ふたりぼっちウィークデー


「飯田、もう一杯飲むか」
「ああ、いただくよ。ありがとう」
 急須が上げ示されるのに頷き、湯呑みを前へ差し出す。轟は慣れた手つきで二人分の茶葉とポットの湯を急須に入れ、少し間を置いてから並べた湯呑みに順繰りに注ぎ、飯田の分をこちらへ戻した。料理は苦手らしい轟だが、こうした茶や食事の作法は堂に入っており、淹茶では時間があれば湯冷ましさえしてみせるので初見の折は皆で驚きを寄せたものだ。好物の蕎麦を食べる時の箸使いなど非常にうつくしく、少々不躾と自覚しながら、食事を共にする際にそっとその様子をうかがい見るのが飯田のひそかな楽しみともなっていた。
「障子たちは明日の朝に帰ってくんのか」
「そのようだ。業務はつつがなく終わったそうだが、深夜移動もどうかということでね。七名が明日の朝、二名が昼からの帰寮になった。夜に帰る予定の五名が加わればもうおおよそ通常運行だな」
 夕食時はいつも賑やかな寮の共用スペースも、昨日今日はしんと静やかな空気が流れている。定員二十余名のうち二名しか残っていないのだから当然ではあった。結局、日曜午後に確認した通り、この二日間に雄英学内に残ったヒーロー科二年生は飯田と轟の二人のみで、隣のB組寮まで含めて幽霊屋敷のような状態となっていた。
 食後の茶を一口含み、あたたかさが胸に沁み落ちる中でしみじみと感じたことを、前へ座る友へと語る。
「事のなりゆきのものではあったが、轟くんがいてくれて良かったよ。一年生への教導授業もすんなり受け入れてもらえたし、久しぶりに君との組手もできた。やはり独習で済ませるより人と教え合えたほうが何倍もためになるな!」 
 さすがに普段通りの授業とは行かず自習の時間も長かったが、一人と二人とでは結果的に想像以上の差があったようだ。二日間を振り返りながら言うと、轟は何やら思わしげに口を尖らせた。
「組手、次はもっと勝つからな」
 ぽつりと落ちた言葉に、思わず笑いがこぼれてしまう。今日の午後、個性の使用なしを条件に行った実戦形式の勝負で飯田に大きく水をあけられたのがよほど心に残ったらしく、入浴時にも身体の鍛え方などを訊ねられていた。
「望むところだと言いたいが、近接戦に関してはさすがにこちらも譲れないな。個性不使用というだけで大きなハンデを貰っているようなものなのだから、それで負けちゃいられないさ」
 中遠距離からの面の制圧力においては、今の轟に並ぶ者などプロヒーローでさえひと握りだろう。敵を自身や警護対象に近付けずして確保できることが大変な強みであり、求められる役割であって、高速移動によるターゲットへの急接近とそれに伴う救助および制圧が主任務となる飯田とは、重視される能力が根本的に異なる。もちろん、轟もそうしたところは承知しているのだろうが、とは言うものの互いに夢持つ男児の身。「肉弾戦が強い」という評価への本能的な欲求は飯田とて理解できるだけに、なおさらおかしみを感じた。
 飯田たちを含む今春時点の雄英生たちは、迫りくる強大な敵と相対するために、個性による純粋な「力」を一定方向へ過剰なほど伸ばさざるを得なかった。大戦の終結後、バッシング覚悟の偏重指導となったことを認め謝罪した根津校長の新方針のもと、今はそれをより良い形に成すための制御訓練、救難救助の技能深化など、遅れていたヒーロー実践学を中心としたカリキュラムが組まれている。戦闘形式の演習も多少減じていたので、久々に仕合った飯田との差が余計に気になったのだろう。
「尾白たちとの格闘の自主練、俺も参加しようかな。邪魔になるかもしれねぇけど」
「いや大歓迎だぞ! 今回の一年生への教導でも改めて感じたが、技能の異なる相手を見たり教えたりするのもまた大きな学びに繋がるからな」
「そうか」
 なら次から出る、と前向きの姿勢を示す轟は、普段の大人びて起伏のない印象に反して割合に負けず嫌いで、年齢と立場相応に闘志にあふれたところがある。周りから意外と評されるようなそうした「素」を正面から向けられると、飯田はなぜだか言いようのない充足を胸に感じることがあった。それも近ごろ、とみに多い。
 わけを言葉にまとめるのがためらわれるように思えて、また一口傾けた茶の渋味でふわふわとした心地を飲み下し、元の話題を続ける。
「俺も今度は君たちの自主練に参加させてもらおうかな。心操くんの捕縛布の扱いが一段と良くなったのはそちらの成果だろ?」
「瀬呂がうまいことアドバイスしてるからな。俺は適当に妨害役してるだけだ」
「君が仮想敵をやってくれるなんて凄い贅沢だと言っていたよ」
 轟から心操への積極的な関与について、編入当初はクラス内でも驚きをもって受け取られていたが、その理由が間もなく察されてからはほほ笑ましく見守るスタンスに落ち着いた。情を秘めつつあまり表へ露わにしないところなど、気質が似た部分もあって、思いのほか相性が悪くなかったらしい二名はもう友人と言って間違いないだろう。心操は猫が好きとのことだったから、猫のようだと評されがちな轟にも相対しやすいところがあったのかもしれない。
 ともあれ良いことだ、と内心で頷いていると、前からじっと視線が注がれた。何やら気にかかっていることがある時の顔だ。
「なんだい?」
 心操ももうこの表情に気付けるのだろうか、などと思いながら問うと、ん、とひとつ頷きがあり、
「あいつが早く馴染めればいいと思ったけど、俺出しゃばりすぎてねぇかな。お前の仕事の邪魔になってたら悪ぃと思って」
 と言う。まさか、と飯田は慌てて腕を振った。
「むしろ非常に助かっているよ。二年になってから俺も何かとばたばたしてしまって、クラスに目が行き届かないことが増えている気がしていたから。今回のことだって、もう少し注意深くしていれば防げたかもしれない」
「インターンは仕方ねぇだろ。こっちで業務に口出しできねぇし」
 不安を見せたかと思えば、お前はずっと良くやってる、と飯田の自嘲はきっぱり否定してくる。相も変わらず優しい親友に、ありがとうと笑って礼を述べた。
「君にそう言ってもらえると自信が湧いてくるな」
「そうか。もっと言うようにする」
「はは」
 委員長も轟も緑谷もそこまであっさり人褒められんの凄いね、と言ったのは心操で、わけても飯田と轟を指して、お前らの話にはオチが無ぇ、と苦虫を噛んでみせたのは爆豪だったろうか。確かにつれづれと語り交わすうちに到達点を見失ってしまうこともあるが、日ごと穏やかさを増して感じられる轟との胸ぬくむような会話が飯田はとても好きだった。
「そういえば、君とふたりでゆっくり話すのも久しぶりだったかもしれないな」
 ふと感じたままに漏らすと、轟も気付いていたのか、即座の首肯が返った。
「お前、ずっと忙しそうにしてたしな。インターン前に少しでも話したかったから、ちょうど良かった」
「そうだったのか。遠慮などしなくとも良かったのに」
 こちらも話したかった、俺と君の仲だろう、いつでも声をかけてほしい――続く言葉はいくつか浮かんだが、どれも実際に口にするのはやはり不思議にためらわれて、自分らしくなく迷っているうちに、じゃあ、と轟が先んじる。
「このあと、お前の部屋行ってもいいか?」
「え?」
「もっとお前と話してぇ」
 非対称の異色にじっと見つめられて、迷う言葉の全てが散った。どこへ行こうが二人きりの寮だ。話すだけならこのままここで続けてもいいし、居心地の良いソファのほうへ移動してもいい。思いつく合理もすぐに散り消えて、燻るような情だけが残る。飯田、と名を呼ばれて我に返り、咄嗟に答えた。
「ああ、もちろん」
 反射の言葉でもあったし、心底からの言葉でもあった。どくんと揺れた心臓をなだめるべくひと息に飲み干した茶は、一切の味を感じさせずに食道を滑り落ちていった。


 急ぐでもなく食堂を片付け、共用部の消灯と戸締りの点検を済ませ、一度自分の部屋へ寄ると言った轟と別れて飯田も自室へ戻った。明日からのインターン出発の準備は既にととのえてある。常ならば今日の授業の復習をするか、中途の本を読み進めるかなどしてからあとは床に就くだけの時間だ。待つ間は妙に長く、手持ち無沙汰に着替えも終え、いや明らかな寝間着で人を迎えるのはいかがなものかと上に厚手のカーディガンを羽織って、立ち、座り、また立ち、無意識に動く足で部屋の中を三周ばかりしたところで、戸を叩く音が鳴った。妙に鈍い音が一度きり。
「どう、ぞ……?」
 急いで開けた扉の向こう、予想外の光景に大きな疑問符が浮かぶ。どうやらそれでもって戸を鳴らしたらしい親友の紅白頭より先に目に入ったのは、広く厚い布地の塊だった。
「……それは?」
「布団」
「布団はわかるが……」
「今日お前の部屋で寝かせてくれ」
「ええ?」
 両腕に寝具一式を抱える不安定さが限界に来ていたのか、思わず足を下げた飯田の脇をすり抜け、轟はいいとも駄目だとも言わぬ間に部屋の中に荷物を降ろしてしまった。椅子ちょっと寄せていいか、と久々の突飛行動をそのまま継続させるのに、いやいや待ってくれと歩み寄る。
「ここで寝るって、朝までかい?」
「そりゃそうだろ」
 障子たちが帰るまでには起きて戻るようにする、と譲歩のごとく言う。
「消灯後の他室滞在が認められるのは、原則的に非常時と体調不良時などの付き添いだけで……」
「じゃあ、頭が痛ぇから今夜は委員長に面倒見てもらう」
「じゃあ、とは」
 本当に頭痛がしていて熱でもあるようなら、保健室への付き添いと明日からのインターン先への連絡が初めにやるべき務めだが、と頭の中では続く正論が、いそいそと寝床の準備にかかる姿を見るうちに、膨らむ情の中へと沈んでいく。
「……消灯時間になったら、俺は多分すぐに寝付いてしまうよ」
「それでもぎりぎりまで話してられるだろ」
 抵抗とも言えない抵抗をさらりと一蹴されて、もはや追い縋れる文句はなかった。根の穏やかで素直な轟も稀に妙な頑固さを見せることがあって、しかしそれが限られた相手にしか発揮されない稚気だと知った時、胸に芽生えたのは嫌気けんきや困惑ではなく。
「まったく、仕方ないな君は」
 今日だけだぞと譲るような態度で白旗を揚げる飯田に、また委員長が轟を甘やかしてる、と揶揄を飛ばす仲間も一人とていない、特異な二日間だった。最後も少しぐらい特異に締めくくってもいいのではないか。そんなことを考えてしまう程度には、我が儘を叶えて嬉しげに笑む彼の顔が好きだった。自分のほうがより仕方ない、と思った。
 狭い床の隙間にどうにか敷いた布団と、寝台の上とにそれぞれ座り、しばらく他愛ない話をした。二日間ずっとふたりきりだったのに、それでもまだ交わす言葉は尽きていなかった。爆豪あたりが見たらきっと眉をしかめるだろう、着地点の欠けた会話を取り留めもなく転がして、笑い合う。轟といると無性に心地いい。自分も少しでもそう思ってもらえていたなら嬉しい、と、自室という私空間にいるゆるみの分だけ、ふわふわとした気分に抗いなく浸る。
 消灯の時間が近付き、そのまま寝てしまっても良いように部屋の灯りを落として、それぞれの布団に入った。もっと話していたい、と思うのに、イレギュラーな日を二日続けて過ごしたためか、綿雲に包まれたような空気のためか、いつも以上に睡魔の訪れが早い。ふわ、と掛布の下であくびを噛むと、下で轟の笑う気配がした。
「お前もあくびとかすんだな」
「そりゃあ、するさ」
 人前では行儀が悪いから我慢しているだけで、と心中で続けて、いや今も人前か、でも轟くんだしな、などと埒もなく考える。
「すげぇ眠そうだ」
「眠いよ」
 短く答えると、何がおかしいのかまた轟はくつくつと笑う。この二日はずっと機嫌が良かったようだ。君が楽しいならまあいいさ、と続く言葉は眠気の波に呑まれて音にならない。
「お前と八百万には面倒かけたけど、昨日今日、俺は結構楽しかった」
「面倒をかけたのは先生方にもだな……だがそうかい」
「ああ。一年の授業に出るのも勉強になったし」
「うん、そうだな」
「自習も組手もゆっくりできたしな。次は負けねぇけど」
「俺も負けないよ……」
 睡魔に取り憑かれている相手に合わせてペースを落としもせず、胡乱な応答を逆に楽しんでいるかのように、轟は変わらぬ調子で言葉を続ける。
「お前、最近あちこちで引っ張りだこになってて、なかなか捕まえられなかったから、ふたりになれて良かった」
「うん……」
 いつも遠慮などいらないのに、と夕食の際にも述べた言葉を返そうとしたが、力の抜けた口が声を刻み損ねているあいだに、また轟が先んじた。
「二日間、お前を独り占めできて良かった」
 ずっとしたかった、と言って、返事を待つような、寝てしまうのを待つような、無言の時間が流れる。綿雲の空気が緩衝となって思いのほか心身の動揺はなく、飯田は「僕も」とようよう口にした。
「僕も楽しかった。君とふたりきりで、色々できて……。最近、君は心操くんと仲良くしていたから、少し寂しかった。僕も構ってほしかった」
 え、と下で声が落ち、大きな身じろぎの音がしたようだったが、千里も遠くで鳴るもののようにも聞こえた。
「君と話すのは楽しい。一緒にいるととても心地いい」
 皆同じだけ大切なクラスメイトのはずであるのに、特別にまばゆく見えるようになったのはいつからだったろう。「ふたり」を意識するようになったのは、いつからだったろう。ためらいは散って、弾けた情のまま、ただ想うままに、胡乱な言葉を紡ぐ。
「君とふたり、ずっと一緒にいたいな……」
 がばり、と今度こそ間違いなく身が跳ね起きる音がしたが、もはや夢幻の彼方だった。おやすみ轟くん、と告げられたかどうかもわからなかった。
「おい飯田、……飯田、寝たのか? お前嘘だろ、言い逃げか、おい」
 いいだ、いいだ、と呼ばわる声の必死さにも気付かず、名を呼ばれる喜ばしさだけが沁み入って胸をぬくませ、肩を揺する手さえが快い眠りを深めていく。
 翌早朝、のちの語り草となるほど凄まじい形相で目覚めを待ち構えていた轟に、開口一番「お前が好きだ。俺もずっと一緒にいたい。結婚を前提に付き合ってくれ」と聞き違いや思い込みの余地の一切入らない言葉で告白されて、極大のパニック状態のまま帰寮する仲間たちを出迎える羽目になることなど今はつゆ知らず、ふたりぼっちの夜の終わりに満ち足りて、飯田は幸福な夢の中に意識を手放した。


Fin.

おまけ→

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