Sour Sweets


 傷の痛みと失血によるくらみに遂に耐えかねて、土の上に片膝をついた。荒い息とともに口の端からこぼれた声ははっきりと苦悶の音に塗れており、思わず笑いが浮かぶ。どれほど身を鍛えようと痛むものは痛み、崩れる時は崩れる。生まれてこのかた変わらない事実だ。そんな事実の前に、自分はいつか斃れるのだろうと思ってきた。恐怖も後悔もなく、ただ敗ければ終わるという事の証のみを残して。
 顔を上げ、続く道の向こうを見やる。明け初めぬ空の下にいくつもの灯りが浮かび、手を伸ばせば届くかのようであったが、実際にはまだ相当の距離が残っている。常の歩みで一刻を切るかどうかといったところだ。この地虫が這うかのごとき有様では、街の入り口に着く頃にはとうに陽も高く昇っているだろう。無論、着けたとしたならば、の話だが。
 それでも進むより術はなく、どうにか脚を立たせようと力を込めたが刹那、激痛が身を貫き、前へ倒れ伏すのをどうにか地面についた手で支えた。腹から溢れた血がぱたぱたと落ち、膝先を濡らす。今度は声も息すらも漏れず、ただ歯を食いしばって痛みをやり過ごすことのみに腐心する。服など気にするまでもなく、腕に装じた使い古しの籠手のほうがよほど血に――名も知らぬ傭われ者どもの血に――汚れていたが、もはや市中での体面のために洗い落とそうと思うことすらままならない。
 油断、と言うほかなかった。独りの途上、夜闇に乗じて己の首を(正確には、首に懸かった金を)狙う何者かに襲われた、そんなごくありふれたと言っていい状況の第一手。失態を犯したとすら言えないひと間の隙で、バルタザールは傷を負っていた。交錯は数瞬間のうちに終わり、こちらの負傷はそれきりであったが、そのひとつがあまりに深すぎた。脾腹を刺し貫いた短剣には毒こそ塗られてはいなかったものの、ここまで引き連れてきた苦痛を思えば、果たして幸いと言えたかどうか――
(……いや)
 流れた思考を断ち、首振って自答する。幸いだった。幸いであったとも。
 だがそれも、ここまでだろうか。かすみ始めた視界の中に波紋を揺らす血溜まりと、映る影を見下ろし、思う。
 戦場いくさばに吹き狂う暴風、命知らずの蛮勇の徒。人が眉ひそめもしながら語るそうした荒くれた喩いは、一種の勲章ですらあった。事実、腕ひとつ身ひとつで生きる放浪人には名利に近しく、この評のために糧を得たこともあれば、無用の雑事から逃れたこともある。腕試しの相手にはいつも困らなかった。拳を振るうごとに名は世の幕裏を渡り、相手は増えた。
 そうして好きに生き、そのまま死ぬが当たり前の道。恐怖も後悔もなく、ここまでの己の強さを誇り、最期の弱さを笑いながら、独り斃れるが我が必定と、今この瞬間にも、否定はしない。
 ――だが。
 地に突いた腕を張り、緩慢に脚を伸ばし、また崩れる。崩れながらも首を起こし、再び道の先を見る。白み始めた暁空に抱かれる家々の景。長い失意の無明から目覚め、ようやく曙光を見出すに至った、歴史深いコーデリアの街。
 ここで足折らば、当たり前に、あの場所へ着くことは叶わない。恩者への義を果たし、夜明けの先を見るどころか、二十日ぶりに彼らに――彼女に、顔を合わせることすらなく、終わる。
(馬鹿野郎。んな半端なところで終われるわけがあるか)
 暮れる思考を再び振り棄て、余力の全てを振り絞るべく、気合発するために口を開く。しかし震う手足にはもはや一片の力も伝わらず、息の間からかすれて鳴り落ちたのは、ただひとつの人の名であった。
「リシテ、ア……」
 その声を最後に、と符が打たれればあるいは美しく幕が下りたのやもしれないが、本当に最後に耳にしたのは、己の体が無様に地面に落ちる音だった。獣が倒れたようだ、とバルタザールは思った。ひとつも笑えなどしなかった。


      ◇


 目覚めた場所は死者の魂が集うという冥府ではなく、暗い墓穴の中でも、冷えた土の上でもなかった。背はやわらかな褥に沈み、饐えた血や泥のそれではなく陽にさらされた清潔な布のにおいが薫っていた。穏やかに揺れる灯りがごく近く、手を伸ばせば確かに届く場所にあった。
 緩慢に開いた目が光の次に捉えたのは天井のぼやけた木色で、どこか、をしかと判ずるでもなく、にじむ輪郭を辿って徐々に下ろした視線の先、窓辺に立って外を眺める横顔の線が見えて、ようやく焦点が絞られた。
「リシテア……?」
 記憶の中の最後の試みを追うように、無意識に口が動く。吐き出されたのは声とも言えないほとんど息のみの音であったが、灯火を受けてなお白い頬は弾かれたようにこちらを振り向いた。小さな唇がゆがんで開き、何事か言葉を紡ぎかけるも、場を先んじたのはより近くに落ちた壮年の男の声だった。
「おお、気付かれましたかな」
 目線を引き戻し、横手を見上げる。間延びした三度の目瞬きでその顔と名を思い出し、今いる場所を理解した。椅子から立ち上がってこちらの反応をうかがう男は、これまでにバルタザールも幾度か世話になったことのある、コーデリア伯爵家抱えの医師であった。天井の色も、壁や調度の様子も、わかって眺めれば全て馴染みのものだ。ここは自分の部屋――正確には、コーデリア家の従僕用の離れに寝所として借り受け、はや二年近くの日を過ごしている一室である。
 前に踏み出されかけていた脚が白衣の向こうでまた窓辺までさがり、バルタザールもその無言の意を汲んで、医師に場を預けた。促すまでもなく始まった話によれば、自分を助けたのは、仕入れのため夜明け前に街を発った商人であったという。コーデリア家に出入りのあった商人は屋敷の奇妙な居候の顔も見知っており、血溜まりの中に倒れたバルタザールを見つけ、すわ一大事と、慌てて荷馬車に乗せて屋敷まで運び届けてくれたらしい。負傷の具合は非常に際どく、まる一日以上、今の今まで一度も目覚めずにいたようだ。
「私も手の施しようのないところでした。お嬢様の魔道の腕がなければどうなっていたことか」
 暗に――相手がそこにいるのだからもはやあからさまに、こののち取るべき態度を教えつつ、傷も塞がりきっていないようだから明日いっぱいまでは安静を心がけるようにとの注意を置いて、医師は立ち上がった。まだ喉の働きの悪いバルタザールに代わり、今度は足止めずに後を追って、リシテアが礼を述べる。
「ありがとうございました、先生。あとはこちらで」
「ええ。また何かありましたらお呼びください」
 廊下ぎわで二、三の言葉を交わしてから、ゆっくりと戸を閉めて戻る歩みにも、最前まで医師が使っていた椅子に腰かける仕草にも、静かに落とした言葉にも、まごつきはなかった。
「だいたい想像はつきますけど、……何があったんですか」
 すぐに医師からの勧めを果たすべきか否かと半端に開いていた口を一度閉じ、言葉を選びながら答える。
「三人ばかりの……賞金稼ぎ、に襲われて、ヘマしちまった」
 言い淀んだのは、相手の正体を決め切れなかったためだった。金目当ての輩であることは確かだ。また油断していたとは言え自分にここまでの深手を負わせたのだから、凡百の夜盗の類とは違うと言い切っても自惚れではなかろう。となれば賞金稼ぎの一派ということになるが、悲しきかな、世をはみ出して生きてきた身にはその心当たりもひとつではなかった。
(……だがまあ、今回は用が用だ。おおかた〝向こう〟だろうな)
 漏らした声は、隠す必要のない胸の内ですらごく平坦に鳴る。
 この節のうちの大半を、バルタザールは実家のあるアダルブレヒト領で過ごした。邸宅にこそ足を踏み入れなかったものの、現領主である弟とも密かに談論の時間を持ったほか、あらゆる伝手を辿って、表裏を問わぬあらゆる種類の人間と顔を繋いだ。小貴族の地とはいえ近接するアダルブレヒト領への手回しを怠れば、コーデリア家の円満な爵位返上、そして民への影響を最小限に抑えた領土割譲は、さらに困難を極めるものとなる。できる限りのことは全てやるつもりでいたし、それこそが自分の果たし得る最大の仕事であった。
 全体として成果はまず上々と言えたが、中には胸の悪くなるような暗々とした会合もあった。どう報告を整えるか、などと頭ひねりながらの帰途上の、それも最後の夜の襲撃となれば、実家周辺でのバルタザールの活動を察知し、それを良く思わなかった者の差し金である可能性が高い。すなわち、戦で名を上げた紋章持ちの異母兄に我が子の地位が脅かされる、などという妄執にいまだとり憑かれた継母の手の者だ。
「お前にも面倒をかけたみたいで悪いな。ありがとうよ」
 推量はそのまま胸にしまい、医師の忠告に従って謝意を述べる。リシテアもその両親も、恩返しのために転がり込んだ変わり者の実家の事情について、既におおよそのことを飲み込んでいる様子ではあったが、互いを深く想い合う彼らにとっては余計に憂いを感じさせる経緯であるらしく、うっかりと口にして気を遣わせまいと心がけていた。
 リシテアはやはり少し顔を曇らせていたが、バルタザールの説明をそれ以上に追及しては来なかった。礼に小さく頷き、別の問いを続ける。
「傷はどうなんです。お医者様はああ言ってたけど」
「確かに閉じ切ってはないらしいが、もうなんてことねえさ。今は腹の傷より腹の虫のほうがうるさく騒いでいやがるよ」
 ちらと窓の外を見やれば、陽がほとんど落ちかかっていた。食事を頼みがてら帰そうとしたことを気取ったのか、リシテアは少し早口に続きをさえぎった。
「私が魔法を使って助けることも、目を覚ますまで離れにいることも、誰も反対しませんでしたから」
「ああ、……おう」
 おそらく、反対を許さない態度で主張した、が正しいのだろう(ちょうど今のように、だ)とは思ったが、揚げ足取ってどうなることでもなく、素直に相槌を打つ。そのままの調子でリシテアは言葉を続けた。
「あんたやあんたの弟さんがコーデリアのために色々と手を貸してくれて、両親も私も本当に助かってます。恩返しだなんて言い出した時は、まさかここまでしてくれるとは思っていなかったし」
 そうだろう、と笑う。なにせあの頃は自分の身辺にすら手、ならぬ金の回らない始末だったのだから、信じろと言うほうが無理な話だ。
「ほかにも、グロスタール家やゴネリル家、フォドラ王……支援を約束してくれた人たちのお陰で、これまで順調にやって来られましたけど。もしも今、そんな助けが全部終わってなくなってしまったとしても、私、誰かを無責任だとか、恩知らずだとかは思いません。今までだって充分過ぎるほど助けてもらいましたし、私一人だって、絶対に、やり遂げてみせます。もともとは、ずっとそのつもりでいたんだから」
「そうだな」
 今度は笑わずに頷いた。実際のところ、自分や弟、他の近隣諸侯による手助けはあくまで事の一部に過ぎず、コーデリア夫妻の多大な苦労と、今のために磨き、重ね続けてきたリシテアの才と努力があってこそ、終戦から今日の日まで順調に、この地と民を導いてこられたのだ。それを否定する者などどこにもいないし、彼女ならばその賛すべき志の通り、大業を成し遂げてみせるだろう。
 全面的にその言葉を認め、とは言え自分に関してはまだ恩返しをやめるつもりはないと語ろうとしたのを、すぐに続いた次の声に再びさえぎられた。それは少し意外な口切りだった。固い決意の宣言のあとに、「でも」とリシテアは逆接の語を発したのだ。
 今日初めてのためらいの間を置き、
「でも……もしもあんたがこうして怪我をして、知らない場所で倒れて、いつまで経ってもここに帰ってこなかったら。どこか遠くで死んでしまったとしたら……助けがどうだとか、一人でも大丈夫だからとか、そんなの全然関係なくて、私」
 ――きっと子どもみたいに、泣いてしまうと思うんです。
 そうして小さく吐露された言葉は、一瞬で全ての思考を絶やすに足るものだった。しかしそれですら、次に聞き、見たものに、敷布に横たえた手に触れるふたつの熱に比べれば、なにほどの衝撃でもなかった。
「だから、……お願い。いなくならないで……」
 ほとんど伏せかけた撫子色の瞳からはたはたと涙が落ち、細い指を伝って、バルタザールの手を濡らす。先のものとして語る画が既に成されていることを指摘しようなどいう考えは微塵も浮かばなかった。血よりも熱いその湑みに、手のみならず胸をも灼き焦がされるように感じた。
 自らの死後を真剣に顧慮したことなど、死そのものを憂うよりもさらに稀なためしだった。身近な友人や家族がいつか聞き知った折に、ほんの少しばかり名を惜しんでくれればそれ以上に思うところもなく、実際にそうした話を過去に口にしたこともあった。独り気楽に生き、思うままに闘って倒れ、独り笑って死に、その瞬間全てが終わる。それもまた、決して間違いとは言い得ない、己のひとつの道ではあったろう。
 だが今まさに、気付かされた。そんな野放図の許される道など、はるか昔に閉ざされている。いかな荒くれの身の上だとて、今ここにある事実を雑に捨て置くべきではない。血溜まりの中に倒れ伏す間際、自分は何を想い、何を願っていた?
「いっ……つ」
 腕に力を込めて上体を起こしにかかると、引き攣れた腹の傷から痛みが湧き、思わず声が漏れた。はたと顔上げて止めにかかるリシテアに大丈夫だと手を振り示し、長座の姿勢をととのえる。
「……ああ、これでまともに顔が見えるな」
 少し背を丸めれば赤みを帯びた目を正面に覗くことができた。視線が戸惑いに揺れながらも逃げてしまわないのを確かめ、ひとつ息をついてから、告解を始める。
「すまん、リシテア。今度ばかりは全面的に反省した。俺が馬鹿だった」
「……なんです。いきなり」
 あんたが馬鹿なことはずっと前から知ってます、と続くいつもの棘も、瞳潤ませたまま言われては笑い甲斐がない。ただ頷いて受け、続ける。
「さっきヘマをしたっつったが、もう少し細かく説明するとだな、……いや、別に立ち回りの話をしようってんじゃない、聞いてくれ。要するに、油断したんだ。実家の周りであれやこれやの面倒事片付けて、長い道歩いて街が見えた時、やっと戻ってこられたと……ただ疲れただの、ようやく休めるだのってだけじゃねえ。この家に帰れる、久方ぶりにお前の顔が見られると思ったら、……気が抜けて、あの賞金稼ぎどもに気付くのが遅れちまった」
「え、っと……わ、私のせいだって、言いたいんですか?」
「お前のせいじゃねえ。俺のせいさ。俺の腹の決め方がとんでもなく甘かったって話だよ。これまで何度も行き倒れて死ぬような目に遭っちゃきたが、今回ほど『こんなところで死にたくねぇ』と真面目に思ったのは初めてかもしれねえ。馬鹿な話だろ?」
「本当に死んでいたら、もっと大馬鹿です」
「ああ、大馬鹿だ。だから全部うっちゃったまま、今までやってきちまった」
 ただ己の身を立たせ、前に塞がる者を打ち倒していくだけの道ならば、刹那に生きたところでなんの害もない。一騎当千、万夫不当。長く闘士として歩いてきた身上に、そうした強さを語る言葉はやはり魅力を伴って響く。だが、それは結局のところ匹夫のいさおであり、道を変えれば愚かしさどころか、弱さの表象ですらある。
「これまでだって、いくらでもやりようはあったんだ。寄ってくる奴らを端からぶっ飛ばすだけじゃあなくな」
 全ての根を断ち切ることは難しくとも、芽の多くを摘んでおくことはできたはずだ。己の不義理が原因であれば、いくらでも人に頭を下げ、然るべく報いたがいい。謂れなき怨讐の因果であっても、いくつかの苦みを厭わずにいれば、打つ手は見つかったろう。その労を怠ってきたのは、ひとえに無精と、気ままな独りの道のためだった。足向きを変え、人のいる道を選んだ意味の全てをまだ理解できずにいた、浅薄な気構えのためだった。
 自身の後ろにあるもの、背に負うものを顧みて、時に退避に努める意志こそ、今の己に最も必要な強さであるはずだ。
「面倒だろうが、始末できる限りのことはしておかなきゃならねえよな。反省したもしたってやつだ。まだまだ返し切ってない恩も仕事も残ってる。こうやって帰る部屋も借りてる。そう簡単にそのへんでくたばっちゃいられねえし、死にたくもねぇ。……お前を泣かせるわけにもいかんしな」
 まっすぐに目を合わせて言えば、数度の瞬きののち、白い頬に鮮やかな朱がのぼる。文にならない言葉をもごもごと呟きながら横へそらせた顔に、もう涙の翳りはなく、これをこそ、とバルタザールはひそかな笑みを漏らした。疲憊の道中にあっても、特段のねぎらいを期待するつもりはなく、ただ普段の顔が見たかった。弟から仕入れた滑稽な世間話を土産に、いつも凛と張り詰めている娘の気負いをほどかせ、笑わせてもやるつもりでいた。
(それがまさか泣かせちまうたぁ、情けねえ)
 深い反省とない交ぜに、胸の底に温みが宿るのをも感ずる。血縁でも旧知の友でもない、世が世であればひとつの接点すら得なかっただろう利発な令嬢から、無事を願われ涙される日がやって来ようとは、何年か前までは夢にも思わなかった。
 こんな愛おしいものを置いて、己だけの満足に浸かって、一人勝手に死ぬことなどできるはずもない。
 心を新たにし、もう一度、言葉に誓う。
「俺は死なねえよ、リシテア。こんなに必死に頑張ってきたお前が、父さん母さんとゆっくり幸せに暮らすところを見届られないなんざ、ごめんだからな」
 そのためにここにいるのだからと、続きを口にはしなかったが、声は思う通りの心根を届けてくれたか、リシテアは照れに寄せた眉をほどいてこちらへ向き戻り、バルタザールの目をじっと見つめ返してから、ゆっくりと頷いた。
「次にこんな帰り方したら、本気で怒ります」
「ああ」
「食事も一日抜きにします」
「お、そりゃあなおさら気を付けねえとな」
「それと」
「ん?」
 一度言葉を切り、何かの情動をこらえるように唇をきゅっと噛んでから、かつての少女は語る。
「あんたは、ずっとそんなことを冗談みたいに言って笑ってるけど、私たちだって、同じですから。私も、父様も母様も、みんな……あんたがその時にいないだなんて、絶対にごめんなんですからね」
「……リシテア」
 大きな瞳がまたうっすらと水の膜をたたえているのを見て、我なく名を呼び、腕を伸ばした。はらりとこぼれる雫を受けた手で頬に触れ、包み、薄紅の花色をごく近く覗いたと思った次の刹那には、その唇に口付けていた。
 身を離し、ほうけた顔を見下ろすまでの間も、指から逃がした頬が本当の紅色に染め上げられるまでの間も、ほんのわずかの一瞬に過ぎなかった。がたん、と椅子を蹴立てて、細い身体が勢いよく立ち上がる。
「えっ、え、え、わ、私、あの」
 上ずりきって意味を成さない言葉。こちらはと言えば再度呼びかけようとした名が声にならず、動揺のほどは大差なかった。怪我もなく立って動けるだけ、相手のほうが反応が早い。
「その、えっと、しょく、食事を、お願いしてきますっ」
 先には流した理由に飛びつき、椅子の位置をととのえる礼儀も忘れて駆け出す背をただ唖然と見送る。戸がせわしなく開かれてすぐに閉じ、軽くも騒がしい足音が廊下の向こうへ消えて数秒、ようやく絞り出した声の響きは、おそらくこの数年で一番の情けなさだった。
「あー、あぁー……やっちまった」
 前へがくりと身を折り、両手に頭を抱える。
 特別に堪えていたなどということはなかった。他意はなかった、と言っても自分を良く知る者ほど信じてくれやしないだろうが、本当に、ただ純粋な衝動によるものというほかない。無意識という言葉が出る時点で相手への侮辱にさえ当たるに違いないのだが、決して心を騙る行為でもなかったのだから、なおさらにこの情の色形をひと言に納めるのは難しい。
 情動が思慮より先に身体に命を下し得ることなど、今の半分の歳の頃にはもう知っていた。しかしこの、己のものとも思われぬ穏やかな心でさえもがとは。
(どう思ったろうな、あいつ。今日の今日で屋敷を追い出されでもしたら笑い話にもならねぇが)
 嫌悪が初手に飛び出なかったことにはひとまず安堵したものの、ならばどんな応えを望むのか、思考の緒はもつれるばかりだ。
「甘いもんでごまかす……いや今回ばっかりは無いだろさすがに……無いだろ……無いよな……」
 全く無いとは言い切れない、と頷き、逃避のように、弟へ頼んできた実家近くの名物の形を思う。明日にも屋敷へ届くだろう、柑橘の実を模した菓子の風味は、あの白い頬の線を少しでもゆるめてくれるだろうか。
「もっとわかりやすく甘いやつにしときゃ良かったかね……」
 ため息とともに布団へ寝倒れる。つい一日前には死地に置かれた男が一体なんの話をと、笑いたくば好きに笑え。ともすると今の自分には、あの令嬢の笑みを得られなくなることのほうが、腹を裂かれるより何倍も恐ろしい。
 それは多分に甘酸をはらむ、選んだ菓子に似合いの感慨であったが、互いにそれと認めて口移しにするまでには、今少しの間がありそうだった。


Fin.

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