十七分間の恋人



「いんふぇるの……」
 舌足らずに名を呼ぶ声を可聴域の端に聞きつけ、インフェルノはグラスを持ち上げる手を止めた。センサーにもしかと波形を示さないようなかすかな音だが、どれほど酒席が騒がしく盛り上がっていたとしても、その声を聞き逃したことはない。
「よぉアラート。呑んでるか?」
 椅子に座ったまま半身を振り向け、横に立った赤と白の機体へ声をかける。ん、と頷いた小柄な上官、サイバトロン保安部長アラートは、酒の半分ほど残るグラスを両手に、「あの」「ええと」と変わらず小さな音量で意味のない言葉を漏らし、身をもぞつかせている。
 笑って自分のグラスを逆の手に持ち替え、
「ここ来るか?」
 軽く場を叩き示して問いかければ、床近くに視線を右往左往させていた顔がぱっと起き上がり、うん、と答えてこちらへ足を進める。後ろへ下げた椅子とテーブルの間に入った機体に手を伸べ、横向きに腰かけさせた。「ここ」――すなわち、自分の片膝の上に。
 ひゅう、と誰かが口笛を鳴らす音が届いたが、アラートはかすかにも反応を示さず、インフェルノの脚の上で腰の落ち着く位置を探すのに集中し、それが済むと満足げに胸へ寄りかかってくる。
 後ろから回した腕で背を支えてやり、語りかける。
「仕事は順調にいってるか?」
「あんまり」
「まぁ、だろうな。張り切るのはいいが、休みも取れよ」
「うん」
「お前がぶっ倒れちまったら意味ねぇんだからな」
「うん」
 素直に頷き応えるアラートのは宿る灯りをうつろに揺らがせており、しかとその機能を果たしているものやら定かでなかったが、視線はじっとこちらを見上げたまま離れていかない。ねぎらいの意を込めて背を数度やわらかく背を叩いてやると、口元がふわりとほころんだ。
 そうして、
「おまえは本当にいいやつだな……」
 しみじみとした口調で言う。
「いつもそうやって、おれなんかの心配してくれて……」
「実際心配なんだよ。いつも無理しやがるから」
「……おまえがそばにいてくれるから、頑張れる」
「そうか」
「強くて、明るくて、やさしくて、……おれの部下にはもったいない」
「んなことねぇよ。面倒だってしょっちゅうかけてるしな」
「でも」
「俺はお前が上司で良かったと思ってるぜ?」
「ほんとか?」
「ああ」
「……そうか」
 自嘲を否定し、きっぱりと言い切ってやれば、アラートは小さく相槌してようやく視線を下へ外し、肩の力を抜く仕草を見せた。手に包んだグラスを一口だけ傾けて、
「そうか……」
 同じ言葉を、今度は自分へ聞かせるように、ほつり呟く。
 インフェルノがその手から静かにグラスを抜き取ると、抵抗なく離れた指がそっとすがるように胸へ触れてきて、上から顔を寄せる。伝わる機熱の温度は高く、駆動の続いている時間の長さを自ずとしのばせた。
 そのまましばしのあいだ、時おり何かを確かめるように指が動き、控えめな動作で頬がすり寄せられるだけの間が流れ、やがて、二度目の名が呼ばれる。
「いんふぇるのー……」
「ん、なんだ?」
 促しの声を返すが、先へ続く言葉はなく、装甲を滑り始めた手が胸を離れて下へ垂れ、首がかくりと前へ倒れて、それきり、あとの動きを絶えた。
 顔の下で手を揺らして最後の確認をし、頷く。
「寝たな」
「地球時間九分ジャスト、今日も見事な正確さだ!」
 隣で呑むトレイルブレイカーが呵々と愉快げな笑いを立てたのを合図のようにして、周囲から向けられていた視線が三々五々散っていく。大半はなんだつまらん、と言いたげな空気をかもしており、我が軍の朋輩たちの物見高さは(日頃は己も右に同じく、ではあるが)相も変わらずだ。
 弛緩しきってなお重みに欠ける身体を前に抱え、椅子から立ち上がる。
「じゃ、部屋に放り込んでくる」
「よろしくー」
「起こさないようにな」
 おう、と請け合ったが、一度この状態に至ってしまえば、あとは容易に目を覚ますことはないと知っている。これは通常の眠りではなくエネルギーの過消耗その他がもたらす強制睡眠で、ここ半年に渡ってのアラートにおけるごく馴染みの事象となっていた。


 始まりについて、言葉ひとつひとつの詳細なやり取りまでは記憶していないが、その時に得た驚きの深さと周囲のどよめきぶりは憶えている。事自体の衝撃があまりに大きく、前後の細かな部分が塗りつぶされてしまった、と解説するのが正確なところだろうか。
 ひとつ確かに言えるのは、その日もアラートはいつ終わるとも知れない山積みの業務に忙殺されていて、有志の開いた酒宴になどかけらも興を寄せず、直前まで彼の城たる警備室にこもりきりだった、ということだ。
「よっと」
 プレイルームと私室棟はほぼ隣接しており、端近くに位置するアラートの部屋まででも、わざわざトランスフォームして乗せ直すほどの距離はない。寝入った機体を両腕に抱えて大股にゆっくりと歩き、勝手知ったる相棒の私室へ入って、寝台にその身を降ろすまではものの五分である。
 ここで一度、見下ろすアイセンサーに青の灯が戻る。
「いんふぇるの……?」
「おう」
 呼びかけに短く応える。静止安定を感知した機体が休眠モードを切り替えるまでの一時的な覚醒と知っているので、あれこれ新たに話し始めることはない。すぐにとろとろと色薄れさせていく青を見ながら、ゆっくり寝ろよ、と眠りを促す声をかける。
「うん……」
 かすかな頷きの仕草に引かれるように手を伸べ、幼い子どもにするように頭を撫でてやれば、また唇がやわらかく笑みの形を描いた。
 どうやら過労が続いた際に取る自己防衛的な行動らしい、と軍医の診断が下されたのは、確か三度目の同じ顛末のあとだった。初めはみな仰天しただけで終わり、二回目に妙だと思い始めて、三回の反復で、さすがにこれは何かの不良の表れでは、と結論したのだった。
 細部の違いはあれど、事のあらましはいつもおおよそ同一である。未処理の業務が溜まり、常に多忙な保安部長がさらにオーバーワークを極める。有志による宴会が開かれる(軍全体が慌ただしくならない限りこれは日常のものと言っていい)。この間にインフェルノがアラートの出席を誘っていればすげなく断られる。宴会当夜、場ができあがった頃合いに直前まで仕事をしていたアラートがふらりと訪れ、近くの仲間に捕まって呑まされる。深い酔いの気配を漂わせてインフェルノへ声をかけてくる。そばへ座り、取り留めなく話しかけてきて、不意に寝てしまう。そうしてインフェルノは場の仲間たちを代表し、部屋までその身を送り届ける。
 ほう、とひとつ呼気漏らし、眼下の機体はいよいよ本格的な休眠へ入ろうとしている。かろうじてうつつへ繋ぎ止められた意思で、呼ぶ。
「インフェルノ」
 ねだるような、誘うような、甘やかな音。インフェルノは胸に沸き立つ情に逆らわず、床に膝をつき、上体を前へ折って顔を近付け、酔いの赤み差す頬の上へ唇を寄せた。
「アラート」
 触れるや触れぬやというほどの口付けのあと、ひそやかに名を呼び返した時には、相手は既に夢の中にいる。
 これを半年続けている。


 初めの騒ぎの折、最も驚いた瞬間というのは、当日ではなくその翌日であったかもしれない。
「遅いぞ、インフェルノ」
 おそるおそるの心地で警備室を詣でると、しゃきりと目を覚ました相棒が、昨夜の酔いや幼びた言動や甘い情の気配を何ひとつ感じさせない風情、まるで前日の昼からずっとここで仕事をしていました、とでも言うかのごとき態度で業務に精を出していた。
「悪ぃ。ちょっとそこでプロールのやつに捕まっちまってよ」
「プロールの手間を取らせていた、の間違いじゃないのか。おおかた例の損壊の件だろう」
「当たり」
「まったく……備品は丁寧に扱えといつも言ってるだろ」
「だいぶガタが来てたから、俺がやらねぇでもそのうち壊れてたさ」
「屁理屈をこねるんじゃない。……とにかく持ち場についてくれ」
「へいへい」
 前夜のことで気まずい一幕があるどころか、朝一番から小言さえ頂戴し、今でこそこうして普段通り自然に会話もできるが、半年前はまさに開いた口がふさがらなかった。どうかしたのかと首傾げて問われ、お前がどうしたんだと声を大にして返して、さらに怪訝を深めさせたものだ。その後よくよく確かめてみると、アラートは自分が酒宴に顔を出したことすら憶えていなかった。
 地球の人間たちの中には、夢遊病、という名の病を得る者がまれにいるらしい。睡眠中に突然起きて歩き回るなど様々な行動を見せるが、当人はそのことを一切記憶していない。それに似た症例ではないか、とラチェットは語っていた。検査の限りでは特別な不具合は生じておらず、エネルギー切れと強制休眠の記録が残るのみだった。
 つまり、宴会場に現れた時点でアラートは精神的にはほぼ寝ているのだが、仕事をこなさなければという責任意識に加え、生来の警戒心と過敏な知覚能力が生む強制覚醒とも言うべき反作用のゆえに、機体そのものは休眠状態へ移行できていない。そこで自己防衛機構がどう働いたかと言えば、自制心の薄まる夢と酔いの勢いに任せて、仕事の荷を一度下ろし、警戒を解くことのできる環境へ我が身を置かせる、というだいぶん強引な処理を行ったのだった。
 その環境というのが、つまるところ、相棒たる自分の膝の上である。
「まあ、お前さんが嫌でないのなら、しばらくおとなしく場を提供してやることだな。もちろん私からも補給と休息を欠かさないようきつく言ってはおくがね。彼の性格でこの状況ではどこまで改善できるやら怪しい部分もある。一定期間様子を見て変わりないようなら、また方法を考えるとしよう」
 ラチェットはそう言ってインフェルノに相棒の世話を任せ、無用な刺激を与えないよう、「夢遊病」の件は当人にも周りにもあまり喋り立てないこと、と忠告を述べた。インフェルノも意義なくそれを了承した。事の始まりの頃から消防と基地防衛に関する業務が増えたことは重々承知していたし、できるなら仕事を減らすことで助けてやりたくはあったが、現在の要員数と組織体制では、アラートの業務を肩代わりしてやることが困難な面も多かった。
 そうして今日も、アラートはインフェルノの膝に乗っている。
「いんふぇるのー」
「ん?」
「きょうの任務のときの動きな、よかったぞ」
「そうか?」
「うん。すごく、格好よかった」
「ははっ。俺はいつも格好いいぜ?」
「そうだな」
「けどありゃお前の指揮も良かったんだ。助かったぜ」
「ほんとに?」
「ああ」
「……おまえは最高の相棒だ。いんふぇるの」
「最高の相棒同士、だろ?」
「……うん。そうだな」
 酔って『寝ている』時のアラートは、基本的に終始上機嫌でいる。時たまに仕事の愚痴をこぼすこともあったが、幼げな声で語られる言葉のほとんどは他愛ない日常の話か、ポジティブな賛辞のどちらかだ。特にインフェルノを肯定したがり、ひるがえって自分を許容したがる。そうすることによって根本から精神を安定させ、ためらいなく身体を休められる状況を作ろうとしているのだろう。ふわふわとした言動をインフェルノは一切撥ねつけず、自分もいちいちに肯定してやる。
 ただただやわらかく優しい言葉の応酬を周りで聞く仲間たちからは、センサーがかゆくなるだの、早く白黒付けろだの、ここでいちゃつくなさっさと部屋へ行けだのと、好きなように囃される。そんなんじゃない、と首を振れば、今度は「そんなん」でもないのにこの状況を受け入れられるなんて心が広すぎる、と指摘をされた。
(心が広いなんて、ンなわけあるかよ)
 システム切り替えの設定がその時間で切られているのだろう、またきっかり九分で寝付いたアラートを部屋へ運び、寝台へ横たえる。いつものように一度目覚め、こちらを仰いで安寧にやわらぐ顔を見下ろし、幸福感と罪悪感の入り混じる心地で、寝しなの最後の言葉を交わす。
「じゃあな、おやすみ」
「うん……」
 頷きが返るのを確かめても、足はすぐにその場を離れない。離れられない。インフェルノ、と呼ばわる甘い声音を予期し、――期待しているからだ。
 何をと望まれたわけでもなく、ただそう見え、そう聞こえるから、というだけの都合のいい解釈で、誰にも知られずこんな行為をしている自分の心が広いはずがないと、熱い頬から唇を離しながら、思う。
 そう見え、そう聞こえるのは、実際がそうであるからではない。この胸の奥底に居座る慕情のためだ。長年に渡り秘め続けてきた想いが、そんな形好ましい願望を前へ示してみせるのだ。
「アラート……」
 感込めて呼んでも、もはや声は届いていない。唯一無二の相棒は、この場が一切の危険なく安心なものだと信じきって、深い眠りに落ちている。
 ひょっとしたら、と考えたことは、これ以前にも幾度もある。彼とのあいだにかけがえのない親愛と絆を感じている。恋人同然と冷やかされるのも今に始まったことではない。本当に彼はお前が好きなのだなと言われる回数は、インフェルノのほうが多いだろう。ひょっとしたら。そんな期待は、この半年で強まるばかりだ。
 だが、
「――ああ、おはよう。インフェルノ」
 明けて翌朝、先晩の甘やかな空気を霧消させた声に呼ばれるたびに、期待も淡く薄れてしぼむ。確かな友情と信頼。こころよさと誇らしさはあれど、そこに独特の甘酸含んだ情は介在しない。
 膝で寝かせるまでの九分、部屋へ運ぶまでの五分、寝台に降ろし、名を呼ばれて、秘め事に至るまでの三分。
 紛いものながらに自分たちが恋人同然の関係であれるのは、たった十七分というほんの短い時間だけだ。


 デストロンの襲撃、人間たちのいざこざ、自然災害に大規模施設での事故。大小の事件が立て続けに起き、幸い本番のもろもろはいずれも大禍なくやり過ごしたものの、事後の処理でまたぞろ種々の細かな業務が忙しくなり始めた頃。本格的に忙しくならないうちにやっておこう、とわかったようなわからないようなことを誰ぞかが言い出して、騒ぎ好きの者たちにとっては久しぶりの宴会が開かれた。インフェルノは無論参加の側に手を挙げ、昼に声かけて誘った上官は「そんなもの出ている場合か」と予想通りの返事を寄こし、常と変わらぬ様相で宴は始まった。
 しばらく賑やかに呑み騒ぎ、場の空気がすっかりゆるみ始めた頃、横からこつんと腕を肘で突かれた。にやにやと笑うブロードキャストが親指で後ろを指してみせ、その肩越し、部屋の入り口から一歩の場所に、赤と白の機体の姿が見えた。
「来るかね?」
「さァな」
 実際、部屋に顔を出した時点でインフェルノが気付いていた時だけでも、そばへ寄って来なかったことは数回あった。あまり場が砕けておらず、あからさまな注目を向けられた時。逆に時間が遅くお開きになりかけていた時。またアラートを捕まえる仲間がなく、ほとんど呑まずにやり過ごした時。そうした日は、アラートは現れた瞬間と同じく、ふらりと前触れなく仕事場へ戻っていってしまう。
 いってしまうか、と思考を反復してしのび笑いを漏らした。自分は来てほしいと思っているのだろうか。きっとそうなのだろう。ほんの一瞬、たった十七分の刹那でもいい。彼と甘く優しい言葉を交わし合い、本当の恋人のように振る舞いたいのだ。
 今夜部屋の入り口付近で呑んでいたのはひときわ騒がしいメンバーで、今も何やらのゲームでしきりに盛り上がっていた。案の定、アラートもすぐに捕まり、早速グラスを持たされている。この状況を自分は幸いと捉えるのか? そう、きっとそうなのだろう。
 それからいくらも経たず、その時はやってきた。
 ぽてぽてと、ゆっくりした足取りが横へ近付き、呼ぶ。
「……インフェルノ」
 それへ応える意識が普段より少々強かったのは、いくつか原因がある。先にブロードキャストとの会話があったこと。アラートが呑まされるのが予想できたこと。半年というそれなりの長さ、それなりの回数による慣れ。そして、昼に軍医から聞いた、「そろそろ別の対処を考えたほうが良さそうだ」という言葉。
「よぉアラート、呑んでるか?」
 いつもと同じ言葉で笑いかけ、いつもより性急に手を伸ばした。椅子を引き、腰へ腕回して引き寄せ、背を支えつつ脚の上に座らせる。
 違和感はすぐにあった。常ならそこで、我が意を得た、とばかり身じろぎして落ち着く座り位置を探すアラートが、脚に腰を降ろした瞬間、かちり、氷のように固まったのだ。
「……ん?」
 どうかしたかと腕の中を見下ろし、はたと気付く。瞳灯が胡乱に揺れる代わりにちかちかと激しく瞬いている。口がぽかんと開いている。肩が最上級に跳ね上がった位置で停止している。
 アラートは、『寝て』いなかった。
「い、い、インフェ、ルノ?」
「えっ、あ……、あの、だな……」
 動揺しきった呼び声。なんとか答えよう、取り繕おうとしたが、上ずり方はこちらも大差なかった。ただ向き合いどもり合っているうちに、ひゅい、と口笛が飛んでくる。どうにか視線を上げれば、入り口付近に集まっていた一団がこちらを眺め、やんやと手を叩いてはしゃぎ立てていた。口笛の主は黄色のカウンタックで、その隣では赤のカウンタックが、下手なことをしたら土手ッ腹ぶち抜いてやる、と言わんばかりの剣呑な顔を浮かべている。
 やられた、と直感した。おそらくアラートは、この場にいる誰かに用があって訪れただけだったのだ。それが何かしらうまく丸め込まれて(自分を除けばアラートの操縦に長けているのは今見えた双子以外に考えられない)、ゲームにでも参加させられたのだろう。先ほどからしきりに罰がどうの、という言葉が聞こえていた。こうした遊びに慣れないアラートは当然のように負けて、インフェルノに何かを仕掛けろという指令を受けてきたに違いない。
 どうする、どうする、と、普段休ませがちな演算装置をフル稼働にして考える。最も角の立たない、しこりを残さないごまかし方はなんだろうか? 
 最善手が見出せないインフェルノを先んじて、アラートが次の反応を示した。驚倒から立ち直った様子のないまま、訥々と声を漏らす。
「え……、え? なんで……」
 アラート、とせめて呼びかけて話を聞かせようと思った次の間、思わぬ一語が聞こえた。
「これ……、え? 夢じゃ、なかっ、え……?」
 え、と続く音が重なり、見下ろす顔が、じわじわと赤くなる。アラートはグラスを手にしていたが、中身は半分ほどしか減っていない。まだ酔うまでには至っていないはずだ。その言葉は自覚的なものだ。
 夢だと思っていた? つまり、
「アラート、お前、憶えてたのか……?」
 問いを口にした途端に、ぽん、と湯気が上がった。顔を真っ赤に染め上げて声なき肯定を示した機体が、脚の上でかたかたと震え始める。動揺が限界に達してか、頭部の警戒センサーがぱちぱちと青く放電を始めた。
「い、い、インフェルノ、俺、その」
「お、落ち着け、アラート」
 それは自分に聞かせる言葉でもあった。胸が騒いで仕方がなかった。アラートは憶えていた。現実のものとは思っていなくとも、少なくとも一部のやり取りは記憶していた。ならば、今のこの態度は――
「う、うわ……うわああぁっ」
 望ましい、確かに望ましい思考に気が取られ、反応が遅れた。その手から滑り落ちたグラスを受け止めるためインフェルノが身をひねった一瞬に、相棒は脚の上から飛び降り、卓や椅子にがんがんと身を打ち当てながら、本来のポテンシャルを最大限に発揮したとおぼしき怒涛の勢いで、たちまち部屋を走り出ていってしまった。
「行け、色男!」
「行かいでか!」
 発破にひと声応え、消えた背を追って全速で駆け出す。車両の最高速では負けても、持久力ならこちらに分がある。簡単に逃しはしない。このまたとない機を、愛しい我がパートナーを。
 幾万年積み重ねた想いの全て、たった十七分で伝えられるわけがない。そうだろう、相棒?


「うわあああああああ」
「アラート、待て! 待てって!」
「無理、無理、やだ、やだぁっ」
「絶対悪いようにはならねぇから!」
「嫌われるううううう」
「ちょっと落ち着いて話を聞け!」


 かくて幕を上げたる深夜の消防車両カーチェイス。
 十七分の恋が晴れて延長となるや否やは、今はまだ天のみが知る。


end.

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