花しのぶ



 朝霜絶え、森の深奥を訪う風にも早咲きの梅の香の気配が混じり始めている。去りかける冬の背を眺めながら、四節の別なく通い慣れた道を、独り静かに歩む。自由気ままに木々の間を遊ぶ不形の精霊たちさえが畏れ尊びその一円には近寄らぬ、森の真なる主の座。構えて十余年、もとよりは古森に馴染まぬはずの深厳たる姿も、この場の普段の景色となって久しい。
 石段を登り、頂上の壇座に臥する長躯の前に立つ。全ての命が夢覚めを待つ穏やかな曙光の下、ただ独り、尽きぬ眠りに身を沈める者。誠凛の地の古き護神、大樹の神・木吉。
「よぉ。雪もすっかり消えちまったぞ、寝ぼすけ」
 対たるべき主神の、色の無い寝顔へ語りかける。身じろぎひとつの応えも示されず、ただ息を吸い、吐く、かすかな呼吸の音だけがごくゆっくりとくり返されるのを、常と変わらぬ目で見下ろし、常と変わらぬ声で呼ぶ。
「だいぶ暖かくなったからな。コガが今度下を単衣に替えに来てやるってよ。ま、用意すんのは水戸部だろうけどな。……俺は次の朔までは来れねぇだろうから、頼むっつっといた」
 一瞬、噛みかけた唇を無理やりに開き、
「おい知ってるかよ。この時期に雨が降ると、全部俺がどうかなってることにされるらしいぜ。部屋にこもってるだけで雨になるんなら、おちおち本も読めねーじゃねぇか」
 苦笑とともに言ってから、
「……土地のやつらに気苦労かけるなんざ、情けねぇ主神だよな」
 細く息をつき、ほつりと続ける。
 雪解けののちにしとしとと落ちて森の草木を濡らす小糠雨を、いつしか誠凛の住み人たちは、“陽神ひのかみ様の涙雨”だと言い習わすようになった。あたかも、春という麗しの季節にふつりと姿を見せなくなってしまう主神の存在とその哀しみを、霧にけぶる景色を眺めてそっと触れ確かめるかのごとく。
 一から十までとは言えないが、それでも確かに真の一端を語る言葉が生まれ、広がるほどの月日が、誰の身にも等しく過ぎていった。限りある命をせわしく生きる獣や人にも、悠久の時を過ごす神霊にも、我が分け身たる古樹の下、ただ静かに眠り続ける者にも。

 生の鼓動を教える直衣の胸の上下をじっと目に灼き付けるようにしてから、おもむろに足を返して寝台へ背を向け、椅子ではなく祭壇の地面に、台に寄りかかるようにして座り込む。石敷きの壇座の冷たさにまだ往ききらぬ冬の気配を感じた。
「十五年か。……もう、そんなになるんだな」
 あの忘れがたき惨禍の日から、数えて十五度目の冬が終わり、十五度目の春が巡り来ようとしている。若芽が樹となり梢に花咲かせ、人の赤子が元服して立つまでの歳月を、自分はいかにして過ごしてきたのか、朧に思い返す。妖魔の血と毒に傷付いた森を癒し、焼けた村を弔い、また興し。土地の霊たちとの結束をこれまで以上に深めるとともに、他国との親交もつなぎ、神域としてまだ若い誠凛の地を護るべく、仲間たちと共に内を外を駆け回った。ただ前を見て走るばかりの、目まぐるしい日々のようでもあった。
 けれども、一度足を止め、失ったもの、奪われたものを想えば、それは同時に、遅々として先へ進まぬ日々でもあった。消えた幼子の無事は噂にさえ聞かれず、呪いの根源として追い続けている憎き大蛇の行方も、杳として知れぬままだった。
 そして、毒牙に斃れた森の主は、いまだ目覚める気配を見せない。
 震える唇を噛み締め、一縷の希望を胸にただ通い続けた一年目。そっと手を伸ばし、微動だにせぬ身体に触れることを己に許した二年目。諦念を捨て、笑い語りかけることを始めた三年目。
 変わったのではない。進んだのではない。あの瞬間、冷たい刃に切り裂かれ崩れ果ててしまった我が身と心が、少しずつ形を取り戻し、立ち上がり、また歩き始めた。土地の子らの賑わいに励まされ、頼もしい仲間たちに添われ、かの人が護り、残した、優しく穏やかな自然の息吹に包まれ、今こうして、平らかな思いと共にここに在る。

「早く起きてきやがらねぇと、お前、目の色だのどんな声だったかだの、すっかり忘れられちまってても知らねーからな」
 この十五年のうちには、幾百年この地を護り抜いてきた神の存在を知らずに生き、死んだ者も少なくない。欠けてなお同じ早さで過ぎゆく日々への憂いを、努めて笑いに変えて語りながら、頭を後へ振り向かせる。
 ――と、何かの弾みで台を落ちたのか、顔のすぐ横に骨ばった手指が垂れているのが目に入り、思わず息を止めた。胃の腑のせり上がるような鈍い痛みを感じ、狩衣の胸元をぐっと掴み締める。
 かの神の存在をそのまま象ったような、大作りの手。長く無骨な指は、いつの日も優しく命に触れ、揺るがぬ強さを持って全てを護り、世をおびやかす魔の者にかざされる時ですら、廉直な慈悲の念を抱いていた。
 半ば忘我の胸のまま、緩慢に身を傾け、そっと、その指先に顔を寄せる。節くれ立った手の甲に頬を触れさせると、かすかな温もりが伝わってくる。ひとつの命が、確かにここにあるという証。
「……木吉」 
 その名をひそやかに紡ぐ。途端、背を震えが渡り、寒気に似た何かが肩に手をかけたと思う間もなく、炎のような熱が胸底に灯った。
「っあ、」
 ひきつった喉から細い声が漏れ出る。反射的に身を丸めるが、内側から湧き立つ熱は逃れようもなく全身を侵していく。獣の耳と尾が抑えきれずに外へ顕現し、黒毛をざわりと逆立てた。
「ん、んっ……あ……」
 春嵐とともに訪れる、獣の慾を駆り立てる激情。番いを呼び、交合を求めて乱れる身体は、たとえ唯一と誓った半身を失くそうとも、人の理の虚飾を笑うように、絶ゆることなく熱を孕む。
 息を乱しながらもどうにか脚を立たせようとするが、まるで力が入らない。恋しい者の気配を間近に感じて、身が開いてしまっている。この手が、声が届かぬことを知りながら、ただ求め、啼き焦がれている。
 霞がかった意識でまたゆらりと横を振り向き、垂れた手に頬を寄せる。快が首裏を撫で、甘噛みを受けた猫のように、抗いの力が抜けていく。すんと鼻を使うと、澄んだ新緑の香りがした。一片の甘さも宿らない、清廉の気。それでも淫らな熱が上がるのは、ただただこの存在が恋しいからだ。
 駄目だ、と制止を叫ぶ声を遠く聞きながら、下肢へ伸ばした手で袴の紐を解き、下帯を分けて性器に触れる。既に兆していた昂ぶりは恐れげの接触にも敏感に反応を返し、全身へ愉悦の波を伝えた。
「ん、んんっ、はぁ……っ」
 陰茎をすり上げるだけで始めたつたない自涜を、わずかずつ、記憶の挙止に沿わせていく。長い指に頬をすり寄せ、漏れるあえぎを噛みながら、かつて与えられた行為を反復する。
「んぅ、あっ……」
 この手を知っている。どれほど頼もしく力強く仲間たちを護るか知っている。どれほど優しく、この髪に、頬に、肌に触れるか知っている。時に荒々しく、滾つ熱情を宿して伸べられるその指に囚われ、全身を暴かれ愛される悦びを、きっと自分だけが知っている。何ひとつ失くさずに憶えている。
「木吉、……木吉っ……」
 今は重く伏せられた瞳の色も、幾度呼んでも返ることのない穏やかな声も、倒れた身体に取りすがる自分の涙を、最後にそっとぬぐっていった指のあたたかさも。全て鮮明に憶えている。忘れられるはずがない。たとえ流転の世の中、人の口からその名が消え果ててしまっても、自分だけは、決して。
「ん、っ……!」
 びくりと身が跳ね、極みに達する。瞬間、噛みしめた牙が肌をかすめたのに気付いて目を開くと、皮膚の薄い手の甲に血がにじみ出ていた。
「あ、」
 思考を覆っていた霞が急激に晴れ、血をぬぐおうと我が手を上げかけて、瞬前の穢れを思いだし、きゅっと眉寄せて再び顔を近付ける。口付け、そっと這わせた舌先に伝わる、ほのかな生者の熱。
 ――なあ。お前はまだ、ここにいるんだよな?
 鉄錆の味が次第に塩辛く濁るのを感じながら、祈るように、無言の問いを紡ぐ。
 次に目覚めた時にはどうしてくれようと、考えたことは山ほどにあった。なんであんなことをしたのだと怒鳴りつけたかった。不在の間の苦労を聞かせたかった。二度と身を投げ出さないと誓わせたかった。頭を伏して礼を告げ、護れなかったことを謝りたかった。
 けれど今はただ、会いたい。大きな手に触れてほしい。広い胸に抱きしめてほしい。迂遠な言葉など全て後回しでいい。その低い優しい声で呼んでほしい。日向、と、ただ名前を呼んでほしい。
 ――いつか帰ってくるんだよな? そうだろ?
 忍ぶ恋など柄ではない。けれど、待ち続ける。前を見据えて歩き、かの人の愛したものを護り、哀しみに膝が折れる日があろうともまたすぐに立ち上がって、いつまでも待ち続ける。

 ごめんな、日向。泣かないでくれ。いつか、きっと――

「……忘れてやらねぇぞ、俺は。ぜってぇ約束守らせるからな」
 音にならずに消えた最後の言葉を、いつまでも、信じている。



 一度祭壇を降りて近くの湧き水で自分の身を清めて戻り、濡らした手ぬぐいで今度は眠る男の見目を整えてやって、また傍らに立つ。
「ん、まぁ見れる顔になったんじゃねぇか」
 毒を鎮めるため大樹に力を同調させている今、霊性は人や獣より草木に近く、身体そのものが朽ち衰えてしまうことはないが、上に降りかかる塵や枝葉はどうしようもない。それが自然であってあまり気にすることもないだろうと仲間は言い、自身もそう思うが、何か理由を付けねば気が済まないのは、もはや生まれ持っての性分なのだろうから許してほしい。
「ほっとくとその頭、鳥に巣でも作られそうだしな」
 薄色のやわらかな髪を撫でる。とくりと跳ねる胸のうずきに、笑みを苦笑に変えた。ひとたび解いた程度では、この時節の熱は治まりはしない。
「そういや、この前海常の使いに会ってよ、なんか笠松さんが話したいことがあるんだが、国が忙しくて動けねぇだとかなんだとか……そのうち便りがあるとは思うが、都の騒ぎと言い、どうもきな臭くなってきやがったな」
 自分の気がかりを改めて拾うように語りかけ、ほかにひとつふたつの近況を探して述べていくが、身の内で早まる鼓動は、もうこの場に留まることを許してはくれないようだった。
「安心して寝てろとは言わねぇが、……今度は必ず、護るからよ」
 最後にひとつ誓いを紡ぎ、一度戻した手でまた灰茶の前髪をかき上げて、かすめるほどの口付けを額に落とす。
「……じゃ、またな」
 いつもの声で、いつもの言葉を告げる。十五度目の、いつもより少し長い別れ。
 長躯を一度眺め、足を返して祭壇を降りる。背にする神樹の梢が春風にそよぎ、振り向かず進む狩衣の肩に、ひとひらの花を舞い降らせた。





 *  *  *

「なんてことが――」
 と、胸元へ落としていたごく真剣な表情と声を正面へ向け直し、
「俺の寝てるあいだになかったのか? 日向」
「……十五年でとうとう頭の中に苔でも生えちまったのか」
 投げかけた問いは、平坦な言葉にすぐさま切り返される。呆れの視線に構わず、拳を握って続けた。
「俺の隣で日向が一人にゃんにゃんしてるとこなんて想像したら、胸と股間が爆発しちまいそうだ……!」
「にゃ……勝手に爆発してろこのダァホ!」
「爆発したら日向とにゃんにゃんできないじゃないか!」
「うっせーてめぇが言ったんだろうが! ……っつーかお前、この状況で何言い出してんの? 死にてぇの?」
「死んだら日向とにゃんにゃん……」
 なおも言いつのろうとした言葉を遮り、
「っだー! しつっけぇ! 苔の生えた頭ん中の妄想の俺と、今! お前が! 布団に押し倒してくれやがってる俺と! どっちが優先だって言って、る、……あー……」
 牙むいて放った怒声をいくらもなく尻すぼみにさせていく、腕の中の――正確には腕のあいだの恋人の顔をまじまじと見つめた。目が惑い動いて何か隠れる手段を探しているようだが、自ら口にしたとおり、既に背が布団に付いてしまっている体勢から取れる挙動などたかが知れている。
「日向」
「今のナシ」
 力業でやり過ごすことに決めたらしく、切り落とすように言ってふいと横を向いてしまうが、もはや見慣れたこの仕草は赤く染まった頬が正面に見えるようになるだけで、微々たる抵抗にも感じられない。ひょっとして逆にこちらを煽ろうとしているのでは? などと頭の片隅で考えるのも一瞬、高鳴る胸のままに声を上げる。
「日向……! 嫉妬なんかさせてすまん! 俺は昔の日向も今の日向も丸ごと愛してるぞ!」
「嫉妬なんかしてねぇしそれは昔の俺じゃねぇっ……ん、むっ」
 そっぽを向くならずっとそうと決めればいいものを、言い堪えられずにすぐ首を戻してしまう素直な恋人の頤を捕らえ、口付けを落とす。
 長い別離の冬が明け、飽かず騒がしい睦言をくり返す誠凛二柱の、春の宴も数幕目の夜半(よわ)である。



「んぅ……ん」
 肌を食むような接吻をくり返すうちにほどなく唇の結びがほどけ、差し入れ絡めた舌も逃げる様子はなく、次第に深まる行為に、閨事の始まりを謡う水音と吐息が響いて夜気の熱を高めていく。
 嫉妬とまでは行かずとも、結局は褥の上で気をそぞろにしているのに日向は腹を立てたのだろう。木吉としても実のところは思惑あって始めた語りではあったのだが、機嫌を損ねるとわかって続けようとまでは思わず、何より、雄弁に情を乞う濡れた瞳を間近にして、自ら禁欲を強いる理由もなかった。
「……きよし」
 とろりと名を呼ぶ声は早くも盛りの情を取り戻している。甘く胸を誘う音に応えてすぐにもその身に喰いかからんとする衝動を抑え、上気した頬を片手に包んで告げる。
「なあ日向。今日な、向こうの都合で外の用事がひとつなくなったんだ。それで細かい仕事詰めて先の分まで終わらせてきちまったから、明日の夜……というか、あさっての朝まで、ずっと一緒にいられるからな」
「え」
 ぱちりと目が瞬く。念を押すように頷いてやると、視線が下へ外れ、そうか、と短い相槌が返った。声こそなんでもないように装っているが、猫の耳がぴんと立って喜色を伝えてくる。愛らしい反応に笑みつつ言葉を続けた。
「だから、今夜から丸一日、なんでも日向のしたいことしてやるぞ」
 春の狂騒は生き物の心を浮き揺らがせる。獣の種や個体ごとにも様々なのだろうが、こと日向のみについて言えば、この時期は独りでいることを好まず、意地を張りがちな普段の反動でもあるのか、日による違いを置いても全般に甘えたがりの性質が強くなる。それに気付いてからはできうる限り傍にいることを心がけてきたが、戦明けて間もないこの年は、さすがに主神二人がそろって部屋へこもっているわけにもいかなかった。この状態の日向を表に出すなどもってのほかであるから、昼はほとんど常と変わりない木吉が動き回っているが、熱抱えたままの恋人を寝屋へ残してくるというのは、心残りと不安とすまなさとで毎日非常な葛藤なのだ。
 であるから、切れ間なく一日傍で過ごせるというのは、日向だけでなくもちろん木吉にとっても純粋に喜ばしい。確かここひと月では、冬がもう終わろうかという頃、虎の若子からの便りがあった日を入れても、まだ二度目の機会ではないだろうか。
「何シてほしい、日向……?」
 唇をほとんど耳に触れさせるようにして問いかける。字の通りに何を言われても応える心づもりではあったが、褥に身を重ねて思い至りうるものなどいくらもない。わかっていてそれをこそ聞きたいと問うのだから、自分もなかなか意地が悪くなったものだ。
 日向は雄を覗かせる木吉の声にびくりと身をすくませて、弱ったように眉を寄せてから、それでも唇を噛んでしまわずにおずおずと答えた。
「……ゆっくり」
「ん?」
「ゆっくり、し、……した、い」
 訥々と言って、首から額まで一気に血の色を昇らせる。照れ極まって怒ったような表情になってしまっているのが彼らしい。気をほぐすように笑いかけて、わかった、とすぐに応諾した。
「一日かけてゆっくりじーっくり、可愛がってやるな!」
「だ、ダァホっ」
 濁した部分を言葉にしてしまうと今度は本当の怒声が来たが、
「――この耳の先からさ」
 囁いて頭頂の耳に口付けると、ひたと身じろぎが止まる。
「足の先まで、ひとつ残らずぜんぶ。日向のぜんぶ、ゆっくりたくさん、愛してあげる」
 だから残らず全部、俺に頂戴。
 ひそり、請うように、命じるように求めれば、
「っ……。だぁほ、とっくに……」
 とっくに全部、お前のもんだ。
 小さく、しかしはっきりと、最後の理性の皮膜を揺らがす声音で猫は啼き、番いの熱をその身に誘った。



「……あ、んっ」
「ここ、いいか?」
「い、ぃ……あっ……」
 膝の間に組み敷いた身体と上下に向き合い、夜着を脱ぎ落とした肌の上に愛撫の指を滑らせていく。下顎の線から浮き出た骨をたどって首を下り、ほどよく筋肉の付いた胸をなぞって、掌全体で捕らえるように掴んだ腰をするりと撫でおろす。自由に遊ぶ指先が覚えの点をかすめるたび、しなやかな身体が震え、あえかな吐息をこぼした。
「ん、んんっ」
「ここも?」
「あ……い、いちいち、聞く、なっ」
「いやつい、日向が可愛いから」
 けろりと言うと、ほとんど息だけの抗議が上がる。
「ぜんぶ、知って、……んんっ、だろっ……」
 言ってしまってからまた顔を朱に染めるのに笑いつつ、なだめるように頭を撫で、ああと返した。
「だから、またぜんぶ確かめようかと思って」
 告げた瞬間、横に伸び上がっていた長い尾がぞわりと毛を逆立てたが、こちらを見上げる金緑の瞳に揺れたのは、確かな渇望の火だった。返る声がないのを応と受け止め、手を胸の上に戻す。特別な細身ではないが日々の修練に引き締めた日向の身体は、広げた木吉の手指の下に半ば隠れてしまう。その手を、飢渇宿して潤む眼がじっと見つめている。
 十五年の哀しみの根雪が融け、多忙の間を縫っては短い逢瀬を果たしていた数月のあいだは、ただ必死に互いを恋い求めるだけで、小さな違和に気を遣う余裕もなかった。だが戦が終わってようやくいくらかなりと腰を落ち着けられるようになり、ゆるやかな和合の時を得て、気付いたことがある。
 以前であれば、こうした閨事の折、日向は木吉があまり長々と自分の身体に前戯を施そうとするのに良い顔をしなかった。口ではわかったと言いつつ木吉はあえて控えようともしなかったし(我が手で恋人が愛らしく乱れる様を見たいと思うのが雄の性というものだ)、最後には日向もそれについての不平は収めていたから、行為そのものを厭っていたわけではなく、ただ羞恥や居たたまれなさからそうした反応を見せていたのは明らかだった。
 それが近頃は、皆無とまでは言えないものの少なくなった――むしろ、言葉でそうとは告げないながら、それを望むような様子さえ見られるようになった。じわりじわりと高められる熱にあえぎ、震えながら、己に欲を注ぐ手指を感じ、時に自ら触れ、見つめる。あたかも、その手が誰のものであるのかをしかと確かめ、身に刻み込もうとするかのように。

「や、んうぅっ……」
 わき腹からにじり上げた指で胸の飾りを摘み、捏ねるように触れると、ひときわ大きく身体が跳ね、背が反り上がった。弓なりになった胸の突端に口を寄せ、舌先でつついてから唇に含む。頭の上でひっと悲鳴に似た声が鳴るのが聞こえた。
「っあ……、あぁ、やぁっ……」
 胸先を食み、濡れた舌で飾りを転がすたび、甘いあえぎが漏れ落ちる。その間にも腹に腰に指で愛撫を続けていると、やがて涙声に近い切羽詰まった音で、木吉、と名を呼ばれた。唾液の糸を引いて口を離し、視線を下ろすと、まだ触れられていない日向の性器が夜着の裾間に勃ち上がって、しとどに先走りの精をこぼしていた。
「触ってほしい?」
「っふ、ぅ……」
 脚の付け根から下腿へ指を滑らせながら問うと、かくかくと頷きが返る。了解を唱える代わりに皺を寄せる眉間に口付け、横を向くよう促す。半身を下にした横臥の体勢にさせて、自分はその後ろに添って寝そべり、背から包むように、熱い身体を抱きしめた。
 顔は見えないが鼓動の聞こえる近さに安心を得たのか、弾んでいた息が少し落ち着く。それを見計らって、耳元に名を呼びかけながら下肢へ手を伸ばし、そっと性器に触れた。濡れた陰茎とともに、眼前の背がぴくりと揺れる。短い黒髪の下にあらわなうなじの白さと立ち昇る香気に惹かれ、その首裏に牙を寄せた。瞬間、腕の中の身が跳ねる。
「あっ……! や、やだっ」
「いや? なんで?」
「そこ、やめ、ッ……、ん、んっ……ぁ……」
 肌を甘く噛み、舌で舐るほどに力が抜けていく、猫の勘所。互いに知りながら止めてはとぼけてみせるのだから、もはや毎度決まった戯れ事のようなものだ(もっとも日向のほうは半ば以上本気であるから、あまり度が過ぎるとあとで激しい怒りを喰うこともある)。番いにだけ許す急所であり官能の点であるのだと聞かされれば、手を出さずにはいられない。
「う、ぅ」
「もうぐしゅぐしゅだな……」
 腰下から回した手で泣きそぼつ性器をしごいてやりながら、もう一方の指で胸を撫で、必死に敷布を掴み締めて快楽に震えている様を愛おしく見下ろす。
「日向、可愛い……」
 首元にうずめた口で囁けば、その吐息にも煽られるのか、猫の耳が小さく揺れる。尾が遠慮がちに後ろへ伸び、甘えるように木吉の脚をくるりと巻いた。
 肌を合わせるうちにもうひとつ、気付いたことがある。行為の最中、どれほどに辛く切羽詰まっていても、日向は我が手で自身の熱を高めようとしない。昔は無意識に伸びるらしい手を悪戯に邪魔していた記憶さえあるが、それも今はまるでない。頑なに自涜を拒む指は、寝具や夜着を掴むか、木吉の身体に寄せられていることが多い。
(……日向)
 そうしたことごとを、何とも思わず見過ごしてしまうほど、鈍い頭ではないのだけれど。
「ん、あぁっ、あっ……!」
 どくりと手の中の熱が爆ぜ、白濁が指を濡らす。薫り立つ色香に思考が痺れ、寄せられる指の熱さに血が逆巻く。
「日向……お前を喰っちまいたいよ」
 お前とひとつになりたい。寝かせた耳に直接囁き入れるように言えば、少し身を固くした後、頷きとともに、木吉の腕を掴む指の力が強まる。
 そう今はただ、乞われ、求められるままに愛したい。それを厭う理由も、術も、春の褥の上にはない。


「……ん、く」
「日向、ゆっくり、な」
 布団に座った脚にまたがる腰を少しずつ落とさせながら、熱の呑まれる感覚に酔う。情交に備えた春の身体は、身の丈にふさわしい木吉の屹立をゆるやかに受け入れていく。
「熱いな……」
「っ……きよ、し」
「ん、きつくないか? 日向」
「平気だ、から」
 早く、と身を揺らすが、それ以上の力は残っていないらしい。喉を鳴らして諸手に腰を掴み、せり上がる慾を叩きつけるように、突き上げ、揺さぶる。
「あぁっ、ん、やっ……」 
「っく……」
「んぅ、んっ」
 取りすがる身を支え、獣の愛咬のごとき荒々しい口付けを交わし、身が融け出すような熱を分け合う。香油と精が混ざり合う淫猥な水音をことさらに響かせるように腰を使うと、日向はほろほろと涙を落として甘く啼いた。
 常の意地も背伸びも捨て去り、焦がれて乱るこの熱情を、十五年ものあいだ、彼は独り胸に抱え、ほかの誰かに一夜の慰めを求めることもなく、ただひたすらに耐え忍んできたのだ。不甲斐ない対の主神の寝覚めの時を、今か今かと待ち望みながら。
「日向っ……」
「っあ、やっ……きよし、ぃ……っ」
 狂おしいほどの愛慕の想いを、今は情欲に変えてそそぐ。動きの限られる姿勢がもどかしく、貫いた身体を腕に支えたまま、身を前に倒して再び敷布に背を付けさせ、上から抑え込むようにして深く穿った。艶めくあえぎの息の間に、日向は必死の声で番いの名を呼ばう。腕を伸ばし、指を震わせ、痛むほどの力で背にすがってくる。
「木吉、木吉っ……」
「うん」
「やぁ、……きよ、っ、あっ……」
「ん……ここに、いるから」
 日向、と何より愛しいその名を囁き返せば、感極まったように奥が顫動し、互いの熱を高みへ導く。隙間なく重ねた鼓動が、吠え猛るように歓喜を伝える。
「ん、ぅんっ……あっ、ぁ……あぁ……っ!」
「……っく……」
 かき抱いた身体が反り上がり、淫らに震えて絶頂に達するのを見届けて、自らも気を吐き熱を解き放った。注がれる精の熱さにきゅうと眉が寄り、それでもじっと息鎮めて受け入れるのを、圧倒的な支配感と、内から身を裂かんばかりの愛おしさを胸に見つめる。
「日向」
 繋がりを解き、涙の線をぬぐうようにこめかみから辿った指で耳横の髪を梳く。幾度かそれをくり返すと、焦点を失いかけていた瞳が光を戻し、一度ゆっくりと目瞬きをして、まっすぐに木吉を見上げた。
「日向、大丈夫か?」
 少し休もうな、と笑いかけると、ん、と小さく声漏らして素直に頷く。いとけない仕草に惹かれて顔を寄せ、頬に鼻先に唇を落とした。ちゅ、ちゅ、と音立てて降らせる口付けに、やがて笑いが上がる。
「……くすぐってぇよ、ばか」
 犬かといつもの揶揄をされたので、わん、と人の声で鳴いてやる。少しの呆れと深い愛情を宿して細められる瞳の中に、自分の座敷犬じみた笑みだけが映っていた。



 しばし遊ばせた戯れの唇を頬から上げ、最後に少し汗に湿った短い前髪をかき分けて、かすめるような口付けを額へ落とす。そっと離して、ひそり、紡いだ。
「……こんなふうに、さ」
「ん?」
「いや」
 傾ぐ首に言葉を濁し、
「なんでもない」
 笑みのまま、ひとこと返す。
 昇る熱が身体だけでなく、心まで融かしてしまえたなら。堅く秘めた胸の底まで、全てを暴いてしまえたなら。今すぐにでも、この手にお前の哀しみを受け取ってやるのに。
 手を濡らした涙の熱を、かすれて落ちた呼び声を、額にくれたひそやかな口付けを、まだこの身は忘れていないのに、いつか、と。そんな優しいことを事もなげに歌うから、自分は何も言えずに、ただ恋うるばかりになってしまう。
 ――と、霧に踏み込みかける思考を、短い叱責の声が掴み止めた。
「おいこら」
「ふが」
 数秒の沈黙を許すまいとでも言うように、伸びた手が木吉の頬をつまむ。
「また、妙なこと考えてんじゃねぇだろうな」
 言って尖らせた口は、拗ねが半分、その裏に隠して心配が半分といったところだろうか。相変わらず素直なのだか素直じゃないのだか、と笑いかけ、ふと、思い直す。
(……ああ、そうだよな)
 変わらないのはお互い様だ。昔も、今も、自分と彼との絆は、一朝一夕にあざなわれたものではなく、そして一朝一夕に失われるものでもなかった。
 だからきっと、いくら焦ってみたところで意味はない。これからも同じなのだ。変われないのではない。進まないのではない。ようやくこの腕の中に取り戻した穏やかな日々を、これまでと同じだけのゆるやかさで、同じだけのまばゆいばかりの幸福とともに、また二人、巡る季節の中に紡いでいくのだ。
 笑い話に紛らせるにしろ、静かな言葉で語り交わすにしろ、冬の冷たい風にもしおれず、大樹の傍らに凛と咲いていた小さな花を恋い偲ぶのは、きっと、まだもう少し先のことだ。
(急がなくていいんだ。ずっと隣にいるんだから)
 いつも一番大事なことを教えてくれる、俺の愛しい仔猫。
 もう決して、独りになどしない。


「……木吉?」
「いや」
 呼びかけにもう一度同じ言葉で応え、続ける。
「さっきは腹から上のイイとこを確かめたから、次はじっくり下だなって……いへ、いひゃいぞひゅーがぁ、ひっひゃるなってー」
「真面目に聞いた俺が馬鹿だった……」
 こぼしつつも顔を赤くしているから、本心は満更でもないはずだ。ひとたび解いた程度では、この時節の熱は治まりはしない。なんとも幸福なことに。
 まぁまぁと笑って頭を撫で、顔を寄せて、つんと鼻先をぶつける。
「ぜんぶ俺のなんだろ?」
 言えば、きょとりと丸くした瞳をすぐに横へそらし、
「……みゃあぉ」
 ひとつこぼした是とも非ともつかない甘やかな啼き声は、きっといつもと同じ、愛にあふれた悪態だった。


―了―

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