わんにゃん。



 夜の見回りを終えて本殿に帰ると、部屋の真ん中で猫がのびていた。――比喩ではなく、四肢が前後に伸びきり、いつもはしなやかに丸みを帯びた身体がぺしょりと平たく潰れたような姿勢で、陽光の神であるところの黒猫がうつ伏せに寝倒れていた。
 特段不穏な様子ではなかったので、わぁなんか可愛いことになってる、とだけ思って戸口に足を止めたまま見つめていると、垂れていた尾が持ち上がり、ぺちぺちと床を叩き始める。人の言葉にするなら「何黙って見てんだてめぇ」という文句である。と同時に、「見てるぐらいなら構えよダァホ」という催促でもあり、もちろん応じるに否やのない木吉はすぐそちらへ歩み寄った。
「日向、大丈夫か?」
 横へしゃがみ込んで問いかけると、日向は畳に頭を伏せたまま、疲れた、と絞り出すような声でひとこと呟いた。はてと今日一日の彼の予定を思い返し、行き当たった推測に膝を打つ。
「おかみさんの世間話に捕まっちまったのか」
 確かめるように言うと、記憶がよみがえったのか耳がへにゃりと折れ、
「昼前に着いたはずなのに気付いたら陽が沈んでた……」
 力無くこぼす。よしよしと頭を撫でてやってもされるがまま無反応で、これはよほどに疲れ切っている様子だ。
「やっぱり俺も一緒に行けば良かったなぁ」
 今日は二人で国境の沼地を訪れる予定だったのだが、出がけに木吉が誠凛の別の地域のいざこざで呼び出されてしまい、日を改めるのも悪いからと、日向が一人で赴いていた。もともとしばらく無沙汰をしていた土地への新しい主神の紹介を兼ねた訪問だったので、それで事足りてはいたのだが、別れ際によぎった心配が当たってしまったらしい。沼地の主の女房は昔から気が良く頼もしい地霊なのだが、それはそれは喋るのだ。早口で声も大きく、古い付き合いの木吉でも(さらに言えば彼女の連れ合いでさえ)会話がかなりの大儀に感じるのだから、初対面の日向など、言葉は悪いが格好の餌食も良いところである。嵐のような喋りに目を白黒とさせている姿が目に浮かぶようだ。
「まだ耳がきんきんする……」
「はは……お疲れ」
 相手に悪気があったわけではないのだから責められもせず、片や疲労の息をつき、片や笑ってねぎらってやるしかない。せめて二人で訪れていれば労も等分だったろうが、過ぎたことはまあ仕方がない。
「大変だったな。俺の分まで頑張ってくれた代わりに、今夜はなんでもしてやるぞ!」
 胸を叩いて言うと、ぴくりと耳が立ち上がり、床との隙間から覗いた金緑の瞳が妖しく閃く。力抜けきった様から一転、音もなく身を起こす所作は獲物に狙いを定めた獣のそれで、少し大見得を切っちまったかな、と思いつつも木吉はその無駄のない身ごなしに見惚れた。
(それに、日向からのお願いなんて滅多にないし)
 妙に尊大な態度を作ってみせることもある日向だが、実際のところは我儘なわけでも自分勝手な振る舞いが多いわけでもない、ごく常識的な性格である(ああ見えて割と気が小さいところがあるからね、とは伊月の談だ)。加えて木吉にはことさら弱みを見せまいと思うのか、あまり物事を頼ってくることがない。いきさつや理由はどうあれ、何かを求められるのは嬉しく思えた。
 さてどんなことを言ってくるのだろう、とおそらく相手の思惑とは裏腹の気分で待っていると、日向は座った姿勢からぴっと猫の手を伸ばし、すぐ前の床を指し示して、
「そこに座れ」
 と、芝居がかった大仰な命令口調で言った。こうかと座り込むと続けて「胡坐をかけ」と重ねてくるのでそれにも従う。満足げな頷きを置き、滑るように歩が前へ進んだかと思った次の瞬間、長い尾を翻した小さな身体が、ほとんど重みを感じさせない動作で組んだ足の上にするりと上がり込んできた。
 驚きに目を開いた木吉だが、それを正直に示して騒ぐのは得策ではないと直感して、漏れ落ちかけた声を手の中に呑み込む。日向は数度足踏みをして地面(という名の木吉の脚)を確かめたのち、今日の寝床が定まったとでもいうように、くるりと身を丸めて横臥の姿勢になった。
 うわぁうわぁと内心に感動の声を上げつつ黙って見下ろすままでいると、ゆらりと尾が持ち上がり、膝に置いていた木吉の手を軽く叩いてくる。こちらに背を向けた体勢なので表情をしかとは窺えないが、おそらく少しばかりの不満の色が浮かんでいるのだろう。
 これは撫でていいということか――むしろ撫でろということなのか。
 考えも数瞬、差し当たり自分に都合よく解釈することに決め、膝の上の黒い毛並みに指先でそっと触れる。ぴくりと一度だけ跳ね動いた身体は、それでも後の拒絶は示さずに、胡坐の脚上に丸く身を納めたままでいる。
 指を離し、今度は手のひら全体で頭から背の半ばまでを撫で下ろしてみると、少し力が抜けたのか、横たわる身体がやわらかに重みを増すのを感じた。一度避けるように後ろへ折った耳を、指が過ぎたあとにまたぴょこりと立ち上げる様子がなんとも愛らしい。
 二度三度と撫でるうちにゆったりと左右へ振れ始めた尾に惹かれ、その先端に手を出すと、調子に乗るなとばかりにまた横へはたかれた。苦笑とともに一度指を背に戻して、許容の程度を探るように滑らせていく。人姿の時のやや硬い髪とは違う、絹地のような艶を持つ毛皮は、触れる側をも心地良く癒してくれるようだった。ゆるみ切った笑みが自分の頬に浮かんでいるのを感じ、日向があっちを向いていてくれて助かった、などと思う。

 振り返ってみれば、出会った頃は神体が何かさえ教えてもらえず、森で共に暮らすようになってからしばらくの間も、耳や尾などの一部を顕現させた姿さえ、日向はなかなか見せようとしなかった。が、ふた月ほど前のちょっとした事件の中、思い切り猫の本能をさらす羽目になってしまったことから、羞恥で憤死しかけたのちに開き直りの境地に達したらしい。木吉やほかの仲間たちの前でも神体を顕すことが増え、特にこの建て替えて間もない本殿(別名「ただの家」)では居心地の良さに気がゆるむのか、こうした猫そのものの姿も折に触れて見かけるようになった。
 神体は神の持つ相のひとつであり、それ即ち真の正体、というわけではないが、衣を一枚はがしたとでも言えるような、より本能の部分に近い姿であるのは確かだ。一部位にしろ全身にしろ無意識に顕現するのは、強い感情をむき出しにしているか、疲れて力が抜けているか、あるいは、ごく自然体で安らいでいるか、といった場合が多い。いずれにせよ本音を隠さずに見せてくれているということだから、喜ばしい変化である。
 にしても、これほど身近くでこの姿を見下ろすのも、あまつさえ我から膝に上がり込んできて、撫でろと促されるのも初めてだ。実はこちらが思った以上に疲れ果てているのかもしれない。先の一件と言い、体の均衡が崩れると精神の均衡まで共に崩れる習性でもあるのだろうか。
 真面目な考察をしてみながらも、小さな身体を愛でる手は休めず、指を背の側から首元へそっと滑らせて、顎下のあたりを撫でてみた。経験上、自分の舌の届かない首周りの毛づくろいを喜ぶ獣は多いのだが、どうやらこの普段は意地っ張りな恋人(今は恋猫、か)も例外ではなかったらしい。いくらもしないうちに、なめらかな毛皮の下から心地よさげに喉を鳴らす音が聞こえてきた。
 ――日向が俺の膝の上でごろごろ言ってる……!
 感動に胸が震える。内情を知る親しい仲間たちが見れば、いや、お前ら普通にそれ以上のこともしてる関係だよね、と指摘が入るところかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。当事者にすれば矛盾などひとかけらもない。膝の上の猫。言葉の響きだけでいかにも愛らしいではないか。
(猫ってずるいな。あんなに強いのに、こんなに小さくて可愛い)
 野の獣たちの間に並べてもごく小兵の部類で、少し力を込めれば簡単に抱き潰せてしまえそうなほどいとけなく頼りなげな姿をしているのに、いざ向き合えば、揺るぎない凛々しさと強さにあっと言わされる。そんなことをしみじみと思うようになったのは、彼に恋をした自分の欲目もあるのだろうけれど。たとえ誰が(おそらく筆頭として日向自身が)何を言って否定しても、自分はこの凡百な神獣を心から強くうつくしく思うのだ。


 日向は今やくつろぎ切った様子で全身を木吉の脚に沈ませ、初めは起こしていた頭も膝の上にくたりと寝かせている。目は既に伏せられ、喉を鳴らす音も次第に小さく途切れがちになり、眠りに誘い込まれているようだ。あまり好きなように触れてせっかく寝付きかけているのを邪魔するのも悪いだろうと、名残り惜しく思いながらも手を止め、小さな身からゆっくりと離していく。
 ――と、最後の指が首元を離れかけたところで、ちょん、と逆に手へ触れてくるものがあった。揺らすのもやめて丸く身に沿わせていた、黒毛の尾。止めた指のそば、袴の布地にうずまった口が、小さく声を鳴らす。
「……もっと」
「え?」
 短い言葉の意味を呑み下す前に、尾が引き止めるように手首を巻く。
「お前の手、でかくてきもちいい……」
 きよし、もっと、とふにゃふにゃした口調でくり返し、硬直した指先をちろりと舌で舐めてきたので、肩が盛大に跳ね上がった。声を上げるのはどうにかこらえたものの、思わず飛び出した狼の尾がばたばたと興奮に揺れ、慌てて鎮めにかかる。
(ひゅ、日向、またおかしくなっちまってるのか?)
 嗅覚を研ぎ澄ませて例の騒動の発端となった独特の香りを探すが、いくらかばかりの気配もない。ただ単純に疲労と寝入りばなの気の緩みとで、いつもの険が消え失せてしまっているらしい。
 二人きりで本当に良かった。こんな姿、ほかの誰にも見せられない。目も当てられない顔になっているだろう自分の姿も、食べてしまいたくなるぐらい愛らしい彼の姿も。
 今すぐ膝上の身体を揺り起こして滾つ情を遂げんとする己の中の獣と必死に戦いながら、恋人の貴重な“おねだり”に応えるべく、そのやわらかな毛皮の上に指を戻した。


 四半刻も経たないうちに日向は本格的な眠りに落ち、木吉は安堵か残念か自分でも良くわからない想いを込めた息を深々と吐き出した。黒毛の獣は魔性が強いという俗説もあるが、あながち間違いでもないのかもしれない、などと考えながら、規則正しい寝息をくり返す身体を起こさぬようごくゆっくりと撫で続ける。まったく、こうしてただ寝ている姿はあどけない仔猫のようですらあるというのに。
 思えば実際のところ、日向は神霊としてはもちろん、人の年齢に照らしてもまだ若者の域を出ない生年だ。普段はまるで気に留めないが、この地の最も古い神である木吉と比べれば、年齢にしろ神としての経験にしろ、それこそ大人と子どもほどの差があるに等しい。
(本当に頑張って、俺の隣にいてくれてるんだよな)
 ただただ離れがたく、その存在を欲するまま伸ばした手を、こちらが望む以上の想いと決意とともに優しく握り返してくれた。土地を護る主神という名に対して強く示していた気負いも、新たに得た仲間たちが少し和らげてくれたようではあるが、まだずっしりと重く感じているはずだ。一日も早く「そこ」にふさわしく成ろうとする彼の努力には心底頭が下がる。同時に、心配や申し訳なさも芽生える。無理をさせているのではないかと、言えば良い反応がないのはわかっているからなかなか口には出せないが、これまで幾度も思っている。
 だから、こうして気を抜き安らいだ姿を見せてくれるのが余計に嬉しい。頼られ、求められる機会がほんの少しずつでも増えていることが、たまらなく嬉しい。それで癒しを得られると言うなら、この手も脚もいくらだって使ってくれて構わない。今や彼の喜びは自分の喜びでもあるのだから。
「ありがとうな、日向。……これからもよろしく」
 まだまだ未熟な自分たちだから、並んで手を引き合って、たまには互いに寄りかかりもして、ゆっくり歩いていこう。背伸びをした分だけ寝床では身を丸めて、穏やかな眠りにたゆたえばいい。
 手の中の静かな呼吸に誘われたのか、とろとろと降りてきた眠気のままひとつあくびをする。今日はもうこのまま寝てしまってもいいかもしれない。明日の朝に膝の上で目を覚ましたら、彼はどんな反応をするだろうか?
 きっと大騒ぎだろうな、と笑いを噛みながら、健やかに眠る猫の身体を、さらに深く寝かしつけるように優しく撫で梳いた。

 ――おやすみ、愛しい子。良い夢を。





* * *


 夜の修練を終えて本殿に帰ると、行き過ぎかけた部屋の真ん中で馬鹿でかい犬がのびていた。――比喩ではなく、樹の幹ほどもあるような四肢をだらりと投げ出し、巨躯を丸めもせずそのまま横へ打ち倒れたかのごとき姿勢で、森の主であるところの神狼が転がっていた。
 自分の部屋へ向かいかけていた足を数歩後ろへ送り戻し、ちょっとした小山のようになっているそれをしばし見つめる。
「……うざ」
「第一声がひでぇよ日向ぁ……」
 思わず漏れ落ちた呟きに、寝ているわけではなかったらしい巨体の頭側からしおれた声が返ってきた。部屋に足を踏み入れながら悪い悪いと謝るが、感想としては正直なものであったから仕方がない。自分のような身体の小さい、家の中にいてもおかしくない神体の者ならともかく、そこいらの馬だの熊だのにも引けを取らない体躯の狼が人の部屋に座敷犬のように寝ていれば、生じるのは違和感ばかりである。
「どうかしたのかよ」
 そばへ寄っても起き上がりじゃれかかってこないところを見ると、だいぶ参っているらしい。また戦の後騒ぎでも起きたのかと一瞬不安がよぎるが、横たわる身体に血や怪我の気配はなかった。
 木吉は緩慢な動作で首をこちらへ向け、いつも以上にゆっくりと口を開いた。
「今日、北の沼に顔を見せに行ってきたんだけどな……」
「そういやそうだったな」
 その事実だけで半ば察しをつけつつ、先を促す相槌を打てば、戦慄をにじませる声が続く。
「びっくりした……おかみさんが三人になってたんだ……」
「あー、なんか戦で焼け出されちまって、都から妹が二人帰ってるとか聞いたな……」
 二人そろって沼の女房にそっくりの、気のさっぱりした実によく喋る姉妹らしい。いや女三人寄ればとはこのことですよハハハ、などと少し前に拝殿にやって来た沼の主は笑って語ったが、その声からはだいぶ生気が抜けていた。眼も死んでいた。
 いくら木吉が彼女と古い付き合いだと言っても、そうして単純な三倍では済まないほど盛り上がっている場に、十五年のあいだその目覚めを待ち焦がれられていた主神が顔を出せば、どういった事態が起きるかは自ずと明らかである。頭から呑まれちまうかと思った、と震え交じりの声をこぼす狼を同情とともに見下ろしながら、妹たちが新たな住居を見つけるまでくだんの土地へ足を運ぶのはやめようと心に誓う。
 あそこは何度行っても慣れないからな、とこの幾十年の色々を思い出しつつ視線を遠くへやっていると、きゅうん、と足元からなんとも情けない声が呼びかけてきた。
「ひゅうがぁ、俺は今、ものすごく癒しが欲しいんだ……」
 顔を床につけたまま上目でこちらを見つめ、くんくんぴすぴすと鼻を鳴らす。規格外の巨体が仔犬のような声を出して訴える様はかなり滑稽であったが、まあ、一周して逆に絆される気にならなくもない。
「わーったわーった。着替えてくるからちょっと待ってろ」
「おうっ」
 途端に弾み上がる声に苦笑しながら、一度廊下へ出て自室に帰り、手早く夜着に着替える。ほとんど汗もかいていなかったので、湯浴みは明日の朝に回すことにした。
 読みかけの草紙を手に部屋へ戻ると、木吉は先の力無く寝倒れた姿から一転、起き上がり前肢を揃え、しゃきりと背を伸ばした、“お座り”の姿勢でこちらを向いていた。いかにも「待ってました」と言わんばかりの様子に、噴き出して笑うのをなんとかこらえる。
 こいつ本当に土地の大神なのか、と今更のことを思いつつ歩み寄っていけば、太い尾がばたばたとせわしく揺れ始める。
「お前、ホコリ立つからやめろって」
「いやぁ、これ自分でちゃんと止められねーんだよな」
 だから早く早く、と言いたげに輝く薄色の瞳に見つめられ、今度こそ堪え切れずに笑いながら、文机の前の座椅子に寄りかかって腰を下ろす。ほら来い、と長座に伸ばした脚を叩くと、いそいそと狼が傍らに近付いてきて、腿の上に顎を乗せて再び寝そべった。鼻先を一度撫でてやると、尾も興奮を鎮めてしんなりと床に落ちる。
「どこかお痒いところございますか? お客様」
 芝居がかりに問えば、はは、と笑いが返った。
「髪結いさんみてーだなぁ」
「髪じゃなくて毛だけどな。っつーかお前、頭よりまず背中が毛玉だらけじゃねぇか」
「そうか?」
 言いつつ、起き上がったら日向が離れていってしまうとでも思っているのだろうか、こちらを見上げたまま振り返ってみようともしない。何しろこの体躯では自分の手脚が届かない範囲が広いので、自覚があっても仕方がないと言えばそうなのだが。
「ま、そっちはまた次に丸洗いだな」
「日向が洗ってくれるのか?」
「さすがに手が足りねぇよ。いっそ今度全員で泉に水浴びにでも行くか」
「おーいいな」
 楽しそうだ、とまた尾を振る。ひと月ほど前まではそんな呑気なことを言っている暇もなかったが、近頃は少しずつ、私用の予定を立てることや、こうしてただ穏やかな時間を過ごすことも叶うようになってきた。

 さて、と気を取り直して脚の上に置かれた頭に労いの手を寄せる。あまり自分の恰好に頓着しない木吉だが、灰茶色の毛はいつも豊かでやわらかく、触り心地は非常に良い。ことさらに教えるといつでも触っていいぞ、どんどん撫でてくれ、とうるさくなりそうなので、あえて口にはしていないが。
 毛量の多い首元をかき回すように撫で、眉間のあたりを爪でくすぐると、心地よさげに目を伏せ、ぐりぐりと額を腹へすり寄せてくる。顎下に回そうとした手をここぞとばかりに舌が舐め上げてきたので、調子に乗るなと鼻をつまんでやった。つぶれた妙な鳴き声のあとに、笑いが重なる。
「相変わらず無駄にもふもふしやがって……」
「んー、そろそろ夏毛になってくんねーとすぐ暑くなっちまうなぁ」
「お前の抜け毛、集めると狼一匹生まれそうなぐらい出るからな」
「いいなぁ、また日向がチビ抱っこしてるとこ見たい」
「だからもーいいわそのネタは」
 耳を引っ張ると痛い痛いと言いながらまた楽しげに笑う。
 犬や狼には他人に触れられて嫌な部位というのはないのだろうか。自分なら獣姿の時に腹や尾にはあまり触れてほしくない。まあ、時と場合によるというか、人によるというか、優しく撫でてくる大きな手が気持ちよくて、最後にはどうでも良くなっているようなところもなくはない、というか――ともかくあれこれが加味されるので一概に言えることでもないが、にしても、この男は日向がどこへ触れようが常に喜色満面である。
 出会って一年ほどの冬だったろうか、木吉がやたらに長く狼の姿で過ごしている時期があった。どうもこの男は、寒がりの自分が暖を取るために毛皮に寄りついていると考えたようだ。白状してしまえばそれは嘘ではない。だが、なぜ己なのかとは考えなかったのだろうか。野の獣は冬になれば大抵が豊かな毛に換わる。そばで暖を得られるような大型の獣なら、ほかの仲間にもいる。
 木吉の推し量った理由は嘘ではないが、体のいい言い訳でもあった。複雑で面倒な思考を持つ人間はいざ知らず、朴直な本能の中に生きる獣は、親しい者、慕わしい者との触れ合いを素直に好む。日向の一部は人間だが、一部は獣だ。自分がそうなら相手も同じだと気付かなかったのだろうか? ただ傍にいたい、触れたいからだとは考えなかったのだろうか。
(ま、今さらいいんだけどよ)
 こうして余計な言葉なく互いの心を汲み、求め、応じることが日常になった今、わざわざ蒸し返す話でもない。何よりこちらばかりがまた羞恥にまみれて損をする。
 妙なところで自己評価を誤りがちな男の頭を毛の流れに沿ってそっと撫で下ろす。どんなに悪態をついてみせたところで、指先にこもる想いまでごまかすことはできやしないから、少しずつこぼれ落ち積み上がった心は、今は偽りを挟む余地などなく、きっと正しい色と形で伝わっている。


「木吉、……寝たか?」
 少しのあいだ他愛ない会話を続け、じゃれついてくる頭を小突いては撫でして戯れていたが、三人の女房の攻勢がよほどだったのだろう、普段よりだいぶん早く眠気がやって来ているらしい。口元でむにゃむにゃと不明瞭な声を鳴らしたあと、まだ、とかろうじて人の言葉に聞こえる音が返った。
「無理しねーで寝ていいぞ。疲れてんだろうが」
「うー、もったいない……日向の膝……」
「別に逃げやしねぇよ」
 ほら寝ちまえ、ともはや目蓋の上がらない様子の目を手のひらで覆い、そっと撫でつける。くぅん、と抗議か甘えかわからない鼻声が鳴った。子どものようなその声を聞くたび、呆れとともに、言い表しようのないあたたかな情が胸に湧き上がる。
(こいつ、なんでこんなにデカくなっちまったんだろうな)
 生まれついてのものなのだと当人は語った。気に病んだこともあるが、皆が頼れる存在としてまなざしてくれるのは嬉しいとも言っていた。
(それで余計に、デカいもん背負えると思われて、実際てめぇでもそうしちまって)
 どんなに小さな生き物でも、どんなに大きな生き物でも、その身の内にある魂の大きさは同じなのに。
 この大神をこそ、自分は幼い頃に腕に抱いてやりたかった。あたたかい心地良いと衒いなく褒めてくる我が陽光の力を惜しみなく注いで、慈しみ護ってやりたかった。
 そんなことを考え、とんだ夢想だなと自嘲の笑いを落とす。過ぎた日を取り戻すことなど神にだってできないのだ。だからせめて今、幾百年重ねた孤独を少しずつでも埋めてやっていければ。
 聞こえ始めた寝息を確かめ、耳の横に印を切って、ぴしりと合図の指を鳴らす。瞬転、巨躯の獣は消え、人の頭が膝の上に残った。神体のままいさせてやりたいのはやまやまだが、首から先だけとは言え、さすがに朝まであの巨体を乗せていては立ち上がれなくなってしまう。人の頭なら幾分かましだ。代わりの枕を挟んで抜け出すこともできるが、今夜はこのままでいてもいい気分だった。
 ちょうど廊下を小使いの木霊が過ぎていく気配がしたので、念を使って呼びかけて、押入れから布団を出して持ってきてくれるよう頼む。それを木吉の身体にかけてやり、自分は掻巻を着こんで、夜を過ごす準備をととのえた。
 小使いを見送り持ち込んだ草紙を開こうと手を伸ばすと、ひゅーがぁ、と膝の上から呼びかけられる。あやふやな声といい眠りの深さの様子といい、明らかに寝言だが、なんだ、と返事をしてみる。
「それは竹馬だぞ、日向ぁ……。竹輪じゃないから狩りはできねーぞー……」
「……お前の夢ん中で俺どうなってんだよ」
 竹輪も狩れねぇよ、と額を小突く代わりに目にかかった前髪を梳いてやる。自分と違い、木吉の髪は神体の時と変わらずやわらかい。
「しかしアホっつらだな」
 いつもは凛々しいはずの太眉は八の字どころか垂直になってしまうのではと思うほどゆるく垂れ、口は見事なまでの半開きだ。大神の威厳などかけらも見当たらない顔ではあるが、自分はこれよりよほどひどい寝顔を知っている。寝言のひとつもなく、時おり見せる表情といえば呪いに耐える苦痛のそれだけであった、あの十五年。
 明日は目覚めるか、その次はどうかと、希望と言うには私欲の強い、懇願に近い想いを胸に、ただ見下ろし眺め続けた顔。自分は実に危ういところで、この男の寝顔が何より嫌いになるところだったのだ。――本当は、何よりも好きだったのに。
 常に泰然自若と在り、一切の揺るぎを感じさせずに振る舞いながら、本当の痛みや苦しみは内に隠し込んでしまう厄介な男が、自分の膝の上で弱音を吐いて、甘えて、時に拗ねて頬を膨らませてみせもする、そんな姿を見るのが好きだった。その広い背に負った何もかもを投げ出し、安らいで夢に落ちていく寝顔を間近に見られるのが、嬉しかった。
 日ごと夜ごとに紡いだ愛慕の情は、十五年の哀しみの風に一片とて散りもせず、いまだ同じ強さでここにある。
「もう独りで行っちまうなよ。……ずっと、一緒だからな」
 頼まれたってもう離れてやらない。離れたくない。本音で向き合う心の優しさを、想い合う手のあたたかさを身に刻んでしまったから。
 取りかけた草紙を床に置き直し、手を灰茶の頭の上に戻した。明日の夜は俺がお前の膝で寝たいと言ってやったら、この男はどんな反応をするだろう?
 きっと大騒ぎだな、と笑いを噛みながら、健やかに眠る男の髪を、なかなか口には出せない想いを込めて、優しく撫で梳いた。

 ――おやすみ、愛しい人。また明日。


―了―

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