前好きだぜ」
「だからオマエ……」
 なんて不毛な議論だろう、と当人たちは思っているのかいないのか、会話は歯車のずれたまま明後日の方角へ転がっていく。多少の常識外れはあれどバスケについても学業についても並以上に頭の回る先輩方なのに、何もなく二人揃うとどうしてこう、とはたで思考を巡らすうち、当のやり取りの中では木吉のボケが本領を発揮し始めた。
「じゃあひゅうが、お前もオレのことひらがなで呼んでみてくれ!」
「なんで?」
 上げた親指で自身の胸を指し、さもいいことを思いついた、とでも言うように提案する木吉と、即座に切り返す日向。これもまた馴染みのやり取りであり、その流れ着く先も、木吉がツッコミを気にせず一方的に話を続けるという点で概ね同じである。
「自分がどんな感じにひらがなで呼ばれるのかわかったら、直せるかもしれねーだろ?」
「ひらがなでの呼び方なんざわかんねぇよ」
「でもオレがお前のことひらがなで呼んでるって思うなら、違いがわかるってことじゃないか?」
「う……いや、それはそれっつーか、なんとなくで……大体、なんでオレがんな面倒な手助けしなきゃなんねぇんだ。てめぇで直せっての」
「オレも一回ひらがなで呼ばれてみてーし、頼むよ」
 手を合わせる表情こそ真剣だが、中身は妙としか言いようのない依頼である。日向は明らかに気の乗らない顔をしていたが、じゃあ、と続けた木吉の次の台詞でぴくりと眉を跳ね上げた。
「練習再開までにオレのことひらがなで呼べたらお前の勝ちってことで、帰りに何かおごるよ」
「……言ったな」
 いやいやどうしてその流れで勝負になるんですか、そしてなんで当たり前のように乗るんですか、と思わず空中に平手を入れつつツッコミをするが、哀しいかな、会話に集中している二人はもとより、比較的そばにいた同学年の仲間たちにも気付かれなかった。
 そっと降ろす手の先で、誠凛バスケ部の看板を負って立つ二名は実に非生産的な勝負についての話し合いを進めている。
「つっても誰が判定すんだよ。お前がジャッジじゃ不公平だろ」
「んー、なら誰か別のやつに……」
 と、辺りを見回す木吉たちのもとに、いつの間にか歩み寄っていたニャンコ小僧こと小金井が声をかけた。
「なになに、さっきからなんの話してんの?」
 雰囲気といつものお約束とで真面目な話でないことは察していただろうが、ここで「馬鹿な話」などと言って初手から切り捨てないあたりがさすがのムードメーカーである。いいところに、と早速勝負の説明を始めたプッツン眼鏡と天然ボケ男の揚げ足の取りどころ満載の話にも、ふんふんとしっかり相槌を打って耳を傾けている。
「……というわけだ」
「んー、良くわかんねーけどわかった。日向が木吉の名前呼んで、ひらがなっぽいなーと思ったら言えばいいんだろ?」
 でもそれって完全にオレの主観だけど、と言う小金井に、構わないと二人そろって頷く。
 かくて、地球の未来に一ナノグラムどころか一ピコグラムほどの利も及ぼさない勝負は幕を開けた。

「……木吉」
「フツーだね」
「フツーだな」

「キヨシ」
「完全にカタカナだろそれ」
「オレはロボットじゃねーぞひゅうがぁ」

「キヨスィ」
「肝吸いの親戚って感じ」
「腹減ったなー」

「きーよーしー」
「多分ひらがなだけど反則だよなー」
「それでずっと呼び続けられたらいいぞ」
「無理」

「木吉ィ!」
「うわ、いきなりクラッチモードやめて」
「なんか普段だと叱られてる気分だな……」

「……キョンシー」
「キョンシー?」
「キョンシー?」

 見るからに、もとい聞くからに日向の旗色不利である。そもそもの注文からして曖昧に過ぎ、難題この上ないと思うのだが、日向は先ほどの勝負時テンションの声で部員の注目を一斉に集めたことにも気付かず、ああでもないこうでもないと眉を寄せて木吉の名をくり返している。
 そのうちに、じゃあオレ手本やるな、と負けるとおごらされるはずの木吉も日向の名を呼び始めた。
「ひゅうが」
「木吉」
「ひゅーが」
「……キヨシ」
「ひゅうがぁー」
「木、吉」
「日向」
「木吉」
「日向」
「木吉。……って、もう多分ひらがなじゃねぇだろ」
 つられるからやめろ、と、もはやなぜこの勝負を始めたのかも忘れているらしい文句をつける。隣で聞く小金井が猫口をさらに深く刻んで苦笑していた。
 ひとしきり呼び合いをくり返して部員たちに微妙な顔を浮かばせつつ、残り時間が三分ほどになったところで、だあ、と日向が頭を抱えた。
「大体、オレの名前に比べてお前の名前ひらがなで呼びづらくねーか? っつーか、オレの名前が不利すぎねぇか? 『う』だろ。『う』が棒に化けるから、のべーっとした音になるんだろ!」
 どうやらギアが逆ギレモードに入ったらしい。それはそうだ、むしろなんでここまで気付かなかった、と異口同音の空気が館内に漂う。う段の子音と母音が続いて長音符に変わりやすい上、発声をやわらかくしがちな拗音まで挟まっており、部全体で比較しても、明らかに「ひらがな的に呼びやすい」側の苗字なのだ。良くわからないと言いたげにしているのは、かつて「なあ黒子、主将の名前ってどこまでが『日』の読みがなでどこからが『向』の読みがななんだ?」という質問をしてきた火神ぐらいのものである。
「そうかもなー」
「なーじゃねぇよ! わかっててふっかけやがったなてめぇっ」
「けど、それでいいって言ったのは日向だろ?」
 笑み浮かべたまま言う木吉に、ぐ、と悔しげに歯を噛む。結局のところここまでの一連全てがお約束であり、腹芸での試合において、日向が“鉄心”から勝ちを奪ったことなど無きに等しい。やれやれ、と幕引きの空気が場に流れ始める。
 が。
「悪かったって。別にオレにおごってくれとは言わねーからさ」
 これもいつもの通り、木吉が一歩引いて日向の機嫌を直そうという言葉をかけつつ、時間を見て立ち上がったところに、ぽつり、声が落ちた。

「……てっぺー」

 え、と木吉の動きが止まる。のみならず、部員たちの動きも再び止まる。
「てっぺー、てっぺー、てっぺー! なぁコガ、これひらがなじゃね?」
「あー、そう、かも……」
「だろ? やっぱり棒のせいじゃねぇか! おい聞いたか木吉! きよしてっぺー! 苗字だけとは決めてねーよな。制限時間内だ!」
 オレの勝ちだと笑う日向の隣で、木吉が呆然と頷く。
 勝敗の見えたいつもの試合。しかし、わかりきった負け勝負を一瞬にしてひっくり返す、窮鼠猫を噛む、ということわざが日本にはある。いや、
(この方々の場合、窮猫犬を絆す、でしょうか)
 ふはははは、と時代劇の悪役じみた高笑いを上げる我らが主将を、負けたはずの策士が輝きの浮かぶ瞳で見つめていた。


「……見ちゃった?」
「見てしまいました初めから」
「見ちゃったか初めから」
 ぴひょろり、とどこか力無く響いた相田の笛で持ち場へ戻りながら、次の練習のペアを組む伊月が声をかけてくる。
「なんと言いますか、アレですよね」
「なんと言うかアレだよな」
 言葉を濁しつつも頷き合い、脱力をどうにか脇へ押しやろうとしているところに、ボールを両手で口元に抱えた木吉がやってきた。
「ふふふふふふー」
「……木吉先輩、失礼ながら若干気色悪いです」
「百九十越えの大男が口を隠してふふふ笑いをするな」
 冷静な指摘もまるで気に留める様子なく、いやあ、とゆるみ切った顔で呟く。
「日向ってほんとアホで可愛いよなぁ……」
「うわオレらがせっかく濁したのに」
「色々なものが色々台無しです」
 あえて言うなら、このオチに至るまでの全てが、愛すべき彼らのお約束である。
 ボールを抱えたままほてほてと去っていった木吉の試合中は限りなく頼もしい後ろ姿を眺めながら、伊月がぽつりと最後の爆弾を落とした。
「知ってるか黒子。あいつらまだデキてないんだぜ」
「マジですか」

 策士が巧妙に敷いた試合のレールを、時に鮮烈なブザービーターが打ち砕くこともある。
 しかし、日本にはこんな格言も存在する。

「試合に負けて勝負に勝つってやつだな、ひゅうが!」
「は?」


完。

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