Bitter Sweets


 それは乱戦の中でほとんど狙いなく放たれた一矢であったが、だからこそ警戒の目を外れ、危ない、と注意の号が飛んだ時には、鈍色の鏃は既に薙ぐ剣も防ぐ盾も届かぬ場所にあった。
「きゃっ……!」
「リシテアさん!」
 注意を発してすぐに駆け出したイグナーツも一手間に合わず、頭上から降るように飛来した黒羽の矢は、咄嗟に前へかざした腕の半ばに突き立った。脚が後ろへよろめき、倒れ込むのまではどうにかこらえたが、数歩目で土埃の中にくず折れる。横手で槍を振るっていたレオニーが悲鳴を聞いて馬を飛び降り、二人のもとへ駆け寄った。
「リシテア、大丈夫かっ?」
 背が支え起こされ、ごめんよと言って裂き開かれた長衣の袖の間から、貫かれた傷の具合を確かめ始める。その間に、後方にいたヒルダとマリアンヌがイグナーツの手振りに応じ、並んで駆けてきた。
「わ、私が治療を……」
 癒しの杖を握って進み出るのを、レオニーが腕上げて制する。
「待ってマリアンヌ。これ、たぶん毒矢だ。すぐに傷を塞がないほうがいい」
 はっと息呑む音がし、場に緊張が走る。どうりで妙に身体が重いと、リシテアは冷静と模糊のはざまの意識で考えた。倦怠感は腕を越えてじわじわと身の内を広がりつつあった。
「とりあえず鏃だけは抜いちまわないと。リシテア、これ噛んで。舌は引っ込めてるんだよ」
 頷き、口元に押し当てられた布を口に含む。弓を扱い慣れたレオニーの処置に不安は感じなかったが、それでも矢が引き抜かれる一瞬の激痛には背が跳ね、布の隙間からこらえかねた声が漏れた。
「誰か毒消しの薬を持ってないか? 私のはこの前ので切れちまった」
「先生かクロードくんなら持ってたと思うけど……」
 言って振り仰ぐ空の向こうに、折しも高みへ上ったらしい、クロードの駆る飛竜の姿が見えた。しかし、声はもちろん、目視で互いの様子がつぶさに伝わる距離ではない。
 山間にたむろするという賊徒の掃討のための、それなりに大掛かりな出撃だった。敵の潜伏地点の情報を受けて隊をふたつに分けており、学級の中心者であるくだんの二名は、ローレンツとラファエル、治療役を申し出たフレン、そしてセイロス騎士団から帯同のアロイスととともに、別働の部隊を指揮していた。リシテアたちの隊は本来後詰めの役回りであり、割いた兵の数も生徒を中心にそれ相応の規模であったのだが、突如として出現した複数体の魔獣と、奇妙な伏兵に前後から襲撃を受け、思わぬ混乱に陥ってしまったのだ。
 これはただの賊ではなく、近ごろ暗躍を続け、自分たちも幾度か対峙した、かの妖しの敵の仕業ではなかろうか、と皆が言葉なく気付いた。それがために、この場の動揺が大きくなっていた。ありふれた毒なら、たとえ身に受けても適切な処置で快癒し、めったに大事に至るものではない。傭兵出の頼もしい師の教えもあり、今は全員がそうと心得ている。だが、もしもそれが、ありふれた毒でなかったとしたら?
 黒羽の矢を放った謎の敵は既に仲間の兵に討たれ、どこに倒れたかもわからなくなっている。
「……吸い出そう。そのままにしておくのは危ない」
 その決心を聞き流すことはできず、リシテアは熱持って重いまぶたと口をどうにか開いた。
「駄目です、レオニー。どんな毒か、わからないんだから……」
「すぐに吐き出せば平気さ。やり方は知ってる」
 でも、と首を振り、何かほかに手立てがないかと胡乱に目を動かしたちょうどその時、怒号じみた気合を発して重装兵を力任せに打ち倒した影が、敵の囲みを破った勢いのまま視界の先に躍り込んできた。
「おう、どうした!」
 こちらを見てすぐ異変に気付いたらしく、大呼とともに駆けてくるバルタザールは、部隊の殿しんがり役を務めていた。魔獣と伏兵の挟撃で前後がほとんど分断されていたことを考えると、その姿がここへ現れたのはおそらく前向きの事態と想像できた。
「バル兄、リシテアちゃんが敵の毒矢に当たっちゃったの」
 周囲の兵に解毒薬の所持を訊ねて回っていたヒルダが幼馴染の登場に駆け戻り、状況を告げる。毒か、と短く返した言葉に揺らぎはなく、場所を代わるようイグナーツに頼んだ声にも、傍らにしゃがみ込んだ大きな気配にも、一瞬前までの闘士の苛烈さは宿っていなかった。
「リシテア」
 呼びかけに応えるより早く、血止めのために押し当てられていた布越しにやわらかな熱が腕に触れ、肌の下の疼きが薄らいだ。横でヒルダの驚きの声が上がる。
「それ、解毒の魔法? バル兄使えたの?」
「覚えたてだ。あんまり信用すんな」
 語る言葉のとおり、その波動は少なからず乱れてはいたものの、薄く開いた目に映る光と、何より身の内を蝕むような痛みと寒気をやわらがせる効は、解毒の術のそれに違いなかった。理論さえ学べばほとんどの人間が扱えるようになるライブなどの初級魔法に対し、中級、上級となると練度のほかに各人の生まれ持つ素質の影響が大きく、金鹿学級における解毒魔法の修得者は、今ここにいないフレンのみである。バルタザールは決して魔道の力の扱いに長ける人間ではなかったが、存外に呑み込みが良いからと、万が一の際の使い手として担任教師とともに白魔法の体得に励んでいた。その成果の初めがこれとは、時にその学習に付き合った(付き合わされた)リシテアも予想してはいなかった。
「うん、顔色が良くなってきた」
 レオニーの声にも安堵の色が灯るが、軟化しきってはいない。不気味な敵の武器から毒を受けたこと、ここが戦場のただ中であることに変わりはなかった。
「そっちの魔獣は?」
「今さっきようやく仕留めたところだ。まだ人間の兵隊どもは残ってたが」
「後ろの魔獣が倒せたなら、戦場の外の天幕まで抜けられるんじゃないでしょうか」
「けどずっと荒れ地だったから、馬に乗せるのも良くないな。走れないことはないが揺れ過ぎるし、目立ってまた敵の弓や魔法の的になるかもしれない」
「天馬部隊は先生たちと一緒ですし、呼ぶのは難しそう……」
「ひょっとして向こうも魔獣が出てるのかも。先生とクロードくん、こっちに気付いてても連絡取る余裕ないんじゃない?」
「……リシテア、つらいか?」
 話し合いに加われないことがもどかしく、どうにか意思示そうと腕の中で身じろいだのを苦痛の表れと捉えたのか、レオニーが問うてくる。実際、全身のだるさと熱感は抜け切っていなかったが、それでもたちの悪い痛みはだいぶん引いてきていた。そも、この隊の中心指揮をクロードたちから頼まれていたのは自分なのだ。こんな毒矢ひとつで倒れ、あまつさえ仲間たちに世話をかけてなどいられないと、内心に叱咤して起こしかけた身体が、次の瞬間、不意に重さを失った。
「よし、俺が連れてく」
 声がごく近い。魔力の波ではない直接の熱が背と膝裏に触れている。人の腕に――解毒魔法を続けていたバルタザールに胸元へ抱き上げられたのだと気付くまで、数瞬の間を要した。
「ちょっ……な、何するんですか……!」
 自分は大丈夫だからと仲間へ宣言するために開いた口から、動転の言葉が滑り出る。虚脱感さえ一瞬忘れて我なく暴れかけたが、浮いた脚が一度宙を蹴ったのみで、増した腕の力と降る声にあとを呑まれた。
「動くな! 毒が回る!」
「は……はいっ」
 今度は従の言葉が反射に漏れた。もともと人相良しとは言えない相手の本気の威迫の顔を間近に見るのも、面と向かって怒鳴り飛ばされるのも初めてのことだった。
「向こう端が一番敵の数が少なそうです」
「わかった。おうお前ら、半分ついてこい!」
 周囲もこの行動を是の方策と受け止めたらしく、おのおの立って動き始める。バルタザールの隊兵として従っていた侠客たちが号令に応え、半数はこの場の敵を制圧するために仲間たちの隊へ散り、半数が戦場脱出のための壁として四方を固めた。
「なるべく揺れねぇように走るが、じっとしてろよ、リシテア。できれば服にしがみ付いてろ」
 諭すように言われ、もはや反発の意気もなくこくりと頷く。力の抜けた指でそれがどこまでかなうかはわからなかったが、たとえ自分が何を果たせなくとも、ほとんど包むように背を支える腕から取り落とされる不安は感じなかった。
「じゃあ、私はひとっ走りして先生たちに状況を伝えてくるよ。向こうの様子も気になるしな」
 こちらを見て頷き、言って馬に飛び乗るやその胴を蹴って駆け出していったレオニーの背が視界から消えるのを待たず、よし、とバルタザールも疾駆に身構える。
「ヒルダ、あとは頼むぜ!」
「了解。よろしくね、バル兄!」
 叫び交わし、合図のひと声とともに、脚が地を蹴る。衝撃はあったが、忍耐を要するほどのものとは言えず、次第に朦朧とし始める頭が何を思い何を感じたのか、自分でもすぐにわからなくなった。
「大丈夫でしょうか……」
「平気よマリアンヌちゃん。バル兄、いざという時はちゃんと頼りになるから。……さ、仕方ない。ここはあたしたちでなんとかしますか!」


       ◇


 いつ途絶えたのかもわからない意識がゆっくりと浮き上がり、初めに捉えたのは人の声だった。
「おう、来たか」
 身の横で、おそらく気を失する直前まで聞いていた男の声。先生、と呼ばわる聞き馴染みのない兵士の声。この場では唯一そう呼ばれる者が、こちらへ近付く足音とともに返した静やかな声。
「リシテアの具合は?」
「寝てるよ。どうやらたちの悪い毒じゃなかったらしいが、熱が出ちまっててな」
 私は大丈夫です、先生、と心の中では言いつのったが、口もまぶたも、指一本さえ動かなかった。代わりに答えたバルタザールの言葉で、その原因を理解する。そうかと言ってそっと額に触れ、すぐに離れていった手がひどく冷たく感じられた。
「向こうの後始末はもういいのか?」
「クロードがほとんど引き受けてくれたから」
 次から部隊と荷の配分を再考する、リシテアに詫びを入れておいてくれと言っていた、と語られる言葉、そして周囲の気配から、戦いが無事勝利に終わり、自分は戦場の前方に置いた天幕の中、負傷者のための寝台に寝かされている、という現状がゆるゆると把握される。バルタザールが付き添いとして残り、報告を受けた本隊の指揮官がそこへ参じたという経緯のようだ。
「そうかい。ま、今日のは全員油断してたさ。普通ならただの賊退治にンな力入れる必要ねぇんだからよ」
「いずれにせよ、あの敵のことはこれから先考えておかないと」
「そうだな」
 物堅いやり取りのあと、一拍の間をおいて、
「ありがとう」
 ふっと、緊張をほどくような息の音ともに、感謝の言葉が場に落ちた。
「ん?」
「良く見てくれている」
「ああ」
 まぁお前らよりよっぽど暇だしな、と軽い声音で応じるバルタザールは、今の士官学校に正式な籍を置く身ではなく、年齢だけを見ても生徒とは言いがたい。しかし同盟領の小貴族出身という身の上と、それに伴う現生徒との縁、過去には実際に所属生でもあった経験から、今やほとんど金鹿学級の人間として扱われていた。立場としては生徒と協力者の中間で、その融通の利く位置付けから、級長とはまた違う何やらを担任教師と頼み交わすことがあるらしい。なんとはなしに気付いていたそのやり取りを、実際に耳目に触れさせたことは今日この時までなかった。
「立派な手本とはとても言えたもんじゃねぇが、一応は年長生だ。歳なりのことはするさ。義理も果たさにゃならんしな」
「義理?」
 一方が首を傾げ、一方が頷く気配。
「ヒルダは昔っからの付き合いで兄貴のホルストにもよろしく頼まれてるし、リシテアも……まあこっちは俺の一方的な義理だが、このお嬢さんの家に借りっぱなしの恩があってねぇ」
「……借金が?」
「いや借りってそういう言葉のまんまじゃねぇよ?」
 続くやり取りを聴きながら、ああそうか、といまだ薄霧の中にある頭で考える。日頃からバルタザールが口にする「恩返し」の言葉。不思議なほどの律義さでもって、この男はリシテアの両親への恩を忘れず、義理を果たそうとしている。だからこうして、そばで見てくれている。
 こんな無法者がよくもと、それはどこかおかしみを誘う話であったが、たとえ今この身体が自由に動いても、おそらく笑いがこぼれはしなかった。それはなぜか、少しの虚しさを感じる事実でもあった。
「つーか、そのへんなんも知らずに課題だのなんだの二人で組ませてたのか、お前」
「仲がいいのかと思って……」
「それこいつに言ったら叱られるぞ」
 苦笑が落ちる。確かに頓狂な言いようではあった。しかしリシテアは声にならない不平を胸の内に唱えた。
(なんですかそれ。私の反応を勝手に決めないでください)
 いや、きっと否定するには違いなかった。ただ、否定のあとに何か言葉を付け足したはずだ。その言葉の中身までは、今はっきりとは思いつかなかったけれど。
「まあ仲が悪いってわけじゃねぇから安心しろよ。このご令嬢は、……なんつーかなぁ。今日もそうだったが、ちっと気張り過ぎに見えてな」
 お前もわかってるだろうが、と隣へ向けられた声に、否定の返事はない。これまでにもあれこれと形を変えて人から投げかけられてきた忠言。明確な理由がある以上、リシテアはそれを理解しこそすれ、受け入れる気にはなれなかった。そうして意外なことに、バルタザールがあとへ続けた言葉も、その想いを咎めるものではなかった。
「頑張るなとは言わねぇさ。てめぇがそうと決めたことだってんなら、他人があれこれ無駄な口を挟む話じゃあねぇ。この歳で俺なんかよりよっぽど頭が回るんだ。何かそうしなきゃならん考えってやつがあるんだろうよ」
 だがな、とひとつ深く息ついて言う。
「一所懸命なのはいいんだが、度を超えてやって、どっか壊しちゃあ元も子もねぇ。今日の騒ぎにしろ、どうも色々ときな臭くなってきてるらしいしな。自分がここまでは大丈夫だと思って、実際その通りにできていようが、敵さんはそんなもんお構いなしだ」
 ことに、世を擦れっ枯らした汚い大人連中ってやつはな、と語る声は濃い苦みの色を含みながらも淡々と鳴り落ち、いまだ知らぬ事情で家を追われた人間がここまで辿った道のりの、穏やかならざる景を思わせた。
 この熱も毒のためだけではなく、それをきっかけにこのところの疲れが出たものでもあるのだろう、と医師の診断を交えての推量が語られ、また同意の首肯の気配があった。外が明確に不穏だからこそ、より身近なところに気を配らねばなるまいと、年長者二名の見解が一致する。
「不注意で足を掬わせたくはねぇ。首に金の懸かった俺みたいなごろつきが、戦場だのどこだので好きに暴れて勝手におっ死ぬなんざ、まぁさもありなんってぐらいの珍しくもねえ話だがよ。こんな必死に生きてる子どもがそうとなりゃあ、さすがに笑えねぇしやりきれんからな」
 変わらぬ口調で言いのけるバルタザールに、今度は異論を示す視線が返ったらしい。軽く笑いが起こった。
「なんだい文句があるって顔だな。……ああ、俺の首はお前が守ってくれるんだったか?」
 わかったよセンセイ、お前さんに面倒のかかるような無茶苦茶はしねえさ、と果たしてどこまで真剣なのか、意味の取れない掛け合いがそれから二、三続く。やがて声の往来がふと途絶え、注がれる視線を感ずる間もなく、掛布の上に伸びていた手に、不意の指が触れた。先に額をかすめたものよりさらに太く長い、大人の手。胸の中は驚きに跳ねたが、幸いにと言うべきか、肩も腕も変わらず動かなかった。
「……こんな小せぇってのになあ」
 顔だろうが身体だろうが、傷が残りでもしたら親御さんが泣いちまうぜ、と落ちる呟きは、台詞こそ芝居めかしていながら、冗談にも聞こえない。
「お前みてぇに全員平等に見てやりたいところだが、さっき言った恩もあるし、どうしたってこのお嬢さんが一番若いからな。そのくせ誰より生き急いでるっつーのか……どうにも気にかかってねぇ」
 静かに語りつつ、荒れ狂う魔獣にさえ無謀に打ちかかる拳と同一のものとは思えぬ穏やかな動作で、リシテアの手の熱を確かめ、またそろりと離れる。そのがさついた手指にこそ、無数の傷跡が刻まれていた。
 子ども扱いへの憤りの代わりに、ひりつく痛みが胸に湧き現れた。名前のない鈍痛は毒のように熱をはらんで、しかし全身を広がることなく、ただ一点にうずくまる。
 ――いつかもし、この「立派とは言えない大人」が、当人の語るようなあっけない死を遂げたとしたら。それが本当に自明の顛末であったのだとしても、ほかの大人たちが嘲って笑ったとしても、きっと自分は子どものように声上げて泣いてしまうのではないだろうか。
 意識は夢とうつつのあいだを行きつ戻りつし、一度噛みしめて聞いたはずの音さえ次の瞬間にどこかへ抜け落ちていったが、ここにあった言葉のいくつか、熱と痛みのひと欠け、せめて、この決して馬鹿げたこととも思えない想像だけでも、どうにか心の内にのこってくれまいかと、霧がかる頭の片隅で、リシテアはそう強く願った。


       ◇


 これ、あんたにあげます、と眼前に差し出された包みから腕を辿り、まじまじと見返した顔には、才気を隠さないいつもの真面目さだけが満ちていた。
「……なんだぁ?」
 大口開けたあくび混じりに訊ねると、だらしない、と言いたげに眉が寄せられたが、つい今の今まで寝こけていたのだから仕方がない。一体いつから寄ってきていたのか、木陰での昼寝から目覚めるなりの、この発言とこの行動だったのだ。
 眉を寄せても腕が引き戻される様子はなく、ひとまずバルタザールはその小さな手から紙包みを受け取った。掌に乗る程度の大きさと重さ、そして握り込むのをためらう半端なやわらかさには、近ごろというもの良く覚えがあった。
「菓子か?」
 手の上で転がした包みの内から、甘い乳脂の香りが上る。長座の横に立ったリシテアが頷き、ややあってから、ぽつりと言った。
「このあいだ、その、助けられたから」
 訥々と発された言葉の意味をしばし考え、記憶を辿って、ようやく思い至る。おそらくは先週末の戦いの折、毒矢を受けて倒れたリシテアを担いで走った一件のことだろう。
「別にそんな気を遣われることでもないがねぇ」
 共に戦場にある仲間同士が助け合うのはごく普通のことだ。そこに貸し借りの感情は存在しない。これまでにも、危険と思えばリシテアに限らず生徒を助けたし、逆に助けられたことも何度もある。その場でなり後日改めてなり礼の言葉は交わすが、普通はその程度だ。なぜ今回わざわざ、と首ひねる前に、まず思うことがあった。
(つーか、憶えてたのか?)
 あの戦いのあと、リシテアは毒によるものではない高熱を発し、数日のあいだ寝付いてしまったのだ。そうしてようやく熱が引いた時には、前後何日かの記憶が混濁し、自分が寝込んだ理由どころか、日付さえはっきりとわからない状態であったという。教習や訓練にも復帰してこなかったため、地下で寝泊まりする自分には日常の状況もわからず、全て学級の生徒たちから伝え聞いた話である。既に床を上げていたとは知らず、こうして顔を合わせたのも実はしばらくぶりのことだった。
 とすると、これは単純な礼と言うより、思わぬ尾を引いた諸々の出来事に関する詫びや気恥ずかしさのごまかし、そして落とし前に近い行動であるのかもしれない。曖昧な記憶を抱えて困っているところに、誰かに何かを吹き込まれたいきさつもあろうか。あの頭と口のよく回る級長あたりが噛んでいそうなところだ。
「あんたがそこまでお菓子を好きじゃないのは知ってるけど、ほかに思いつかなかったから……お酒なんてあげられませんし」
 リシテア自身がなんと説明していいかわからないのだろう、常になく不明瞭な言葉が返る。何やかやと無駄な問いを挟んで困らせる稚気も湧かず、じゃあ、と訊ねた。
「このあいだの俺の見事な働きへの報酬、ってなところでいいんだな?」
 大きな目がぱちりと一度瞬き、すぐ安堵の色になごむ。
「そう、ですね。そう思ってもらっていいです」
 それは自分たちのあいだの合言葉のようなもので、菓子にも関係が深く、また何分の一かは事実でもあったはずであるから、問題の始末としてはおあつらえ向きの理由だった。尊大に認めてみせたリシテアとて、物で何かを解決しようとしたわけではなく、なんの整理もないまま日常に戻るには、良くも悪くも世過ぎの経験が足りなかったのだろう。
 この少女はその小さな身に宿ったあれこれがまだまだちぐはぐで、高い部分と低い部分のすり合わせにいつも苦労している。今のような賢しらな態度や言葉に良い顔をしない者もいるようだが、持つ才と重ねた努力にふさわしい、一端の大人顔負けの矜持が作用しているのだと思えば、十二分に納得もできたし、全てまとめてほほ笑ましくも感じられた。
「じゃ、有難くいただくかねぇ。こいつは令嬢ご推薦の菓子なのかい」
 世間話のつもりで問うと、食べたことないので、と意外な言葉が返った。
「へぇ?」
「新作だったんです。……少しお酒を多めに使ってるって」
 今度はこちらが目瞬きして見つめる番だった。ふいと横にそらされた頬がほの赤い。
(……あァ、俺もホルストの気分がわかってきたかもな)
 苦笑しつつ包みを開いて、現れた方形の焼き菓子をふたつに割り、ほら、と片方をその顔横に差し出す。怪訝な視線に短く答えた。
「お前も食えよ」
「あんたにあげたものをなんで私が食べるんです」
「俺がもらったものをどうしようが俺の自由だろ? お前が味を知らないんじゃあ、せっかく食って感想を言ったところで面白くもねえじゃねぇか」
 でも、とためらう少女へ、世を擦れた大人の口でもって、さらに理由を付け加える。
「気になるんなら、今度また魔法の特訓に付き合ってくれ。その報酬の前払いってことでどうだい?」
「……先生とあんたとの訓練、勢い任せで疲れるんです」
「だからこいつで手を打ってくれってわけさ」
 差し伸ばした手をどうだと揺らせば、届く香りに耐えかねたのか、リシテアは口をむずむずと動かしてから、
「し、仕方ありませんね」
 さっと菓子を取って、顔を隠すように樹を一歩回り、バルタザールと直角の向きになる位置にそそくさと座り込んだ。こちらも今度は苦笑いにとどまらなかった表情を見られて叱られずに済んだので、お互いに幸いな方法だったろう。
 腰が落ち着いたのを確かめ、さて、と自分の菓子を口へ持ち上げかけた時、ごく小さな声で名を呼ばれた。
「バルタザール」
「ん?」
 ひと呼吸の間を置き、短い言葉のひとつひとつの音を慎重に確かめるように、ゆっくりと言葉が続く。
「あの、……ありがとう。傷はもう、残ってません」
 思わず首ひねって横を振り向いたが、垂れた髪に隠れて表情はうかがえなかった。近付き覗き込むのはやめて、前へ向き戻る。
「そりゃあ、良かった」
 素直にそう思い、この先もそうあれかしと願った。あと一年の半分にも満たない時間ではあるが、せめてこうして同じ場所に身を置くあいだは、そうあらせてやらねばと胸に誓った。それはおそらく大人の勝手だが、今さら純で甘いばかりの子どもに戻る術はなく、戻らねばならない法もない。
 割った菓子をひと息に口へ放り込めば、明瞭な甘さのあとに、己の心を皮肉るような渋味が香った。
(……ん、こりゃ確かに少し酒が多いな。リシテアのやつ大丈夫か?)
 樹から背を起こし、今度はためらわずに顔を覗くため、隣へ身を寄せる。まだこの味が舌に合わずに眉をしかめているようなら、見舞いに持っていくつもりでいたこちらの菓子を渡してやればいい。そんなことを考えながら、笑って名を呼びかけた。


Fin.

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