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(意外と目つき悪ぃんだな)
 シャツに袖を通しつつふと隣を見やり、数センチ上に位置する横顔の目元を眺めて、そんなことを轟は思った。声は心中にとどまり、身じろいで凝視したわけでもないため、顔の汗をぬぐうために眼鏡を外した飯田はこちらの視線に気付かない。それを幸いなんとはなしに観察を続ける。
 四角い眼鏡が持ち前の堅い印象をかさ増ししているのは確かだが、では外せばなごむのかと思えばさにあらず、むしろフレームの線に隠れていたまなじりの上がり加減が露わになって、より眼差しが厳めしく感じられる。目そのものの輪郭は広く、矯正レンズが無い時でも行儀の良さからか眇め睨むような形にはならないものの、黒目の小さな三白眼(おまけに正確には眼光冴える赤目)であることも手伝い、お世辞にも柔和な目つきとは言いがたい。
 角張った眼鏡をかけているほうが、まだ逆にやわらかな面立ちに見える。それは今さらながらにひとつの発見であった。おお、とひとり得心に頷き、轟は呼びかけのための口を開いた。
「いい」
 だ、と声を発しかけ、はたと喉の手前で止める。確かに発見である。であるが、だからどうだという話でもある。特段愉快な話題ではない、どころか普通に考えれば揶揄や侮蔑に近い感想だ。演習終わり、本日最後の授業上がりの快い解放感が下地にあったとて、隣から唐突に「お前目つき悪いな」などという指摘を受けて、芳しい反応を返すほうが難しいだろう。そも和やかさ不足の目つきに関しては轟自身も人のことを言えたものではない。いや、だからこそ冗談のうちに納まるだろうか。だが相手は冗談が通じないでお馴染みの真面目な飯田である。言葉そのまま伝われば憤慨もやむなしだろう。いやしかし、こう見えて飯田は寛大で懐深い男だ。そんな些細なことでいちいち腹を立てたりしないのではないか――
 表には全く漏れ出ないが、轟の思考は瞬間的に大迷走に陥った。雄英に入学し、父への憎悪の檻から半ば強引に引き出されて、初めて級友、友人と呼べる周囲との関係に目を向けられるようになるまで、同年代の人間との気安く深い意味を持たない会話など、ほとんどしてこなかったのだ。何を言えば妙に思われないのか、何を言えば盛り上がるのか、全てが未知の価値観でさっぱりわからない。授業中や実習中はいい。相手から話しかけられて応える場合もまだいい。だが、自ら「何気ない会話」を始め、広げ咲かせるには、知識も経験もあまりに足りていなかった。
 一度開いた口を音なく閉じたのとほぼ同時に、飯田の逆隣りから声が飛んだ。
「飯田ってこう見るとけっこー目つき悪いなぁ」
「む?」
 飯田の反応とシンクロしてそちらを見やる。轟と同じ感慨を、おそらく浮かんだ端から口にしたのだろう上鳴の言葉に屈託は全くなく、顔にはしたりげな笑みさえ浮かんでいた。
「優等生メガネでごまかされてっけど、意外とコワモテってやつじゃん?」
 インテリヤクザっつーかそんな感じ、と続いた語は聞き流せなかったらしく、小首傾げていた飯田はぴっと手刀を振り、人を反社会的勢力に喩えるとは失礼千万だぞ! と抗議した。
「だいたい、目つきの点なら上鳴くんもあまり人のことは言えないだろう」
「俺は愛嬌でカバーしてっから!」
「うちの組の男で目つきが丸い感じなのって、緑谷と峰田ぐらいじゃねぇか? 青山と尾白と口田、あとは瀬呂がまあ普通って程度で」
 おどけのジェスチャーを披露する上鳴のさらに向こうから砂藤が口を挟んでくる。ロッカーの棚から取り上げた眼鏡を装着して眉間に上げつつ、ふむ、と飯田は思案の息を鳴らした。
「持って生まれた外見はいかんともしがたいが、人の不安や警戒を取り除くのもヒーローの役目だ。上鳴くんのやり方にも一理あるな。緑谷くんのような見るからに優しげな容姿でなくとも、振る舞いにしっかり気を配れば真心は伝えられるだろう。そう、たとえ爆豪くん並に剣呑な風貌でもな!」
「いやー、ありゃ例外っしょ。どんだけ分厚いカバー必要よ」
「どう見てもカタギじゃねーもんな。あれこそインテリヤクザだわ」
 委員長が説いた真面目な意見を踏まえつつ、瀬呂と上鳴が軽やかに話の落ちをつける。さっさと着替えを済ませて出て行った仲間の悪鬼のごとき怒り顔が場の全員の脳裏に浮かび、わっと笑いが広がるのを聞いて、おお、と轟は内心で感嘆を漏らした。なるほどこれが雑談、自然な談笑というものか。我から実行できる気はしないが、勉強になる。
「さあ諸君、笑ってばかりいないで手もきびきび動かしたまえ! 次の利用者がないとは言え、早く退出しなければ清掃の方に迷惑がかかるぞ!」
 飯田がお約束の喝を飛ばして笑いが散り静まり、めいめい身支度に戻る。言葉の通り、会話に加わりながらもいつの間にやら自身の着替えを終えていた飯田は、ほら轟くんも手が止まっているぞ、とこちらへ身を振り向かせ、直に注意の声をかけてきた。
 我知らず目をしばたたかせ、おう、と短く応答しすぐに正面へ向き戻って、シャツの三番目のボタンかけから動作を再開する。四角い吊り目はいつも前ばかりを見ているようで、時に驚くほど視野が広い。
 飯田はロッカーの扉を静かに閉め、荷物を手に更衣室の出口へ向かってきびすを返したが、すぐには歩き出さずに、また轟の名を呼んだ。
「そういえば轟くん、先ほど何か俺に言いかけてなかったか?」
 上鳴くんの前に、とあっさり言い当てられて、轟は今度こそはっきりと瞠目してその顔を見返した。なんら含むところのなさそうな凪いだ表情のまま、ことりと首が横へ傾ぐ。
「違ったかい」
「いや、……けど、なんでもねぇ。忘れた」
 何をどう言えばいいか考えていたら上鳴に全く同じ話題で先を越された、などと打ち明けたところで仕方ない。大した話ではなかったと暗に示せば、飯田はそれ以上の追及を重ねることなくそうかと頷き、
「もし何かあったら遠慮なく言ってくれよ」
 そう事もなげに言って笑った。
「……おう」
 自分にもう少し人付き合いの能力が高く備わっていれば、上鳴に先を越されることもなく、今の飯田の厚意の言葉にももっと気の利いた相槌を打てていたのかもしれない。と言って現状は無いものねだりで、悔やしがっても詮方ないことだ。自身が仲間たちの談笑の端緒になれなかった事実は、そのきっかけに育ち得たかもしれない言葉の切れ端を、傍らの友人が聞きとめてくれていたという事実で上書きされて、胸にもやを残さず散り消えた。
 目が悪いぶん耳がいいのかもしれない。それもまた新たな発見であるように思えたが、やはりなんと言って話題にすればいいのかわからなかったため、ではお先に! と敬礼のように上がった手へこちらも腕上げて応えるのみにとどめた。長身が隣から去り、熱の個性を持つはずの左半身がすうと冷える。
 今日は終礼がないためこのまま解散だ。爆豪を見習ってさっさと着替えを済ませておくのだった。そうすれば出る時間が揃って、寮までの道をふたり並んで帰ることになっていたかもしれない。会話ができなかったことよりそんななりゆきが惜しいように思えて、ふっと誰にも届かない細さで息をついた。


       ◇


(意外と子どもっぽく見えんだな)
 まぶたを上げてふと傍らを眺め、そんなことを思ったのは、頭の片隅にぼんやりと残る夢の景色のためだったろうか。昔日の面影に重なったというわけでもなく(当時からしてだいぶ大人びた容姿であった)、静かに寝入る顔にどことなくの幼さを見出しての素直な感想である。
 角の切れ上がった方形の目は穏やかに伏せられて、赤く輝く瞳を内へ隠し込んでいる。いつもきりりと逆八の字を描く眉も、今は横へ自然に筆滑らせたようなゆるやかな稜線を成し、特徴的な眉尻の尖りをきつく見せない。
 稚気を置き去る人の齢は、丸みを捨てた頬の線や肌艶ではなくまなざしの強さに表れるのだろうか、と新たな発見に頷きつつ、すうすうと規則正しく眠りを数える寝息の音に惹き寄せられるまま、轟は前へ手を伸べた。親指を右目のふちに、残りをこめかみにそっと添え、指先で目頭から眦までの線をゆるやかになぞる。端へ着いた指を次は眉へ向かわせ、今度は逆へ辿って眉間を擦り、さらにそこから高く通った鼻梁を降りる。されるがままの寝顔は成熟した輪郭の感触に反してやはり妙にあどけなく、常に凛と背筋の伸びた長身を堅い鎧に包み、災禍の中を休みなく駆け続けるヒーローのものとは信じられないように思われた。
 鼻尖を過ぎた指がそのまま口へ至り、ふにと唇を沈ませたところで、四角張ったまぶたを縁取る睫毛がかすかに震えを見せる。髪と同じ藍がかった濡羽色の庇はそのままゆっくりと持ち上がり、元・雄英A組クラス委員長、現・昨年来の轟の同居人、ヒーロー・インゲニウムこと飯田天哉の赤い瞳を露わにした。
「お」
「……うん?」
 はたりと視線が合い、その半ばにこぼれたやや間の抜けたふたつの音を聞いて、ようやく轟は自身の無意識の手すさびに気付いた。と言って慌てて引き戻そうと考えるでもなく、姿勢はそのまま、代わりに謝罪を述べる。
「悪ぃ、起こした」
 四角い目がぱしぱしと瞬き、こちらも悪戯を咎める代わりに否定の推量を唱えた。
「いや、起こしてしまったのは俺じゃないかな」
 もう時間だから、と首をひねって枕元を見上げる。指先を離れた唇の感触を惜しみつつ、追って見やった時計の針は五時五十五分を指していた。日の出まであと十数分といったところだろうか、部屋はまだ薄暗い。
 比較的時間の自由が利くようになった今でも、規律正しい学業課程の管理下にあったあの頃と変わらず、飯田の体内時計は機械のごとき正確さで定刻五分前の起床を促す。言われて思い返してみれば、ゆうべ轟が床に就いた際には既に仰向けの姿勢で寝入っていた飯田が、今ほどはこちらを向いていた。異様なまでの寝相の良さを誇る恋人を寝ぼけた自分が夜中無理やり引き転がしたのでなければ、覚醒のための小さな寝返りが、先に轟の浅い夢見を覚まさせたのだろう。共寝を始めて半年以上が経つが、起床直前のゆるびに満ちた寝顔をまじまじと見たのは、実は初めてのことであったかもしれない。
「ゆうべはだいぶ遅かったろう? 今日は二人とも休みだし、戻ってから遅めに朝食を作るから、それまでゆっくり寝ているといい」
 布団に風を入れない動きで身をずって起き上がり、ヘッドボードから眼鏡を取って着け、静やかな声とともに伸べた手で轟の髪を撫でる。その指が離れ戻る瞬前、轟は自身の手を伸ばして長い腕を掴んだ。ぐいと引かれた上体が平衡を崩し、わあと小さく叫んでこちらへ倒れかかるのを逃さず、もう一方の腕で上から押さえ込むように腰を巻き締め、捕まえる。
「こら、何するんだ!」
 俺は走りに行くんだが! と本気だろう勢いで身をよじられるが、既に崩れた体勢ではさしたる抵抗にもならない。布団へ半分戻った胴に顔を寄せ、
「五日ぶりに帰れたのに遅くなっちまったから、補給ができてねぇ」
 横目で見上げて言えば、ぴたと抵抗がやんだ。
「……一番補給が必要なのは睡眠だろう。休みなんだから時間はあとでも」
「休みなんだから少し走るのが遅くなってもいいだろ」
 正論を正論まがいで返す。見つめ合う逡巡の間はさほど長く続かず、なあ飯田、と呼びつのった拍子に眉根に寄せた皺がゆるりとほどけて、ため息まじりのやわらかな声が落ちた。
「もう、仕方がないなぁ君は」
 たまにびっくりするほど我がままなんだから、とこぼす言葉に険はなく、轟の腕に応えて傍らへ身を戻し、眼鏡を外し置いて枕に頬を乗せ、改めて正面からこちらを見る目は、穏やかに笑んでいた。
 屁理屈をこねるんじゃない、だとか、休日こそ日々の習慣を維持して怠惰にならぬよう過ごすべきだぞ、だとか、いかにも口にしそうな(実際に口にされたこともあっただろう)堅い言葉を、意外にあっさりと収めてしまうことがある。角張った眉と目じりが垂れて和み、赤い瞳は使命と信念を宿し輝石じみて煌めくばかりではなく、炉の中の熾火のようにあたたかに揺れることがある。
 いつ気付いたのかはもはやわからないそうした事実を、手の届く距離で二度三度と確かめるたび、言葉では説明できない昂揚を轟は胸に覚える。熱ひかぬ心地のまま、先の素直な感想を口にした。
「お前、寝てるとちょっと子どもっぽく見えるな」
 だからどうだという話ではある。しかしたとえ愉快な談笑につながるような気の利いた言葉でなくとも、傍らの真面目で優しい男は轟の声を唾棄し、揚げ足取って冷笑するようなことなど決してないと、今の自分は知っている。
「そっくりそのまま君に返したい台詞だな」
 今だって子どものようだったよ、と飯田は揶揄の色もなく笑う。寝ている、あるいは寝ぼけた轟の様子が子どもを通り越して赤ん坊じみているとは、それこそ学生の時分から、飯田のみならずほかの級友たちにも受けていた指摘だ。構わず言葉を続ける。
「眉毛と目元が下がった感じになるからかもしれねぇ」
「そうかい」
「眼鏡がなくてもやわらかく見える。……昔、眼鏡外すと割と目つき悪ぃなって思ってた」
「それはほかの誰かにも言われた気がするなぁ。しかも何度か」
 思案顔を浮かべるのに、上鳴だろ、と夢の記憶から答えを引き出して教える。そうだったかな、と手のかかる旧友の快活な調子を思い起こしているらしい笑みをこちらへ引き戻したい意図を込め、当時のつまずきを自ら暴露した。
「俺が言おうか迷ってたら、上鳴に先越された」
「へえ。良く憶えてるな」
 そんなこと、とは言うが、くだらない、とは言わない。今に輪をかけて会話の下手だった轟を知るがための気回しか、それとも素直に感心しているだけなのか、どちらともわからなかったが、いずれであれ轟にとっては好ましかった。やはり特別に盛り上がらなかった掛け合いがそのまま尻切れ気味に絶えても、失敗したと悔いを覚えることはない。
 穏やかな炉火に見つめられあやされて、とろりと下がりかかるまぶたの上にふと影が落ち、頬をかすめるように指が触れてくる。はたと目を開き直すと、ああごめんよ、と今度は飯田が謝罪を述べた。
「やっぱり赤ん坊のようだと思ったら触りたくなってしまって……でも昔ほどやわらかくはないな。ちゃんと成人した顔だ。あの頃は大人びて格好いいのに丸みがあって不思議なバランスだったけど」
 しかし相変わらず綺麗な形だなあと賛を連ねつつ、指先が顎の骨を撫でていく。ほかの部位と同じく四角く大造りだが、轟と違い任務時にグローブを着け個性には用いない手は、傷みも少なく存外にやわらかい。
「なんだ、スルか?」
「いやいやシないぞ」
「立派な大人だってわからせねぇと」
「わかっているって」
 腰に回したままの手をそろりと滑らせる悪戯に今度はこらとお叱りがあり、しかし身は逃げるでなく、愛情を隠さないやわらかな声音もそのままに、飯田は言葉を続けた。
「別に君を軽んじる意味で言っているわけではないよ。人が子どもや赤ん坊を見たときに可愛い、愛おしいと感じるのは、大きな目だとか丸い輪郭だとか、そうした造形を持つ存在を庇護すべきものだと見なして愛しむように遺伝子に刻まれているから、という説があるだろう? 逆に考えると、好ましいものや愛おしいものを見たとき、人はその造形を実際より幼びた造りのように感じ取ってしまうんじゃないだろうか」
 だから昔から、皆が君の寝ぼけ顔を愛おしいと思ってたってことだ、と朗らかに言ってのける。他意などないのだろう言葉の力に心身とも思わず退すさりかけたのをどうにかこらえて、轟は返した。
「じゃあ、お前もそう思ってるってことか」
「もちろん」
「俺がお前を愛しいと思ってるって、お前が今証明したってことだよな」
「え? ……ええと?」
「先に子どもっぽく見えたっつったの俺だぞ」
「そう……か、そう、だな」
 指摘が自分へ向いた途端に一転語調が弱り、頬に朱が昇る様を、誤りない愛しみとともに見つめる。気の利いた言い回しに至らなくとも、心を一方的に受け取って終わるだけでなく、自ら返すことができるのは嬉しく、楽しい。
「あと目つきが悪ぃって思ったのは、別に嫌ってたからとかそういうんじゃねえ」
 相手が愛しいと思えば見目いとけなく感ずる、逆もしかり、などという証明がなされないよう言い添えたが、こちらはむしろ羞恥を落ち着かせる言葉となったらしく、わかってるよ、上鳴くんもね、と微笑が返った。轟の頬から自分の口元へ引き戻した手の下、はあと熱逃がす吐息が鳴る。
「……轟くんといると知らないものがどんどん見えてきて、たまにあせってしまうよ。発見というか、新しい世界が開けるというか……」
 照れを追い出そうというのか、ごしごしと赤い頬をこすって逃げ込みかかったその論に、天啓を受けた思いがした。我なく声が口をまろび出る。
「俺もだ」
 自分こそずっと、新たに知ってきた。檻の外の自由な景色。望むものを見、望むものを追い、我が手に得ることの幸い。未知のもやへ踏み込み晴らす瞬間の快さ。進み、知るたびに視界は開け、世界が拡がった。
「あの時お前の目つきに気付いたのは、単にずっと見てたからだ。お前のことが知りたかった」
 今わかった、と早口に語る様はそれこそ親に発見を訴える子どものようであったが、轟も、そして四角い目をきょとんと丸く開いて聞く飯田もそれには思い及ばなかった。
 目つきも言動も角張っているが、時にはっとするほどやわらかい表情を浮かべ、静かな声で語ってみせもする。実は視力は酷く悪いというほどではなく、だから裸眼の際にも目を眇めはしない。飲料の選択が偏っているのは個性に影響するためで、運動後に身を寄せるとほのかに柑橘が香る。四角四面のたちでまるで融通が利かないように見えて、相手のため規律や習慣を曲げる鷹揚さが根に備わっている。世話焼きで面倒見が良く甘やかし上手だが、限られた相手と場面によって、愛されて育った末子持ち前の一流の甘えを見せてくることもある。
 知りたい、知ろうと思ったのはいつだったか、知ることができたのはいつだったか、ひとつひとつを詳らかに記憶してはいない。しかし大小の新たな発見、新たな理解は、それがどれほど些細な、他人が見れば取るに足りないようなことであれ、いつも違わず轟の胸に昂揚をもたらした。これまでずっと、そしておそらくこれからもずっと。
「お前が好きだからなんでも知りてえと思ったし、知れるのは嬉しい」
 自分にも相手にもまだ未知のものが無数にあり、望んで腕に納め充分に近付いたと思っても、次から次へ新たな顔が見出される。日々それを知る動揺は飯田の言う通り確かにあせりにも近く、渇きにも近い。苦しい心ではない。拡がり続ける世界に果てがないように、想う心に果てがないことを知る、幸福な焦燥、幸福なかつえだ。
 見つめる赤が揺れ、頬にも同じ色がまたじわじわと昇っていく。いつも意志強く横に結ぶか歯切れ良い口上のため大きく開くかしている口が半端な形に止まり、唇の間に舌を覗かせているのを見て、呼び誘われるように身を寄せ、口付けた。軽くついばむように触れ合わせ、ちゅ、と小さく音立てて離れ、またやわらかに重ねる。
「天哉」
 胴を抱え込む腕にさらに力を伝え、絡む吐息の間に名を呼べば、大きな手が赤面を隠す代わりにそろりと轟の背に回される。間近に見合わせた灯とその炉枠が融けるように笑みの形を描き、
「……僕も嬉しいよ、焦凍くん」
 甘やかに囁いて小首をかたげ、自ら唇をねだった。
 白み始めた空がカーテンの隙間から曙光を差し入れるまでの幾分か、そのまま布団の中で口付け、じゃれ合い、心地よい声と温度を行き交わせていたが、やはり大捕り物明けの体にはまだ補給が不十分であったらしく、睡魔が轟の手を引き始めた。
「……お前に撫でられてっとすげぇ眠くなるな」
「気付いたかい。寝かしつけは得意なんだ。兄さん譲りさ」
「お前は寝かしつけなくても時間になったらすぐ寝るだろ……。いや、たぶん、前から知ってた」
 在学時代、寮の共有スペースでの談話中、そこに至るまでの経緯はわからないが、隣に座った飯田に手慰みにぽんぽんと頭を撫で叩かれていて、寝入ってしまった記憶がある。他人の前で無防備に寝るようになったのも、赤子扱いされるようになったのも、それからではなかったろうか。知らない彼を知るのと同じほど、知られていない己を知られるのは、どこか晴れがましい気分だった。
「昨日まで大変な任務をお疲れさま。遠慮せず寝てしまってくれ」
「ん……」
 この心地よいまどろみを手放してしまうのは惜しい。だが、目を閉じても身に迫る檻の影はなく、また目を覚ませば愛しい者との新たな日、新たな世界が前へ開けていることを、今は知っている。ちゃんと起こすから、と笑う低く優しい声が、その証のように胸に深く沁み入る。
「おやすみ、焦凍くん」
 おやすみ、と応えられたかはわからなかった。目覚めてから確かめればいい。もし言い損ねてしまっていても、また次の折に伝え交わせばいい。まだ知らない朝と夜の向こうに、ともに歩み重ねる新しい未来せかいがある。


Fin.

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