◇


 ゆっくり、ゆっくりと、インフェルノは目を覚ました。
 身構え、確かに受けたはずの衝撃の記憶はメモリに残っていたが、実際の負荷や損傷の記録が一切なく、痛みその他の信号もまるで感じられないことに、ブレイン内部の情報処理が若干の混乱をきたした。機体は壁にも床にも打ち当たった気配なく、座り込む姿勢にこそなっていたものの、倒れ伏すまでには至っていない。しかし、意識の断絶は感じられた。目前で熱と光の嵐を巻き起こした彩色の渦は忽然と姿を消していたが、消失の瞬間を見た記憶はなかった。
 困惑にぐらつく頭を振り立て、膝に乗り上がっていたライフルを取り、緩慢な動作で立ち上がる。リアクターの異状も治まっているように見え、一瞬前の変事が嘘のようにしんとひそやかに沈み込んだ空気のなか、あてなく一歩足を進めるのとほぼ同時に、ひゅうと風の動くかすかな音が届いた。瞬間、思考にたれこめた霧がようやく晴れ、敵機との対峙の記憶がはっきりと取り戻される。素早く音の方向に身をひねって振り向けば、壁と装置の隙間に小さな影が吸い込まれるように消えていくのが見えた。
 奇妙な心地はまだ絶えなかったが、今はあれこれ首をひねって考えている暇はない、と消えていった影を追って駆け出す。突き当たった倉庫の最奥の壁を辿り、どこかに侵入路があるはずだと周囲を注意深く見回しながら進んでいくと、予想の通り、床の一角に張られた網格子に、ぽっかりと穴が開いているのが見つかった。反応炉の陰に隠れて目立たないが、小柄なサイバトロニアンであれば、まして先のようなアニマルタイプの小型機であれば、やすやすと通り抜けられるほどの代物だ。
「地下から来やがったのかよ、あのトリ」
 いくら人の出入りの少ない施設とは言っても、大胆な潜入をしてくるものだ。どうやら企ては(その中身がなんであったのかは今ひとつわからずも)未然に防げたようだが、首尾よく損傷を与えたことでもあるし、もしあたりに潜んだままでいるなら拿捕まで漕ぎつけてしまいたい。
 そんなことを考えながら下を覗き込もうと網に手をかけた途端、穴のふちがぼろりと崩れ落ち、重さを乗せかけた体を慌てて後ろへ引いた。熱線で焼き落とされたからか、格子床の全体がもろくなっているらしい。銃床で強く叩いてやると見る間に穴は広がり、インフェルノでもどうにかくぐり抜けられそうな大きさにまでなった。
「っし」
 ひとつ気を入れ、一度ふちに腰かけるようにしてから下へ降りる。階段状に深くなって奥へと続く道は、おそらく建設当時の配管や各種の機器の設置のために使われた通用路であったのだろう。今でも急事のメンテナンスのために残されているということなのだろうが、網で蓋をして存在をほとんど忘れ去られたうえ、敵の侵入に利用されてはどうしようもない。
 角を曲がるたびにライフルを構えたが、動く者の気配はなかった。一定の間を置いて明かりを漏れ入らせていた頭上の格子も少なくなり始め、遂に行き止まりにぶつかった。途中の壁にいくつか細い金属管が繋がっていたので、相手の機動性や変形態によってはそこから逃げおおせられている可能性もある。
 これ以上は探しても無意味か、と諦めて元来た道にきびすを返し、歩を進めかけた、その時。
「――君の部隊はよく物を壊すな。レッドアラート保安員」
 センサーがかすかに捉えた音の中に馴染みの名を聞き、インフェルノは足を止めた。はたと声の方向を見やれば、崩れた横壁の中腹から細く光が漏れ落ちている。続く声もそこから聞こえた。
「君の部隊と言うか、君の部隊の一部の者と言うか……これまでのところはさておき、今日の物損はさすがに始末書ひとつで看過はできないものだ。改めて言われずともわかっていることだろうが」
「はい。理解しています」
 何か金属管を通って増幅されてでもいるのか、反響の強い音だったが、応える声は確かに我が上官のものだった。とすると、どうやらこの壁の向こうは、地階に入っているミーティングルームか何からしい。そしてそこで開かれている席は、取りも直さず――
「ところでタンクを撃った当人は、同席させなくていいのかね」
「ええ。別室で待機させています。新兵ですし、このような場にはふさわしくないので」
 直接の名こそ出なかったが、自分を指して交わされた言葉であることはすぐにわかった。アラートは沙汰を仰いでくると言って部屋を出た。これは、今日の消火活動中にインフェルノが取った、例の独断行動に対する問責の場だ。
 アラートの話している、と言うより、アラートに話しかけている相手は、司令部のうちの一人だろう。総司令官コンボイの側近の幾人かなら何度か姿を見ているし、声も聞いたことがあるが、彼らではないらしい。だが口ぶりから察するに、アラートよりよほど地位は上と見える。小部屋の奥の机に見知らぬ司令部員が座り、それと向き合う部屋の中央に、いつものようにぴしりと背を伸ばして、赤と白の機体が一人立っている、そんな画がブレインの内に浮かぶ。
 ここで今回の処分が決定するのかと知ってしまえば、気にせず立ち去るということもできず、駆動を静め、壁に背を付けてじっとセンサーを澄ませる。聞こえてくる言葉は、どれも予想を超えるものだった。
「まだ詳しい追跡結果は出ていないが、知っての通り、第一級の軍事機密が保存されたバンクだ。データの損失や漏洩が生じていた場合に想定される損害は甚大な規模のものになる。処分も相応に下る。裁定の前に、本件に関して質疑と申し開きがあればここで受けよう。レッドアラート保安員」
「……今回の過失それ自体について、特別の申し開きはありません。処分は、どのように見られていますか」
 問いのあと、少しの間があり、
「少しでもデータが損なわれていれば、通常、軍属資格の剥奪は免れないだろう」
 返された答えに、え、と声漏らしかけるのをどうにかこらえた。軍兵に与えられる処罰としてはほぼ最大のものと言っていい。それほどの重要設備だったのかと、今さらでしかない驚愕と納得を得る。
「本当に、申し開きはないのかね」
 一応の確認を述べながら、冷ややかな声音はその行為が意味を成さないことをありありと語っていた。そもそも、アラートがそれをするはずもない。日頃から誰よりも軍規に厳しく、違反行為を許さない性格の上官が、ただでも気の合わない部下の代弁をするとは思えない。実際、ここに来る前の部屋で口論になった際にも、「伝えられない」とはっきり言っていた。おそらく、インフェルノを部屋に残したのも、こうした場でがあがあと上にうるさく刃向われては困ると思ったからだろう。
(……これであの渋っ面ともおさらばってわけか)
 そう考えた瞬間、胸の奥でちりつく何かを感じて首傾げたが、理由を思い巡らす前に聞こえた声が、小さな疑問を上から塗りつぶした。
「過失に関して釈明はありません。代わりに、酌量減軽の上申をいたします」
 今度は声の衝動さえ湧かなかった。何を言ったのかと、一度では呑み下せなかった言葉を反復再生して判じる間に、壁向こうの会話は進んでいく。
「……何をもって酌量とする?」
「重要機密設備の内部にあって、確かに軽率な行動でした。それに弁解の余地はありません。しかし、部下には重要設備であることだけは事前に伝えていましたが、具体的に何が存在する施設であるかということは、教えていませんでした」
「軍属とは言え、君たちは本部付きの兵ではない。それも機密漏洩防止のための当然の措置かと思うがね」
「そう思って決定しましたが、やはり施設を損なう可能性がある以上は、伝えておくべきでした。これは上官である私の判断ミスです」
 一切の揺らぎのない声は、その言葉が形式上のものではなく、本心からの――少なくとも、本心であると相手へ思わせようとしている言葉であることを、はっきりと語っている。そうしてなお、続く。
「タンクを撃てば、重要施設に損害を与えるかもしれない。機密データが損なわれれば、軍の活動に多大な影響を及ぼすかもしれない。それは今後の戦いに大いに関わるかもしれない。全て否定できません。軍の一兵士として、犯してはならない過失です」
 きっぱりと断じ、しかし、とアラートは語った。
「それらは全て可能性です。憂いに繋がる予測があるならば、でき得る限りに排除すべきという思想に私は賛成です。しかし、あの場にはより大きな、限りなく事実に近い予測がありました。あの瞬間タンクを撃ち抜いて、剥離した壁を弾き飛ばさなければ、その下にいた幾人もの同胞たちが傷付き、命さえ損なわれかねなかったという事実がありました」
 私たちは兵であるとともに、命を護り助くるという使命を掲げる保安部の消防隊員です。凛と、声が響く。
「軽率な行動でした。しかしそれは、保安部員としての使命と志から生まれた行いです。この行いを根から全て否定することは、保安部の志を否定することと同じです。私はそれに異議を申し立てます。また、そうした物損優先の思想のままに処分が下れば、彼は腐って今後の活動の意欲を失くすでしょう。……前途有望な救助員です。今このような事情で優秀な人員を失うことは、サイバトロンにとって大いなる損失であると考えます。監督者の重処分を代えとして、酌量を上申いたします」
 理路整然と論ぜられる言葉の中に、確かな熱が宿っている。それはただの嘆願ではなく、彼の理念と信念の宣言だった。
 今度こそ、思い違いではない。胸の奥底でじりじりとスパークが痛む。初めて知るもののはずであるのに、無性に覚えのあるように思える痛みは、安堵や喜色を表すものなどではなかった。渦巻く念は嘆きに近く、またそれ以上に憤りに近かった。全てを自分独りで終えようとする彼と、彼の持つ表裏一対の心にうすうす気付きながらも、なお見えるものだけを見、聞こえるものだけを聞いて、のうのうとそれに甘んじていた自分への、強い怒りの念だった。
「……始末書なんて、ここに来てから二、三枚しか出してねぇぜ」
 漏れ出る声を抑えられず、呟く。部下の過失の咎めを上官が共に負うのは当然のことだ。だが、日頃アラートが部下への処分と叱責だけを唱えてほかに何も口にしないために、そんな当然のことをすら忘れていたのだ。
 一体これまでいくつの責が、上官独りの胸に収められ、誰にも知られぬまま果たされて消えたのだろう。代筆された始末書の数は、隊全体で何枚になるのだろう。
 寛容だなどとは思えない。それはアラートが部下を助けようと思ってしたことではなく、部下を己の助けにすまいと思ってしたことだ。親切の表れではなく、信頼のなさの表れだ。
(でも俺は、あんたの助けになりたいんだよ)
 だって、同じだ。気が合わない、言動は正反対、生き方も考え方もまるで違う。それでも、自分たちの心は同じ道にある。同じ信念を抱き、同じ志へ向かって、歩いている。
 気付いていた、知っていたはずだった。しかし彼の言葉の裏にあるものを汲むことができず、裏切られたと感じて湧き上がった一時の情をぶつけ、何かを語らぬままにした背を呼び止めもせずに、去らせてしまった。
 ――軽はずみな言動が、重大な損失を生むこともある。
 置き残された言葉が指すものを、インフェルノは今回の件で壊れた記録設備のことだと思っていた。だが、違った。アラートが語った損失とは、インフェルノ自身を指す言葉であったのだ。
 手の底で胸を押さえ付け、気を吐いて痛みこらえる背の向こうで、あくまでも冷静な司令部員の声が場に鳴り落ちる。
「言い分は了解した。無論、聞き届けられるかどうかの返事はここではできない。……だが、まず無理だと言えることが一点ある。事が事だけに、相応の処分が課されなければ今後への戒めとならず、軍の統制自体が揺れてしまう。今回の場合、君の処分を重くし、代わりに部下へ酌量を図ることは不可能だ。なぜなら、我々は君の軍属を解くことができない。あらゆる意味において、我が軍は君の[[rb:能力 > ちから]]を外へ放出させることができない。これこそ言わずもがなのこととは思うが」
「……はい」
 理解しています、とアラートは先と同じ言葉で応えたが、この場で初めて、発する声に揺れが生じたように聞こえた。
 それきり部屋に落ちた沈黙の気配が、反射のように胸の内の声を高め、心を多弁にさせる。あらゆる言葉と感情が混ざり、逆巻き、ふとした弾みに全て外へと放たれてしまいそうだった。そうした直情的な行動を危ぶんでアラートは自分を部屋へ残したのだろうが、偶然の立ち聞きとは言え、知ってしまったなら、もはやその気遣いに甘んじてはいられない。
 駆け戻って廊下から飛び込む時間さえ惜しく、壁を打ち破る手段を真剣に考える。まずは振り向き身を構えよう、と決めて動き出す一瞬前に、センサーが新たな声を聞き止めた。
「はい、そこまで。……と言って入ろうと思ってたんだが、どうやらもう質疑の時間は終わっているね」
「副官」
 呼ばれた役職はもちろんのこと、その涼やかな声にも聞き覚えがあった。サイバトロン総司令コンボイの片腕、副官マイスターだ。司令部まで上がった事案なのだから関わっていても当然だが、軍トップに近い者が現れたのにはさすがに驚いた。それは部屋の中の者にとっても同様であったらしく、いかがなさいましたか、とやや慌てた声で訊ねている。
「いや、例の件のデータ追跡の結果が出たから伝えに来たんだよ。結論から言えばセーフってとこだ。ほぼ全ての情報がサブライブラリのほうにミラーリングできていたし、漏洩の形跡もない」
 まずはひと安心かな、と告げられた言葉に落ちた安堵の排気の音は、自分のものより、壁向こうから伝わる上官のもののほうが大きく聞こえた。
「さて、それで今回の処分なんだがね」
 余韻を噛む間も与えず、マイスターはすらすらと言葉を先に進める。
「まあ気付いていただろうけど、ここでの会話は裏でも聞いていた。こちらも意見は割れたんだが、アラートが言うことにも一理あるということで……あいだを取って、当事者とその上官の謹慎処分でいいんじゃないかと提案したら、通ったよ」
「そうですか、謹慎……え?」
 一度相槌した司令部員の声が途中で疑問符そのものに変わる。アラートは何も言わなかったが、おそらくは同じ反応であったに違いない。自分でさえが聞き違いを疑ったのだ。
「それはあの……全くあいだを取っていないような……」
「議論の途中でデータ損失なし、の報告が上がって来たものだから、司令官が『じゃあもう処分無しでいいじゃないか』と言い出す前に慌てて提案したのでね。何しろ終わり善ければすべて善しの気質のお人だから」
 プロールと見事に発言が被ったよ、と笑って語る言葉は、どうやら嘘でも冗談でもないようだった。
「さすがに処分無しでは示しがつかないから、まあ実際妥当なところじゃないかと思う。そう気軽に除籍処分なんてできるほど、我が軍の懐事情は芳しからずだからね。今は小康の時代にあっても、またいずれ必ず戦いは激しさを増す。そんな時にこそ、保安部隊の手は間違いなく必要になる。それはみんなわかっていることさ」
「……ありがとうございます、マイスター副官」
 礼を述べるアラートに、まあだからと言ってあまり施設のほうを壊されても困るんだが、とやんわり釘を刺してから、マイスターは続けて言った。
「今回は運が良かったけれども、次はどうなるかわからない。それにアラート、この件にかかわらず、君はもう幾度か部下を処分しているし、自ら去られてもいる。あまりいい状態とは言えないな」
 はい、とアラートが小さく応える。
「新しく入った救助員の彼のことは一定に評価しているようだが、いい関係を築けると思うかい」
 問いに、一瞬の間。
「……わかりません」
 でも、と置いて、はっきりと、言う。
「私は、そうなりたいと思っています」
 インフェルノは今度こそ衝動に抗いかねて振り向き、目には映らない上官の姿を呆然と見つめた。壁越しに届く静かな言葉が、ほかの全ての声と情を身の内から消し去り、胸の奥で騒ぐ痛みが絶え、ぼやりと灯る熱だけが残る。
 そうかとマイスターは短く相槌し、追って正式な令達があることを告げて、場の解散を促した。そうして最後に、ああそれと、付け加える。
「アラート、お前さんはどうもひとつのことに集中すると、ほかに注意が行き渡らなくなる癖があるようだね。早めに直したほうがいいな」
 私よりずっとセンサーがいいはずなのにねぇ、あ、今度昔の通用路の総点検をしないと、とこぼれる笑いを聞き、インフェルノは慌てて壁から後ずさって離れた。どうやらマイスターに存在を気付かれている。なぜかこちらに手を貸してくれるつもりらしく、はぁ、と不思議げな返事をするアラートを別の話題で引き止めているので、この隙に部屋まで戻らなければならない。まだ直接会話したことはない副官へ内心で感謝を唱えつつ、ひとつ角を曲がってからすぐにトランスフォームし、出せる限りの全速で狭い地下通用路を走り抜けた。


 床下から抜け出して庫内に変化がないのを手早く確かめ、途中で敵機の落とした装置を拾ってリアクター庫を出ると、半ば存在を忘れていた本部の兵たちに取り巻かれた。侵入者を追い払ったこと、リアクターに異常が生じている可能性があり調査が必要だということだけを簡単に説明し、技術部員の手に装置を押し付けるように渡す。詳細はまた報告するから、その他の処置は副官にでも訊いてくれ、と言い残して首傾げられるのに構わず、さっさと場を後にした。本部棟に飛び込んで廊下を駆けるように進み、誰もいない空室に戻って、やれ間に合ったと胸をなで下ろす。奇妙に、長い時間が過ぎたような気がした。
 それからアラートが戻るまでにはさほどの間もなかったが、無性に気が焦って少しの時間さえ腰を落ち着けていられず、インフェルノは整理のつかない心そのまま、部屋の中を無軌道に歩き回っていた。そうして、いざ戸が開いて入ってきた相手の顔を正面に見た時には、ブレインを経巡っていた言葉が残らず消えて、間抜けに開けた口からはひとつの音も出てこなかった。
「……おとなしくしていたか?」
 一瞬訝しげにしてから訊ねてくるのに、無言の首肯を返す。遠からず嘘はばれるだろうが、今この瞬間に長々と行動の弁解をする気にはなれない。
 アラートは常と全く変わりない顔、変わりない声で、司令部からの沙汰があった、とすぐに本題へ入った。思わず身構えたこちらの態度は、神妙に聞く姿勢とだけ受け止めてくれたろうか。
「本来なら相応の重罰となるところだが、幸いデータバンク内の情報の損失はなく、今回は特別の措置ということで、明日から十日間の謹慎処分と決定した。無論、その間は減給となる。重々身をつましくしていること。それと、裁定にあたってマイスター副官が取り成しをしてくださったそうだから、感謝するように」
 淡々と語られる言葉に偽りはなかった。しかしやはり、事の全てを表にするものではなかった。
 俺が本当に一番に感謝すべきなのは、副官じゃなくてあんたなんじゃないのか――喉元まで込み上げた言葉をどうにか奥へ呑み下す。立ち聞きが知られること自体を厭いはしない。しかし、そこへ踏み込むだけの分は、まだ自分にはない。
 だから、今はせめて、これだけでも。
「わかった。……その、主任」
 決意して口を開いたにもかかわらず、送り出される声は重かった。我が身を叱咤し、紡ぐ。
「面倒かけて、悪かった。本部に出張ってると、部下ひとり叱るにも気ぃ遣わなきゃならねぇんだよな」
 驚きの表情を返され、苦笑が漏れる。こんな軽い謝罪でも意外に思われるほどに、今の自分たちは遠い。
「いきなり、どうした」
「いや、さっきのはさすがに、態度が悪すぎたと思ってよ……俺が軍の重要なもんをぶっ壊したのは確かだし、それをあんたが勝手に褒めたりできるわけはねぇよな」
 含みを持たせて言うと、アラートは明らかな戸惑いの表情を浮かべた。わかったなら次からは気を付けるように、などといったお決まりの説教でそれをごまかされてしまう前に、さらに続ける。
「勝手に動いたことに関しちゃ、謝る。けどよ、主任。俺はあんたに訊きたいんだ」
 ここからの言葉は、おそらく反則のようなものだ。だが、知ってしまった真実を、無きものとして打ち棄ててしまうことはもはやできない。聞くはずではなかったことを聞いた。秘められていた心を覗いた。それはただのきっかけだ。ほんの些細な、しかし大きな変化へと繋がり得る、未来への糸の一端だ。掴むかどうか、変えるかどうかは、己次第だ。
「説教はサイバトロン軍のあんたから聞いたよ。だから今度は、保安部のアラート主任に訊きたい。……俺の行動は、全部間違ってたと思うか?」
 青の灯が明らかに揺らいだ。今度は無闇に意見を重ねず、じっと答えを求めて待つ。逃さず、見つめる。困惑に光震わせるその瞳の淡色を、ひどく場違いに、うつくしく思った。
「私は」
 幾度か開け閉めのくり返された唇が、ゆっくりと動き、言葉を刻む。
「全てが間違っていたとは思わない。あの時、……私もタンクを撃とうと考えていた」
 思いがけない答えに、今度はこちらが驚かされる番だった。アラートはひとつ頷きを示し、あとは心決めたようにはっきりとした声で続けた。
「気密タンクは三つ並んでいたろう。お前は一番下を撃ち抜いていたと思うが、残量から言って、一番上を撃てば、施設に損害を与えることなく、落ちた壁を弾き飛ばせていたはずだ」
「嘘だろ……?」
 呟きながらも思い出す。あの瞬間、インフェルノの次に動いていたのはアラートだった。何が起こるのか想像できていたかのように、ほぼ一瞬の間で突然の爆破の衝撃から立ち直り、号令を発していた。
 そこまで予測できていながらなぜ、と見つめる視線の意味が伝わったのだろう、少し顔を俯かせたアラートの口から、
「……射撃に、自信がなかったんだ」
 さらに意想外の言葉が場に落ち、え、と思わず反問の声を漏らした。
「あの距離から、狙ったタンクにだけ当てられるか不安だったんだ。もしほかに当たればと躊躇した一瞬に、お前が自分の判断で動いていた。結果的に別のタンクを撃ったわけだが」
 だから今回の咎は、本当は私が受けるべきものだったんだ、と悔いを噛み締めるように語り、インフェルノが声を挟む間もなく、さらに言葉を重ねる。
「私も、先ほどは勝手な言葉を使ってしまった。自分の不手際と度胸のなさに呆れて、苛立ちをお前に当てていた。自分にできなかったことをお前があっさりやってしまったから、……半分、嫉妬のようなものだったのだと思う」
 すまなかった、と頭を垂れる上官の姿を、呆気に取られて見つめた。そうして、気付く。つまりあの瞬間、自分の確認かアラートの指示が先にあれば、完璧な救助行動ができていたのだ。いや、どちらか一方では遅い。それがあることを、互いにわかっていさえすれば。
「……もうひとつ、いいか」
 はやる胸を抑え、冷静を努めて訊ねかける。
「なんだ」
「もしもあの時、俺が先に手を出してなかったら、狙いを外してほかのタンクに当たっちまうかもしれないと思ってたとしても、あんたは撃ったか?」
 顔を起こしてこちらをまっすぐに見上げ、視線の行き交う間を置いてから、アラートは答えた。地下の道で聞いたのと同じ、静かな、そして凛とした声だった。
「最後には、撃っていただろうな」
 そうか、と相槌した自分の声に喜色がにじむのがわかった。口の端にじわじわと笑いが込み上げるのを自覚し、弾み出す心のまま、勢い込んで語りかける。
「なあ主任、俺たち、お互いをもっと良く知り合う必要があるんじゃねェかな? 技能だとか、癖だとか、趣味だの、好きなもん、嫌いなもん、色々とよ」
「……好き嫌いが任務に関係あるか?」
「あるさ! 相手の酒の好みも知らないで、いいチームになんざなれないぜ」
 笑って断言すれば、アラートは半信半疑の表情で首をひねったが、馬鹿げたことをと言ってこちらの提案を退けてはこなかった。半歩間を詰め、さらに言いつのる。
「ま、違うところも多いけどよ、そんなに全然気が合わないってこともないんじゃねぇかな? 今回のことだって、結局はおんなじ判断をしてたわけだろ? でもあんたは射撃ができなかった。俺はどれを撃ちゃいいのかわからなかった。だったら協力すりゃいい話だ。一人で足りないとこはほかのやつが補うんだぜ。だからチームなんだろ」
 出来だ効率だを考えて他人に任せられないと言うなら、任せないほうが損と思えるような存在になってやればいいだけだ。今初めてアラートは、自身の弱みを口に出して認めた。次からはこちらが請け負ってやれる。ほかにもあるはずだ。助け、分かち合えることがあるはずだ。
「俺たち、きっといい関係になれると思うぜ」
 今はまだほど遠い。だが、自分はそうなりたいと思っている。彼も、思ってくれている。ならば、それはもう始まっているのだ。このきっかけを、逃しはしない。
 地下の一室で耳にした言葉をインフェルノが口にしても、アラートは立ち聞きに気付いた様子を見せはしなかった。ただほうけた顔でこちらを見上げ、次の一瞬、さっと頬を赤らめて、驚き見つめ返す間もなく、顔を脇へそらせてしまった。
「主任?」
「そ……そろそろ保安局に戻らないと。今度の件の報告書と始末書を出さなければならないし、お前も、仲間たちが処分のことを気にしているだろう」
「俺らの仲間な。あんただって上のセキニンってやつで謹慎なんだろ」
「……ああ。だから、今日のうちに前倒しで片付けることもあるし……」
 話しながら、インフェルノの使っていた椅子をばたばたとした動作で片付け、行くぞ、と言って部屋を出ようとする。こちらを見ようともせず、どうやら最前の自分の反応を取り繕おうとしているらしい。
(なんだ、照れてんのかよ)
 意外に可愛げもあるんじゃないか、と愉快に思いながらも口には出さず、ひと声返事をしてその背を追う。
 図らずも聞いてしまった話を含め、まだ言えないこと、訊けないことは山ほどにある。だがいずれ、それを許される日も来るだろう。いや、きっとこの手で得てみせる。
「なあ、始末書は俺が書くぜ。あんたはほかにやることがあるんだろ」
「……お前に書かせると上で止まって戻ってきそうだ」
「んじゃ、そうならないように教えてくれよ。それにこれで懲りたら、次に書かなくて済むようにおとなしくなるかもしれないだろ?」
 どうだかな、と疑わしげな声を落とされるのにもめげず、続けて語りかけていく。
「それと、謹慎明けたら呑みにでも行かねぇか? まずはあんたの酒の好みを知らないとな」
「本当にそれを訊く気なのか……」
「もちろん。っと、だからつって今言うのはナシだぜ。なあ、どうだ?」
 顔が少し振り向き、間を置いて、
「私は、騒がしい店は嫌いだぞ」
 もうこの時点で好みが合わないだろ、と言う。なんともわかりづらいが、これはおそらく断りの言葉ではない。いや、もし本当に婉曲な断りだったのだとしても、気付かないふりをして押し切ってしまおう。
「わかった。じゃあ謹慎中に静かでいい店探しとくぜ」
「お前、謹慎の意味をわかっているのか」
 宣言に返った声は、呆れだけでなく、別の情を含んでいるように聞こえた。上体を前へ折り、肩越しに覗き込んで、はたと気を呑む。見間違いではない。はっきりと、唇が弧を描いていた。絵に描いたような堅物上司が、その顔に確かに笑いを浮かべていた。
 もっと良く見たい、と湧き出した衝動に抗わず、足を速めて隣に並んだ。わずかに笑みの気配を残した顔がちらりとこちらを見上げ、何も言わず正面へ戻る。アラートの歩みは常より少し早く、かしゃかしゃという軽い足取りに、自分の重くゆるやかな足音が重なる。
 そうだ。歩調は違えど、こうして並んで歩いていける。自分たちは仲間なのだ。同じ志を胸に、同じ道の上にいる。まだ知らない、わからないことばかりだが、互いの立つ場所を教え合えれば、いずれその道の途中に出会い、共に行くこともできるはずだ。
 近付き、助け、分かち合い、そうしていつか、特別なものにさえもなれるはずだ。
「にしてもよ、主任。今日の消火任務だが、重要な施設っつー割に、ありゃ火事に弱すぎねぇか? まだあの規模だから良かったようなもんだ。避難誘導もろくにできねぇし、いくら機密区域にしたって、もっとやりようがあると思うぜ」
「ああ、それは私も感じた。古い造りだし、増築も何度か行われているからな……消火システムが作動しなかったこと自体も重く見るべきだが、そもそもあの程度の予防では足りないかもしれない。謹慎が解けたら上へ提案を出してみようかと思ってる」
「お、じゃあ俺にも噛ませてくれよ。そういうのはあんたみたいな立場のやつがいきなり小難しく提案するより、実際そこで動く下のやつらが不満たらたらでうるさいんです、とかなんとか言ってやってからのほうが通りやすいと思うぜ」
「そうだな……では意見をまとめておいてくれ。謹慎中に時間はたっぷりあるだろうからな」
「げっ。要らねえタイミングで言っちまった」
 楽しみにしている、とからかうようにまた口角を上げる。へいへいと苦笑して頷きながら、悪くない、と思った。まだぎこちないが、悪くない。
 この気の合わなさだ。前途は多事多難に違いない。だが、決して悲観はしていない。まだ始まったばかりの関係だ。少しのきっかけの積み重ねで、未来はいかようにも変わる。変えていくことが、できる。
「あー、あと、それとは別の話だけどよ、街に出る時の本局からのルート指示、あれ、どうにかならないのか? 順路なんざどれももう完全に頭に入ってんのに、毎回その定型文で無駄な待機喰ってるだろ。いっそ省略しちまってもいいと思うんだけどよ」
「市街地に限ればそれでも済むだろうが……」
 取り留めもなく議論しながら歩く。明日からは謹慎の身だが、さして嫌気は湧いてこなかった。次に会った時にどんな意見をすれば驚かれるだろうか、認められるだろうかと、少し愉快な想像をさえ巡らせる。
(ま、とりあえず酒とメシの旨い、んでもって静かな店だよな)
 おそらく酒の好みも自分とは正反対なのだろう、と勝手な決め付けをして笑い、なんだと隣で首傾げられて、また笑った。
 どこへ転がっていくかはまだわからない。だが、互いに掲げていた進入禁止の標識は外れ、先の日へ続く道の上に、車輪はようやく回り出したようだ。


fin.

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