Honey Sweets


 山間の集落で初めて迎える晩秋の寒さは予想を超えて深く、角を曲がった途端に吹き付けた風の冷たさに首を縮めてから、リシテアは本を抱えた胸の前でケープをかき合わせ、足の運びを速めた。まだ昼を過ぎて少しの時間だが、のんびりとしていれば短い陽はすぐにも暮れてしまうだろう。以前のようにあくせくと動き回る必然はないとは言え、怠惰に過ごすのも性にもとる。
 最後はほとんど早足になって我が家の前に帰り着き、急いで戸を開きかけると、中から人の語り交わす賑やかな声が聞こえた。客が来ているのだろうかと一度腕を戻し、風で乱れた髪を撫でつけるものの、その少しがさついて響きの強い声は、些細な礼儀などには頓着しない、既に見馴染んだ人物のもののようだった。
「無くなっちまったらまた声をかけてくださいよ。すぐに足しにきますから。なにせこのあたりは街よりずっと冷えるんでねえ」
「ああ、ありがとう」
 季節がひとつ進んだかのような暖気の向こう、赤々と燃える暖炉の前で、両親と長駆の男が話している。風に煽られた戸は音高く開き、三名がほとんど同時にこちらへ振り向いた。
「お帰り、リシテア」
「父様母様、ただいま戻りました。バルタザール、来ていたんですか」
「おう。今朝がた野郎連中で木を切り出しに行ってな。薪を持ってきたんだよ。裏にも積んでおいたから使ってくれ」
 事もなげに言い、返事を待たずに、お前もこんな冷え込む日にお出かけかい、と訊ねてくる。急に変じた温度に息も胸も整いきらぬまま、頷き答えた。
「ユレクさんのお宅へ本をお借りしにいってきたんです」
「ユレク? ああ、あの三兄弟の家か? そりゃ掃き溜めに鶴ってとこだったな。呼びつけてやりゃあ本くらい喜んで持ってきたろうによ。俺のことをどうとかこうとか言ってたろ、おおかた」
「言ってましたけど……どうとかこうとかぐらいですから、別に」
「はは」
 軽く笑う男はほかに特段の用事も抱えていないらしく、すぐに出ていこうという様子はないが、椅子に落ち着く様子もない。本を机に置き、何ともなく部屋を見渡して話題を探していると、今度は両親が外套を取り、身支度を始めた。
「長老様から午後のお茶にお誘い頂いてね」
 リシテアの問いの視線にそう答えが返る。え、と先に応じたのはバルタザールだった。
「うちの母も今朝そんなことを言ってましたよ」
「ああ。ご一緒させてもらうよ」
「なんだ、先に教えておいてくれりゃもっと余裕のある時間に来たのに……出ぎわにあれこれ話しちまってすみません」
 頭を掻いて言うのに、全く構わないと両親がそろって笑う。豪腕で鳴らした大男が、有位の時代にも武を誇っていたわけではない、どちらかといえば小柄で温和な父母の前でごく殊勝にふるまう様子は、以前から変わらずおかしみを誘った。
 挨拶ならば自分もとリシテアは同行を申し出たが、隠居者たちの集まりだからと、暖かい家でゆっくりしているように言われ、意地を張る理由もなく了承する。支度を終えた父は「すまないが」とバルタザールへ声をかけ、相手は「ええ」とひとことで請け負った。それだけで意の通じる程度には、身近く過ごした日ももう長い。
「父様、母様、行ってらっしゃいませ」
「帰りには道が暗いと思うんで、お気を付けて」
 並んで出発を見送り、戸を閉めて、家に二人になる。まずは何を言おうと迷いながら振り返ると、顔の前に小ぶりの木籠が差し出された。白い布の隙間から、ほのかな香気がのぼる。
「出がけに持たされてね。家族で食ってもらおうかと思ってたんだが、あっちはあっちでやるらしいし、俺たちも茶にするか?」
 言って笑う顔はリシテアの戸惑いもてんから飲み込んでいるようで、少々悔しくも、父が家の留守居と娘の用心棒を任せるに足ると決めたことに、異論を挟もうとは思わなかった。


       ◇


「んー……美味しい……」
 吐息とともに素直な感が口をこぼれる。手作りのケーキは色も形も素朴ながら、花の蜜だけを使った上品な甘さに土地の木の実の風味が良く合い、生地のしとやかな焼き加減といい、都の店売りの菓子にも引けを取らない出来である。
「そりゃあ良かった」
 持参したバルタザールはと言えば、リシテアの感想に頷きつつも、自分の皿の上は既にすっかり片付けている。苦言までには至らない意見をし、早食いは放浪中に身について抜けない習慣だから、と弁明されるのも、だいぶん前に済ませたやり取りだ。
 次にお会いした時にお礼を言わなくっちゃ、と自分に覚え込ませるように呟き、ふと思い返して訊ねる。
「このあいだ母とも話してたんですけど、ずっと頂いてばかりだし、どうせなら作り方を教えて頂けないかなって……お菓子だけじゃなくて、このあたりの食べ物を使った料理も。もしうかがったら、おば様ご迷惑じゃないかしら?」
「迷惑なもんか、喜ぶぜ。ただでさえお前さんたちが来てからあれこれ張り切ってやってるんだ。何を出してもうまいで二口三口で平らげちまう息子相手じゃあ、菓子作りも料理も張り合いがないとさ」
「でしょうね。私はこんな美味しいお菓子ならゆっくり味わって食べたいし、作った人に色々感想を伝えたくなりますけど」
「ま、人それぞれだな。俺の代わりにお前がそうやって言ってくれてりゃあ、うちも親子喧嘩の種がひとつ減って円満でいられる」
「なんです、それ」 
 くすくすと笑い、とは言えきっとそうした文句も穏やかに口にされるのだろうと、隠れ里に生まれ育った女性の控えめな態度を思って想像を馳せる。かつて貴族の家に嫁ぎ、失意を得てこの地に戻ったというバルタザールの母は、コーデリアの境遇に深い同情と厚意を寄せ、移住してきた一家に対し、過ぎるほどの優しさをもって接してくれている。
「でも、まさか初日からお菓子の話をされるとは思ってませんでした……」
「いやだから、それはもう謝ったろ?」
 根に持つなよ、と言うが、意外に筆まめなバルタザールの母への手紙から、「菓子好きの令嬢がいる」という話が、なんと士官学校に在籍していた時分から伝わっていたとわかった時には、顔から火が出る思いがしたものだ。多少恨み節を引きずるのはやむを得まい。
「以前とは違うんですし、ここに来たら少しは控えないとと思ってたのに」
「その割にゃ初めの日からぱくぱくと……ああいや、別にどこにいたって構わねぇだろ。好きなもんを好きに食うぐらい」
「でも急に落ち着いて、前ほど走り回ったりしなくなったから、本当に太っちゃいそう」
 いつだったかにも、そんな心配をしていたことがあった気がする、確か同じ相手の前で、と考え、いかにこの関係が菓子づいているかに思い至る。どうにも幼さを感じ、あまり声高にできたものではない。
 そうかねぇ、と気なさげに相槌するバルタザールも何事か思い出したのか、幾日か前の話題をふと口にした。
「ひょっとして、急に薬草だの毒草だのって調べ始めたのは、少しでも動いて太らねぇようにってハラだったのかい?」
「そ、それも少しはありましたけど、それだけじゃありません。本当に、このあたりでの本草学は有用になるだろうと思ったから……」
 この古い郷の周辺には、一種の秘儀として語られる不可思議な伝承のほか、高い滋養の効能を持つ薬草や果実、見たこともない鳥や獣、隠された鉱脈など、様々な未知の事物が眠っている。その全てが陽の下にされることを住人たちは拒むだろうし、自分も暴き立てようなどとは思わないが、植物を中心としたいくつかの産物に関する知識に関して学び修め、正しく世に広めることは、世界のみならず、いずれはこのクパーラの地にとっても、良い流れを興すのではないかと考えたのだ。
 バルタザールは一定の賛意を示し、彼が話をしたという長老も、リシテアの考えに否定は述べなかったらしい。実際、自分たちも良く知る者の手によってフォドラに統一国家が建ち、東方の大国パルミラと友好関係を結んでからというもの、両国による少数民族と貧民の保護政策の効果もあり、二国の境に位置する郷の空気も徐々に変わり始めているという。
 その目に見える成果の一歩が今回の移住の受け入れであり、王二人(一方はまだ王太子であるらしいが)の名を上げて様様だとバルタザールは笑っていたが、そうした下地があったにせよ、これに関して誰の尽力が最も大きかったかなど、もはやこの期に及んで言うを待たない。
「まあいいんじゃねえか。適度に体を動かして何も悪いことはねぇ。無理だけは禁物だがな」
 遠出するなら声をかけてくれ、と言うのに素直に頷き、またひとかけ、菓子を口に運ぶ。横手で暖炉の火が爆ぜ、かすかな音を立てて散る。幼さを隠し切れずにいたあの学び舎の頃でさえ得られなかった、甘く優しく、あたたかな時間。
 机に肘つく少々行儀の悪い姿勢ながらも、静かに茶を含んでいる男の姿を見て、リシテアはおもむろに口を開いた。
「ねえバルタザール。……あんたって、凄いと思います」
 視線が上がり、驚きを示して数度瞬くも、すぐに口角上げる笑いが浮かんだ。
「お? なんだ、今さら気付いたか?」
「今さらというか……改めて」
 調子変えずに続ければ、今度はふっと笑みが収まり、目がまっすぐにこちらを向く。これこそなのだろうと、リシテアは思った。
「どんな小さなことでも、人の言葉や考えを全部否定してしまったりしないから。研究のこともですけど、さっきのお菓子の食べ方のこととかもそう。私だったら、『人それぞれ』なんて言わないで、くだらない、時間の無駄って切り捨ててしまうかもしれません」
「そりゃあ……」
「ほらまた」
「いや、あー」
 言葉に詰まるバルタザールにこちらが笑って首を振り、別に悪いだなんて言ってません、と補う。いつもと逆しまのやり取りになっているのがむず痒いのか、しきりに頭を掻いているのがおかしかった。
 他者への許容の範囲が妙なほど広いのは、寛容と言うよりは、自由を尊ぶ性格のためなのだろう。自分が縛られることを嫌う代わりに、他人を縛るのも善しとしない。かなりの楽天家であることも手伝って、考えなしでいい加減な人間と捉えられることも多く、それは決して的外れの評価というわけではないが、全てを語りきるものでもない。
「あんまり適当だから、呆れることも少しはありますけど……でも、昔からいつもこうしろああしろって頭から決め付けないで、お前はどう思う、って訊いてくれるから、私は凄く楽に話ができましたし、そのぶん、あとのことを必死にやってこられたと思います。それで、こうして静かに暮らせるようになって」
 穏やかに過ぎていく日々の貴さを噛みしめて、自分たち家族は幸福に生きているけれど。
「……あんたは、どう思うんだろうって」
「俺?」
「恩返しだなんて言って、ずっと当たり前みたいに私たちに付き合って、ここまで連れてきてくれたから。私、どう思うって、訊いたことがありませんでした」
 静かで穏やかな日々。優しくあたたかな時間。どの言葉も、〝レスターの格闘王〟の雄姿を飾るには、あまりに似合わない。バルタザールは一見の印象からは想像もできないほど家族想いで友人想いの人間だが、それでも父と弟の暮らす実家にせよ、親友の治める馴染みの土地にせよ、母の帰った故郷にせよ、遠くから気遣うのみで、成年以後にひとところに身を落ち着けたことはなかったらしい。
「私は目的を全部果たせて、あとは両親とこの暮らしを続けられればそれで満足です。でもあんたは……どう思ってるのかって」
 不安で、と口にする前に呑み込んで、ようやくこの唐突で取り留めのない話の底にあるものに気が付いた。穏やかな暮らしの中の、小さな不安。当たり前のように示されるその厚意に触れるたび、あたためた部屋の外で日ごと深まる寒さのように、じわじわと膨らむ喪失の恐れ。
 知らず知らず視線を正面から外して下へ伏せていたため、相手の表情はわからなかった。はああ、と深いため息が鳴り落ち、椅子から立ち上がる音が聞こえたことに肩が跳ね、なお顔を上げられなくなったリシテアは、一度遠ざかった足音が机の角を曲がって再び近付いてきたことに、自分の身体が浮き上がるまで気付かなかった。
「えっ……? な、なに?」
「んー、まあ前よりはちっとばかし重くなったか?」
 視界が急転し、顔を上げるどころか、いっぱいに見下ろしてようやく目線が合う。ふらついた上体を支えるためにすがったのは広い肩だった。前へ抱えると言うより座らせるような姿勢で、一瞬の間のうちに両腕の上に持ち上げられていた。
「い、いきなり何するんですかっ……」
 ただでも丈高い人間の、さらにその頭上である。危なげなく支えられているとは言え、ほとんど浮かんでいるような位置で暴れるわけにもいかず、抗議の声も強くは響かない。それがわかっているのだろう、バルタザールはその姿勢のままごく悠々とした態度で口を開いた。
「ユーリスあたりもそうだったが、なんで俺の周りの頭のいいやつらは、たまにやたらと馬鹿になっちまうんだろうかねえ」
「馬鹿って」
「ま、難しく考え過ぎなんだろうな。俺ほどとは言わねえが、もっと単純に生きても構わんと思うぜ」
 人生ってのは割とあれこれ単純なもんだ、などと語る顔も声も妙に真剣めいてさえおり、咄嗟に口にしかけた反発が困惑の中に消える。先ほどの意趣返しかとも思えるような、常と真逆の位置での視線の交錯に居たたまれなさが募り、細く訴えた。
「とりあえず降ろして……、座らせてください」
「あいよ」
 軽い返事があり、すぐに身の位置は低くなったが、椅子にかけ直したのはバルタザールのみで、リシテアの身体はまだその腕の中にあった。正確には、もともとリシテアが使っていた椅子に入れ替わりに座った脚の、さらにその上に腰かけた格好で、横へ向いた背を腕に抱えられていた。
「……もうっ! 何がしたいんですさっきから! 重いんなら降ろしてくださいっ」
 さすがに声を張り上げるも、
「重くなったってのは悪い意味じゃねえって。こっちに越してくる前のいつ時期だったかは、あんまり細っこくて大丈夫かと思ってたぐらいなんだぜ。健康な証拠だろ。で、何がしたかったかっつったら、まあ……」
 しゃあしゃあと言い、次の言葉を選ぶ間も長くはならず、
「お前とひっつきたくなった」
「ひ……?」
「単純だって言ったろ?」
 持ち上げたのは勢いってやつだ、と、響きがいいのか悪いのか、そんな説明をあっさりと吐いてみせるので、もはやこちらは二の句が継げなかった。丸く縮めた背の上で、穏やかに息が落ちる。
「俺は自分が思う通りにしかやってねえよ。今も昔もずっとな。お前と会ってからも、ずっと好きにやってきたよ」
 いつものように顔を覗き込まれて、その目がもっと遠く高みにあった頃を思い出す。学級の最年長と最年少(おまけに、ある身体基準の最高値と最小値)の二名として、取り合わせをからかわれることもあった。
「……報酬、だなんてやってましたね」
 先に浮かんでいた幼い記憶と重ね、気恥ずかしくも少し心和むのをも感じながら、呟く。バルタザールも懐かしげに頷きつつ、ふと思い至った様子で問いかけてきた。
「お前ひょっとすると、なんで俺があんなことしてたのか、その調子じゃあきっちりわかってねえな?」
「え? ……ちゃんと働かせるため、では」
「いやまあ、それも否定はしねえさ。初めはな」
 ふう、と今度は呆れ笑いのわかりやすいため息がつかれ、幾年か越しの解答が述べられる。
「働かせるったって、お前はもともと俺なんかより何倍も真面目なんだし、報酬なんざなくても仕事はちゃんとこなしたろ。あれは俺がしたいからしてただけだ。単純に、お前が好きな菓子を食って、笑って幸せそうにしてるのを見るのが、悪くねえなと思ってよ」
 そうでなければあの頃の自分が身銭を切るなどあるものかと、冗談めかして語られる言葉に、リシテアは理解の間を置くための目瞬きを二度三度とくり返した。やはりと言いたげに浮かぶ苦笑はやわらかい。
「当然、今もだぜ? ……あんまりお前のことが可愛くなっちまって、少し予想しなかったところまで踏み込んだけどな」
 ひとつも悪かない、と言って目が細められるのを見た反射に、リシテアもはたとして目を伏せたが、近付く唇はそっと額へ触れるに留まった。
「あ……」
 逆に熱ののぼった頬を隠すように手で包みながら、また息の落ちる音を、より近くで聞く。
「つーか、今までだってこんなことしてたろ? 話もしたよな? 俺としちゃあ普通にそういう関係だと思ってたが……じゃなけりゃお前の親父さんたちもついでにうちの母親も、こんな状況許しやしないだろ。それでどう思うってお前、俺への信用……あー、いや……そうだな、ねえな。悪かった。俺が悪かった」
「まだ何も言ってません」
「昔の俺に代わって謝罪する」
 途中で向けた視線の意に気付いたらしく、つらつらと並んでいた言葉の向きが直角に折れる。決してその言動が信頼に欠けるというわけではない。しかし貴族と隠れ里の娘とのあいだに生まれ、一度は当主の座にさえ上るも追われて長い漂泊の日を送り、地下街の住人として生きた男の知る世界と自分の知る世界とでは、あまりに広さが違う。既にいくつかの常識や当たり前を簡単に砕かれているのだ。共に目指したこの場所へ至った今、何があり得て何があり得ないかなど、無知な自分には言い切れなかった。ことに、こうした関係については。
「少し悠長にし過ぎたかね……?」
 何事かぼそぼそと呟いたあと、まあ、と仕切り直しの声を入れ、バルタザールは四方へ散った話をまとめた。
「そのあたりは今度また改めて整理なり反省なりするとして、だ。これだけは言っておくぜ、リシテア。俺はな、いつだって今のてめぇの生き方が最高のもんだと思ってるんだ」
 誓って、と紡ぐ、その目に偽りの揺れはない。
「……今も?」
「もちろん」
「お金が無くて草を食べてた時も?」
「……まあ例外もごくたまにはあるわな」
 あまりに早い前言撤回がかえってこの相手らしく、ひとしきり笑ってから、わかりましたと頷いた。どこまでも適当で自由な男だが、そうして心のままに選んだというのなら、きっと違わずにいてくれる。結局のところ自分はそんな自由さに幾度も救われてきたし、何にも捉われずに他者を容れるその心根の優しさを、愛してきたのだから。
 肩にこもる力を抜き、広い胸へ寄りかかる。背を抱く腕は力強くも優しく、あたたかかった。
 髪に、頭に、額に、戯れのように指を遊ばせ、頬を触れさせながら、バルタザールはもうひとつ、と話を進めた。
「さっき目的が終わったどうこう言ってたが、お前は魔道の研究続けながらこのあたりのもののことも勉強していこうってんだし、俺だって当面の目的だの目標だのぐらいはあるんだぜ」
「そうなんですか」
 軽く返すと、まあ信じろよと苦笑が落ち、いかにもな話が挙げられていく。
「とりあえず、麓にのさばってやがる盗賊どもをぶっ飛ばしてこなきゃならねえな。森で魔獣の群れを見たって話もあるし、川の近くには馬鹿でけぇ人喰い熊が出るっつー噂が……」
「……暴れられる場所があって何よりです」
 暇を持て余すことがなさそうなのはいいが、あまり危険を冒してほしくもないものだ、と眉寄せたのが見えたのだろう、ぽんぽんとなだめるように頭を撫でられ、その上からさらに言葉が続いた。
「まあそのへんは雑事ってやつだ。独りでやるわけでもねえし、心配すんなって。もっとでかい話もあるぜ? 上の地面を均し終わってちょうど良く土地が空いたんで、家を建てようと思っててよ」
「家?」
 思わぬ語をおうむ返しにすれば、ああ、と笑みが深まる。
「五、六……いや、六、七人も暮らせるぐらいの住みやすい家をな。で、そうとくりゃ俺も一国一城の主ってことになるんで……、そろそろけじめ付けて、可愛い嫁さんでも貰おうかなんて考えてるんだが」
 お前はどう思う? と落ちた声音の穏やかさに不意を打たれて鼻の奥がつんと痛んだが、衝動を飲み込み、できる限りの笑みで答える。
「いいと思います。……とっても」
 黒鳶色の目が優しく細まり、ゆっくりと近付いて、頬を包む大きな掌の内で唇が重なる。甘く絡んだ吐息は、きっと互いに蜜菓子の味がした。


Fin.

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