He's supple.


「飯田、手が空いてたら押してくれねぇか」
「押す? ああ、ストレッチか」
 リビングのドアが開いたのを察して前屈の姿勢のまま声を放ると、寝間着の脚が視界の端を大股に歩み寄ってくる。急にどうしたんだい、と言いつつ両肩に置かれた風呂上がりの手があたたかい。
「テーブルまでどけて。ベッドでやればいいのに」
「そこの雑誌見てなんとなく始めちまった」
 今日は帰宅と夕飯が早かったため、風呂を済ませてもまだ床に就くにはだいぶ浅い時間だ。リビングで二人のんびりするか、と轟と入れ替わりで風呂へ行った飯田を待つあいだの暇つぶしのはずが、スポーツ雑誌のストレッチ特集を見てぼんやり動きをなぞるうちに本格的になってしまった。
「おとといだったか、ヴィラン追って工場の配管くぐった時に少し背中ひねっちまったんだよな。結局なんともなかったけど硬くなったんじゃねぇかと思って」
「この感じだとそうでもなさそうだが……君は活動中ずっと動いているタイプじゃないからな。確かに少し気にしていないと硬くなってしまうことはあるかもしれない」
 良い心がけじゃないか、と賛じつつ、雑誌も見ずにてきぱきとストレッチの誘導をしてみせるのはさすがの知識である。にわか仕込みのものではないとも知っているので安心して任せながら、回想をさらに過去へ遡らせる余裕もあった。
『三奈ちゃん、すごーい!』
 不意によみがえったのは明るい女子の声で、声の出元であるはずの口どころか顔も見えない。「透明化」の個性を持つ葉隠のものだと今ならすぐにわかるが、当時は名前も能力もまだうろ覚え、と言うよりそもそも印象に残るほどの関わりがなかった。雄英高校に入学して数週間、USJ襲撃事件を経て、体育祭を控えた時期の記憶だ。



「すっごい身体やわらかいね! 私そんなに脚上がらないよー! ここが限界!」
「葉隠さんの『ここ』はどこなのかわからないね……」
「Y字バランスってやつだよな。なんかカッケェ!」
「真横でキープするのすらきついわ俺」
「ダンスやってるんだっけ」
「そうそう! やっぱダイナミックな動きには身体のやわらかさが大事でさ。お風呂上がりに毎晩ストレッチ!」
 すっと頭上に抱えた脚を下ろした芦戸は、女子ながらにA組では指折りの身体能力を持って見えていた。なるほど、とぼんやり頷く轟の視線の先で、予定時刻より早じまいとなった演習からの開放感の中、クラスメイトたちの雑談は続く。
「ウチもやろうかなー。今度初心者向けの教えてよ」
「私も!」
「オッケー! みんなでやわらかボディ目指そうぜ!」
「俺も俺も!」
「あんたは超初心者向けじゃないと駄目でしょ。今日見たけどカッチカチじゃん」
 勝ち組個性だからって基礎サボり過ぎ、と指摘された上鳴がひでぇと大げさによろめき、
「男はやわらかくなりづれーんだって! なあ砂藤?」
 と隣へ水を向ける。A組一の体格の良さを誇る砂藤は受け流しの勢いに苦笑しつつ、まあと頷いた。
「俺はバルクアップ型だから関節やわらかくはねーけど、骨っぽいお前よりはマシかもな」
「こっちもひでぇ!」
「近接主体ならそれなりに柔軟性はないと……」
「尾白くんもやわらかいよね! 尻尾も!」
 タイプの異なる格闘型の二名が話に乗り、宙に浮いたグローブがぎゅっと拳を握る。賞辞を受けてくすぐったげに頬を掻いた尾白は、そういえばと矛先を変えた。
「このあいだ組手に付き合ってて感心したけど、委員長は俺よりやわらかいよ。特に脚というか、下半身」
「え、飯田? 脚が速いのは知ってるけど」
「意外。硬そう」
 女子二名の淡白な返しに轟も胸中で頷いた。先日の襲撃事件直前にA組の委員長に就任した、生真面目で堅物な俊足の男、というのがおおよその認識だ。ふくらはぎに備わった個性「エンジン」の爆発的な推進力には目を見張るものがあるが、四角張った言動の印象が強く、頭の中身にせよ身体能力にせよ柔軟さはほとんど感じられない。
「蹴りが主体の格闘なんだよ、委員長」
「へー。まだ同じチームになったことないからな」
「そうなんだー」
 半信半疑、といった反応が上がったちょうどその時、轟がいるのと反対側の通路から、くだんの人物がこちらへ歩み寄ってきた。
「君たち、もう授業は終わっているぞ! まだ終業時間前とは言え速やかに着替えて教室に戻りたまえ!」
「やっぱカチカチだわ」
「飯田くん! いま飯田くんの話してたとこ!」
「俺の?」
 機械じみた腕の動きがぴたりと止まり、俺がどうしたんだ葉隠くん、と見えない顔へまっすぐに向かって、正しく名を呼んで訊ねる。そうしたところは確かに委員長らしい。
「身体がやわらかいんだって、って!」
「委員長、Y字バランスできる?」
「Y字バランス? ああ」
 耳郎の補足を一度おうむ返しにし、事もなげな動作で上げた右脚は、軽い腕の支えひとつで耳横にぴたりと止まった。おお、と上がった感嘆の声に、轟の内心のかすかな驚きも唱和した。
「こうかい」
「すご!」
「YっていうかもうIじゃん!」
「飯田くんも毎日ストレッチしてたりする?」
「うむ、しているぞ! 身体の柔軟性は手脚の可動域を広げるだけでなく、怪我の予防にもつながり、血行の改善と代謝向上の効果もあって良いこと尽くめだ。もちろん個々の体質に見合ったパフォーマンスの考慮はすべきだが、継続的な柔軟運動は皆にも是非お勧めするぞ。硬い身体には非常にデメリットが多いからな。今日の演習を見ていた限り、上鳴くんはだいぶ硬いようだな!」
「いいんちょにもバレてる!」
「脚が上がるのはもちろんすげぇけど、そのまま立ってられるのがすげぇ」
「べらべら喋りながらだわ腕は動いてるわ」
「柔軟性もそうだけど体幹が強いんだな……」
 居残り組を呼びに来たらしい当初の目的はどこへやら、賑わいの輪に溶け込んでしまった眼鏡の委員長は、尾白の言葉に頷いて胴体の筋肉の重要性をひとくさり議論してのち、上げたまま忘れられていたかのような脚をようやく地面に降ろした、かと思えば、
「轟くん、君もまだ着替えていないな!」
 唐突にこちらへ視線を向けて大声を投じてきたので、迂闊にもわずかに身じろいでしまった。とは言え距離があっただけに反応までは見られなかったらしく、まず所在への驚きの反応が上がる。
「あれ、轟くんいたの?」
「聞いてたなら入ってこいよー。ヤボなやつだなー」
「あんたがチャラ過ぎて入りづらかったんじゃないの。朱に交わればなんとやら防止」
 更衣室は芦戸たちを挟んで逆側だ。背を向けて去るわけにもいかず、軽く頷き注目を浴びつつ歩き出す。ぼうと残っていずにすぐに出ていけば良かった、などと思いつつそのまま黙って横を行き過ぎようとしたところで、また飯田に声をかけられた。
「そういえば轟くん、君も意外に身体が硬いようだな! 上鳴くんもそうだが、非近接主体であっても激しい動きをしなければならない状況はあるはずだ。君も柔軟性は高めておいたほうがいいと思うぞ」
 轟はもう一度大きくたじろいだが、内心のみで、外には表れ出なかった。輪がにわかに盛り上がる。
「轟そうなん?」
「男子は男子でストレッチ教室でもやるか? 委員長と尾白が教師で」
「体幹トレーニングも」
「ああ、良い取り組みだな! 君もどうだい、轟くん」
 また話を向けられる。既にたじろぎを超えて困惑に踏み入りかけていた轟は、おそらく初めて正面に相対する飯田の目の色を一瞬視界に入れてすぐに顔ごとよそへそらし、ひと言、答えた。
「いい。自分で勝手にやる」



 がくり、と指示と異なる動きで身体が倒れる。過去の自分の冷えた言葉が重く身を潰し、えずくような声が漏れ出た。
「悪ぃ、飯田……」
「えっ! 急にどうした? 強く押し過ぎたかい?」
「お前は俺のことを思って忠告してくれてたのに、あんなひでぇ言い方で無下にしちまった……いつか何かの個性事故でタイムスリップしたら説教してくる……」
「いやいや、なんの話だ?」
 そんなとんでもない事故が起きたら困るぞ、と戸惑う飯田に、最前までの回想をかいつまんで伝える。ずいぶん古い話だなと頭を掻きつつ聞いた飯田は、呆れず笑ってみせた。
「瀬呂くんだったかに『初期ろき君』なんて言われた頃だな」
「ひでぇのは知ってたけど、しっかり思い出すと本気でひでぇ」
 はあとため息する轟の背をぽんぽんと大きな手が撫ぜ、冷たい記憶をぬぐっていく。
「君はしっかり自分を見つめ直して行動を改めて、すぐに皆の輪に入って話せるようになったじゃないか。同じクラスになってひと月だろ? 皆が君のことを知らなかったし、君も皆のことを知らなかった。それだけの話さ」
 首振り向かせて見仰ぐ赤は、人や物を追いつめ燃やし尽くす炎ではなく、ゆく道を照らすあたたかい灯の色だ。何も見えていなかった轟は、クラスの中に孤立を作るまいとする委員長の気遣いも知らず、ずかずかと近付いてくる態度に疑念を感じるばかりだった。
 理解の視線を交わしたのち、飯田が苦笑して続ける。
「それに俺だってあの頃のことは反省だらけだ。きっと君の気に障る調子で頭ごなしに説教でもしてしまったんだろう。本当に頭が固かったからな……今も固いとは思うが、それでも少しはましになれたと信じているよ。雄英の皆や先生方、お世話になってきた沢山の人のお陰で」
「……俺も」
 肩に置かれた手に自分の手を重ねる。人の深みへ臆せず手を差し出すこと、差し出されることの重さ、それを握り返すことのできる相手の得がたさも、あの頃の自分は知らなかった。
 うむ、とひとつ満足げに頷き、大きな手が体操の誘導を再開する。
「やはり柔軟性は大事だな!」
「いてててて、飯田、強ぇ」
「む、やっぱり少し硬くなったかもしれないな。せっかくだから毎晩続けようじゃないか! 俺も付き合うぞ」
「ベッドでか、毎晩」
「ああ、ベッド……いや、リビングでいい、よ」
「お前はもう必要ないんじゃねぇか。あんだけ脚開くし」
「もう! 先ほどから言い方が少しおかしいんだ轟くん!」
 心を硬く凍てつかせていたあの頃の自分にこんな馬鹿な会話を聞かせてやったら、一体どんな顔をするだろう。やわらかな日々を笑ってともに過ごす相手が、まだ身体ばかり柔軟なあの四角い委員長だなどと教えてやったら、困惑をさらに超えて立ったまま気絶するのではなかろうか。
 まあ本当にタイムスリップしたらまず説教だが、と胸に決めて、照れた恋人の手を再び取り、今日から増えた風呂上がりのたわむれの続きを促した。


Fin.

おまけ→

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