No.XX230611



 あいつめまた余計な問題に引っかかっているようだ、と呆れ顔で落とした言葉に連なる初めの愚痴を、実のところラチェットは半ば、いや、七割方右から左へ聞き流していた。そもそもが定期検診の合間の雑談に過ぎなかったし、この生真面目な保安員が何かしら小言をこぼしているのは日常のことだ。〝ぼやきのギアーズ〟と双璧と言っていい。それでなくとも日頃それぞれに口数の多い連中が寄り集まった中で長年医者など務めていれば、無闇な疲労を防ぐべく「特別に気をかけずとも良いこと」を瞬時に判じて流す術は、もはや当たり前に身に付いている。
「いつものことじゃないかね。やる気が有り余ってるんだろうから、帰ってきたら存分に仕事を押しつけてやればいい」
 三割の意識で聞き留めた話によれば、「あいつ」であるところの好戦家の救助員は、例によって他星への遠征に志願参加し、本任務は終えたもののまた何がしかのトラブルが発生したかして、帰投が遅れているらしい。あいつに事務仕事を押しつけると余計に進まないからな、と愚痴を重ねたアラートに笑いつつ、まあと感を述べる。
「我が軍の頼もしい戦士たちときたら、外にくり出すたび面倒事に巻き込まれなければ気が済まないようだからねえ。たまには向かない仕事に頭悩ませながらででも基地の中でじっとしてもらっていたいものだよ」
「全くだ」
 返ったアラートの頷きがあまりにくたびれて重々しかったため、桁の増えたカルテの号数を横目にしつつ、お前さんも内にいながらなかなかの面倒事の主ではあるがね、と冷やかしを贈るのは容赦してやることとした。


 そのようにして「日常の些細な問題」のカテゴリに分類され処理されたやり取りを、しかし常のように丸めて消去してしまわずに、その後の数刻に渡って点々と思い返し、やがて霞のような違和感を胸に生ずるまでに至ったのは、やはり長年の経験から来る医者の直感がゆえとでも言うほかない。仕掛かり中の作業を中断し、離席のメッセージを残して部屋を出、基地をいくらも歩かぬうちに違和感は怪訝へと変わった。思案は一瞬にとどめて即座にきびすを返し、今日も賑わしい仲間たちの声を背に、まっすぐ基地の中心へと向かう。
 滑り開いた戸の向こう、こちらへ振り向いたプロールはかすかな驚きの色をにじませてラチェットの名を呼び、据え付けの通信機へ伸ばしかけていた手を引き戻した。誰を呼び出そうとしていたのかはまず明白であった。
「インフェルノが帰っていないと聞いたんだが」
 呼びかけに手を挙げて応じつつ、前置きなく核心に入る。明敏な戦略長はすぐにこちらの意を察し、ああと短く答えた。
「遠征延長だよ。片がつくまで」
「延長か。なるほど」
 どうやら初診を少々見誤ったらしい。さて、と声なき声とともに視線を行き交わし、同時に結論を出した。
「静観かね」
「ひとまずは」
 言葉短く頷き合い、定めた方針に従って各々の務めに戻る。きびす返して背にした自動扉が閉まるまでの間に、プロールがてきぱきと複数の事務連絡を飛ばす声が聞こえた。さすがトラブル対応は慣れたものだが、次の検診ではまた念入りに演算回路と内燃消化器の損耗具合を診てやらねばなるまい、とメモリの隅に忘れず記録する。



 それから五日は特段の事件も異変もなく、平穏な時間が流れた。無論のこと医務室を訪う足が途切れるような日はなかったが、器具を操り損ねて指をうっかり一本落としただの、球技遊び中の衝突で重大型機の下敷きになってフロント部にひびを入れただの、取るに足らない事故ばかりなのだから充分に平穏の範疇である。軍医に要らない仕事をさせるな、とそれも本心ではあるからして説教は欠かさずするものの、底の底を語れば軍人としての負傷の治療など、この先一度も無いのなら無いで済むことこそが最良に決まっている。
 お陰で、というわけでもないが、椅子に釘付けにされずに基地を歩き、釘付け側の多忙者たちを逆に訪ねる時間も取れた。往診に来られた側(大抵は仕事を理由に定期の受診を延ばし延ばしにしている者たち)は神妙に肩縮めるか渋面を作るか苦笑をこぼすかが主な反応で、朗らかに迎えられることはあまりない。互い事であり、こちらとしても慣れたものだ。
 そんな被忙殺者の筆頭一名の椅子を訪れると、彼の砦たる警備室には先客の補修員の姿があった。
「それでグラップルはどうだって?」
「必要な建材がちょうど切れていて、最短でもあと七日ばかりはかかるみたいだ。本当は今月いっぱい使って前以上にしっかり造りたそうだったけどね。あの橋が通れないと色々困るだろうから、またの機会にってことで俺からも話しておいたよ」
「そうか、ありがとう。あそこを避けると川向こうまでだいぶ遠回りになるからな……工場の敷設と重なるなんて困ったものだ。ついでで済まないんだけど、君から関係しそうなメンバーに連携しておいてもらえるかな。ちょっとほかで手が取られていて」
「司令官の出発が明日だっけ? そのぐらいならお安い御用さ。どこかでちゃんと休みなよ、アラート」
「ああ、よろしく」
 変わらず多忙であることには間違いないようだが、明朗な受け答えの様子に過労の兆しは見られない。すれ違いにホイストと交わした声に気付き、戸口のラチェットへ向き直った顔には特に渋味も浮かばなかった。
「ラチェット、何か用かい」
 つい数日前に「異状なし」の診断を出していたので、そもそも医者の訪問とは思わなかったらしい。こちらも診療を始めるつもりはなく、通りがかっただけだと伝えた。
「インフェルノはまだ遠征中かね」
「ああ。のんきな電信ひとつきりだよ」
 あんな短文じゃ状況も何もわかりやしない、とこぼしつつ、机上の端末に指伸ばしかけ、はたとした動作で引き戻す。何か連絡はないか、いっそこちらから訊ねようか、と、らしくもなく乱雑に置かれた端末を取り上げてはやめてをくり返す姿が見えるようだった。
「何か急場があったというわけじゃないんだろう」
「そうらしいんだが、怪我してもあいつすぐ見栄を張って隠すし……」
「その時は私のところへ投げ込んでくれればきっちり始末するさ」
「始末……ええと、治療……?」
「治療そのほか」
 しらりと返せば部下ともども医務室の世話になりがちな保安員は少しく表情をこわばらせて、うんまあ頼むよ、と早口に応えた。現状ごく平静には見える。だが当人の言葉以上に相棒の動向を気にかけ、思いわずらっているのは確かだ。
(わずらうと言うべきか……ふむ)
 そわつく様を眺めて思慮しつつも何か述べ残すことは控え、ひとつふたつの雑談を交わしたのちに別れる。途上、行き違う数人の仲間たちが任務遂行祝いと称した宴会の算段をしている声が耳に入り、多少のんきの勝るほうが病室離れは良いのかもしれない、などと考えた。とはいえそうした気楽さを許すのがアラートを始めとする裏方の気難し屋たちの努力であるのだから、医者はさらにその立つ基盤を支えてやらねばというものだ。



 さらにまた五日が過ぎた。米国政府との会合のため、コンボイほか幾部隊かが基地を留守にしているほかは引き続き大きな変事はなく、しいて言うなら三日目の夜に実験室でボヤ騒ぎが生じたが、保安部長への連絡の間もなく付近にいた者たちの手で始末が済んだ。事後報告を受けたアラートの表情の険しさを人づてに聞き、ラチェットは朝から警備室を訪れた。
「出発前にインフェルノと何かあったんだろう、アラート」
 開口一番の言葉にまさしく虚を突かれたような驚きの顔を見せたのち、アラートはエネルギー切れ寸前のごとき緩慢な動作で頷いた。初日、プロールと話した時点で既に予想はしていた。確かにアラートは心配性の悲観家で、向こう見ずの部下の身をいつも案じているが、同時にかの鮮赤の救助員の強さを誰より信じる相棒でもある。ほかに難事が並行している場合であればともかく、むしろ平安の続く折、十日帰らない程度のトラブルのみでここまでの心懸かりを示すことは考えづらい。
「私で良ければ話を聞くが」
「えっ、あ、いや……、うん……ラチェットに聞いてもらうのは助かるかもしれない……けどその、何をどう話せばいいか、……あ、喧嘩したとか言い争いになったとか、そういうわけじゃないんだ」
 それもなんとなくわかっている、と頷く前に、しどろもどろの言葉をさえぎって、不快な大音量が場へ飛び込んだ。その一瞬後には部屋の主はたいを返してモニターに向かい、けたたましいビープ音の中、緊急通報のメッセージに応えていた。
 火災、化学工場、大規模爆発の恐れあり。静穏を破る語が飛び交い、たちまち事態が整理されて、出動指令が発されるというその寸前、よどみなく続いていたアラートの言葉がぴたりと止まった。見仰ぐモニターに表示された要員欄の最上部に、司令官従兵のための救助部隊五名の不在が注記されている。
「誰を向かわせれば……」
 愕然とこぼれた声に、割り込みの通話が応えた。
『……ート、アラート! 聞こえるか? 俺が行くぜ!』
 警報を裂く大声たいせいと重い走行音。アラートが今朝一番の驚愕を示し、前へ身を乗り出す。
「インフェルノっ? お前、いつ……?」
『顔出しが遅れてすまん。たまたま外で通報を受けたとこだ。指示頼む!』
「あ……ああ。そうだ、第二ブロックが通行不可なんだ」
『橋が修理中なんだろ? ホイストから聞いたぜ。もう迂回路に入ってる』
「そうか、了解。では次のブロックを――」
 続く声にもモニターを見据える顔にも冷静が戻ったのを確かめてから、ラチェットは足音を忍ばせて戸を抜け、警備室を後にした。アラートの意識は完全に目前の消防任務へ向いており、もはや話を引き出す理由もなく、居座っていても邪魔になるだけだ。
「ふむ。始末、か」
 この場合はなかなか適切な言葉だと独りごち、後事に備えるべく我が方の城への帰路に就いた。



 予約の客が訪れたのは、その日の夕暮れを過ぎた時分だった。
「よう先生、来たぜ」
 およそ患者には似つかわしくない朗笑を浮かべた顔はまだ煤で汚れており、現場から帰ったその足で医務室へやって来たものらしい。アラートには洗浄を済ませてから行けと言いつかったのだろうが、全く我が軍の戦士たちは総司令を代表にせっかち揃いである。
「左上腕部の裂傷、右示指および中指ちゅうしの小破損、のみか。相変わらず丈夫で結構なことだ。座ってこちらへ手を出して。話のあいだに済むだろう」
 端末に呼び出した任務報告とカルテを確認し、前の椅子にかけるよう促す。インフェルノは笑って応じた。
「消防の怪我はあっさり直してくれるなぁ先生は。このあいだスキッズを潰しちまった時はあんなにお説教だったのによ」
「遊びの不注意と救助任務での負傷を同列に扱うものかね。しかも仲間を下敷きにして自分は傷ひとつないと来てる」
「それが取り柄だからな」
 悪びれない重大型機の頑強な腕を取り、処置を開始する。いくらの間もなく声が落ちた。
「なあ、大丈夫なのか?」
 笑いの響きを消した低い声音には、それなりの迫力が備わっている。その問いのため何をも置いて一散にやって来たのだろう相手に応え、ラチェットも「後始末」へ連なる回答を正直に返した。
「ああ。どうやら一時的なものだったようだ。もう問題ないだろう」
「そうか」
 自身も直接相対して同じ感触を得ていたのだろう、疑いの反応はなかった。一瞬の緊張が解け、やれやれと思わず虚脱の声が漏れる。
「アラートの知覚機構にはこれまでにもたびたび驚かされているが、さすがにこんな事象は予期していなかった。……何があったんだね」
 排気とともに問うたラチェットへ再び笑みを向け、任務帰りの救助員は胸張って答えた。
「遠征出る前にコクった」
「やっぱりか」
「たまたま締めがあの日になっちまったってだけで、俺としちゃしっかり段階踏んだんだぜ? その場できっちり返事までもらったしな。んで向こうでの仕事もちゃっちゃと片付けて、全速力で帰って仰天」
 そう。遠征任務は大過なく終わり、インフェルノも一切の寄り道をせずまっすぐに帰投した(このタイミングでどこかに引っかかってくるような相手からの告白など無かったことにしたほうが良いだろう)。だがアラートは「インフェルノはまだ戻っていない」と語り、その前提をもとに振る舞っていた。嘘や演技ではない。彼は事実そうだと信じて疑っていなかったのだ。
「『特定の機体が発する情報の一切全てを知覚しない』。前例も何もない、奇妙としか言えないエラーだが……実際そうした事象が生じていた、そして今朝のあの時点で解消されたと思うしかないだろう」
 相棒が帰らないとの話を聞いたその日のうちに当の救助員の姿を基地で見たのだから、アラートが愚痴を吐いた相手が医者の自分でまだ幸いだった。インフェルノから異状の報告を受けたプロールがすぐに各所へ根回しを行い、アラートと接触する人員を最小限に絞ったことで、騒ぎなく事が終息したという次第である。今日の事故対応に関しても、インフェルノが実際は基地にいたからこそプロールはプロテクトボット部隊のコンボイ随伴を許可していたのだし(実際、一昨日のボヤはインフェルノがほぼ単身で消し止めている)、橋の修理についてのホイストからの注意が今朝帰ったばかりの者に伝わっていたはずがない。そうした周りの状況と自分の認識との不整合にほとんど気付いていなかったところを見ても、アラートに生じた異状のほどがうかがえる。
 おそらく今のアラートの機体検査を行ったところで何もわからず、いくばくかの関連ログが読み取れるだけだろう。もはやこの件に関して残った仕事は「治療」ではなく「始末」のみというわけだ。
 いきさつの確認を兼ねて互いの認識を語り、ある程度の結論が出たところで、インフェルノがおかしげに呟いた。
「まったくあいつも困ったやつだよな」
「こちらとしては困ったコンビと認識しているが」
「はは。悪い悪い」
 向けた皮肉もどこ吹く風の様で笑う相手に、今度は純粋な疑問が湧く。
「ずいぶんと上機嫌じゃないかね。その困ったコイビトどのが全く気付いてくれなかったというのに」
 認識上の真実はともかくも、帰って十日のあいだ、想い通じたばかりの相手に無視されていたという格好になる。憤りが生じても無理はないとも思える事態だが、自他共に短気を認める男はおうと明朗な声で答え、さらに笑みを深めた。
「ま、帰ってすぐは目の前に立っても大声で呼んでも何もないんでさすがに面食らったけどよ。あいつのセンサーがたまに妙なことになるのは昔から知ってたからな。今朝のことでもうほとんど安心してたし、あとに残るもんがないってことなら、なおさらわざわざ掘り返すつもりはねえさ」
「前触れなく直ったのは確かだが、あの時点で安心の余地があったかどうか……」
「どんなにほかに気を取られてようが、あいつは保安救助の仕事だけは絶対におろそかにしない。いつも通りだろ? 今呼べば絶対に応えると思ったから、俺もあそこで通信入れたんだぜ」
 それに、と、頼もしくも小憎たらしい彼氏面で続ける。
「俺に告白されて俺だけしか見えなくなるんじゃなく、俺だけ見えなくなっちまうってのが、すげえあいつらしいんだよなぁ」
 ああこれは惚気だ、と気付いてなお連なる戯言を右から左へ聞き流しにかかりつつ、しかしなるほど、とラチェットは内心ひそかに納得の相槌を打った。それこそが奇妙なエラーの原因だったということだ。
「可愛いよなぁ、あいつ。なあ?」
「反論を許容しない問いには答えない主義でね」
「さすがわかってるねえ」
 医者要らずののんきな笑いも聞き流し、つまるところ、と処置の手を一度止め、端末上にひとつのデータファイルを開く。医療記録と呼ぶほどではない、小さな問題と解決の集積。「特別に気にかけずとも良い七割」の地層の終端に、並べて呼び出したここに不在の仲間のカルテの、幾十枚に及ぶ検査と治療の記録の末尾に記していたメモ書きを切り取って、一部編集を加えて移した。
 平穏の象徴とも言える記録の号数も幾度かの一新を経て既になかなかの桁だ。カルテの号数が増えるより良いのは確かだが、量が増えるのと反比例して読み返す価値が目減りしていくようでもあり、始末の方法はいまだ決まっていない。



〝つまるところ、全身が知覚器と言って過言ではない、色恋ごとに不慣れな保安員が、好いた相手からの告白を受けて全身で照れていたという、ただそれだけの話。〟
(No.XX230611 要約)



end.

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