シトラス・アトラクタント


 とある休日の昼下がり。昼食がてらちょっと買い物でもしてこようか、と時間の取れた友人たちとともに駅への道を歩いていると、前方に小さな影が躍り出た。
「あっ」
「わあ」
「む」
「お」
 四者四様の声が鳴り落ちて、足が同時にその場に止まる。並び立つ四名の数歩向こう、つつじの灌木をくぐって道へひょろりと姿を現したのは、茶トラ柄の一匹の猫だった。
「猫やあ」
 なんで猫を見ると「あ、猫だ」と言ってしまうんだろ、と思った矢先に隣の麗日からまさにその通りの言葉がこぼれて、出久は思わず笑ってしまった口を慌てて手のひらの下に隠した。野良猫かはたまた地域猫か、首輪のないトラ猫は四人の視線を浴びても逃げ出す様子を見せず、日の当たる遊歩道の上で伸びをし、平然と毛づくろいを始める。こうなると、「あ、猫だ」と呟くに次いで、「触れるかも」と思うのが猫嫌いではない人間のサガだ。
 とっと真っ先に前へ踏み出したのが麗日、続いて意外に動物好きらしい轟。出久もそのあとを追おうとして、逆隣りの長身が後ろ方向へ身を退いたのに気付き、歩み出しかけた足を止めた。
「飯田くん、猫苦手だっけ?」
「ああいや、俺が苦手なわけではないんだが」
 問いかけると、いつもの様子で腕が振られる。これまでも同道していた時に猫を見かけたことは幾度かあったが、確かに苦手、嫌いという反応はしていなかったようだった。ただ触れるほど近付く機会もなかったかもしれない。
「わーふわふわや。この子めっちゃ懐っこいよ、デクくん、飯田くん!」
 麗日と轟は早くも道端にしゃがみ込み、人慣れした様子でさあ構えとばかりに寝転んだ猫を撫でている。麗日の明るい呼びかけに飯田は頷き応えた。
「それは良かった。しかしあまりしつこく触り過ぎて引っかかれたり噛まれたりしないようにな!」
 いかにもな忠告を贈りつつ、やはり前へ踏み出そうとはしない。さすがに不自然さを感じたらしく、猫を構いながら二人も首を傾げた。
「どうかしたか、飯田」
 轟の淡白だが気遣わしげな問いに、いや、と飯田が頭を掻く。
「大したことじゃないんだ。俺が近付くと嫌がって逃げてしまうかもしれないと思って」
 気にせず続けてくれ、と言われてそうかと流せるような薄情な二人ではなく、もちろん出久も聞き捨てできず、三者三様に友人へ言葉を返した。
「えー、そんなことないよ。こんなに懐っこいもん」
「そばででけぇ声とか出さなきゃ平気だろ」
「飯田くん身体が大きいから怖がられそうとか? そっと近付けば大丈夫じゃないかな」
 いつものフルスロットル仕様だと確かに驚いて逃げちゃうかもしれないけど、とは思ったが、必要の際にはごく静かに振る舞える人間であることもとうに知っている。言葉は違えど「我らが優しく頼もしい友達が動物に嫌われるだなんてことはない」で見解一致しているに違いない矢継ぎ早のフォローを受けて、飯田は珍しい微苦笑を浮かべた。
「いや、ありがとう。ただどう気を遣っても昔から猫には避けられがちなもので……たぶん俺のガソリンのせいなんだが」
「ガソリンって、オレンジジュースのこと?」
「ああ。猫は柑橘類の匂いが苦手と言うだろう」
「え、そうなん?」
 麗日が上げた声と出久の心中の声とが重なった。轟も初耳であったらしく、目をばちくりとさせている。
「酸味の匂いを腐敗臭だと思って嫌うとか、柑橘類の皮に含まれる成分で中毒を起こすので避けているとか、そういった理由だそうだ」
「でも、飯田くん今は別にオレンジの匂いしとらんよね?」
 演習のあとは美味しそうな匂いするけど! と麗らかに言う通り、エンジンの燃料としてオレンジジュースを摂取する飯田は(と今では当たり前に了解しているが、実際なんとも興味深い個性で、初めて仕組みを聞いた時には興奮のメモの手が止まらなかったものだった)、個性を長時間使用すると主に脚の排気筒からオレンジの香りを立ち昇らせる。「演習終わりに飯田といるとミカンが食いたくなる」だのと話の種にされるほど今では馴染みの現象で、砂藤などは雄英に入ってから柑橘のスイーツを作る機会が増えた、と語っていた。
 とは言え、常日頃から香水を付けたように薫っているわけではなく、麗日の言う通り、ただ雑談しながら歩いていただけの今は特に匂いの生じる要素はない。清潔を心がける飯田のこと、日課の早朝ロードワークのあとにもきちんとシャワーを浴びて着替えているはずである。ああ、と飯田は再び頷き、解説を続けた。
「俺自身にも、と言うか普通の人間には感じ取れないほどのものなんだろうが、普段からごくかすかに匂いがあるらしいんだ。髪や服に染み付いているのか、そういう体質になってしまっているのかはわからないんだが……おかげで父子おやこ兄弟ともども猫嫌われでね」
 母が割と猫好きだから飼いたくても無理だと残念がっていたよ、と笑ってみせる。空威勢の様子でもなく、自然に「そういうもの」として納得しているのだろう。無個性に生まれついた出久にはそもそも経験の余地がなかったが、利便と裏腹のデメリットというのは大なり小なりどんな個性にもついて回るらしい。しかし思わぬ方面の欠点があったものだ。
「そうなんや。こんなに馴れとるのに嫌がるかなぁ」
「まあ個体差があるからあまり気にしない猫もいるだろうが、無用な挑戦で驚かせたら可哀想だろう」
「そっかあ」
 残念、を当人より濃く顔に出した麗日は飯田の分までといった風情でわしゃわしゃと猫の腹をかき回し、顔には出ていないが何かしら感じたらしい轟は、ついと立ち上がってこちらへ歩き戻ってきた。
「もういいのかい?」
「ん」
 問いに頷いた無表情がじっと親友の顔を見つめる。はたと直感した出久は入れ違いに前へと踏み出したが、背にする前にそれは視界の端に映り、映らなくとも次の瞬間わあと高く上がった声で、何事があったかには気付いてしまっていただろう。
 向き合って話すに相応の位置よりさらに一歩、やや斜め前へ踏み込んだ轟は、頬のかするような距離に驚き身を止めた飯田の間近で背を少し丸め、その首筋へ自分の顔――形良く通った鼻先を寄せた。
「ととと轟くんっ?」
「やっぱ匂いしねぇな」
 ずざざ、とエンジンを逆噴射したような勢いで後ろへ退すさった飯田の上擦る呼びかけに、けろりとした声が応える。当たり前だろう、と繰り出される手刀が空を斬った。
「普通の人間には感じ取れないと言ったばかりじゃないか!」
「実際嗅いでみないとわからねぇだろ」
「だからと言っていきなり人の体臭を確かめにくるかいっ? しかも首にあんなに寄って、噛みつかれるかと思ったぞ……!」
「噛みつく……」
「あ、いや、違う、いや違わないが、そういうことではなく!」
 ともかく何も言わずに人を嗅ぐのはやめたまえ、と腕振って説教をするが、赤く染まった顔にいつもの委員長の迫力はない。轟もわかったと言いつつその照れ焦りの反応を目に焼き付けるように見つめている始末で、付ける薬がないとはこのことだ。
 そんなことを思いながらそっと離れた先で、
「お医者様でも草津の湯でも、やね」
 と麗日からまたもその通りの呟きがこぼれたので、今度こそ隠さず笑って頷いた。足元では茶トラの猫が、あちらの大声には一切反応を見せずに図太くあくびなどをしている。腰をかがめて顔横に手を寄せると早速じゃれついてきて、なるほど大変に人懐こい。
「この子、飯田くんのことも嫌ったりしやんかったと思うけど……ええか。もうおっきい子が懐いてるし」
「飯田くんも大変だな……」
 猫のように気ままにも見えて、猫ほど小さく可愛らしく寝ほうけてはいない、うつくしくも雄々しい豹か虎かのごとき友人は、いつの間にやら柑橘の香りが大好きになっていたらしい。甘い匂いに誘われ不意に見せる野生をいなすのはなかなか骨だろうが、今のところは爪も牙も収めているようで、幸いにと言うべきか、急場の気配はない。何より懐かれた当人も相手を憎からず想っているのは目に見えてわかることなので、どれほどやきもきさせられようが、下手に手や口を出せばこちらが好奇心に(主に胃などを)殺されるなんて顛末が想像できてしまい、麗日とふたり傍観に徹している今日この頃だ。
 うまく(なるべく周りへの衝撃の小さな範囲で)まとまりますように、と親友たちの幸せを祈る出久に、そうや、とぽんと手を打って麗日が提案してくる。
「デクくん、お昼はオレンジのデザートがあるお店にせん?」
「あは、いいね」
 きっと迷わずそのメニューを選ぶだろう友達と、それを見てまた顔を赤くするだろう友達のほほ笑ましい並びを想像しながら携帯を取り出し、どこかでフェアでもやっていないかと、検索窓に甘酸っぱい果物の名前を打ち込む。ブラウザの表示を進める向こうでまた何やら喧々と淡々の掛け合いが起き、陽に照らされてオレンジにも見える毛色の猫が、呆れたように二度目のあくびを鳴らしてみせた。


end.

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