Kiss me, Darling !


~救助員と保安員の場合~

「あーようやく終わったな。上がろうぜ、アラート」
「ああ」
 大きな排気に続いて落ちた言葉へ相槌を打ちながら、アラートはぐるぐると肩を回している傍らの部下をそっと横目に見上げた。倉庫整理という地味な仕事にすっかり倦んだ表情をしているが、そのぶん持て余した熱の宿る精悍な横顔。手足とともにぶつくさと良く動いていた唇にふと視線を止めて、ほつり、
(……キス、したい)
 内心に漏らした呟きに、一瞬遅れて動転が湧き上がった。え、と思わず本物の声を発してしまい、どうしたと首傾げられる。
「な、なんでもない」
 即座にかぶりを振って答えつつ、何を考えているんだ、と己を叱りいさめた。だが、一度言葉にされた思考はなかなか胸から消え散ってくれず、また隣を盗み見てしまう。鮮やかな赤の塗装のなされた太い腕が視界に入り、その大きな手に初めて触れられ抱き寄せられた日のことを思い出して、じわりと頬に熱が昇る。
 ついひと月ほど前のある日から、自分とインフェルノのあいだには、いわゆる恋仲と呼べる関係が結ばれた。九割どころか十割まるきり見込みなきものと諦めていた、幾星霜を数える想いが唐突に実ったのだから、それは僥倖を越えてほとんど青天の霹靂であった。告白を受けた瞬間は己の思考回路が破綻をきたしたものと信じ、数十の日が過ぎた今でも、まだどこかふわふわと夢見心地の気分でいる。
 「恋仲」らしい何を演じるにもいちいち反応のおぼつかないアラートに、まあ少しずつな、とインフェルノは呆れ半分おかしさ半分の様子で笑い、これまでの上官と部下、相棒の関係を保ちつつも、宣言の通り、折に触れてそうした交誼を深めてくるようになった。口付けもそのひとつで、告白の日に半ば奪われるごとく初めを経験して以来、それなりの頻繁さ(とアラートは思っている)で遂げている。していいかとあらかじめ断られることもあったし、何も言わずにひょいとされることもあった。成って間もないうちはそのたびごとに目のくらむ感覚に見舞われたが、今はもう自分もだいぶん慣れたものと言える(はずだとアラートは思っている)。
 だが、どうやら――否、確かに、であるが、その行為に至るのはいつも相手がきっかけで、自分からは一度も踏み出したことがなく、それはあまり良い状態と言えないのではないか、とも思っていた。急に仕掛けられるときには驚いて怒ってしまうこともあったが、アラートとて、その行為自体を厭ってはいなかった。好きか嫌いかと問われれば、大変に面映いが、好きだといらえるほかなかった。身近く抱き寄せられ、触れる指から、唇から、恋しい者の熱を感じる瞬間は、間違いなく幸福だった。
 だからこそ、流され奪われているように見えるばかりでは、相手へも己へも不義理の態度なのではないかと、この数日に案じ始めていた。と同時に、面白くない、という想いもあった。さすがにこの救助員ほどの雄々しさには欠けるかもしれないが、アラートは決して気弱な性質ではない。驚かされる一方の立場は癪であったし、上官としての矜持にももとる、と感じていた。
 そうした一連を踏まえての、最前の思考である。部下兼恋人の顔を見上げ、昨日はしていない、確かおとといも、とふと考えた。ちょうど仕事が終わったところだ、とも考えた。そして今は、滅多に人の来ない場所で二人きりだ、とも。
 無性に、したくなってしまった。
 してみようか、と思った。
 身の内で動力油の循環速度が急激に早まるのを感じる。どうやら自分の中枢部は、この衝動を全力疾走と同等の負担に備えるにふさわしい仕事と捉えたらしい。間違いない、とアラートは認めた。それ以上のものかもしれないとさえ考えた。
 手元のキャビネットのロックをことさらゆっくりと確かめながら、必死にブレインを働かせる。一体どうすればいいのか。体格差から言って、時折相手がするように、何も言わずに仕掛けるのは不可能である。ではまず、何かしら言葉にしなければならない。確実に口を開かねばならない。
「……イ、インフェルノ」
 名を呼んだ。これはまずもって正解であろう。仕事はもう終わったのだし、なにせ気の早い男だから、ほうっておくとさっさと出ていってしまいかねない。若干どもってしまったが、呼びかけ自体はしっかり届いたようなので、今はひとまず不問に処する。
「ん?」
 声が返り、巨躯がこちらを向いた。よろしい、流れは間違っていない。間近に向き合っていなければキスも何もあったものではない。そう考えた途端に、今日までの行為のあれこれを思い出し、再び頭へ熱が昇り始める。身の内でせわしく駆動する冷却器の音に紛れてしまわないようにと、何を言うべきかもまとまらないまま、勢い任せに口を開いた。
「あ、……あの」
「おう」
「その」
「なんだ?」
「ええと……」
 初めの勢いとは裏腹、出てくるのは言葉とも言えない不明瞭な音ばかりで、返されるのも当然の疑問符のみだった。視線を上げて顔を直視することすらできない。いや、もうこの際顔はいい、首が疲れるから、と言い訳しつつ、ともかく意味のある語を言わねばならない、自分の望みを伝えねばならない、とただ焦りに焦る。その当然の帰結と言うべきか、次にアラートが選んだのは、確かに間違いではないが、少々前へ先走った言葉だった。
「その、き……」
「き?」
「き……キ……」
 たったひとつの単語が出てこないことに、なんてざまだと頭を抱えてしまいたくなった。これでは物事は簡潔に伝えろだの、逆に報告の中身が少な過ぎるだのと、とても他人を叱れたものではない。だが、これをけろりと口にするぐらいなら、何百語を取り回すオペレートを務めるほうがよほど楽だとも思った。
 とは言え、実際のところはあえて直接に伝える必要もなく、ただ顔が同じ位置に来るようにかがんでくれと頼めば良かったのである。だがアラートはそれに気付かず、一度口にした語を完成させるのに必死だった。き、き、と発声回路が壊れたようにくり返し、インフェルノがおい大丈夫かと不安の表情を浮かべ始めたところに、ようやく出てきた言葉がこれである。
「き……き、今日の、はずだったろう。例の防火壁の耐久テストの、……報告書の、提出日は……」
 心の動きそのまま語尾が次第にしおれていくのを自覚しつつ、やってしまった、とうなだれた。情けないにもほどがある。こんなわけもない望みすら伝えられず、代わりに口にできたものといえば、コイだのアイだのの甘さとはかけ離れた、やかましい上司の訓告である。せっかく想い叶ったというのに、何ひとつ変われていない。これでは愛想を尽かされるのも時間の問題だろう。自分自身に関してはもう既に尽き始めている――
 思考の迷路に落ち込んでいくアラートをよそに、そうだった、とインフェルノは軽い声音で相槌した。すっかり忘れていたと自白しているも同じであったが、もはやいつものように叱責をする気にはなれず、早めに出すようにと言い重ねるにとどめる。どこまで真剣に受け止めているのか、おうと笑って頷いた相棒がきびすを返し、向き合っていた機体が離れるのを見て、この場はもう無理だと諦めを胸に唱えた。次の機会があったとしても、今の心持ちのままではもはや成せると思いがたいが。
「行こうぜアラート」
「ああ、いや……」
 扉へと歩き出すインフェルノの呼びかけに、小さく首を振り返す。
「最後の点検をしてから行く。先に上がってくれ」
 本当はその作業も含めて全て終わっていたが、隣り立って歩くのに気後れを感じ、また、少し独りで頭を冷やしていたいとも思った。そうかと言って歩を進める機体の背を見送ることもせず、ぼんやりと前方の床を眺めていると、一度視界から外れていった脚の影が、ややあって再びそこへ現れた。
「……どうした?」
 足先がこちらへ向き直っているのに気付き、首を起こして訊ねる。がしゃがしゃと音立てて進み来た巨躯は、その広い歩幅を活かし、見る間にアラートの目の前まで立ち位置を戻した。きょとんとして見上げる顔に笑みが浮かび、短く、言う。
「忘れもん」
 何を、と問うより先に、頭の後ろに手が回ってくるのを感じた。ぐいと引き寄せられてかかとが上がり、背伸びの体勢になったかと認めた次の間には、既に唇が重なっていた。
 ついばむほどの一瞬で離れたやわらかな感触のあと、ぽん、と頭部を軽く叩かれる。後ろへ倒した首の角度もそのまま、ほうけて見つめるその口が静かに開き、
「あんま無理すんなよ。あれこれ考えすぎるとまたショートしちまうぜ?」
 嬉しいけどな、と続けて、ゆるく苦笑の弧を描いた。
 ぽふ、と首から上のパーツのどこかが湯気を噴いたのがわかった。やられてしまった。先の不審な挙動をしっかり気取られ、言い遂げられなかった望みをあやまたず与えられ、そのうえ気遣いまで寄せられてしまった。もはや情けないの域ではない。恥ずかしくてたまらない。上官の矜持など、初手から粉々に砕けてしまっていたようだ。
 声出せないまま口の開け閉めをくり返すアラートをなだめるように、一度、二度とまたやわらかく頭を撫で叩いてから、その大きな手とともに、体が離れていこうとする。咄嗟に腕を伸ばし、掴んだ。
「インフェルノっ……」
 半ば無意識の動作だった。呼びかけに足が止まり、どうした、と振り向いた顔を、ほとんど睨むに近い絞りの強さで見上げた。返る視線が少しひるみ、動揺をにじませたのがわかる。おそらく、何か間違ったか、怒らせることをしたか、と考えているのだろう。違う、と即座に否定したかったがまだ声は出ず、首を振り立てるも、それだけで意図が伝わるとは思えない。
 情けない。恥ずかしい。悔しい。ブレインは種々の感情の波形に翻弄されていたが、インフェルノの危惧する念はかけらもない。せめてその一事だけは教えたかった。願いを汲み、応えてくれた心へ、謝意を示したかった。嬉しいと、そうした優しさがたまらなく好きなのだと、伝えたかった。
 何を言えばいい、と必死に思考を巡らせる。全ては無理だ。高まる機熱制御に集中した演算装置に、長い言葉を整然と処理するだけの余力はない(端的に言えば「いっぱいいっぱい」というやつだ)。それでも、できる限り多くのことを伝えたい。
 目の前の大きな機体が再び離れてしまうまでの、わずかな猶予で考えに考え抜き、
「……も、」
 緩慢に、懸命に、告げる。
「……もう一回……」
 ――今度こそ本当に、自分の思考回路は駄目になってしまった――真剣にそう思った。慌てて口を閉じても、漏れ落ちた言葉を取り戻すことはできない。 
 これでは何も伝わらない。おかしくなってしまったと思われても仕方がない。言うに事欠いて、二度目の催促とは! 
 限界に達し始めた昇熱を冷まそうと、オプティックの端に水がにじみ出てくるのを感じた。その言葉が突然に降って湧いたものではなく、実際に己の中のどこかにあった願望だと知っていたからこそ、アラートは余計に恥じ入った。そうして、消えてしまいたい、とさえ半ば本気で思い決め、自省の念に沈み込むあまり、今この場で実際に起きていることに気付いていなかった。去りかける身を引き止めた手こそ、我なく落とした短かな言葉こそ、ほとんど全ての心を誤りなく語ったことに、気付いていなかった。
 ふらりと自分から離しかけた体を、今度は逆に相手の側から、強い力で掴み止められた。見上げる対の青がかつてないほどの煌めきを帯びて映り、いよいよ視覚機構にまで不具合が生じ始めたかと思った次の瞬間、覚えの感触が口に落とされた。え、と声なき声に開いた唇の間に、すかさず舌が滑り込んでくる。驚き引きかけた自分の舌を絡め取られ、伝う熱の高さのために、内部から融け出していくような錯覚が生まれた。
「んぅ、んっ……」
 身をよじり、機体のあいだに挟まれた腕でフロント部を押すが、びくともしない。やがていつの間にか腰へ回されていた手が背に上がり、一度離れたもう一方の手に両脚をすくい取られて、体が宙に持ち上がった。
「うわあぁっ」
 解放された口から上がった叫びに、色気ねぇなあ、とインフェルノが笑う。その胸の前に仰向けに寝た姿勢で抱き上げられていることに気付くまで、少しの時間を要した。
「な、何するんだっ」
「俺はな、自分にしちゃすげぇ真面目に耐えたと思うんだぜ」
 けどお前がそれじゃもう限界だ、と答えにならない答えを落とし、一人納得したように頷いている。
「イン……」
「なぁアラート」
 とにかく離せ、降ろしてくれ、と名を呼び命じかけたのを、低い声にさえぎられる。はたと上げた視線の先で、笑み浮かべた口が、子どもへ言い聞かせるかのごとく、ゆるやかに紡いだ。
「もういっぺん、したくねェか?」
 ごくはっきりとセンサーに捉えた言葉を、さすがに聞き違いと疑うことはしなかった。声音は朗笑混じりながらも揺らぎなく、冗談や冷やかしでもないようだった。つまり、と思考を導いたブレインが、また高熱に侵され始める。 
 どうにか咀嚼し処理したその意味のみに気を取られ、いささかばかり卑怯な言葉を渡されたことを、アラートは看破することができなかった。「したい」という望みでもなく、「していいか」という確認でもなく、「したくないか」という漠然とした、しかし解はただ二つきりの問いである。アラートはインフェルノが好きだった。インフェルノとするその行為も好きだった。一方であるはずがないのだから、もう一方を返すしかない。
「……した、い……」
 選ばれるべくして選んだ答えに、おし、と快活な笑いが返り、思わず見惚れる間にぐるりと視界が回って、倉庫の出口へと脚が進み始める。腕に抱えられたまま、さすがに慌てて問いを発した。
「ど、どこに行くんだ」
「俺の部屋。こんな埃っぽいとこでするのもナンだしな」
「けど、こんなの誰かに」
「この時間ならだいたい食堂だろ。気になるなら念のため注意しといてくれよ」
「あ、わ、わかった……」
 断言の調子で言われて、熟慮の余裕もなく頷き、センサーを働かせ始める。居室棟までの道に仲間たちの気配はなく、どうにか誰にも見られずに部屋までたどり着けそうだった。もちろん、降りて歩けば初めから警戒など不要なのだが、熱に浮かされたブレインではもはや正常な状況処理もかなわず、アラートは自分の言葉が相手へ喜色をもたらしたらしい事実をただ嬉しく噛み締めつつ、何よりの安堵をもたらす腕に包まれ、広い胸に身を預ける心地よさに酔っていた。
 舌が入ってきたのには驚いたが、気持ち悪くはなかった。むしろ――いや、ともかく、恋人同士は深いキスをするものだと言うし、おかしな行為ではないはずだ。そういえば、一日に三度するのは初めてのことかもしれない。三度目はどうなるだろう……?
 あえて場所を移す本当の意味にも思い至らず、その腕ゆえにかつてない混乱と不安の極みに立つ近い未来も知らずに、警戒線を引くのを忘れた保安員は甘い期待と慕情に心身を揺らしながら、二度目も相手からされてしまったせめてもの挽回にと、顔横の赤へそっと口付けを贈った。


完?
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