◇

 帰宅して適当に夕飯を取り、風呂も済ませて、今日は早めに寝てしまおうかと考えた矢先に、再び着信音が響いた。
 止まないバイブレーションがメールではなく電話の呼び出しであることを報せ、台所から駆け戻って机に置いていた携帯を取り上げる。表示されていたのは日向の名前だった。時計を確かめれば十時を回っており、まだ打ち上げが続いていてもおかしくない時間である。首傾げながら通話を繋げると、もしもし、と言い切る前に、怒号に近い声が耳を貫いた。
『おら木吉ィ! てめー今から出てこい!』
 きんと震えた鼓膜に顔をしかめつつ、どうにか聞き取った言葉を脳内にくり返して確かめる。出てこい? 今から?
「日向? 打ち上げ中じゃないのか?」
『そーだよ! だからとっとと来やがれ!』
 頭の中がクエスチョンマークに埋め尽くされる。叫ぶ日向は明らかに酔っぱらっており、後ろからかすかに聞こえるのも居酒屋の喧騒に違いなかった。一体どういう状況なのか。完全に部外者である自分が急に「来い」と言いつけられる理由が全くわからない。
「日向、もう少しちゃんと説明してくれ。どこの店かもわからねーし……」
 諭すように言うと、何事かをわめいている日向の声が不意に耳から遠ざかり、ばたつくような物音と少しの間を挟んで、
『もしもし?』
 耳慣れない声が、今度ははっきりと落ち着いた口調で聞こえた。こちらが驚きを返す前に、言葉が続く。
『えーっと、“鉄心”の木吉鉄平?』
「……そうですけど」
 戸惑いつつも肯定を唱える。その名前を出すということは確かにバスケの関係者で、さらに言えば知人ではないはずだ。誰何を先んじて、電話の向こうの相手が自分から名を告げてきた。
『突然ごめんねー。オレ、日向と同じバスケ部の二年で橋本っていいます。実は色々あって日向がすげー酔っぱらっちゃって……今後ろでわーわー言ってるんだけど聞こえる?』
「ああ」
 苦笑の向こうから、ほかのチームメイトに抑えられているのだろうか、携帯返せとがなり立てる声がかすかに聞こえてくる。
『ちょっと話の流れで、お前のこと呼ぶって言い出して聞かなくってさ。手間かけて申し訳ないんだけど、家このへんって話だし、もし都合悪くなければ来てくんないかな……? センパイらは面白がって煽っちゃうし、このまま一人で帰らすのも不安だし、送ってくほど家が近いやついないし、正直持て余してるんだわー』
 語る声は明るく言葉のほど深刻な様子ではなかったが、困った状態であるのは確かなのだろう。一体どんなやり取りを経て自分への電話となったのか、あまり良い想像は浮かばなかったが、純粋な心配もあって了承を唱えた。悪いね、と言って教えられた店は、自転車で行ける距離にあるチェーンの居酒屋だった。
 十五分ぐらいで着くからと伝えて通話を終え、手早く着替えて家を出る。駐輪場でもう一度時間を確かめてから、ここ何日かで急に秋めいた夜風の中へペダルを漕ぎ出した。


 店に着くと、入り口の前に立っていた男がすぐに木吉の姿に気が付き、声をかけてきた。
「おお本物の鉄心だ……。いやーわざわざごめん。普段落ち着いたやつが急に暴れ出すとなんか慌てんね」
 オレ、電話で話した橋本、と改めて名乗り、少し感激したように手を伸べてくるので、請われるまま挨拶代わりの軽い握手を交わす。
「……暴れてるのか?」
 確かに電話口では相当の酔いぶりに聞こえたが、それほどなのかと不安に思って訊ねると、小さな笑いが返った。
「そこまでじゃないよ。すげーうるさいけど」
 こっち、と手招かれ、店に入って板張りの廊下を進む。奥の引き戸を開けると、掘りごたつ式のテーブルが並んだ広い板間に、二十人ばかりの一団が盛り上がっていた。
「はいはーい、鉄心到着ですよー」
 橋本が喧騒に声を投げ入れると、場の視線が一度にこちらを向く。入り口で聞いたのと同じような驚きと興奮の入り混じるざわめきの波の中から、ひとつ、耳馴染んだ文句が上がった。
「おっせーよダァホっ」
 言うなり壁際から立ち上がった日向が、ふらふらと危なっかしい足取りで歩み寄ってくる。思わず支える手を前へ出したが、それを察してかどうか、倒れ込む間際というところで身を立て直して止まり、いつも以上に険しい目でこちらを睨み上げてきた。
「……酔ってるな、日向」
 見たままに言うと、おー、とつんけんとした声で相槌し、
「てめぇのせいだ」
 そう、明らかに筋の通っていないことを、反論などあるわけないとばかりに言い切ってみせる。
「え、オレ……?」
「そうだ。てめぇがバカのつくお人好しだからだ」
 いかにも真理、といった調子で断言されるが、こちらはまるで状況が掴めない。確かにこれまでにもそうした指摘や叱責をされたことはあるが、ここ三日は顔を合わせてもいなかったのだ。怒りを買う理由がない。
 困惑のまま言葉を返せずにいると、日向は唐突に部屋へ向き直り、酔いにざらついた声を放った。
「なあ、さっきの茶パツどこいった?」
「便所じゃないすか?」
 笑ってこちらを眺めていたバスケ部員たちの中から、いくつかの囃し声とともに応えが返る。ちっと日向が舌打ちを捨てた。
「お前ちょっと待ってろ、連れてくる」
 言い置いて、またふらふらと廊下に出ていくのを追おうとしたが、横から肩を叩かれて止まった。
「ま、好きなようにさせときなよ。完全に沸騰しちゃってるからさ。せっかくだから、ちょっと呑んでかない?」
 何があったか説明するし、オレらも一度「鉄心」に会いたかったんだよね、と言うのに、周りからも歓迎の声が上がる。参ったなと思いながらも日向を放って去るわけにも行かず、勧められるまま空けられた席に腰を下ろした。

 チームメイト達を代表して橋本が始めた説明によると、今日の試合相手兼合同打ち上げの相手であったK大の二年生と日向のあいだで、ちょっとした諍いがあったのだという。
「つっても呑みの席からだけどね。試合は短い時間しか出てなかったし」
 その部員というのが、先ほど日向の探していた「茶パツ」らしい。
「日向がトラブル起こすなんて珍しいな」
 試合中の毒舌はもちろん、普段から少し口は悪いが、根は温厚で礼儀もわきまえた性格である。やや腰弱なところがあるのも手伝って、あまり人と本気の争いをするような人間ではない。おそらく一番の喧嘩相手は自分だが、多少例外に属しているのは知っていた。
「そうそう。だからオレらも驚いてさ。ざっくり流れ話すと、最初は今日の試合のこととかで普通に盛り上がってたんだけど、途中で『キセキ』の話になってね」
 ああ、と頷く。自分たちの年代のプレイヤーのあいだでは、話題にならないほうがおかしい名だ。
「例によって茶パツも中学の頃に帝光にこてんぱんにされたクチだったわけ。で、あいつらはバケモノだろーみたいな話になって、まあ、自己弁護ってのもあったんだろうかね。……あ、気に障ったらごめんな、こんなことを言い出したんだよ。“『キセキ』に比べたら、オレらと同じ年代の『無冠の五将』なんて全然大したことない”、って」
 で、タイミングの悪いことに、その時そいつの隣に座ってたのが日向、と苦笑してみせる。
「そいつ、大学からのバスケ出戻りでさ、高校バスケのことにちょっと疎かったみたいで、日向が誠凛の主将だって気付いてなかったんだよな。当然お前の元チームメイトってことも知らなくて」
 大丈夫かなと思ったら想像以上でさー、と言うと、まさしくよほどだったのだろう、周りの部員からも思い出し笑いが起きた。
「あとの四人のことはオレはとやかく言わないけど、って落ち着いた前置きしたと思ったら、いきなり。テーブル割れんじゃないかってぐらい思いっきりグラス叩きつけて、『ウチの初代7番ナメてんじゃねぇぞ!』ってね」
 ヤクザも裸足で逃げ出す顔してたわ、としみじみ語るのを、ぱちぱちと目瞬きして見つめる。言われた側の「茶パツ」も初めはぽかんとしていたが、売り言葉に買い言葉という流れで、酒の勢いと周りの煽りもあり、口論ののちになぜか呑み比べに発展したらしい。
「日向はあんまり酒に強くなかったと思うんだが……」
「そうみたいだな。けど相手が自分とこの仲間からも若干鼻つまみもんって感じのやつでさ。みんな全面的に日向に協力してたから。焼酎すげー薄く割ったりして」
 そして最終的に相手は見事につぶれ、日向も深酔いした、というのが事のなりゆきであったわけだ。学生らしいと言えばらしいが、あまりほほ笑ましい経緯ではない。

 もう一度苦笑を分け合ってから、まだ日向が戻らないと見て、せっかくだからの言葉の通り、部員たちは木吉個人のことに話題を移し始めた。
「高校は二年で選手引退したって聞いてるけど、もうバスケしてないのか?」
「いや、大学でやってる。公認の部活じゃなくてサークルだけど」
「あ、S大だもんな。そういや日向ともちょこっとだけ話したことあるわ。あとオレはいなかったけどセンパイ達が鉄心が窓から叫んでたとかって……あのズタボロに負けた日」
 橋本の言葉に、あー、と伝染したようにあたりにため息が渡る。例の試験日明けの練習試合のことだろう。実りのある試合だったようだが、日向も結果は大差の負けだったと眉を寄せていた。
「大会とかで当たりたかったけどなー。怪我じゃ仕方ないか」
 残念、と肩を落とすのに、オレも日向たちと試合してみたかった、と頷きを返す。 
 それ自体を選択の理由としたわけではなかったが、木吉の進学先は体育大学に性質が近いこともあって運動部の活動が盛んで、バスケ部も多数の社会人選手を輩出している伝統の強豪校だった。入学して間もなく、わざわざクラスを探してやって来た部員に名指しで誘われ、惹かれなかったと言えば嘘になる。
 二年次の年明け間もなく手術を受け、真摯にリハビリを続けた結果、三年の夏には杖に頼らず歩けるようになった。その後の回復も早く、受験の鬱積を晴らすように誰ともなく集まって始めたミニゲームにも、卒業間際には参加できていた。とは言え、はた目には全快したように見えても、内に大きな爆弾を抱えた状態であることに間違いはなかった。いくらも経たないうちに急激に負担をかければ、それこそ一生の怪我になる可能性もあった。
 人生二度目の岐路だった。医師の忠告と仲間たちの進路を聞き、最後に自らの手に委ねられた中から木吉が選んだのは、広い競技場の輝くライトの下コートに立つ四年間ではなく、それからもずっと、たとえ場末の小さな体育館でも、登録された選手としてではなくとも、できうる限りに一生、バスケを続けていく道だった。
 部の誘いは事情を話して辞し、その後の縁で、未公認のバスケサークルに入会した。同好会だがそれなりの規模を持ち、非公式の試合や大会にも活発に参加しているほか、地域の小中学生にバスケを教えるボランティア活動を行うこともある。試合の相手に木吉と同じ事情を抱えた元大会常連校のプレイヤーを見ることもあり、なんで「鉄心」がこんなところに、と目を丸くされるのも今ではお馴染みのやり取りになった。
 後悔はない。だが、全く残念を覚えていないと言えば、嘘になる。日向が公認のバスケ部に入ったと聞いた時が、一番心が揺れた瞬間だっただろうか。また、彼と同じコートに立ちたい。共に興奮を分かちたい。それは熱望にも近い想いだった。


「――とは良く遊んでんの?」
「え?」
 よそへそれていた意識を引き戻し、スマンもう一度、と訊き返す。訝しむでもなく言葉が続いた。
「日向とは良く遊んでるのか、って。 家も大学も割と離れてるでしょ」
「ああ、今年の夏からは結構会ってるかな。日向のバイト先がうちと近いんだ」
 まさか付き合い始めたからとも言えず、そう説明する。理由の一端としては嘘ではない。
 一緒に呑んだりするのかと問われ、家でのんびり酒を開けることが多いと答えると、あぁだからか、とでも言いたげな笑いぶくみの空気が流れた。思わず首を傾げれば、
「日向のやつ、お前んちにいる気分になってたんかねー。普段あんな呑まないからさ、酔ってるイコール家にいる、みたいな思い込みで。いきなりいないやつの名前呼び始めてびっくりしたよ。ヤバいもん見えてるのかと思った」
 おかしげに、そんなことを言う。
「で、あれキヨシって言ってる? さっきの話に出てた木吉鉄平? みたいなことになって、本人に訊いたら『アイツなんでいねぇんだよ言いたい放題にさせてんじゃねーよ』とか騒ぎ出して、なんか呼ぶ流れになっちゃったわけさ」
「あー……そういうことか」
 オレらも正直ノッちゃったし、面倒かけてごめんね、と改めて謝罪をされるが、特に忙しかったわけでもなく、気にしていないからと首を振る。こちらとしても、それでわかったという納得感のほうが勝った。
(そういうところは本当変わらないな)
 あの頃も、周囲からの木吉への野次や揶揄に、そしてそれを受け入れる木吉自身に、強い憤りをあらわにしていたものだ。そこから諍いを起こしたのも一度や二度のことではない。店に着いて一番にぶつけられた言葉も、実際はとんだ思い込みだが、きっとそれが理由だ。
 少しの呆れとともに、なかば崇敬にも似た、言葉に尽くしがたい情が湧き上がる。お前は人が良すぎると折に触れてくさす彼のほうがよほど、ねじれのある優しさを極めてしまっているように思えた。

 二、三の雑談を交わしてそれなりに盛り上がっていると、廊下から部員の一人が見覚えのある影ともに部屋へ戻ってきた。
「日向さんやっぱもうダメっすわこれー。洗面台の前で立ち寝してた」
 後輩の肩にほとんどおぶさるような体勢になっている日向は、胡乱な視線を上げ、あの茶パツ野郎逃げやがった、と恨めしげに呟く。結局例の相手は木吉と入れ違いに店を退場していたらしい。
「はいはい、先輩も帰ったほうがいいすよ。こっからどの路線でしたっけ?」
 道わかる人、と呼びかけるのに応えて立ち上がり、前へ歩み出る。
「私鉄で少し離れた駅なんだ。途中まで同じ道だから送ってくな」
 帰るぞ日向、と背を叩けば、不明瞭にうなりながらも抵抗なくこちらの腕に寄り移ってくる。目蓋はほとんど閉じかけており、夢とうつつとの境を行きつ戻りつしているようだった。立っているだけでも足がふらつくので、もう背負ってしまおうかと腕を取りかけると、
「オマエにおぶられるぐれーなら這ってく……」
 寝言じみた声とともに、ぺち、と手がはたかれる。子どものような仕草に周りからまた笑いが起きた。
「やー、貴重なもん見てるな」
 上の学年らしい部員が愉快げに言い、頼むな鉄心、と手を上げる。ひとつ礼を返して日向の身体を支え直し、口々の「またな」を背に受けながら、見送りを買って出た橋本とともに宴席を後にした。


「じゃ、気を付けてな。日向は終電あんのかね?」
「この時間ならまだ大丈夫だ」
 店の表で向き合い、改めて別れの挨拶を交わす。自転車はいったん置いて徒歩で送っていくことを告げると、最後まで世話かけるね、と橋本が頬を掻いた。
「さっきも言ったけど、いつもは逆に潰れたやつの世話する側だから、お前がかい、みたいな感じでさ。なんかつられてみんなハイテンションになってたぽい。まーこれに懲りずにまた来てくれたら嬉しいわ」
 二次会に来なかった一年にも、「誠凛二枚看板」に憧れてるのいるんだよ、と言う。少し面映く感じながら、次は試合から観にくると答えた。
「にしても、いいなぁ」
「何が?」
 木吉とその肩に寄りかかる日向とを見比べながら、不意に感慨のこもった息をついてみせるので、首傾げて問い返した。
「いや、オレの高校の話になっちゃうんだけど……。うち、結構いい選手が揃ってたんだけどさ、主将とエースがすげー険悪だったんだよね。周りもそのせいでいつもピリピリしてて、あれがなかったら地方の決勝か準決ぐらい行けたかもなーなんて思ったりして」
「そうなのか。オレたちのところは人数も少なかったし、みんな仲良かったな」
「らしいね。話聞いててもそんな雰囲気だったし、今日実際見てますます納得したわ」
 と、そこで一度言葉を切り、日向がこちらの会話を聞ける状態にないのを確かめるように見やってから、続けた。
「日向さ、トレーニング法とか色々詳しいじゃん? うちも手が足りないからトレーナー寄りのこともしてもらってんだけどさ、あいつ、各ポジション見るけど、センターだけはあんま関わんないでほかに任せてんだよね。で、なんでかと思って訊いたら」
 口元は笑みを噛みつつ、そこだけ日向を真似るように大仰に眉を寄せながら、
『オレはセンターには物凄く高望みするから、やかましく口出ししないように自制してる』
 だってさ、と、おそらくそのあとすぐに話をよそへそらしたのだろう、ぶっきら棒な口調ごと、飾り気のない言葉をなぞってみせた。
「前の相方が『鉄心』で、おまけにそんな仲いいんなら、気持ちもわかるわ」
 今からでもうちの元主将とエースに見習わせたい、と頷く顔を声もなく見返し、次いで傍らに目を移す。わずかな身じろぎに起こされたのか、伏せていた顔がゆっくりと上がり、間近に目が合うなりまさに今模されたとおりの様子で眉根を寄せたが、噴き出して笑うことなどとてもできなかった。



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