※『彼方』のアラート視点追補編です。本編読後にお読み下さい。

 
此方



 軽い水音を立てて唇が離れ、深色のがこちらを見つめたままゆっくりと遠ざかる。顔に添えられた手は二度三度と名残惜しげに頬の線を撫でてから、するりと肩を辿って背の後ろに落ち着いた。
「……インフェルノ」
 大きな掌に上半身の重みを少し預け、傍らを見上げて呼ぶ。
「ん?」
「お前、当たり前みたいな顔してるけどな。俺たちは別に恋人でもなんでもないんだぞ」
 穏やかな笑みが崩れて、きょとん、とでも音の出そうな間抜けた表情が浮かび、一拍置いて、あ、と頷きが返った。
「そうか。そうだった」
「だろ」
「いや、ここんとこずっとお前のこと考えてたからよ、もうとっくの気分で……」
 言えないような夢とかも見てたと思うし、などとけったいなことをのたまうので、横腹を肘で小突いてやる。いて、と大げさな声を上げつつも、腕は離れていかない。
「つっても今さらの説教じゃねぇか? 間は空いてるけどよ、二回目だし」
「それは、まあ」
「ん? いや、違ェな。前はシてる最中にもう二、三回……いや四、五回は……いてっ」
「そろそろ慎みってものを覚えたらどうだ、お前は」
 すまんすまん、と反省の感じられない軽い謝罪を聞くのを、憤るよりも先に懐かしく思ってしまうのだから、いずれにせよ、さまで強く叱れたものではなかった。
 苦笑を漏らすと、
「……言うか?」
 ほつり、問いが落ちる。
 え、と反射的にこぼれた声を反問と捉えたのか、曖昧に首が振られて視線が正面へ外れ、濁された言葉は先へ続かなかった。
 もちろん聞き逃すはずもない。だが、アラートは押して求めることなく、その横顔を少し見つめてから、倣うように黙したまま前を見た。
 色深い夜天の下、微酔の熱を冷ます風に揺れて、街の灯がまばゆくきらめいている。今この時からさかのぼり、二人で眺めたひとつ前の記憶の中の街並は、はるか空遠い青の星のものだった。趣きは違えど、いずれ劣らずうつくしい。
 あの頃も、警邏の終わりにこうして高台に並んで腰掛け、街の景色を見下ろしては、この平穏をともに守ろうと誓ったものだった。いや、実際には、そうと口にして確かめ合っていたわけではない。だが、何百何千に収まらない議論と衝突をくり返し、故郷を遠く離れた地で数多の思いがけない出来事を重ね、深い失意と救済をも経て、自分たちの心はいつしか揺るぎなく結ばれていた。あえて謳うのが奇妙に思えるほどの近しさを感じ、愉快さと面映ゆさと少しの臆病が続けさせた沈黙を心地よく享受しながら、それに甘えてもいた。
 異星の環境に慣れ、宇宙を行き来する手段がととのい、両軍ともに施設と兵の増強が進んで、一時は鎮静化の気配すらあった争いが次第に元の苛烈さを取り戻し始めた。沈黙はその意味と理由を変じ、心は熱を持ったまま、明日をも知れぬ身の奥底に沈められた。傷付いては立ち上がり、ほんの時おり横目を使って隣にあるものを確かめながら、終わりを信じ、前へ駆け続けた。
 ある種自明とも言える劣勢が極まり、活路のひとつであった月面基地に侵攻の手が及んで、絶望の空気が広がるなか、基地奪還のための小隊が募られた。短期遠征と言いつつも、ほぼ決死隊に等しい任務であることはみな承知していた。地上の施設防衛を重く任じられていたアラートは、その現場にも指揮にも一切関わり得ないことを知りつつ、事前に与えられた情報の全てに目を通し、詳細まで分析記録した。そして募兵の当日、投じられた呼びかけに応えて一歩進み出、部下の推挙を申し述べた声と、その隣から同じく列を前に抜け、任務参加を願い出た声が、寸時の差もなく重なった。
 準備に丸一日が費やされ、出立を翌朝に控えた夜、インフェルノは前触れなくアラートの部屋に訪れ来た。夜更け近かったが、説教を始めることもなく招き入れ、無言の巨躯を見上げた瞬間、やにわに身を引き掴まれ、腕の中に囚われたのを理解した次の間には、唇が重なっていた。もろとも倒れて床へ組み伏せられるのに抗わず、自ら腕伸ばして、求められる全てを差し出し、与えられる全てを受け入れた。
 夢幻のごとき時間だった。いつ寝台へ運ばれたのか、いかにして情を遂げたのか、痛みがあったのか快楽があったのかも定かではない。ただ心身を深く繋ぎ、互いの熱と信号を行き交わせ、弾む呼気の中に幾度も名を呼んだ。ほかの言葉の一切を捨てて、メモリの奥底に刻み込むように、ただ名のみを呼び続けた。
 まだ明け染めぬ暁の時分にふと目を覚まし、けだるい体を横たえたまま隣を見やると、インフェルノは既に起きて台に腰かけ、武器と救助器具の最終点検をしていた。しばしその背を見つめ、ようやく口にした言葉は、感傷の一片もない、呼びかけですらない平坦な命令の語だった。
『それは置いていけ。使用中に切れかねないぞ……』
 はたと振り向いた驚きの顔がすぐに笑みに変わり、わかったと頷いて、手にしていた古いザイルをアラートの前に置く。そのまま伸びてきた指が頭を撫で、頬を滑り、離れるまぎわに、全て順調に行けば、五日後の夕餉の時刻に間に合う船で帰る、と声が落ちた。アラートは問いも否定も寄せず、ああ、と短く相槌し、再び眠りの淵に沈んだ。
 それが、最後の会話となった。
 四日目の夕刻に急報が走り、さらにその三日後、任務完遂して戻った船に、インフェルノの姿はなかった。アラートは提出された報告書の損害の欄から、「死亡」の語を根拠不十分として削除し、自分の日報に遠地派遣中の部下の名を記し続けた。
 案じて慰めをかけてきた者も、諌めてきた者もいた。陰で精神喪失を噂されていることも知っていた。信頼を礎にした願望と意地に近いエゴを自覚しながら、アラートは待ち続けた。日々薄氷を踏むような戦局は変わらず、哀しむ暇も憤る暇もなかった。胸を満たすのは悔いばかりだった。臆病と、甘えと、兵として、上官としての立場と、明日をも知れぬ別離の恐れ、その他あらゆるものを言い訳に、しかと言葉にして伝えられなかった、「もしも」の未来さえ手に残せなかった、無尽の後悔ばかりだった。
 やがて戦乱はひとつの佳境を迎え、無数の犠牲の連鎖の中に倒れたはずの自分は、天運とやらの気まぐれで命を救い上げられた。喪失の痛みに打ちのめされ、信じた道に差す影に迷い、自問自答をくり返して、最後まで消えずあり続けた過ぎし日の誓いひとつを支えに、震える足で立ち上がった。ちっぽけな胸に新たな決意を抱き、見失った未来を捜して、今日まで歩き続けてきた。
「――背を」
 追想に沈む思考が、再び頭上に落ちた小さな声に浮上する。
「撃たれたって、聞いたぜ」
 確かめるようにその部位を撫ぜる指を感じながら、笑って返した。
「何年前の話だと思ってるんだ。とっくに治ってる」
「そりゃ、そうだが」
 浮かない顔が語るのは、さらに昔の、ある兵器にまつわる出来事の記憶だ。あまり愉快な回想ではないが、自分たちにとって確かに大きな転機となった事件のあと、次は必ずお前の背を護ると、この一本気な相棒は大仰に誓いを立てていた。前へ出たがる性格がすぐに改まるものでもなかったが、ともに戦場にある時は、その誓いが破られることはなかった。
 なるほどそうか、と今さらながらに思い至る。あの時の自分は、どこまでもその幻影に心を預けていたのだ。背後の警戒を忘れるほどに、無意識の底でまでも、相棒の存在を頼っていたのだ。
 おかしくなったと思われても仕方がなかったな、と苦笑を噛みつぶしながら、自分も手を伸ばし、赤の機体の胴にそっと触れる。少しいびつな盾の紋には、幾度も手ずから描き直された跡があった。
「大変なのはお前だろう。明日からはどう頭を下げてもさすがに出られないぞ」
 言えば、あー、と疲れたように肩が落ちる。
「俺、一回ばらばらにされんじゃねぇかな……腹ん中とかひでぇことになってるんだぜ」
「そうか。三日目ぐらいに見に行こうかな」
「やめろよ。本気でやめろ」
 冗談めかして話す今この間にも、その機体が何重もの不具合と苦痛に耐えていることはわかっていた。無秩序な駆動音と気を狂わせそうなエラー音を、アラートは我が知覚圏から遮断してしまわずに、今日、いや、五日前の帰還報告の瞬間から、医療部への引継ぎのため全て記録している。
 教習棟を出るなり、うるさくないか、とひと言訊ねかけてきた相棒へ、煩いも違反もお互い様だと返した。本当は今すぐにでも治療を始めるべきであることなど、どちらも承知している。全てわかって誘い、応え、盃を交わし、今しばらくの別れの前に、こうして他愛ない時間を過ごしている。明日は朝から二人並んで本部へ頭を下げに行く予定だ。
 まだ、互いに口にしてはいない。店の中でも、今この場でも、今日までの出来事をそれぞれつぶさに語り合ってはいない。既にあるもののように触れては転がしながらも、想いをいざ声にして告げてはいない。しかしこの沈黙は、臆病の発露でも自制の帰結でもなく、多分に照れの混じった、幸福な戯れのようなものだ。
「そうだ、リペアで思い出したんだけどよ。悪い、アラート。お前から借りてたやつ、壊しちまった」
「え?」
 唐突に謝罪を受け、今度ははっきりと反問の声を返す。記憶を探る前に、意想外の答えを渡された。
「ザイル、借りてったろ。俺のが壊れかけてたんで代わりにっつって。あ、お前うとうとしてたから憶えてねぇのかな? ずっと慎重に持ってたんだけどよ、二十……いや、三十日ぐらい前だったか、ポンコツ船の姿勢立て直す時に使って、切れちまった。あれがなきゃ、今頃宇宙のどのへん迷ってたか、下手すりゃ吹っ飛んでたかもわからねぇけど」
 格好つけて返したかったのにな、となんでもないように語るのを、絶句して聞いた。捨てるでもなくしまうでもなく、ただ部屋の片隅に置き残した、規格違いの古びた救命具に思いを馳せる。
「二十八日前だ」
「ん?」
「……いや」
 奇遇だの奇跡だの、そんな夢じみたことを今さら熱く語るつもりはない。描いては消えた何よりの夢が、今この場に現実としてある。それが全てだ。
 場違いに愉快な気分が高まり、くすくすと笑いを立てながら、隣へ寄りかかる。インフェルノは首を傾げつつも、我が意を得たりとばかりに腕を進め、アラートの体をさらに身近く引き寄せた。胸から伝う音は乱れていても、肩を包む手の熱の高さは、記憶のものと寸分変わらない。
 静かに寄り添うつもりで頬を預けた次の間、頭部のセンサーにちょんと唇が落ち、舌さえわずかに触れたのがわかって、思わず背が跳ねた。
「こら、やめろ馬鹿」
「ちょうどいい位置にあるから、つい」
「ついじゃない」
「いいだろ少しぐらい。岩みてぇのとか不細工な魚みてぇのとかばっかり見てたから、人恋しいんだよ。夢ん中じゃもっとなぁ……」
「お前の夢なんて知ったことか」
 夢想を散らせたところにこれである。何年隣に過ごそうが何年離れていようが、どこまでも噛み合わないようだ。なお口付けしようとするのを手で払い、
「お前、夢だなんだって、俺がさっさと諦めて誰か別のやつと、てことは考えなかったのか」
 なんの気なくかけた問いに、またぽかんと間の抜けた顔が浮かび、そういえば考えなかった、とあっさり答えた。
「いや、さっきの話じゃねぇけど、なんつーか当たり前みたいな気分だったし。それに」
 一度声を区切ってこちらを見下ろし、にっと口角を上げ、
「お前みたいな面倒なやつ、俺ぐらいじゃなきゃ付き合えないだろ?」
 悪びれもせず、うそぶく。一瞬面食らうも、あまりに堂々とした口ぶりに反論の気も湧かず、そうだなと同じく笑って頷いた。自分とて、帰還を当たり前に待ち、忘れられることなど露ほどにも考えなかったのだから、これもまたお互い様だ。
 だが、こうまで決めつけられ放しも少々しゃくだと、ひとしきり笑い交わしてから、言ってやる。
「まあこれで正当な断りの理由もできたし、俺自身も少しは面倒がなくなるかな」
 背に肩にと懲りず無遠慮に遊び始めていた指がひたと止まり、え、と前の再現のごとく単音が落ちる。
「え? 断る、って、……何をだよ」
「さぁ、なんだろうな」
 相手の真似をして軽く返したが、逆に察したらしい。途端に激しい動揺が現れ出た。
「……は? え?」
「俺だって色々あったんだぞ、インフェルノ。お前と違ってほとんどずっと起きていたし」
「色々って、どこまでの色々だよ?」
「どこまでだろうな」
「お、おい、アラート!」
 どれほど思いがけない言葉だったのか、周りの静けさに遠慮していた声も、たちまち馴染みの大きさに戻る。うるさい人の頭の上で騒ぐなと叱れば、これが騒がずにいられるか、と勢い込んで反駁された。
「別に変なことじゃないだろ。お前だってさんざんあったくせに」
「マジかよ……」
 まさかアラートに限って、などと納得行かなげにぶつぶつと呟くのだから、なんとも失敬な話だ。何か例のひとつも挙げてやろうかと口を開きかけたところに、それが唐突に言い渡された。
「好きだ、アラート!」
 幾万の日を越え、秘めやかに胸にあり続けた言葉。ごく短くも重いはずのその言葉が、なんの感動の前触れもなしに、叫ぶように告げられた。
「は? おま……」
「好きだ! あーくそっ、今さら誰が何言おうが、絶対に俺が一番に好きになってたんだからな!」
「何を張り合ってるんだ……」
 ちくしょう、と悔しげに拳を握る姿を笑いながら、やはり湧き上がるのは呆れや失望ではなく、ひたすらの幸福だった。奇跡も、劇的な再会も、感動の告白も必要ない。この身と心が触れ合い、軽い言葉も重い言葉も気兼ねなく交わせる場所にいる。ただそれでいい。
(面倒なやつだって、自分で言ったくせに)
 確かに、ひと晩では到底語り尽くせないような色々があった。失った仲間たちに、彼らから与えられたものに恥じない存在になろうと苦心し、唯一の相棒と交わした数多の言葉を糧に、やがて信条さえも変わっていった。見違えたとの評も得た。
 それでも結局、面倒な根の部分はそのままだ。誰かを待ちながらほかの誰かと親しむ器用さなど、いまだ持ち合わせていやしない。いかに諭され、いかに諫められようとも、ただひとつの想いを意固地に抱き続けてきたのだ。それこそ、今さら誰に何を言われようが、一番の相手は変わりようがないのに。
 こんな些細なことですら、どこまでも噛み合わない。根の性質が違い、立つ場が違い、見るものが違う。ずっとそうだった。きっとこれからも同じだろう。だからこそ、聞き、語り、時には揉め事もし、分かち合い、笑い合って、また共に歩いていく。
「なぁ、色々って……」
「いい加減しつこいぞ。もう遅いし、また今度にでも話す」
「今度って、俺明日っからまた軟禁なのによ」
「それならなおさら、ほかに言わせることがあるんじゃないか」
 浮かんだ三度目の表情がほどける前に背を伸ばし、肩の上に腕を回し、雑音の中に紛れて消えてしまわぬよう、センサーのそばへ口を寄せる。
 かなたの日から、悔いとともに秘め続けた言葉。一時は見失った未来へ続く、ごく短くも意味深いその言葉。
「好きだ、インフェルノ。……愛してる」
 今ここから、再び共に歩き始めよう。


fin.
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