四.

 長く響く遠吠えの尾が尽き、果たしてどのぐらいここにいたのだろう、と夢から覚めたように我に返るのが、常の習いだった。
 普段はすぐに後ろへ返す足をその場にとどめ、木吉はしばし、夜の森とその向こうの里の景色を眺めていた。朧雲の隙間に揺れる月影を見上げ、もう満月か、などとぼやり考える。ほとんど頂点の位置まで昇っているから、真夜中近いのだろう。朝起きの彼はもう寝てしまっているだろうか。一瞬思いよぎった言葉に首を振り、今度こそ身を振り向かせて、――息を、呑んだ。
 まず初めに、朧雲が作った影だと思った。次に、己の心が見せた幻だと思った。目瞬きをくり返し、それが風に消えるものでも夢に融けるものでもないと認めてようやく最後に、その名を呼んだ。
「ひゅう、が……?」
 かすれた声は相手に届いたかどうかもわからぬまま、夜の静けさに散り消える。しかし白の着物の袖の中に腕を組み、大樹の幹を背にして同じ枝の上に立っていたのは、確かにその力有る名の持ち主だった。
「毎晩毎晩、飽きねぇよなお前も」
 二十日のあいだ希い続けた声が、懐かしい呆れ調子を添えて落ちる。
「いつ振り向くかと思ってたら、結局最後まで気付きゃしねぇし」
 どんな顔作っといてやろうとしてたかも忘れたわ、と語るその表情には、言葉の通り、特別な険や好悪の情は乗っていない。いつもの、と言うのが許されるなら、二十日前までのいつもの顔が、目の前にあった。
「日向、どうしてここに……」
 人の姿に戻るのも忘れ、狼の口で呆然と呟く。日向は腕組みをしたまま片眉を上げ、
「来ちゃ悪ぃのかよ」
 短くそれだけを答えた。慌てて否定の首を振る。
「そんなことない。……けどまさか、お前から来てくれるなんて思わなかった」
 いつかは訪ねて話そうと心には決めていた。だが、その時が果たしていつになるのかはまるでわからなかった。ともすると、今年のうちはもう会えないのではないか、そう思ってさえいた。
 しかし、彼はそこにいる。今確かに、自分の前に立っている。枝を踏む脚が高揚に震えた。
 日向は数度頭をかいて何か考え巡らせるそぶりを見せたあと、視線を少し脇へそらせたまま、緩慢に口を開いた。
「……賭け、したんだよ」
「賭け?」
 意想外の語をくり返す。軽く頷きが返り、言葉が続く。
「ふたつ賭けた。ひとつ目は、次の満月までお前の遠吠えが続いたら、……自分でもやめねぇで、誰かやめさせるやつも出てこなかったら、負け。ふたつ目は、その度ごとに十本ずつ弓を引いて、最後に均して三本以上外れちまってたら、負け。ひとつ負けたら、お前が次に来た時にちゃんと会って話をする」
 そこで一度声を区切り、目を正面に戻して、まっすぐにこちらを見る。
「もしふたつ負けたら、俺から会いにいく。……だから今日、来た」
 淡々とさえ聞こえる調子で語るのに、言葉が返せなかった。頭を巡る問いが多すぎた。
「その、なんだ……このあいだは、悪かった。さすがに言葉が過ぎたっつーか……」
 面食らっている木吉を気にする風でもなく、続いて落ちた思いがけない謝罪に、はたと顔を見つめ直す。目線はまた斜めにそれていたが、やや歯切れの悪い言葉は、しかし音の揺らぎなくはっきりと、続く。
「少し煮詰まってて、ついかっとなっちまって、ろくに話も聞かねぇままだったし。大神としてのお前の立場とか、考えてなかった。俺もこの土地の守護なのは変わらねぇわけだし……もしまだお前がそうしてぇっつーなら、主神になってもいい」
 できる限り足手まといにならないようにする、と語る言葉の全てが信じられなかった。やはり幻ではないか、起きながらにして夢を見ているのではないか。そう思った。
 日向が、こんな心弱げなことを言うなんて。
 喉が震え、違う、と声が口をついてこぼれる。
「謝るのは俺のほうだ。あんなこといきなり言われて、日向が怒ったのも当たり前だ。あんな、お前の気持ちを無視して、俺に都合のいいことばかり言って」
「……まあ、なんだよとは思ったけどよ。力の相性がいいのは間違ってねぇと思うし、理にかなっちゃいるだろ。いいんじゃねぇか、神託があったってんなら」
「違う!」
 もう一度、同じ言葉を叫ぶ。違う、そうじゃない。まだ自分たちの心は噛み合っていない。もう間違ってはいけない。「ここ」へ戻ってきてくれた彼を、もう去らせはしない。
 滾つ熱に任せ、枝を蹴る。さほど長くもない距離を獲物を追うように全力で駆け、驚き固めた身体を人に戻った腕で捕まえ、引き寄せ、力の限りに抱き締めた。
「神託なんかどうでもいい! 俺がっ……俺がただ、日向と一緒にいたいんだ……!」
 それは人の言葉で奏でられた咆哮だった。幾百年、夜のしじまに叫び続けた、唯一の望み。
「ずっと隣にいたくて、一番そばにいて欲しくて、けどどうしたらいいかわからなくて……神託なんて、ただの口実だった。これで理由ができたって、浮かれてたんだ」
 霞の中から拾い上げた本当の答えを、偽りない己が心を、ありのまま愚直に言葉に変える。この澱みに満ちた胸の中に、もはや与えられるものなどなかった。餓え、渇き、求めるばかりだった。ただひたすらに請い、ただひたすらに、恋う。
「日向の隣が欲しい。日向が、欲しいんだ……」


 しんと、静寂が鳴る。
 言葉が返らないのを確かめ、ぬくもりを惜しみながら、そっと腕を解く。
「……すまん。本当に俺は勝手ばかりだな」
 見下ろした目がこちらをまっすぐ捉えてくれているのに少しだけ安堵し、ふっと笑いかける。
「神託とか、ほんとに気にする必要ねーんだ。天帝なんて適当だから。少ししたらまた別のこと言い出すかもしれないし、日向に無理して付き合わせることなんかない。だからこれまで通りに、俺が誠凛を――」
 言い差した言葉を遮るように、すっと顔の前に手が上がる。自分のものよりひと回り小さな掌を目瞬きして見つめていると、もう片方の手が後ろへ添えられ、中心の指を引いたかと思った次の瞬間、衝撃が額を見舞った。
「あいたっ……!」
「だから勝手に決めねぇで人の話聞けっつってんだろこのダァホ! 一人で思いこんで笑ってんじゃねぇ! つーかちったぁ力を加減しやがれアバラが砕けるかと思っただろうが!」
 あんな状態で喋れるかボケ、と流暢に罵詈を並べ、指打ちされた額をさすっている木吉の顔をびしりと指す。
「いいか。もう一回だけ言うからしっかり聞いてやがれ。俺が気に食わないのはな、お前がそうやって自分のことをてんで考えねぇところだ」
「俺は……」
「聞けっつってんだろ。さっきの勢いはどこ行った。なんで全部はなから無かったみてぇにするんだよ。したいならしたい、欲しいなら欲しいって言えばいいじゃねぇか。できるのかできねぇのか、……やれるのかやれねぇのか、決めるのはお前じゃねーだろ」
 お前は、欲が無さすぎるんだ。強い瞳が声とともに語る。
「……やめろって言いてえわけじゃねぇよ。お前にはその力がある。それがお前の望みで、誇りで、喜びで……何かを護ることが、何かのために自分を捧げることが、お前の一部なのはもう俺だって知ってる。けど、それじゃ――お前は誰が護るんだよ。誰が、お前を支えてやるんだ?」
 初めの険をひそめ、穏やかささえ感じる声で、ゆっくりとひそやかに、言葉が紡がれる。木吉はただ茫然とそれを見つめていた。
「いつもなんの問題もねぇ、満ち足りてます、みたいな顔しやがって。本当はとんだ寂しがりのくせに。自分を殺して無理に立ってるやつの笑い顔なんざ、見たくねぇんだよ」
 暴かれていく心を我がものと受け取れないまま、その真摯な音だけを聞く。言葉を切った日向は、そんな木吉の心中を知っていてか、ふうと長い息をつき、伸ばした手で直衣の胸を下へ引いた。え、と首を傾げると、
「少しかがめ」
 短く言う。指図のまま、木吉は背を丸めるように上体を前へ倒した。と。
「ひゅぅ……?」
「そんな顔されて、ほっとけるわけねぇんだっつの……。だから」
 呼びかけた名が、驚きに呑まれて消える。目の前に白の着物の肩があった。かがめた頭を、両の腕で抱き込まれていた。
「だから、俺にぐらいはお前を護らせろ」
 耳元に声が落ち、そっと頭を撫でられる。膝に乗せた愛し子をあやすように、やわらかく、あたたかく。
 たまらず自分も腕を伸ばし、すがりつくように、背に回した。
「日向、日向っ……」
 こらえ切れない嗚咽混じりに、幾度も幾度もくり返し名を呼ぶ。胸に満ちた澱みが涙とともにあふれ出て、夜風の中にこぼれ落ち、消えていく。
「寂しがりの上に泣き虫かよ。んっとにしょうがねぇヤローだな」
 呆れの息とともに落ちた声は、それでも優しく笑っていた。



 涙のようやく収まった頃を見て、腕を離し、また正面に向き合う。少しのためらいを覗かせながらも、沈黙を破ったのは日向だった。
「……お前、俺に言いたいことがあるなら今言え」
 全部言え、とわざとらしい尊大な態度を作ってみせる。
「全部って……え、全部?」
「全部」
 はたから見れば滑稽なやり取りだったが、それが何を意味するのかはわかっていた。わかっているからこそ、躊躇する。やっと掴んだばかりの想いを全てこの場に広げろというのだから、しり込みをしないほうが嘘だ。
 だがこの機を逃せば、また言えなくなってしまうかもしれない。そうして同じ愚をくり返すよりは、言って砕けたほうがいい。決意の息を吸い、前の肩を両手に掴む。
「日向」
 まっすぐに見つめて言えば、びくりと手の中の身が震えた。
「主神とか神託とか、そういうのは抜きにして……俺と、一緒にいて欲しい。ずっと日向と一緒にいたい。同じ家に住んで、二人で出かけて、同じ家に帰りたい。日向が、好きだ」
 大好きだ、と胸に生まれる言葉のまま唱える。日向は目を見開くようにして数秒身を固めたあと、妙な形に引き歪めていた唇をようやく開いた。
「単刀直入すぎんだろ……」
「日向が言えって言ったんじゃないか」
「にしたって、お前」
 もごもごと反駁するのに、また困らせたかな、と眉を下げつつ言葉を続ける。
「いや、もちろんこれは俺が勝手に思ってるだけだから。して欲しいって言っても無理なことがあるのはわかってるし、日向に無理強いしようとか、そんなことはこれっぽっちも考えてな、……あいたっ」
 言葉の途中で、びしり、先と同じ額の中心を指打たれ、思わず抗議の声を上げる。
「なんなんだよさっきからー!」
「なんなんだはお前だ! 本当に話聞いてたのかっ? 俺の返事はお前じゃなくて俺が決めるんだよ!」
「返事って……え?」
 返事、くれるのか。ぽかんとして問えば、怒声を収めて俯く。もし陽の出る日中であったなら、頬が赤く染まっているのが見えたかもしれない。
 どくり、胸が鳴る。澱んだ熱ではない、期待の高揚に。何しろ、嫌なことは嫌だときっぱり言うはずの日向なのだ。
「俺は、だから、俺も、その……ま、前、から」
 たどたどしく、懸命の様子で声を紡ぐ。その様子が、妙に幼く愛らしく見えた。
「俺も、お前が、す、……好きだ」
 畜生、と最後につけ加えられた悪態など、聞こえないも同然だった。額を打たれて引き戻していた手で、もう一度相手の腕を両側から掴む。
「日向っ、ほ、本当か? え、前からって……」
「聞いてたろ! もう言わねー!」
「そんな」
 ひどいぞ日向、と訴えるより早く、俺はな、と叫びが上がった。
「俺はなぁ、てめぇのせいでこの三か月調子が狂いっぱなしなんだよ! お前があんな顔しやがるから、あんな声で鳴きやがるから、集中してぇのに的の前をちらっちらうぜぇ顔がよぎっちまって、全然矢があたんねぇんだよ! 弦は切れるし、弓は折れるし、夜は寝られねぇし……散々だ。畜生、責任とりやがれ!」
「えっ、と……日向、ちなみに矢は結局何本あたったんだ?」
「三本だよ!」
「ええっ」
 普段は十本のうち十本を中てることすら珍しくないというのに、三本では負けも大負けである。
 ああどうしよう。笑ってはいけないのに。
「日向……そんなに俺のこと気にしてくれてたのか」
 感動とともに言えば、ふいとそっぽを向かれる。言葉はないが、そうだよ悪いか、と返されたのと同じようなものだ。
「ありがとな、日向。ちゃんと責任とる」
 少し身をかがめ、そらされた目を覗き込むようにする。うろうろとさまよった視線がこちらを向いてくれるまで待ち、静かに誓った。
「責任とって、きっと……幸せにする」
 これまでの自分なら、「護ってみせる」と言ったろうか。そうしてまた彼に額を打たれていたろうか。きっとこれからも、間違うことはあるだろう。わからないことはあるだろう。世に在る限り、悩みも苦しみも消えはしない。
(大丈夫だ。日向と二人なら)
 いつかの夢の中で手にした決意を、今度は漏らさず正しく、握り締める。

 また大げさなと文句を言うより照れが勝ったのだろう、おう、とだけ相槌して再び俯きかけた日向の頬に、赤くかすれた跡があるのに気付いた。
「……日向、ここ、どうした?」
 怪我してる、と指差す。ああ、と頷きが返った。
「さっき言ったろ。切れた弦が跳ねたんだよ」
「痛そうだな」
「かすっただけだ。大したことな」
 い、と続くはずの声が耳の横で消える。そっと舌を這わせた皮膚は確かにもう治り始めており、血の味はしなかった。
「お、おま、なに……」
「あー、つい」
「ついって、おい、くすぐって……犬か!」
「いや、俺は狼だぞ」
「そういうこと言ってんじゃねぇ!」
 やめろ、と押しのけられて顔横から上げた視線が、間近にかち合う。鼻の触れ合うほどの距離。共に声を失い、言葉の代わりに情をささやく瞳の色に魅入られたように、頬を指に包み、ゆっくりゆっくりと顔を寄せ、唇を重ねた。
 ただ押し合わせ、口唇を食むだけのつたない口付け。それでも胸は歓喜を叫んで震え立った。育ち始めたばかりの恋が、頑是ない子どものようにもっともっとと欲を訴える。
 呼吸を継ぐ間もなく求めるままに交情を続け、ようやく身を離した時には、日向はすっかり息を失い、木吉の腕に掴まって立つのがやっとの体(てい)になっていた。
「お前、なぁ……」
 ぜぇぜぇと肩で息をつく日向の文句を、木吉はほとんど耳に入れていなかった。前に現れたものに意識を奪われていた。
「日向……猫だったんだな」
 呟きに、はっと腕の中の身体が固まる。短い髪の間にひょこりと立った黒毛の耳と、腰に揺れる長い尾は、虎や豹とまではいかない、小ぶりの猫のそれであった。
 咄嗟に腕を上げて隠そうとしたらしい日向だが、遅きに失している。
「わ、笑いたきゃ笑えよ。悪かったな、狼とか鷲とかじゃなく、そのへんに良くいるちっぽけなどーぶつで」
 何か彼なりに思うところがあるのだろう、気まり悪げに言うが、木吉にはそんな反応の理由が良くわからなかった。
「別に笑わねーぞ? かわいいな、日向」
「かっ……」
 何寝ぼけたこと言ってんだ、と荒げる声さえ快く聞こえる。たとえその耳と尾が猫であれ犬であれ虎であれ、この目には愛らしく映っただろう。
「これからもよろしくな」
「……おう」
 よろしく、と差し出された手を握る代わりに身体ごと腕の中に引き寄せ、猫の耳をぱくりと咥えた大神の額を、今度は指ではなく本気の手刀が打ちすえた。


      ○


 朧雲の隙間に見える月は、真円を描いていた。
 あの夜見上げた月も、確か同じ形をしていたな、と遠い記憶に思いを馳せる。あれから何年が過ぎたのだったろうか。細かな時間は忘れてしまった。まだ半生には足りないこの歳月は、しかしそれまでの幾百年よりずっと濃く鮮やかに、胸の中を彩っている。
 雲が木々の中に開けた空の端から端まで流れていく様を、ただぼんやりと眺めていると、どす、と背を鈍い衝撃が叩いた。坐したまま振り向けば、つい今しがたまで奥の部屋の布団に丸くなっていたはずの恋人が、頭をこちらの背に寄りかけるように座っていた。
「障子全開にして、何してんだよ」
 寒いだろうが、とぼやくように言う。
「いや、月が綺麗だと思ってな」
「なんだ浮気かコノヤロウ」
「その月じゃないって」
 少し寝ぼけているのだろうか、埒もないことを呟いてぐりぐりと額を押し付けてくる。笑って手を引くと、抵抗なく前へいざり進み、隣に並んだ。
「ちょっと昔の夢見てて、覚めたらなんか目が冴えちまったからさ」
 起こしてすまん、と言うと、ふぅん、と気のない相槌が返る。あまり身体に力が入っていないようで、ふらつくのを横から支えてやった。不意に得た休みと恋人の愛らしい誘いに浮かれて、暮れ始めてからつい先ごろまでさんざんその身を求め熱を絞らせてしまっていたのだから、まあ無理もない。

 日向たちが木吉とともに森の中で暮らし始めてから、本殿を新しく建て替えた。それまでのいかにも御堂然とした造りをやめて、庭(と言ってもそもそもが森の中なので、正しく言えば竹垣に囲ったそれらしき空間)や濡れ縁をしつらえ、一から十まで自分の好きなように建てた、日向いわく「神殿っつーかただの家」は、木吉の憩いの場になった。初めはそうして呆れてみせた日向もすぐにこの「家」を気に入ったらしく、二人の部屋を置くことを承知してくれた。
 つい数月前に終わった戦乱のあいだ、そして、木吉が呪いに臥せっていた十五年のあいだは、他の仲間たちと同じ拝殿近くの宿舎で寝泊まりをしていた日向だが、また少しずつ自分の荷物をこちらに持ち込んできている。特段の相談を待つでもなく、自然にそうしてくれていることが嬉しかった。

「空なんざ、見てやがるから」
 ぬくもりを求めるように肩へ身を寄せてきた日向が、ほつりと声を落とす。
「……また、わんわん泣き出すんじゃねぇかと思ってよ」
 目瞬きして傍らを見る。まさか、同じ日のことを思い浮かべているとは思わなかった。
「わんわんって、ひでぇな子どもみたいに」
「似たようなもんだろ」
 一応の抗議をするが、あの日のことばかりは言い訳もできない。何もかもが未熟に過ぎた。
「もう鳴かないさ。今は独りじゃない。仲間が沢山できたし、……日向がここにいてくれる」
 肩を引き寄せて両脚の間に座らせ、後ろからかぶさるように抱きしめる。首を倒して見上げてくるのに、だろ? と笑いかけると、まぁな、と短い肯定が返った。珍しいと思って見つめる前にふいと正面へ戻された頬の線が、薄赤く染まっている。今も昔もわかりやすいようでわかりづらく、わかりづらいようでわかりやすい。
 そう考えて、ふと、夢に見たあの日の会話と、大樹の根元で交わした今日の会話を並べて思い返す。
 この十五年のことを日向が頑なに語らないのは、ひょっとすると、自分が木吉のことを護ると誓った約束を、果たせなかったと思っているからではないだろうか。結局全てを木吉に護らせ、傷付けてしまったと思っているからではないだろうか?
 日向の心の全ては自分にはわからない。だが、それは当たらずとも遠からずの推であるように思えた。
(日向)
 哀しく、それ以上に優しい想いが胸を満たす。
 この世に在り始めた時から、自分は本能として、性分として、それをやめることができない。今日の話の中で日向が語ったように、もしまた十五年前と同じ状況が訪れたなら、たとえそれが何度目であってもこの身を惜しみなく投げ出すだろう。
 それでも――知っていると、いつかは、と、言ってくれた。だから、どうか気に病まないでほしい。こうしてここに帰ってこれたのは、日向が信じて待っていてくれたから、仲間たちに想いを繋いでくれたから。ただただ与えることしか知らなかった自分に、「望むこと」を教えてくれたからなのだから。
 ただ前だけを見据えて駆け続け、昨日を顧みることもできずに積み重ねてきた悩みも苦しみも哀しみも、いつか、笑ってふり返り、分かち合うことができればいい。その望みがかなう距離に、自分たちはいる。


「何にやにやしてんだよ」
 腕の輪の中から再びこちらを見上げ、日向が眉を寄せて言う。自分がどんな表情をしていたのかはわからなかったが、まあ緩んだ顔、ということなのだろう。
「どんどん贅沢になっちまうなーってさ」
 昔の高潔な頃に比べて、と冗談めかして言えば、ああ、と頷きが戻る。
「まあ確かに、あれと比べたらだいぶ格は下がった感じだよな。馬鹿正直に見せかけて底意地の悪い部分も透けてきたし」
「え、そこまで言う……」
 がくりと肩を落とすと、いいんじゃねーの、と口の端を上げて笑い、
「まだ足りねぇよ、お前の場合」
 言って、顎の線にちょんと鼻先を寄せてくる。無意識なのだろうそれは、猫が相手に親愛の情を示す際の仕草らしい。見れば黒毛の耳と尾も表に顕現している。昔は猫そのものの姿どころかこうして気を抜いた格好すら見せてくれなかったが、変われば変わるものだ。
 笑って名を呼び、上向いたままの顎を指に捕らえて口付ける。幾度か甘噛みをして薄く開いた唇の間から舌を差し入れれば、仔猫が情をねだるように自分の舌をそっと寄せてくる。角度を変えながら、合間に継ぐ息さえ呑み込み、深く深く、求める。
「んぅ……ふ、」
 濡れた音とともに唇を離し、甘く絡まる吐息をほどいて交わした視線は、初めの熱を取り戻していた。
「部屋、戻るか」
「ん……」
 腰の抜けている身体を抱えて濡れ縁を立ち、障子を閉めて、奥の閨へ戻る。そっと敷布の上に横たえた身体に覆いかぶさりかけると、俺、とひそやかな声が間に落ちた。
「次の上弦から、部屋こもるからな」
 え、と見下ろす。
「お、俺、またなんかしたか?」
 過ぎた日を思い返し、焦って問うと、違ぇよ、とすぐに否定される。ならどうしてと見つめるが、目は横へそらされ、なかなか言葉が返ってこない。やがてもそもそと動いた手が横にはいでいた布団を掴んで引き寄せ、顔を隠すようにしてようやく、布の下からくぐもった声が聞こえてきた。
「十五年寝こけてますますボケちまったのかよ……もう春だろ。そろそろ俺、……盛りが、来るから」
「あ」
 すとんと腑に落ちた。春。森の心騒ぐ、交情の季節。神体とする獣や力の種によって熱の示し方も様々だが、ことにこの恋人は、黒猫の魔性の強さによるものなのか、本人の持って生まれたものなのか、誰彼となく雄を誘う香気を振りまくのだ。ぜひとも部屋へこもっていて貰わねばなるまい。
「そうか」
「……おう」
「……ちょっと楽しみだな」
「んな、あ、アホかっ」
 何しろ十五年ぶりだ。大義名分のもとに彼を腕の中に閉じこめ、何をはばかることもなく熱を交わせる日。
「やっぱ俺、性格悪くなったかも」
「は?」
「いや」
 こっちの話、と笑い、眉間に寄った皺をほどくように額へ口付けを落とす。
 明日の午からはまたせわしい数日が戻ってくる。春の日は春の楽しみに、今宵は今宵の想いを遂げよう。この熱の請うまま、この心の恋うまま、優しい誓いに甘えていよう。
 ふと向けた視線が絡み、いずれともなく笑い合う。互いの瞳に融けていたのは、あの日に始まった確かな幸福の色だった。


―了―
“BG by azalea つつじ――初恋”

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