天のいとし子



 ――ぼおう、ぼおう。
 戦を告げる雄々しい角笛の音が荒野に鳴り渡っている。
 張りつめた息の間を低く高く縫う笛の銅環に、天頂からわずかに傾いた陽が映り込んでいる。常ならばあまねく天の裾を照らすその光が今はどこか澱んで暗く、これより荒れ野を染むるであろう、熱い血の色をさえ思わせる。
 ――ぼおう。
 笛の音は昂情を内に秘め、ただ厳然として風震わせ、その時を待つ。
 岩と泥土ばかりの荒れ野を南北に分かつ、朽ち崩れた石塔を境域と成し、勇み向かい立つは、白と黒の軍勢である。
 此方、遠くそびえる天峰を背に白の軍。鋭く輝く聖銀の剣を手に携え、戦着いくさぎに身を固めた人姿の背に、美しい白翼を負っている。
 彼方、暗く湿った空気を背に黒の軍。姿は一様ならず、それぞれにいびつな化生の身を持ち、眼前に待つ血と殺戮を求め、醜怪な哂いを顔に貼りつけている。
 かたや整然と立し息を静めて、かたや野卑な唸り声をかろうじて牙の裏に押しとどめて、ひたり対峙する両軍の間を、ごう、と一陣の旋風が過ぎ、それが突撃の合図となった。怒号と鬨の歌とが荒れ野にぶつかり、千里を越えて天地に轟いた。


      ◇


 戦の地より遠く離れた闇の下、白と黒の軍勢の激突の様を、大鏡が映し出している。前には数個の影が並び立ち、鏡の向こうに幕を上げた戦乱を眺め観ている。
「さて」
 頭に山羊の角を戴き、壮麗な青の衣裳に隙なく身を包んだ男がおもむろに唱える。
「どちらの勝杯にお賭けなさいますか、各々がた?」
 芝居めかした言葉とともに、宙空に白黒ふたつの杯が生み出され、かちり、胴をぶつけた。
「力と技は天の者たちにある」
 空ろの身の鎧騎士が語り、
「地の利は魔の者たちに。量の優も百を乗じてなお余るほど」
 艶やかな黒髪をかき上げ、半人半蛇の鬼女が続ける。
 ふむ、と山羊の角の男が頷き、意気は同等、と加えてから、
「すると、時運の鐘の鳴り次第となりましょうか。死神どののご意見は?」
 全身を覆う黒の長衣の肩に大鎌をかけ、顔に白面をつけた死神に問いかける。
「時運と宿運」
 死神は短く答え、だが、と繋ぎ、鏡に正対して浮かぶ濃い闇を振り仰いだ。他の者も倣い、この黒の間の主の意見を伺い見る。揺らめく漆黒の中に、うむ、と低い声が鳴り落ち、一対の緑赤の玉がゆるやかに目瞬く。
『いかに愚かな者も、運ひとつには頼るまい。あれらが頼るのは、己の力と、欲望と』
 ――下卑た知恵のみよ。
 ふたつの杯に血色の水が湧き満ち、りい、と共鳴りをした。



 

 古きより天の下に地があり、地の下に魔がある。
 天峰には麗しき白翼の天使たちとその父なる主が住まい、地には人と獣が暮らし、魔の野には血と快楽を貪る悪鬼が跋扈する。世の始まりよりこのかた、悪鬼たちは美しき地と高みよりの覇権を求め、折に触れて天界へ牙を剥き、侵攻の試みをくり返した。しかし両軍の能の差は歴然としており、徒労を重ねること幾千度。小競り合いは続くも戦乱と呼べるまでのものとはならず、さすがに疲弊を覚えてか、百年前の大戦を境に、不穏な動きは鎮まっていたかに見えた。
 だが、この蝕の年、黒の軍団は先の何十、何百倍という手勢でもって天の境界に攻め寄せた。虚を突かれた境の番兵たちの多くが無残に討たれ、からくも逃げのびた者が父なる天主のもとへ報せをもたらす。かくて百年の沈黙を裂き、天魔の軍は正面に向かい合うこととなった。
 戦況は始まりこそ互角であった。が、戦に慣れぬ若い天兵たちは、量を頼んだ魔軍の闇雲な攻勢に次第に圧され、隊の中に動揺が広がり始めた。投石具から嵐のごとく放たれる無数の岩塊に翼の利を活かせず、黒い波となって寄せる魔族どもの、力に任せた突撃に多数の兵が打ち倒されていく。
 隊を率いる四つ羽の天軍長・ファラエルが乱れた軍勢を鼓舞するが、一度傾いた形勢を立て直すのは易くない。永い時のうちに魔の者たちの身体は強靭に長じ、残忍の性もなお増していた。同士討ちを厭わず毒の矢が飛び交い、巨大な槌が当たるを幸いに振り回される。
「お山のジジィの下僕鳥がいきがりやがって、あァ?」
 翼を傷付け地に落ちた若い天兵の前に、ただれた皮膚の巨体が立つ。裂けた口から腐臭漂う息と嘲りの声を吐き出し、血のこびり付いた大斧を頭上高く振り上げる。若い天使は恐怖に目を開き、地面に投げた手で剣を握りしめたまま、身動きできずにいる。
 耳障りな哄笑とともに斧が振り下ろされようとした、その瞬前、二者の間に光が走った。
 戦斧を握る腕は打ち振られることなく、笑いが貼りついたままの首ごと、中空へ斬り飛ばされていた。閃光は鋭い刃をとどめず身を返し、隣で唖然と動きを止めた二体の魔族の胴を薙いだ。
 空から烈風のごとく降りた姿にざわりとさざめきが広がる。若い天使は顔の前にかざした手を外し、我が恩者を仰ぎ見た。陽光を返す対の剣の輝きに、驚喜の声が上がる。
「レイシス様!」
 高く呼ばれた名を聞き届け、あたりのざわめきが喜びの鬨と、怨嗟のうめきに変わる。並び飛ぶ敵を一閃した天軍長が新参の男の傍らに降り、少しく破顔して、レイ、と声をかけた。
「良く来てくれた」
 男は頷き、
「遅くなって悪い。中に入り込んだ奴らに少し手間取っちまった」
 返してあたりを一周り見渡す。討ち伏せられた天兵の姿に眉を寄せ、両手に握る双剣を構え直し、周囲の魔族、そして天使たちへ向けて勇然と喝を放った。
「だいぶ好き勝手にやってくれたみてぇじゃねぇか。なぁ同胞たちよ、天軍の力はこんなもんじゃないだろ? 風はすっかり荒れていやがるが、まだ充分飛べる。血にひるむな、翼を立てて俺の剣に続け! 魔族ども、死にてぇ奴から並んでかかってこい!」
 戦場の澱んだ空気を裂いて凛と響く声と、天魔両軍の間に立つ身から発せられる光の鋭さに、魔族たちが気圧され後ずさる。翼の兵たちは鼓舞に剣を掲げて応えながら、その雄々しさを賛じ、感嘆の息を漏らした。
 双剣の男は天軍長と同じく二対四枚の翼を背に負い、ひと目にそれとわかる高位の天使である。粗野な言葉を使い、天使の誇る清流のごとき金の髪を邪魔っけと短く切りこみ、位を持つ者の着る裾の広くなびく長衣ではなく、きちりと身を締める戦着を常から身に着けているなど、型破りな習いの持ち主だが、飾りない廉直な気性と、たぐいまれなる剣の腕で、位の高低に依らず天の住人たちに慕われている。左頬に通ったひと筋の傷は先の大戦でついたもので、奮迅の働きは今も折々に唄われた。
 貴き光、穢れなき翼。父なる天主は彼を寵してやまぬという。
 天魔の境を越え、あるいは称賛を、あるいは皮肉を込め、かの者は呼ばれた。
 天のいとし子、と。


「あれが名にし負う天のいとし子……ですか」
 双剣の将を映す大鏡の前、鎧騎士が落とした二つ名を山羊の角の男が拾い上げた。
「うむ」
 空ろの兜が頷きを返し、
「先の大戦の後、幾度か戦場での働きを見たことがある。噂の通りの剛の者であったな」
 言って、血水に満ちた白の杯を引き寄せ、鋭い水晶の片を中へ落とした。
 会話に倣うように、鏡は二対の翼を負う天将の勇躍を追う。飛び交う石や毒矢を物ともせず、地を蹴り空を翔け双剣を振るい、黒の軍勢を束と斬り伏せていく姿は、勇ましくもうつくしい舞を見るかのごとくである。
「綺麗な鳥だこと」
 けれども、まだ歳若く見える。呟く鬼女に、鎧騎士が呵呵と笑い、言う。
「蛇の女王が見れば、どの鳥にしても幼いのではないかな」
「ま」
「美しきものに長幼の別はありますまい」
 山羊の角の男が話に割り入り、白と黒の杯を示す。
「勝杯は決しましたか?」
「わからぬよ」
 鎧騎士が答える。
 双剣の将と、その下で天宮の守護に当たっていたのだろう精鋭の軍勢の参陣により、戦況は一挙に白の軍の有利に傾いた。戦いは半ば終わりを迎えたかのように見える。だが、黒の間に集ういずれの影も、大鏡の前を去ろうとはしない。
 ふたつの杯の鮮赤の面が、かすかながら、揺れを立てている。
 山羊の角の男が凝と鏡を見据える死神に気付き、声をかけた。
「随分と熱心に見入っておられますが、何か兆しでも?」
 裂けた笑いの貼り付く死神の白面がちらと男を見、また鏡に映る天将へ向き戻る。
「いや。……確かに美しい」
 あまりにも、美しすぎる。



 

 天魔両軍を見下ろす空の高みに四翼を広げて静止し、レイは小さく舌打ちをこぼした。
 本軍に先んじて天宮に侵入した魔族を殲滅し、荒地に参じてから既に数刻が過ぎている。兵の先頭に立って剣を振るい、魔の軍勢を幾百と討った。だが、いまだ戦いの終わりは見えていなかった。
 一時は落ちた天兵たちの士気も今は持ち直し、動きに落ち着きが戻っている。どちらの軍勢に分があるかは一見して明らかである。常ならば、勝敗は既に決しているはずだ。我欲に満ちた魔軍にはもとより隊の統率の念などなく、ひとたび戦況が傾けば、めいめい手前勝手に逃げを打ち始め、後には捨てられた同胞たちの骸が残るのみとなる。
 が、今この荒地の戦場に集った魔族たちは、整然たる統制にこそ欠けるものの、甚大と言える損害を出しながらも退がる様子なく、士気も保ったままでいる。
(奴ら、何か企んででもいやがるのか?)
 精白の袖が汚れるのも構わず頬の返り血をぐいと拭い、考え巡らせ始めたところへ、ファラエルの翼が並んだ。
「レイ、無事か?」
 四つ羽の中でも年長に位置する天軍の指揮官は、幼い頃からのレイの世話役であり、武術の師であり、最も親しい兄であった。成年し、将として戦場に並ぶようになった今でも、破天荒な弟の身を何かと気にかけてくる。
 レイは笑み浮かべて頷き、問いの答え代わりに手の中で剣を軽く回してみせた。
「こっちはなんてことないぜ。……ただ、奴らの様子がおかしいような気がする」
 懸念を口にすれば、ファラエルも神妙の面持ちで首肯を示す。
「早く退却してほしいものだが」
 もとより数のうえでは圧倒的に敵方に分があり、戦いが長引き兵が疲弊するほど、本城を遠く離れた天軍の旗色は悪くなる。しかし、魔族たちの動きを見る限り、そうして消耗戦へ持ち込む戦術とも感ぜられなかった。
「ま、首傾げてばっかりもいられないしな。向こうが退かねぇなら、とことん付き合ってやるまでだ」
 剣を構え、降下の姿勢を取りかけたレイの肩を、ファラエルの手が引き止めた。
「レイ、見ろ」
 言って、荒れ野に立つ石塔を指し示す。促されて目を凝らせば、朽ち崩れた灰褐色の壁面に、紐状の物体が絡みついているのが見えた。植物の蔦か、あるいは枝であるらしきその物体は、生きた大蛇と見まごうほどの速度でもって、塔を下方から巻き上げていく。
「なんだ? さっきまであんなもんなかったぜ」
「私も今気が付いた。魔族の術とも思えないが」
「……なんか、嫌な感じがするな」
 語り交わす間にも枝は伸びて急激に太さを増し、壁を覆い始める。地上で交戦していた天使たちも異変に気付き、剣を振るう手を止めて塔へ視線を集めた。ざわざわと音を立てながら、戦場に似つかわしからぬ鮮やかな緑が石を巻き、崩れた柱を継いで、巨大な植物の塔へと変じていく。
 呆気に取られて塔を見上げる天の兵たちは、やがてその目の先のみならず、あたり一帯に異変が生じ始めているのに気付いた。生き物の骨のきしむような奇妙な音が荒野の風に入り混じり、大気が色を変え、暮れ空の下にざわりと蠢く。
 事態を認めて傍らへ声をかけるより先に、不意の衝撃が戦場を裂いた。
「危ねぇっ!」
 前触れなく地上から放たれ、旋風とともに空を薙ぎ払ったのは、太い鞭状の物体であった。レイは警告の号を上げ、直線上に飛んでいた天兵の身体を奥へ突き飛ばし、ともに攻撃を避けた。上空へ身をかわしたファラエルが縛の術を放ち、光の網に絡め取られた鞭が一瞬動きを止めたのを逃さず、剣を上段から一気に振り下ろす。鈍い抵抗を受けつつも刀身が物体の中深くにめり込むと、傷から急激に腐敗が広がり、鞭はふたつに割れ落ちた。
 追うように地上に降りたレイとファラエル、引きつって鳴った喉の音は、果たしてどちらのものであったろう。荒れ野に一斉に萌芽した異常は、戦に隣り合わせの静かなる死ではなく、賑々しいとすら評せるほどの、奇怪な生であった。
 耳映い異音とともに、魔族たちの身体が膨張し、変容していく。ある者は硬く逆立つ鱗を生やし、ある者は腕を鞭と変え、またある者は巨大な刃と化した爪を手から提げる。朽ちた凶鳥の翼を思わせる骨が肉を突き破って広がり、身を囲む鎧を造る。それは成長の枠を超え、もはや変異とすらも言いがたい、生物の在るべき則を逸した、醜怪な「進化」であった。
 戦慄して立つ二人の足元で、細く、声が鳴る。
「ファラエル様、レイシス、様……」
 名を呼ばれ振り向かせた身が、驚愕に凍りついた。
 傷付き地に伏した天使の身体が内から波打ち、異相のものへと変貌を遂げつつある。はたとしてあたりを見回せば、魔族のみならず、傷の深い天兵たちにも、その変容が生じ始めていた。
「な……」
 喉を震わせながら差し伸べた手に、若い天使の指が届く間ぎわ、その腕が肩の根からこそげ落ち、内に育つ異形の肉塊が覗いた。
 息を呑み、今や一本の樹と化した塔を振り仰ぐ。魔族と、身を守る力を失くした天使たちに異常の「進化」を与える、禍々しくも壮麗な大樹。その力は魔の域にあるものではなく、むしろ己の拠る側に属すものであるということを、戦場に立つ天界の住人たちは、我が目を疑いながらも理解していた。それは禁忌の術であり、数百、数千の年月のあいだ、唄と絵画の中にのみ存在したものであった。
 侵すべからざる魂の種子、生命の樹。


 鏡の前に浮かぶ黒の杯の面が波打ち、底から昇る泡とともに血水が闇色に変化していく。白黒ふたつの杯がりぃん、とひときわ高く共鳴りを起こし、昏く輝き始めた。
「生命の樹、とは」
 くつり、小さく笑いを立て、山羊の角の男が声落とす。
「また旧い時代の遺物を掘り起こしてきたものです」
「しかし、あれは全て滅されたと聞いていたが。あの樹は秩序の理に外れた偶産のもの。天に身を置く者たちが擁する力とも思えぬがな」
 鎧騎士の言葉に、半蛇の鬼女がどうかしら、と呟いて首を振り、
「たとえ世界の矩を超えた創造であったとしても、それが強き力の源となるとわかっていながら、すんなりと無に帰すことができるものかしら?」
 言うのに、
「天の主とて、欲持たぬわけではない」
 むしろ、天峰に住まう何者よりもしたたかな御方でありましょう。山羊の男が繋ぐ。
 いずれにせよ、と誰が口にしたわけでもないが、荒地より遠く離れた闇の下、大鏡の映し出す戦乱に結びが示されたことは知れていた。
 蒔いた者の望む「進化」をかの樹がもたらすならば、これより戦場に開くのは破壊と血欲の花にほかなく、妙なるもなよやかな杯は、無慈悲な棘に耐うる靭さをその身に持たない。


      ◇


「くそっ、どうなってやがる」
 四方から繰り出される異形の武器を剣で受け、翼でかいくぐりながら、小さく毒づく。飛来した骨の矢を斬り飛ばし、前方を飛ぶ兄に声を投げた。
「どういうことなんだ、ファラエル。生命の樹はもう存在しないはずだろ」
「百年の鎮呪の封印ののち、無に帰された。……そのはずだ」
「じゃあ、あれはなんなんだよ?」
 『生命の樹』の起こりである天峰に住まう天使たちにおいても、実際にそれを目にしたことのある者は少ない。しかし今この荒地を包み込まんとしている異状は昔語りに伝わる禁術の力を示すものにほかなく、地に根を張り、空に枝伸ばすその姿は、まさしく書絵の中に畏れられる巨大樹であるのだ。
「確かにあれは、生命の樹だ」
 そして、その不可侵の力は、あるまいことか魔の者によって行使されている。
 魔族たちの殺戮の慾と、破壊を尽くし血を貪る肉体は、異容の進化を遂げておぞましさを増し、かたや負の性に耐えられぬ天使たちは、異形と化して我を失い、同胞に爪をかけていく。わずか半刻に満たぬ間のうちに、戦場は獣の怒号と悲痛の叫びに包まれた。
 天軍の利はそれぞれの兵の力もさりながら、各隊長を中心とした緊密な統制にあった。だが突如として落ちた混迷は内側から軍を蝕み、音立てて崩壊させんとしていた。指揮の号は届かず、角笛は割れ朽ち、清廉なるその身に傷を負わない者はもはや一人とていなかった。
 一体誰が、このような惨状を予想し得たろうか? 翼を血に染め異形へと変貌していく天の嗣子たちの姿を、禁忌の、しかし確かに天域に属する力を秘めた大樹が無慈悲に見下ろす時が来るなどと、誰が未来へ描き得たろうか?
 問いに返る言葉はなく、ただ下卑た歓喜の叫びと、苦悶の声が大気を染める。


「はあっ!」
 気を込めて剣を一閃し、傷付いた兵に討ちかかろうとしていた魔族の胴を薙ぐ。二つに断ち割られた身体は地面に崩れ落ちたのち、じわりと溶けて塵と消えた。
 力増しているとは言え、並の魔族に後れを取るわけもなかったが、仲間を助け、乱れた隊に号令を飛ばして奮戦するレイも、身のそこここに傷を負っていた。開いた傷口が強い魔力の波にひりついて痛む。一度でも気をゆるめて負の血の侵蝕を許せば、かの樹は六つ羽の熾天使ですらも魔性に堕とすだろう。
 真言を紡いで力を雷光に転じ、寄せる魔の群れに放つ。数十の巨体が灰塵となって消えるが、それもただ息をつく少しの間をもたらすに過ぎず、異様の進化を遂げた悪鬼たちは、数の限りも見せず無秩序に暴虐をくり返す。いかな歴戦の騎士の力も、この混乱の渦中にはさしたる意味を持たなかった。
 ぐっと唇を噛み、戦場にそびえ立つ大樹を仰ぎ見る。剣で容易に斬り飛ばせるような代物ではない。それは天峰の中心に、父なる主の力のもと生まれた聖木なのだ。
 空の敵を掃じて降り立った天軍長へ目くばせを送り、止めた足の隣へ寄って訊ねる。
「樹の力を消すか、弱めるかする方法は、何かないのか?」
「聞いたことがない。古参の熾天使か、あるいは天主ならば、何か知っているかもしれないが」
「今からとって返して天主≪おやじさん≫に訊きにいく余裕はないぜ」
 息落とすのとほぼ同時に、背から声が飛んだ。
「ファラエル様、レイシス様、天宮より伝令です!」
 噂をすれば影、と言うべきか。振り向いた二人の前に、力の限り翼を速めてきたのだろう、若い天使が崩れ落ちるように降り立った。無論、後方で幾らかなりと戦況を窺っていることは知れていたが、最大限に早い反応と言え、改めて感じ取る事態の重さに自然と背筋が伸びる。
 しかし、荒い息の間から告げられた次の言葉は、その緊張をも凌駕した。
「申し上げます。戦場よりこちらに、聖境を築きます。一度兵を引き、……無事な者のみ、砦に退がるようにと、天主様からの仰せです」
 思わぬ命だった。二人、顔を見合わせる。
「確かなのか」
「は……」
 令達を確かめるファラエルの言葉に、小さな頷きが返る。レイは困惑に首を振り、一歩前へ踏み出て口を開いた。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、この場をうっちゃって逃げろってのか?」
「伝令では、そのように」
「兵の中には飛べない奴も、歩けない奴もいる。……大半が、そうだ。そいつらを置いていけっていうのか? あの樹をそのままにして……魔物になって殺し合うのを見捨てていけっていうのかよっ?」
「レイ」
 伝令使に掴みかかりかけたレイの肩をファラエルが引き止める。逆にその腕を掴み返して兄の顔を見上げ、語気強く言いつのった。
「変化しかけてるやつらも、回復して力が戻れば治せるはずだ。そうだろ?」
 このまま戦い続けても勝機がないのは確かだった。だが聖境が――結界が張られるということは、この場を全て魔に明け渡し、わずかなりとも大樹の魔性に侵された天使たちを切り捨てることと同義だ。天の楯たる聖境は整然なる調和、一時の天魔の別をもたらし、全ての魔性を阻む。そうして築かれた結界は、全き秩序を望むがゆえに、力薄れて崩れるその日まで、聖魔交錯する一切の往来を許しはしない。たとえそれが、禁忌の大樹に清廉なる身をねじまげられた、かつての天の子であったとしても。
「レイ、……ほかに、方法がない」
「わかってる」
 わかっている。今も地に根を、空に枝を伸ばし続ける大樹の魔力が天界の中にまで及べば、未曽有の災厄があのうつくしい地を見舞うだろうことは。天父の命に従うのが最善であることは、わかっている。だがそれは決して最良の手ではない。結界はいずれ力を失い破れる。ここで一度その魔をせき止めたとて、樹が根を伸ばし続け、悪鬼たちのゆがんだ進化が続くことに変わりはない。天界のために剣を振るった多数の兵士たちが、望まぬ生を受け、無残に死んでいくことに、変わりはない。
 何か、何か方法はないのだろうか?
「聖境が閉じられるのはいつだ?」
「既に天宮にて法儀が始められております。あまり間がありません。陽が没するまでに、みな引き上げるようにと」
 ファラエルの問いに伝令使が答える。陽は既に地平近くまで落ちていた。言葉の通り、残された時間はわずかにしかない。
「他の者と手分けして、皆に撤退の準備をするよう伝えてくれ」
「はっ」
 一礼して飛び立つ翼を眉寄せて見送るレイに、隣から再び声がかかった。
「レイ、お前の気持ちはわかるが、これは戦、そして我々は天を、ひいては世の理を守るべき軍の長だ。兵それぞれの被害よりも、大局を見た利を取らねば」
 子を諭すような静かな声音を、世に出でてから今日に至るまで幾度となく聞いてきた。天使として――ことに、複翼を負う高位の天使として、ほかに類を見ぬほど能動的で鋭い気性を持って生まれたレイは、幼い時分から古参の六つ羽の天使長たちにその快活さを愛されながらもさんざん手を焼かせ、穏やかだが厳格な声で何くれとなく諫められた。いつも彼らの言葉は正しく、理に沿ったものだった。強さはなくとも力のある、天界を支える逆らいがたい声であった。
「……わかってる」
 小さく頷いて同じ答えをくり返し、細い双剣の柄を握り締めた。



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