ゆめのおわりに


「はぁ、疲れた……」
 身とともに砂の上に投げ出されたのはまさしく胸の底から出た、といった風情のひと言で、その勇者にあるまじく弱々しい声の響きを横から笑ってやれば、眇めた目にじとりと見上げられた。
 幼げに膨れた顔にまたひとつ笑いを返し、自分も隣に腰を下ろす。沈む陽が空と海を赤々と灼いている。寄せる波は穏やかで、静かな潮鳴りの中に目まぐるしく過ぎた一日の労が融けていくようだった。融け残ってこぼれたのが先の弱音というわけだが、元の嵩がこちらと数倍どころか数十倍も違うと思えば当然の言葉ではあった。
 帰還の先触れを届けた際の騒動(と聞いた一連)のことはその場に身がなかったため詳しくはわからないが、いざ迎えた当日は、騒ぎと言うよりどたばた芝居の一幕とでも称すべき、滑稽みの強い一日となった。その画を描いたのは誰あろう自分で、まずまず狙い通りの成果を得たと言っていい。
 朝日がようやく山際に天辺を覗かせたほどの時分、あちらとこちらの境に隠し建てられた宿へ押しかけ、寝床から蹴り起こした親友の不服顔が憂いや躊躇いを思い出す前に、その手を取ってポップは飛んだ。報せに応じて仲間たちの集ったパプニカ王宮、その辺境の洞穴、師の住まうカール王城、ロモスそしてベンガーナの王都、ランカークス外れの森の工房、竜の騎士の聖地テラン。一日をかけてまさしく飛び回った。
「でも、みんな元気で良かった」
「ほらな。いっぺんに行って良かったろ?」
「うん」
 疲れたけど、となおくり返すからには偽りなく大きなものであったのだろう荷を、少しでも心すり減らさずに降ろすための策はないか。事の始末を果たし、我らが勇者を地上へ連れ戻る算段がととのって、まず初めにそう考えた。小ざとさばかりが育つ頭をここぞとばかりに巡らせて、どうあっても避け得ないものなら、いっそ一日で全てを終えてしまえばいい、と自棄じみた答えにたどり着いたのが、ほんの数日前。善は急げの格言に従い、各地へ一斉に報を飛ばして、間を置かず挨拶回りに臨んだのが今日この日である。
 五年の長きにわたり勇者の身を捜し、無事を案じ続けた旧知たちとの再会は、尽きせぬ涙に彩られた――と、麗しの英雄譚の結びとしては修辞したいところだが、報せも訪れも急に過ぎ、長々と泣き入っている暇はほとんどなかった。もし全ての場所でそうした時間を許していたなら、積もった疲労は今の比ではなく、涙などとうの昔に枯れ果てていただろう。
 かくて勇者の帰還はしめやかな空気を醸す間もなく、ごく慌ただしく、ごく賑わしく始まり、終わろうとしている。このあとに待つ祝宴はそれなりに感涙を呼ぶものになるかもしれないが、それはそれでこそ良いと素直に思った。是非これから祝賀の席を、と訪れる先々で受けた誘いに、今日の最後は養い親へ帰宅を告げ、故郷の島で夜を過ごすことに決めているからと応えれば、残念を述べながらも皆ほほ笑んで頷き、食い下がる者はひとりもいなかった。
 自分も辞して養親子水入らずの場を設けてやろうかとも思ったが、ポップひとりが遠慮したとしても、島には大戦後に移り住んだ仲間が既に幾人かいたし、ブラス、そして何より当事者であるダイが、ぜひとも一緒に、と同席を望んでくれたので、有難く居残ることにした。ダイの不在時、捜索の状況報告や魔物たちの様子の確認のためにたびたび訪れるポップを、ブラスはいつもあたたかく迎えてくれた。単身魔界を目指す途へ踏み出し、仲間たちとも距離を置かなければならなくなった時期、身を隠し休めるための宿の世話になったのも数度のことではない。出会いの地、旅立ちの地というだけに収まらず、島はいつしか自分にとっても第二の故郷のようなものになっていたから、三月も前に再会を果たし、既に幾度も食事を共にしていた身であっても、今夜の「家族」の輪への誘いは単純に嬉しかった。
 そうして、ブラス特製の料理が並ぶ、ささやかながらも真心に満ちた夕餉の時間を前に、親友とふたり海辺に座り、今日の労をねぎらい合っている。破邪の清浄に包まれた島はどの世界のどの地よりも平和に思われ、ぽつぽつと行き交わす他愛のない言葉すら、独特のやわらかみを帯びて響くようだった。ふわぁ、と隣であくびが転げたのも、この空気の中では無理からぬところであったろう。
 今日はもう甘やかすまいと決めたのだからと、労りの念は胸の内にとどめ、からかいを口にする。
「おいおい、メシの時にあくびなんざこいてやがったら、ブラスのじいさんに説教喰らっちまうぜ?」
「だって、ポップがあんなに早く起こすからさぁ……」
「そりゃ仕方ねえだろ。行った先行った先でめいっぱい時間取られるのはわかり切ってたんだからよ」
 明日いくらでも寝坊しろ、と諭すでもなく言えば、それはそれでじいちゃんにどやされるし、とあまりに子どもじみた反駁が出てきたので、また遠慮なく笑いを噴いた。ほんの十日前まで死地に立っていた者の言葉とは到底思われない。あまりに過酷な運命を背負ってきた魂も、故郷の風に触れて三つ児の頃を思い出したのだろうか。
「ま、おれもさすがにちっとばかし疲れたけどな」
 三月きりの、それも幾人かには後を頼み残した上での出立であったとは言え、姿を消していたのは自分も同じで、添え物に徹してもいられず、各地でそれなりの口上は述べる必要があった。時間の無さも手伝って今日のところはおおよそ煙に巻いたが、賢者の国の聡明な王女を始め、いずれさらなる説明を求めてくる相手もいるに違いない。
 まあ、それはまた後々の話だ。まず為すべきことは全て終えた。今日はもう店仕舞い、あとは気楽に食べて笑って寝るだけだ。
 面倒な想像を振り捨て、見計らったかのように鳴いたダイの腹の虫に笑い、またひとつふたつ取るに足りない会話を並べて、ふと、絶えた声の間に、前を見やる。沈む陽は既に形を失くし、凪いだ海面の内へ今まさに没するところであった。
 ――ああ、夜だ。
 ぼんやりと彼方を眺め、何気ない呟きを胸の内に漏らした、その瞬間、はたと思考の進みが絶えて、虚ろな音を反唱させた。
 ――また、夜が来た。
 わずかな光明が空と海の狭間に落ち、一面の闇の中に消える。ひゅ、と我なく息を呑んで、ポップは傍らを振り向いた。一瞬揺らいだ視界の中に、夜気に線を紛れさせながらも、確かな輪郭を持つ人の姿がある。
 視線に気付いてこちらを向いた顔が疑問の色を浮かべるより早く、手を伸ばし、その肩口に触れた。指曲げて服地を掴む。何の変哲もない布の感触がした。
「ポップ?」
 投ぜられた声を緩慢に咀嚼し、星の映る瞳を覗き、布越しに伝わる熱を確かめ、全てがここに揺らぎなくあるものと認めてようやく、次の呼吸をすることを思い出した。
 はは、と口の端から漏れ落ちた笑いとそれに連なる声は、自分の耳にもしかと届かないほど、情けなくかすれて乾いた音をしていた。
「……もう、夢でも幻でもねえんだな……」
 必死に捜し、追いすがった友の背。見つけたと思えばかき消え、掴んだと思えばすり抜け、焦がれて交わした声も笑みも、一夜の幻燈のなかに儚く散っていった。寝床から唖然と天井を見上げる痛みに耐えかね、夢見を拒む法を探したことさえある。
 幾十幾百の夜を越えて、ようやく、ようやく、この手の触れる場所に、取り戻した。
 ぎょっと目を丸くした相手の反応を見るに、よほど酷い崩れ方をしていたのだろう顔は、次の間には布の中に埋まって気にかける必要もなくなっていた。鷲掴むように頭と背に回された腕の力は少々過剰だったが、痛い苦しいと不平をこぼす気にはならなかった。
 ポップ、と耳元に名が、待ち望んだ言葉が、落ちる。
「――ただいま」
 取り戻した息がまた絶えてしまったように思った。喉が引きつるのをこらえ、わななく唇でその名を刻むも、声は音にならなかった。
 ダイ。ダイ――
 五年前の大戦のさなか、師の忠言を受けてなお熱くなりがちでいた自分は、湧き起こる情動のまま、弟弟子の小さな身体をたびたび腕に抱きしめていた。かつての日と逆転した姿勢は、いやが上にも失った時間の長さを教える。知らぬ間に長じてしまった。高い視線、伸びやかに育った手脚、広い胸。
 否。知らぬ間に、ではない。とうに知っていた。あの日、あの刹那。五年ぶりに再会した親友に、出会い一番翔びかかり、衛士があっけに取られる前でめいっぱいの力込めて拳を打ち付けた身が、びくとも揺らがずこちらを受け止めてみせた瞬間には、もう気付いていた。過ぎてしまった時を悔やみ、届かなかった力を嘆き、そうして誓ったのだ。長じてなお戦いの渦中にあるその身を、今度こそ最後まで、自分が支えるのだと。
 それから陽のない明け暮れを数えて九十余日、全ての反対の言葉を押し切り、共にあり続けた。時には過ぎた日を想って語り交わすこともあったが、平穏に浸っていられる時間は短く、ともすると、今日こそがその初めの機会とさえ言えた。
 先に知り、気付いたものに焦るあまり、忘れてしまっていた。再会の瞬間、まだ成せぬと胸底に封じた心。何より先に、誰より先に贈るつもりでいた、短かな言葉。
 何が「為すべきことは全て終えた」だ。何も終わっていやしない。自分は、その言葉を聞き、この言葉を聞かせるために、今日までの五年をひたすらに歩んできたのではないか。
 背を力いっぱいに抱き返し、胸元に埋もれた口をどうにか開いて、ダイ、と、求め続けた友の名を呼ぶ。今日一日で幾度となく耳にした言葉を、自分の舌で初めて唱える。胸に叫ぶ想いの強さと裏腹、絞り出した声は変わらず弱く、涙に浸かって震えてさえいたが、構いやしなかった。
「おかえり、ダイ。おかえり……」
 腕の力が一段強まり、ただいまポップ、と二度目の言葉が返る。自分もさらに呼び応えようとして、しかしもう声は出なかった。やまない嗚咽を受けるダイの胸のみならず、はたはたと雫の落ちるポップの肩もしたたかに濡れて、その熱さが、今が幻想でないことを確かに語った。
 幸福で空虚な一瞬の夢の訪う夜は、あの焦燥の日々は、今この瞬間、全て過去のものとなった。
 さあ、あとは気楽に食べて笑って寝るだけだ。
 哀しい夢は、もう終わったのだから。
 穏やかに島を渡る風に乗り、宴の前の賑わいがかすかに混じり聞こえてくる。次の夢まではしばし間がありそうだなどと考えながら、腕の輪はまだほどかずにいた。顔を伏せた服地が大変な有り様になっているだろうが、知ったことか。新しい日の始まりを、このまま少しでも長く噛み締めていてやる。そう心に決めて、生意気に大きくなった愛しい弟分、我が生涯の勇者の胸に、いっそう深く身を預け直した。


Fin.

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