けものぐらし。


 音のせいであるとか、気圧のせいであるとか、明るさのせいであるとか、はたまた狩りをする獣の血のせいであるとか、雨降りの日に眠気を覚える理由には諸説あって、どれもしかと実証解明されているわけではないらしい。そんな蘊蓄を思い出しながら眺めるあくび顔は、くわ、と牙あらわになるほど大口開けても常と変わらず整って見えて、これも当人の天性のものなのか、それとも自分の欲目の働きが関わるものなのか、確かな理由はわからない。ひとつ、いや、ふたつ確実に言えるのは、寄り添う番いの顔が今日も今日とて端整で、とてもとても眠そうだということだけだ。
「ねみぃ」
 今ならきっとどんな短い付き合いの相手にも自然に伝わるだろう心持ちを、そのうえさらに言葉でも申告した轟は、まさに入眠前にむずかる子どものごとく、飯田の肩へぐりぐりと側頭を押しつけてくる。ここまで来ると気持ちが伝わるより先に目を疑われるかもしれない、と思わず笑ってしまいながら、ああと頷いた。
「雨の日は活性が下がるな」
 花の候から新緑の候へと季節が移り替わり、しばらく爽やかな晴天の日が続いていたが、昨夜から雲行きが怪しくなり、今日は朝から篠突く雨が草木を色深く濡らしている。時刻は午後の二時を回り、昼夜の隙間の安閑とした空気に雨音が染み入って、春眠から目覚めた生き物たちの活力を再び鎮めていくようだった。
 かてて加えて今日の自分たちの場合、本来は昼前から夜半まで外出仕事の一日となるはずが、思いがけず休みに転じたという状況で、なおさらに反動が強くなってしまっていた。早朝から家周りの用事を片付け、雨支度を(主に飯田が濡れを気にしない轟のため)厳重にととのえ、いざ出発、というところで本日中止の報が急遽もたらされたのだ。多少の脱力は致し方ないことと言えるだろう。有りもので簡単に昼食を済ませたあとの時間はこうして何に手を付けるでもなく並び過ごしていたが、徐々に強まる眠気は遂に轟の臨界点を超えたらしい。胡乱な目は閉じる間のほうが長くなり、首がかくりかくりと前後に揺れて、眠りの中に連れ込まれかけている。
「今日はもう何もすることがなくなってしまったし、少し寝てきたらどうだい」
 猫の一族はおしなべて眠りが長いと言われるが、近年では個体差、個性差に依るものが大きいとされる傾向も強く、実のところは定かではない。しかし少なくともそこに属するユキヒョウの彼は、俗説の通り睡魔に誘われやすいたちのようで、うたた寝も良くするし、朝には涼しげな顔に似合わないなかなかの寝穢いぎたなさを発揮して、早起きが習慣の飯田と寝室で攻防を繰り広げることもしばしばだ。呆れることが一切ないとは言わないが、そのたぐいまれなる個性の出力を思えば相応の睡眠は必要だろうと理解できたし、呆れるほど気を緩めるのは親しい人間の傍や家の中に限ってのことであったから、そうした無防備の様をさらしても良い相手と思われているのは純粋に嬉しかった。
「寝る……?」
「ああ。二、三時間昼寝しておいで」
 なんでそこが疑問調子になるのだろう、と笑いを噛みつつ促せば、また肩口に頭が寄せられ、乱れた前髪の下から異色の目がこちらを見上げて、
「お前も」
 今度はほとんど断定の口調で、そう言う。
「俺も?」
「ん」
 これが普段の日であれば、まず「俺はほかの用があるから」だとか「俺は眠くないから」だとかの言葉が出てきて押し問答になるのだが、今日に限っては紛れもなく嘘なので、言うことはできないし、言う理由もない。何せ夕飯の支度までの用事は全て済ませてしまい(正確に言えば増えた時間で夕飯の仕込みまで終わっている)、轟ほどではないが、雨降りの中で眠気を感じているのは飯田も同じだった。
「どうしようかな」
「今日はもう暇だろ……」
 なんとはなしに稚気を湧かせてあえて即答せず迷うそぶりを見せると、強固に断る理由がないのを当然知っている轟は、本を構えていた飯田の腕を取って胸に抱き込み、尾でぱしりとソファの座面を打った。これが二度三度と続くと完全な不機嫌に到達したこととなる不服のアピールに、わかったよ、と粘らずまた笑って応える。本能をむき出してぐずつく轟の姿はほほ笑ましいが、不満げな顔よりはもちろん、途端にきらりと閃く目の輝きを見るほうが好きだ。
 早速、と引っ張ってくる手に逆らわず本を置いて立ち上がり、案内されるように階段を上がって、二階の寝室に入る。カーテンを閉め切った部屋は昼寝の巣として申し分のない薄暗さで、ほかへ目もくれず、連れ込まれるままベッドの上に並んで転がった。わずかな光を吸って欄と煌めくふたつ色の瞳が、いかにも満足そうにこちらを見ている。つられて何よりの満足を得る自分の心はなんとも単純な造りだ。
「昼寝日和だな」
「君のそれはだいぶ範囲が広そうだ」
 真夏でも真冬でも自在に温度を操る手の招き仕草に従い、互いの体温が直に伝わる距離まで身を寄せる。そっと眼鏡を外されて間近に視線を交わし、鼻先をちょんとすり合わせて、徒言むだごとなく唇を重ねた。やわらかに触れては離れ、離れては触れるだけの口付けは、身中の熱を煽り立てることなく、ただ番いへの穏やかな愛情だけを場に満ちさせる。とは言え添って間もない仲だけに、このぐらいのふとしたことで燻りに火が着いてしまうことも無いではないが、盛りの時節は明け、ゆうべは宵の早いうちから臥所へ入ってたっぷり愛してもらった。今日はさすがに不意に燃え上がるほどの火種はない。
 ん、と重ねた吐息が散り、いずれともなく相手の背へ腕を回して抱き締め合う。姿勢の注文は無いようだったので、飯田は身をずらして少し足側へ沈み、轟の胸元へ顔をうずめた。
「好きだな、お前」
「うん。大好きだ」
 睦言のようなやり取りは単なる事実確認で、飯田は獣の感覚を澄ませて認めた「好き」を捉えた。ふっと笑って腕の輪を一段狭めた轟の喉元から、ぐるぐると独特の音が鳴り始める。間近に置いた頭頂の犬の耳がぴくりと反射して最善の角度を探すのがわかり、ああ好きだな、と胸の中でもう一度唱えた。
 猫族が喉を鳴らす原理や所以は、雨に眠気が誘われる理由よりもさらに解明されていないという。初めのうちは鳴るきっかけもわからず、唸り声や舌舐めずりと同じもののように誤解して、獲物に見られているのだろうかと首傾げたこともあった。当人に訊ねても「勝手に鳴るから良くわからねぇ」などと答えるのだから仕様がない。
 ぐるぐるごろごろと途切れなく喉を鳴らしながら、こんな音が好きとか変なやつだな、と笑われたこともあるそばだつ犬耳へ轟が口を近付け、舌で触れたのが、これも独特なざらりとした感触で伝わった。そのままさりさりと毛づくろいされ、やわらかに甘噛みを受けて、心地良さに吐息が漏れる。猫は綺麗好きで身づくろいに熱心と言うが、うつくしい二色の髪であれ、少し丸みを帯びた愛らしい形の耳であれ、長くしなやかな尾であれ、ことごとに褒めそやされる自身の希少な持ち物にはとんと無頓着な轟は、なんの変哲も特徴もない飯田の犬の耳尾になぜだか執心で、何かにつけて愛撫をしたがった。人前で気まぐれに触れてこられるのは困るが、二人きりでの触れ合いに否やはない。
「俺もしたい」
 脚のあたりで揺れていた轟の尾に指先で触れ、こちらの口元に寄こしてくれるようねだると、だめだ、と眠気に音嵩しぼませつつもはっきりとした言葉で拒まれた。
「どうしてだい」
「お前の噛み方エロいから、変な気分になる……」
「エ……」
 思いがけない返答に絶句し、抗弁しようと上げかけた頭を、ぎゅうといっそう胸深くに抱え込まれる。続く声は揺らぎも大きく、飯田を抱き枕に本格的な眠りに落ち込みかけているようだ。
「もう眠ぃから駄目だ。また次な……」
 言いつつこちらの耳に口付けをくれるのだから、君だけずるいぞ、と不服を申し立てたかったが、尾はくるりと飯田の腿へ巻き付いて動かなくなってしまい、もう譲歩は引き出せなさそうだった。「次」を忘れぬよう心中に書き留めるも、また耳元でぐるぐると鳴り始めた快い音を聞くうち、まあいいかと適当な気分も湧いてくる。
 不思議な音に対する認識は、付き合いと理解が深まってのち、「興味深い」から「喜ばしい」に次第に変化していった。これに関しても諸説と個体差があるとは聞くが、轟は多くの猫族の習性に漏れず、何かの(おおよそ前向きな)欲求がある時、そして気分が安らいでいる時に喉鳴りが起きるらしい。優しく欲の薄い愛しい番いが、安寧を感じ、自分に対して望みを抱いてくれている証と知れば、それを傍らで聴く幸いは、眠気にぐずって甘えを寄せてこられる幸福に等しい。
 同じ祖を持つとされる犬族と猫族は、似ているようでいて実際は性質異なるところも多く、むしろ似た部分が点在するからこそ行き違いが深まり、出会った当初は轟ともたびたび理解の齟齬をぶつけ合わせていた。今はそうした違いさえたっとく、また愉快にも思える。互いの差を不思議だ変だと言って時に笑い、時に綺麗だ魅力的だと言って恋い慕う。ぐるぐるころころ、窓の外の雨音に増して心なごませる奇妙で優しい音は、その最たる例のひとつだ。
 くわ、と頭上で大きなあくびが発せられ、夢に半ば融け込んだような低い声が鳴り落ちる。
「おやすみ、飯田……」
「おやすみ、轟くん」
 応えて胸に頬をすり寄せ、喉鳴りに耳を澄ませて、ふと、いつであったか相手から聞いた言葉を思い出した。
(そういえば、轟くんは俺の高鳴きが好きだと言っていたな)
 あんなくんくんきゅうきゅうと情けない声、いったいどこがいいのだろう、変なものだ、などとお互い様とは思わず考えながら、すぐに頭にかかった眠りの気にいざなわれ、恋しい番いとふたり、贅沢な午睡へ身を投じる。獣たちを巣に追い込めた雨は次第に脚を弱めて子守歌に似る静かな音を鳴らし、雲の向こうの陽が傾く時刻まで、街をまどろみの懐に包んでいた。


Fin.

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