Over to You !



 軍属の保安部に入隊して救助員の称号を得たその時から今日に渡り、直属の上官からインフェルノが拝領した指導および注意、そして叱責は、まさしく枚挙に暇がない。保安部隊員の心得から始まり、警備システムの運用、警邏時の留意事項、報告書の礼法、言葉遣い、身辺の整理整頓に至るまで、事の大小を問わず、生真面目な保安部長は部下の言動のひとつひとつに細かく指示を与え、不備や不足があると思えばためらわず譴責した。初めはなんて口やかましいやつだと思ったもので、そんなうるさ型の上司に反発し抜けていった同輩連中も少なからずあった。
 幸いにもと言うべきか、インフェルノは昔からものを難しく、かつ長く引きずって考えるたちではなかったので、隅をつつくような指摘が一時はしゃくに障ったとしても、いつまでも気にかけて憤りを募らせ続けるようなことにはならなかったし、なるほどと思えば素直に聞き、疑問を抱けば鬱憤を溜め込む前にすぐ口を挟んで遠慮なく意見した。おかげで出会った当初から口論は絶えなかったが、並び過ごすうちに相手への理解も深まり、胸割って言葉を交わす信頼が築かれ、互いに正反対の性質は欠点を補い合う利も生んで、気付けば救助員インフェルノと保安員アラートの対照的な二名は、今やサイバトロンでも名の知れた一組となるに至っている。
 身に付いているといないとにかかわらず、アラートがインフェルノに教え込んできた(そしていまだに教え込もうと努力を続けている)あれこれのうちのひとつに、通信の作法がある。サイバトロニアンならば誰しも日常的に行う伝達行動だが、軍部で扱われるものともなれば付け加えて獲得すべき知識は様々に存在し、状況に応じた規格の使い分けや、暗号化、傍受妨害への対処といった専門的な運用について、一軍人として一救助員として、インフェルノも実地を通しながら学んだ。現場で頻繁に触れる事象はともかく、座学的な知識の飲み込みの早さについては決して褒められたものではなかったが、アラートは呆れを隠さずしかし倦んでさじを投げることもなく、意外なほどの根気の良さでインフェルノの修学に付き合った。うるさくて面倒なやつ、の評価が、次第にくそ真面目で世渡り下手なやつ、の評価に変わっていったのも、そうした付き合いを通してのものである。
 日々の努力(と数々の激しい議論)の甲斐あって技能の収得は進んだが、ほとんど最後まで残った苦手分野があった。苦手と言うよりも、単純な物忘れに近い。それは、音にすればごくごく短かなひとつの言葉だった。
オーバーどうぞ
 自分の言葉の終わりを示し、相手の発言を促す、通信時の決まり文句である。ではあるが、はるか旧時代であればいざ知らず、今もその当時も、ことに民間の救助部隊などではほとんど使われなくなっていた、いわば死語のようなものだ。なぜなら、それは自分の発言時に相手の発言が聞こえなくなる単信方式の通信のためにある決まりで、一般的な双方向通信では用いられないものだからだ。
 だが、傍受の回避や、単に特殊環境下で旧時代の遺物を使うことを余儀なくされるなどの様々な要因から、軍ではごくまれに偏方向通信を利用することがあった。そんな折、必ずと言っていいほど、インフェルノはその決まり文句を使うのを忘れるのだ。相手がほかの仲間であれば言ったというみなしで交信が続いてしまうのだが、厳格な上官は決してそれをおざなりに見過ごさなかった。
「――とまぁ、こっちの状況はこんなもんだ。どうします?」
『……』
「……アラート?」
『……』
「おい主任、聞こえてるか?」
『オーバー』
「え?」
『オーバー、はどうした』
 そんな具合である。毎度毎度同じやり取りになるので、そのうちにインフェルノは自ら「自分の忘れ癖は無視して発言してくれていい」と頼んだ。すると、アラートは予想外に強い険を表し、叱りつけてきたのだ。
「馬鹿を言うな。きちんと意味があって使っている言葉なんだぞ。相手の発言が終わる前に勝手に話し出して、もしも重要な伝達を聞き逃してしまったら、そしてそれにお互い気付かなかったらどうする?」
 万全の上に万全を期する、実に「らしい」言葉だった。相変わらず頭が固いな、と思いつつもその場はわかった済まなかったと謝罪し、しかし次が来ればやはり懲りなく文句を忘れ、注意を受ける。
 そんなことをくり返す日々のうちに、その事件は起きた。

 それは、サイバトロンの臨時基地から、ある辺境の消防支局へ向けて交信を行っていた時のことだった。電波の往来を阻害する磁気嵐が生じる地域のため、限られた時間に、例によって偏方向通信を用いてしか連絡のできない「特殊環境」であったが、相手はベテランの消防隊員で、やり取りは開始からごくスムーズに行われていた。全ての事項を時間内につつがなく確認し終え、やがて会話は形式的な締めの言葉にさしかかった。
『そちらの件は当方より追って連絡をします。オーバー』
「了解した。ほかに何か報告は? オーバー」
『いえ、特にありません。――』
 ここで少し間が空いた。相手側の送信ノイズが途切れて発話権を得たため、基地側の通信手が終了の合図を送る。
「では以上で交信を終わる。アウト」
 ぷつりと切れた通信に場の隊員たちが集中を解き、それぞれ口を開き始めようとするのをさえぎって、保安部長の硬い声が飛んだ。
「待て、何かおかしい。もう一度交信を」
「駄目です。新たに呼びかけるにはもう時間が……」
 何事かと通信手が後ろを見上げ、インフェルノを含む隊員たちの視線が一斉に集まる中、アラートの判断は早かった。
「おそらく非常事態だ。今向こうにはほかに人員がいない。至急救援を差し向ける」
 断言し、人選の目を隊員たちに向ける。一人が泡を食って訊ねた。
「ちょっと待ってくださいよ、何があったって言うんです?」
 場の全員の心の代弁だった。アラートは軽く頷き、微塵の揺らぎもない声で答えた。
「『オーバーどうぞ』の合図がなかった」
「は……?」
「彼はベテランの隊員だ。合図を忘れるなんてことはあり得ない。言えなかったということは、その時に何かがあったはずだ」
 まさか、とみな口には出さなかったが、おそらく思いは同じだったろう。ぽかんとして見つめる間にアラートはてきぱきと端末を取り出して地形図を表示し、最適なルートの解析を始める。
「行けるか」
「お、俺、あの磁気嵐の中を飛ぶのは……」
 端末を差し出された航空員がしり込みを見せ、アラートがその顔を一瞥して短く排気する。ひりりとした空気を感じ取ったインフェルノは、アラートの次の言葉をさえぎって一歩前へ進み出た。
「わかった。私が――」
「俺が行くぜ。あんたはこっから指示を出してくれ」
「インフェルノ」
 色なく張りつめさせていた表情がほんの少しゆるんだように見え、自分への期待と思えば、急な遠征のわずらわしさも多少はやわらいだ。隊のムードメーカーでもあったインフェルノが従う素振りを示したことで、他の隊員たちも半信半疑ながら協調の姿勢となり、確かに妙な間があった、と首をひねる通信員の呟きもそれを後押しして、結局、航空員が磁気嵐の直前までインフェルノを運び、そこから陸路を取って現場へ向かうことに決まった。
 慌ただしく基地を出て、救難航空機の内と外とで言葉を交わす。
「あのあたりを飛ぶと体中の計器が機嫌悪くなっちまうんだよなぁ」
「ま、そう腐んなよ。何もなかったらみんなで隊長におごってもらおうぜ」
「そりゃいい。あの渋っ面が真っ青になるぐらい呑みまくってやろう」
 難儀な道中の気を紛らわせようと冗談を飛ばし合っていたが、しかしそんな軽口が叩けていたのも、何度呼びかけても応答のない支局の扉を壊して中へ踏み入り、床に倒れ伏した隊員の姿を見るまでのことだった。

 経年劣化により不具合の生じていた体内の電圧調整機が、不意の強烈な磁気嵐で誤動作を起こしたのだという。迅速な救助で一命を取り留めた支局員からの報告が上がり、司令部から保安部へ正式な賞辞が贈られた頃には、アラートは特殊地域への人員配備条件を見直し、定期的な検診義務の規則を策定すべく、本部内を駆けずり回っていた。報償として求めたものは「上程した案の速やかな決裁」だった。
 この件についてアラートが掛け値のない喜色を表したのは、さらに何昼夜も先、ようやく機器交換が終わったと連絡してきた支局員を、インフェルノを伴って見舞った日のこととなる。彼がアラートが新人時代に世話になった知己の隊員であったことも、その時に初めて聞いた。


      ◇


「やあ、今日は本当にありがとう! 貯蔵庫に火が移った時はどうなることかと思ったよ」
 不意に足元から声が上がり、遠く過去に馳せていた意識が今へ呼び戻される。身をひねって見下ろせば、作業着姿の壮年の工員がにこやかな顔でこちらへ手を振っていた。インフェルノは地面に付いていた片膝を立て戻し、倣って笑みを向けながら応えた。
「よぅおやっさん。全員無事だったみたいだな。良かったぜ」
「いや君たちのおかげさ。無線機は使えそうかね?」
「今調整が済んだところだ。ちゃんと動くぜ」
 言って、一瞬前までの回想に陥った原因である、傍らの大型無線機(と言ってもインフェルノにとっては手に抱えられるほどのサイズの代物だが)を指差す。
「そうか、良かった。もう捨てる直前のものだったからね。なんだか廃材を押し付けたようで悪いんだが……」
「なァに。基地でばらしてまた有意義に使わせてもらうさ」
「そりゃ光栄なことだ」
 なんにでもしてやってくれ、と言うのに頷き、さらにふた言み言話してから帰還の旨を告げ、ビークルモードへとトランスフォームした。
「もう帰るのかい。ゆっくり休んでいってくれてもいいのに」
「そうしたいのは山々だが、基地で怖い上司が待ってるんでね。後の処理はあいつらに任せるから何かあったら言ってくれ。ああ、それと悪いが、その無線機を中に積んでくれないか?」
「いいとも」
 周りの工員たちの手も借りて無線を運転席へ横倒しに押し込み、中に備わった通信機に代える形で配線を頼む。ほどなくして回路から信号が渡り、正常に動作準備を始めたことをシステムに知らせた。
「それじゃ、俺はここで」
「サイバトロンの司令官に礼を伝えておいておくれ。それとお前さんの上司にも」
「もちろん」
 そのためにこいつを貰ったんだ、と笑いながらドアを閉めてエンジンをスタートさせ、焼けた外壁の始末をしている仲間へ、短く引き上げ合図のクラクションを送る。了解のジェスチャーが返るのを確かめてから、工場区画の出口へと向かい車体を滑らせた。
(街に入る頃には繋がりそうだな)
 二つのシートの上で無線機が小さく揺れ跳ねる音を聞きつつ、電波の受け手となるべき基地に待つ赤と白の機体、幾星霜を過ごし故郷を遠く離れた地に立った今もなお直属の上官である仲間の姿を、ブレインに思い浮かべる。
 譲り受けた地球製の無線機の側面には、同じく人の手で作られたカレンダーが貼られており、奇しくも今日は、あの忌まわしき消滅光線兵器が爆炎とともに短い寿命を終えてから、地球の暦でちょうど三月みつきとなる日だった。


      ◇


 例の事件のあとのアラートは、それはもういたく落ち込んでいた。
 司令官も、自分も、ほかの仲間たちも皆、回路の故障が原因であってアラート自身に非はないし、大事に至らなかったのだからそう気に病むことはない、お前が無事で良かったと伝え、アラートも感謝を述べてその言葉を受けていた。だがそれでもやはり、犯した離反行為を忘れ、悔恨と自責の念を全て捨て去ることは、すぐには難しいようだった。仲間たちのいる場では平素と変わらぬ様子でいたが、独りの姿をふと見やると、自省の意識に沈んで物言わず考え込む横顔があった。インフェルノとは逆に、もともと物事を引きずって捉えるたちなのだ。
 そんな上官のケア役を軍医から拝命したのは、事件から明けて三日後のことだった。
「そりゃ力になってやりてぇけど、気の利いた慰めなんて俺にはできんぜ」
 もっと頭が回って気遣いのできるやつのほうが、としり込みとともに言うと、ラチェットは呆れたように首を振り、
「子どもじゃあるまいし、誰が慰めてやれなんて頼んだね。ただ近くでしっかり見ていてやれと言ったんだ。お前さんは変な気は回さず普段通りにしていればいい。もし万が一何かあればすぐ私に報告する、それだけだ。結果のたらればはともかく、部下が持ち場を離れたのも今回の事件の一端ではあるのだからね。少しのあいだぐらいは大人しくして、そばについていてやりなさい」
 そう淡々と述べ切って、あとは議論尽きたとばかりに手元の資料へ向き戻ったきり、口を閉じてしまう。命令無視を指摘されては何も返せず、自身もやはり負い目に感じていたところはあったので、それ以上の抗弁は重ねずわかったと頷いた。その役目が嫌だなど思ったわけではない。ただ、自分がそばにいて一体なんの役に立つだろうかと、純粋な疑問と気後れを覚えただけだった。
 どうやらプロールあたりにも根回しがなされたようで、それからのインフェルノの予定はさり気なく、しかし徹底的にアラートと同じ任務、同じ現場に入るように組まれていた。必然的に外地出動の機会が減り、むずむずとして物足りない気分を感じはしたが、環境が一変したと言うほどではなかった。もともとアラートとは同じチームの所属なのだから、共同の任務が続いても妙な話ではなかったし、過去にはそれこそほぼ四六時中を共に過ごしていた(もしくは過ごさざるを得なかった)こともあった。
 数日のあいだは痛々しくてならなかった。時に無茶な作戦行動に陥りがちな(それは相手方が出自から異なる強大な軍事力を持つ以上、やむを得ないことでもあったが)サイバトロンの保安維持を誰よりも憂い、そのために日々尽力しているのに、未遂とは言え自身がそれをおびやかしてしまうなど、度しがたい失態と感じたに違いない。口数少なく、話しかけられてもよそへ気を取られがちでいた。人の話は集中して聞けと、昔そう言って何度も部下を叱ったのは彼のほうであったというのに。
 そんな相棒の様子を気にはかけながらも、インフェルノは特別そのために何かをするということもなく、常の態度、常のペースで過ごした。ラチェットの言葉に従ったと言うよりは、そうするほかになかったからだった。気遣うことも、逆に当たらず障らずでそっとしておくこともできなかった。それまでと同じように言葉をかけ、同じように並んで働き、同じように世話も焼かせた。何もしてやれないことが歯がゆく、せめて面倒をかけないようにと思っても、身に染みついた癖や習慣がたった数日で改まるものではない。
 そうして過ごす日々は、まだ自分たちが今よりもずっと「上官と部下」でいた頃、互いを測りながら、時に噛み合わない会話を重ね、差を知って理解を寄せ、距離を縮めていった往昔の日に、どこか似ていた。今ほどに近しく気安くはなかったから、いかに単純で物怖じしない自分と言っても、少しは間を考え、反応を観察しながら付き合っていた。今の距離のまま、今の関係の通りに振る舞いながらも、軍医の忠告通りに「見ている」ことを己の任務に加えたインフェルノは、結果として、その当時のように傍らの上官の様子を観ながら、あれこれと物思う時間を得ていた。

 そうやって時が経つうち、ふと、アラートの様子が変わり始めているのに気付いたのは、何日目のことだったろうか。
 五日前よりも三日前、三日前よりも昨日、そして昨日よりも今日、といった具合に、言葉が増え、表情が増え、仲間たちの集まる場にいる時間が増えた。何か不思議な心地だった。正確に言えばそれは「変わった」のではなく、戻るであるとか立ち直るであるとか、そうした言葉で語られるべきものであるはずだった。しかしその時のインフェルノには、それがいちいちに新鮮な、大きな変化であるように感じられたのだ。何も変わらず接しているにもかかわらず、そうした微細な変化やその時のアラート自身の様子が妙に目に留まり、気にかかった。
 なぜだろうかと、ある夜の食堂でサイバトロン相談役の雄たる副官と席が隣り合った時に、なんとはなしに訊ねかけてみた。マイスターはバイザーの奥のセンサー光を興深げに揺らし、静かな声で答えた。
「それは、実際に彼が変わっているからじゃないのかね。昔に戻ったような気分だと言うなら、無意識にその頃の彼と比べてしまっているのだろうさ」
 一理ある、と頷く。さらに言葉は続いた。
「そしてお前さん自身、今またその頃のように、彼と親しくなりたいと思い始めているからじゃあないかい」
「俺はあいつの相棒だぜ。昔はともかく今は親しいさ」
 即座に跳ね返すような、思いのほか強い声が出たことに自分でも驚いたが、マイスターは涼やかな表情を崩さぬまま、頷き笑っただけだった。
 それからまた数日が経ち、アラートと二人で街のパトロールを終え、基地へと帰還する直前のことだった。夕暮れの陽に染まった荒れ地に長く影を引き、いつものように赤と白の車体の後ろについて走っていると、不意に、アラートが沈黙を切って話しかけてきたのだ。
「――昨日」
「ん?」
「先日の事件のことを、司令官たちに謝罪してきた」
 え、と思わず間の抜けた声が出た。今更か、という意味ではなく、まだ続いていたのか、という思いからのものだ。
 揺らぎも気負いもない常の声音で、アラートは言葉を続ける。
「あのあとはすぐはばたばたとして取り紛れてしまったから、正式に始末書を出して、ついでに基地と武器庫の警備の見直し案もふたつ提出してきた」
「そうか」
 それはさぞ司令官を困らせたろう。とっくに許したつもりでいた部下が(おそらく長い)始末書を神妙に差し出してきて、おまけに速やかに目を通すべき(おそらくさらに長い)議案をふたつも渡されたのだから。
 気の毒にと苦笑しつつ、同時に愉快な気分が高まるのも感じた。
「いや、お前らしいぜ」
 それでこそサイバトロンの保安部長アラートだと笑う。確実な復調が感じられたことがただ嬉しかった。
「けどよ、それ、ほかのやつには言わんほうがいいぜ。また大げさなだとか司令官いじめんなだとか、あれこれからかわれるだろうからな」
 自分がこう口にしてしまっている時点で似たようなものだが、仲間たちだって気にしていないのだと改めて伝えたい思惑もあり、言った。もちろん言わないさ、とアラートが答え、さらに言葉を続ける。
「こんな情けないこと……お前にしか言えない」
 え、とまた先と同じ声が漏れたが、ちょうど基地の入り口に到着したので、一度会話が切れてしまった。ロボットモードに戻り、立ち止まったままの相棒の後ろ姿を見つめる。地面に落ちた影は自分のそれよりずっと短く、小柄な機体であるのだと改めて感じた。
 本当は、と、こちらに背を向けたままアラートが再び話し出す。
「お前にも、特に謝らなければいけなかったのに。……色々と、ひどいことを言ってしまった。ひどいことを、考えた」
「アラート」
「でもお前は、そうやって何も変わらずにいるから。いつもと同じように話して、いつもと同じに笑って、いつもと同じに、隣にいるから……ついそのままになってしまって」
 こちらの呼びかけに構わず言葉を続け、顔を少し俯かせる。さらに縮んでしまった影を見て、努めて明るい声を発してその自責を否定した。
「いいじゃねぇか。俺だって、そんな改まって色々言われたらどうしようかと思っちまうぜ。あれぐらいで今更どうこうって仲じゃないだろ?」
 言いながら、ああラチェットの忠告はこれだったのかと、ようやく気付いた。何か物思う出来事があって、それでもいつも通りでしかいられないというのは、やはり少し歯がゆいことだ。だが、変わってしまうこと、変わられてしまうことのほうが、よりつらい時もあるだろう。そのままでいてほしいと、そう願う相手もいるだろう。自分が今のアラートの立場だったとしたら、ほかの誰でもなく、この相棒に対してだけは、きっとそれを望んだはずだ。
「そう、か」
 ほんの少し背を伸ばし直した機体から、小さな相槌に続き、排気の音がこぼれる。それは自嘲混じりの笑いのように聞こえた。
「どうした?」
「……呆れたんだ」
「へ?」
「俺自身に。今、別に驚かなかったんだ。そう言われるだろうと思ってたんだな。自分から言い出しておいて、欲しい言葉を期待してたんだ。お前ならきっと、って……」
 いつからこんな、でも、と、独り言のように落ちる声に、言葉を差し挟むことができなかった。ただぼうとして暮れなずむ陽に照らされた背を見つめ、考えていた。千々に浮かび上がっては消える雑念がひとつの形にまとまる前に、くるりと、赤と白の機体が振り返った。
「インフェルノ」
「あ、ああ」
 思わずどもりながら応える。気にかける様子なく、アラートは続けた。
「お前はまた笑うかもしれないし、きっと、これもけじめが欲しいだけの甘えなんだろうが、言わせてほしい」
 口を一度閉じ、また開き、まっすぐにこちらを見上げて、言う。
「――ありがとう」
 声はしんと落ち、岩に跳ね返って響くこともなく、ただ幾重にも重なったその意味だけを強く場に残して、微風の中に消えた。目を見合わせた数瞬が、何倍もの時間に感じられた。
 あの日の炎の下で聞いたものと同じ言葉に、自分もまた同じ答えを返すことはできた。しかし結局インフェルノはそれを口にしなかった。仲間じゃないか、とただ笑って、夕陽の中にかいま見えた自分たちの繋がりを、穏やかなその言葉ひとつに押し込めてしまうのが、無性に心惜しかった。
「……おう」
 ごく短かな相槌に、それでもアラートは満足したように頷き、行こうと言って基地の入り口に向かい歩き始めた。
 背を追いながら考えた。「仲間」でなければなんだと言うのだ。友情でなければ、信頼でなければなんだと言うのだ。仕事のあとの余暇を輪の中で賑やかに過ごすこともなく、まっすぐ自室に帰って寝台にごろりと転がり、決して演算の速いとは言えないブレインをフル稼働させて、独り考え続けた。
 上官と部下、仲間、友人、親友、相棒。ひとつひとつ名を得てきた。そのどれもに満足している。否定したいものなど、変えたいものなど一つとてない。
 瞬間、
(彼と親しくなりたいと、思い始めているから――)
 禁欲的にも蠱惑的にも見えまた聞こえる、ひそやかな笑みと声とを思い出し、がばりと跳ね起きる。親しいさ、と記憶の中の言葉へ噛みつくように答え、しかしそれに重ねて答えたのも、また自分の声だった。
(そうだ、今だって親しいさ。それでも、もう一度、近付きたい。もう一歩、あいつのそばに行きたいんだ)
 相棒でなければ、友情でなければ、隣でもまだ、遠いと言うなら。
 子どもではない。いくら気付きの鈍い自分でも、目の前にそれだけ言葉が並べられればわかる。愕然と、呆然と、呟いた。
「……俺、アラートが好きなのか」
 口に出せば、それはあたかも何もかもの初めからそこにあり続けていたかのごとく、すとんとごく自然に胸の中に納まった。今度の事件がどうであるとか、そうしたことはあまり考えなかった。手にした杯に注ぎ続けていた甘い水が、いつしかあふれて足元を濡らし始めていたことに、立ち止まってようやく気付いた。それだけのことであるようだった。
(好きだ。あいつが好きだ)
(真面目で、融通が利かなくて、不器用で、ほっとけない)
(隣にいたい。もっと近付きたい。もっと特別でいたい)
 我が名を見出だした途端にその心は饒舌に語り始め、インフェルノ自身にさえ少し落ち着けと思わしめたほどだった。さて困ったと腕組みしながら、無性に愉快な心地でもいた。焦燥と高揚がない交ぜになって体を満たし、外へ飛び出してひと走りしてきたいような気分になったが、時刻を確かめると既に深夜であったので諦めた。早く目覚めて、朝一番に赤と白の小柄な姿を見たかった。
 友への背徳であるとか背信であるとか、そんな言葉をかけらも思い浮かべなかったというわけではない。だが、そのために覆すべき心ではないという思いのほうが、ずっと強かった。インフェルノは生来楽天家であり、誰かへ情を寄せる行為が呪わしいものであるはずがないと考えていた(無論、誰しもがそう捉えるわけではないと理解するだけの分別はあった)。何も確かめないまま一夜にして諦めることのほうが愚かしいと決め、明くる日が待ち遠しく、眠りに就いた。

 そこまでがおおよそ事件からひと月のことで、さらにそれからのひと月近くは、なかなかにおかしな日々だった。
 長い自問自答の翌朝、迷いなく相棒のもとに詣でてその顔を正面に見つめ、(早朝に部屋に突入された当の相手は得体の知れないものを見る目でいたが)やはりこの情動は勘違いや思い込みなどではないと改めて納得したのを皮切りに、インフェルノはより自覚的に相棒の隣に立ち、眺め、聞き、話した。ただ湧き出てはあふれて落ちるままにされていた長い時を終え、不意に形ある器を与えられた心は、その中で落ち着きを得るどころか、日ごとに膨らみ、熱を持っていくようだった。よくよく今まで気付かずにいたと、呆れを通り越して感心さえ覚えたものだ。
 自分の心持ちは定まった。さてこれからどうするかと、また頭巡らせ考える。
 インフェルノは特別多情なたちではなかったが、同様に特別堅い恋愛観を抱いていたわけでもなかったから、さほど深刻にならずにパートナーと呼べる存在を持ってきたし、まあ行きずりのレンアイなどをしてみたことも、一度や二度には収まらない。だがアラートは違うだろう。根っから真面目な気質だし、少なくとも自分が出会ってからは、特定の、にしろ、遊びの、にしろ、そうした相手がいる気配はなかった。きっと色事に対しても真面目なのだろう。誰かを想ったのなら、一途にその一人を愛するのだろう。そんな勝手な想像をして、その誰かになれたならどんなに素晴らしいことか、などと思って胸高ぶらせもした(考えが表に漏れ出ていたらしく、同時期に「浮かれている」「にやけている」「無駄に力がみなぎっていて暑苦しい」云々と口の悪い仲間たちから有難い言葉を頂戴しもしたが、幸いアラートには伝わっていなかったようなので、気にせずそのまま過ごした)(自分の名誉のために補足すれば、内勤が多かったのでその時は実際に力を持て余していたのだ)。
 ほとんど手の触れる距離に過ごしているのだから、告げる機会はいくらでもある。だが、これまでのようにひとつふたつの軽い言葉で、性急に進もうという気にはならなかった。ようやくその存在を言葉にして謳い始めた積年の情は、ぞんざいに扱われるのを拒み、そしてインフェルノ自身驚いたことに、想い叶わず散ってしまうのを恐れているようだった。それほどまでに胸に固く根を張って育ち、であるからこそ、在ることを逆に気付かせずにいたのかもしれなかった。
 焦燥と躊躇、高揚と自戒、日によって強さを変える想念を取り上げては放しながら、悩みと言うほど深刻ではない思いを抱いたまま過ごすあいだに、司令部のほうで事態良好の判断がなされたらしい。インフェルノのスケジュールが、再びさり気なく、事件以前のものへと戻され始めた。今度は必然的にアラートと別働の時間が増え、勝手ながらに少々惜しくも感じたものの、結果として、その変化がもうひとつの気付きを自分に、――自分たちに、もたらすこととなった。
 初めは、やけに目が合うな、と思い、それだけ彼を見てしまっているということだと自分に苦笑していたのみだったが、それが十を数える頃になって、ふと、ようやく、思い至った。自分がそうだということは、相手も同じなのではないか。互いに見ようと思わなければ、視線が合うはずがないのだから。
 つまり、と考え、いやまさか、と打ち消す。しかし目の合う数は減ることもなく、思い過ごしではないと確信した頃には、日々のやり取りの中にも妙なまごつきが現れるようになった。アラートはやけに気負ってインフェルノの名を呼び、自分も過剰に改まってそれに応えた。決して厭わしいわけではなく、しかしじっと身を浸しているには耐えがたい空気。思慮も二度目と来ては、さすがに一晩中ブレインを酷使する必要もない。かち合った視線を大げさに反らした赤と白の機体の、装甲の色に負けず劣らず頬染めた横顔をそのまま見ながら、ゆるやかに考え至った。ひょっとすると、自分たちの心の向かう先は、重なっているのではなかろうか?
 自意識過剰だと笑い飛ばそうにも、目がかち合えば言葉はつぼみ、声をかければ肩が揺れ、ぎくしゃくと居たたまれなさを感じつつ、互いに遠ざかろうとはしない。否定のたびのそのまた否定を幾度もくり返して、最後には、確かにそうらしいと頷くほかなくなった。一度近付き、またほんの少し開いた距離が、相手の目線を、声を、存在を、余計に色濃く意識させたのだ。自分に、そしてどうやら彼にまでも。
 このあたりで気の回る幾人かに何度か肩を叩かれ、声をかけられもしたらしいが、あまり憶えていない。駆け出しの新兵にでも戻ったかのごときぎこちない時間は、半月あまりの長さに及んだようだった。
 事件から三月。初めのひと月は自分の心に気付いて焦り、次のひと月は相手の想いに触れて戸惑い、少々の騒ぎが日常にもたらされた(当人間だけの問題に済んだと思っているが、耳目及んでいないところの実際は定かではない)。
 それからひと月、今日までの数十日は、打って変わって穏やかな日々が続いている。ようやく自然体に戻った理由は、ただ単純に慣れとしか言いようがなく、そこにあるものを知りながら、そろって見て見ぬ振りをしているのだった。急に落ち着いたのを見て取ってか、何があったのかと含み笑いで訊ねてきた仲間に正直に話すと、全く面白みがないとなぜだか叱られた。確かに奇妙と言えば奇妙な時間だったが、これもまた厭わしくは感ぜられず、どころか逆に愉しくもあって、ふわふわとした宙吊りの気分に身を漂わせている。
 いつから、と、岩山に差す夕陽の中、アラートが弱げに独りごちた言葉を、インフェルノも自身に問いかけてみたことがある。だがそれは、彼が続く答えを紡がず、自分もまた見出せなかったように、おそらく互いに愚問であるに違いなかった。
 彼が以前から知っていたのか、それとも自分と同じように、今度の付いて離れてをきっかけに気付き、発露させたのか、まだ訊いていないのでわからない。いずれにせよ、共に一朝一夕に抱えたものでないことは確かだった。事件の以前と以後とを比しても、それを自覚的にまなざしているかは別として、結局自分たちの繋がりは何ひとつ変わらなかったのだ。いや、真に正確な言葉を使うなら、それは遠い過去から今へ、そして未来へ渡り、今日も明日も連綿と変わり続けているのだ。


      ◇


 まだ記憶に新しい、地球の明け暮れにして百に満たない過日から戻り、右へ左へ、狭い倉庫の合間の道を小刻みにハンドル切って抜けながら、そのたび座席の上をずれては跳ねる無線機が語る、さらに遠い追想の声に耳を澄ませる。
 磁気嵐の寄せる辺境への緊急出動劇。それだけならば、保安部で人命救助の任に携わっていれば幾度かは経験するだろう単なる美談に終わっていた、あの無線通信にまつわる物語には、ある後日談が残っている。
 インフェルノと共に見舞いに訪れたアラートを支局員は笑顔で迎え、自分の命を救った英断に礼を述べた。まだ本調子ではないだろうからとすぐに辞去を申し出たアラートを引き止め、二、三の話を交わす。
「しかし、まさかあの磁気嵐が原因で倒れるなんて思いもしなかった」
「かなりまれな規模のものだったようではあるんですが、再発がないよう監視管理するつもりでいます」
 それがいい、と隊員が笑って頷く。親しげな様子を珍しく思いつつ、一歩下がった場所でやり取りを聞いていたインフェルノは、しかし次の言葉に思わず身を乗り出した。
「私の調整器はまだぎりぎりエラー音の出る世代のものだったからいいけどね、それより古いものは音すら出ないんだから、危なかったよ」
 ――エラー音だって?
 声にこそ出さなかったが、驚きの気配は伝わったようで、アラートがちらりとこちらを見やる。その横顔には戸惑いが浮かんでいた。すぐに視線は戻され、また何事もなく会話が続いたが、後のやり取りはほとんど聞いていなかった。
 部屋を出るが早いか説明を求めたインフェルノに、アラートは一度ためらいの間を挟み、ほかの皆には言わないように、と前置きしてから語った。
 実はあの時、アラートの鋭敏な聴音センサーは、相手の最後の言葉の後に鳴ったかすかなシステムエラー音を、しかと聞きつけていたのだ。アラートの提出した最終的な報告書にもそのことが緊急出動の理由として記載されており、支局員はそれを知っていたのだった。
「合図がないのを不審に思ったのも本当だが、部隊の体面上、そちらを主に記すわけにもいかないからな」
「だったら俺たちにもそう言ってくれりゃ良かったじゃねぇか」
「今度のことで通信作法の重要性がわかったろう? お前たちの怠慢に釘を刺せたんだから、あれで良かったんだ」
 ぴしゃりと言われ、反論できなかった。まさにそれをきっかけとして、部隊内の遵法意識が少し高まっていたからだ。あまり食い下がるとそのまま説教に流れていってしまいそうだったので、インフェルノは口をつぐみ、話はそれきりになった。
 あの時はまだ、上官の行動の裏に隠れた思いに気付かなかった。首ひねりつつもそんなものかと納得し、そこから先に踏み入ることをしなかった。己よりも経験のある、まして普段から規律規則にうるさい上官が、任務に私心を持ち込む可能性があるなどと、露ほどにも考えなかった。
 だが、今ならわかる。彼はただ、嫌だったのだ。また過敏になっている、どうせ気のせいだ、あなたの聞き違いだろうと、肩をすくめられ、苦笑を向けられるのが、ただただ嫌だったのだ。通信終了の合図がなかったのはインフェルノや他の面々にもわかった事実であり、一理あると思うこともできるが、エラー音に気付いたのはアラートだけだ。他人に知覚できないものをあると懸命に主張しても、理解を得るのは難しい。アラートは経験からそれを知っていた。声高になればなるほどその主張が哀れみを誘い、無理解が嘲弄に変わるのを、身に沁みて知っていたのだ。
 あの頃の自分がその真意を聞いたとして、全てを誤りなく理解し、汲み取ってやれたかどうか、それには少し自信がない。だが、今ならわかる。今ならば、そんな嘲りを吐く輩がいればその場で張り倒してやろうと決めている程度には、彼の苦悩を知っているつもりだし、そんな苦しみを誰にも打ち明けず、胸に抱え込んで独り必死に耐えようとしていたアラートを馬鹿だとも思うし、同じだけ、いやそれ以上に、いじらしくそして愛おしいとも思う。
 そうしてきっと今であれば、アラートは自ら仲間たちに、少なくとも最も近しい部下であり相棒である自分にだけは、初めから本当の理由を打ち明け、助勢を頼んでくれるのではないかと、そう思う。自分が己の変化を良き成長と感じているように、彼もまた、共に少しずつ変化を成し得てきたことを、幸いに感じてくれているといい。そう、強く思う。


 予想の通り、工場区画から街へと続く長い道路が尽きかけたところで、無線機と機体内のシステムのプロトコル調整が終わり、通信待機の状態になった。早速交信に入りかけ、はたと気付く。
「いけね。周波数がわからねぇんだ」
 サイバトロニアンにとっては旧式も旧式である地球製の機器は、何かと使用に手間が多い。仕方なしに、まず文章でやり取りをするべく短い電信を基地へ飛ばした。意識が分散してわき見運転のような状態になってしまうものの、一時停止するほどの用ではない。
『救助員よりサイバトロン基地へ。個体通信機構がやられたので無線通信で報告をしたい。地球製無線機用の周波数を教えてくれ』
 ややあって、基地からのメッセージが返る。
『了解。通信不具合については連絡を受けている。周波帯域の確認に少時かかる。待たれたし』
 硬い文面である。モニターの前でキーを叩いている相手に見当をつけ、場の繋ぎ代わりに再び言葉を投げた。
『アラートか? 指示助かったぜ。間に合って全員無事に避難できたし、結局空き倉庫ひとつ焼けただけで済んだ』
 また少しの間。場の作業を分担している様子はなく、指示系統を分けて独りで通信室に残っているらしい。あとの仲間はメインルームだろうか。返信が届く。
『工場からも連絡があった。素晴らしい働きだったと喜ばれて、司令官にもねぎらいの言葉を頂戴している。総員無事で何よりだ。通信機の故障はラチェットが快く診てくれるだろう。あとは無線で。以下に周波数を記す――』
 珍しく私見の混じる文章の端々に安堵と喜色がうかがわれて、こちらの気勢をも持ち上げる。普段であれば「メッセージを送る前にまず路肩へ寄せろ」と来ることだろう。だが、今日ばかりは仕方ないというものだ。真実、上首尾の働きだったのだ。火災発生の報が入るや迅速にルートを割り出し、各所へ連絡を取ばして確保した進路に一切の無駄なく人員を誘導したアラートと、その最小限の指示から事態を汲んで真っ先に現場へ駆けつけ、爆発の恐れのため人の手の出せない火災をほぼ一人で鎮めたインフェルノの仕事がなければ、明日からのニュースはコンビナート災害による甚大な被害の話で持ち切りであったろう。高熱で汎用の個体通信機に故障が生じてしまったが、インフェルノ自身はほぼ無傷であり、ごく些少な損害だ。
 現場は基地からそう離れていない地区であったものの、折悪しく別働案件があり、急行できる人員が遠隔地へ出払っていた。遠征部隊に入っていなかったとは言え、パトロール中のメンバーの中では至近の距離にいたわけではないインフェルノだったが、アラートは迷うことなく一番に現場へ着くよう指示を出した。その期待が嬉しく、彼の言葉に十二分に応えただろう自身の働きが誇らしかった。大災害に繋がりかねない事態に当たり、未然に防いだのは、例の事件の後では初めてのことで、それも欣喜の感に拍車をかけた。
 教えられた周波数に無線機のダイヤルを合わせ、浮き立つ心を抑えつつ、呼びかける。
「こちら救助員インフェルノ。サイバトロン基地、聞こえるか? もう伝わっているとは思うが、改めて状況を報告する。火災は全て鎮静完了、被害レベルは一。二次火災の可能性がないことを確認済み。現場の後処理と保全をグラップルとドラッグが引き続き担当している。救助員は基地帰還のため現在ルートAの第七地点を走行中、高熱により通信機構に傷害あり。帰還後は速やかに補修ののち、ホイルジャックに重耐熱の通信機開発を頼み込む予定。以上、何か追加指示はありますか? ……っとと、オーバー」
 発話権の移るノイズが渡り、聞き馴染んだ声が返った。
『こちらサイバトロン基地。通信状態は良好だ。報告、了解した。現場とは別途連絡を取り合っている。万事問題なく処理進行中。そのままのルートでまっすぐ帰還するように。……本当に、素晴らしい働きだった。帰ったらゆっくり休んでくれ。ホイルジャックは期待通りの物を作ってくれることと思う。一点だけ忠告する。報告は相手方の応答を確認してから開始すること』
 事務的な応答とその後のねぎらい、締めに注意と、実にアラートらしい言葉を受けて、笑いながら応えようとしたが、まだ基地側の送信が続いていた。ただし、と、古い無線機のスピーカーが静かに詠う。
『……珍しく、最後の合図は忘れなかったな。偉いぞ』
 ふふ、と落とした笑い混じりのやわらかな声を、本当に久々に聞いたように思った。ほとんど無意識のうちにアクセルを一段深く入れ、速度を上げた。もしできることなら非常灯を回し、サイレンを鳴らして、停止信号を走り抜けてしまいたかった。一瞬でも早く、モニターの前で穏やかに笑んでいるのだろう、赤と白の小柄な機体の姿が、唯一のパートナーの顔が、見たかった。
 合図とともにいつの間にか渡されていた発話権を、今一番の任務の舞台と受け取る。それは全くの衝動だった。いつか来ると思ってはいても、詩情にあふれた場所や言葉を用意するつもりはもとよりなかったが、離れた場所で始めるつもりも無論なかった。だがその瞬間、自分たちが共に過ごした時間と互いの手の中にある変化を語るような、古びた無線機越しの言葉を聞いた瞬間――そう、一瞬でも早く、今すぐにでも、どこか心地良い宙吊りの糸を切り、彼との繋がりに新しい名を加えたいと、心が強く叫び立てた。
「アラート、聞いてくれ」
 依頼の体で始めながら、舞台の幕紐はこちらに握ったまま、一度言葉を切り、ゆるやかに、はっきりと、続ける。
「俺は、お前が好きだ」
 無音が返る。送話状態を解いていないから当然のことだが、ブレインには電波の向こうに立つ上官が言葉に満たない声を発し、驚愕の表情とともに身を固める姿をやすやすと思い描くことができた。
「ずっと好きだった。多分。……いや、多分っていうのは面倒な話になるから、今は置いておく。ともかく、好きなんだ。嘘でも、冗談でもない。もちろん酔ってもいない。場の勢い……ってのは、少しはあるかもしれんが、この場限りの話だなんざ思っちゃいない」
 口にされそうな発言を先に否定し、示し得る限り真剣に、言い紡ぐ。
「俺はあんまり頭も良く回らねぇ、お前に説教されてばかりの向こう見ずだけどよ。これでも昔に比べりゃ少しは成長したと思ってるし、お前となら、これからも変わっていけると思ってる。……お前にも、そう思ってもらいたい」
 自分が彼に出会い、彼が自分に出会ったことは、確かに幸いであったのだと。これから先も幸いであり続けるのだと、確かな言葉で証したい。形を与え、名を付け、共に分け合いたい。
「お前の一番近くにいたいんだ。今だってそうだと信じちゃいるが、もっとずっと近くに」
 送信スイッチを入れたまま、一度言葉を置く。スピーカーは変わらず無音を奏でているが、アラートがその場を離れていないことは知っていた。離れられないことを知っていた。こちらに発話権がある以上、相手の声を遮る言葉を発することはできない。そして常に真面目な保安部長は、通信を切って場を放棄するようなことも絶対にしない。おそらくその優秀な聴音機構は、危険水域寸前の速度が出ていることも、結果、車両が既に街を抜けて荒れ地の上を走っていることも、全て聞き捉えているだろう。
 二枚、いや三枚は始末書を書かされるだろうな、と苦笑をこぼす。任務中の無用な行動、基地通信の私的利用、加えて交通規則違反だ。さすがにお目こぼしとは行くまい。
 それでも、きっと今回だけは多少なりと情状酌量がなされるだろうと、そのことも自分は知っていた。それは長年の付き合いに培われた理解であり、期待であり、特別な距離にあるからこそ許され得る、心地よい甘えだ。
「ここまで随分時間がかかちまったけどよ……気付いたからには、俺は逃げたり捨てたりなんざしねぇし、お前にもさせないぜ」
 突き出た岩山の前、砂塵を上げて急停止をかける。車体が濃い土ぼこりにまかれたが、もともと煤まみれだ。構いやしない。無線機を内部に納めたままトランスフォームし、言葉の代わりに聞かせるように、足音を抑えず歩いた。基地内部にまだ仲間たちの気配は薄く、影ひとつとすれ違うこともなく目的の部屋の前にたどり着く。
 立ち止まり、奇妙に凪いだ胸を伝う電気信号の一循環の間を置いて、最後にもう一度、と、無線機の受話装置に向けてくり返す。
「アラート、お前が好きだ。……以上だ」
 軽い音を立てて戸が滑り、狭い通信室の奥に立つ、赤と白の機体の姿が鮮やかに視界に飛び込む。彼は既にこちらを振り返っていた。呆然と胸の前に上げたままの手から、旧式の受声機が今にも抜け落ちそうに見えた。
 次の言葉は、自身の口と、壁際のスピーカーから同時に聞こえた。それは長い時の終わりを告げ、そして新たな始まりを迎えるための合図だった。
 ――さあ、どうか良きご返答を。愛しい上官どの。

オーバーどうぞ

 部屋を渡る声に一瞬遅れて、背後に扉の閉まる音と、前方で爪先が床を滑る音が聞こえる。よろめく足が三歩進むよりも早く自分が踏み出て手を伸ばし、前へ倒れかけた体を胸に抱きとめた。
 言葉は返らなかった。必死に口の開け閉めをくり返す腕の中の小さな機体は、声の出し方を忘れてしまったようだった。だが無音ではなかった。胸の前に握りしめた受声機にこぼれ落ちる水音が、何よりも饒舌な答えとして、ただぱたぱたと部屋に響いていた。
 口を開きかけ、やめる。まだ合図がない。どうせ始末書が待っているのだ。せっかく褒められた一事ぐらいは最後まで完遂して、このうえの失策の上塗りは避けるべきだろう。
(それに、合図があるまではこうしてても叱られないしな)
 一瞬でも長くこのぬくもりを腕に閉じ込めるままにしていようと、濡れた頬を指に包み、顎を上向かせて、まだ応答を紡げずにいる口を塞いでしまうべく、そっと自分の唇を重ねた。


Over and out !
NOVEL MENU