ハンドメイドスウィート



 鍵の回る音で顔を起こし、正面に見やった棚上の時計の針は、朝の予告を三十分ほど過ぎた時刻を示していた。膝に置いて眺めていた雑誌を横へどけ、コンロの鍋を火にかけ直そうとソファを立ち上がったところで、がちゃりばたりと雑にドアの開く気配がし、声が投げ込まれる。
「ひゅうがぁー。すまん、ちょっと手え貸してくれー」
 間延びした呼びかけに視線を向けると、居間と廊下を隔てる半開きの戸の向こう、馴染みの長躯の影が、何やら奥でまごついているのが見えた。ドアもまだ開いたままらしく風が吹き流れてくるが、当人が中へ上がってくる様子はない。首傾げつつ歩みを進め、戸を開け放して、思わぬ光景に――正確に言えば、思わぬ「物」の存在に、その場で足を止めた。
「ただいま、日向」
 常の呆れるほどにこやかな笑みをこちらへ向けつつ、ドアの隙間から半身だけを中へ上げた妙な姿勢でいる大男が腕に抱えていたのは、普通の家ではなかなか見ないような大ぶりのザルだった。そして、人の頭のひとつふたつは入ろうかというその半球からすらあふれ落ちそうな、目にも鮮やかな緑の小山。
「……なにそれ」
「ん? 梅の実だぞ」
「それは見りゃわかる」
 物の名称だけをけろりと答えて寄こす男に息を落とし、詳細を求めようと再度口を開いたが、先に発されたのは少しあせったような相手の声だった。
「日向、悪いがザルかバッグかどっちか受け取ってくんねーか? ちょっとでも動いたらぶちまけちまいそうで腕がしびれてきた」
「おま、先に言え先にっ」
 どうりで半端な体勢のまま固まっているはずである。早足に寄り、二の腕でドアを支えている手からザルを取ってやると、木吉はふうと息をついて逆の肩からずり落ちかけていたショルダーバッグを負いなおし、ようやく三和土へ両足を上げてドアを閉めた。
「戸に挟まったまま悠長にただいまとか言ってんじゃねーよ」
「すまんすまん」
 でも帰って日向の顔見たら自然にな、などと、噛み分けるとまた羞恥にまみれそうなことを朗らかに言うので、そうかよ、とだけ返事してさっさと部屋へきびすを返す。のんびりと靴を脱いでいる気配を背に歩を進めながら、開け広げな同居人の態度よりも、交わし始めて半年の言葉にいつまでも慣れず血の巡りを早める己の自律神経へ、いい加減にしろと内心で悪態をこぼした。


「とりあえず置いとくぞ」
「おう。サンキューな」
 狭い流しにもこれから皿を並べるローテーブルにも空いたスペースはなく、といって床に置いて蹴飛ばすのも御免なので、間に合わせとしてソファの上へザルを据えた。当初の目的であったコンロの火を点けて肩越しに振り向き、突如としてできあがった八百屋の店先じみた光景に、今度こそ問いを発する。
「どうしたんだよ、あれ」
 一度自室へ行って戻ってきた木吉はまっすぐ食器棚へ向かいながら、いささかの後ろめたさも浮かべず、いやなと笑って答えた。
「バイト先のマンションの庭に、立派な梅の木が三本もあってな。実がすげー沢山ついてたから、管理人のおばさんにどうするのかって訊いたらさ」
「バイト先の家だけじゃなく管理人とまで付き合ってんのかよ」
 予想の一歩先を行く返答に思わず口を挟む。目立つ外見と人好きのする(ことに世代が進むほど受けのいい)性質が相まってか、普段からあれを貰ったこれをしてくれたと出先で親切を受けてくることの多い人間だが、ここまで来るともはや天賦の才というやつだろう。日向も家庭教師先で相伴に預かることはあるが、そこの管理人など男か女かさえわからない。
 棚から出した味噌汁の椀をこちらへ渡してきながら、木吉はああと頷き答えた。
「昔は採ってたけど今はもうそのままだから、もし欲しいなら全部やるって言われて、帰りに採らせてもらったんだ。――こっちの煮物は大皿でいいか?」
「おう。あと冷蔵庫に昨日の失敗きんぴらの残りが入ってるからそれも出しちまってくれ。――貰ったっつーか、体よく処理に使われたって感じだなそりゃ」
「まあほっといても落ちて腐っちまうだけでもったいないしなぁ。実を採るだけならたいした手間でもないし。失敗か? オレは結構好きだったぞ」
「お前よくあんな甘ぇの平然と食えるよな」
 いつものように手分けして夕飯の支度を進めながらの会話は、いつものようにふらふらと蛇行しながら進む。明日以降の献立と、冷蔵庫に残った食材と、近所のスーパーの特売日と、唐突にまぎれ込んだバスケの話題を経て、ようやくソファに鎮座する梅の実に話の矛先が戻ったのは、大小の皿の並んだテーブルを挟んで手を合わせ、箸を進め始めて五分ほどが経過した頃だった。
「んで、結局あの梅で何やろうってんだよ」
 梅干しでも作るつもりか、と訊ねると、さすがにそれは手がかかり過ぎるからと首が振られる。そうして何やら思いついたように箸を置き、
「そうか、あれがないとわかりづらいな」
「あ、おい」
 止める間もなく立ち上がって、おそらくは自室へと向かい廊下に抜け出ていってしまう。
「ひとこと言や済むことだろうが……」
 息をつくが、普段ならおろそかにしない礼儀も忘れ、食卓を中座する程度には浮かれているのだろう。なんだかんだと真っ当な口を挟んでまでその興を殺ぐほど野暮ではない。物がなんであれ、どうせ「日向と一緒にできたら楽しそうだな!」だとかなんだとか恥ずかしいことを考えているに違いないのだから、まあ乗ってやるのが分別のある大人というものだ(そしてその恥ずかしさに幸福がかけらも含まれないと言えば全くの嘘になることを自覚しつつ、あえて気付かない振りをするのが侍魂を持つ日本男児の矜持というものだ、と日向は己に言い聞かせ続けている)。
「ほら、これこれ」
 一分も経たないうちに戻ってきた木吉は、おそらくショルダーバッグに詰め込んでいたのだろう、これもまた大ぶりのガラス瓶と、何やらざらりと音のする袋をテーブルの隅に置き、わかったろとばかりに笑って言った。取っ手のついた特徴的な形と、広口の赤いふたには確かに見憶えがある。そう高級でない呑み屋へ行けば、ひとつふたつは棚に並んでいるたぐいの品だ。
「……梅酒か?」
「あ、惜しいけど違うな。それも考えたんだがやっぱり時間がかかるし、すぐできるシロップにしようと思って」
「シロップ?」
 またなんとも甘ったるげな言葉である。思わず怪訝を示すと、おやといった顔で首を傾げられた。
「作ったことねーか? 梅のシロップ」
「梅酒も梅干しもねぇな」
 家に大量の青梅、という状況を経験したことがないからこそ今の光景が異様に思えるわけであり、木吉の認識とは初手からずれがある。育った環境を今さら語り合っても仕方ないので、なんだよそれと説明を促した。
「まあ普通にシロップなんだが……水で割ってジュースにしたり、かき氷にかけたり、それこそサワーとか焼酎とかに入れてもいいと思うぞ」
「梅酒のモトみてぇなもんか」
「ああ。初めに酒を使わないだけで作り方はそんな変わらないしな」
 木吉家の夏の風物詩であったらしく、「汗びっしょりで帰って一番に、ばあちゃんに氷いっぱい入れた冷たい梅のジュース作ってもらうのが楽しみでなぁ」と懐かしげに目を細めて言う。なるほどあの少々古風な家に似合いの風景だ。
「素朴な感じの味がいいんだよな。ジュースも酒も買っちまったら楽だけど、自分で手間かけると余計に旨く思えるんだ。日向と一緒にできたら楽しそうだなと思って」
「うわ、一言一句……」
「ん?」
「いや、なんでもねぇ」
 予想通りの言葉を呆れるより先にやはり面映ゆさが先立ち、まぁいいんじゃねーの、とあえて軽く流すように返した。ひとつひとつを真剣に考えていては、この端的すぎる男の相手などしていられない。
 こちらも慣れとある種の承知のうちだろう、返事の素っ気なさを気にする様子もなく、木吉はそうかと顔をほころばせて頷き、じゃあメシ終わったら早速やろうな、と言う。その笑みをちらと覗き上げる胸の内に、やぶさかではない、などと、補語や客語の全く失せた往生際の悪い言葉ひとつが鳴り落ちた。


 特別に意識をしたわけでもないが、普段より五分ほど早く片付いたテーブルの上に、木吉はいかにも楽しげな様子でてきぱきと準備を始めた。果実酒ビン、氷砂糖の袋、空のボウルふたつにナイフ二本と爪楊枝、そして真打ちの青い梅の実が盛られたザル。大小のそれらしい品が並んでいくのを眺めながら、手持ちぶさたに伸ばした指で梅をひとつ取り上げる。ゴルフボール大の緑の実には見た目以上の重みがあり、中がしっかり詰まっているのがわかる。なんとはなしに顔の前へ寄せ、すんと鼻を使ってみたが、木の実であるという以上の匂いは特に感じ取れなかった。
「なんか青い梅食うと腹壊すとか死ぬとか聞いたことあるな」
 呟くと、テーブルの向こうに座り直した木吉がああと頷いた。
「ひとつふたつじゃ全然問題ないぐらいらしいが、青酸性の毒が出るんだよな。昔かじってばあちゃんに叱られたっけなぁ」
「あー、オレもそういうのぜってぇやるガキだったわ」
 子どもの手にちょうど納まるほどの大きさと、産毛の生えた硬くなめらかな皮の感触は、妙に人の心をくすぐるものがある。飽きずに指先で転がしていると、まずこれで残ったヘタを取っちまってくれ、と遊びをなだめるような笑いとともに爪楊枝を差し出された。受け取り、ちらとザルを見て、積み上がった小山の嵩に改めて眉を寄せる。
「全部使いきれんのかよ、これ」
「このビンなら半分もいらないぐらいだな」
「おい。どうすんだ残り」
 あっさりとした答えに頭痛を感じつつ問いを重ねれば、そうだなぁ、と特に計画していなかったことが丸わかりの呑気な声が返った。 
「まだ若い実だからすぐ悪くはならねーし、一度ビン空けちまってもう一回作ってもいいけどな」
「んな大量にあっても使わねぇだろ。それこそ梅酒にでもすりゃいいんじゃねーの、どうせなら。呑める歳なんだしよ」
「あれは何年か熟成させたほうが旨いからなぁ……今日念のためシロップの作り方確認しとこうと思ってばあちゃんに電話したら、じゃあ梅酒はうちでずっと作ってるの送ってやるって言ってたし」
「ふーん。梅酒も作ってんだな」
「梅干しも作ってるぞ。それも送ってもらうか?」
「や、悪ぃだろ。ただでさえ世話なり過ぎてるぐれぇなのに。あーでもお前のばあちゃんのお手製の梅干しか、それは惹かれるわ……」
「オレが家出てから色々余って困るって言われてるんだよ。日向が気に入ってくれてるの教えたらばあちゃん喜ぶからさ」
 他愛ない話をぽつぽつと交わしながら地味な作業を進め、気付けば全ての実がそれぞれの手元のボウルに移動していた。ヘタの取れた緑の粒をまた一度ひとつに集めて、水で軽くすすぐ。流しに納まらないザルと、唐突に現れた果実酒ビンは、先に話の出た管理人宅から借り受けてきた物とのことだった。一体どう振る舞えばそうまで人の(特に妙齢の女性の)親しみを引き寄せられるものかという感心とともに、梅の実が山となった馬鹿でかいザルを抱え、ごく平然と電車に乗っている大男の目撃談が今頃ひとつふたつウェブに流れ出していてもおかしくないなと脱力を覚えた。
 洗った実の水気をふきんで丁寧に取ってから、いよいよ、といった風情で木吉は梅の実とナイフを手に取り上げ、こちらへ示した。
「あとはこうやって両側にナイフでバッテンつけたら、梅の下ごしらえは終わりだ」
 言いつつ、実の表面に十字の切れ目を入れる。果汁が少し皮へにじみ出して濡れた色を刻んだが、玉になりこぼれ落ちるというほどではないようだ。
「バッテン、な……」
 妙に幼ならしい響きの言葉は、その昔に祖父母の手伝いで教えられた際の表現そのままなのだろう。普段の言動は同年代の誰より年寄りじみているくせに、時に覗かせるこうした稚気がなぜかやたらに似合うのだから、つくづくもって不思議な男である。
「指気を付けてな」
「おー」
 果物ナイフなぞというしゃれた道具はもちろん準備がなく、家に二本きりの、持ち主の好みのために月に一度も日の目を見ないような食事用のナイフで梅に傷を入れていく。趣味柄もあり、手先は器用なほうだと自負しているが、波や返しのない刃は硬い実の皮の上に滑りやすく、今度は自然と集中の無言が場に流れた。
 日向も木吉も物静かな性格ではないが、と言って特別に話題が多く騒がしい人間というわけでもない。同じ部屋にいながら別事にかまけて会話がない、といった状況もごく普通のものであり、さらに言えばそれは決して息苦しい時間ではなかった。気恥ずかしささえ感じる間もなく、その時間はすんなりと、しかし容易には手放しがたい日常となり、やわらかな心の苗代となった。
 もはやあるのが当然とも言うべき透き色の空気に近い日々の中に、折に触れて現れる互いに未知の古い記憶や横顔は、未熟な実からにじみ出る蜜に似て、ほろりと打ち明けられた瞬間ごとに、甘酸含んで胸の底へ溜まる。

 静けさ任せにぼんやりと思考を巡らせるまま、こちらの手の数十センチ先で、同じく梅に刃を当てている姿に目を向ける。見るたびに感嘆を覚えるほどの大作りの手指は、その一見に受ける印象とは裏腹に、存外器用に動く。それこそ育った環境の所以もあるのだろうが、箸や包丁は日向などよりよほど良く扱うし、細かな作業もできる。が、細かな作業の「できる」人間が、すなわち細かな仕事の「上手い」人間というわけではなく、また細かな神経を持った人間というわけでもない、ということを日向はもう重々承知している。どうやら自分とこの男とでは、同じ作業に対してそのどこに気を遣うかといった部分が相当に異なっているらしい。良く言えば鷹揚、悪く言えば大雑把な同居人に、幾度の小言と揶揄を転がしたものか、もはや記憶してはいない。とは言え、今さら、ともするとあの頃からずっと。そうした大小の差異や噛み合わない言動を、くだらない諍いの元にはしこそすれ、心の底から厭わしいとは思わなかった。
 手の形も大きさも、それが生み出すものも、それにかける心も、全て何もかもが違う。だからこそきっと、自分たちはここまで来た。内と外からチームを指示し、時に振るう寸前の拳を握り、喜びと感謝に打ち合わせ、栄冠を目指して並び伸ばした手。その大きさの、役目の、欠けの違いを知るからこそ、助け、支え、そして求めた。眩くも目まぐるしい、一瞬に過ぎた日々の中で、全てを護り包むこの大きな掌に、自分は何より強く惹かれていた。誰より遠く、焦がれていた。
 テーブルひとつ足らずの間。差し伸べれば届く距離。いつの間にやら近くなってしまったものだ。迂遠な道であったのか、それとも脇目も振らずに歩いてきたのか、気付けばここまでたどり着いていた。いつも力強く仲間を護り、おおらかに心を語った手が、今は繊細とすら言い得る仕草でこの指を取り、肌に触れ、甘やかに秘め事を紡いでみせる。まったく、なんという日常だろう。
 ふっとこぼれ落ちたため息にもならない吐息の先で、緑の果実を握る手の像の上に、同じ形の、しかし全く別の色を抱く手の幻が重なる。骨ばった長い指が明確な意図を持って開き、ゆるりとこちらへ近付く。はたとして首を振り立てかけた拍子にナイフが奥へ滑り、実を握った指の背に、熱のような痛みが走った。
「つっ……」
「日向っ」
 流れた血の色をしかと認める間もなく、驚くべき速さで伸ばされた、幻ではなく本物の手に、刃の当たった人差し指を取られる。そうして一瞬後にはあろうことか、ひりつく傷口ごと指の半ばを口に咥えられていた。
「んな、お、おい何してっ……!」
 思わず取り落とした梅の実が天板を転がるのもそのままに、衝撃にひきつった声で呼びかける。ぴちゃりと濡れた音を立て、紅い舌が傷を舐り、肉厚の唇が肌を吸う。節くれ立った長い指で手の甲に浮き出た骨をなぞられると、ぞくりと寒気が背を昇った。
「きよ、」
「……オレ、日向の手、すげー好きだな」
 あの頃からずっと好きだった――。幾度か指の上を遊び、ようやく離れた唇はそれでも吐息のかかる距離から離れぬまま、呼びかけをさえぎってそんな告白を落とす。一瞬前までの自分の思考をも言い当てられた気分になって、日向はぐっと抗議の口をつぐんだ。
「綺麗で、けど強くて凛々しくってさ。いつも皆を、……オレを、引っ張ってくれた」
 また唇が近付いて、羽が触れるごとく爪先へ落ちた口付けを最後にテーブルの上に降ろされるが、指は離れるばかりかさらに深く絡み、根をすり合わせ、獲物を見据えた蛇が(出会った頃はまさかこの男をこんなものに喩える日が来るなどとは思いもしなかったものだが)音なく地面をにじるように、薄い皮膚を撫でる。
「今こうやって目の前にあるなんて、夢みてーだ」
 色帯びて這う低い声。怪我に気付いた早さといい、ひょっとすると、沈黙の間にこの男もこちらを見ていたのかもしれない。子どもの時分から手慣れているはずの作業は、まだビンの底の半面さえ埋めていなかった。
 さほど深い傷ではなかったのだろう、血はもう止まったようだったが、じわりとにじむ熱さは治まらなかった。自分の熱なのか、相手の熱なのか、あるいはその両方なのか、それすら判然としない。するり、繋いだ指が身じろぐたび、手を引き戻すための叱責の言葉と言い馴染んだ悪態がいくつも舌の上を転がったが、全て声になる前に溶け落ちてしまう。そうだやはり苦しい無言もある。浅く速まる呼吸より何より、不意の熾火にさらされた胸が苦しい。

 火種となった手指が改めて握られ、そこからさらにたっぷりの間を置いてから、半ば消え入りかかった音で落ちた声が、ようやく深い沈黙を破った。
「……いかんぞ日向。梅にバッテンつけてる気分じゃなくなっちまった……」
「てめぇのせいだろ……」
 場の空気を保たないいつもながらに間抜けたやり取りは、しかし重ねた熱を冷ますことなく、ほうと息をこぼせば太い首に浮いた喉仏が大きく上下するのが見えた。
 日向。静かな声が呼ぶ。
「明日、部活は?」
「……ない」
「バイト」
「午後から」
「そうか」
「ん」
 小さく示した頷きに、そうか、と言葉をくり返して、繋いだ指がそのままついとこちらの手を引く。一瞬抵抗なく腰を上げかけ、すんでで我に返り、待てと制止をかけた。
「梅どうすんだよ。汁が出ちまうだろ」
「え、ひ、ヒワイだな汁とか……」
「黙りやがれこの遅れてきた思春期男」
 常のリズムをぶり返しつつ、真面目に答えろと促せば、ひと晩ぐらいは大丈夫だからと笑みが返る。あえて言葉になされたその時間にまた熱を巡らせたのは、果たしてどちらの掌だったのだろうか。いずれであれ、誰に咎め立てられるいわれもない。自分たちは互いにいささか癖はあれどもごく正常な思考を持つ、またごく健康な若者であり、ここは二人が朝を夜を過ごすための城に等しき一室であり、ついでに言えば今そこにいるのはなんやかやと噛み合わない部分も多いが紛いなき、れっきとした恋人同士なわけであるからしてだ、ダァホ。
 少々強引に腕を取られて立ち上がり、また少々、いやだいぶん性急に引き寄せられて進めた足がテーブルを騒がしく蹴り揺らしたが、絡めたままの手に生まれる甘い熱が小言は無粋と囁いたので、おとなしく口を閉じ、腹立たしいほど広い肩へ額をぶつけてやることにした。


      ○


「おー、だいぶ上がってきてんな」
 現場放棄の翌朝(正確には翌昼)、氷砂糖の量について多少の討議があったほかは概ね作業もスムーズに進み、赤いふたのビンはザルと隣り合わせに、結局部屋の隅の床の上に置かれることとなった。さらにそれから日が巡って五日、今のところ家主を蹴つまずかせることもなく、梅の果汁と溶けた氷砂糖の混ざった半透明の蜜が、底から順調に溜まってきている。
「これ満杯になんのか?」
「いや、ビンがでかいから半分も来ないんじゃねーかな。梅もあと一週間ぐらいで中が全部出きっちまうだろうし」
「ふぅん」
 解説のとおり、ビンの中の梅の実は熟したように色を染め、表面にやわらかく皺を寄せ始めている。ザルの中に残る硬く青々とした元の姿と並べれば、その変化は一目瞭然だ。
 床にしゃがみ、重たげに泡立つ水面を何を思うでもなく眺めていると、後ろから一歩の広い脚がひょいと横へ振り出され、こちらを倣うように隣にしゃがみ込んだ。しばしそのまま無言を流したのち、
「……なあ、日向」
 何やら至極もったいつけて口を開くので、今は、と落ちた声を拾い上げて、言葉を先んじた。
「『今はオレたちこの青い梅みてーに若くて未熟だけど、こうやって少しずつ溶け合って、皺の寄った爺さんになっても一緒にいような』とかアホなこと言い出したらしばらくそれをネタに笑うからな」
「……」
「……何か言えおい。ツッコミがねーとオレ一人余計にアホみてぇだろ」
 居たたまれずに、芝居でも聞かないようなむずがゆい発言の撤回を自ら求めると、木吉は笑み差したまま閉じていた唇をまたゆるやかに開き、ほつり、落とした。
「オ、」
「お?」
「オレの一世一代の告白が……!」
「っておい当たっちゃってんのかよ?」
「一言一句全部合ってる!」
「うわ、やめろ逆に恥ずかしいすげー恥ずかしい!」
 わっと両手で顔を覆い大きな図体を丸めて嘆く男に、いっそ泣きたいのは自分のほうだと思いつつ、頬に昇る熱のごまかしを含めて叫んだ。まさか大真面目にそんなことをのたまう人間が現実にいるとは思わないだろう、断じて非はない、そして恥もない、と強く決め込む。
「先に言っちまうなんてひでーぞ日向……」
「忘れろ」
「うー」
 拗ねた声をこぼすのを横目に見ながら、なかったこととしたいはずの告白から言葉を取り出して、こいつは爺さんになってもこのまんまなんだろうな、と胸に独りごちた。賢いくせにボケていて、やたらに老成した部分とやたらに子どもっぽい部分が同居していて、いつでも誰に対しても心の底から真剣で、目に見えてしまいそうな、手で触れられてしまいそうなあふれる情を、一切の衒いなく明け渡してくる。
 ふ、と無意識の笑いを落とし、しょぼくれた横顔へ語りかけた。
「なあ、もう梅酒も作っちまわねぇ?」
「え?」
「せっかくこんな余ってんだしよ」
「けど、梅酒は」
 ザルに半分ほど残った青梅と日向の顔とを順繰りに見て、おそらく五日前と同じやりとりになるだろう言葉を続けるのを制し、
「今年はまあ、お前んちからありがたく貰うとして、ずっとそれ続けんのもやっぱ悪いだろ。漬け物だとかみてーに世話する必要もねぇし、クローゼットの隅にでも押し込んどこうぜ」
 ――目じりに皺が出るぐらいまで置いときゃ、いい味になんじゃねぇの。
 あくまで軽く紡げば、呆気に取られたように開いた口から、それって、とほとんど耳に届かない高さの声が鳴り落ちる。さっと色を刷く頬の線を見、いつものあれこれをやり返してやった気分で悦に入るが、どうせ自分の顔も大差ない状態だろうことはわかっていたので、視線とともにすぐ正面へそらした。
 落ち着かなげな身じろぎと、実にわざとらしい咳払いを挟んだのち、日向、と低い声が呼びかけてくる。緩慢な動作を首へ伝える前に、やにわに伸びてきた腕に左右の肩を取られ、隣へ向き合う姿勢に胴ごとぐいと引き動かされた。そうして何を言ってくるのかと身構えれば、口を横に結んだまま、期待に満ちたまなざしだけが強く注がれる。
(当ててくれ、ってことかよ)
 つい今しがたお互いに気恥ずかしい思いを味わったばかりだというのに、まったく物好きなことだ。確かにこうしたやりとりに関しては、高校のチームメイト時代にも後輩から「もう主将の特技と言ってもいいですね」などと到底嬉しくない言葉を献上されたことがあるが、自分は決してこの男の翻訳機か何かではない。もろもろの記憶とともに胸の中にこぼすため息は、濃い眉の下に輝く瞳を見上げて、さらに音深くなる。
 ひと呼吸の間を置いて、あえてこちらも口を開かずに、肩を包む手の内から両腕を上げ、前へ差し出した。途端に花が咲いたようになる顔に噴き出すのをこらえつつ、そっと、やわらかな襟足のかかる首裏へ指を回す。腕が、胸が、顔が、唇が近付き、触れかかる寸前、相手の背を支えにぐっと伸び上がって、口を開き、閉じた。
「あいてっ!」
 悲鳴じみた声が上がる。それなりに高い鼻梁に残った歯形を正面に見て、今度こそ噴き出した。
「な、何すんだよひゅうがぁっ」
「あれ、違ったか?」
 涙目で叫ぶ相手へしゃあしゃあと首を傾げてやる。
「『鼻噛んでほしい』なんて言うわけないだろっ」
「いや、お前のキテレツな発想ならそういう妙な願望もあり得なくもねぇかなと」
「オレのことなんだと思ってんだよー!」
 子どものように湯気を立てて怒るのを、わかったわかったとなだめにかかる。真剣に腹を立て始めるとこれでなかなか面倒な人間なので、過度のからかいは禁物だ。なにしろ冗談が通じない。
「日向とちゅー……」
「結局言っちまってんじゃねぇか」
 そもそも特技うんぬんに関わらず、あんなぎらついた目で見つめられてわからないほうがおかしい。わかってしまえば素直に乗るよりは、少し茶化してやりたくなるのが人情というものだ。お手軽で形ばかり綺麗な既製品のレンアイらしくなくていいだろう、などと普段は相手こそがけろりと口にしそうなことを言っても、頬を膨らませた今の恋人どのにはどうやら通じなさそうだが。
 くつくつと笑いを噛んでいると、じれたように伸ばされた腕が、肩を過ぎて背まで回ってくる。馬鹿正直に心を語る瞳の色と、器用なのだか不器用なのだかわからない掌の温度に免じて、今度は望みどおりに熱重ねるべく、揃いの位置へ手を伸ばした。


-fin-
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