こいはじめ


一.

 いつからここに在るのか、己でもしかと語れはしない。
 種が大地に芽を吹いた日か、個としての名を得た日か、初めて獣と言葉を交わした日か、初めて人に崇敬を示された日か。いざ問われればここと示すに足るものはいくつかあれど、結局はそのどれも後から眺めて切り取られた境に過ぎない。何に気付き足を止める間もなく、たゆまず連なる時の中にただただ在ってきた。我が分け身たる古樹を取り巻く森と、森を抱くこの地を、そしてそこに住まう人や獣たちを、愛しみ、護る。その心ひとつを胸に、幾百年、大樹の神・木吉は世に在り続けてきた。
 日々は穏やかで、麗しかった。誠凛という清らなる名を与えられた土地に暮らす者たちは、みな自分に深い敬意と親しみをもって接してくれた。木吉もそれに応え、彼らを一途に愛した。力有る神の恩寵のもとで、彼らは出会い、別れ、時に諍いの波を立てながらも分かち合い愛し合い、命の糸を紡いでいった。いくつもの生が始まり、終わり、そしてまた始まるのを、木吉は我が大樹の上からじっと見つめ、見守っていた。
 そうして過ごすうちに――これもまたいつからであったのか、もはや記憶にとどめてはいないが――木吉にはひとつの習いができた。夜、土地の子らが憧憬とともに称える巨躯の獣の姿で大樹の枝に登り、空へ咆哮を上げるのである。夜闇を裂き、妖魔どもの身を竦ませる声を、人々は雄々しき神狼の遠吠えよと語り、褒めそやした。
 なぜこうした習いを始めたのか、自身にもわかっていなかった。ただ心の赴くまま、形にならぬ思いを謳い上げるように、数夜ごとに吠え声を上げ続けた。
 それからまた数多の月日が流れ、獣の咆哮が土地の者の口にものぼらぬほどの常日のこととなって久しいある年。木々吹き抜ける風に涼の色が混じり、仰ぐ空が高く広がり始めた秋近しい頃。
 彼に出逢ったのは、そんな日の始まりの朝だった。


      ◇


 その日、木吉は拝殿に寄って持ち出した供物を腕に抱え、森の南の外れへと足を急がせていた。
 森に入り込んだ妖魔から一匹のイタチの子を助けたのは、五日前のことだった。力の弱い妖魔はすぐに退けられ、幸い命にかかわるまでではなかったが、イタチは後肢に傷を負い、動けなくなってしまった。人や獣の生き死には自然の摂理であるとは言え、妖魔に襲われたものとあっては見過ごすことはできず、木吉は傷の手当てをしてやり、しばらく様子を見ることに決めた。
 怪我は順調に治る様子を見せたものの、どう声をかけてもイタチは繁みの下にうずくまったまま動こうとせず、持ってきてやった木の実や果物などの食料にも口を付けなかった。傷が癒えても食べなければ動けはしない。日ごとに弱る小さな命を前にあれこれと苦慮しながら見守り続けた数日。今日こそは、と通い慣れた道を早足に進み、イタチの隠れる繁みまであと少しというところで、木々の向こうに森のものではない色彩を見とがめ、木吉は足を止めた。
 草葉の緑に浮き出すように、白い影がうずくまっている。数歩近付いて枝の隙間から窺うと、それは繁みの前に小さくしゃがみ込んだ、狩衣装束の人の背であった。
 一瞬土地の人間かと思いもしたが、街道から拝殿にかけて道のととのえられた森の北部はともかく、南のこの辺りはいくら外との境が近いとは言え、ただの人が容易に踏み込んでこれるような場所ではない。木霊か何かだとすれば気配がはっきりとし過ぎている。つまり――と考えを流しながらさらに一歩足を踏み出すと、袖をかすめた枝が跳ね戻って、葉擦れの音を立てた。しゃがんだ人の背が振り向き、視線がかち合う。
 若い男だった。木吉を見て驚いたように目を開き、素早く立ち上がってその場を後にしようとするのを、慌てて呼び止めた。
「あっ、待ってくれ!」
 森のさらに南、外へ続く方角へと向かいかけた足がぴたりと止まる。追うように繁みの前へ出て、逡巡を漂わせる後ろ姿に言葉を続けた。
「驚かせてすまん。俺は木吉。この森に住んでるんだ」
 怪しいもんじゃないぞ、と続けると、狩衣の背がゆっくりとこちらに振り向き、
「……知ってるよ。あの樹の化身の神だろ」
 そう言う。小柄ではないが、丈の割にはやや細身にも見える、木吉よりひと回り小さな立ち姿。ぴんとまっすぐに伸びた背が印象的だった。良く知ってるな、と感心を口にすると、このへんで知らねぇやつがいるのかよ、とぶっきら棒に返された。
「お前も神霊だろ?」
「一応な。……いや、あんた何か用があったんじゃねぇの」
 問いを重ねかけた木吉を遮るようにして、ちらと繁みに視線を落とす。あ、とそれを追う形で見やれば、小さな獣の目が葉の隙間からじっとこちらを見上げていた。
「そうだった。……あ、ひょっとしてさっきはそいつに何かしてくれてたのか?」
 繁みの下に手を伸ばして、何事か呟いているように見えたから、術でも施そうとしていたのかもしれない。邪魔をしてしまったかと思って問いかけるが、見ていただけだと返事は簡素だった。
「何日か前に妖魔に襲われてな……怪我はほとんど治ったみたいなんだが、動いてくれないんだ。飯も食べないから弱っちまって」
 経緯を語りながら、手にしていた目刺しの魚を紐から外し、イタチの前に置いてやる。食べるよう示して少し待ったが、獣は興を持つ様子も見せず、ただじっと同じ姿勢でうずくまっているだけだった。
 これも駄目か、と息をつく。常食のものとはいえ木の実では気が進まないのかと品を変えてみたのだが、なかなか期待通りにはいかないらしい。小さな身体に触れることを拒まれはしないから、気を許してくれてはいるのだろうが、ならばなぜ受け入れてくれないのか、理由が掴めなかった。

「――お前さ」
 どうしたものかと悩ませ始めた頭の上に、横から声が降る。すっと足がこちらへ進み、隣にしゃがんだ。
「近くに置いてやりすぎなんじゃねぇの。こんなん適当に投げてりゃいいんだよ」
 横から伸ばした手で魚を取ると、木吉が止める間もなく言葉そのまま後ろへ放り出してしまう。慌てて行方を追えば、垂れ下がった枝に当たり、繁みから一間ほど離れた木の根本に落ちた。
「で、あとは放っとけ」
 言って立ち上がる男に、けど、と声をかける。
「こいつ、怪我をして……」
「ほとんど治ってるって言ったじゃねぇか。なら、あとはてめぇの気の持ちようだろ」
 もう手を貸せるところじゃない、と断じ、歩き出して行ってしまうのかと思いきや、少し離れた大木の幹に背を預けてどかりと座り込んだ。そこはちょうどイタチの潜む繁みと魚の落ちた地面、どちらも視界に捉えられる場所で、意図を察した木吉はすぐにその後を追った。
「隣、いいか?」
「どーぞ」
 ぞんざいに言いつつ、既に木の中心から身を半分ずらしている。ひとつ礼を言い、空いた地面に腰を下ろした。


 それから一刻あまり、会話もなく座して待ち続けた。
 繁みに目を配りながら、木吉は密かに隣に座る男を量っていた。人と霊と獣の気が入り交じる力は妖魔のまやかしなどではない正真のもので、確かに自分と同質の存在であることを示していた。それも地霊の域をはみ出した、という程度ではなく、“真の神”と言って差し支えのないものだ。
 自分で「この辺の」と語ったからには、今日だけよそから流れてきたというわけでもないのだろう。誠凛はまだ神域としては若い土地で、名のある神と言えばそれこそ木吉ぐらいのものであったから、改めて考えれば非常に意想外の邂逅だった。
 ふつふつと湧いてきた興味にかられ、何か問いをかけようと口を開いた、その時。
「あっ」
「お」
 繁みの下から覗いた獣の顔に、二人声を重ねる。イタチはそっと首を伸ばし、小さな鼻をひくつかせてから、周囲に強い警戒を示しつつ非常にゆるやかな動作で葉の下から這い出てきた。ゆっくりゆっくりと、後肢を少し引き、幾度か休むように止まりながらも、一歩一歩迷いなく進んでいく。たっぷりの時間をかけてたどり着いた木の根本で、何かを報せるようにきぃ、とひと声鳴いてから、落ちた魚に鼻先を寄せ、まず一口身をかじり、また間をかけて呑み込む。そうしてのち、イタチの子は今ようやく自らの空腹を思い出したとでも言うように野の獣の顔を取り戻し、あとを一心に食べ始めた。
「良かった……」
 安堵に胸をなで下ろし、喜びを分かつべく隣を振り向くと、男は既に地面から腰を上げ、場を後にしようと足を返しかけているところだった。
「あ、おい」
 驚いて声を上げると、顔半分だけをこちらへ向けて、
「飯も食ったし、もう大丈夫だろ」 
 じゃあな、と去って行こうとする。後を追おうと立ち上がって足を踏み出しかけた木吉だが、せっかく立ち直ってくれたイタチを今放り出していくわけにはいかないと思い直し、せめても、と木立に入りかける狩衣の背に呼びかけた。
「なあ、名前だけ教えてってくれねーか?」
 足が止まり、は、と怪訝な表情がこちらを向く。
「俺の名前なんて……」
「頼む!」
 拒否の言葉を遮って、がばりと勢いよく頭を下げた。顔は見えないが、空気を通して驚きが伝わってくる。土地の大神にそんなことをされれば当然だろう反応も気に留めず、そのままの姿勢で待っていると、かすかな息の音とともに、声が落ちてきた。
「――ぅが」
「え?」
「日向」
 短かな音が名乗りだと気付くまで、少し時間がかかった。ひゅうが、とおうむ返しにした言葉に小さな頷きが戻る。
「ひゅうが、日向か。いい名前だな!」
「……普通だろ」
 ふいとまた前へ向き戻り、足が進み始める。その背へ向かって最後にもう一度声を投げた。
「日向、ありがとなー!」
 黒髪の頭はもうこちらを振り返らなかったが、片手が上がり、応えるように一、二度振れた。木吉はそれでも満足を覚えて頷き、狩衣の精白が木々の陰に消えるまでを見送ってから、繁みへと身を返した。


 翌日。早朝の見回りを終えて、念のためもう一度イタチの様子を見に行こうと森を進む道の途中、樫の老木を回り込んだところで、思わぬ姿に出くわした。
「日向?」
「げっ」
 気付いて声を上げた途端、白い衣が翻り、別の方向へ駆け出していこうとする。咄嗟に腕を伸ばして着物の後ろ衿を捕まえると、身がおかしな具合にねじれたのか、ぐえ、と引きつれた声とともにたたらが踏まれ、足が止まった。
「てめ、何しやがんだ!」
「す、すまん。でもこっちに行くところじゃなかったのか?」
 言って自分が、そしておそらく相手も目指していた先を指差す。ぐっと口が結ばれるのを見て言葉を重ねた。
「イタチを見に行くつもりだったんだろ? 俺もだから、一緒に行こーぜ!」
 笑み浮かべて誘う。対照的な渋面が困惑したように視線をさまよわせ、それでも木吉が言葉を引かないことをわかってか最後に諦めをにじませてから、仕方ねぇな、と息落として答えた。

 昨日の初めまでとは打って変わって、イタチは生気を取り戻した様子を見せていた。繁みの下には自ら拾い集めたのだろう木の実が転がっていたので、一応と懐に入れてきた食料は置かずに持ち帰ることにした。
「妖魔にやられたから毒や邪気が残らないか心配だったんだが、大丈夫そうだな」
 これで狩りができるようになればもう心配いらない、と頷く木吉の横で、そうだなと相槌が落ちるとともに、ざ、と草鞋が向きを変える音がする。
「じゃ、俺はこれで――」
「あっ、待てって」
 揺れた着物の、今度は袖に手を伸ばす。びん、と突っ張った狩衣の隙間から腕が前へ抜け、不格好に片肌を脱いだ状態になった。
「お前またっ……袖取れるだろーが!」
「狩衣はもともと袖取れるだろ?」
「後ろは付いてるよ! ……じゃなくて!」
 なんでいちいち止めようとすんだ、と怒声を落とされる。木吉からすると逆になぜそそくさと去って行こうとするのか、止めてそれほど怒るのかが今ひとつわからなかったのだが、脱げた袖を掴んだまま答えた。
「こいつを心配して来てくれたんだろ? せっかくだから二人で最後まで見てやろうぜ」
 俺、明日も同じぐらいの時間に来るから、と言うと、眉間の皺が深くなる。
「勝手に決めてんじゃねーぞ。なんで俺が」
「あ、もしこの時間が無理なら日向の都合に合わせるぞ」
「だからそういう意味じゃ、……あーったく!」
 声を荒げてがしがしと頭を掻き、数秒の間を置いてから、
「……わかったよ」
 小さく了承が落ちた。いかにも渋々といった調子だったが、そう言ってくれるのを木吉はどこかしら予想できていたように思った。妙に持って回った言動をするのは良くわからないが、きっと悪いやつではない。昨日の助言にしてもそうだし、朝早くからこの場所に向かっていたこと、そして(木吉は賢明にも指摘しなかったが)袖を引いたときに覗いた、懐の木の実が何よりの証拠だ。
 単純に、少し話をしてみたい、頼めばしてくれるだろう、と思った。それだけのことだったのだが、了解を得て、木吉はそうして立てた「予想」を超えて、浮き立っている自分の心に気付いた。
 今朝はこれから用があるからと、今度は言い訳でもないらしいことを言うので、じゃあまた明日、と笑って手を振る。約束ぶくみの言葉にまたため息が落ち、それでも最後にはああと言って振り返された手を、どこか高揚した気分で見送っていた。



 そのまた翌日から、交わした言葉の通り、木吉と若い神霊の男――日向は、毎朝同じ時間にイタチの繁みへと通った。
 初日と同じ木の前に並んで腰を下ろし、初めは繁みを見守っているだけだったが、イタチの様子はもう不安なしと見て、木吉が口を開く形でぽつりぽつりと話を交わし始めた。まず日向のことについて色々と訊ねてみるも、どうでもいい、だのそんなこと訊いてどうするんだ、だのと、返る答えはあまり芳しくなかった。結局わかったのは、木吉の推測の通りこの土地の守護として生まれた神であること、これまでは国境のあたりにいたが、今年から森を抜けた先に住まいを移したことぐらいだった。
 ずっとそんな調子なので、仕方なく話題を木吉自身のことや森で起きた出来事に移すと、今度はごく普通に興を示してくる。おかしな話には呆れて、納得がいかないようなら難しく眉を寄せ、疑問に思えば問いかけもしてくる。だが打ち解けてくれたのかと話の矛先を戻せば、また気なさげに口を結ぶのだから、一体どういうからくりなのかと戸惑いを覚える場面もあった。この土地のものは人や獣にしろ精霊たちにしろ、みな木吉の言葉に素直に耳を傾け声を返してくれる者ばかりだったから、日向の示す言動は不可解を超えて奇妙の域だった。だが、不思議に悪い心地はしないのだ。反対に、どう問えば話してくれるのだろう、どう話せば笑いを返してくれるのだろうと、謎かけを解くような少し愉快な気分すら湧いてくる。
 生来おっとりとした木吉に対し、やや短気で神経質めいたところもあって、性格の面では合わないことこの上なかったが、そうして日向と話をするのは楽しかった。一日二刻にも満たない短い時間をそれ以上に一瞬に感じながら、あっという間に四日を過ごし、五日目の朝。先に到着していた日向に手招かれて繁みの前へ歩を進めると、イタチが事切れた二羽の鳥を地面に並べて二人を見上げていた。
「そうか。お前、狩りができるようになったんだな」
 良かったな、と語りかけると、きぃ、と答えるように鳴き声が上がり、イタチは一羽ずつくわえた鳥を木吉と日向それぞれの足元に置いた。目瞬きして見つめる間に二人を大回りにして駆け出し、またひとつ声上げてから、ひょいと身軽く低木を飛び越えて、小さな身体は森の奥へと消えていった。

「最後に礼を言ってってくれたのかな」
「だな」
 頷き合い、置き残された鳥を拾う。満足げに目を細めるのを横に見て、はい、とその手の上にもう一羽の鳥を乗せた。
「……なんだよ?」
「二羽とも日向がもらってくれ」
 言えば、怪訝な目が見上げてくる。あ、と気付いて声落とした。
「ひょっとして肉が食えなかったか?」
 話に確かめたことはないが、日向の神体は獣だろうと目星を付けていた。だが、獣だとしても肉を食べない種族かもしれず、もし予想と違い植物や器物を神体とするなら、ほとんど食べ物を摂らない者もいると聞いたことがある。そう思い直しての問いに、日向はしかしあっさりと首を振った。
「ちげーよ。なんでお前の分まで俺がもらうんだ」
 言って手の中の二羽の鳥を示す。木吉は少し頭の中に考えをまとめてから、答えた。
「あいつが元気になってくれたのは、日向のお陰だと思うからさ」
 初めてイタチの子に出会ったあの日。本当は、万事が幸いだったわけではなかった。木吉が駆けつける前に、妖魔は既に別の一匹のイタチを殺してしまっていた。
 篤く葬ってやった兄弟の墓のそばから動こうとせず、深く傷心してしまった小さな獣に、生きる力ではなく、生きたいと思う力を与え、思い出させてやったのは、間違いなく初めの朝に日向が示した叱咤の言葉と行動だった。
「別に俺は……」
「俺はさ」
 反駁を遮り、言う。
「あいつが凄く傷付いてたから、俺より小さくて弱いから、大事にしてやらなきゃ、俺が守ってやらなきゃって思ってたんだ」
 けど、違ってたのかな。ほつりと落とした言葉は自分で思った以上に弱く、すぐに風に散り消えた。
 そのままイタチの座っていた繁みの下の地面を見つめていると、落ち着かなげに頭をかき回す音の後に、ひそやかな声が落ちてきた。
「……違っちゃいねーだろ。いいんじゃねぇの、お前にはそうしてやれる力があるんだから」
 守ってくれようってのを悪く思う奴もなかなかいないだろ、と言う。
「まあ今回みてぇに場合によりけりってのはあるにしても、あいつを妖魔から助けたのはお前で、傷の手当をしてやったのもお前だろうが。感謝してるからこいつを寄越したんだろ」
 ほら、せっかくくれたもんを無駄にすんな、と一羽をこちらの手に押し込むように戻してくる。その顔を見て、あ、と気付いた。初めの朝、イタチの前にしゃがみ込んでいた時に見た呟きと、今の唇の動きが重なっていたように思えた。
 じわりと胸の底が温かくなる。頭に巡る様々の言葉をかき分けて、
「ありがとうな、日向」
 結局それだけを口にした木吉から、日向はふいと顔を背け、ややあって、おう、とごく小さく返事を打った。これは気を悪くしたのではなく、照れを隠している仕草なのだと五日のあいだに学んでいたので、問いをかけはしなかった。代わりに、ほの赤く染まった頬の線を、何か貴いものを覗くような心地で見つめていた。



 じゃあ、と別れの手を上げる日向とのあいだに翌日の話は出なかった。イタチが良くなるまでと言って始まった数日で、それ以上の理由は互いになかったのだから、当然と言えば当然だったのだが、それが妙に惜しく思えて、最後に言った。
「なあ、次に会ったらまた話しような」
「は?」
「日向と話すの、楽しかったからさ」
 な、と言い重ねると、また眉間に皺が寄せられる。これはどういう意味だろうか、と判じる前にふっとほどけ、
「会ったら、な」
 ひと言だけを場に置き残し、袖を軽く風に翻して、まっすぐに伸びた狩衣の背は後を振り返ることなく去っていった。
 ほんの短い言葉でも、特別な理由のない約束を確かに交わしてくれたのが嬉しく、噛みしめるようにしばらくその場に立ち残ってから、機嫌良く自分の帰路へと向かいかける。と、進めた足先が何かに当たり、軽い音が地面を跳ねた。視線を落とし、奥へ飛んでいった影を追うと、輪型に編まれた籐細工が草の中に転がっていた。見覚えがある。確か、日向が腰に提げていた物だ。拾い上げて確かめると、帯に吊していたのだろう飾り紐がすり切れてしまっていた。
「しまった。今からじゃ追いつけないな」
 森の中ならばともかく、外に出てしまえば木吉の力でも位置を把握しきれない。今日は昼からこちらの用事があって、今から行って帰ってくるには、日向の居場所を探す手間を考えると少々時間が心許なかった。
 手にした籐細工は相当に使い込まれていたようで、あちこちにほつれと補修の跡がある。きっと大事な物なのだろう。見ないふりをして置いていくには忍びない。
「……明日にするか」
 そう決めて細工を懐にしまい、ひとまず場を後にする。面倒とは思わなかった。落とした言葉はむしろ、無意識の喜色に弾んでいた。


      ◇


 翌日、木吉は朝早くから起き出して森を出、日向の居場所を探し始めた。話に聞いていたのは「森を抜けたところに住んでいる」ということだけで、言いぶりからしてそう遠くではないのだろうと思えたが、方角すらわからないのだから、足取りを追うのはなかなかに難しかった。少し古風な身なりをしているとはいえ、それ以外は特別に目立つ外見というわけでもない。自分から明かさなければ神霊とも気付かれないだろう。すれ違う人や獣に人相や背恰好だけを伝えて訊ねながら、「見たことがある」程度の話を頼りに、しらみ潰しに場所を当たっていくしかなかった。
 そうして半日が経ち、そろそろ西の空が朱く染まり始めようかという頃、やっと狩衣の青年が家に入っていくのを見た、という村人に出会った。家の場所を聞き、礼を言って足を急がせる。教えられたのは森の南西の方角だった。どうやら森を南へ抜けたまでは良かったが、その後東回りに探し歩いていたので、運悪くここまでの時間がかかってしまったらしい。とは言えもうじきだと思えば無駄足も気にならなかった。
 
 村人に聞いたその家は、人の集落からは少し距離を置いた、川にほど近い林の前に建っていた。もともとは炭焼きの職人が住んでいたという簡素な家だ。どう声をかけようかと迷いながら近付くと、こちらから訪ねる前に正面の戸が開き、一人の男が姿を見せた。年恰好は近いが、日向ではない。篠懸に下駄を履いたやはり少し風変わりな出で立ちの男は、木吉に気付いておや、と首を傾げた。
「森の大神の……確か、木吉、だっけ?」
 黒髪をさらりと揺らして言う。木吉はひとつ目瞬きを返した。
「俺のこと知ってるのか?」
「まあ、有名だし。知ってると言うか聞いたと言うか」
 そう答える男も、どうやら同じ「真の神」であるらしい。この短い間に二人の神と出会うとは、自分の知らないうちに世は移り変わっていくものだ、と妙な感心を覚える。
「俺は伊月。……えーと、うちに何か用?」
 伊月と名乗った男は木吉の様子にまた首を傾げ、そう訊ねてきた。その言葉に引っかかりを感じて、逆に問い返す。
「ここは伊月の家なのか?」
「まぁ、そんなようなもんかな」
「その……俺、日向ってやつを探してきたんだが」
 知らないか、と訊ねる前に、伊月はあ、それ、と木吉が手にしていた籐細工を指差した。
「日向の弦巻だ。ゆうべどっかに落としたって騒いでたけど、拾ってくれてたのか。……はっ、鶴が弦巻をつるりと落とす……! キタコレ」
「……日向は鶴だったのか?」
 鳥には見えなかったなぁ、と首をひねるのに違うよと言って笑い、伊月は戸を後ろに閉めながら木吉に手招きを示した。
「日向なら裏にいるよ。ちょうど呼びに行くとこだったんだ」
 付いてこいということらしい。日向の居場所にたどり着いたのは確かなようだが、一体どういう状況なのだろう、と疑問を浮かばせつつ、木吉は家の裏手へ進む背を追いかけた。

 初めに五感に飛び込んできたのは、姿よりも音だった。静寂を切り裂く一瞬の風。高く鋭く響く糸の鳴り。それは、林を拓いて作られた修練場で、日向が放つ弓の弦音だった。
 弓手の袖を後ろへ落として立ち、息を静め、ごくゆるやかな、しかし刃のごとき鋭さを秘めた動作で腕を立て、弓を引き絞り、放つ。磨き抜かれた一連の所作は、門外漢の木吉にもその会得にかけた労と練達のほどがわかるほど鮮やかでうつくしく、澄んだ矢離れの音は楽士の奏のようにも聞こえた。凛と立ち構える姿を見て、常にまっすぐに伸びた背はこれが元なのかと、場違いながらも深い納得を覚えた。
 こちらへ背を向けた体勢のためか、自分の業に集中している日向は二人が近付くのに気付いていなかった。二の矢を放った日向に伊月が呼びかけようとするのを、木吉は横から手をかざして遮った。訝しげにこちらを向くのに、黙って首を横に振り示す。伊月は目を開いて意外の色を浮かべてみせたが、すぐに無言で頷いてくれた。


 陽が山向こうに入りかけた頃、腰の矢筒に伸ばした指が空を掴んだところで、日向はようやく弓を地面に降ろした。ひとつ深い呼吸を終えたのを見計らい、声を投げる。
「凄いな、日向!」
 突然の賞賛に、日向はぎょっとした様子で振り返った。一瞬前までの凛然とした空気を霧散させて、信じられないものを見るような顔で動揺の口を開く。
「お、お前、なんでこんなとこにいんだよ!」
「森にこいつを忘れてったから、届けに来たんだ。すげーな日向、格好良かった。一本も的から外れなかったな」
 笑って歩み寄り、手にしていた籐細工を差し出す。あ、と言って反射的に受け取った手が、はたと我に返って強く拳を握った。
「って、ずっと見てたのかよっ? すぐ声かけりゃいいだろうが! 伊月、なんでこんなやつ裏まで案内してんだよっ」
「いやだって、別にもう知り合いだろ? わざわざお前の物を届けに来てくれたっていうんだからさ」
 怒れる立場じゃないだろ、と諭され、ぐっと歯を噛む。そのまま視線をあちこちにさまよわせたあと、
「あ、……ありがとよ」
 観念したように上目で木吉の顔を覗き、ぽつりと声落とした。
「……ああ」
 頷き、またすぐに目をそらした顔を見下ろすまま、なんとなく言葉を続けられないでいると、伊月が場をとりなすように後ろから声をかけてきた。
「もう陽も暮れたし、木吉もうちで夕飯食べてかないか? 今から森に帰ったんじゃ遅いだろ」
「いいのか?」
「ああ。これから支度するとこだったんだ。日向、ちょっと蒔割ってきて」
「今からかよ」
「修練長引かせてるから遅くなったんだろ」
 伊月の言葉に、じゃあやっぱりもっと早く声かけてくれば良かったじゃねぇか、とごね直し始めた日向を自分も手伝うからと木吉が申し出て納得させ、三人は家への道を並んで戻った。


 囲炉裏を囲んで始まった三人での夕餉は、とても居心地良く愉快な時間だった。初めは木吉の同席に納得しかねるといった表情を作っていた日向も、空腹が満たされて細かいことを言う気分ではなくなったのか、膳の上の半分が消えた頃にはごく自然な態度で会話に加わっていた。
 日向にこの数日の話は聞いていたと語る伊月は、物柔らかく落ち着いた性格で、木吉の言葉にも(たまに妙な地口を飛ばすものの)真面目に答えてくれたので、これ幸いと考えたわけではないが、これまで日向から答えの返らなかったことなども再度訊ねてみようと思った。だが、さてどれにしようか、と考えてまず口を出てきたのは、
「二人はずっと一緒に暮らしてるのか? 仲がいいんだな」
 そんな、今日、ほんの数刻前に初めて浮かんだはずの問いだった。
 ずっとと言うか、と伊月が答える。
「一緒なわけじゃないんだよ。こっちは日向の家で、俺の家はもうひとつ隣。ただ食事とかは二人のほうが何かと便利だからさ」
 あっちは荷物置いて寝るだけ、と言う。確かに、食事をするだけなら三、四人入っても問題ないが、二人で暮らすと言うには少し部屋が狭すぎるようだった。
「俺と日向は分掌の神霊なんだ。一応俺のほうが眷属神に入るけど、生まれたのも一緒だから、まあ双子みたいなもんかな。俺が月夜の神で、日向は陽光の神」
「そうなのか」
「……て言うか、このへんのことも話してなかったんだ、日向」
 呆れたように言う伊月に、別に面白い話でもないだろ、と日向が無愛想に答えるが、木吉はそれを興深く納得して聞いた。どのような力を司るにしろ、彼が陽の気を強く宿しているのには気付いていたのだ。
(隣にいるとあったかいのはそのせいかな)
 大樹の化身であり、草木と生命の力を司る木吉にとって、日の光は心地良く、身の内の活力を呼び覚ましてくれる貴いものだ。ひとり頷き、横を見やると、狩衣を脱いだ単衣の上の頭ががくりと前に折れるところだった。
「日向?」
「ふぁ……」
 呼びかけに応えるようにして大きなあくびが落ちる。どうやら先ほどの無愛想は、機嫌の悪さではなく眠気から来ていたもののようだ。話に興じるうちにだいぶ夜が更けてきていたのだろうが、とは言え、まだ深夜というほどでもない。
「日向はいつも早く寝てるのか?」
 ごしごしと目をこすっている日向に問うと、揶揄と取られたのか、今度は本当の不機嫌を表にして、悪いかよ、と返された。
「いや、悪くないぞ。日の神だからなんじゃないのか? 伊月は眠くなさそうだし」
 そう伊月に言葉を向けると、まあ、と頷きが戻る。
「確かに夜には強いけど、昼に弱いってわけでもないよ」
「そうか。俺も陽が出てるほうが好きだけど、夜も別に問題ねーしなぁ。神体が夜型だからかもしれないが」
「ああ、狼だっけ?」
 言われ、初めに顔を合わせた時のようにぱちりと目瞬きを向けると、だからお前は有名なんだって、とこちらも同じ言葉で笑いを返された。
「このへんでも聞こえるし。“神狼の遠吠え”」
「ああ」
 頷く。古くからの習慣が土地の人間たちにそんな呼び名を付けられていることは知っていた。自分としては特別な意識もなく続けている習いで、そんな大層なことでもないのだが。そう思いかけて、ふと気付く。
 ――この前に遠吠えをしたのはいつだったろう?
 ここ数日、狼の姿で樹に登った憶えがない。確か最後は、妖魔からイタチを助けた日の翌日か、そのまた次の夜――
 頭を巡らせ始めたところで、ふわぁ、と二度目のあくびの音が隣に落ち、思考を中断させた。伊月が苦笑する。
「まーそんなこと言ったら日向の神体だって夜型のはずだけどね」
「うっせ。無駄に力のでけぇやつと比べんな」
 どうやら矛先がこちらを向いたらしい。言うほど日向の力が小さいとは思えなかったが、口に出すとさらに不興を買いそうなのでそれは置いておくことにし、代わりに訊ねた。
「二人の神体はなんなんだ?」
「俺は鷲」
「……言いたくない」
 すぐに答えた伊月と対照に、日向は眉間の皺を深めてまたそっぽを向いてしまう。これはもう重ねて訊いても無駄、と伊月も思ったらしく、今度は間をとりなすこともなく木吉に笑いを向けてきただけだった。横にそむけた口でお前らはいいよな、だのなんだのと言っているから、あまり自分の意に染まないような神体なのかもしれない。逆に興味が湧いてしまい、いつかは聞こう、と心に決める。
「日向のはただの早起きと修練のし過ぎだろ。そもそも本当なら普通の人とか獣ほど寝なくていいんだから」
 そう伊月が結論を語る頃には当人の意識がほとんど夢の中に入りかかっていたので、木吉はそこで暇を告げることにした。



 家の前に並び向き合ってまた二、三言葉を交わしたのち、別れ際にと今夜の応対への感謝を告げた。
「今日はありがとな。すげー楽しかった。また遊びに来てもいいか?」
「ああ。俺たちもここに来て日が浅いから、こうやって話せる知り合いもあんまりいないし。な、日向」
「ま、好きにすりゃいいんじゃねーの」
 おざなりに言われるが、本気で煙たがっているわけでもないようだった。寝ぼけているのだとしても、今ので言質を取ったとみなして土産でも持って来てしまえば、きっとまた眉を寄せながら迎え入れてくれるだろう。

 浮き立った気分で手を振り、新しい友人たちに別れを告げて、我が森へと歩を進める。やや高台になった位置から木々の列に入るところでふと振り向き、来た道の向こうを眺めた。人家の少ない林の陰に、ふたつの灯りが浮き出して見える。雲間から落ちる薄陽に似た穏やかな色は、囲炉裏にともっていた火の温かささえ思い起こさせるようだった。まだ消える様子のないところを見ると、また何やら二人で掛け合いでもしているのだろうか、などと遠く想像を巡らせてみる。
 と。
(……あれ)
 刹那、不意の息苦しさを身に覚え、肩を突かれたように数歩後ろに足を下げた。つい今ほど得たはずの高揚が手から夜闇の中へ転げ落ち、代わりに、じわり、熱とともに鈍い痛みをもたらす澱が胸底に広がり始める。何か身の受け付けない、融けた鉛のごときものを胃の腑へ呑み込んでしまったかのようだった。
 このまま見ていては駄目だ、と、理由もわからないままそう思い決め、木吉は狼に姿を転じて木立の中へ跳び込み、我が寝屋へと駆け出した。
 遠吠えがひとつ、高く尾を引いて、夜の森を満たしていった。



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