森林公園の眼鏡くん


 一浪して滑り込んだ美大に近場から通うべく、春から移り住んだアパートのひとつ道向かいには、市営の森林公園があった。広さは中程度でこれという施設や遊具、観光史跡があるわけでもなく、近所の住人が散歩や運動に使うだけのごく平凡な空間だったが、人ごみを離れてゆったり腰を落ち着けていられる場所としてはお誂え向きで(何より出銭が全くなくて済む。浪人学生の財布には少しの余裕もない)、在学中、僕はたびたびその公園へ足を運んだ。
 流浪の画家を気取って家から持ち出したスケッチブックと画材一式をお供に、座り心地の意外に悪くない木製のベンチに腰かけて、写生をしたり、本を読んだり、木が風に揺れるのをただぼんやりと眺めたり、風景の一部になりきる僕の前を、様々な人が行き交う。僕と同じように習慣的に公園を訪れる人が多いらしく、たびたび顔を見かけ特に印象に残る「常連」たちに、僕は頭の中でこっそり赤帽ガールだの水玉シューズマンだの安直なあだ名を付け、外見からその人となりを勝手に想像したり、時に絵に描き起こしてみたりして、ひとり悦に入っていた。
 初めてのひとり暮らしと制作課題の山をなんとかこなしながら、大学と自宅と公園とを往復して過ごすうちに季節は進み、夏。夏季休暇に入ったのを機に、陽が高くなってからのうだるような暑さを避け、僕は早朝に公園を訪れるようになった。時間が変わると常連の顔も変わる。通学や通勤の前に寄っていくのか全体的に年齢が下がり、ジョギングなどの朝活に勤しむ人が多い。そして、ちょうどお盆を挟んで入れ替わりのあった公園利用者の中にひとり、とりわけ印象的なランナーがいた。六時二十五分。そして六時三十二分。毎朝二度、きっかり同じ時刻にベンチの前を走り過ぎていく彼に、僕は「眼鏡くん」というこれまた安直な名前を捧げていた。ほかのジョギング客が裸眼かスポーツサングラスかゴーグルかという中で、教師や研究者が勤務中に着けていてもおかしくなさそうな、いかにも賢げな眼鏡然とした眼鏡をかけている姿が珍しく感じられたからだ。髪も飾り気ない黒で、長身で体格も良かったが、顔だけを見るとなんとなく歳下のように思えた(と言うより、擦れた大学生や社会人に思えなかった)ので、初めに付けた「眼鏡さん」改め「眼鏡くん」ということにした。
 首から上のそれらしくなさに反して、「眼鏡くん」の走りは公園で目にするランナーの中でも指折りに様になっていた。遠目からはゆったりと落ち着いた走り方に見えて、いざ近くへ来ると風のような速さであっという間に前を行き過ぎていってしまう。不意の通過に驚いてスケッチブックから顔を上げ、颯爽と遠ざかる背中を見送ったのが初めの目撃劇だった。明日も来るなら顔を確かめようと心に誓っていたら、十分も経たないうちに、去っていったのとは違う道からまたこちらへ戻ってきてくれた。僕の定位置のベンチは公園の入口に近い、複数の道の合流地点だったので、入ってきたのと同じ門から出るために中を一周してきたのだろう。にしても速い。胸の中で思わずスタンディングオベーションを贈った。
 その日から、僕の心の常連の中に眼鏡くんの姿が加わった。ぴしりと背筋を伸ばし胸を張って、翔ぶような速さでも決して身体の軸をぶらさず、青い風を引き連れまっすぐ前を見据えて走る姿は、端的に格好良かった。夏のあいだは時折ハーフパンツを履いていて、他人ひとより太いふくらはぎに金属の管のようなものが覗いていた。きっと脚の力、走る力に関する個性を持っているのだろうと想像できて、その走りがまさに天賦のものなのだと考えると、より輝かしく、また羨ましくも見えた。
 見た目の真面目な印象を裏切らず、眼鏡くんはいつも同じ時間に現れたので、観察するのも楽だった。とは言っても毎回ものの数秒、道の先からベンチへ向かってきて、遠く去っていくまでの間を含めてすら一分にも満たない遭遇でしかないため、観察と言うよりはやはり目撃という言葉のほうが実状に近かった。僕自身、眼鏡くんに会うために公園に通っていたわけではなく、寝坊でもすれば当然その日は目撃が叶わない。それでも、平日、休日にかかわらず、よほどの悪天候でなければ雨の日も風の日も、きっと彼は同じ時間に同じ道を颯爽と走っているのだろうと想像すると、勝手にやる気をもらえるような気がした。その年の残暑はさほど厳しくなかったが、僕はそのまま早起きを習慣のひとつに加えた。
 九月も折り返しに近付き、初めて眼鏡くんに出遭ってから二十日あまりが過ぎた日の朝、とある出来事が起きた。
 六時三十二分、つまり公園の奥から眼鏡くんがベンチ前を通って帰っていくちょうどその時間に、同じく僕の前の道を犬の散歩をする女性が歩いていた。何度か見かけた顔で、歳ごろは二十代半ばから三十手前ぐらい。際立って印象的な姿ではなかったが、小さな体で跳ねるように歩く犬の活発さが記憶に残っていた。僕から見て右手側からやってきた女性のほうが少し早くベンチ正面を歩き抜け、次いで左手側から走ってきた眼鏡くんが通過した、その時だった。
「あっ、ジョン! 駄目!」
 女性の悲鳴と、元気な犬の声が同時に聞こえた。急激に遠ざかる鳴き声で逃げてしまったのだと察し、咄嗟に首を振り向かせる寸前、右手へ去りかけた背が止まり、脚が素早く切り返されるのが視界の端に映る。一歩で踏みとどまり、次の一歩で振り向き走る姿勢を固め、大きく駆け出した二歩目でもうトップスピードに入ったように見えた。ぱん、と空気の膜を貫く音が確かに聞こえた。一瞬思考が止まり、我に返って風追うように奥へ目を向けたその時にはもう、蛇行する道のはるか先で、眼鏡くんが腕に茶色い毛並みの犬を抱き上げていた。
「ああ、ありがとうございます!」
 早足に戻った眼鏡くんに女性が駆け寄り、頭を下げる。どうやら遠くの鳥か何かに気を取られて勢いよく跳ねた弾みに首輪ごとリードが外れ、そのまま走って行ってしまったらしい。よほど焦ったのだろう、大きく震えた声で飼い犬を呼び、叱りつける女性に続いて、眼鏡くんが口を開いた。僕は彼の声を初めて耳にした。
「そうだジョンくん、急にご主人から離れて駆け出してはいけないぞ! このあたりはすぐそばに車の走る道路もあるし、うっかり飛び出すと危険だからな!」
 体格相応に低く大人びていつつも、朗らかな声音。そこまではなんとなく予想の内だったが、想像していた「真面目」の範囲を超えて四角張った大仰な口調が飛び出してきたので、失礼ながら思わず笑ってしまった。女性も同じように感じたようで、少しなごんだ様子で眼鏡くんの手から自分の手へ飼い犬を引き取る。
「どうもありがとうございました。お手間をかけてしまって……」
「いえいえ、散歩の際はリードの管理にお気をつけて! それでは!」
 再び深々と礼をした女性へしゅっと直角に手を上げ示し、引き留める間もなく爽やかに駆け去っていく背中を女性とふたり見送って、僕はその日いっぱいを晴れやかな気分で過ごした。


       ◇


 小さな事件の翌週、僕は連休中にあたった法事で東北の実家に帰省した。法要のあれこれは親の世代が完全に仕切っていたので、僕のような若造は特にすることもなく、久しぶりに顔を合わせた従姉弟たちと世間話をして暇をつぶした。各々の近況報告の流れで「公園の眼鏡くん」のことを軽く話すと、従姉が身を乗り出して言った。
「それ、たぶん雄英高校の子じゃない? 近所なんでしょ?」
 あ、と間の抜けた声が口からこぼれた。今の今までその可能性をさっぱり考えていなかったのだ。言い訳をするなら、公園からバスを使ってもやや遠い距離にある場所を近所と意識するのは難しかったし、住所としては隣町にあたるので、市全体でもかの有名高校のお膝下、といった空気はなかった。それでも、眼鏡くんの足の速さなら一時間程度で行って戻れる位置関係のはずだ。従姉によれば雄英はこの夏から全寮制になったらしく、公園を折り返し地点にしているなら、通過時刻的にも充分にあり得る。
 そうかもしれない、と頷くと、従姉は目を輝かせた。
「もしヒーロー科の子なら将来有名になるかも! 今年の体育祭出てた? ヒーロー志望じゃなくても雄英ってだけで絶対に超有望株だし、今のうちに知り合いになっちゃいなよ!」
 コネゲット、とはしゃぐ従姉の勢いに呑まれかけつつ、僕は曖昧に笑ってその場を濁した。もともとヒーローについては並より下の知識しかなく、美大合格のために全力を注いでいた去年までの数年と、山のような課題に追われている今年は、雄英体育祭を始めとするイベントや、プロヒーローに関するニュースにもとんと無縁で過ごしてしまっていた。絵を描いて生活しようと思うなら、当然目指すのはトップヒーローとのタイアップ、という時代の趨勢はもちろん承知していたが、ようやく大学に滑り込んだというばかりの身で、そんな現実的なことを考えていたくなかったのもある。
 帰省中いっぱい食い下がってきた従姉をやり過ごして帰宅してからも、僕はそうした暮らしを特に変えなかったが、実のところ、眼鏡くんが雄英生かもしれない、という予想は日々深まっていった。従姉の言った通りにヒーロー科の子かもしれない、という想像さえ、まさかとまでは思わなくなった。十月に入った頃から、眼鏡くんが友人らしき同じ年ごろの子たちと一緒にいるのを時折見かけるようになったのだ。眼鏡くんを入れて二人か三人かが多く、顔ぶれはいつも同じではなかったが、少し小柄でもさりとした癖っ毛の子と、顔に火傷痕のある紅白の髪の子の姿を特に良く見た。どんなに細く頼りなげに見える子も、日常から鍛えていることのわかる走りで眼鏡くんの足に付いていく。皆ヒーロー志望なのだと思えば納得のいく光景だった。まれに言葉をかけ合っているのが聞こえることもあり、いつも溌溂とした眼鏡くんの大きな声に、僕はたびたび笑わされてしまった。
「頑張れウララカくん、腿の上がりが悪くなってきたぞ!」
「うん、あのね、お腹痛くなったらどうすればいいんかな……?」
「脇腹痛はある程度仕方がないから、とりあえず我慢だ!」
「我慢なんやぁ……」
「痛む側と逆の脚が地面に着くタイミングで息を吐くようにするのもいいぞ! 少しペースを落とすから、あまり酷いようだったら小休止しよう!」
「ありがと、だいじょぶ」
 眼鏡くんの連れにはたまに女の子の姿もあって、一番多く見かけた栗毛で目の大きな子のことを僕は初めのうち彼女かと疑ってみたが、目撃二回目のこんなやり取りを聞いて、どうも違うようだ、と結論した。きっと眼鏡くんの走力は仲間うちでも優秀で、指導役を買って出ていたのだろう。いつもよりずっと速度を落として(だから見たのはいつもより早い時間だ)、明るく励ましながら走る様子に、恋愛のあれこれの気配はかけらも感じられず、コーチと生徒、あるいは仲の良い兄妹という喩えがしっくり来た。
 未来のヒーロー達かもしれない、という想像は頭の中だけで楽しみ、従姉へ報告もしなかったし、体育祭の映像や、その他のヒーローの情報を調べて答え合わせをしようとも思わなかった。何が正解だったとしても、眼鏡くんは僕が勝手に心の常連さんにした、公園一格好いいランナーの眼鏡くんであることに変わりなかった。
 季節とともに寒さも深まり、布団から抜け出すのが日に日にしんどくなり始めてからも、僕は早起きを続けて公園へ通った。眼鏡くんも毎朝ベンチの前を駆け抜けていった(正確には何日か続けて見かけない期間もあったが、学校の用事だろうとこれまた勝手に想像し納得した)。いつも変わらずまっすぐ前を見据えて走る姿、友人たちと並んで大きな声で笑う姿はすがすがしくほほ笑ましく、僕は自分がおざなりに取りこぼしてきた青春を拾い集めるように、彼らの姿をスケッチブックの中に描き収めていった。


       ◇


 あっという間に年が改まり、年末年始の帰省から静岡へ戻った僕は、せっかく陽の高いうちに到着したからと、その足で公園に立ち寄った。小春日和と言えるほどに寒さはゆるく、日曜の昼ということもあり、行き交う人の姿も多い。いつものベンチが空いていたら日光浴でもしていこうかとぶらぶら歩いていくと、思わぬ光景に出くわした。
 ベンチに座る人影はなかったが、ベンチ前の道の真ん中に、子どもがひとり立っていた。歳は四、五歳といったところだろうか。ファーの付いた厚手のコート、毛糸の帽子、マフラーに手袋、というしっかりした防寒の装いに似合わない、きょろきょろと周りをうかがう所在なさげな仕草、青白い顔。
 迷子だ、と直感して、パニックになった。どうしよう、一人きりだろうか、親はどこだろう、探さないと、こんな時に限って周りに誰もいない、まず声をかけて、名前を確かめて、それから――、ぐるぐると回る思考に押されるまま思い切って足を踏み出したものの、よほど切羽詰まって不審な様子だったのか、子どもはびくりと肩を縮め、同じ距離を後ろへ遠ざかってしまった。どうしよう、と空転する思考が振り出しに戻る。
 その時。
「どうかされましたか?」
 背にかかった声には聞き覚えがあった。はっとして振り向くと、ランニングウェア姿の眼鏡くんが立っていた。
「えっと、迷子みたいで……」
 僕の情けなくかすれた言葉を聞くや否や、眼鏡くんはそれは大変、と言って前へ駆け出た。相手が怯える間もなく子どもから一歩離れた地面に躊躇なく片膝を着き、大きく見開かれた目と同じ高さに視線を合わせる。
「こんにちは。一人でどうしたんだい? お父さんとお母さんは?」
 いつもの少し早回しで快活な口ぶりを意図的に抑えたのがわかる、穏やかな声音。明らかに警戒の度を下げた子どもは、ほうけたように答えた。
「お父さんとお兄ちゃん、どっかいっちゃった……」
 大きな目からころりと涙がこぼれる。着膨れていてわかりづらかったが、どうやら男の子らしい。堰が切れたように泣き始めてしまった少年の様子にあせることなく、眼鏡くんはゆっくりと言葉を続けた。
「そうか、うん、大丈夫! きっと二人とも君を捜してくれているから、すぐに見つかるよ。俺と一緒に会いにいこう。君のお名前を聞いてもいいかい?」
「……知らないひとに、言っちゃだめ、って」
「なるほど。君は賢くてとても良い子だな! それなら言わなくても大丈夫。でも、俺は絶対に君に危ないことはしないからね」
 約束だ、と笑って胸を叩く姿を見つめ、少年はぽつりと言った。
「……ヒーロー……?」
 眼鏡くんが一瞬虚を突かれたような顔を浮かべ、ほんのかすかに横へ首を振ってから、すぐ笑みに戻る。
「まだ違うんだ。でもいつかきっと立派なヒーローになって、君みたいな子を助けてあげるために、今たくさん勉強をしているところさ」
 真摯な言葉の意味をきっと全ては理解できなかっただろう少年は、それでも大きく頷いて、「ヒーロー志望」の青年に従うそぶりを見せた。立ち上がった眼鏡くんが「手をつないでくれるかい」と差し出した大きな手のひらに、手袋に包まれた手をそっと乗せる。しっかり握ったのを確かめたのち、ウェアのポケットから取り出したハンドタオルで濡れた頬をぬぐってやる様子を見て、ようやく僕は、眼鏡くんが怯えた迷子の身体に勝手に触れてしまわないよう努めていたのだと気が付いた。
「公園のすぐ外に、交番があったと思うのですが」
 こちらへ振り向いた眼鏡くんに声をかけられ、すっかり部外者の心持ちになっていた僕はまたパニックを呼び戻しかけたが、どうにか踏みとどまって答えた。
「ええと、北側の門のそばに公園の管理事務所があって、園内放送なんかもそこでやってるみたいなので、もしかするとそっちのほうが……」
「なるほど! 近所の方でしょうし、お父さんとお兄さんもそちらを先に訪ねていそうですね。よし、行こう!」
 いつもの溌溂が戻った大きな声につられてか、うん、と少年もさらに大きく頷き応えた。僕は一瞬ためらったが、ここでハイサヨナラと手を振るほうが情けなさが極まると思い直し、ゆっくりと散歩するように歩き始めた二人のあとを追いかけた。


 幸いにも僕の予想は当たっていて、事務所ではまさに迷子を捜して訪れた父子おやこが園内放送を頼んでいるところだった。いち早くこちらに気付いた小学生の歳ごろの少年が、事務所を走り出て駆け寄ってくる。迷子の少年もぱっと眼鏡くんの手を離れて駆け出した。
「お兄ちゃん!」
「馬鹿トモキ! どこ行ってたんだ!」
 言葉は少しきつかったが、震える声に心配がにじみ出ていた。ごめんなさい、と謝りながらも安堵で我慢がゆるんだのか、迷子の少年、トモキくんはまた涙をあふれさせながら兄にしがみ付いた。事務所から今度は壮年の男性が現れ、少年の名を呼ぶ。
「トモキ! 良かった……! あなた方が連れてきてくださったんですか?」
 いえ僕はと身を一歩引く前に、はい、と眼鏡くんが明朗に答える。少年の父親はありがとうございますと言って身体を折り曲げて礼をし、急いで事務所を振り返って、戸口に半身を覗かせている職員らしき作業服の男性へ腕を振り示した。了解、というように手振りが返る。事態解決と見て、放送を中止したのだろう。
 眼鏡くんと僕はすぐにその場を去ろうとしたが、少年の父親と公園職員の二人から挟まれるように引き留めがかかって、まず職員に捕まって事務所の中へ招き入れられた。公園の事情で、迷子を発見した側の身元確認が必要らしく、すまなげな顔で身分証の提示を求めてくる。
「協力してもらっておいて疑うようで大変申し訳ないんだが、ここいらの市の方針でね……ほら、去年から雄英さんのほうで色々あったでしょう。依頼が回っているんだよ」
 思わず眉寄せた僕の顔を見返し、そう説明する。個性の悪用や事故につながる瑕疵がないか、善意の人間でも身分を正しておく必要があるらしい。なるほど、と眼鏡くんが先に頷いた。
「承知しました。自分は雄英高校に在籍中の学生です。ご事情お察しします」
 財布の中から差し出されたカードは学生証のようだった。責任を相手方へ転嫁した形になってばつが悪かったのか、職員は照れ入るような面持ちでカードを受け取り、内蔵チップの読み取りを行いながら感心の声を漏らした。
「ヒーロー科の学生さんだね。そういえばテレビでも見たことがあるような……ありがとうございます。さすがの活躍だ」
「まだ勉強中の身です」
 如才ないやり取りにはたで感服しながら、僕は帰省明けの大荷物を降ろし、あれもこれもと押し付けられた実家土産をかき分けて底から財布を取り出そうとした、が。
「あっ」
 横に立っていた眼鏡くんと声が重なる。ぱんぱんに膨らんだリュックから手を引き抜いた拍子に、一番上に入れていたスケッチブックとバインダーが飛び出し、床へ落ちてしまった。しかもスケッチブックは開き、古いバインダーの留め具が外れて中の絵が散り広がる、というおまけ付きだ。しまった、と思うより早くしゃがみ込んだ眼鏡くんの手が、紙を拾い集める前に一瞬動きを止めたのが見えた。
「す、すみません」
「いえ、どうぞ」
 明らかに自分の姿が描かれた紙を眼鏡くんは何も訊かずに手渡してくれ、僕は冷や汗しながら受け取り、あたふたと挙動不審のまま身元確認を済ませた。先に場を離れる選択をさらに失ってしまい、事務所を出たところで待ち構えていた父子から、自分の身を過ぎた感謝を改めてぶつけられることとなった。
 ぜひ何かの形でお礼を、と言う父親の申し出を、眼鏡くんも当然自分もそれほどの働きではないと固辞した。多少の押し問答はあったが、最終的には眼鏡くんの「次に困った人を見かけたら助けてあげてほしい、お子さんから目を離さないように気を付けて」という訓告を父親が恐縮して受け取る形で場が締められた。
「本当にありがとうございました。ほら、ダイキもトモキも、もう一度お兄さんたちにお礼を言いなさい」
「ありがとうございました!」
 少年たちが声そろえて大きなお辞儀をする。事務所の外から聞こえてきたやり取りの中では、途中から兄が謝る側になっていた。自分が手を離してしまったから弟を迷子にさせたのだと、怒りながら泣いていた。今はすっかり落ち着いた様子の二人は、色違いの手袋をしっかり握り合わせている。
「どういたしましてだ。これからも兄弟で仲良くするようにな!」
 うん、と元気な返事が上がり、さよならを言い交わして、父子がふり返りふり返り去っていく。僕もお礼を言わねばと隣を見やって、思わず声を呑み込んだ。じっと父子の、兄弟の背を見送る眼鏡くんの横顔が、初めて見る色に染まっていた。いつもの晴天の空のような爽やかな表情の上にひと刷き重なった、それは痛みとも、憂いとも感じる色だった。
 僕が言葉を忘れて立ち尽くしているうちに、ふっと沈んだ色が抜けて、眼鏡くんがこちらを見た。目が合い、慌てかかる前に、先ほどの父親の再現のように、長身が直角に折れる。
「ご協力、ありがとうございました!」
「えっ? いや、僕は何も……」
 驚いて飛び上がってしまうところだった。直前に浮かびかけたものとは別のあせりが昇ってくる。謙遜でもなんでもなく、僕はただ後ろをなりゆきで着いてきただけだ。
「いえ、事務所のことを教えていただき大変助かりました。速やかにご家族のもとに送り届けてあげられたのはあなたのお陰です。自分も周辺の設備についてもっと認識しておくべきでした」
「そんな」
 近所暮らしで公園での滞在時間もずっと長いために管理の様子を知っていたというだけで、眼鏡くんにとっては日々通過するランニングコースでしかないのだから仕方がない。どう取りなせばいいかわからず目を白黒させていると、ところで、とまた話題が切り替えられた。数瞬前の憂いの色はさっぱり消えてなくなっていた。
「失礼をうかがっていたら申し訳ありません。あなたは早朝に東門付近のベンチにいらっしゃる方ですよね? 画家をされているのですか」
 いよいよ先ほどの絵についての弁解の場面、と構えた身がさらに凍る。今日は一体何度に渡って自分の迂闊さを知ればいいのだろう。絵を取り落としたこともそうだが、一方的に相手を知っているなんて前提がまずおかしいのだと、どうして気付かなかったのだろうか。僕の公園の常連に彼がいたということは、彼の公園の常連に僕がいたとして何も不思議ではない。
「そうです……。画家なんて大層なものじゃなくてただの美大生だけど。あの、すみません、勝手に絵にしてしまって。君の走る姿がとても格好良かったから、つい……」
 正直に白状した挙句、でも見かけたのは偶然で、追いかけたりはしてないし、ストーカーとかそういうんじゃ、と先走った弁明まで転がり出てくる。ごにょごにょと語尾を濁してそっと相手の顔をうかがい見ると、心配した嫌悪の表情はなかった。どころか、例の爽やかな笑顔が浮かんできた。
「そうだったのですね! 大変光栄です! もしご迷惑でなければ、描かれたものを少し拝見させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「えっ、あ、はい!」
 まさかの方向に話が展開し、目下被拘留者の立場である僕に断る選択肢はなかった。眼鏡くんの態度はごく自然で、自分が混乱していたこともあり、怪しいものがないか確認しようとしたのか、それとも純粋に絵に興味があるだけなのかは良くわからなかった。
 どこか物を置ける場所へ移動しようという流れになり、結局お互いの共通の帰路方向であるいつものベンチへ戻ることにした。道々の話によれば、時間の取れる休日は距離を伸ばして今頃の時間に走っているらしい。コースはいつも同じわけではないので、今日この公園を通ったのは偶然だということだった。
「それは僕にはありがたい偶然だったなぁ。君が通りかかってくれなかったら、なんにもできずにあの子と一緒に迷子になっていたと思います……さすがヒーロー志望だね」
「雄英ではああした時の対応の仕方も学びますので。自分も浅学の頃は失敗ばかりでした」
 きっと僕が日々へこたれている美大での講義や実習なんて比べものにならないぐらい、毎日大変な授業を受けているのだろう、と想像を膨らませながら、しかしそうしたことをにわか興味で口にするのはどうにもためらわれて、何を話していいか迷ううちにいつもの道にたどり着いた。ベンチには変わらず人はいない。
「本当に大したものじゃないんだけど……」
 ふたり腰かけた座面のあいだに、スケッチブックと絵をファイルしたバインダーを並べる。別の場所で描いたものも、ほかの人物や静物、風景だけを描いたものもたくさん混ざってはいたが、改めて眺めると眼鏡くんのスケッチの数は群を抜いていた。どのモデルより頻繁に目にしているので必然と言えばそうなのだが、これはストーカー扱いされても文句を言えない、と緊張に身を縮める。それでもやはり、当の彼の口から咎める言葉は出てこなかった。
「どの絵も素晴らしいですね! こんな風に見て頂いているのだと思うと、よりいっそう身が引き締まります」
 なるほど、人に見られるのもヒーローの仕事のうちなのだと思えば、普通の人間より抵抗はないのかもしれない。いずれ彼もメディアに登場することがあるのだろうか、そういえばさっき職員の人がテレビで見たことがあると言っていたっけ、と考える間にも眼鏡くんの口からはぽんぽんと称賛の言葉が出てくるので、怒られずに安堵する、などという段階を通り越して、僕はすっかり照れ上がらされてしまった。大学の実技講評で毎度こてんぱんにされている身からすると劇薬に近い。
「俺の友人たちの絵もありますね」
「うん、一緒にいるところを何度か見ていて。同じ雄英の子だよね」
「はい。皆大切な仲間です。ああ、これも……とても鮮やかだ」
 外で描いたスケッチを家に持ち帰ってから、僕は気に入った何枚かに色を着けることがあった。きっと少し妙な着色に映るだろう絵を見てやはり賛じてくれた彼の、すうと細められた目の中の瞳が赤色なことに、僕はその時初めて気が付いた。次はこの色も、と考えて、懲りなさに苦笑したのをむしろ後押しに、訊ねる。
「黙ってこんなに描かせてもらっておいて凄く厚かましいお願いになってしまうんだけど、君さえ良ければ、これからもモデルにさせてもらえないかな。もちろん、チェックが必要な時はすぐに見せるから」
 開き直り半分、駄目でもともとの申し出を、眼鏡くんはあっさりと承諾した。
「自分などで良ければどうぞ! 商流に乗せるとなるとまた別ですが、絵の練習のために周りの人間をモデルにしてはいけないなどという決まりはありませんので。こちらからの確認も必要ありません。十枚でも百枚でも、ご自由に!」
「百はさすがに無理かも……けど、ありがとう。重ねて厚かましいんだけど、お友達には秘密にしておいてね。女の子とか、気にする子もいるだろうから……」
「皆優しいのでしかと説明すれば問題ないと思いますが、承知しました」
 力強い頷きをもらってほっと息をついた。言葉を交わしてからもこそこそと絵を描き続ける後ろめたさを考えれば、今日ここで絵が見つかってしまったのは逆に幸運だったのかもしれない。
 にしても田舎から戻って早々忙しい一日だ、まだ陽もあまり傾かないのに、なんてことを思っていると、眼鏡くんが時計を確かめ、失礼します、と言って腰に着けていたランニングポーチのホルダーからボトルを抜き、中身を一口あおった。広口のストローを通った液体の色がやけに鮮やかな黄に見えて、不躾に凝視してしまう。
(オレンジジュース……いやまさかな)
 運動に関しては全くの門外漢だが、赤だの青だの蛍光グリーンだの、特に海外産のスポーツドリンクは妙にカラフルなものが多く出回っていたはず。おそらくその中のひとつだろう。ああそれで、と納得のいくところもあった。
 眼鏡くんは視線に気付かず、僕も推測を胸の中だけで処理したので、ドリンクの詳細についての無駄な蛇行はなく、絵に関する話が続いた。
「美大ということは、絵の仕事に就かれるために勉強されているのですね」
「そうなればいいとは思ってるんだけど、一年目から早速……あ、僕はまだ一年生なんだけど、この道でそう簡単に食っていけると思うな、なんて脅されてて」
「俺も昨年入学してすぐに似たようなことを先生方から聞きました。絵の世界も同じなのですね!」
「えっ、め……、いや、君、一年生だったんだ?」
 思わず「眼鏡くん」と口走りかけて慌てて言い直す。あまり大人びているので、てっきり三年生か、せいぜい二年生かと思っていた。一年ということは僕の四つも歳下だ。至らない気持ちがさらに深まり、凄いなあ、と感嘆が自然に漏れ出た。
「一年目からそんなに立派にやれていたら、すぐにでもヒーローになれそうだね」
「いえ、とんでもない。先輩方と比べればまだまだ何もかも不足です」
 言って左右に大きく腕を振る様はそれまでの堅い真面目ぶりと地続きだったが、次の一瞬、ふっと空気が入れ替わるように、纏うものが変わった。事務所前で父子を見送った時の揺らぎに似て、すこし違う。
「ヒーローとしての力や知識はもちろん、日々の暮らしでさえ……心迷うことばかりで」
 直角に立てていた腕が下り、膝に乗せたスケッチブックの一ページ、透明水彩で薄く色を乗せた、彼と彼の友人を描いた絵の表面を、長く骨ばった指がそっと撫ぜる。今日はとことんまで迂闊な僕の口は、止めようもなく場違いな音を吐いた。
「きいろ」
「え?」
「あ、ごめん。なんでもないです」
 独り言、と手を振ればそれ以上の追及もなく、眼鏡くんがスケッチブックを閉じるのと同時に空気は元の色を取り戻した。ありがとうございました、と差し出された本を受け取り、その顔に浮かんだ笑みを見て、僕は改めて何も言わないことを決めた。
 それからひとつふたつの他愛ない世間話をして、風が冷え始める前に別れた。これからも走りに来るのかと訊ね、はいと答えをもらって、僕も早起きの習慣を頑張る、と笑って終わり。お互いの名前も訊かなかったし、連絡先を交換するようなこともなかった。
 次に会ったのは三日後の朝で、彼は行きがけに少し速度をゆるめて会釈をしてくれて、僕も会釈を返した。帰りは以前と同じ速さ、以前と同じ前をまっすぐ見据える姿勢で、ベンチ側をちらとも見ずに駆け抜けていったのが逆に誠実さを感じておかしかった。そうして会釈の交換が習慣に加わったこと以外には何も変わらず、大学と公園と自宅とを往復する忙しくも平和な毎日が続く。
 そう思っていた。


 三月。公園の桜のつぼみがほころびを見せ始めた頃、嵐は突然やってきて、浮き立つ春の気配ごと咲きかけの花を散らしてしまった。ヴィランによる大破壊、ヒーローたちの突然の訃報、怪我、引退。重犯罪者たちの一斉脱獄。信じられないようなニュースが頭の上を飛び交い、戸惑いのうちに森林公園は封鎖されて、大学は無期限の全面休校になった。僕の地域の住人は指定避難所となった雄英高校への避難が勧告されたが、両親からの懇願を受けて移動制限の始まるぎりぎり前に帰郷し、都市部のヒーロー養成校に家族で避難をした。幸い事件も騒ぎも少ない地方で、生活自体にはさほど悲壮感はなかったが、代わりに飛び交う種々の、多くはろくでもない噂や憶測を振り払い続けなければならなかった。
 雄英の学生たちも戦いやそれに伴う救助活動に動員されている、という話はどうやら真実に近いもののようで、それを耳にして以来、僕は四方から流れ入ってくる雑多な情報を遮断し、ニュースは重要なトピックを家族から伝え聞くのみにした。誰それが亡くなったの、いや生きているだの、どこの街が大変だの、いや大丈夫だの、学生に犠牲が出ただの、いや出ていないだの、真偽を確かめるだけで日が暮れてしまうような噂を聞く代わりに、平和な時間の絵を描いた。
 逃避なのはわかっていた。けれど皆が侃々諤々と議論するヒーローの在り方、理念、正当性の是非なんて僕には正直どうでも良くて、そこを目指す彼のことがただ心配だった。ヒーローかそうでないかの定義なんてものももうなんでも良くて、逃げた犬を通りすがりに捕まえて、迷子を家族のもとへ笑顔で送り届ける、真面目で声が大きくて優しくて走る姿がとびきりに格好いい、『森林公園の眼鏡くん』と、彼の大切な友人たちのことが、ただただ心配だった。
 僕は眼鏡くんがヒーロー活動をする姿を知らなかったし、たとえ報道の中で目にしても気付かなかったかもしれない。それでも「ひょっとして」を思うのが嫌で、絵の中に逃げ込み続けた。避難所に持ち込んだ新品のスケッチブックはすぐにページが尽きて、前のページ、前の本に戻り、空いたスペースを新しい絵で埋めた。
 彼の絵は描けなかった。想像で描き続ける姿が、次第に本物から遠ざかっていくのが怖かった。
 スケッチブックに白い隙間がほとんど無くなった頃に戦争は終わり、持ち込んだ絵具が尽きて全てのページがフルカラーになった頃に避難勧告が解除され、大学の一部の講義が再開し、僕は復興の続く静岡へとひとり戻った。翌週、封鎖の解かれた森林公園の一番客になった僕は、木板に積もった砂と小枝を払ってベンチに腰かけた。雄英高校の学生たちが寮に戻り、復興活動を行っていることはもう知っていた。
 六時二十五分。右手側から駆けてきた青い風が目前で速度をゆるめて、会釈に代えて敬礼するように腕を上げた。僕も応えて手を振った。新品のスケッチブックの上に落ちた水滴をぬぐって、何か月かぶりの「公園の眼鏡くん」の姿を描き止めるために、僕は鉛筆を握った。


       ◇


 一年が経ち、二年が経ち、社会は変わったと語る人もいれば、いや全く変わっていないと訴える人もいる、未来から眺めたら「過渡期」と呼ばれるのだろうそんな時節にも、春の気配は多分この百年と同じ速度で訪れる。
めっきり暖かくなった日差しを浴びて、今にも咲きこぼれそうな桜のつぼみを眺めてあくびを噛み殺していると、道向こうに俊足のランナーの姿が見えたので、僕はゆるんでいた姿勢を正した。
 あれからも眼鏡くんとの関係は一切変わらず、顔を見れば会釈を交わす、それだけの交流を続けていた。ほんの数秒の社交でも欠かさずしていれば、彼と連れ立つ友人もさすがに気付いたらしく、僕のことを不審げに気にかけるそぶりを見せる子もいた。その様子がずっと変わらなかったので、眼鏡くんは秘密を請う僕の頼みを律義に守ってくれていたのだろう。どう言ってごまかしているのだろうかと想像するたび少しおかしかった。
 学年が上がるにつれ学校外での長期活動が増えるのか、姿を見ない日も多くなったが、僕は公園に通い続けた。すっかり早起きが得意な朝型人間になって、大学の友人たちとは生活リズムがまるで合わない。朝の風景専門の絵描きになれる、なんてからかわれていた。
 軽く地面を蹴り進む音が近付き、速度をゆるめる。ゆるめ続ける。おやと思って見つめる僕の正面で、足が止まった。軽い会釈ではない本式の礼のあと、眼鏡くんは大きくひと息に言った。
「おはようございます。突然に恐縮なのですが、お願いを聞いて頂けないでしょうか」


 翌日昼。約束の時間の五分前にいつもの道に着くと、眼鏡くんは既にベンチに座って待っていた。駆け寄る僕に気付いて立ち上がり、丁寧に挨拶をしてくれる。立って並んだのは初めて言葉を交わしたあの日以来だった。少し背が伸びているかもしれない。以前から大人びていた容姿はすっかり成熟して、あの頃の僕よりまだ歳下だというのに、どこに出されても恥ずかしくないだろう立派な青年になっていた。
「休日にわざわざありがとうございます」
「どうせ予定もなくて暇だったから。でも驚いたよ」
 ベンチに腰かけて背から降ろしたリュックを開き、取り出したスケッチブックとバインダーを、あの日のように二人のあいだに広げる。前日、真剣な顔で僕に頭を下げた彼の「お願い」は簡単で、思いもよらないものだった。翌週に控えた雄英高校の卒業式ののち、彼は実家のある東京へ戻り、プロヒーローとして活動を始めるのだと語った。三年間過ごしたこの地の思い出に、あなたの絵を一枚頂けないでしょうか、と、切り出しの声とは打って変わって静かに、彼は言った。
「さすがに全部は持ってこれなかったから、少しはうまく描けてると思うものだけ選んできたよ。手前味噌だけど……」
「恐縮です」
 三年間で描いた彼と彼らの絵は冗談でなく百枚を超えていて、昨晩整理をしながら自分の青春に対する飢え具合に笑ってしまったほどだった。真剣に絵を眺めている様子を見るのが少し照れくさくて、僕は正面に顔を向けて話した。
「でも寂しくなるなぁ。自分の大学が四年制だから、君たちの代が今年卒業だってことがすっかり頭から抜けていて。東京に帰ったら忙しくてなかなかこっちには来られないだろうね」
「そうですね。既に予定が詰め込まれていますが、日々成長の糧と思って取り組む所存です」
「真面目だなあ」
 絵描きなんて不安定な道さえまだ半ばの僕への遠慮だったのか、単純に誇示になりかねないのを嫌ったのか、彼はプロデビュー後の自身の立場についての詳細を語りはしなかった。こちらからも訊ねなかった。しかし、僕は知っていた。三年のうちに、いや、本当は一年目の春にはもう、僕は彼の名前を知っていた。日本にいて、あの未曽有の災害を、戦争を見て、ヒーローたちとヒーローを目指す子どもたちの姿を見て、彼らの名前、彼らの家庭の事情さえ、全く知らずに過ごすことはとても叶わなかった。スケッチブックの隙間が尽きて、公園の絵に色を入れ始めた日から、僕は逃げるのをやめた。最後の戦いの映像のいくつかをリアルタイムで見守って、あとからその日の録画を探し回って、ヒーローニュースに耳を傾けた。
 彼の本名も、継いだ名前も、立場も、そこに至った経緯も、全て知っていて、口にはしなかった。僕にとっての彼は、一年目の夏の日から今日までずっと、『森林公園の眼鏡くん』だった。
 ぱらぱらと紙をめくる音が、気付けば絶えていた。横を見やると、真剣な目が膝の上に注がれている。
「良さそうなのはあったかな」
「はい、決めました」
 そう言って示されたのは、膝の上ではなく傍らによけていた一枚だった。やや遠景の構図で、眼鏡くんだけでなく赤帽のジョガーや家族連れ、散歩中の老夫婦など、僕がひそかに常連に認定していたほかの公園の利用客も描いている。背景まで細かく筆を入れ、しっかり色を着けたなかなかの自信作だったので、お目が高い、と言いそうになったし、自分を中心とした絵ではないのが逆にとても彼らしく感じて、無用に幾度も承知の頷きを返した。
 しかし選んだものがこれなら、膝の上の絵は、と少し身を乗り出してうかがうより先に、あの、と眼鏡くんが珍しく歯切れの悪い言葉を続ける。ゆっくりと顔を上げ、こちらも似合わない、小さな声。
「前言撤回になり申し訳ないのですが、もう一枚、頂いてもよろしいでしょうか」
「え、もちろん!」
 一枚と言わず何枚でも、なんて自分で売り込むのは気恥ずかしかったので申し出ていなかったが、僕としてはそのつもりだったので、むしろ喜ばしい頼みだった。そんな説明を添える前に、それで、と眼鏡くんは早口に続けた。
「その絵を、俺の友人に渡しても、良いでしょうか」
 静かな声が場にこぼれ落ちた瞬間、花のつぼみが春の陽の下でそろってほころぶように、一面に色が広がった。鮮やかな霞の中に赤い瞳が揺れて、彼の心を真摯に語った。


 『共感覚』と名付けられている僕の個性は、類似のものが個性発現以前の時代から、ある種の奇妙な能力として人々のあいだに存在していたらしい。
 知覚した物体や現象に対し、一定の色彩が追加で認識されることがある、というなんとも説明しづらい個性で、母方の家系から受け継いだものだった。個性発現以前は芸術家に多く現れていた、なんて話も聞いたが、他人ひとが本来見る色に重なって別の色が見えるのだから、子どもの頃はどぎつい極彩色で友だちの似顔絵を塗って、驚かれたり泣かれたりしたものだ。現れる色は一定、と言いつつそれもだいぶ狭い範囲で、人の感情表現に伴う色が、たとえば喜びならこの色、怒りならこの色、と決まっていればまだ役にも立ったかもしれないが、人によっても異なり、同じ相手でも時と場合によって変わってしまう、と来ていて、ほぼ活きたためしがない。
 使いでのない個性は色への興味を育てて厳しい絵描きの道へと僕を連れ込んだだけで、認識の有無をある程度コントロールし、主観と客観の折り合いが付けられるようになってからは、半ば存在を忘れかけているような力だった。
 二年前、彼と初めて出遭ったあの夏の日。前を駆け過ぎていった抜けるような青に目を奪われて、僕は自分の個性の名前と、幼い頃に素直に感じた色のうつくしさを思い出した。どんな人でも日ごと移り変わるのが普通のところ、『森林公園の眼鏡くん』の纏う色は驚くほどぶれが少なく、いつもまっすぐ前を見据える彼の心根がそのまま表れているようで、端的に好ましく、見飽きなかった。深い青のにひと差しの黄、という洒落た取り合わせが、その物堅い真面目さから想像もできない可愛らしさで、この視界を誰かと共有できればいいのに、なんて初めて感じるようなことを思いながら、僕はスケッチの上に色を落とした。
 ぶれのない彼の色彩も時たまには移ろうことがあって、今はその理由もなんとなく察していたが、迷子の少年とその兄を見送った時が、これまでで一番色変わりが顕著だったように記憶している。あとの多くは色そのものの変化ではなく配分の変化で、差し色の黄が、青ににじんでより濃く大きく広がることがあった。三年も見続ければ、その法則もなんとなく掴めた。曲がりなりにも「近所」の住人だった僕は、実は彼の姿を公園の外でも何度か見かけている。
 ひとりでいる時より、友人たちといる時。並び走っている時より、並び歩いている時。真剣な顔で黙っている時より、話し交わして笑っている時。決まって鮮やかになる彼の黄色を、僕は喜びの色なのだろうと思った。そう考える頃にはもう彼の血筋と個性に関する知識も得てしまっていたから、それが由来の色なんだろう、オレンジの果汁は意外にオレンジ色をしていない、なんて埒もないことも考えた。
 今、ようやく理解した。僕の推測はたぶん間違いではなかった。けれど、全てではなかった。前回絵を見せた二年前、早春のつぼみのように慎ましやかに膨らんだ色を思い出す。
 もう一枚、と願った彼の手の中の絵。隣に肩並べ、笑い交わして走る姿は、さすがにあれほどの速さでの疾駆中に見ることはできなかったものだから、そのままをスケッチした画ではなく、僕が公園の内外で見かけた彼らの姿を、勝手に一番好ましいと思う形へ再構成したものだ。青と、赤と、白。輝石のように澄んだ翠碧がひと雫。そして鮮やかに広がる黄。今、目の前に咲く心と同じ色。
 ――そうか、眼鏡くん。
 不意に彼が四つも歳下の青年であることを思い出し、胸の中で偉そうに呼びかける。
 ――これは君の、恋の色でもあったんだ。


「……あの、無理なようでしたら」
「あっ、いやごめん、ちょっとぼーっとしちゃって。誰にでも自由にあげてもらって全然構わないよ」
 何も僕が浮つく必要はないのだが、妙に興奮してしまい、自分よりずっとたくましい彼の背をばしばしと叩き励ましたい気分に駆られた。さすがに非体育会系人間にあるまじき態度の実行はできず、代わりにリュックから取り出した細いボール紙のバインダーを二冊預ける。
「良ければこれに入れて」
「いえ、しかし」
「安物だから気にしないでいいよ。もともとそのつもりで持ってきたから。卒業のお祝いとしてはちゃち過ぎるけど……。お友達も、大切にしてくれるといいな」
 押し付けるようにして差し出したバインダーを受け取り、ありがとうございます、と折り目正しく頭を下げてから、眼鏡くんは独り言を呟くように言った。
「とても誠実で優しい友人なので、きっと大切にしてくれると思います。……僕が渡すことさえできれば」
 含むところの多すぎる言葉の仔細を、僕はあえて訊ねなかった。これから大変だろうけど頑張って、応援してます、というこれまた雑に大きな言葉に全てを詰め込んで、彼の門出を祝い、そして祈った。僕の絵なんて二の次でいい。彼の心が、彼の大切な人へ届きますように。普通の目には映らない、こんなにも鮮やかな色の心を、どうか受け取ってもらえますように。


       ◇


 眼鏡くんは卒業式の前日まで変わらず公園に走りにきて、最後まで僕に会釈をしてくれて、式の当日以降、一度も姿を見なくなった。
 卒業制作の作業で明け暮れたその年はまさに矢のごとく過ぎ去り、コネにも頼りつつどうにか就職先を見つけた僕は、翌年の春から神奈川のデザイン事務所で働くことになった。規模はあまり大きくないものの、大手事務所から独立した所長の顔の広さを活かし、企業案件を中心に堅実に仕事を増やしている。昇り調子だけに年中忙しかったが、充実した毎日を過ごし、なんと人生初の恋人ができ、すぐ振られた。そして傷心の間もなく仕事に没頭するなか、取引先で出会った女性スタッフと共通の話題で盛り上がるうちに交際が始まって、順調に続いている。
 就職三年目、自身の案を採用してもらう仕事も出始め、ようやく一端の業界人として臆せず名乗れるようになってきたある日、大きなニュースが飛び込んできた。翌年春からのトップヒーロー事務所の東京支部開設と、それに伴うチームアップの事前告知。ヒーローが動けば仕事が動く。告知を目にして即日情報を集めれば、予想通りにPR広告用のアートデザインの公募が始まっていた。締め切りは三か月後。一団体から二案まで応募可。事務所としても見逃す手はない大きな案件だ。僕は要項をまとめて印刷し、自分のデザインを応募案の中へ加えてもらえるよう、その足で所長への直談判に向かった。


 翌年。
「そろそろ会見始まるよー。観る人集合ー」
 談話スペースから同僚の声が飛び、手の空いた人間がばらばらとモニターの前に集合する。僕は先週から設定しておいた「用件あり」のスケジュールが誰からも侵略されていないことを確認し、新しく淹れたコーヒーを手に正面のソファに陣取った。気合入ってんな、と後ろに立った先輩が笑う。
「去年だっけ、広告の応募したの。あれ惜しかったよなあ」
「先輩の案、最終選考まで残ったんですよねー。まあ採用されたの見たらちょっと相手が悪かったかなって」
「ていうかお前、私情込めすぎ。デザイン自体は良かったけどさ」
「所長にもあとで指摘されて、反省しました……でもそれで出させてもらえたのはありがたかったので、いい勉強と思って次に繋げます」
「前の広告出てからもう半年だし、そろそろ第二弾とか来てもおかしくないんじゃないか。告知ないの?」
「毎日チェックしてるんですけど、出てないですね」
「さすが」
 あれやこれやと話し交わす間にスタジオから画面が切り替わり、お定まりの記者会見場の景色を映す。事務所スタッフとおぼしき司会が名を呼び、スーツ姿のヒーローが奥から現れた途端、場に花が咲いたようになり、隣で同僚が押し殺した悲鳴を漏らした。
「ちゃんと髪セットしてる……目の保養……」
「王子とか貴公子とか呼ばれてんのに髪整えてるだけでそれよ」
「全然気にしないんですもん……事務所アカウントの写真投稿で何回『寝ぐせ』をトレンド入りさせたか」
「東京行って身綺麗になったとか言われてたよね」
「そうしたらこれですよ!」
 勢い込んで指差す画面の中には並び立つ長身二名。腰から直角に折れ曲がるお辞儀姿に記憶をくすぐられ、僕はマグに隠して笑いをこぼした。
「なんであんなのと! って感じ?」
「最初はそれもありましたけど、今はメットの下そんなにイケメンなら先言って! て感じです。古参ファンの誰かさんはなんでもっと早く教えてくれなかったのか」
「別に顔でファンになったわけじゃないから……」
 恨みがましげな眼を向けられて弁解する。メットオフにノー眼鏡の顔なんて普通に出回ってたろ、女性向けのメディアにはあんまり出てませんでしたもん、などというやり取りは、会見の予告された先週からのお馴染みになっていた。
 画面の向こうでもテンポの良い掛け合いがあり、記者質問の合間合間で場に笑いを沸かせ、空気の良さを伝えてくる。王道を一歩それた回答がたびたび飛び出してくるが、どちらも真剣に考え会話していることがわかるのがさらにおかしみを誘った。あの頃の笑顔と並べたく思って、僕はマグをローテーブルに置き、今日のために引っ張り出してきた少し古いスケッチブックを膝の上に開いた。
「そういえばおとといぐらいにヒーロー同士の早婚からのスピード離婚が問題化って記事出てませんでした?」
「すげぇタイミングですげぇ話題振ってきやがる。なんとか言ってやれ古参ファン」
 秘蔵ネタ出せ、とつつかれて頬をかきつつ、さすがにスケッチブックの前のページは出せなかったので、たぶん八年物なので、とだけ答えた。折よく会見場で似た質問が飛び、似た答えが返って、同僚が嘆息する。
 そんな数字の根拠を求めなくとも、僕は二人の幸せを確信していた。記者の問いに面映ゆげに頬を染めた、かつての『森林公園の眼鏡くん』は、かつての彼の大切な友人とともに、青と、赤と、白と、翠碧と、そして鮮やかに広がるハッピーイエローに包まれていた。
 会見が終わり、スタジオに戻った画面をぼんやり眺めて余韻に浸っていると、所長に後ろから突然名を呼ばれ、慌てて振り向く。まだスケジュールのブロック時間は過ぎていないはず、と首傾げる僕に、所長はひと言、メール、と言った。
「新着チェックしてみ。落ちた公募の続報」
 インゲニウム事務所から。軽く口にされたその名を聞いて、取るものも取りあえず立ち上がり、デスクに走った。途中の椅子に蹴つまずいて周りで笑いが起きたが構わない。PCのスリープを解除し、メーラーのウインドウを広げ、一番上の未読メールを開く。人は大きな衝撃を受けると押し殺した悲鳴を漏らすのだと、先の同僚の例に続けて僕は体現した。
 震える手でスケジュールを確認し、返信の文を打ちながら、そういえば鏡に映しても見えない僕の感情は何色をしているんだろう、と全く関係のないことを考えた。何色にしても、今その色は限りなく濃く広がって、事務所の窓からあふれて街をすっかり染め上げているのだろう、と思った。



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