鎖縁


 「黒の塔」での数日がゆるやかに過ぎていた。
 塔の住人たちは皆それぞれにひと癖を持ちながら接しづらいということもなく、もとよりレイ自身、慣れない環境にしり込みをするようなたちではない。他愛ないやり取りの中、特段の厄介事も起きず、朝が訪れ夜が訪れまた朝が昇り、粛々と日が巡った。
 一通の手簡が塔に届いたのは、五日目の朝であった。

 部屋を出て、途中の階段で行き会った三人の翼の住人たちとともに広間へと降りると、塔の主と絵姿の魔術師が身を並べ、広げた書状に目を落としていた。
「おはよう、ヴァルナード様、ヌグマ様。ナニ読んでるの?」
 ついと二人の頭上を越え、ジュジュが訊ねる。レイも歩を進めてヌグマとは逆側に並び、塔主の手元の書状を覗いた。三つ折の羊皮紙の上に癖のある字が並んでいる。書庫の本の中にも混ざっていたこの地独特の書法が使われているのだろうか、ところどころに覚えのある文字は見えたが、内容の判読にまでは至らない。
「夜宴の招待状だ」
 ちらと塔の住人たちを見、ヴァルナードが返す。
「冥界でもそんなことやるんだな」
「あるところでは三日と置かずある。集まったからと言って銘々が親しいわけでも、親しもうとするわけでもないがな」
「みんな懲りないわねェ。ヴァルナード様、行かないでしょ?」
 広く他人と親しむ性格ではないと話の種にされていたのを思い出し、レイも当然その問いに頷きが返るものと予想したが、当の男はふむ、と考え込むような仕草を見せ、
「普段なら考えるまでもないが、主宰にひとつ借りがある」
 そう言った。ふっと意外の声が上がる。
「ケケ。『影の王』ともあろうヒトが、こりゃ珍しい」
「ほんと。でも、ならちょっと行ってちょっと話して、すぐに帰ってくればいいと思うけど」
 二人して熱心に考えてるなんて、と首傾げる少女の言葉に答えたのは、「二人」の一方、塔の参謀のヌグマだった。彩色の絵に銀糸の螺旋模様が浮かび上がる。
「招待の宴がの、『鎖の会』なんじゃよ」
 あら、と声が落ち、場の視線が一斉にレイに集まった。不意に向けられた矛先に思わず翼を立て構える。
「……なんだよ」
 今までの会話の中身さえ理解半分といったところであり、部外者の自分には関係あろうはずがない。そう思って声を返すと、ヴァルナードが紙をたたみながら、
「『鎖』とは囚人を繋ぐ鎖のことだ」
 短く言い落とし、その続きをヌグマが拾って、つまり、と結んだ。
「つまり『鎖の会』とは、奴僕を披露する宴なんじゃよ」
 ぽかんと口が開く。つまり、と同じ言葉で呟いた。
「つまり、俺か」
 視線の意味を理解したレイに、そういうことだとヴァルナードの頷きが返る。
「興があると見れば毎度手早いものだな」
「もぅ、感心してる場合じゃないわよ。ヴァルナード様」
「どう話が伝わったんだろうねぇ」
「ホントに行くの? あんな悪趣味な会」
 怪訝な声が交わされ、また視線がこちらを向く。どんな宴か想像もつかないが、どうやら愉快と言いがたいものであることは確かなようだ。ヴァルナードは顎に手を置き、思案を巡らせている様子でいる。
 広間に落ちた一瞬の沈黙に、
「別に――」
 こぼれた言葉は、自分の口が発したものだった。
「別に、俺は構わない。行くんなら、付いてく」
 ええ、と二人の少女が揃って声を上げる。すいと前を飛んでレイをあいだに挟み、苦言を並べた。
「ちょっとぉ、やめときなさいって。どんなヘンなのが来るかわかったもんじゃないんだから」
「借りがあるのはヴァルナード様だもの。レイが行く必要はないわ」
「そうそう。ヴァルナード様が一人で行って一人で帰ってくればいいのよぉ」
「容赦ねぇよな、お前ら」
 当人を横にして交わす言葉ではないと思うのだが、その当人には特に非礼を咎めるような態度は見られず、また『奴僕』である自分も、まるで遠慮のない点では彼女たちと同じである。そう強く言えたことでもない。
 ふうと息をつき、声を続ける。
「どっちにしろ俺には拒否する権利も理由もねぇし、そのほうが面倒がないっていうなら、あれこれ話してるより行っちまったほうが早いだろ。……この世界の催しもんに興味がないわけでもない」
 返事を促すように隣の長身を見上げると、ヴァルナードは口の端にいつもの笑いを浮かべ、
「あまり興を寄せて得のある趣向でもないがな」
 言って手の紙片を影の中に放り消し、きびすを返しながら、陽が落ちたら出る、と残して広間を立ち去っていった。
 背を見送るひと間を置いて、残された住人たちが口々に喋り出す。
「あーあ、もぅ。勝手に決めちゃってぇ。なんかあっても知らないんだからね」
「血の滴る闇夜の宴か。最高だねぇ、きしし」
「ギィったら、嫌なこと言わないでよ。ね、別に大丈夫よね、ヌグマ様」
 ソランの問いかけにヌグマがくるくると絵の中の彩色を回し、こちらへ身を向けて言う。
「うむ。そう構えることはないよ。何があっても気にせず普段どおりにしていればいいんじゃ。儂もヴァルナード様にお供するからの」
「ああ、うん」
 頷くが、言われるような「何か」が全て想像の範疇外なのだから、構えることなどもともとできなかった。
 無意識に腰の剣を握り、かちゃりと鳴らす。自分はただ後を付いていくだけだ。そうして何を聞き、何を目にしようが、何がこの身に降りかかろうが、もう決して目を背けはしない。あの暗い町の裏道に膝をつき、同胞の胸に刃を突き立てた瞬間から、世の全てに相対する覚悟はできているのだ。
 ただあるのは、漠然とした不安だけだ。
「……あれから、ここを出るのは初めてだな」
 ぽつりと漏らした呟きに、そういえばそうねェ、と横から相槌が打たれる。
「でも今度は、ちゃんと帰るのがわかってるから安心ね」
 くすくすと笑いが鳴る。うるさいな、と決まり悪く言葉を返しながら、男の出て行った広間の口を見つめた。
 不安なのは塔を出ることではない。行く先で何があるのか、何を見るのかということでもない。ただ不安なのは――
 そうして塔を出たとき、自分の心に何が起こるのだろうかということだ。


 陽が落ちて出発の声をかけられ、住人たちとともに門の外へ出た。身を包む空気の質はやはり天界のものとはまるで違ったが、それでも羽の間を抜ける風は心地良かった。
 先に出てイザエラと声を交わしていたヴァルナードがレイの姿に気付き、手を上げて合図してから、ひょいと何かをこちらへ投げ寄こしてきた。
「……なんだこりゃ」
 受け止めたのは、小さな輪型の革帯だった。留め具がついているが、腰に巻くにはいささか短い。
「きしし。見ての通り、首輪だよぉ」
「首輪?」
「『鎖の会』の決まりなのよ」
 言葉をおうむ返しにしたレイに、帯の端から下がる細い鎖を示してソランが答える。
「付けろってことか……」
 その名の示す通りに首にベルトを回しながら、犬みたいだな、と考え、いやと思い直す。喩えるまでもなく、まさしく犬の扱いであるのだ。
「けどよ、これはなんか意味がなくねぇ?」
 実際にはめてみると、鎖は肩を通って背に垂れているだけで腰に届くほどの長さもなく、引き綱の役割などまるで果たしようがない。
「形に決まりはない。単なる形式だからな」
 それとも引かれて歩きたいか? と問うヴァルナードに、遠慮しておくと眉を寄せて答える。このうえ首など引かれては身動きも難儀だ。
 そうだろうなと笑う男は、影を身に寄せるでもなく立ったままでいる。
「行かねぇのかよ」
「すぐに出る。慣れないところに当て推量で飛ぶのも面倒なのでな。ちょうどゼルグが戻ったところだ」
 今呼びに行かせている、と言う。初めて聞く名に問いを上げようと口を開いた時、遠くからがちゃがちゃという重い金属が揺れる音と、地面を蹴る硬い音の連なりが門へ近付いてくるのが聞こえ、レイは声を納めて振り向いた。
 屋根のない軽車を後ろに繋ぎ、イザエラに轡を引かれて歩いてくるのは、見事な体躯をした一頭の馬であった。全身が艶やかな黒毛に覆われ、風になびくたてがみと小気味よく音鳴らす蹄の先から、青い炎がゆらゆらと立ち昇っている。
 馬はヴァルナードの横に足を止め、鼻鳴らして胴震いをした。
「いい馬だな」
 天界にも翼を生やした天馬たちがいたが、自ら空を翔けることのできる天使が乗騎として使う例はまれで、またもともと繊細な性質に生まれついていたこともあり、これほど大きくがっしりとした体格の駿馬はいなかった。
「ゼルギオンだ。知り合いに貸していたのを返させるのが遅くなってな」
「ふぅん。……じゃ、これでやっとここの全員に会ったわけか。俺はレイシスだ。よろしくな、ゼルグ」
 呼びかけ、手を伸ばして長い鼻梁を撫でる。物珍しげにレイを見つめていた主と同じ漆黒の瞳が、ぱちぱちと瞬きを返した。
「おとなしいな。背中には乗れねぇのか?」
「一人の時は鞍を付けることもあるが、今日は車だ」
 乗ってくれ、と言うのに頷き、ゼルギオンの頭上を翼で越えて黒塗りの車の後部席に降りた。隣にヌグマが平たな身を据え、前に手綱を握ったヴァルナードが乗り込む。
「では行ってらっしゃいませ」
「何かあったらちゃんと連絡してね」
「きしし、お土産よろしく」
「二人とはぐれないでよ、レイ」
 口々の見送りの言葉を背にゼルギオンがひと声高くいななき、鉄のながえをきしませて、夜闇に染まった星のない空へと駆け上がった。

 宵闇の中、眼下の景色が見る間に後ろへ過ぎていく。車のためなのか、それとも炎をまとって翔ける冥府の黒馬の力によるものなのか、揺れも風もほとんど感じられなかった。
「どこでやるんだ? その『鎖の会』ってのは」
 一度塔を出た折とは別の方角へ向かっているようだ。後ろから問いを放ると、
「墓場だ」
 そう、短く声が返った。
「墓場?」
「ほほ。もちろん本物の墓場ではない。通称じゃよ」
 意想外の答えを受けて声上げたレイに、ヌグマが笑って説明を足す。
「陰気な場所なことに変わりはないがな。さほど遠くはない。半刻ほどで着く」
「ふぅん……」
 曖昧に頷き、また夜景へ目を向けたところに、
「――何が知りたい?」
 突然訊ねかけられ、レイはえ、と目を開いた。自分はひとつ問いを発したばかりで、ほかに何かの素振りを見せたつもりはない。妙な問いかけはしかし、今この瞬間には確かに核心を突いた言葉だった。男は手綱を繰りながら、
「昼から何か気にかけていたろう。訊きたいことがあるのなら、遠慮はいらん」
 肩越しに後部席を振り向き、それとも私の勘違いだったか? と言う。レイは虚眼の中の赤い光を見、ゆるりと首を振った。
「いや、違わない。……その」
 ひとつ呼吸を置き、言う。
「これから行く先に、俺みたいな天使とか、人間は、いるか?」
 話を受けた時には自身のことにしか考えが至らなかった。だが、弱った天使や力を持たない人間が魔族たちの虜囚になることは既に知っている。ならば、自分やあの町で出会った天使のように、この地に流れ着いて何者かの手に渡り、鎖を引かれてくる者もいるのではないだろうか?
「だからどうってわけじゃねぇんだ。……ただ、気になって」
「ふむ」
 喉に思案の声を鳴らし、ヴァルナードが答える。
「冥府の地全体で見れば、ほかにいないとは言わん。だが、今日の『会』は、場所柄少し癖があるものだからな。天界や地界の者は来ないだろう」
「そうか」
 小さく息をつく。それが安堵の色を帯びていたことに、ひそやかな苦笑を漏らした。何があろうと翼を折らないと決めた心も、やはりその奥底ではまだ静穏を望んでいる。
 ヴァルナードがふっと笑いを浮かべ、
「第一に、そんな者たちが来ると知っていて、広間に書状を広げたりはせん」
 そろそろ私の心をわかって欲しいものだな?
 言い落として、また前に向き直った。
 沈黙が鳴り、ただ車の外に吹く風の音だけが過ぎる。へりに肘を置き頬杖をついて、手の中にぽつりと声をこぼす。
「……わかってるよ」
 己の耳にさえ届かなかった音は、すぐに闇に呑まれて散り消えた。
 塔の住人たちだけではなく、その主も、必要以上に自分を構っていることなどわかっている。あれこれと寄せられる言葉が、多少の揶揄や冗談は含まれても、みな嘘ではないことなどわかっているのだ。
 今朝のこともそうだ。自分から行くと言い出したのは、沈黙に耐えられなかったからと言うより、男の悩む様子を見るのに耐えられなかったからであった。
(勝手に決めて、行くから来いって言やぁよかったんだ)
 牢から自分を連れ出した時のように、寝台に繋ぎとめた時のように、強引に腕を掴めばよかったのだ。是も否もない。ただそれだけのことで、全てが済んでしまうのだから。
 選択を与えられると、考えざるを得なくなる。塔を出てその外に身を置けば、立ち戻って塔のことを見ざるを得なくなるのだ。
 翼を寄せた首元で、銀の鎖が揺れる。どこにも繋がらない輪だけの枷は、今の己そのものだ。
 冥府の夜宴を見て、自分は何を思うのだろう。
 宴が終わり、また塔の部屋に戻ったその時、自分は一体何を思うのだろう?


       ◇


 車が降りたのは、丘陵をひとつ越えた先の森の外れであった。
 地面にかすかに浮かび見える道の先、絡み合う木々を背に、苔むした石壁の館が建っている。外観だけを見ると横はそれなりに広いが、高さはおそらく一、二階層分ほどしかなく、宴を開くほどに立派な屋敷とは言いがたいようにも思える。と言って、通称の「墓場」という言葉がそのまま当てはまるほどに索漠として見えるわけでもない。
「ゼルグはどうしますかな?」
 車から降りて道に並び、ヌグマが問う。
「主宰が大公ならばまだ信用は置けるが、墓場の厩舎に預けるのは気が進まんな」
 答えてヴァルナードは車の轅をゼルギオンから外し、首元を叩いて命じた。
「帰りに呼ぶ。近くで休んでいてくれ。だがこのあたりのものとはあまりじゃれ合わんことだ。たちの悪い輩ばかりだからな」
 ゼルギオンは主の言葉に了承を唱えるように低くいななくと、蹄を鳴らして館と逆の方向へ道を歩き去っていった。
「さて、行くか」
「車はそのままでいいのかよ?」
 問うと、構わん、と軽い答えが返る。首を傾げながらもレイは道を歩き出す二人の後を追った。
 正面の門は開いていたが、館の中へと続く扉は閉め切られており、守衛の姿もない。ヴァルナードは影の衣から招待の書状を手に取り出し、前へ示した。奇妙な赤い炎の印が紙と扉の上に浮かび上がり、書状が焼け崩れて消えると同時に、門扉が重い音を立てて内に開き始めた。


 夜闇をまとって現れた新たな客の姿は、館の空気をしんと張りつめた一瞬の沈黙と、それを破るどよめきに染めた。
 レイは道端に放り出された車の扱いに納得した。牢獄の魔族たちや、さほど闇深くもない寂れた裏町の住人にもその名が届いていたほどだ。まして膝下とも言えるこの地では、「影の王」の威はいかばかりであることか。鎌の紋の刻まれた物には、いくら厚顔な盗人でも手出しはしないだろう。
 ヴァルナードの姿に驚きの声を発した者は、次にその後ろに立つ異界の白翼に気付き、好奇の目を投げ寄こしてきた。遠慮のない視線に眉を寄せつつ、宴の客たちを眺め返す。町で見た者たちと同様の様々な姿の中にレイは自分と同じ翼を持つ者を探したが、道中に教えられたとおり、ひとまず天界の同胞や人間の姿は見当たらなかった。
「ご機嫌よう、影の王」
「大公の言っていた賓客とはあんたでしたか。これは来た甲斐があった」
「墓場に四つ羽の鳥とは、また珍しい」
「『鎖』を持っていたとは聞かなかった。いつ手に入れられた?」
 口々に浴びせられる声と歩み寄る客のあいだをすり抜け、石床に靴音を響かせながら、ヴァルナードは館の中心へ悠然と歩を進めていく。後ろにはヌグマが浮かび、レイは前後を挟まれる格好で男に続いた。さほども歩かぬうちに人が切れ、正面に、室内にふさわしからぬ低い壁が伸び立っているのが見えた。
 前をさえぎって横へと伸びる壁の向こうで、槌を地面に打ちつけるような鈍い音がし、があ、と獣のうなりとおぼしき声が上がる。近付くにつれ広間の外形が把握された。音は客の立つ広間の同線ではなく、その脚下、地下へと掘り込まれた空間で鳴っている。広間の中心を方角形に区切るその石壁は、「客席」と「墓場」とを分ける柵であった。
 二度目の音とともに血しぶきが立ち、巨大な狼とも熊ともつかぬ異形の獣が、どうと血に倒れ伏した。柵を囲む見物客たちが拍手と歓声を上げる。全身から血を滴らせて立つ獣と、倒れて瀕死の息を鳴らす獣、そのどちらもが、鎖の垂れ下がった輪を首に巻いていた。
「……そういうわけか」
 呟きを落とす。しもべを死合わせるのを目的とする会なら、弱った天使や力のない人間を連れ集める意味はない。
「今のは魔族でもなかったんじゃねぇか?」
 問いにヌグマがうむ、と絵身を頷かせ、
「魔技によって造られた合魔獣キメラじゃよ」
 今夜はそういった種のものばかりが来ているはずじゃ、と言う。
 見下ろす間に獣の息は絶え、方形の闘技場の壁から現れた館の従僕らしき者たちの手によって、二本の鎖が引き立てられていく。勝者の名が告げられ、広間の一角に高らかな笑いと拍手が起こった。
「さあ、ほかに誰か俺の『鎖』の相手をするやつはいねぇのか?」
 得意げに上がった声の主は獅子の頭を持つ巨躯の獣人だった。今日の会の一番手であるらしく、場には諦めの苦笑が鳴るのみで、呼びかけに応える者はいない。なんだなんだと呆れたように囃しながら客を眺めまわしていた目が、騒ぎに振り返ったレイに向けられ、視線がかち合った瞬間、にいと笑いを浮かべた。砂を噛むようなざらりとした嫌悪感を覚え、レイはヴァルナードの隣でその眼を睨み返した。
「影の王!」
 獅子の口が開いて呼び声を叫び、客の間を割いて巨体がこちらへ大股に歩み寄ってくる。
「鳥が『墓場』に来るなんざ滅多にない。黒の塔の大将、記念にうちのとひと勝負させねぇか? あんたなら賭け額もでかそうだ」
 一匹だけみてぇだから死ぬ前にはやめてやるよ、と笑いを鳴らし、腕を組んで正面に立つ。他の客たちも交わす声をひそめ、興味深げにこちらのなりゆきを窺っている。
 ヴァルナードは身じろぎもせず、
「悪いが、賭けに興じるほど長居するつもりはない。大公に会いに足を運んだだけでな」
 普段の調子でそう答えた。
「なんだぁおい。その首輪は飾りだってか?」
 大げさに肩すくめる獣人に、そんなところだ、と返す。さやさやと残念の声を漏らす客の反応を賛助に、はっ、と獣人はこれ見よがしの息を落としてみせた。
「鳥ってなぁ、見た目が綺麗なだけでなんの役にも立ちやしねぇな。飛び回って主人の機嫌をうかがうだけが能と来てる。四つ羽やら六つ羽やらの力は冥界の住人にも劣らねぇって聞いたが、ついこのあいだ、魔族とのチャンバラからもみっともなく逃げ出したっていう話じゃねぇか」
 おおかた、剣を放り出してお山のジジィのモンでもしゃぶってたんじゃねぇか? ――そう嘲りの声が落ちた直後だった。
 高い鞘鳴りの音とともに広間の薄明かりを銀の閃光が裂き、斬り飛ばされた獅子の顎下のたてがみがはらはらと宙に舞う。ざわり、驚嘆のざわめきが渡る。
「ぐっ……」
「――確かに」
 前に低く踏み込み、抜き放った剣を獅子の首元に突きつけた姿勢のまま、言う。
「確かに、あの戦は隊長格の天使たちの油断から大きな損害を出した。敵を侮って、多くの若い兵たちにむごい死に方をさせた。俺が今こうしてここにいるのも、自分自身の力が足りなかったからだ。言い訳はしない。罵りたいならいくらでも罵ればいい」
 信じられないものを見る目で、獣人は自分の首元の剣の切っ先と、その主を見下ろしている。レイは剣と同じ閃光を宿した瞳で獅子の顔を睨み上げ、静かに、しかしわずかの揺らぎもない鋭い声音で言葉を続けた。
「だが、俺の故郷と同胞にいわれのない謗りを叩くのは絶対に許さない。それ以上減らず口を続けるなら、天界の主に代わって天軍第二中隊隊長レイシスが貴様の首をもらう」
 広間にしんと静寂が落ち、やがてそこここから拍手と囃し声が上がり始めた。獅子の顔が怒りと羞恥に震え、噛み締めた牙がぎりぎりと音を鳴らしている。レイは獣人の手が伸ばされる前についと剣を引き、その間合いの外へ飛びすさった。
「てめぇ、いい度胸だっ!」
 獣人が胴間声を張り上げる。
「おいてめぇ、今すぐ下に降りて、俺と死合え。この場に来て鎖を付けてるんだ。嫌とは言わせねぇぞ、影の王」
 憤怒の炎の灯った眼でレイを睨めつけ、その横手に立つヴァルナードに向けて言い放った。ヴァルナードは腕を組んでふっと笑い、
「先にも言ったが、私は今夜の闘技に参加させるつもりでその男を連れてきたわけではない。だが――」
 一度言葉を区切ってレイに視線を寄こし、言う。
「その意思を拒否する理由も、ない」
 わあ、と周りから声が上がる。レイはヴァルナードに軽い頷きを返し、相手に半歩進み出て告げた。
「俺はいい。準備はできてる」
「……はん、悪いが影の王、せっかくの貴重な『鎖』を今夜で失くすことになるぜ」
 獣人は悪態を残して身を翻した。どこかに闘技場へ続く階段があるのだろう。レイは翼を広げてふわりと飛び上がり、柵の上に立った。首を後ろにねじって問う。
「死んだら終わりか?」
「決まりはない」
 短い答えにそうかと頷き、石壁を蹴って脚下の闘技場へ身をほうった。

 上から見るよりも長い壁を過ぎて降り立つ。地面には土が敷かれており、「墓場」の名にふさわしく、多数の獣の骨が転がっている。上から続く壁は一度鉤型に折れて奥に落ち込み、鉄の扉を二枚ずつ立てて四方を囲んでいる。やがてその一枚が開き、獅子頭の獣人が姿を現した。軽装の革鎧を着け、手には身の丈ほどもある抜身の湾刀を握っている。
「黒の塔の大将のもんだろうがなんだろうが、『墓場』で容赦は一切なしだ。そのけったいな羽、体から切り離してやる」
 吐き捨てるなり、開始の合図も待たず気勢を発して刀身を振り上げ、こちらに走り込んでくる。レイは突進を裂ける代わりに双剣を抜き払って自分も地を蹴り、低空で飛びつつ繰り出された刃の横を寸前でくぐり抜けた。行き違い、砂埃を立てて再び相手へ向き直った両者のあいだに、毛の束が散る。
「なら俺は、その邪魔くせぇ毛を丸刈りにしてやるよ」
 言って剣を立て、右頬のたてがみを半分そがれた獅子の顔にその切っ先を突きつけた。
「っ……、てめぇっ」
 ぎり、と鳴らした牙の音が地面に落ちる前に、巨体が動いた。獣の足はひと蹴りで間を詰め、刀が大きく横薙ぎにされる。常なら相手の胴を斬りさばいたであろう湾刀はしかし、重い音を立てて空を裂き、一瞬早く翼を広げて飛び上がっていたレイの長靴が厚い刀身の上に降りた。
「間合いの長い武器は、懐にもぐり込まれると厄介なんだよな」
 簡単に近付かないほうがいいぜ、と言い落として獅子の頭を蹴りつけ、そのまま背後に降りる。振り向きざまに落ちる湾刀を身を翻して避け、逆にその下をくぐって肉薄し、剣の柄頭でむき出しの脛を鋭く打つ。獅子の口から苦悶の声が漏れた。
 そのまま、怒号とともに振り下ろされる刀を寸前で避け、舞い上がって一撃を見舞うのをくり返した。刃に込められる力と身ごなしの速さは魔族のたぐいと比べるべくもなく、レイとて正面から向き合って剣を交わそうとするほどの思い上がりは持たなかった。だが距離を置かない一対一の白兵戦である限り、動きの種類にさほどの差はない。隙の大きな重武器を持つ魔物とやり合うのは得手である。
「ちょろちょろ飛び回りやがって……」
 意に染まない戦いを強いられ、苛立ちと身の痛みに荒い息を吐く獣人がレイを睨みつける。と、その眼が何事か気付いたように歪み、にいと口角が上がった。構えに変わった様子は見えないが、レイはその表情の奇妙に用心を決め、向かってきた獣人の身体を横に大きく避けた――はずだった。
「っ!」
 抵抗を受け、上体が引き残される。前方に回った首輪の鎖が太い腕に掴まれていた。
 しまった――。
 ちっと舌打ちをする。普段は無い細い鎖が身体の動きに遅れて振れ、測った間合いより前へ出てしまったのだ。獣人の突進は初めから湾刀を当てるためのものではなく、レイの意識を逸らせて鎖を掴むためのものであった。
「鎖を使って引き倒すのがここでの定石だ」
 獅子の顔が笑う。輪に指を寄せるが、革は硬く、容易に引き千切れるような物ではない。掴まれれば目方では圧倒的に不利であり、太い腕に軽々と身体を持ち上げられた。咄嗟にゆるく巻いた輪の中に手を入れて力を込め、首が締まるのを防いだ。そのまま言葉の通り引き倒されるものと身構えたが、獣人は腕に宙を浮かせたまま、吊り上げたレイを眺めて愉快げに嗤い、ぐるりと鎖を回して客席のほうへ身を向けさせた。ハハァ、と耳元で得意の声が上がる。
「影の大将、あんたの鳥、ここの規則通り八つ裂きにしても構わねぇな?」
 視線を上げれば、正面の壁の向こうに黒衣の男の姿がある。呼びかけにこちらを見下ろしたヴァルナードは、黙って腕を組んだ姿勢のまま、ふと唇の端に笑いを浮かべた。それを合図のように、背後の獣に声を落とす。
「近付かないほうがいいって、言っただろ?」
 転瞬、両者の身のあいだに挟まれていた四枚の翼のうち右の二翼が白光を放ち、鋭い剣と化して、獅子のたてがみの半分ごと、鎖を掴む腕を下から斬り飛ばした。
「うがああああっ!」
 血の噴き出る傷口を押さえ、獅子が苦痛の雄叫びを上げる。レイは鎖から腕を引きはがし、間合いを取って翼に付いた返り血を振り払った。
「一策立てておいて正解だったな。それとも、最初から卑怯と思わずに飛び道具を使ったほうが、そっちの傷が少なくて済んだか?」
 言って口の中に真言を紡ぎ直し、翼に集めていた力を手先に寄せ、雷爆ぜる光球を作る。
「てめぇっ……『鎖』ごときが……」
「『鎖』だろうがなんだろうが、俺の勝ちだ。死ぬまでやる決まりがねぇならもういいだろ。こんなつまらないことで殺し合いなんざごめんだ」
 もはや相手に立ち回りをする余力はない。言い落とし、剣を納めかける。
 と。
「おい、お前ぇら、奴を喰い殺してやれ!」
 憤激の合図とともに四方の鉄の扉が開き、猛り狂う合魔獣たちが一斉にレイに突進してきた。はっとして翼を広げるが、丈低い一体が頭上に跳んでいる。双剣を寄せ身を構えるも、防ぎ切れる数ではない。歯を噛み締め、来るべき衝撃を予想した。が――レイを囲むその寸前、合魔獣たちの脚がひたりと止まり、のみならず、口々にうなりを上げて地に倒れ伏した。客席に驚きの声が渡り、床下の「墓場」は一転静寂に包まれる。
 ゆっくりと構えを解いてあたりを見回せば、開け放たれた鉄の扉から白い鎖のような物体が伸び、合魔獣たちの身を捕らえて地面に縫い締めていた。赤黒い泡を吐いて伏している獣を呆気に取られて見下ろす間に、獅子頭の獣人がひくりと喉を鳴らし、弁明の言葉ひとつなく逃げるように扉の中に去っていった。
 事態を把握できないレイの頭上に、呼び声が降り落ちる。
「レイ、戻れ。闘技は終わりだ」
 わけのわからぬながらも言葉に従って飛び上がり、並んで待つヴァルナードとヌグマの横に降り立った。客のあいだに三人までの道が開き、その向こうから、小太りの身体を黒い衣服で固めた初老の男が歩いてくる。
 男はヴァルナードの正面に足を止めて礼をし、
「いや、なかなかの見ものであった。影の王、良い『鎖』を手にされたな」
 軽いきしみを帯びた声で言った。
「ゾゾ大公。相変わらずの盛況ぶりは結構だが、もう少し客を選んだほうが良さそうだな。『墓場』の下人は昔から覚えが悪い」
 すぐに金を掴まされる、と語るヴァルナードに、ゾゾ大公と呼ばれた禿頭の男はからからと笑い声を立て、レイに目を移して言う。
「そのようだ。驚かせてすまなかったな、四つ羽の」
 呼びかけを受け、声は返さず小さく頷きを示した。ヴァルナードに今朝の招待状を出した、今夜の宴の主宰なのだろう。丁寧で落ち着いた物腰をしているが、ぎょろりとした眼の奥に、どこか得体の知れない力を秘めているような印象を受ける。
「王ももう少しこうした場に出て頂ければ有難いのだが。下々には名前だけが響いて、とんでもない姿を想像している輩もおるよ」
「誘いは来るが、性に合わんのでな。今回も挨拶代わりに来ただけだが、予定より長居をした。このまま居残っても宴の邪魔になる。今夜は帰らせてもらうとしよう」
 淡々と答えながらそう告げ、引き止めの言葉も待たず、ヴァルナードは館の扉へ向けて歩き出した。では門まで、とその横につくゾゾ大公から数歩遅れ、レイとヌグマも並んで後を追う。宴客たちからの別れの挨拶を背に四人は扉を抜け、門の前まで来て一度足を止めた。
「では、またどこかの宴でお会いしましょうぞ」
 別れの辞にああ、と短く返し、ヴァルナードが身を翻す間ぎわ、大公の皺の寄った口が開き、すれた音が鳴った。
「貴公の『鎖』、大変良い太刀筋であったが――何か他にも業をもっているとか?」
 ヴァルナードは足を止めてふと笑い、
「相変わらず耳の早いことだ」
 言い落としてそれ以上の言葉は続けず、レイとヌグマに合図を示して門を抜けた。
 レイは十歩ほど歩いてから後ろを振り返ったが、既に門の向こうに男の姿はなく、館の扉も閉め切られていた。

「なんなんだよ、あのおっさん」
 車へ戻る道すがら、館の影が小さくなった頃合いで前を歩む二人に訊ねかける。
「ゾゾ殿じゃよ。夜宴を好む御仁でな。宴主やら、鎖の大公やらの名で呼ばれておる」
「鎖の大公?」
 教えられた二つ名に、鉄扉から伸びて獣を捕らえたあの白い鎖を思い起こす。間近で眺めるまでには至らず、すぐに上へ戻るよう呼ばれたため、その正体を見極めることはできなかった。
「にしても、あんな適当な挨拶で良かったのか」
 そもそもこの宴に足を運んだ理由こそ、「主宰への借り」が元ではなかったのか。あれだけのやり取りで借りを返したことになるとは納得しがたい。それともレイが獣人と剣を交わすさ中に、何やら場を離れていたらしいヌグマが別のやり取りをしていたのだろうか。あれこれ考え首を傾げてみたが、「構わん」とあっさり断ぜられてしまえば、それ以上に訊ねることもできない。
「何にせよ厄介な男だ。今夜のことで借りを作ったとは思わんがな」
 そう声続けてゆるめた歩をレイの横に並べ、
「もっと短くしておくべきだったな」
 言って、伸ばした手で革の首輪から垂れる鎖を持ち上げる。
「そんな小細工しなくても、あと十九通りの抜け方があったぜ」
 ふんと息を鳴らして返してやると、軽く鎖が横へ引かれ、革帯が首をすり抜けてからりと落ちた。
「これもその中の一通りか?」
 笑うヴァルナードの手の中で首輪と鎖が影に崩れ、融け消える。レイは舌打ちをしていつもの不遜な笑貌からふいと顔を背けた。


 扉を後ろ手に閉めて、着替えもせぬまま寝台に倒れ込んだ。長らく動かしていなかった身体に疲労がまとわりついている。情けなく思うとともに、助かったとも感じた。館に足を踏み入れてからの慌ただしさと、立ち会った出来事の奇妙に対する思考に取り紛れて、ほかに何を考えることもできなかった。――しなかった。
 それでもまるきり感慨を受けなかったというわけではない。むしろ、得たものが多様に過ぎて、対処の手が付けられなかった。部屋の薄明かりを見つめていると、形を成さない色さまざまの念に襲われた。きつく目を閉じ、翼で身体を包んで、沈黙を心にただ眠りの訪れを待った。
 寝苦しい夜だった。何度目かの寝返りのあと落ちた夢の中で、枕元に立つ誰かの指にそっと翼を撫でられたような気がした。


       ◇


 事前の約定もなく重要なやり取りを果たしに来るのも妙な話だ。またそれほどの急ぎの用ならば、ゆうべそう言ってヴァルナードをあの場へ引き止めれば良かったはずだ。別れぎわ、「またどこかの宴で」と言ったのはこの男ではないか。
 それじゃあ、と言って場を絶とうとしたが、隙間に入り込んだ靴先は外へ引き戻されず、どころか、ずんぐりとした手までが扉の間にかかった。さすがに眉寄せて口開きかけたレイの抗議を、きしんだ声がさえぎる。
「なるほど、野放図に見えて、なかなかしっかりと躾をされているものだ」
 寒気が背を這い上がり、レイはもはや礼儀も構わずつま先を自分の靴で押し、力の限り取り手を引いたが、びくともしない。みしりと戸板が鳴り、言葉が落ちる。
「それとも、王に出される前に、魔界の牢獄でしつけられたのかね?」
「なっ……」
 なぜ、それを。
 はたと男の顔を見つめる。既に支えきれないことが明らかな扉から飛びすさり、双剣を抜き構えた。半ば砕けるようにして扉が開け放たれ、ゆっくりと中に踏み入ってくるゾゾ大公の身体が、ぎしぎしと音立てて変貌していく。
 小太りの矮躯が膨れ上がって硬い表皮を成し、手足は伸びて二股に分かれ、樹の幹ほどもある節だった鉤状の四対の脚となり、頭部には鋭い顎が生えてがちがちと歯を合わせる。それは、胴体だけで牛数頭の重さがあろうかという、巨大な蜘蛛だった。鎧がすれるような異音とともにゆるやかに脚が動き、頭頂を覆う眼がぎょろりと回る。数重の漆黒の眼に見下ろされ、レイは己の喉が引きつれて鳴るのを自覚した。
 開いた顎の洞の奥から、人ならぬ声が滑り出る。
「不在、大いに結構。用があるのはおぬしだよ。『天のいとし子』」
「お前……」
 声が続かない。蜘蛛はからからと耳はゆい笑いを立て、
「牢獄の場所を調べた時にはまさかと思ったものだが、本当に名高き天の住人が冥府に堕ちていたとは、長生きもするものよ」
 そう言った。
「牢獄の、場所」
 ほつりとくり返す。朦朧とした意識の中で聴いた言葉が胸に甦る。
 ――魔界の牢獄の数は星ほどもあるものでな。探すのに手がかかった。
「じゃあ、借りってのは、あの時の」
 俺の――。呆然と声を落とすレイの前で硬い毛の生えた脚が蠢く。はっとして剣上げると、再び頭上で笑い声が響いた。
「まあそう構えるな。何も争おうと思って訪ねたわけではない。ただ提案に来ただけだ。――儂のところに来んかとな」
 なに、とレイが返すより早く、胸元で輝きが弾けた。目を落とすと、あの裏町の時と同じように、『影の王』の紋が服地を通して光を放っていた。
「所有の印章か」
 刻まれた者が主以外の存在に脅かされると輝くのであろう、その紋様の光にひるむでもなく、大蜘蛛はさらに一歩レイににじり寄る。
「王の印章と言えど、外す方法はなんなりとある。影の王は力は持つとも、『鎖』の扱いには長けておらぬようだな。その印、処遇とつり合いが取れておらぬように見える。天のいとし子よ、おぬし、身を宙吊りにされているのではないか?」
「っ……!」
 蜘蛛の顔に表情は浮かばないが、もしそれが見えるとしたなら満面に笑いを貼りつけていることだろう。がちがちと顎が噛み合わされる。
「ものの持つ身と業にはふさわしい分がある。そして与えられた分にはそれにふさわしい遇がある。あれこれと言うが、鎖に繋がれて分相応に生かされるのが結局はそれにとっての安寧というものだ。――良い声を持つそうだな、四つ羽の? 是非聴きたいものだ。儂のところに来れば、ほかの何にも悩み煩わされることなく、おぬしの分のままに暮らせよう」
 滔々と語り、「鎖の大公」・ゾゾは獲物の返事を待つ間を置いた。虫の顎からしゅうしゅうと吐き出される息の音と、胸内に鳴る鼓動が緩慢に時を刻む。
「……あんたの、言うとおり」
 構えを解いてふらりと床に落とした剣の切っ先を見つめながら、レイは静かに口を開いた。
「俺の首には、この土地で生きるための鎖がかかってる。ただあるだけの、どこにも繋がらねぇ宙吊りの鎖が」
 天に戻れぬ鳥が、闇の下で生きるために受け容れた虜囚という位。影の王に刻まれた鎌の紋。身を縛る名を持ちながら、しかし実を持たぬ鎖。
 開いた窓を抜けて去ることもできる。またおそらく今の自分は、胸の激痛に妨げられることなく、舌を噛み千切ることも許されている。
「どうしていいのか、何を思えばいいのかわからないことも山ほどある」
 本当の鎖に繋がれた身なら、何をも思い悩まず生きるのだろう。その鎖ゆえと、もはや揺るがしようのないことと、言い渡されるままの我が生を、言い渡されるままに暮らすのだろう。裏町で出会ったあの天使が、己を苛む鬼たちに笑ってみせたように。
 生者としての格も尊厳も奪われ、「物」として扱われる世界で踏みしめる足場もなく虚無を抱え、疲れ果てた天使や人間たちを相手に、この男は今まで幾度も同じ言葉を囁いてきたに違いない。そしてその言葉は、確かな魅力を持って響いたに、違いない。
 俺は――。
 ぐっと、床に落とした双剣の柄を握り締める。
「俺は、お断りだ」
 ぎしりと蜘蛛の脚が動いた。歩を下げることなく、レイは続けた。
「確かに、楽に暮らせるんだろうさ。何も考えず、何もかも主人の言うとおりに、『物』としての自分を受け容れて。……そんなのは、もう『生』じゃない。俺が、俺自身として生きていることにはならない。思い悩まないってのは、そうする必要がないからじゃない。そうすることさえできないからだ。それさえ、奪われたからだ」
 町で出会った傷付いた天使は、抱き起こされたレイの腕の中で、最期に心の奥底からの願いを口にした。殺してくれ、と。
「俺はそんなふうに生きたいとは思わない。知らないこと、わからないことだらけだ。それでも」
 息を継ぐ間も惜しく語り続ける。半ば意識を介さず、胸の内から直に紡がれる言葉が声となって我が身に戻ることで、己の心が明らかにされていく。
「それでも、俺は自分の意思で、ここにいることを決めたんだ」
 初めは強引に手を取られたからだった。次には、留まるのを許されたからだった。あれこれと世話を焼いてくる住人たちに感謝しながら、どこか胸苦しさも感じていたのは、自分の心の置きどころを見つけられなかったためだ。物でいればいいのか、虜囚でいればいいのか、彼らが自分に見るもの、分不相応と思える扱いと、自分の立つ足場との折り合いを、どこに付ければいいのかわからなかったためだ。
 だがそんなものは、初めから関係なかったのだ。
 部屋を与えられ、住むのを許されたからではない。外の深い闇を逃れ、つかの間の安らぎを求められる場所だからではない。夜宴の享楽に身をさらしながら、塔に帰ることばかりを考えていた。それはここが帰るべき場所だったからではない。帰るのを望む場所だったからだ。
 この塔が本当に自分に与えたのは、生きる権利ではない。望む権利だ。
 部屋も、本も、高みからの眺めも、奇妙な住人たちも、自分は我がものと思い始めている。誰にどんな待遇を差し出されても、ほかへ行こうとは思わない。
 俺はここにいたい。ここで暮らしたい。
 ただそう、望んでいるから。
「だからあんたの提案は呑めない。帰ってくれ」
 言いながら、刀身を起こして構えた。そんな言葉に頷く相手でないことなどわかっていた。果たして、大蜘蛛は剣呑な気を発し、ぎしり、またレイを一歩壁に追いつめた。
 こんな状況に相対してやっと心の整理がつくなど、皮肉なことだと思う。王には届かぬと言え、それに匹敵するほどの名を持つ、深い冥府の地の住人である。討ち倒せるなどとは到底思えない。レイは相手の動きに気を配ったまま視線を巡らせ、退路を探した。こんな男の手になど絶対に堕ちたくなかった。
 外への扉は蜘蛛の背にふさがれている。ロビーには人が咄嗟にくぐり抜けられるような窓はない。残る手は奥への扉を抜けて階段を上がり、二階の広間の窓から外へ出ることだった。扉までは多少の間がある。蜘蛛の脚の動きよりも早くそこまで行き着けるだろうかと思案をしていると、きしり、大顎を鳴らし、蜘蛛が笑った。
「なるほど。一筋縄ではいかぬようだ。だが、逃げられると思うのは、この儂のことを知らぬ愚かがゆえだな」
 きしんだ声の直後、その頭部が持ち上げられたかと思うと、しゅう、と空を裂き、何かが大顎の内からレイに向けて吐き出された。身を横に転がし、すんでで避ける。吐き出された物体が背にしていた飾り棚に当たり、蜘蛛とのあいだに橋をかけた。それは、昨夜の闘技場で暴走した獣たちを捕らえた、あの白い鎖だった。
 見止めてすぐに実態を察し、遠ざかってしまった扉へ向けて床を蹴る。再び音立てて放たれた鎖を剣で払いのけたが、粘性の糸は当てた刀身を絡め、やすやすと手から引き抜いてしまった。
 次々と繰り出される糸によって壁の一角に巨大な蜘蛛の巣が張られる。退路を断たれてはならじと雷光を放ち、扉へ向けて伸ばされた糸を焼き落としたが、それに気を取られた一瞬の隙に、死角から蜘蛛の脚の一本が伸び、置かれた調度ごとレイの体側を薙ぎ払った。
「ぐっ……!」
 身体が吹き飛び、壁に張られた蜘蛛の巣に背中から叩きつけられる。衝撃はなかったが、広げた四翼が糸に絡み、磔の状態になってしまった。
「くそっ」
 なんとか糸を引きはがそうともがくレイの正面に、蜘蛛がにじり寄ってくる。
「ほほう、蝶のようだな。なかなか良い眺めだ。さて、余計な足掻きをやめるなら手荒にはせんぞ。ふむ……それともこのまま一曲歌ってもらうことにしようか?」
 からからと笑う。レイは憤りに歯を噛み締めた。こんな状態で唄など歌えたものか。きっと大蜘蛛を睨みつけ、返事の代わりに残った左の剣に力を込めて、前へ鋭く投げ放った。強襲に相手の身の返しが一瞬遅れ、聖光を帯びた刃は狙いあやまたず頭頂に並ぶ眼のひとつに突き立った。ぎゃあ、と苦悶の叫びが上がる。
「針の残った蜂を蝶なんぞと見間違えるようじゃあ、そんなに眼があっても意味がないんじゃねぇか?」
 嘲るように言ってやる。残った眼がぎろりと一斉にこちらを向いた。いっそ殺してしまえと思い直してくれないものかとも願ったが、蜘蛛は怒りを振り払うように胴震いし、前脚の一本を持ち上げて、レイに伸ばした。
「くく、そうだな……蝶ではない。鳥であったな」
 言うことを聞かぬ鳥には、まず強いて啼いてもらうことにしようか?
 鋭い鉤爪が近付く。伝わる力の差に身体が震える。まさしく網にかかった獲物だった。あとは、餌食にされるだけだ。
 嫌だ……嫌だ。
 おぞ気に目をきつく閉じたその時、
「――留守に人の家で何をしている? 大公」
 険帯びた声が広間に落ちるとともに、地から黒い風が巻き上がって大刃の鎌と化し、節だった蜘蛛の太い前脚を根元から斬り飛ばした。

 異形の叫びに紛れて音が聞き届けられず、糸が切れたと気付いた時にはもう受け身の姿勢も間に合わなくなっていた。翼の縛められた身体がそのまま落下し、床に這いつくばる――かと思われたが、次の間にあったのは硬い木床に打ちつけられる痛みではなく、布のような何かと人の腕に受け止められる軽い衝撃だった。反射に伏せた目をゆっくりと開くと、赤い点光の宿る虚眼と視線がかち合った。
「あ……」
 思わず漏らした声を言葉に整える前に、塔の主・ヴァルナードはレイの身体を床の上に降ろし、軽く頷きを示して、千切れた脚の根から体液を流してのたうつ「鎖の大公」に向き直った。「何用だ? ゾゾ大公」
 問う言葉こそ常の調子だが、静かな音には反問を許さぬ厳とした響きがこもっている。蜘蛛は緩慢に頭を起こし、
「なに……情報の代金を、頂きに来ましてな」
 荒い息の中、相手をうかがう笑いを含んだ声で言った。
「代は例の魔技書と決めていたはずだが?」
「左様。だが、より望ましいものができた」
 ぎしり、ぎこちなく身体を動かし、「鎖の大公」は言葉を続ける。
「貴公の『鎖』を頂きたい。あの書に比べれば、ずっと安い。悪い交換ではないはずだ」
「ほう?」
 ヴァルナードが低く声を落とした次の瞬間、広間に落ちたあらゆる影が一斉に伸び上がり、蜘蛛の身体を四方から巻き上げた。
「うがああああああああっ!」
 影は硬い表皮が歪んで色を変えるほどきつく蜘蛛の身を締めつけ、塔に耳を裂かんばかりの絶叫が上がった。
「何を、するっ……。正当な取引のはずだ……!」
 異形が身を引きつらせて抗議の悲鳴を上げる。ヴァルナードはふっと笑いをこぼした。
「正当な取引か。どこが安いのか教えてほしいものだが……気に入らぬのなら、別の取引の話をするとしよう。ゾゾ大公、何やら魔界との密約があるそうだな?」
 びくりと蜘蛛の頭が揺れる。ヴァルナードは続けた。
「あれほど魔の牢獄に知識が深いのは妙だと思っていたが、宴に紛れて探らせれば予想の通りだ。大公。今日は公の離れ館へ邪魔させてもらった。人に、鳥、聖獣か」
 興味深い仕入れをしているものだな? と言う。蜘蛛の頭は既にわなわなと震えを帯びている。
「古い協約に記された禁事、まさか知らぬわけではあるまい。さて、魔技書と四つ羽の鳥と冥王の裁と――公にはどれが一番高い?」
「ぐ、う……」
「こんなくだらぬことで無に堕ちたくないと思うなら、そろそろ長居を詫びて帰ってほしいものだな」
 一度言葉を切って、だが、と続け、ヴァルナードは足下から一層に闇の気配の濃い影を立ち上げ、先の数倍の大きさの刃を造った。
「だが私には一向にくだらぬ話ではない。このまま交渉を続けるなら、玉眼王をわずらわせるまでもない。私が貴様を爪の一枚も残さず影に滅しよう」
 ざわり、広間の空気の色が変わる。塔全体が主の力に呼応し、冥府の住人さえも這い上がれぬ深い深い影の底へ、侵入者を呑み込もうとしていた。
 もはや言葉も紡げぬ蜘蛛の頭ががくがくと降伏の首肯に揺れる。突きつけられていた刃が融け、蜘蛛の足元に広がって溜まりを作ったかと思うと、黒の大波が立ってその身体を呑み込み、消し去った。同時に場に張り巡らされていた影もするりと引き失せ、大気が色を戻した。
「もう招待状を寄こすなと言うのを忘れたな」
 言い落として床に座り込むレイのほうへ足を返したヴァルナードは、いつもと変わらぬ飄然とした笑いを浮かべていた。
 様々な言葉が頭を回って声にならず、
「……夜に、戻るって」
 結局、一番他愛のない問いのみを口に乗せた。
「大公が塔に向かったらしいと報せが来たのでな。向こうにはヌグマを残してきた」
 立てるか、と手を差し出され、戸惑いながら掴まって起き上がる。離れた手がそのまま上に持ち上がり、乱れた髪をついと梳いていった。
「互いに相手の先を取ろうとした結果だが、まさか直接塔に乗り込んでくるとはな。なかなか不敵なことをするものだ。独りにさせるべきではなかったな。すまん」
「え、いや、別に……」
 曖昧に唱え、口ごもる。このようなことで男の口から率直な謝罪を聞こうとは夢にも思わず、なんと答えればいいのかわからなかった。そもそも今回の「借り」は、回りまわって自分が原因であったのだから、こちらに全て責があるのではないかとも思う。
 居たたまれずに目をそらし、あたりを見回して、その惨状に息をついた。
「その、悪い……塔の中、滅茶苦茶にして」
 扉は砕かれ調度は倒れ硝子は割れ、壁には一面巨大な蜘蛛の巣がかかっている。ロビー全体が、何十年も捨て置かれた廃墟のごとき有様だ。レイの視線を追って広間を見渡し、ヴァルナードが笑う。
「構わん。一日もあれば元通りになる。一番のものは無事だったからな」
 言って、へ、と呆けた視線を返すレイをよそに、今度は翼に手を伸ばし、ひどいなと呟いた。つられるように四翼を動かしてみる。どの翼にも蜘蛛の糸がべたりと貼りつき、羽同士が絡んでしまっている。気持ち悪さに眉をしかめると、ヴァルナードはふむ、と何事か思いついたように息を鳴らし、
「梳いてやろう。二階へ上がるぞ」
 そう言い落としてレイの腕を取り、階段に向かって歩き始めた。
「え? いいって、自分でできるし、ほっときゃそのうち取れる!」
 慌てて引きとどめようとするが、男はいかにも良いことを思いついたというように満足げに頷き、こちらへ耳を貸そうという様子がない。結局階段の半ばで抗議を諦め、しぶしぶと指図に従うことになった。

 背もたれのない椅子を前後に並べ、前に座ったレイの外の二翼をヴァルナードが後ろから櫛で梳いていく。どうしても自分でやると主張した内の二翼を前に寄せて手でさばきながら、レイはなぜこんなことをしているのだろうと小さく息をついた。他人に羽づくろいをさせるなど、随分と久しぶりのことである。
「……お前ってさ」
 背を丸めて前を向いたまま、ぽつりと呟く。翼を梳く手を動かしながら、ヴァルナードがなんだ、と相槌を打つ。
「お前って……実はそんなに悪いやつじゃないよな」
 ほかに言うべきことが色々とあるような気がしたが、結局はまたそんな言葉しか出てこなかった。背後でぴたりと指が止まり、次いで、小さく笑いの息が噴き出される。なんだよ、と眉を寄せて言うと、
「そんなことを言われたのは初めてだな」
 苦笑混じりの声が返った。
「日ごろの行いの賜物ってやつだろ」
「そうだな」
 あっさりと肯定され、それ以上の皮肉も思いつかず口を閉じる。
 強引で人の話を聞かない、言うべきことは何も言わず、不遜な笑みの差す口を開けば出るのはふざけた言葉ばかり。だが常に冷静で、迅速な決断と行動を取り、それを表情も変えずやりのけるだけの強大な力を持っている。そしてこの男はおそらく、少なくとも自分の手元にあるものに対しては――ひどく優しい。
 つい先ほど手にした心を、言葉にして伝えるべきだろうか? そう考え、さほど熟慮もせぬうちに打ち消した。きっと、塔のどの住人に告げても返るのは笑いと頷きだけだろう。ならば日々を送るうちにこの身をもって示せればそれでいい。
 えにしは一方より繋がれるものではない。自ら手を伸ばして繋ぐものだ。たとえそれが、鎖によって紡がれた絆であったとしても。
「昨日」
 ぽつりと言う。
「あの魔獣たちを止めたのは、お前だろ」
 しかとこの目で見ていたわけではない。しかし獣たちがその足を止めたのは、確かに大公の鎖の伸びる一瞬前であった。ことに頭上に跳んだ一体などは、レイが剣を下ろした時には口から血を吐いて絶命していたのだ。
 『今夜のことで借りを作ったとは思わない』――屋敷を去りぎわ、そう口にした男の声を憶えている。
「さて、どうだったかな」
 短く言葉が返り、それ以上続かなかった。レイも問いを重ねはしなかった。
 沈黙の中、さらさらと翼が梳かれる。心地良さとは裏腹に胸が灼け、むず痒いひりつきを起こした。
 借りの理由が自分にあったならそうと言えばいいのだ。魔獣の足を止めたのは蜘蛛ではないと、そう言って不遜に笑ってみせればいいのだ。そっちが何もなかったような顔をするから、まだ自分は助けられたことへの礼も、ほかの何事も、口にできていない。
 ここに在りたい。
 この男の、手元にいたい。
 それは、塔に住むことを許された時に感じた熱と惑いよりなお激しい、痛みにも似た感情だった。喉が鳴り、肩が小さく震えた。
「火を起こすか」
 立ち上がりかけたヴァルナードを、いい、と言って引き止める。
「いいから」
 もう少しの間、後ろにいて欲しい。
 今顔を覗き込まれたら、自分は理由もわからないまま涙を流してしまうかもしれない。

 座り直したヴァルナードがまた櫛を動かし始める。レイは前の二翼を手で強く握り締めて目を伏せ、それが一時の先送りに過ぎないと知りながら、唇を引き結んで痛みをやり過ごそうと身を固めた。
 この得体の知れない熱情が、無知な天使の心と冥府の塔にひとつ波乱を巻き起こすまで、もう幾許かの間も残っていない。


Fin.
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