※『こもれび』の約半年後の終幕話です。
※前作の二十日ほどのちに「十五年前のオロチ(何者かの術によりさらに強大化)率いる妖魔の群れが森に侵入→火神と黒子の連携で呪いの元である毒腺を破壊するも、劣勢に→危機一髪のところに目覚めた木吉参戦、大神の本気で一撃粉砕」というエピソードがあったことになっていますが、しょうもないことに書き抜かしておりますのでご了承くださいませ。いつか埋めたい。

 
添いて在る



 早朝からの来客の予定が急遽立ち消えとなり、朝から晩までぽっかりと時間の空く一日になった。
 国中を戦火の渦に巻き込んだ争乱の終結からこっち、思えばこれほど一度に長い暇を得たのはほとんど初めてのことだった。直接の戦場にこそならず済んだとは言え、一地方の統治者として、そこここに残った面倒を収めるために、誠凛の面々もそれぞれ内に外に駆け回る日が続いていた。崩壊した都から流れ着いてくる人や神霊たちの取りさばきであるなど、惨害なきゆえにやらねばならないこともあった。今朝は流れたが、この地を頼って訪れくる者に応接し、計らいを決めるのは主に主神の一柱である木吉の役目であった。特筆の障りなければ出来うる限りに受け入れる。わずかにでもこの地に禍をもたらす影があればきっぱりと撥ねる。こちらの意向は一貫しており迷うことは少ないが、他人の切なる陳情を聴くというのもなかなか楽な仕事ではない。
 であればこそ喜ばしい突然の休みである。木吉は我が神樹の根元に狼の姿で寝そべり、まずは、とたまの二度寝を愉しんでいた。晩冬の空晴れ渡り、寒さもゆるんだ心地よい陽気で、まさに朝寝日和であった。横を通っていく獣や木霊たちの挨拶に尾を振って応えながら、半覚醒の頭でこれから何をしようかと考える。せっかくの暇に何かやらねば損だと思うのだった。しかし、争乱で慌ただしくなる前などは(木吉の場合、それは十五年も前のことになるのだったが)、一日何もしないでいる日など珍しくもなかったのだ。慣れとは恐ろしい。あくせくと生きる人の子になったようで、あまり続いてほしくはないな、と苦笑を漏らす。
 そうして頭を巡らせるのだが、なかなか良い案は浮かばなかった。そも、最も希望していたのが「休むこと」であったのだ。それ以上の何かではない。木吉は元来のんびりとした性格で、自らあれやこれやと忙しく騒ぐことは少なかった。無論そうしたことを厭うわけではなく、気の置けない仲間たちと賑やかに過ごすのは好きだ。だが今は彼らもまた多用の中で、いまだ互いに必要なだけの会話しかできない日さえある。本来なら自分がそうであったように、今日も朝からせわしく働いているはずだ。彼らも、そして彼も。あれをしようかこれをしようかと浮かべてはみても、そのどれもが形にならず消えてしまうのは、結局そのためだ。それだけで、何もかもが違ってしまう。
 我が心根に改めて思い至ったなら、もはや考えるのも億劫になる。ひとつ大きなあくびをして、木吉はとろとろと眠りの中に沈み込んでいった。



 小さな物音と、鼻先に香った松の匂いにふと意識が浮上した。
 ゆっくりゆっくりと目蓋を上げる。ぼやけた視界が少しずつ鮮明になり、草の上に降る陽の高さでまだかろうじて昼前であるのを知った。身じろぎをしかけて、肩のあたりに重みがかかっているのに気付く。はてと横に使った目で思わぬ姿をとらえ、声が口をついて出た。
「日向?」
 自問とも呼びかけともつかぬ音に、短い黒髪の頭がこちらを振り向く。果たして、横に寝そべった木吉の肩の前に背を寄りかけて座っていたのは、もう一人の誠凛の主、陽光の神・日向であった。
「よう」
 短く応えながら、伸ばした脚の上で何やら指を動かしている。少し首を回して覗けば、胴から外した弓弦を手にしているのが見えた。向こうの根の影には愛用の竹弓の本体が立てかけてある。藁で弦を擦るたびに立つ独特の香りは、縒り糸に染み込んだ松脂のものだろう。
「出かけたんじゃなかったのか?」
 自分の記憶が正しければ、彼は今朝から海常の地へと赴き、帰るのは明日の午後であったはずだ。そう思って訊ねると、
「なくなった」
 簡潔に答えが返る。あえて言葉を補うなら、何かで外出の予定が流れたということだろう。無意識に尾が揺れた。
「そうか。俺もなんだ」
「らしいな。……嫁に隠し子がばれて修羅場なので行けませんとか、よっぽど泡食ってたのかしらねぇがわざわざ報告してくることかよ」
 朝に小金井が笑いながら伝言してくれたことを聞いたのだろう、同情の気も失せるわ、と呆れの息をついてみせる。まったく同感だったが、お陰でこうした暇を得られたのだから、今は感謝したくさえあった。
 休みが重なったのだと知っていたら、もっと早くから彼と過ごすことを考えたのに。惜しいことをした、などとひと寝入りの前の億劫な気分はどこへやら、そんなことを思う。たとえ何をするにせよ、一人でいるか二人でいるか、ただそれだけで世界は色を変えてしまう。
 とは言え、彼のほうからやって来てくれたのは非常に喜ばしいことだ。まあ実際には「落ち着ける場所で弓の手入れをしようとやって来たら先客がいた」という経緯である可能性が高いが、今こうして腕の中に納まってくれていることに変わりはない。日の神らしくと言うのか、猫らしくと言うのか、寒さが得意ではない日向は、暖を求めて狼姿の木吉の毛皮に寄ってくることが良くあった。お前のでかさと毛並みだけは評価してやってもいい、などとうそぶく彼の関心を惹くために、日がな一日どころか何日にも渡ってこの姿で過ごしていた頃もあったな、と懐かしく思い出す。
「先送りだから予定自体がなくなったわけじゃないんだが、久々にのんびりするのもいいよな」
「まあな」
 短い相槌は変わらず素っ気ないが、その声音と雰囲気には確かな機嫌の良さがうかがえた。起きたのなら遠慮しない、とばかりに後ろへだらりと体重を預けてくる。本当なら人の姿に戻ってきちんとその身を腕に抱きしめたいところだったが、あえて気を損ねる冒険をすることもないとひとまず我慢した。


 そうして少しのあいだ、鳥たちの声と弓弦の鳴るかすかな音だけを聞いて声も交わさずにいたが、ややあって、一度収まり悪げに身じろぎをしてから、先に日向のほうが口を開いた。
「あー、なんだ。ウチのほうは、今どんな感じなんだ?」
 忙しいのか? と、手の中に視線を落としたまま、妙に歯切れ悪く訊いてくる。ぱちりと瞬きして見つめるが、ちょうど木吉の頭とは逆側の道具箱に顔を向けたところで、表情は窺えなかった。
 問いを胸の中で反復していると、さすがに言葉が足りないと思ったのか、補足が続く。
「……ここ十日ぐれー行った来ただったから、中のことがいまいちわかってねぇんだよ」
 ああ、と頷いた。先の言葉の「ウチ」は、『内』であって、『家』でもある。誠凛の中、さらには森の中がどういった状況にあるのかという問いだったのだろう。うーん、と少し首をひねってから答える。
「あまり変わんねーなぁ。相変わらず客も手紙も途切れないし。それでも、戦が終わったばかりの頃よりいざこざはずっと減ったみたいだ」
「そうか」
「急にどうしたんだ?」
 わかっていないと言うが、最低限必要なだけの報告は仲間や小使いたちから届いているはずだ。あえて訊ねてきたのは、何か別に理由があってのことだろう。彼は昔から物事を率直にする時と婉曲にする時の差が激しく、その基準もわかりづらい。
 日向は横目でちらとこちらを見、また前に戻して数秒の間を置いてから、
「……悪いとは思ってんだよ。小難しいこと全部そっち任せにしてんの」
 ほつり、言った。
「まあ俺はそのへんの頭使うのが得意じゃねーから、やれったってできやしねぇけど」
 横から見て面倒かけてんなと思っちゃいる。独り言のように語られる言葉に、木吉はもう一度目をしばたたかせた。
 確かに、近頃外から持ち込まれる相談や厄介事をさばいているのは自分のほうだ。良くも悪くもまっすぐな気性の日向は、昔から腹芸じみたことが苦手で、利害交錯する内々の交渉ごとには向いていない。だがその代わりに、争乱を通してできた人脈を伝って、開かれた場での渉外役を担当してもらっている。こちらは逆に、なぜかその気もなく「腹に一物ある」と見られることのある木吉には向かないので(無駄ににこにこしてんのが悪いんじゃねーの、と日向などは言うが)、言わば適材適所というものである。
「俺は別に気にしてないぞ?」
 まさかそんなことを心掛かりにされているとは思わず、きっぱりと否定して返す。日向としては主神たるべき土地を任せきりなことに気後れを感じるのかもしれなかったが、それこそお互い様だ。
「十五年も日向ひとりを働かせてたんだから、本当は俺が全部やったっていいぐらいだ」
 そう続けると、藪蛇をつついた、とでもいうような表情が浮かび、反駁しかけたらしい口がぱたりと閉じる。


 木吉が毒に臥せていた十五年のあいだのことを、日向はほとんど語ろうとしない。ほかの仲間たちや、木吉当人が口にしようとするのでさえ、時にさりげなく、時にあからさまに遮り、避けようとする。ちょうどこの場所から見える位置に立っていた祭壇も、あんな雨ざらしのものいつまでも整えておけるか、と言って戦乱が終わるなりすぐに打ち壊してしまった。少しでも自然の状態におくためと、屋根を造らなかったのは自分の指示であったにもかかわらずだ。
 大変な苦労をかけたことはわかっている。怒らせ、そして哀しませたこともわかっている。だから謝りたいし、十五年ものあいだこの地を守り通してくれたことに、ただただ心の底から感謝を告げたい。その想いに何度だって報いたい。そう思うのに、日向はそれを許してくれない。目覚めた木吉に開口一番怒鳴って、拳をくれて、涙して。それきり、何も言わない。


「……ダァホ。一人で全部こなそうなんざ一日何時間あっても足りねぇわ」
「ああ。だから日向が外の仕事やってくれて、すげー助かってるぞ?」
「そうかよ」
 率直な感謝を口にすれば、ふい、とまたそっぽを向いてしまう。何年経っても難しいな。そんなところも可愛いのだけれど。ほの赤い頬を見ながら、十五年ぶりのそんな感慨にひたる。



 手入れを終えた弦を弦巻に納めて帯に提げ、松脂の付いた指を丁寧に拭うまでを見届けて、そろそろ良いだろうか、とうずうずとしてきていた前肢を動かしかけたところに、ひょう、と頭上から高い音が落ちてきた。揃って見上げた大樹の枝の間に、一羽の鳥の姿がある。
「ありゃ桐皇の隼だな」
 見る間に近付く翼は、その用件に気付いて差し伸べられた日向の手首の上に身軽く降り立った。桐の紋の入った脚輪を確かめて、背に負った筒から丸めた手紙を取り出す。
「ご苦労さん。拝殿のほうに寄ってうちのやつに飯でも出してもらえ」
 背を撫でて促す日向にひと声応え、使いの鳥は再び翼を広げて森の中へ飛び去っていった。
「桐皇っていうと、ひょっとして」
「かもしれねぇ」
 言いつつ紙の丸みを直しながら表書きを外す。中を開いた瞬間、ふは、とどちらからともなく笑いが漏れた。
「でけー字だなオイ……しかも仮名ばっかりじゃねぇか」
 もはやあえて名を確かめずとも筆者のわかるくろぐろとした紙面の書信は、予想の通り、冬の半ばにこの森を発っていった虎の若子、火神からのものだった。一字一字首をひねって確かめながら書いたのだろう太い文字は、こちらもつい先日便りの届いたその相棒、黒子の細やかで儚げな筆とは好対照である。例のたどたどしい敬語が文字を通して聞こえてくるようで、アイツらしいなぁ、とほほ笑ましく呟いた。
「火神、なんだって?」
「大したこと書いてねぇな。つーかこの字じゃ大したこと書けねぇだろ。普通の挨拶と、近況報告と、あとはツレの愚痴だ」
 ざっと文字の並びを眺めて日向が言う。特筆すべきことがないというなら、元気でやっている証拠だろう。
 争乱のさなかに再会を果たした最後の七曜、火神と、その相棒として誠凛の仲間に迎えた黒子は、戦の終わりから半月ほどをこの森で過ごしたのち、それぞれ自らの道へと旅立っていった。当初火神は己が平穏を託された七曜の一片であることや、十五年に及んで留守にしていた故郷と幼子を探し続けていた仲間たちへの気兼ねから、出立をしきりに迷っていたが、その仲間たちに背を押され、相棒に諭され、最後には自らの意志で、共に行くことを決めた者の手を取った。少しのあいだ桐皇の地に寄ってから後の旅程を考えると言っていたから、その途中で誰かに勧められでもして手紙を書き寄こしたのだろう。中身がないのもまたそれらしい。
 黒子のほうは、しばらく都に留まって復興を手伝い、落ち着いたのちに縁浅からぬ各地の宿り者たちの様子を見て回るつもりでいるらしい。先の便りでは、この戦のことを教訓に、本か何かに残すのもいいかもしれない、話を仕入れにまたお邪魔します、などと書いていた。そのうち素性の知れぬ戯作家として名を馳せるのではなかろうかと期待している。
「火神も黒子も心配なさそうで良かったな」
「はなっから心配なんざしてねぇよ」
 離れていても想いはつながっている。今までもこれからもずっと仲間だと、笑って送り出した。木漏れ日の中の別れと出立の光景を、まだ昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「ま、どうにかやってくだろ。あいつらならな」
 粗雑ながらに確かな信頼の宿る声。畳んだ紙を見つめる目がゆるやかに細められ、その内で、陽の色を返す瞳がかすかに揺れる。二人の若者を一番信じていたのも、一番気にかけていたのも、本当はとても心配性な彼だった。巣立ちを送ったその夜、ふと森を眺めて、静かになっちまったな、と呟いた横顔を憶えている。
「嬉しいけど、やっぱり少し、寂しいな」
 だからあえて自分が形にしてやった言葉に、
「寂しくねー、……こともない」
 そう素直ではない素直な返事が返ってきても、木吉はさほど驚かなかった。


 手紙を懐にしまい込み、ふ、と息をついた身体がまた首元にもたれてくる。心地よい重みを感じながら、口を開いた。
「なぁ日向」
「んだよ」
「また火神みたいな子どもが生まれたら、嬉しいか?」
「……はあ?」
 怪訝な顔が振り向く。またいきなり何を言い出しやがった、と目が如実に呆れを語っていたが、木吉としてはそう珍妙な問いをしたつもりもなかった。ただふと素朴に、思っただけだ。
「チビがいた頃、楽しそうだったろ、日向」
 ずっと待ち望んでいた最後の七曜が幼い赤子同然の姿で生まれ、面倒だなんだと言いながら、日向ははたから見れば非常にわかりやすく喜んでその世話をしていた。それこそ春の日なたのようなあたたかさで幼子を慈しんで、その健やかな成長を願っていた。それはまさしく、森の草木や獣たちを育む陽光の神たる彼の本分であり、魂の底からもたらされる慶びであるのだろうと思えた。
 であらばこそ、あの日の悲劇を彼がどんなに嘆いたか。舌下に尽くしがたいであろうその哀しみを、自分は救うことも、分かち合うこともできなかった。
 突拍子もない木吉の言葉が、それでも冗談や揶揄でないことをわかってだろう、日向は寄せた眉根を少しくほどき、まあ嫌なもんではなかったな、ともって回った言葉で肯定を唱えた。
「それがなんだよ」
「いや、また生まれないかと思って」
「ねぇだろ。七曜はあいつで最後なんだし」
「わかんねーぞ? 天帝なんて適当だから、あと二、三人ぐらい……俺たちが仲良くしてたらひょっこり生まれるかも」
「またそのネタかよ」
 それこそねーわ、ときっぱり否定して、木吉の額にぼふりと手を落とす。両目の間、肉の薄い毛皮の下の骨の形を確かめるように指を滑らせてから、大体、とこぼした。

「ただでさえ十五年分構ってやらなきゃならねぇデカブツがいんのに、その上ガキまで面倒見てられっかよ」

 ――一瞬、風が止まったように思った。
「……え?」
「……あ、」
 単音の問いに、明らかな失敗を答える表情がよぎる。無論、口滑らせた当人にとっての失敗であって、聞いた側にすれば僥倖のほかの何ものでもない。
「いや、違う、だから」
 忘れろ、と背を離しかけるのを逃すはずもなく、ひと息に熱の昇った頭のまま、仰向けに引き倒した身の上にがばりと覆いかぶさった。
「日向ぁっ」
「ぐえっ、てめ……重い……!」
 抗議の声を上げて暴れかかる日向だが、充分気を遣ってのしかかっているとはいえ、並の狼のゆうに二倍はあろうという体躯が押しのけられるはずもない。腕の間に閉じ込めた身に頬を鼻先をすり寄せ、尾を振り立てて、あふれ出る喜びを伝える。
「日向、日向……」
「あーっ、ったく」
 愛おしく名をくり返す木吉に、もはや言葉で叱咤するだけ無駄と悟ってか、小さく舌打ちの聞こえた次の間、胸の下に組み敷いていた気配がふっとかき消えた。あっ、と声落として腕を狭めるより早く、小さな影が横手へ飛び出していく。細長い尾を翻してするすると大樹の幹を駆け上がっていく黒猫は、見る間にはるか頭上の枝に身を据えてしまった。
「卑怯だぞ、日向ぁー」
「てめぇが無茶やるからだろうが!」
「構ってくれるって言っただろっ」
「だからあれは、……言葉のあやだ!」
 樹の上と下とで大声し合うも、取るに足りない論議が平行線をたどることはわかっている。彼との時間に無価値なものなどないが、たまの休日にわざわざ喧嘩に興じるつもりはないし、これではいささかばかり間が遠すぎるというものだ。さすがにここまでは来るまい、と高をくくっているらしい余裕の様子に少し悪戯心を働かせ、木吉は我が森の力に呼びかけを発した。
 うおぅ、と響く狼の号令に応え、大樹を取り巻いていた蔦が急激に伸びていく。日向も気付いて跳躍の構えを見せたが、一瞬早く、四方から迫る蔦の一本にくるりと身を巻き上げられていた。
「てめっ、卑怯だぞ!」
「先にやったのは日向じゃないか」
 なおじたばたと暴れる黒猫を蔦ごと引き寄せ、人姿に戻った両手でしっかと捕まえる。動揺に耳を寝かせた小さな頭に頬ずりすると、やわらかな日なたの匂いがした。
「猫の日向も小さくてふわふわしてて可愛いなぁ」
「爪の錆にすんぞテメェー!」
 フシャァ、と思い切り牙をむかれたが、剣呑な言葉とは裏腹に、鋭い爪は指の間に隠されたままでいる。本気で争う気がないのは互いに同じだと思うと嬉しくなり、小さな身体を胸に抱き込んだまま、ごろりとまた後ろへ寝倒れた。
「いつまで掴んでんだ。寝てねぇで離しやがれっ」
「離したら逃げるだろー」
 当たり前だ、と身体をよじるが、手の中にすっぽりと納まってしまっている状態なのだから、いかに柔軟な猫の身とは言え抜け出すには多少無理がある。それをいいことに胸の上に浮かせてじっと見つめていると、金緑色の瞳がきらり、妖しく閃いた。首傾げる前に、指の輪がはじけるように開かれ、次いで、どす、と鈍い衝撃が胸をしたたかに打った。
「……ぐっ」
 詰まった息の音が喉から漏れる。思わずつぶった目をまた慌てて開けば、してやったりの表情を張った日向と、猫ではなく人の瞳同士で視線が合った。なるほど大柄ではないにしろ、それなりの人間の体格が急に胸の上に落ちれば、さすがに無反応とはいかない。
 ざまぁ、と笑って起きかけた身が途中で止まる。
「……おい」
「……何」
「離せ、つってる、だろっ……!」
「離さない、って言ってる、だろっ……」
 思わぬ衝撃に一瞬ひるみはしたものの、腕をほどくことなどあり得ない。ぐぐぐ、と地面に腕を突っ張って無理やりのこうとする上体を、こちらも力込めて抱きとどめる。双方歯を食いしばっての不毛な力比べがしばらく続いたのち、体勢の不利ともとの力の差とをくつがえすことはできず、先に音を上げたのは日向のほうだった。


「……土地の主神が二人顔突き合わせて何やってんだよ、んっとに……」
 どさりと胸に落ちて息をつき、面を伏せたままこぼす。よほど力を絞ったらしく、猫の耳と尾が隠しきれずに表へ顕現していた。
「大丈夫だぞ日向。さっき横を通ってったウサギたちも笑ってくれてた」
「どこが大丈夫だよ大恥じゃねーか」
 あー、とうなるも起き上がる気力はないのか、もはや色々を諦めたのか、あるいはその両方でか、木吉の胸を布団と定めたらしい身体は、ようやく落ち着いて再び重さを預けてきた。胸元に頬を寄せる仕草に惹かれて短かな髪をさらりと撫で梳く。抵抗なく目を伏せかけるのに言いようのない多幸感が湧きあふれて、焦燥にかられるように口を開いた。
「……ずっとな」
「んー?」
「ずっと、……こうしたかった」
 ほろりとこぼれ落ちた言葉に、日向が顔を上げてこちらを見る。まっすぐな瞳の中から呆れの色は消えていた。
「十五年間、毒そのものもしんどかったし、皆に迷惑をかけて、森に何かあってもなんもできないで、すげー申し訳なかった。……けど、痛いとか、苦しいとか、そういうことより、一番……、そばにいてくれる日向を、こうやって抱き締められないのが寂しくて」
 一番つらかった。髪を撫でおろした指を日向の背に回し、自らの言葉をなぞるようにぎゅうと抱きしめる。
 毒に臥せていた十五年のあいだ、木吉は常に一切の眠りの中にいたわけではなかった。我が神樹を通して外界の力を感じることもあれば、人や獣の声をふと耳にすることもあった。呪いに痛みながら有為と無為の狭間をさまよい、恋しいものを想いながら出るべき道を探し歩いていた。
 十五年の初めから、十日と置かず枕辺に彼が訪れてくれているのは知っていた。いつだってその身を引き寄せ胸にかき抱きたかった。頬を寄せ、唇を寄せ、愛していると告げたかった。
「俺は、言ってほしいんだ、日向。教えてほしい」
 自分がいなかった、この十五年のことを。
 責めてくれていい、罵ってくれていい。頑なに口をつぐんで語らないその重ねた想いの全てを、枕辺に置き残しては消えたその心の全てを、分け与えてほしい。
 切につづった言葉を一瞬の静寂が包み、一条の風とともに流れ去る。
 ふ、と息の音が鳴り、声が落ちた。
「……言えねぇよ。んなの、お互い様だろ」
「日向」
「お前こそ、……お前のほうが、よっぽどじゃねぇか。痛ぇこともつらくて仕方ねーことも全部一人で抱え込みやがる。全部笑って引き受けて、置いていきやがる」
 お前、もう一度あの時と同じことがあったら、次は俺のことかばわねぇ、自分を犠牲にしねぇって言えんのか。そう問われ、ぐっと返答に窮する。伊月たちが森に連れ帰ってきた瀕死の日向を目にした瞬間の、全身の血が引いていくような恐怖を思い出す。駄目だ、と心が声の限りに悲鳴を上げる。
「……言えない」
「ほらみろ」
「けど、日向っ」
「だーっから」
 お互い様なんだよ。木吉が言い募るのを遮って声放った顔は、呆れ混じりに笑っていた。


「仕方ねーだろ。俺とお前じゃ違ぇんだよ。言いてぇことも言いたくねーことも、言わせてぇことも、言わせたくねぇことも」
 全部違うんだ。子どもに語り聞かせるように、言う。
「お前の頭がやわらけーようでどうしようもなく固いのも、俺は知ってる。シャクだが、お前だって、俺の頭ん中は先刻承知なんだろうが。んでもって、まあ大概しょっぺーことに、お互いに知ってることも知っちまってる。これで言う言わねーの議論は不毛すぎて伊月の駄洒落より笑えねぇわ」
 そう言いつつ手を伸べて、からかうように木吉の頬を弾いてみせる彼は、やはり穏やかに笑んでいる。
「不毛だけどよ、……無駄だと思ってるわけじゃねぇし、いつまでも全部を不毛のまま置いといていいと思ってるわけでもねぇよ。俺とお前は別モンで、離れもするし、知っててもわからねぇ、わかってやれねぇようなことはある。それでもいつかは……だとか思うから」
 だから、こうしてんじゃねぇのか。一語一語を確かめるようにゆっくりと語り、また広い胸に頬を寄せた。

 彼と己は異なるものだから、永遠にひとつに重なり合うことはない。寸分の齟齬もなく理解し合い、同じ心を分け合うことはできない。
 だからこそ、共に在ろうとする。隣に寄り添い、手で触れ、目を覗き、声を交わして語ろうとする。時に離れ、それでも少しずつ少しずつ、互いに求め、歩み寄る。それは異なるものの痛みであり、それ以上の喜びでもある。

「……そうか。今は言ってくれないか」
「今はな。まだ無理だわ」
「じゃあいつか、言ってくれるか?」
「いつか、な」
「そうか」
「多分ほとんど愚痴だぞ」
「ああ」
「覚悟しとけよ」
「ああ。……日向」
「んー?」
「……俺今、すげー泣きそうなんだが」
「おまえは、っとに……」
 面倒くせぇヤローだな、と笑う愛しい人の声を聞きながら、ああ、と、かつて幾百年を独りで生きた月日の影とともに、古き大樹の神は思う。
 ――ああ。彼がこの世に在ってくれて、本当に良かった。





 天頂をとうに過ぎた陽が朱を帯び始める前に、胸の上の頭を撫でていた手がそっと叩かれた。ヤベェ寝てた、と浅い眠りにただよっていた日向が眠気を払うように首を振る。
「お前、耳撫でんな。眠くなっちまうだろが」
「寝ててもいいぞ?」
 むしろ常になく幼げで愛らしい寝顔をこんな間近に見ていられるなら大歓迎だ、との心積もりで勧めるが、日向はせっかくの休みだろうが、と朝の自分のようなことを言って目をこすっている。大切な者と何もせずただ穏やかに過ごす、こんな日が久々にあってもいい、と今はもう思っているのだが。
「休みなんだから寝ちまってもいいと思うんだがなぁ」
「だから、休みっつーのは、せっかく……」
 もごもごとした声は途中で聞こえなくなってしまい、なんだろうかと見やれば、伏せた頬の線と人のほうの耳が赤く染まっている。そうして顔を木吉の胸に付けたまま、くぐもった声が続く。
「……俺の予定、今日の」
「ん?」
「海常に行くつってたろ、あれ」
「ああ、なくなったんだろ?」
「……てねぇ」
「え?」
「なくなってねぇ」
 突然の言葉にどう反応を示していいかわからず、ただ目を瞬かせる。日向はしばし逡巡するように不明瞭な声を発したあと、ひと呼吸置いて、言った。
「伊月に頼んで、代わりに行かせた」
「へぇ、そうだったのか。なんで?」
「だから、お前が」
 一日休みになったっつーから。ごく小さく、声が鳴る。
「戦終わってから、なかっただろ、ほとんど……だから、重ねた」
 あとは察しろ。
 もはや完全に顔を上げられなくなったらしい黒猫の耳を呆然と見つめ、一連の言葉を頭の中に反復させる。要領を得ない説明の欠片を組み合わせ、さらに、それより前の言動を今一度思い起こす。急に多忙の様子を気遣い訊ねてきたこと、常は一人で集中して行う弓の手入れを、なぜか今日は自分のそばでしていたこと。そもそもの初めに、あえて宿舎を出て神樹のもとまでやって来ていたこと。
 現れた答えに、つい一分前の思考など頭から吹っ飛んだ。何もしない穏やかな日があってもいい。だが別にそれは今日でなくてもいい。大切な人と一緒なら、やっぱり最後には何かがあったほうがいい。 軽やかに前言を撤回してがばりと跳ね起き、上がりかけた驚きの声ごと呑み込むように、深く口付けをする。それですら久々の交誼で、食んだ舌の甘さに眩暈がしそうだった。
「……ん、ぅ……ふっ……おま、いきなり……」
「日向っ。せっかくの休みだから、日向の一日を俺にくれ!」
 物言いが発せられる前に、膝に乗せた身体を強く抱きしめ、言い放った。突然の行動にまだ思考が追いついていないらしいほうけた顔を覗き込み、だめか? と請う。日向は一度ぱたりと瞬きをしてから、まだ赤みの差す頬をそっと前へ寄せ、
「……言わせんな、ダァホ」
 肩口に甘やかな悪態を落とし、浮き立った恋人の心をもう一度歓喜の渦へ導いた。



 共に在ろう、ただ傍らに寄り添うことの幸せを胸に。
 種が落ちて若葉が芽吹き、木漏れ日の下に並んで育つふたつの樹が身を寄せ合い、やがて連理の枝となるまで。

 永きに及んだ冬の終わりををことほぐように、睦み合う番いの頭上で春告げる花の蕾がほころび始めていた。


―了―

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