花さわぐ



 里のそこここに積もった雪もふと気付けば名残りを留めず融け消えて、やわらかな陽の差す黒土の上に若葉が芽吹き始めている。木々は伸びをするように新たな枝葉を空へ広げ、息をひそめて巣穴にこもっていた獣たちも、めいめい寝床の戸を開き、訪れ来た彩りの季節に耳目を澄ませ、寝覚めの身へめいっぱいに命の光を受けようと駆け回っている。
 明るく行き交う挨拶の声に応えながら、古森の大神・木吉は自らも春という麗しき日の恵みを全身に愉しんでいた。喜びを謡う鳥の声、かぐわしい花の香り、枝間から差すあたたかな陽光のきらめき。ひとつひとつを時に足止めて確かめつつ、日課の見回りの道をゆっくりと進む。
 一昨年の冬の初めに「彼」を我が森に迎えてからというもの、この季節の賑わいが一段と増したように感じる。それが陽光の神としての彼の力に由来するのか、それとも、彼という伴侶を得た、森を統べる大樹の神たる自分の高揚――まあ早い話が、浮き立ちのぼせ上がった身からあふれ出た色々の発露――によるものなのか、理由は定かではない。とは言え、無論のこと悪しき事態では決してない、むしろ喜ばしき変化と言えるのだから、細かな理路は後回しに、ただこの騒がしくも快い躍動の気配を嬉しく味わっている。
 そうした賑わしさのほかには特段の騒ぎの様子もなく、誠凛の地は今日もよき平穏の風に包まれているようだ。ほとんど散歩に近い道程をひと回り終え、少し早いが戻ろうかと、足先を我が神樹、我が神殿へ向けて歩き出す。大神の居とは到底見えない人家のごとき造りを呆れてみせた本社の、しかしことに気に入りらしい濡れ縁に腰かけ、愛しい黒猫は朝からせっせと竹矢を削っていた。手元に集中し切ったところへ横から声をかけても、聞いているのだかいないのだかの生返事しか戻らず、仕方がないと普段より早めに出発をした。本当は添って間もない仲らしくもう少し言葉を交わしてから別れたかったのだけれども、なんだかんだで送り出す声はかけてくれたから、苦笑に終わる程度の残念だ。
 ひるを回ってさすがに矢作りも終わっているだろうから、帰ったら朝の分まで構ってもらおう。まだ濡れ縁に出ているだろうか。今日は日が昇って急にあたたかくなったから、ひょっとするとうたた寝でもしてしまっているかもしれない。それなら隣で一緒に昼寝をしてもいい。
 先に待つ幸福を胸の中で転がし、自然とゆるむ顔をわかりながら整えもせず、意気揚々と帰路を行く。よもや、あれやこれやと飛躍する浮き上がった想像さえ及ばないほどの事態が待っているなどと、この時はまだ知る由もなかった。



「ただいまー、ひゅう、が……?」
 途上での予想の通り、日向の姿は濡れ縁の上にあった。遠目にそれを見つけて垣根扉から庭へ入り、進めた足が五歩にもならないうちに、景色の妙に気付く。思わず呼び損ねた名に、日向は気にせぬ様子で顔を起こし、こちらへ向けて手を上げた。
「よー、おかえりー」
 どこかふわふわと揺らいで聞こえる声。それだけでも常の様子ではなかったが、一目でわかる珍奇な事態がほかにあったので、木吉はまず何より先にその点を訊ねざるを得なかった。
「日向、何やってんだ? そいつらは……?」
 唖然とこぼれた問いにみゃあ、と返ったのは、日向ではなく、その膝の上に身を据えたキジトラ模様の猫の声であった。膝の上にとどまらず、その横、地面に下ろした足のそば、腕の中、果ては頭上の梁の上に至るまで、まさしく四方八方を十数匹の猫が取り巻いている。ふと見れば、少し離れた庭の隅には三匹ほどの山犬の姿もあった。
「いま俺、お前よりモテてる」
 ふふん、と得意げに息を鳴らして日向が言う。確かに、普段なら森の主たる木吉が近付けば、うちの半分ほどはこちらへ寄ってきそうなところだが、今日はみな木吉のことなど眼中にないとでも言うように、日向へ意識を向けている。いや、熱視線を注いでいる、と言っていい。いかにそばへ寄るか猫同士で牽制し合っている空気がひしひしと伝わってくるし、あわよくば膝へ乗ろう、足へすり寄ろうと身構えている。隅で様子を窺っている山犬も、同じようにじゃれつこうとしておそらく猫たちに追い出されたのではないか、と木吉は(少しの同情とともに)想像した。
 もちろん日向もこの地の生き物たちに慕われる神であるし、懐いているのが一匹二匹であれば、ごく自然で愛らしい画に見えたろう。だが、さすがにここまでとなるといささか異景である。しかも、集まった獣たちのほとんど全てが、「雄」のようなのだ。
 何か呑み込みがたいものを感じて、眉寄せて見つめていると、
「……あっ」
「ふふ、くすぐってぇ」
 腕に抱かれていた一匹が器用に身を伸ばして、日向の首筋をちろりと舐め上げる。笑った拍子に黒毛の耳と尾が表へ顕現して、ふよふよと愉快げに揺れた。
 ――ずるい! 俺も舐めたい! ……いやいや、そうじゃなくて、
「日向」
 心中の正直な声にぶんぶんと首を振り立ててから、早足に近付く。無意識のうちに威嚇の気を発してしまっていたのか、猫たちはひょっと毛を逆立てて一斉に場を離れ、日向の傍らを森の主に明け渡した。いつもならそこで「脅かすなよ」だか何かの叱責の言葉をかけてくるだろう真面目な恋人は、しかし逃げて行った猫たちは一顧だにもせず、小首をかたげた姿勢でこちらをじっと見上げてきた。長い尾が何かを期待するようにゆらりと立ち上がる。木吉は思わず目標の場所の一歩手前で足を止めて、どぎまぎとそれを見返した。
 ――なんだろう、なんか日向が可愛い。いや、いつも可愛いけど、もっと可愛い。日向かわいい。
「……木吉?」
 訝しげに呼びかけられる。混乱を払って応える前に、濡れ縁に立ち上がった日向につんと袖を引かれた。
「突っ立ってないで、中入れよ」
 使う言葉はいつもと同じでも、いつものつんけんと装った棘の響きはない。少し浮き立っているようにさえ見えて、心地よい陽気に上機嫌になっているのだろうか、などとあやふやに考えを巡らせてみるが、何か腑に落ち切らないところがあった。
 ほら、と重ねて促され、理解のまとまらないまま地面に雪駄を脱いで濡れ縁へ上がる。――とその瞬間、ふわり、何やら嗅ぎ慣れない匂いが鼻の上をかすめた。先ほどまでは猫たちの気配に気を取られてわからなかった、花の香りにも似た甘やかな匂い。あえて鼻を澄ませて確かめるまでもなく、すぐにそれが日向の側から立ち流れていることに気付く。
(この匂いにつられて猫が集まってきてたのか?)
 とすると、例のマタタビと同じようなものかもしれない。どこかでまとい付けてきたのだろうか? あの、猫の心を惹きつけてやまないらしい香気なら、今回の大集合の所以としてはまあ頷けた。ちらと後ろを振り向いてみれば、いつの間にやらまた濡れ縁の下へ集まってきていた猫たちが、隣立つ二人を妙に心惜しげな目で見上げている。
 自分でもどうした情のわけかわからずにいたが、その視線の中に日向を置いているのが嫌で、袖をちょんと摘んだままの手を逆にこちらから掴んで引き、部屋へと足を進める。日向は抵抗もなく隣について来て、木吉が頼む前に自分で障子を閉めた。薄い格子戸の向こうから、にゃあ、と猫が恨めしそうに鳴く声が聞こえた。


 ひとまず中へ入ったはいいものの、後をどうするかを決めあぐねて、部屋の真ん中で立ち尽くす。途上ではあれこれと帰宅後に思いを馳せて浮かれてすらいたというのに、事ここに至って、思考の巡りがやたらに鈍くなってしまった。奇妙に早まる鼓動が胸を騒がせるが、浮かれてと言うよりは、何かもっと別の――
「奥行かねぇの?」
「えっ、あ、いや」
 沈みかけた意識を戻し、慌てて声を返したが、続く言葉が見つからなかった。ひとつ奥は木吉の自室だ。戻るのはなんらおかしな話ではないのだが。
「あー、ちょっと、本の続き読み切っちまうかって……」
 咄嗟にうろつかせた視線で部屋の隅の書見台に載せた草紙を見つけ、そう言う。いつかと思っていたのは確かで、口から出まかせというわけでもなかったが、普段なら急ぎでない用事を日向といるより優先させるなどあり得ない。
(けど、今俺の部屋に戻るのは、なんかマズイような)
 どうも日向の口ぶりでは共に来ようとしている様子だ。彼の自室に戻るには木吉の部屋を突っ切るのが近道であるから、それもまたおかしな話ではない。
 だが――自室というのは、すなわち寝所ではないか。
 当たり前のことだ。だがそんな当たり前を、朝確かに布団は上げてしまったはず、と今さらの確認とともに思うことこそ、今の自分の落ち着きのなさを如実に物語っている。理由を探すことさえためらわれる、臓腑をえぐるような切迫感。騒ぐ鼓動。この、鼻をくすぐる甘い香り。
「ふぅん。どんくらい残ってんだ」
「半刻分ないぐらい、かな」
 努めて平静の声で答え、だから先に戻ってくれていい、と勧める前に、
「じゃ、待ってる」
「え?」
「そんぐれーなら、待ってる」
 あっさりと言う。
(え、待ってるって、俺を? な、なんで?) 
 狼狽する木吉をしり目に、日向はさっさと書見台を部屋の中ほどへ引き出して、さあ読め、とばかりに前に座布団を敷いた挙句、自分はその座布団の隣に腰を下ろした。
(しかもそこで待つのかっ?)
 言いたいことは色々とあったが、
「……読まねえの」
 ことり、小首を傾げる恋人の上目遣いの問いに、「読みます」と即答する以外の選択などない新婚の大神であった。


 一体これはなんの拷問なんだろうか、と一向に前へ進まない書の表面を睨みつけ、膝に置いた手で固く拳を握りながら思う。
 初めこそ隣でちょこちょこと自分の尾の毛づくろいなどをしていた日向だが(こっそり横目で見ていた。大変かわいかった)、それを終えて手持ち無沙汰になると、一度じっとこちらへ視線を向けたあと、不意に横手から消えたと思った次の瞬間、あろうことか、木吉の後ろへ回り込んで、ぺたりと背中に張り付いてきたのである。実際の話、声を上げず、尾も顕現させなかった自分を褒めてやりたい。肩はこれでもかと跳ね上がったし耳も飛び出たが。
「ひゅ、日向……?」
 声のわななきを抑えつつなんとか呼びかければ、んー、とうなって少し身を離し、
「終わったか?」
 そう言う。
「い、いや。まだだが……」
「そうか」
 早くしろよ、と呟いて、またぺたりと背に戻る。ごろごろと喉を鳴らす合間に、直衣の地に頬をすり寄せる衣擦れの音。そうしていくらもしないうちに、また声。
「終わった?」
「いや……」
 そうまで早くは終わらない。否、これでは一生終われない。
 ――間違いない。今日の日向、可愛いけどおかしい。
 心身ともに疲れ切った時など、少し言動が丸く幼げになるような場面は、確かにこれまでにも何度か見ている。だが、特に何か騒ぎがあったというわけではなく、気を抜いて完全な獣の姿になるでもなく、こうしてただ甘えてくるなど、おかしいとしか言いようがない。それに、この身体――。 
 自分自身の異状は強いて忘れるようにそう結論し、木吉はぐるりと座布団を回してやにわ後ろへ振り向いた。きょとんと目を丸くする日向(かわいい)の肩を掴み、引き寄せて、額を軽くぶつけ合わせる。不意の動作に、にゃ、と猫の声が転げるのが聞こえた。もしそこで伏せた目蓋を上げていたなら、赤く染まった頬と、そっと寄せられる唇も見えたのだろうが、その先が触れ合う寸前、木吉はまたがばりと勢いよく、はた目からは逃げるようにも見える所作で顔を起こした。
「やっぱり熱い……日向、風邪でも引いたんじゃないか?」
「風邪?」
 背に寄せられていた手や頬も、掴んだ肩も、そして触れ合わせた額も、ひどく熱を持っている。そうして改めて見つめてみれば、目は潤んでいるし、顔はほの赤く染まっているし、息は少し弾んでいるし、床にぺたりと座り込んだ様子はどこか気だるげで、狩衣の衿元に覗く白い肌と浮き出た鎖骨がなんとも色っぽ――
「――ってちっがう!」
 一足飛びに横へそれていく思考を自らの叫びで断ち切り、ぶわりと尾を膨らませた日向に慌ててスマンと謝する。具合が悪いのなら、あまり刺激を与えるのは好ましくない。神霊が風邪なんて、と無知識な者は言うかもしれないが、人と獣の生身を持ち合わせる以上、稀だが皆無のことではない。そうした時の心身の変調もただの人と大差なく、妙に懐いてきたのは、きっと体調を崩して心細かったせいだろう。ほうっていたことへの詫びの意を込め、猫の耳ごと頭を撫でてやると、心地よさげに目を細める。
「ん……終わったのか?」
「ああ」
 嘘も方便だ。なんでもねだられてやるから、しっかり休ませないと。そう思い三度目の問いに笑って頷くと、日向はぱっと顔をほころばせて、

「じゃあ、シようぜ?」

 事もなげに、言った。



「……え?」
 しばし時が止まった後、見合わせていた笑みのまま単音で問い返す。いやまさか日向に限って、聞き違いだろう、と思い直しかけた言葉は、するりと身を寄せてきた恋人自身にすぐさま否定された。
「木吉ぃ、な、シようぜ……」
 まさしく猫の鳴くような声でねだってくる。伸べられる手、とろりと熱揺らす瞳が求めるものは明らかで、「何を?」などと戯言を挟む余地すらない。なんでもと決めはしたが、よもや、こんな“おねだり”をされるとは夢にも思わなかった。
「木吉……」
 甘く呼ばれる自身の名、ふわりと匂い立つ香気に、喉が鳴り、頭の奥が痺れる。緩慢な動作で腕を持ち上げ、見えない力に引き寄せられるように、その腰と背を――
「うわああっ、だ、駄目だっ!」
 抱きかけて、寸前で引き戻し、代わりに自分の頭を抱え込んだ。ほとんど胸元に入り込んでいる日向がまた耳と尾の毛を逆立たせて驚くが、今度は目に入らない。
「駄目だ日向、ちゃんと寝てねーと!」
「な、なんでだよ。眠くねぇよっ」
「眠くなくても風邪の時は寝てなきゃ駄目だっ」
「だから風邪なんか引いてねぇし!」
 再び肩を掴み、今度は逆に胸から引きはがしながら言うと、日向は憤りの声を上げて抵抗を示した。いつもと逆の反応は嬉しい。嬉しいが、つらい。
「てめぇ、なんで離そうとすんだよ! し、シたくねぇのかよっ」
「う……、い、今は無理だっ」
 熱のせいで妙に愛らしく艶っぽい今の日向に手を出そうものなら、きっと無体を強いてしまう。弱っている相手にそんなことはしたくない。
「無理、って」
 表情を曇らせて、日向は肩に置かれた木吉の手に自分の指を寄せた。
「本当にシたくねぇの……?」
 ささやきながら、首を横に倒し、頬をすり寄せてくる。
「く……」
「木吉」
「だ、駄目だ、って」
「なぁ」
「だからっ」
「……みゃう」
「そっ、そんな目で見ても駄目なものは駄目!」
 異様なまでの色香に気圧されながら、なんてこった、と天を仰ぐ。どんな強大な妖魔に相対した時も、これほどまでの敗北の恐怖を感じたことはない。
 おそらく自分も意地になっていたのだろう。先ほどの猫たちと同列に並びたくない、という妙な矜持もあったのかもしれない。いいから寝ていてくれ、と突っぱねると、日向は少し衝撃を受けたような顔を浮かべたあと、肩を落として黙り込んだ。頭頂の猫耳までがしゅんと寝てしまい、強く言い過ぎたかと焦って弁明を図る前に、
「……そんなにシたくねぇのかよ」
 ぽつり、沈んだ呟きが落ちる。
「い、いやだって、熱が」
「熱なんてねーっつってんだろっ」
「けど、すげー熱いぞ?」
「こっ……これは、だから、……わ、わかれよ!」
 お前は違ぇのかよ、と投げ出すような声で言われ、ぱちぱちと目瞬きをして真っ赤な顔を見つめた。言葉を返そうにもその指すところが見えず、ただ戸惑ううちに、日向はきゅっと唇を噛み、会話にもならないやり取りを先へ進めてしまう。
「……わかった、もういい。お前いつもと全然変わらねーし、そういうことなんだな……。お、俺だけこんな浮かれて、のぼせて準備とかして、馬鹿みてーだ」
 畜生、と震え交じりに言い落として、ふらりと立ち上がる。
「日向、あの」
 ちょっと話をだな、と引き止めにかかるが、まだ木吉が事を理解できずに、ともかく、と思って声をかけたのが伝わったのだろう。荒い激昂の声が返った。
「るせぇっ! もうお前なんか知らねぇっ。どっかでもっと男前で気の利く狼でも犬でも見つけて番ってやるからな!」
「日向? って、つが……え、えええっ」
「お前なんかもうどうでも良くなるぐらいすげーキモチイイ交尾してきてやる!」
「こっ……! え、日向っ? ちょ、待っ……、え……えええええええええっ!」
 聞き捨てならない台詞を次々に場に叩きつけ、伸ばした木吉の腕を振り払い、ぽんと黒猫に身を転じた日向は、とても具合が悪いとは思えない俊敏な動きで障子を破り、外へ飛び出していってしまう。衝撃に足をふらつかせながら立ち上がり、戸を開いて見やった時には、その小さな身体は遥か木々の彼方にあった。
「……嘘だろ、日向……」
 呆然と声を落とし、数十秒の自失の間ののち、我に返って同じ方向へ駆け出していった偉大なる神狼の後ろ姿を、屋根で日に当たっていた猫たちがやれやれとあくびをしながら見送っていた。


     ◇


 畜生、畜生、と春のうららかな日差しに似合わぬ罵声を道に吐き落としながら、日向はひとり肩をいからせ森の外を歩いていた。
 朝、寝床で目覚めた時から、なんとなく気分が落ち着かずにいた。何かに集中して心を鎮めようと矢研ぎなどを始めてみたが、手元が狂うばかりで、気が治まるどころか身の内から刻々と熱が湧き上がってくる。そういえば去年も同じ時期にこんなことが、と思ううちに木吉が出かけてしまうと、今度は無性に寂しくてたまらなくなり、その頃にはあらぬ考えも頭に転がり始めていて、さすがに日向も自分の心身の変調とその理由を自覚した。森に春が訪れたのだ。つまりはそういうことだった。
 羞恥より先にのぼせ上がった心でおざなりに道具を片付け、ふらりと寝所へ向かい、上げたばかりの布団を延べ直した。濡れ縁に戻るといつの間にか庭に猫たちが集まってきていたので、独りの時間の慰めにじゃれ合いの相手をして、恋しい者の帰りをそわそわと待っていた。竹垣の向こうにその長躯が見えた時には、本当に胸が弾んだのだ。
 けれどそんな想いも、もはや全てがご破算だ。こちらの手を拒んで逃げた挙句、言うに事欠いて、風邪なら寝ていろ、だなんて。浮かれ上がっていた自分がとんだ道化のようだ。冷や水を浴びせられた頭で思い返せば、相手へ示した振る舞いも滑稽に過ぎて、今さらに消えたくなってしまう。
「熱っちい……、くそ」
 頭は冷えても身を焦がす熱は高まる一方で、胸底のうずきも消えはしない。ふらつく足を叱咤するが、特にこれという当てがあるでもなく、結局はただ道なりに進んでいるだけだった。
(今日は前の部屋で寝るか……)
 請われるまま新しい本殿に自室を移したが、ほかの仲間とともに使っていた宿舎にもまだ寝床は残っている。啖呵を切って飛び出したはものの、本当に番う相手を探しに行くなどと大それたことをする気も度胸もなく、と言ってすぐに木吉のいる本殿へ帰ろうとも考えられず、森の方向へ足を返した。去年もやり過ごせたのだ、今回だって、と襲う熱の高さの違いを見て見ぬふりして決め込み、踏み出そうとした、その時。
「――ね、ちょっと」
 後ろからかかった呼び声に足を止め、振り向く。十数歩先に、留紺とめこんの袷を着た若い男が立っていた。やわらかげな薄色の髪を後ろでひとつに束ねた、なかなかの美丈夫だが、近くの村人などではないことはすぐにわかった。
 じっと検分の目を向ける日向の態度を気にするでもなく、笑み浮かべた男はこちらへ歩み寄りながら言葉を続ける。
「あなた、森の陽神ひのかみさまでしょう。会えて光栄です」
「……おう」
 曖昧に頷く。森に暮らし始めてすぐに日向の存在はこの地に知れることとなった(何しろおおらか過ぎる対の主神がすぐ明け広げにした)ので、ひと目に言い当てられても不思議な話ではない。
「あ、俺、怪しい流れ者とかじゃないですよ。一応この土地の……」
「ああ、わかる。狗化けだろ」
 もともとの地霊や神霊ではなく、歳経た犬が霊性を得て人へ変化するようになったものだ。正体は狼か、大型の山犬だろうか。少し木吉と似た気をしている。
 そうですと嬉しげに頷いて、男はなおもこちらへ歩を進めてくる。
「もっと歳を取った感じの人かと思ってたなぁ。そんなに大きくもないし……いい匂い……お暇なら、ちょっと茶屋でお話でもできません?」
 とろりと言うなり、犬の耳尾が外へ顕現する。声はまだ穏やかさを残しているが、揺れる火を宿す瞳はもはや渇いた獣のそれだった。
「俺を知ってるなら、もう片方の主神のことも知ってるんじゃねぇの」
 その関係も、と言外に含めて言うと、ええと男は軽く頷いた。既に足はあと半歩のところまで来ている。
「でもこの季節ぐらい、ちょっとよそ見してもいいでしょ? あなただって、こんなやらしい匂いさせたまま外を歩いてたんだし」
 そういうことでしょう、と落とされた言葉に一瞬息が詰まり、馬鹿にするな、と一語に撥ね付けることができなかった。自分が引き止める声も聞かずにあの場に残してきたのは、まさしく「そういうこと」を意味する言葉だった。
「違っ……俺は、そんな……」
 頭を振り立て、心の叫ぶまま放ちかけた反駁を、嘘、と冷淡に遮られる。
「だってあなた、全然狼の匂いがしない」
 喉が引きつって震えた。相手へ、そして己へ聞かせるべき言葉が消え、冷たい衝撃だけが後に残った。跳ねた肩を掴む手を振り払えもせず、自分より少し高い位置にある獣の眼を見上げる。
「あの人は確かにとても尊い神だけれど、俺たちみたいなのからしたら、少し潔白で偉大すぎる気がする」
 違う? と問われ、核心を突く瞳から逃れて、ただ俯く。
(……んなこと)
 気がする、どころではない。そんなこと、今その傍らにある自分が一番身に染みて知っている。あの優しく真面目な男のくれる言葉を疑うわけではない。それでも、いつも思っている。並び立つ者としての心身の不足、抱え持つ器の差を、いつも感じている。今日だって。
(こんな奴でも匂いだけで寄ってくるのに、あいつは、全然――)
 こんな卑俗な想いなど、あの清廉の神には不要なものなのかもしれない。だとしたなら、この身の熱は。
 我知らず落とした吐息に、肩を掴む男の手の力が増す。きしんだ骨の痛みに眉寄せて顔を起こすと、眼前に紅い口を舐めずる舌と光る牙が見えた。
「あ、」
「いいでしょ? こんな騒がしい季節なんだから、少しぐらい羽目外しても」
 確かに、それを意味する言葉を投げ出してきた。この熱を一人で治められないことなど本当はわかっている。けれど。
(あいつじゃ、なきゃ――)
 惑いを払い、やめろ、と拒絶の手を上げかけた、その時。
「いっ……!」
 悲鳴じみた声が上がり、ふっと肩が軽くなる。顔を見上げるまでもなく、男の手首を捕らえた骨ばった指の形だけで、突如現れた人影の名がわかった。それを呼ばわる前に、険しい声が飛ぶ。
「俺の番いに手を出したら、いくら土地のやつでも加減できねーぞ」
「……番い? でもそっちの神様は――」
 言い差した言葉を遮るように、ざわりと怒りの気が膨らむ。背にする森の木々すら呼応して牙を剥くほどの憤激の気配に、男は自ら口を閉じて後ずさった。行け、と命じた低い声が言霊に転じたのか、見る間に人の身が崩れ、後に残った山犬が一度降参の姿勢を示してから、脱兎のごとく駆け去っていった。

「……日向」
 道向こうに犬の姿が消えたのを見届けて、長身がゆっくりとこちらへ振り向く。強い憤りと困惑がない交ぜになった顔を見上げ、視線がまっすぐに合った瞬間、自分の愚への後悔と心苦しさ、それと裏腹の相手への苛立ちや焦燥が次々に胸に立ち現われて、混乱が極みに達した。
「日向、俺もちゃんと話を聞けなかったけど……いくらなんでも酷いぞ。あんな奴について行こうとするなんて」
 違うと言いたいのに、唇が震えて動かない。唇どころか、手も脚も、身体の全てが抗いようのない熱に震えを立てていた。続く声は言葉として判ぜられないままただ耳横を過ぎていき、意識を白い霞の中に誘う。
「ずっと一緒だって言ってくれたじゃ……日向? 日向っ!」
 差し伸べられた腕の中に倒れ込みながら、最後に感じた深緑の気配は、いつもより少しだけ甘く香っていた気がした。



 次に目に入ったのは、人家の天井だった。
 身を包むやわらかな布地の感触で、部屋の中に寝かされているのだと気付く。宿舎や本殿の自室ではなく、堂の主たる木吉の部屋だ。視線だけを少し動かして見やると、枕辺に当人が座していた。腕を組み目を伏せて、まとう空気はいつになく重苦しい。
 その険しい表情を見て一度はためらったが、ここでまた逃げてはならじと思い直し、意を決して口を開いた。
「……木吉」
 小さな声だったが、木吉はすぐにはっとした様子で目を開けた。問われる前に、こちらから言葉を続ける。本当は起き上がってきちんと向き合いたかったが、まだ熱を持つ身体が重かった。
「その、……悪い。まだ怒ってる、よな……。俺……本当にあんなこと、するつもりじゃ、」
「日向」
 訥々とした謝罪を遮り、名が落ちる。低い声音に、挟みかけた声を呑み、詰られるのを覚悟で次の言葉を待った。
 息詰まるような沈黙。長く続くかと思われたその間を断ち割ったのは、静かな謗りでも、非難でもなく、
「日向っ、すまん……! 許してくれ!」
 この通りだ、と、胡坐に組んでいた脚を慌ただしい動作で跳ね起こして正座に固め、畳に手をつき、こちらへがばりと頭を下げて叫ばれた、大音声の謝罪の言葉だった。
「……は?」
 詫びるべき相手に逆に見事な土下座を決められ、驚いたのは日向である。思わず間の抜けた声を返すと、木吉は緩慢に身を起こし、気まずげに口を開いた。
「ええと、だな。俺、すげー勘違いしてて……あの後やっと気付いたと言うか、教えられたと言うか、その……」
 常になく弱ったように眉を下げて、ぽつぽつと、事の次第を語り始める。


     ◇


 頭に血が昇るっていうのはああいう時のことを言うんだろう、とのちの日にそれを振り返り、木吉はまた新たに見つけた己の感情にしみじみと思いを馳せた。
 見知らぬ男と間近に向き合う日向の姿を目に捉えた瞬間、全身の血が沸き立つのを感じた。あいだに割り込み、この腕に彼を取り戻すことしか考えられなかった。逆巻く怒りのまま男に剥き出しの威嚇を発し、返す刀で日向にも抗議の言葉をぶつけたが、すぐに続く声を失ってしまった。上気した頬の上に涙の線が流れるのを見止め、ぎょっとして問うよりも早く崩れ落ちかけた身を慌てて支えた。
 名を呼んでも肩を叩いても日向は苦しげな息のまま目を開けず、驚くほど熱い身体を抱きしめて動揺に膝を付いていると、後ろから呼びかけてくる声があった。しかも、ひとつではない。振り返れば、種々の声色にふさわしい、種々の霊たちの姿がずらりとあった。倒れた日向を気遣わしげに見ている者もいれば、ほとんど睨むような目を木吉に向けてくる者もいる。
『酷いですわ神樹さま! 御内儀さまにそんな仕打ちをされるなんて!』
『いやいや、神樹さまも純心な方でいらっしゃるから』
『獣ノ季節、我慢スル良クナイ』
『あらあらまあまあ、いいわねぇお若くて』
『……いやみんな、そういっぺんに言われても何がなんだか……』
『殿方にはもっと甲斐性が必要ですわ! 御内儀さま、あんなに可愛らしくされていたのに……』
『いや、この時期は獣混じりでなくとも心が騒ぎますなぁ、ほっほ』
『甘イ匂イプンプンスル……。早ク番ッテヤラナイト妙ナ輩マタ寄ッテクルゾ』
『あらあらまあまあ、初々しくて素敵ですこと』
『ええと……』
 口々に並べ立てるのを、ちゃんと聞くから一人ずつ、となんとか落ち着かせると、
『では、そこへお座りなさいまし』
 ずいと前へ出た泉乙女が冷えびえとした声で言い、その異様なまでの凄味に圧倒された大神は、ただ頷き従うほかなかった。



「――それで、道端に正座してずっと怒られてた」
「……そうか」
「すげー怖かった」
「そうか」
「最後は『俺ここの主神なんだからこれぐらいでそろそろ勘弁してくれよ!』って泣き入れちまった」
「もう威厳がどうとかそういう話じゃねぇな……」
 そうして、新古入り混じる土地の霊たちにあたたかくも厳しい説教と忠告をたっぷり頂戴したのち、老練の柳の精が守ってくれていた日向を抱えてふらふらと本殿に帰り、既に敷かれていた布団に赤面しつつその身を寝かせ、今に至る。
「本当にごめんな、日向。俺、なんにも気付いてやれねーで、逃げたり怒ったりして」
 人に言われてやっとわかるなど、情けないにもほどがある。しゅんとして声落とすと、日向は戸惑ったように眉を寄せ、首を振った。
「べ、別にいいよ。知らなかったんならしょうがねぇだろ……俺だって色々ひでぇことしたし、言ったし」
 森を飛び出す前の自分の言動を恥じているのか、目線を脇へそらせて言う。
「もう忘れろよ。お前が、その、さ……盛りとかそういうの無ぇんなら、俺、一人でなんとかすっから」
 ちょっと閉じこもっちまうかもしれねぇけど、と赤らめた頬を布団にもぐって隠そうとしながら、猫の耳を少し寂しげに寝かせている様がいじらしく、たまらず声を上げた。
「ち、ちげーぞ日向っ。俺、無いわけじゃねーんだ、その……たぶん」
 たぶん? と目を瞬かせて見上げてくるのに、小さく頷く。
「今まで俺、そういうの全然なかったから……。いや、知らなかったわけじゃねーんだ、さすがに。ただ自分が決まった季節にそわそわしたり、その、むずむずしたりとか、そういう感じになったことはなかったから、みんなとは少し違うんだと思ってた」
 神体は獣だが樹木の霊の力も強い自分は、おそらくこの麗しき季節の賑わいとは無縁の存在なのだろうと、そう思っていた。
 だが、今日にわかに騒ぎ始めた、早鐘はやがねのごとき胸の鼓動。甘く心を誘うこの香り。
「本当は俺、昼に帰ってきた時からおかしくて、お前がそんな匂いさせて、あんな可愛いことしてくるもんだから変になっちまいそうで、でも具合が悪いなら我慢しねーと駄目だって思って……。けどな、今も正直、お前を頭からばりばり食っちまいたくて仕方ないんだ!」
 溜め込んだ鬱積をひと息にぶちまける。日向は布団の中からただ目を丸くしてこちらを見つめていた。
「あ、違うぞ日向! 食っちまいたいってのは喩えで、つまり俺が今お前のことを物凄く抱きたいっていう……」
「わ、わかってるよ言い直すなダァホッ」
 あたふたと言葉を遮り、顔をさらに紅潮させて、ほんとか? と問いかけてくる。その、弾みかけるのを強いて抑え込んでいるような音につられて声高めながら、ああと頷きを返した。
「ちゃんと確かめたわけじゃねーけど、ほら俺、狼だからさ。今まで日向みたいに好きになったやつがいなかったから、何も感じなかったんじゃねーかなって。狼って、ずっと嫁さん一人だけだから」
 いい匂いとかって思ったの、お前が初めてだ。噛みしめるように言うと、面映げに目をさまよわせる間のあと、そうか、と小さな相槌があり、一拍の沈黙を置いて、もぞもぞと布団から這い出してくる。自力で起き上がりつつもまだふらついているところへ手を添えてやると、熱帯びた身体がびくりと震えた。それでも逃げずにこちらへ身を寄せてきて、ふんふんと鼻を鳴らす。
「……お前も甘い」
「え……、そうか?」
 我が身を見下ろすと、一度納めたはずの耳と尾がまたいつの間にか顕現していた。胸の底でふつふつと滾る獣の本能を感じ、衝動的に、そばにある肩を掴まえる。ちょうど、道であの優男の狗化けが彼にしていたように。
「日向、俺、気も利かねぇし、男前でもねーけど……お前がほかの犬とか狼のところに行っちまうのは絶対いやだ。頼む、ほかの誰かと番うなんて言わないでくれ。俺とシてくれ!」
 まっすぐに目を合わせ、言いつのる。金緑に色を変じた猫の瞳が揺らめき、その奥に、きっと自分も狼の眼に爛と浮かせているのだろう、飢渇の灯を宿らせた。
「ば、馬鹿ヤロウ、お前より男前の狼がいるかよっ」
 今日だって俺が具合悪いと思って気ぃ遣ってくれて優しいし、強いし、でけぇし、もふもふだし、手が大きいのも好きだし、それから……、と次第に酔った猫が鳴くようなふにゃふにゃとした声になりながら並べられる言葉に、身の熱が上がるどころか、一気に沸き返ってしまう。そのまま腕をがばりと日向の背へ回し、力の限りに抱きしめた。
「日向っ、好きだ、愛してる……!」
「木吉……っ」
 もはやかけらほどにしか残らない人の理性で、どうにか相手の身体を傷めないことだけを気にして組み伏せ、舞い立つ香気に誘われるまま、荒々しく口付ける。咬み付くような接吻の間に漏れる甘い啼き声を、震えて縋りついてくるしなやかな身体を、頭から足の先まで喰い尽くし、ただひたすらに自分だけのものにしたかった。
 幸福な番いが尾を絡ませ合う閨の外では、はやばや猫たちの退散した屋根に一段とあたたかな風が花を散り踊らせており、その年、誠凛の地には時期外れの二度目の春嵐はるあらしが訪れたそうである。





     ○


「――なーんてこともあったなぁ」
「……いきなりなんの話だよ」
 部屋にひとひら舞い込んだ花の弁を見て追想し、しみじみと落とした呟きに、胸元に埋まった口からくぐもった声で問いが上がる。眼下に揺れる黒毛の耳を撫でながら、
「いや、最初の春は大変だったよなって」
 そう言葉を足すと、ああと頷きが返った。
「お前、ひどかったよな。道端で説教されて」
「う……人のこと言えないだろ」
「うっせー忘れろ」
「日向こそ」
 そんなことを言いつつ、きっとお互いにいつまでも忘れられないのだ。哀しませたこと、傷付けたこと、笑い合ったこと、慈しみ愛し合ったこと。この愛しい番いと過ごした日々は、たとえどれほどの月日が過ぎても全て鮮明に憶えている。今までも、そしてきっとこれからも。
 
 散々、と言えば散々だった初めの春から、もう幾十度目かの同じ暦日を迎えたが、やはりこの季節はいつも変わらず胸が躍る。年が経巡るうちに、互いの心身の変調にも少しずつ慣れていった。とは言えいまだに思いもつかない言動にぎょっとさせられることはあり、それもまた流転尽きぬ日々の喜びだ。
 日向の盛りの表れがほかの神霊に比べても特に顕著であるのは二年目から気付いたが、日によってその程度が違うのも次第にわかった。ほとんど理性なく色香を振りまくばかりになってしまうこともあれば、今日のように、起き抜けからそれなりに普通の様子でいることもある。だが、一見しゃんとして見える日も心を融かし崩していることは変わらず、まとう香気も相まって、とても独り外へ出せたものではない。
 盛りを迎えたとて心身が別のものになってしまうわけではないから、おそらくどの性質にしても日向が確かに持つものの一部で、日によってある面が強くなったり弱くなったりしているということなのだろう。当人は時期の過ぎた後に毎度飽きもせず羞恥で頭を抱えているが、木吉としては、恋人の普段は隠した様々な顔が見られるのが純粋に嬉しかった。
「明日は朝からか?」
「ああ。それほど早くはないんだが」
「そうか」
 予定を確かめて頷き、また頬を首元に懐かせてくる。
「一日ずっとそばにいれなくてごめんな」
「別に、謝るこっちゃねぇだろ……。そもそも俺が全然仕事やれねーでそっちに回しちまってるんだし」
「この時期の日向の仕事は俺といちゃいちゃすることだから大丈夫だぞ」
「……だぁほ」
 小さく悪態をつきつつも、膝の上の猫は木吉の胸にひたりと身を寄せたままでいる。こちらだって離す気はさらさらない。十五年の別離の隙間を埋めるには、この程度の触れ合いではまだ少しも足りはしない。
「ま、お前意外としょーもねぇところがあるからな。誰かがそばで世話してやらねぇと」
「そうそう。誰かっていうか、日向がな」
「おー仕方ねぇ、してやる」
「けどな日向ぁ、そばにいてくれるのはいいんだが、さっきからだいぶ長いことこのまんまなんだよな」
「んー」
「さすがに俺、そろそろうずうずしてきちまったかなー」
「知ってる。すげー当たってる」
「知ってて放置ってちょっとした拷問じゃねーか?」
「胸ぬくいの気持ちいいからもうちょっと」
「いいけど、俺これ以上ほったらかされてるとケダモノになっちまうぞ」
「もともとじゃねぇか」
「……どういう意味で?」
「どういう意味でもに決まってんだろ」
 言ってくつくつと笑うので、意趣返しにぴんと立った猫の耳を牙で咥えてやる。応えるように諸手が背に回ってきたのを合図に、するりと夜着の帯を解いた。
 そういえばあの春、不埒な狗化けが言っていた。行いの是非を今に至って論ずるのはともかく、その言葉には心から同意する。普段は険しく眉を寄せて、少し背伸びさえして凛と立っているのだから、こんな時ぐらい少し羽目を外して甘えてくれていい。可憐な花とて舞いさわぐ、麗しき睦びの季節なのだから。
 ――もちろん、俺の前でに限るけど。
 春の陽に魅せられた狼は、滾つ熱に抗わず身を委ね、生涯の伴侶に獣の情交を知らせる口付けを捧げた。


―了―

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