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 目を覚ますと独りだった。
 ああ、また夢か、と無感動に思う。身を苛むこの熱は、目覚めたときの一層の侘びしさを嗤うように、幸福だった頃の影ばかりを見せる。そうして自分は全てを知りながら在りし日の記憶に心震わせ、救いを求めるように熱に身を委ねる。
 いっそこの時だけは誰かの胸にすがってしまえと、そう囁く心もないではなかった。望めば適うのはわかっていた。だが香気に誘われて寄りくる雄の、慾に満ちた目を見るだけで怖気を覚え、その腕に抱かれることを思えば言葉にもならない嫌悪が走る。あの瞳でなければ、あの腕でなければ駄目だと、十五年の初めにすぐさまそう深く思い知ってから、この季節は身も世もなく閉じこもり、時が過ぎるのを待つだけになった。どれほど願っても一度覚えた熱は身を訪うのをやめてはくれず、宿舎を出て本殿の寝屋の布団の上で背を丸め、かすかな気配だけを残す丈長の夜着を腕に抱き、嗚咽を殺して自分を慰めるほか術がなかった。
 春という季節を厭わしく思い始めたのは、間違いもなくあの日、あの年からだった。己で制することのできない媚態を顧みて羞恥に消えてしまいたくなるようなことはあっても、それまで春は確かな喜びの季節だった。草木が伸びやかに枝を広げ、花を咲かせ、実を結ぶ目覚めの朝。獣が雪解けの野に遊び、新たな命を育む始まりの日。我が地、我が森の子らの騒がしくも賑わしい生の躍動を感じながら、自らも番いに寄り添い、募る情を重ね合う麗しき睦びの季節。幸いに満ちた時間は、あの忘れがたき惨禍の日、愛する者とともに失われた。そうして、春という季節がもたらすのは、やり場のない劣情と、哀傷の念ばかりとなった。
「んっ……ぅ……」
 昇る熱を吐息に変え、騒ぐ鼓動を押さえつけるように身を縮める。抱え込んだ腕の空虚に気付いて手を伸ばし、顎下まで潜るようにかぶった布団の中を探るが、指先は目当てのものに触れ当たることなく、敷布の上を滑るだけだった。
「……?」
 薄く目を開き、緩慢に巡らせる視線の先にも影はない。上体を起こして見回すが、過ぎた日の夜と今とをただひとつ繋ぐかの人の衣は、忽然と部屋から消えていた。
 なんで、とかすれた声を落とし、虚ろな心地でそのまま座り込む。――と、しばし霧の中にあったような世界に、呼び声が届いた。
『日向』
 ぱちりと目を瞬かせる。夢の続きだろうか。だが、狼の声ではない。風の音を聞き違えたのでもない。幻聴? ならば廊下を駆けてくるこの足音は。
 身を振り向かせる前に、後ろのふすま戸が勢いよく開き、化粧縁が高く木音を鳴らした。夢で聞いていたのと同じ声で、名が呼ばれる。
「すまん日向、遅くなって」
 見上げた先に立っていたのは、失くしたはずの半身だった。
「伊月たちに訊いたら、午過ぎからこっちだって言うから。一日早く来たんだな。俺もなるべく急いで帰ろうと思ってたんだが、なかなか切り上げられなくてなぁ」
 やっぱり外の仕事は得意じゃないな、と言って頭をかく男を呆然と見つめる。その視線に気付いたように首が傾げられ、ひょいと長身が正面にしゃがんだ。
「日向、どうした? 具合悪いか?」
 気遣わしげに寄せられる太い眉。穏やかな声。忘れるはずもない、その。
「……木吉……?」
 確かめるように、おそるおそる名を呼ぶ。鳶色の目がぱちりと瞬いた。
「……俺、家間違って帰ってきちまってねーよな?」
 でも日向だし、俺の名前だし、と行き過ぎるほどの真剣な表情と真剣な声音で言う。問いがひと息に氷解し、胸苦しい既視感に身をひそめていた記憶が、鮮やかに甦る。
「んなボケたこと言うやつ、お前しかいねぇわ」
 そうだ。もう、厭わしい春はここにはない。
 そっと差し伸べた指が、あたたかな手に包まれる。
「ただいま、日向」
「おう。……おかえり」
 帰ってきてくれた。声を交わせる場所に。手を触れ合わせられるこの場所に。痛みにあえぎ哀しみに震える時間は、もうここにはない。

「そうか、泊まり、代わらせてたんだっけか。お疲れさん」
「ああ。でも日向も客に会ってくれてたんだってな。ほかのやつに頼んでもらって良かったのに」
「話聞くぐらいどってことねぇよ」
「お前はそうだろうけどなぁ」
 苦笑が落ちる。ずっと寝ていたのかと訊いてくるので頷きを返し、今日一日をぼんやりと思い起こした。木吉の言った通り、本当はこの翌日からこもる予定であったから、まだ詰めた用事が互いに残っていた。木吉は前日から日向に代わって隣国へ出向いており、日向はその入れ代わりに中の用事に手を付けていた。起きてすぐに身体の変調を感じたが、急の客があり、朝はそれに応対して、昼から後は頼んだと仲間に言い残し、ふらふらと本殿へ帰って、今に至る。部屋の薄暗さを見ると、どうやらもう夕暮れ時も過ぎているらしい。
「腹減ってないか? 何か欲しいものがあったら持ってくるぞ」
 問われ、離れかける手を逆に捕まえて、頬を寄せる。
「お前」
「え?」
「飯はいらない。……お前がいい」
 ほかに何もいらない。今はただ、恋しい番いの腕の中にいたい。
 くっと息を呑む音が耳元に聞こえる。常なら揶揄するそれでさえ、今日の閨では甘くこの身の熱を上げた。



「ん、ふ」
 坐した膝の上に乗せられるようにして正面に向き合い、口付けを交わす。
 穏やかに始まった情交は、吐息の合間に落ちる名ごとに深くなり、絡む舌の熱さに眩暈がするようだった。頬を包む掌すら、熱こもる身には冷たく感じられる。
 切れた息を継いで、熱い、と声漏らすと、俺もだと囁きが返る。
「すげー効くなぁ……くらくらする」
 十五年ぶりだもんな。言って、日向の首筋に埋めるようにした鼻をすんと鳴らす。
 時期が来れば必ず盛りを迎える日向とは違い、獣の世界には珍しく一人の伴侶と添い遂げる狼の特性ゆえか、木吉は日向のまとう香気を誘いにして、応えるように情を昇らせる。お前の匂いにしか興味が湧かない、と事もなげに教えられたのが何やら気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
 獣の性の高まりを示すように顕現した灰茶色の耳と尾が揺れ、清香が鼻の上をかすめる。雨に濡れた森の緑の放つごとく深く澄んだ、それでいて、心を魅了してやまない匂い。ざわりと粟立つ肌を合わせの間から差し入る指に撫でられ、小さく声が漏れた。帯がゆるみ、乱れた夜着の衿が肩から落ちる。
「お前、も」
「ん」
 袖から抜いた手を伸ばして衿を取りかけ、ふと、見る。
 広い胸のちょうど中心に残る、毒蛇の牙の痕。そっと触れるとざらつく皮膚に指が止まった。
「……まだ消えねぇな、この傷」
「あー、けど、だいぶ薄くなってきたぞ」
 さりげなく隠しかかる手を止め、顔を寄せる。問うように名が落ちてくるのを聞きながら、引きつれた創傷に口付けた。獣が傷を癒す折のように、熱心に舌を這わせる。
「こーら」
 くすぐったいって、とこぼれた笑いが途中で消え、
「日向?」
 焦りのにじむ呼び声に変わったと思う間もなく、頬を包み起こされた。見上げた顔が、端整に歪む。
「泣かないでくれ、日向」
 言われて初めて、頬を濡らす涙に気付いた。
「俺」
「いいんだ」
 囁きごと強く抱きしめられる。大きな手が優しく背を滑る。自分の居場所を教えるように、幾度も、幾度も。
「木吉」
 呼べば、うん、とすぐに応えが返り、二の句を継ぐ前に舌をさらわれ、深い口付けに囚われた。悔悟の言葉など要らないのだと、全身で語っていた。
 傷はやがて癒えるだろう。いつか消えてなくなるだろう。
 だが自分は忘れない。言葉に尽くせぬあの日の嘆きを。誓いを守れなかったあの日の絶望を。決して忘れない。哀しみを越え、弱さに打ち克ち、次は必ず、果たすために。



 最後に残った涙の線をそっと唇でなぞり上げられ、間近で視線を交わす。どんな表情をこちらに見たのか、鳶色の瞳がほっと安堵の色になごんだ。
「泣いてる日向も可愛いけど、今のはちょっと心臓に悪かったな……。どうせならさ」
「ん、ッ」
 脚の間に降りた手に夜着の上から性器を刺激され、ひくんと身が跳ねる。
「こっちで、啼いてほしいかな」
「だ、ぁほっ」
 屈託なく言われていつもの悪態をつくが、興を削いでしまったのではとよぎった不安を一蹴されて、本心ではこちらも安堵していた。途端、ぶり返すように熱が上がるのだから、まったく春のこの身は正直だ。
 にこやかに笑みながらの腕に肩を押され、そのまま後ろへ共に倒れるかと思えば、寸前で腰を掴まれてくるりと返され、咄嗟に付いた手と膝で四つ這いの格好になる。振り向くより早く、覆いかぶさってきた胸と両腕に身を囲われ、裸の背に音立てて口付けが落ちた。濡れた舌が骨に沿って腰から肩の間までをゆっくりと這い登る。
「ん、あっ……」
「俺、日向の背中好きだなぁ」
 まっすぐで、いつもぴんとしてて、すげー綺麗だ、と口ずさむように語る間にも、唇と舌が肌の上を遊び、ぞくぞくと寒気にも似た快が呼び起こされていく。
「もちろん、これも」
 笑いぶくむ声とともに腰を滑った手が猫の尾に伸び、根元をゆるく握る。撫で上げられて反射的に逃げかかった次の間、不意に強い刺激が走り、ひっ、と喉が鳴った。尾の先端を捕らえたのは、鋭い狼の牙だった。
「あっ、ァ、や」
 普段おいそれとさらし触れさせることのない尾、ことにその末端はただでも刺激に弱く、食まれ、舐られるたびにびくびくと背が震える。以前はここまでではなかったのに、と思うと、本来そうした部位ではないはずだけに余計に恥ずかしく感じるのだが、やめろと言っても可愛い可愛いと戯れ言が返るのみになるのが常だった。
「なぁ日向、今日来たの誰だったんだ?」
「あ……?」
 やっと尾を放した口で唐突に問われ、朝の、と続く言葉で今日の来客のこととかろうじて理解する。いきなりなんだと思いながらも、落ち着ききらない息の下から小さく答えた。
「……山向こうの、釣鐘淵のおっさんだよ」
「ああ、あの狸のか」
 ぽつりと言うなり、今度は横からわし掴むようにした手で腰から胸を撫ぜ上げてくる。
「んっ」
「やっぱり誰かに代わるか断るかしてもらうよう頼んどくんだったな。日向と話してる間にどんな目で見られてたのかって考えたら、すげー嫌な気分だ」
「どんな目、って」
 妙なことを言うなと抗弁しかけるが、にじり上がった長い指に胸の頂きを捏ねられて、声は吐息に消えた。
「そんな顔して、こんな匂いさせて……襲ってくれって言ってるようなもんなんだから、ほんとにもう少し気を付けてくれ」
「そん、」
「たとえばさ」
 言い差した声に構わずぐっと背に乗りかかってきたかと思うと、木吉は日向の肩口に顔を寄せ、うなじにやわらかく牙を立てた。あ、と息の抜けた声が漏れ、既に崩れかけていた腕が完全に折れて、敷布に半身が沈み込む。
「あっ、あ……やだ」
「ん……ほら、こうされたら、もう動けないだろ」
 どんな人や獣であれ急所となる部位だが、こと猫においては、こうして後ろ首を咥えられた時の力の減退が顕著だ。それは子を運ぶ親が見せる行動であり、また――情を交わす折、雄が番いに起こす行動でもある。された側が相手に従順に身を委ねる本能的な習いであり、獣の性が強まるこの季節、日向もそれに例外ではない。甘噛みの刺激となお続く胸への愛撫に、敷布に押し付けた口からくぐもったあえぎが漏れ出る。
「ん、うぅ、ぁっ……」
「こんなことほかの誰かにされたら、こんな可愛い声聞かれたらなんて思ったらさ、俺、どうにかなっちまうよ」
 ――日向は俺のなのに。
 首筋に埋めたままの唇が紡ぐ空気の震えさえ身の内を騒がせ、日向はずくんと込み上げた熱をやり過ごしてから、布団の上で顔を振り向かせて後ろを見上げ、口を開いた。
「させねぇし、しねぇ、よ……俺だって、お前、だけ」
 ほかの誰にも何にも、代わらせることなどできない。たどたどしく幼い恋の始まったあの日から、春の喜びを分かちたいと願うのは、ただ一人だけ。
 短い言葉に、しかし心は初めから伝わっていたのだろう、木吉は目を細めて微笑み、
「……うん。そうしてくれ」
 俺もお前だけだから、と低く囁き、胸を抱く手を揉み込むように動かす。
「そこばっか、やめ……」
「ああ、すまん。……こっちがいいな?」
 言うなり手を引き、かろうじて帯に引っかかっている着物の裾を割って、既に反応を示していた日向の性器を握り込んだ。急の直接的な刺激に、浮かせた格好になっている腰がびくりと跳ね動く。ゆるゆると扱かれ、込み上げる声を殺しながら敷布を掴み締めた手に、木吉のもう一方の手が上から重なってきて、床に縫い止めるようにぎゅっと握られた。
「ア、んんっ……、あ、ぅ」
「可愛い、日向」
 興奮のにじむ声が耳に直接送りこまれるように落ち、震える我が身を守ろうとしてか、無意識に尾が横から腹の下に回り込む。と、
「捕まえた」
 芝居めかした軽い声とともに指に掴まれ、次の瞬間、陰茎をやわらかな和毛が撫でた。ぶわりと驚きに膨らんだ毛の感触に、それが自分の尾先であることを知る。
「え? な、なにっ……」
「一緒に可愛がってやろうなー」
「ばか、やめっ、……あぁッ」
 制止の声を聞かず、木吉は長い指の輪の中に日向の性器と尾の先端をまとめて握り、擦り合わせるように扱き始める。強烈な性感に首が反り上がり、喉の奥から高いあえぎがこぼれた。
 相手の腕を支えに腰だけを少し上げた格好でうつぶせに押さえ込まれ、手を固く床に縫われ、首裏に愛咬を受けながら、己の尾で自涜をしているような、倒錯した景色。圧倒的な被征服の感覚は、しかし常なら幾ばくかは覚えるだろう屈辱と羞恥より、強い愉悦と喜びをもたらし、熱を沸き上がらせる。我が心への呆れの言葉は、身を灼くような快感の波に呑まれて消えていった。
「あ、あぁ、や」
「達っていいぞ、日向」
「ふっ、う……ん、んっ、ぁあっ……!」
 追い立てるように責められ、首を甘く食まれ、背を震わせて手の中に達する。荒い息に上下する肩に口付けが降り、ちゅ、と音立てながら首筋をたどって、耳元に名を囁き落とした。
「……日向」
 情慾に濡れた声。敷布に沈んだ腰に昂ぶりを押し当てられ、淫らな期待が喉を鳴らす。
 頷き、名を呼び返すつもりで吐き出した息は、みゃあ、と番いを恋い誘う猫の啼き声にしかならなかった。



 ぐちゅぐちゅと、香油に濡れた指の立てる音が閨の薄闇に響く。
 淫猥な水音にすら心煽られながら、布団に押し当てた口で声に変わりかかる息を潰し、断続的に襲う快感をやり過ごす。後孔を押し拡げる指が二本に増えて少しのところで、首をひねって後ろを見上げ、かすれがすれの声を紡いだ。
「木吉、もう、いい……から」
「けど、まだ……」
「いい、って。早く、」
 欲しい。吐息混じりに続けた言葉に、指の動きがひたりと止まる。はあ、と諦め半分、のぼせ半分の息の音が背に落ちた。
「少し、動かすな」
 声とともに指が引き抜かれ、一瞬浮いた身体が支えの腕の上で横へ転がり、背から布団に落ちる。床から天井へ移った視線の先で、何かを堪えるような引きつった笑みと目が合った。
「……妙な痩せ我慢、してんなよ」
「はは。いやぁ、今日の日向が色気ありすぎてな……」
「ダァホ」
 顔を横へそらしかけるのを頬を包む手に止められ、唇が重なる。ついばむように離しては合わせながら、膝裏に潜り込んだもう一方の手で、脚を高く差し上げられた。熱い欲の先端が後ろにひたりと当たり、無意識に腰が揺れる。
「挿れるぞ」
「ん」
 頷きに一瞬の間を置き、熱の塊が押し入ってくる。気遣わしげな呼びかけに合わせるように息を詰めては吐きをくり返しながら、秀でた体格に見合う大きさを受け容れる。ごくゆっくりと腰が進み、やがて肌が合わさって、根元まで全て沈み込んだのを教えた。そのまま少し動きを止め、弾む吐息を融け合わせる。
「熱いな……」
 狼のうなり声にも似た低い音が耳をくすぐる。内に秘めた獰猛な獣の欲望を感じ取り、どくりと波立つ熱に浮かされて後ろの雄を締め付けると、くっと木吉が息を呑んだ。喉仏を上下させる逞しい首に見入る。
「あ……危ない、挿れただけで達っちまうとこだった」
 やらしすぎるぞ日向、と理不尽なことを言われるが、反駁する前にゆるゆると腰が動き始め、何も返せなくなった。

「っう、ア、あぁっ、……や、ぁっ」
「んんっ……」
 ゆっくりと始まった抽挿はすぐに激しさを増し、肌のぶつかる音とあふれた精の混ざる卑猥な水音、そして互いのかすれたあえぎに聴覚までもが侵されていく。貪るように奥を穿たれ、逃げ場なく押さえ込んだ腰を縦横に揺さぶられ、日向は快楽に溺れるまま木吉の背に抱きすがり、あえかな声を上げ続けた。甘い啼き声は狼の慾を煽り立て、さらに責めを苛烈にさせる。
 身を焦がす焔のような熱は、十五年の苦痛が嘘のように、喜びだけを満ちさせる。望み、望まれ、重ね合う身と心に、穏やかな幸いの灯をともす。
「は、ぁ、……日向」
「木吉、……木吉……っ」
 名を呼ばれ、好きだと囁かれ抱き締められるごとに、博愛の大神を独り得ているという優越感と、そんなさもしい自分の心への失望や罪悪を感じていた日も、かつてはあった。釣り合わない器に悩み痛んだ日もあった。今は、それでも良いと思える。時に傷付き、時に別れても、道の途中に深い哀しみが訪おうとも、ありのままの己で、この存在を愛し続けられればいい。そうして、共に時を重ねていければいい。
「あっ、あ……、木吉、もう、」
「ん、俺も……」
「やぁ、あ、っ……あ、んっ、……ああぁっ」
「く……日向っ……」
 ひときわ強く深く突き上げられ、目蓋の裏に明滅する光に呑まれるように、高みに昇り詰める。中を満たす熱がどくりと脈打ち、精が注ぎ込まれた。
 痙攣するように震える身体を撫でられ、にじんだ涙を舌にすくい取られ、ゆっくりと目を開く。
「気持ち良かったか?」
「……ん」
 頷けば、安堵の喜色とともに、くすぶる焔が瞳に揺れた。ふっと笑い、顎を上向けて口付けをねだる。
 春はまだ、始まったばかりだった。





 遠くさえずる鳥の声と、部屋に揺れる風に目を覚ました。
 首を回して見やると、ぼんやりとした視界に風の起きた元とおぼしき臙脂の着物が映る。衣擦れの音を立てて帯を締めた背が振り向き、あ、と声落とした。
「すまん、起こしたか」
「いや」
 もう朝だろ、と返して寝返りを打ち、右半身を下にして顔と身体をそちらへ向かせる。欄間の向こうの明るさを見ると、昼近いとまでは行かずも、もう陽はだいぶ高く昇っているようだ。
「出るのか?」
「ああ」
 春とは言え全てがそぞろの情の中にあるわけではない。さすがにこの数月の多忙は、安穏と寝ているばかりを許してはくれなかった。対の主神として手を貸せずに済まないとは思うが、この時期に外に出ようとするほうがよほど咎められるのだから仕方がない。まあ、事が終わればじっくり労をねぎらってやるぐらいのことはするつもりだ。
「食事は部屋に運ぶように伝えてあるから、ちゃんと食ってくれな」
「おう」
 布団に潜ったまま頷く。横着でも身を起こす気力は湧かなかった。夕餉の時分から閨へ入って夜通し睦み合い、落ちるように寝入ったのは、始まりには天頂にあった上弦の月もとうに沈んだ頃であったようだ。それこそ房事のために身のととのえられたこの季節でなければ、まだ口も利けなかったに違いない。
 気だるさを纏いつかせた日向を目を細めて愛しげに見、枕辺にしゃがみ込んだ木吉が腕を伸べてくる。顕現したままの耳ごと、頭を大きな掌に優しく撫でられ、心地よさにくるくると喉が鳴った。
「じゃあ、そろそろ――」
 言って立ち上がりかけた足が、枕の先に視線を滑らせたところでぴたりと止まる。あれ、と首が横に傾いだ。
「日向、ここに俺の上衣なかったか?」
「んー?」
 いつもの黒の、と言ってあたりを探すのに、
「これだろ」
 かぶっていた布団の中から、腕に抱えた直衣を取り出し示した。
「ああそうそれ……って、え? うわ、何してんだ日向。ちゃんと畳んでおいたのに」
 ぐちゃぐちゃにしちまって……と困り眉を寄せる。伸ばされた手が皺になった袖を引くが、日向は抱える腕をゆるめなかった。つんと張った布に木吉が目を瞬かせる。
「日向?」
「んー」
「いや、離してくれねーと着てけないんだが」
「ほかのあるだろ」
「あるけど……」
 戸惑いの視線を向けられ、小さく口を尖らせて答えた。
「貸しとけよ。別にいいだろ、何日かぐらい。……これがねーと、お前の腕にくっついて行きたくなっちまうんだから」
 呟くように言って、抱え直した絹地に頬をすり寄せる。数秒の間のあと、ぱしん、と音がし、見上げると、木吉が片手で目を覆って天を仰ぐ妙な格好をしていた。うめくような声が指の間からこぼれる。
「……仕事行きたくない」
「なんでだよ。行けよ」
「俺の嫁が可愛すぎて出かけたくない……」
「嫁って言うな」
 いいからさっさと行ってこい、と布団から足を出して軽く蹴ってやる。ひでぇよ日向と泣き言を落とされ、だから、と続けた。
「さっさと行って、ちゃっちゃと仕事済ませて、さっさと帰ってきてさっさと構いやがれってんだ。……だぁほ」
 声だけはつんけんとした言葉に木吉がぽかんと口を開ける。ああこれはまた終わった後に死にたくなるのだろうな、とのちの日の自分に思いを馳せながら、半ば開き直りの気分で相手の反応を待った。
「日向……」
 ぎこちなく声が落ちる。
「んだよ」
「出る前にちょっとだけ構わせてくれ」
 言いながら、返事を待たずに差し出した手で日向を起こしにかかってくるので、仕方ねぇなと自分から布団を抜け、広げた腕の中に倒れ込んだ。胸深くに優しく抱き締められ、香る新緑の気にうっとりと目を伏せる。
「もう一回寝ちまってもいいぞ。ちゃんと布団かけてくから」
「寝ねぇよ」
「今にも寝そうなんだが」
「寝かすなよ。そこまでは見送る……」
「そうか」
「おー」
「なんか物凄いお預け喰らってる気分だ」
「ざまぁ」
「……夜は覚えとけよ、日向」
 埒もないやり取りをいつもの調子で交わす。今日の昼も長く二度寝をしてしまいそうだったが、きっともう、哀しい夢は見ないだろう。
 なんでもない言葉を、時間を、一日一日積み重ねて、自分たちは歩んでいく。並んだ足跡を振り返れば、迷い乱れて離れては近付き、平坦でまっすぐな線などにはならないのだろうが、一人では描けぬそのひとつひとつが、共に在るという幸福の証左だ。
 いつかはそれを眺め語り合ってみるとして、今少しばかりは、立ち止まってこの広い胸に身を寄せていよう。春の宴に酔いしれた頭では、足がもつれてその場に転ぶばかりだ。
「なーに笑ってんだ?」
 言いつつ自分も笑ってつんと鼻先をつついてくるので、返事に代えて口を寄せ、ゆうべの仕返しとばかりに、長い指の背に甘く牙を立ててやった。


―了―
“BG by balloon flower 桔梗――変わらぬ愛”

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