きぃ、と戸が高鳴りを立てて開く気配に身構え、傍らの盆から銀匙を手に取り、力を込めて、近付く靴音に投げ打つ。ひゅうと鋭く風を裂いて放たれた聖光をまとう銀匙は、あやまたず目標を捉えたが、的に届く寸前で床から伸び上がった影にぶつかり、そのまま黒い衣に巻かれて虚空へ消えた。
 一度止まった足がまた平然と歩みを再開する。レイはちっと舌打ちを漏らした。
「不意をつけば当たるんじゃねぇかと思ったんだけどな……」
 ぽつりと落ちた声に、寝台の隣に立ち止まった黒衣の男は愉快げに笑いを浮かべ、
「毎度ご苦労なことだが、私の顔に穴を開けたところで何もないぞ」
 そう言ってどこからか先の銀匙を手に取り出すと、丸椅子の上の盆に戻す。レイは言葉を返さず、黒衣の男――ヴァルナードからふいと顔を背けた。落ち着き払った態度がまったく癪に障る。
 あれからヴァルナードはゆっくりと手をかけてレイを抱き、その身から熱を絞り尽くした。幾度も甘い悲鳴を上げて極みに達し、最後には人事不省に陥ったレイが次に目を覚ました時には、既に男の姿はなく、新しい寝具の敷かれた台に独り伏していた。汚れた身はすっかり清められており、寝台の隅には白地の簡素な服が置かれていた。
 天使の白翼は半ば不形のもので、意思を持って触れくる物のほかはすり抜けることができる。よもやと思った通り、いまだ手足にかけられたままの枷と鎖も、同様に服の地を抜けた。翼と、と言うよりも、『影の王』のまとう黒い衣と同種の性質のものなのだろう。
 身に巣食っていた毒はほとんど失せたようだった。毒と魔族による耐えがたい陵辱、そしてこの寝台で男の腕の中にさらした我が醜態を、レイは共に記憶の底に追いやり、きつく封じた。
「少しは減るようになったな」
 盆の上の皿を見やり、ヴァルナードが頷く。
 レイが服を身に着け居住まいを正したころ、それを見計らったように、男は手にこの銀の盆を乗せて現れた。隅にあった椅子をレイの傍らに寄せ、盆を置いて、食えと言う。盆の上の深皿で湯気立てる液体から、嗅ぎ慣れない香草の匂いがした。
 黙ったまま手をつけずにいると、横から伸びた指がすうとレイの髪を梳き、頬を撫でた。制止の声を待たずすぐに離れ、薄い唇が「部屋が暗いな」などと言い落としたかと思う間もなく、影が翻って部屋を出て行った。その後も男はふらりと前触れなく現れ、香湯が冷めているのを確かめるとそれを持ち去り、また新たな盆を手に戻った。
 力有る天使の身は、食の習慣は持つが、物を口にせずとも数日数月のうちに滅ぶことはない(ただしそれは天主の加護の下にあることを根幹とした話で、今の自分の身にも当てはまることなのかは知らなかったが)。不要の言葉を口に乗せたこともあったが、男は構わなかった。それが幾度かくり返されたのち、影の立ち去った間に、いつの間にか増やされた明かりの下でレイはようやく皿を手に取り、口に運んだ。渋い薬湯の味がしたが、力に飢えた身にあたたかさが灯った。
 陽の入らぬ部屋に時の感覚はなかったが、それから既に数日が経っているはずだった。
「身を休めて早く力を戻すことだ。身体が回復すれば食欲もわく」
 そう語るヴァルナードの手がレイの右の背に伸び、
「翼が生えてきたな」
 羽をひと撫でして、言う。
 レイは首をねじり自分の背を見下ろした。魔族に折り千切られた右の羽の残骸の間から、雛鳥の産毛のような翼が二枚、小さく生え出している。意識を込め、力を伝えると、ぱたぱたと軽い羽ばたきをした。
「……ヒヨコみてぇ」
 これではとても飛ぶことはできない。落とした言葉にヴァルナードが低く声立てて笑い、そのうち生え揃う、と切れ長の目を細めて言った。
 その顔を見返し、息をつく。一体これから自分はどうなるのだろう。身を縛められたまま、ずっとこの寝台の上、影の力に圧倒されて男の手の内で過ごすのだろうか。今我が身にある事態とその理解に、昏い想像を拒みはしても、否定の言葉をぶつけることはできず、首を下に俯け、右手の枷に目を落とす。こんな細く頼りない鎖一本にさえ、今の自分は抗うことができない。
 少しの沈黙の後、声が落ちる。
「何か訊きたそうだな」
 顔を上げ、別に、と返した。
「訊きてぇことなら山ほどある。けど実際訊いたところで、どうせまた良くわからないことを言われて、混乱するだけだ」
 だから別にいい、と思ったままに言うと、ふっと笑いが落ちた。
「そんなことはない。お前がそれを望むのならば、隠し立てはしない。――だがその類の話なら、より適役がいる。そうだな、そろそろうちの口ぜわしい者たちも痺れを切らしてきた頃だ。暇つぶしの相手に寄こすとしよう」
「……相手?」
 では、この部屋のある何がしかの居の中には、男のほかに誰かがいるということになる。「王」と呼ばれる者の住処として、それは当然のことであるのかもしれなかったが。
 レイの疑問には言葉返さず、ヴァルナードは部屋の戸を振り向き、短く呼び声を落とした。
「ヌグマ」
 さほどの間も置かず、は、とどこからか応えが返る。姿の見えない相手にヴァルナードが語りかける。
「しばらく相手を頼む。問いがあれば答えてやれ。『天のいとし子』だ。不作法のないように」
「承知しました」
 声とともに、寝台の先の空気がいびつに歪み、赤い光が立ち昇ったかと思うと、そこに奇妙な――「物体」が、現れた。
 扁平な身が宙に浮いてくるりと回り、レイとヴァルナードへその正面を向ける。それは、縦に長い方形の額にはめ込まれた地に、不可思議な抽象画が描かれた、一枚の「絵」であった。
 呆然と見つめるレイの前で額の中の色の渦が蠢き、その平板な身体から確かな人の――やや嗄れた老人のような声を発する。
「ふむ、お初にお目にかかる。……と言っても、儂のほうは以前にお前さんを見かけたことがあるがの。顔のわからぬほど遠くからじゃったが。まさかこうして直に顔を合わせるとは思わなんだ。儂はヌグマ。宜しくの」
 ゆったりと語りかけられ、返す言葉が出ない。ヴァルナードが笑って代わりに答えた。
「名はレイだ。では、頼む」
「は、それでは」
 「絵」が礼をするように身を倒し、それに見送られながら、ヴァルナードは軽く手を上げて部屋を出て行った。
 戸が閉まってから一瞬の間があり、そしてまた、「絵」――ヌグマは、くるりとレイに向き直った。口を開けたまま額の中に浮かぶ奇妙な色を見つめていると、音も立てずにその身が浮上し、長座のレイの足の先、寝台のきわにやわらかく落ちて、言葉が流れた。
「うむ。最初の質問はわかっておるよ。『なんでそんな姿をしているのか?』、じゃろう?」
 笑い混じりの声に、レイは黙ってこっくりと頷いた。

 人が呼吸に胸を伸縮させるように、絵の中に流れる彩色をふわりふわりと動かしながら、老爺の声がゆるやかに語る。
「儂は魔術師での。もともとはお前さんと同じような人の姿を持っていたんじゃよ。じゃが千年前の戦の折、ちと力を使い過ぎてしまってのう。魔力が流れ出して身を保てなくなってしまったんじゃ。窮余の策として、この魔絵の中に力を封じ込め、乗り移ったんじゃよ」
 爾来、ずっとこの身体で過ごしている、と言う。
「……動きづらそうだな」
「そうでもないよ。元の身体に未練があったわけでもないしの。要は慣れじゃよ」
 そうだろう。千年と言えば、レイなどまだ天界に生まれてもいない。
「さっき、俺を見たことがあるって言ったろ。それは?」
 異様の姿とは言え見苦しくはなく、穏やかささえ感じる老爺の物腰に気をほぐされながら、訊ねる。
「うむ。先の天魔の大戦で、戦場になっておった魔の野の近くに縁あって出てな。その時に偶然見かけたんじゃよ」
 『天のいとし子』と言えば、この地にも名が届いておるしの、と続ける。レイはその言葉を取り上げ、勢い込んで問いを重ねた。
「待ってくれ。それが、一番わからないんだ。『この地』ってのは……ここは、どこなんだ? 魔界じゃあないのか?」
 戦いの後に囚われたあの牢獄は、確かに魔界の中のものであったはずだ。だがそこから連れ出されてから、己の身がどこにあるのか、まるでわからない。冥府、黒の塔、初めて聞く言葉ばかりが、その強い音の響きだけを持って投げ落とされ、しかとした形を示さないまま消えた。
 絵が思考の波を示すように画布の上でくるくると回り、答える。
「うむ、半分は合っていて、半分は間違っておる。『古きより、天の下に地があり、地の下に魔がある』。この言葉は聞いたことがあるじゃろう? もちろん、これは喩えの謳いじゃ。実際に地を挟んで天魔があるわけでもなく、その間に位置の上下があるわけでもない。そして、この詩は、真実の諸相のひとつを語るものに過ぎぬ。これとはまた異なる実が、この世には存在しておる」
 絵の渦が動きを絶え、深い洞穴を覗くがごとき、無彩の景色をその身に現した。ゆったりと、声が落ちる。
「ここは冥界。より昏く、より闇深い、魔界の深淵の地じゃよ」
「……冥界」
 ほつり、その名をくり返す。
「やはり知らなかったかの」
「一度も、聞いたことがない」
 ゆるりと首を振る。天峰の外には力を持たぬ人と獣の住む地界があり、別の一方の外には、力を持つが智と理を持たぬ悪鬼の住む魔界があると、それだけを聞かされて育った。その地のさらに奥に、そばに立つだけで身の震えるような強大な力を持ち、確かな智を備える存在が居を構える世界があるなどと、まるで知らなかった。
 そんな理解は、己だけのものではなかったと思う。自分より若い天使たちは、魔界のことにすらさほどの知識を持っていなかった。だが、それ以外の者はどうだったろう? レイは四つ羽、六つ羽の高位の天使の中では最も若輩だった。年嵩の天使長たちが、そして父なる天主が――そんな重大な世界の在りようを、知らぬはずがあったろうか?
 地に根を張り、天を覆わんと枝を伸ばしていた、あの禍々しくうつくしい大樹の姿を思い出す。隠されていた「種」。魔界の悪鬼たちのためだけに、あれほどに大きな力が残されていたなどと、そのようなことが考えられるだろうか?
 手元の敷布を強く握り締める。頭を巡る様々の想念は、ひとつ明確な答えを導くには饒舌過ぎた。
「ほかに、何かないかの」
 絶えてしまった言葉が向こうから促される。額の中の絵にはにじんだ彩色が戻っている。レイは頭を振って雑念を放り出し、問いを探した。
「ここはその冥界の、『黒の塔』って場所なのか」
「うむ。ヴァルナード様のお屋敷じゃ」
 ここは塔の地下じゃよ、と答えが続く。どうりで外の陽が入らず、空気が沈んでいるものと合点がいった。
「『影の王』、……そう、呼ばれてたな」
「うむ」
「お偉いさんてことなのか」
 あんなのが、と後に続けた言葉を強調して言うと、ヌグマはくるくると絵を回し、笑い声を立てて返した。
「そういった意味の『王』ではないよ。天の者や地界の人間たちが使うような『王』という位は、冥界にはないのでな。魔の者どもと同じように、統べる者がおらんのじゃよ。要は魔界の延長だからの」
「けどあいつ、あの――『黒の間』だったか、そこにいたやつを」
「玉眼王さまのことかの」
 名を補われ、あの濃く深い闇の中に浮いていた二つの光を思い起こし、雨払うように翼を一度振り立ててから、頷く。
「そいつのことを、冥府の主だって」
 毒に朦朧としたまま聞いた言葉だったが、その昏い響きを耳が確かに憶えている。
 うむ、とヌグマは平板な身を傾けて頷くようにし、
「まぁそれも、言葉の綾のようなものでな。そう見なされている、というだけじゃよ。玉眼王の名も、影の王の名も、つまりはただの通り名なんじゃよ。この地の『王』の名は、力の強い者に対して付ける飾りのようなものなんじゃ」
 語る間に、絵の全体が黒一色に染め上げられ、その闇の中に、小さな点光が散りぢりに灯っていく。
 声が続く。
「統べる者もいない。明確な法も公領もない。在るのは深なる闇と、そこに立つ種々の力だけ。ふむ。お前さんのような天の出の者には想像できぬことかもしれぬが……冥界とはな、言うなれば徹底した個人主義の世界なんじゃよ。全てが個なんじゃ。そこが群れをつくる魔族たちとの一番の違いじゃな。このあたりでは、国を結び軍を分かつような戦はほとんど起こらない。みな自分に属するものにしか干渉せんからの。まあ、魔界に近い浅いほうの地では、小競り合いも起きているようじゃがな」
 そこで一度言葉が切られ、レイの目に浮かぶ困惑に気付いたのだろう、からからと笑い声が流れた。
「すまんすまん。急にあれこれと言われても良くわからぬじゃろうな。そうじゃの、身に近いことだけを簡単に教えておこう。冥界の深部では、お前さんが会った玉眼王というお方が、最も力の強い冥府の主とされ、『冥王』と呼ばれておる。浅いほうではその存在すら知られておらぬかもしれぬが、まあそれはいいとして……ほかに高名なのが、『冥王』に次ぐとされる四人の王じゃ。そのうちの一人、影の王、この黒の塔の主が、先ほど出て行かれたヴァルナード様じゃよ」
 そうして語られた明瞭な言葉に、レイはしばらく声を返せなかった。想像の及ばぬ世界だった。その答えも、今こうして自分が接している何もかも、全てがただ白昼の夢であるように思えた。
「難しく考えずとも良いのじゃよ」
 不可思議な彩色の紋様に戻り、ヌグマが言う。
「信じぬじゃろうが、お前さんは気の毒だが、不幸ではないよ」
 少し休むといい。また何かあったら呼びなされ、お若いの。レイの言葉を待たずそう言い残して、現れた時と同じ赤の光とともに絵の身体はかき消えた。
 レイは唇を結んで膝の上に目を落としたまま、忠告通りに身を休めることも考えず、青い明かりの下にただじっと座っていた。


 地下の部屋へ再びヴァルナードがやって来た時にも、レイは同じ姿勢のままでいた。ヴァルナードはいつもの悠然とした足取りで寝台に近付いてくると、まとった影のひと撫でで丸椅子の上の銀盆を消し去り、自分がそこに腰かけた。
 ちらと顔を向けると、間近に目が合った。伸びた指が頬にかかり、軽く引き寄せられる。
「抗わんのか?」
 一度身を止め、男が言う。
「人を鎖でくくっておいて言うセリフか?」
 ぞんざいな口調で返してやると、そうだな、と笑みがよぎり、そのまま口付けられた。ぎしりと寝台が二人分の体重に沈む。「影」でも重さはあるのかと、上体を倒されながらぼんやりと思った。
 抗うことはできる。毒の抜けた身体はもう熱に流されることもない。だがそうしてどうなると言うのだろう。深井戸の底よりもまだ暗い、己の手すら見えないような闇の地の、王の名を冠する者の前で、今は二つ羽にすら劣る剣の折れた一介の天使でしかない自分がわずかな抵抗を見せたところで、何になると言うのだろう。男の抱く力、存在そのものが、この身を縛る何よりも強固な鎖だ。
 そう己に聞かせるレイの胸にあるのは、諦念ではなく、固い決意と覚悟だった。
「これだけは、言っておく」
 腕の内から男の顔を見上げ、決然と告げる。
「何をされても、何があっても……俺はあんたのものになったつもりはないし、これからも、なるつもりはない」
 影の王は目を細め、
「憶えておこう」
 言って、きつく寄せた眉の間に静かに唇を落とした。



 

 朝なのかそれとも昼なのか、確かな時を判ずることはできなかったが、目を覚まして気だるさの残る身体を起こすと、ふと部屋の中に何かの気配が漂っているのに気付いた。首を巡らせて見回すが、姿は見えない。
「誰だ?」
 明かりがあっても、この部屋の闇は己の領分ではない。目で探すのはすぐに諦め、声を上げて誰何する。
「……あら、気付かれちゃったみたいよ」
 小さな囁きが落ち、次いで、くすくすと高い笑い声が頭上に鳴った。顔を上げると、明かりの中に複数の影が過ぎるのが見え、風を叩く羽ばたきの音がかすかに聞こえた。
「こっちこっち」
 前に落ちた声を追って首を正面に戻すと、足先に小さな三つの影があった。
「急に出てって驚かそうと思ったの。ふふっ、ねェ、レイってアナタでしょ?」
「……ああ」
 問われ、頷きを返す。声の主は背と側頭に蝙蝠の翼を生やし、黒い髪を肩上の高さで切り揃えた少女だった。その身の丈は、頭から足先までを入れても人の頭ひとつほどしかない。
 右には、ほぼ同じ背丈の、こちらは蝶の形の羽を背に生やし、明るい色の髪を上に結い上げた少女が、そして左には、二人の少女よりふた回りほど大きな身体の、くすんだ赤色の翼と皮膚を持つ細身の妖鬼が、ふわふわと寝台の上に浮かんでいた。
「アタシはジュジュ。こっちはソランとギィ」
 蝙蝠の翼の少女、ジュジュが、手早くそれぞれを示して名を教える。
「やっと地下への扉が開くようになったから、三人で遊びに来たのよ。ホントはアナタが塔に来てすぐに会いたかったのに、ヴァルナード様が許してくれないんだもの。自分は遠慮なく入ってくくせに、意地悪よねェ」
「ボクらが何か悪さをすると思ってるんだよ」
 きししし、と赤膚の妖鬼がその身体に似合わぬ少年のような口調で言葉を継ぐ。蝶の羽の少女が頷く。
「あんまり喋らせると怪我に悪い、って言ってたわ。でも、もうだいぶいいんでしょう? 私たち、天使ってどんな姿をしてるのかしらって、色々話してたのよ。綺麗な羽ね」
 三人三様に、実によく喋る。「口ぜわしい暇つぶしの相手」と語ったヴァルナードの言葉を思い出した。
「あいつの部下とか……そんなんなのか、お前ら」
 訊くと、
「ヴァルナード様に実際にお仕えしてるのは、ヌグマ様とイザエラ様だけよ。アタシたちは塔に住み着いてるだけ」
 またひとつ、知らない名前が現れた。
「イザエラって奴もいるのか」
「ええ。塔の管理をされてるの」
「震えるぐらいイイ女、って感じのヒトさ」
 眼を見ると石になっちゃうけどねぇ、と続け、きしきしと笑う。
 ふぅん、とレイは気のない相槌を打った。何にせよ、この部屋の外には得体の知れぬものがごまんと溢れているのだろう。寝台に繋がれた身で、手の届かぬ物事を気にかけていても仕様がない。
「ねェ、天界ってどんなトコだったの? ココと比べてどう?」
 少女の無邪気な言葉に小さく息をつき、
「この待遇より悪い場所があると思うか?」
 言って、手首にかけられた枷を前へ示してみせる。塔の住人たちはきょとんと目を丸くし、首を傾げた。
「あら」
「なんだか厳重ねェ」
「緊縛趣向ってやつだね。ケケ」
「……わけわかんねぇ」
 軽い声音で語る三者とも、見目は小さく頼りないような姿をしているが、巨躯を誇る魔族などよりもよほど確かな力を備えているのがわかる。そんな冥界の者たちが敵意も見せず、それどころか明らかな興味と好奇の視線を向けてくる状況に、レイは構えていた身の力が抜けるのを感じた。
 眉寄せる顔をまじまじと見つめてきながら、ジュジュが意外げに口を開く。
「アタシたち、天使ってちょっとなよっとしてるって言うか、おとなしい種族のような気がしてたけど、そういうわけでもないのねェ」
 ずばりと言われ、さらに眉間の皺を深くした。特に気にしているわけでもなかったが、それは故郷において、天使長たちが無鉄砲な自分へ向けてたびたび唱えたたしなめと同義の言葉だった。
「悪かったな。俺は天使の中でも変わりもんなんだよ」
 普通の天使はもっと静かだ、と言うと、
「ふゥん。じゃあ、ヴァルナード様と一緒ねェ」
 そんな言葉が返った。
「……一緒?」
「『変わり者』ってコトさ」
「ていうか、冥王サマとか四王サマとか、ここで力の強いヒトたちってみんな変わってるわよねェ。力があるから変人なのか、変人だから力があるのか知らないケド」
「だから私たち、ヴァルナード様があなたを連れて帰ったとき、すごくびっくりしたの。ヴァルナード様って、四王様たちとはお友達だけど、他にはあんまり特別誰かと親しくしないような人だから」
 そう説明を受けても、今ひとつ合点が行かなかった。そもそもが出会って数日の、生きる世界を異にする存在なのだ。それが意外なふるまいだと言われても、自分には驚くことも感心することもできない。
 ただ増すのは、疑問の念ばかりだ。
「なんだかあんまり、仲良くなってないみたいね」
 黙りこくったレイに、蝶の羽の少女、ソランが呟いた。
「無理やり連れてこられて、良くなるほうがおかしいだろ」
 つんけんと返すと、三人が小さな頭を見合わせる。顔にはそれぞれ怪訝の表情が浮いていたが、無言の視線の応酬は、結局それ以上言葉を重ねないことに決めたらしい。代わりに、ふわと前に進み出てレイの顔を見上げ、ジュジュが明るい声で告げた。
「ずっと座ってるだけじゃ暇でしょ? アタシたち、レイの身体が治るまでここに遊びに来るわ。天界のコトとか、色々聞きたいことがあるんだから、無視しないでちゃんと相手してよね? じゃあ、これからヨロシクね。レイ」
「……ああ」
 小さく頷きを返す。三人の塔の住人たちは満足げに手を振ると、並んで戸のほうに飛び去っていった。
 鉄扉の閉まる最後の一瞬まで何やら喋り立てていた声が絶え、急に静寂が深まったように思える部屋で、少女の言葉を胸に反芻する。
『これから』。
 それは今から、一体いつまでのことなのだろう?

      ◇

 十日あまりというもの、時は単調に過ぎていった。
 どうあっても世話を焼いてやろうというのか、欲しいものはないかと騒ぐ少女たちに、何か時間か暦のわかる物を持ってきてくれるよう頼んだ。そうして枕元に置かれた小さな時計がゆっくりと時を刻む音は、その確かさとは裏腹の、不安定な己の身を、より色濃く感じさせた。
 小さな翼の住人たちは、言葉の通り頻繁に部屋へやって来ては、他愛ない話を弾ませて出て行った。時に絵姿の魔術師・ヌグマもそれに加わったが、主に聞き役に回って自らこの地のことごとついて語ることはなく、レイもまた、何かを訊ねかけようとは思わなかった。
 そして塔の主、『影の王』ヴァルナードは、朝昼にふらりと姿を見せるほか、夜の深まった時分に気まぐれに部屋を訪れ、レイの肌に触れた。

「っ……」
 細く気を吐き、男の手の中に熱を開放する。力の抜けた指が敷布から離れ、肩が寝台に沈み込む。
 そのまま、目を伏せ、ヴァルナードを無視して眠ってしまおうかと思った。レイが気を飛ばすか、ぼうと伏している間に、男は姿を消しているのが常であった。
 しかしこの日、塔の主はレイの汚れた身体を清め服を整えると、そのまま何をするでもなく、隣に横になったままでいた。しばし気配をうかがうが、寝台を降りて立ち去る様子はない。視線を感じ、目蓋を上げて怪訝に顔を見返すと、長い指についと翼が取られ、撫で梳かれた。日の巡るうちに、生えかけの状態だった右の二翼が伸びそろい、今は元の四つ羽の姿を取り戻していた。
「……なんだよ」
 意図が読めず、ぽつりと言うと、
「眠らんのか?」
 逆に問いを重ねて返された。
「寝るけどよ」
「なら、気にせず寝ればいい」
 どうしたって気になるだろ、と撥ね返しかけた言葉をさえぎるように、ぐいと身を強く引き寄せられた。長身の男の肩口に埋まる格好になった頭が、下から回った手にゆるやかに撫でられる。身をよじって離れようとするが、背を捕らえた腕はゆるまず、そうこうとしているうちに、疲労した身体は深い睡魔に襲われた。
「ほんっと、わけ、わかんねぇ……」
 回らない舌で音を紡ぐ。仮にも居所の主である男を「変人」と臆面もなく評した少女たちの陽気な声が耳に甦った。
 わからない、と、幾度その言葉を口に、そして胸にくり返しただろう。絵で言葉で言い聞かされても、何も明然とした理解にはならない。薄もや立ち込める闇の中を、鎖のかけられた脚を引きずり、灯りもなくふらふらとさまよっている。
 わかるのは。ただ、わかるのは――
「レイ」
「んん……?」
 遠ざかる意識のまま、耳元に落とされた名に朧な相槌を打つ。ふっといつもの抑えた笑いが鳴り、目蓋に落ちた唇の感触に促されるようにして、レイは静かに眠りの淵に沈んだ。


 頬を滑るかすかな風に目を覚ました。
 首をねじり、枕元の時計を見上げる。針はとうに朝の刻を過ぎ、だいぶん遅い時間を示していたが、いつもなら目覚まし代わりのかしましい話し声を連れて現れる小さな住人たちも、塔の主とその参謀も部屋を訪れた様子はない。
 ぼんやりとしたまま上体を起こすと、かしゃん、と近くで金物の砕ける音がした。反射的に向けた目を、しばし事態を掴めずその先に釘付けにする。白い敷布の上、手と左の足首にはめられていた枷が割れ落ち、鉄片が寝台の上に散っていた。
 声なくあたりを見回す。人の視線も気配もなく、いつもと違う景色と言えば、寝台の隅に置かれた布のふくらみだけであった。レイが身を起こした拍子でか、臙脂色の布が横へずれ、わずかに下が覗いている。その形の既視感に指を震わせながら、ゆっくりと手を伸ばし、布をはぐ。くっと、息が止まった。この場に異質の色を閃かせるように現れたのは、天使の戦着と、鞘に納まった二振りの長剣だった。
 身を納める鞘こそ変わっていたが、引き出した二本の剣は、確かにレイが戦場で振るい、魔族の攻撃に取り落とした愛刀に間違いなかった。魔族たちの悪しき血が落とされ、鍛え抜かれた剣の輝きは一点の曇りもなく刀身に冴え渡っている。横に置かれた戦着も、一体どこから調達したのか、天の聖糸を編んで作られた正真の物である。さらに寝台の下に目を移せば、革造りの長靴が揃えられている。
 忽然と現れた品を手に呆然と身を固め、それが幻でも影に溶けてしまうような物でもないと充分に得心したところで、レイは考えるのをやめた。
 服を脱ぎ戦着を身に着け、腰帯を締めて二本の剣を左右に提げる。背を伸ばし、この部屋に連れられて初めて、自らの両脚で地に立った。四翼を広げ、ゆっくりと動かす。足先が床を離れ、空気が巻いて沈んだ埃を散らした。
 と、その羽の間を、先にも感じた細い風が抜けた。翼をたたんで降り立ち、寝台を離れて壁へ向かう。きぃ、と高く音が鳴り、正対した鉄の扉がゆっくりと外に開いた。
「誰か、いるのか?」
 戸の前に立ったまま声を放つ。返る音はない。
 胸に溜めた息を一度深く吐き出してから、レイは上へと続く石造りの階段に足をかけた。


 途中何度か足を止め、廊下に並ぶ部屋の戸に手をかけたが、鍵がかかっているのかいずれも取っ手が回らず、窓も全て閉め切られていた。灰色の雲にはばまれ、窓下の外界の様子は見通すことができない。ほかに当てもなく、誘われるように上へ上へと階段を登る。そうして、それなりの道のりをひとつの人影、ひとつの気配にすら妨げられることなく、レイは黒の塔の最上階とおぼしき場所にたどり着いた。
 途切れた階段の先、板敷きの廊下の奥に、両開きの戸が開け放たれているのが見える。ゆっくりと歩み寄り、部屋の中に足を踏み入れた。ひと揃いの調度と種々の本や書状が置かれた様子は、確かにそこが主を持つ部屋であることを物語っていた。
 奥に置かれた大机の前まで進んで術なく立っていると、またきぃと近くで音がする。つられるように顔を上げれば、頭上、机の後ろの大窓が外へ開いていた。
 目を疑い、息呑みかけたその時、
「もう体の具合はいいのか?」
 背に低い声が鳴りかかり、はっとして振り向く。開いた扉の間に立っていたのは、黒衣の塔主・ヴァルナードだった。
「ここは私の私室だ。近頃ばたばたとしていたせいで、少し要らぬ物が多いがな」
 こちらへ足を進めて近付いてくるでもなく、常の悠然とした口調で語る。
「……これも、『要らない物』だってか」
 レイは言い、己の腰に提げた二本の剣を示した。うむ、とヴァルナードが頷く。
「魔族どもが聖銀を嫌って戦利品ともせず、戦場に捨て置かれていたものだからな。拾っておいた。眠らせておくには惜しい品だが、私は剣は使わん」
 お前に返そう、と続ける男に声を張り、
「その気になれば、こいつでお前の首を落としてやることもできるかもしれないぜ」
 言って足を引き、片手を抜剣の姿勢にする。ヴァルナードは身じろぎもせず黙ってレイを見つめている。
 しばしの視線の交差ののち、レイは詰めた息を落として自ら構えを解いた。鞘を支える手を腰に寄せたまま、首を巡らせて背の大窓を振り仰ぐ。
「窓、開いてるぞ」
「そのようだな」
「わざと開けておいたのか?」
「ふむ」
 さてどうだったかな、と表情を変えずに言う。
「……お前、ほんとに」
 わけわかんねぇ、と続けかけたレイの言葉より早く、騒がしい声と羽音とともに、塔の小さな住人たちが息せき切って現れ、ヴァルナードの横を抜けて部屋へなだれ込んできた。
 開かれた大窓とその下に立つレイを見て目を開き、叫ぶように言う。
「ちょっとレイ、行っちゃうの?」
 問われ、また窓の外の灰色の空を仰ぎ、少しの間を置いてから、
「そうだな」
 呟くように返すと、三様の抗議の声が上がった。
「急だねぇ。イザエラ様にも会ってないのに」
「なんで? 私たちのこと嫌いなの?」
「……そういうわけじゃねぇけど」
「じゃあずっといなさいよぉ。出ていったって、得なコトなんかないじゃないの。だって――」
 騒がしく並べ立てられた言葉がそこで一度ふつりと途切れ、意を決したようにジュジュが告げる。
「だって、冥界から天界には、もう戻れないんだから……」
 部屋に落ちた一瞬の沈黙の後、
「ああ、知ってる」
 ごく短く、レイは答えを返した。
 主の加護のもと自ら赴いた者ならばともかく、強いて魔界のさらに深みに連れられ、生きて戻った天使の話など、伝承の唄の中にも聴いたことがない。その天使の置かれた状況云々というよりも、行き来自体をはばむ何かが、二つの地の間に横たわっているのだろう。
 もしこの世界が魔の地と地繋がりであるのだとしても、二つの昏い世界を越え、天へと続くあの戦場へ何事もなくたどり着ける保証などない。そもいまだ戦場を分かつはずの聖境が薄れ無くなるまでには、これから何百日もの間があるだろう。何より――もはや聖境を越えることのできないだろうこの穢れた身体で、あの清浄の地に帰ることが、果たして許されるのだろうか? 万が一に許されたとして、あの聖と理を尊ぶ偉大なる父に、また何のわだかまりもなく接することが、果たして自分にできるのだろうか?
 それでも。
「それでも、行くよ」
 胸に決めたその言葉は、決して揺るがない。
 たとえ、「何故」という問いに、自ら答えを見出すことができなくとも。
 難しげに眉寄せる少女たちにふと笑んでから、いまだ微動だにせず扉の間に立つ黒衣の男に視線を移す。その薄い唇が開かないのを確かめ、腰の剣をひと振り抜き払った。小さな住人たちがびくりと身を縮める。
 レイは抜いた剣を両手で身の正面に立てて構え、しばし無言で正対してから、また鞘に納めた。翼が広がって風を叩き、床を後ろに蹴った足先が大窓の前に浮いて止まった。
「……世話になった」
 小さく言い落として、返る言葉を振り切るように、窓から身体を宙に投げ出した。胸に激痛が走るのを予期し――半ば期待していたが、翼が折られ地に叩きつけられることもなく、身は風を裂いて塔の景色を後ろに押し流した。
「古式の敬礼じゃな」
 窓に飛びついた少女たちの後ろで、赤い光とともに現れたヌグマが声を落とした。
「行くあてなんて、ないくせに……」
 頬を膨らませて少女の呟く空の向こう、翼が灰色の雲を裂いて見る間に遠ざかっていく。聖光をまとったその雄々しき鳥の姿を、塔の主の虚眼が物言わず映し続けていた。



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