Darks


「お疲れ、ゼルグ」
 ひとつねぎらいの言葉をかけて、高い背から地面に飛び降りる。いななきの返事とともに首がついと差し出されたので、艶やかな黒毛に覆われた額を笑って撫でてやった。休みなく駆けてもまるで疲労を見せず、常に意気軒昂としている逞しい焔馬の身体に手を置くと、ふわりと埃が舞い上がる。厩舎はいつも清潔にされているが、きめ細かな毛は翼と同じように冥界の乾いた空気をすぐに吸ってしまうらしい。
「今日はずっと砂っぽいとこ走ってたからな……。そうだ、身体洗ってやるよ」
 いつもの礼な、と言って首元を叩くと、ゼルギオンは高く息鳴らして喜色を表した。
 塔の主に頼んで習った騎馬の法をレイは持ち前の身ごなしの良さですぐに呑み込み、ゼルギオンの英明な性質も手伝って、数度の練習で充分に手綱をさばくことができるようになった。そうなれば存分に走らせてみたいと思うのが当然のなりゆきである。塔のまわりで馬首を取りながらそわそわとしているレイに、ヴァルナードは半ば呆れたように笑いながら、ゼルギオンをそばから離さず、必ず三刻のうちに戻ることを条件に遠乗りの許可を示した。何か子ども扱いされたようで多少の不服を覚えぬではなかったが、許し自体は喜ばしく、翌日から早速遠駆けを始めている。
 轡と鞍を外し、厩舎から持ち出した道具を並べ、腕をまくり丁寧に手入れをしてやっていると、不意に、背の側から何かの気配が近付いてくるのを感じた。足音も気の質も、馴染んだ塔の住人のものではない。瞬時に足を返して振り向き、身構える。ゆっくりと歩を進めていた人影は、十歩ほどの間を置いて足を止めた。
 壮麗な青の衣裳を身に着けた、若い――若く見える――男だった。金の髪の頂きから生やした二本の太い角を除けばほとんど人間と変わらぬ隙のない姿をしているが、この地に立つ者の力を外見から判断するのは愚かしいことと、レイは既に知っている。
 男はレイに向かって軽く一礼し、口を開いた。
「どうも、初めてお目にかかります。貴方があの高名な『天のいとし子』どのですね。確か……レイシス殿、とおっしゃいましたか」
 名を呼ばれ、はっとして腰に手をそえ抜剣の姿勢を取った。男がとりなすように笑って手を振る。
「そう構えられずとも結構ですよ。怪しい者ではありません。……まぁそうは言っても、蜘蛛が入り込んでから月ひとつも巡らぬうちに、そんな言葉を信用するほうが無理な話だとは思いますがね」
「蜘蛛?」
 思いがけぬ名に眉を寄せる。この塔に来てから自分が関わった「蜘蛛」と言えば、あの『鎖の大公』を置いてほかにない。しかも、その蜘蛛とのあいだに起きた騒動すら知っているかのような口ぶりである。なんでそれを、と小さく落とした問いに、驚くことではありませんよ、と男は答え、
「死神どのに大公が塔に向かったことを報せたのは私ですからね」
 あっさりと言った。
 え、と目を開く。『死神』。それは、自分が魔界の牢獄で初めて塔の主に出会い、全身を黒衣で覆い白面を付けた異様の姿を見た瞬間、心の内で冠した名であった。
「じゃあ、あんたもしかして」
 言い差した言葉の途中で男が頷き、
「私の名はフレッグ。この地では『山羊の王』と呼ばれることもあります」
 死神どのと同じく、黒の間に集う者です――。事もなげに、そう後を継いだ。
「黒の間」
 口の中でぽつりと音をくり返し、レイは臨戦の構えを解いた。ヴァルナードと同格の名を持ち、深い闇の居を訪う者。それはすなわち。
「四王、だな?」
 確認の問いかけに笑みと頷きが返る。
「……そうか。悪い。剣を構えたりして」
 冷静に考えれば、不審の輩の侵入を見て、今も傍らに立つゼルギオンが何がしか反応を示さぬはずがない。こうして動じず落ち着きを保ったままでいるのは、相手が旧知の者であることの何よりの証だろう。レイは非礼を詫び、そのついでに先日なされたらしい援けに対する謝辞も述べて頭を下げた。男は一瞬虚を突かれたような顔を浮かべたのち、すぐに笑いを戻して、
「ふふ。なるほど、面白い方ですね。想像とは少し違いましたが、翼も光も鏡の向こうに見るよりずっとうつくしい」
 言って首を後ろへひねり、続けた。
「ご執心のほどもうかがえようというものですね。死神どの?」
 その所作を追って男の後方に目を向けると、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる塔の主の姿が見えた。笑って出迎えに来たような表情ではないが。過日に侵入者へ見せたような剣呑な雰囲気もない。山羊の角の男の横手で足を止め、
「来るのは構わんが、声をかける前に私を通してもらいたいものだな、公爵。……まあおおかたこう言われるのも承知で一足飛びにしたのだろうが」
 小さく息をついて言うのに、男がご明察です、と悪びれた様子もなく笑って返す。
 公爵、とレイはヴァルナードの呼んだ音を胸内にくり返した。『死神』と同様の二つ名であるのだろう。それは本来ならば『王』の位よりも――あるいは『大公』の名よりさえも低い地位を指す言葉だが、男の雅やかな出で立ちと洒脱なふるまいは、なるほど猛き王と言うよりは、風雅遊興を尊ぶ貴族然として見える。
「黒の間の王たちが痺れを切らしていますよ。早く白の都の鳥を紹介してくれないかとね。いつまでも独り占めされて沙汰がないものだから、ついに私が出迎えを申し受けました」
「鳥……俺のことか?」
 これまでにもたびたび言い交わされるのを耳にした天の住人を指す言葉に、怪訝な顔を作って問いを落とす。『山羊の王』・フレッグはレイに向き直ってええ、と頷き、
「この地で四つ羽の天の住人に知り合うなど稀な機会です。それが天の主の秘蔵の将で、我らが同輩の寵する存在であるならなおのこと趣深い。今日こうして訪れたのは、貴方を黒の間に招待するためですよ。レイシス殿」
 澱みない声でそう語った。
 突然の申し出に返す言葉が見つからず、戸惑いとともにただ黙って相手の顔を見つめていると、男がくつりと笑いを立て、問いをヴァルナードへ向けた。
「いかがです、死神どの。急の話で申し訳ないが、まあいずれ早いか遅いかの違いでしょう」
 ヴァルナードは虚眼を一度またたかせて思案を示したのち、返答ともつかぬ短い言葉を発した。
「今夜は朔≪さく≫のはずだが」
「ええ」
 男が頷きを返す。ふむ、と息を鳴らすヴァルナードに、状況を測りかねているレイは自ら問いを重ねて答えを促した。
「行くのか? ……俺なら、別に構わねぇけど」
 あの闇深い場所への抵抗の念が全くないと言えば嘘になる。だが冥府の威高き王たちに、ある種の興を引かれるのもまた事実だった。
「遅かれ早かれというのは確かではある。冥府の長者が雁首そろえて痺れを切らすには早いように思うがな」
 皮肉めいたヴァルナードの言葉にくつくつと『公爵』が笑う。
「過ごした年の長さが幾百であれ幾千であれ、興趣の訪れを焦がるのは誰しも変わりありますまい?」
「……結局、どっちなんだよ」
 回りくどいやり取りに息をつきつつ、手入れ道具を片付けて声落とす。
「行くならすぐに出られるぜ?」
 翼に飛んだ水滴を払い落としながら言うと、
「そうだな。では部屋で待っていてくれ」
「部屋って……あ、おい」
 簡素に答えが返り、言葉を重ねる間もなく影が翻って、黒衣の背が遠ざかり始めた。口を半分開けたままのレイにフレッグが笑って手を振り、また同様に説明も加えずヴァルナードの後を追って歩き去っていく。
 独りその場に残された格好になったレイは、道具を腕に抱えたまま傍らを振り返り、深いため息とともに言葉を落とした。
「お前もあんな主人で苦労するよな」
 同意を示したのか同情を示したのか、ゼルギオンはひとつ高くいなないてからレイの肩に鼻先をすり寄せた。


      ◇


 厩舎の片付けを済ませてから言葉に従い一度自室に戻ったものの、遠駆けから帰ったばかりの格好で特段外出の備えも必要ない。今ひとつ事の次第を掴めずに、寝台に腰かけてぼうとしたまま半刻ばかりが経った頃、ようやく部屋の戸を叩く音が聞こえた。返事を打って立ち上がり、何の気なしに扉を引き開け、目を見張った。
 常なら板張りの廊下が見えるはずの扉の向こうに、ただ一面の闇があった。
「な……」
 言葉にならない驚嘆の声を落とし、突如として現れた異様の光景の前に立ち尽くす。慌てて部屋を振り返るが、扉のこちら側は平生とまるで変わらず、窓の外に浮かぶ空の色にもなんら異状は見えない。身を戻してそっと戸枠の向こうの闇に手を差し入れると、ひやりとした異質な空気が指先に感じられた。
「どうなってんだ……?」
 ぽつりと漏らした言葉に、
「黒の間への通路ですよ」
 思いがけぬ応えが返り、黒の向こうから人の足音が近付いてきた。闇の間を裂くようにして、部屋から漏れる薄明かりの中に姿を見せたのは、頭に大角を頂く青の衣裳の男だった。
「……勝手に人の部屋を妙な道に繋ぐなよ」
 塔のそこここにある異所へ渡る扉の例を見ればさほど驚くことではないのかもしれないが、せめて一声かけてからにしてもらいたいものだと眉を寄せる。申し訳ない、と謝意を述べながらも愉快げな王の姿に、もはやことさらの抗議をする気も起こらなかった。
「準備のほうは?」
「いい」
「では参りましょう」
 手招く男に一考の間を置いてから頷きを示し、戸枠を踏み越えて後ろ手に扉を閉めた。部屋からの明かりが絶え、闇が落ちる。こちらへ、と言って足音が進み始めるが、レイは戸を背にしたままその場を動かなかった。
「どうかしましたか?」
 音が止まり、闇の向こうから問いが投げかけられる。
「俺はあんたらほど目が良くないんだ。これじゃ危なっかしくて歩けねぇよ」
 答えて一度言葉を切り、それに、と継いだ。
「知らねぇ奴に軽々しくついていくなって、ガキの頃からさんざん教え込まれてるもんでな」
 まず名乗ってもらおうか。端然と言う。
「ほう? 妙ですね。私は先ほど名乗ったはずですが」
「ああ。かなり妙だと思う」
 意外の声を落とす男に、レイは言葉をくり返して答えた。
「わざわざ塔まで誘いに出てきたやつと同じ格好をして、会ったこともない別人が部屋まで迎えに来るなんてのは、妙だって言うしかないんじゃねぇか?」
 闇の中に数瞬の沈黙が過ぎ、やがて笑い混じりの声が返った。
「良くお判りになりましたね」
 なかなか鋭くておられる、と語る声には、偽飾を看破されたことに対する焦りの色は微塵もない。
「片方とついさっきまで顔を合わせてりゃな。それよりどういうことなんだよ。からかってるだけだってんなら帰るぞ」
 言葉に棘立てて投げたが、さほど警戒はしていなかった。相対している男が『山羊の王』でないことは確かだが、持つ力の質を近しくする存在ではあるように感じられる。また、先の騒動の日のように、塔に自分しかいない状況ならばまだしも、主たるヴァルナードもその側近も在居の折に、側塔の最上階まで登ってくるほどの大胆な侵入者がいるとは考えにくい。
「いえ失敬。からかっているわけではありません。こうまで早く気取られるとは思っていなかったものでね」
 くすくすと笑いが鳴り、
「では、私の役目はこれまで」
 そう声が落ちるとともに、足元から旋風が巻き上がった。咄嗟に身を覆った翼の外で、闇が激しい伸縮を起こしているのが感じられる。風は数秒のうちに鎮まり、そっと翼を外したレイの目が次に捉えたのは、一面の黒ではなく、前方にまっすぐ伸びる薄暗い廊下であった。目の届く範囲に男の姿はなく、気配も感じられない。首をひねって後ろを振り向くと、背にしていたはずの扉までもが跡形なく消えていた。
「……状況を説明してからいなくなれよ」
 思わずこぼした言葉が石ともつかぬ壁面に当たって響く。三方は壁。道が示されただけまだましかと、息を落とす代わりに真言を紡いで松明代わりの光球を傍らに浮かべ、腰の双剣を確かめてから、レイはゆっくりと闇の中に足を踏み出した。


        ◇


 沈んだ空気の中に、長靴が床に立てる硬い音だけがかつかつと規則的に響く。
 狭い廊下は右へ左へと幾度か折れながら、しかし枝分かれすることなく無機質な道を先へ続けた。時おり横壁に隙間があり、その向こうにぼやりと不可思議な景色や生き物の影が過ぎるのも見えたが、到底取り抜けられるような幅ではなく、与えられた道をただ進むしかなかった。今自分がどこを歩いているのかはもとより、どの方向を向いているのかさえ定かではなかったが、進むにつれあたりの闇の気配が濃くなっていくのは感じられていた。なりゆきはともかく、先の男が「黒の間への通路」と語った言葉は嘘ではないのだろう。頭上の灯かりは深まる負の力に圧されて徐々に力を失くしつつある。
(黒の間か)
 短い言葉は、その音よりもなお昏く響く。
 そこへ行き着けば、冥府の主たるあの玉色の眼を持つ闇の王にも会うのだろうか。気の進む予想ではないが、今は歩くより仕方がない。
 そうして幾度目かの角を曲がると、廊下の前方、かろうじて光の届くあたりに、一枚の扉が忽然と立っているのが目に映った。そのまま足を進め、戸の前で立ち止まる。道をさえぎる黒塗りの扉自体にはなんら妙なところはない。取り手に触れると冷たい負の力が指先から駆け上がり、反射に離しかけた手をどうにかとどめた。ひとつ呼吸をし、レイはゆっくりと扉を押し開けた。
 瞬間、何よりも早く感じたのは、嗅ぎ慣れない匂いだった。香を焚きしめたように重く鼻にまといつく空気に眉寄せつつ、油断なく身を構えて首を巡らせる。一定の幅で続いていた壁が左右に大きく開き、前にも横にも広い空間が続いている。弱い灯かりは壁にまで届かず、部屋と言うには形定かではない。
 扉を離して一歩前へと足を踏み出すと、甘く饐えた匂いがひときわ強く身に寄せ、一瞬後、ぼう、と低く空気の爆ぜる音が重なって鳴り、十数の暗紫色の炎が中空に浮かび現れた。
 同時に、十数の気配も。
 はっとして片足を引き、腰の剣に伸ばした腕が、ついと横から掴まれた。
「野暮なコね。剣を抜くなんておよしなさいな」
 耳元でひそりと声。顔を向ければ、紫の灯の下、一人の女がレイの腕を取って立っていた。いつの間にこれほど近くに来ていたのかと瞠目して見返した次の間には、火灯かりの中に浮かぶ女の姿がひとつではないことに気が付いた。
「凛々しい殿方、ゆっくりしていかれませんこと?」
 腕を取った女の反対側から、別の女がレイの肩にしなだれかかるようにし、濡れた声音で言う。くすくす、と薄明かりの下に笑い声が渡っていく。あるいは立ち、あるいは座り、またあるいは床に無造作に広げた敷布の上にしなを作って寝そべり、十、いや、二十に近い数の女たちがこの暗い部屋の中にいる。
 掴まれた腕をはがし、しかし傍らを離れない女を横に連れたまま、レイはゆっくりと歩を進めた。いずれも息を呑むほどに美しい、豊かな肉置きをした女たちが、紅い唇に妖しの笑みを浮かべて手招いている。光量に慣れた目が、女たちの後ろの壁に等間隔に並ぶ幾枚もの扉の影を捉えた。
「あのどれかが、『黒の間』に続く扉だな」
 訊ねるでもなく落とした言葉に、そうよ、と傍らで艶めかしい声が答える。女が身を揺らすたびに甘い匂いがふわりと立ち昇る。
「離せよ」
 腕にかかる重みを押しのけるが、敵意を寄せられているわけでもない相手を乱暴に扱うこともできず、女はなおも肩にすがってくる。
「つれないのね。いいじゃない。遊んでいらっしゃいな」
 私に付き合ってくれたら、どの扉が当たりか教えてあげるわ。妖艶な笑い声が薄闇の中に広がり、女たちが口々に誘いの言葉を紡いだ。私の扉においでなさい――香気の霧が目に映りそうなほどに強い香りが鼻をくすぐる。
「……いや、いい」
 きっぱりと言って今度は強引に腕を振り払い、あら、と残念そうに肩をすくめる女を置いて、レイは大股に歩を進めた。噎せかけながら、すん、と気を嗅ぐ。視線をひと渡りさせ、足を斜め前に返して、まっすぐに壁へと向かう。ひたと止めた足の前、壁に小さな影がうずくまっている。痩せさらばえた膝を抱え、ぼろ布を頭から被った、かろうじて人と見える姿。身動きのないその影を少しのあいだ見下ろし、
「あんたの扉はそれか?」
 訊ねて隣にある黒塗りの扉を示すと、布が持ち上がり、その下に頬のこけた老婆の顔が覗いた。深い皺の下から細い瞳がレイを見上げ、ああ、と嗄れた声がこぼれる。
「じゃあ、開けてくれないか」
 頼みの言葉に老婆はゆっくりと眼を開き閉じし、短く声を発した。
「なぜ、この扉なんだい」
 ひひひ、と掠れた耳障りな笑いが鳴る。レイは扉に囲まれた部屋と妖艶な女たちの姿を一度振り返ってから、確然と返した。
「この部屋にいるやつの中でまともな力を感じられるのは、あんただけだ」
 それに、その扉からかすかに冷たい気配がする。そう続けるレイに老婆は歪んだ唇の間から黄色い歯を覗かせて笑い、ぎしりと骨をきしませて枯れ木のような腕を動かした。きぃ、と高い音を立てて扉が奥に開く。
 老婆に一礼を返し、レイはためらわず扉の先に続く廊下へと足を踏み出した。薄く白光をまとうその姿が闇の向こうに消えたのち、部屋に浮かんでいた紫の灯が一斉に失せ、空気が渦を巻いて、漂う香気の霧を散らし始める。
「ふふ。まとも、ね――」
 うずくまっていた影がすくりと起き上がる。艶やかな黒髪を梳いて紡いだ言葉の向こうで、無数の屍骨が床へ崩れ落ちた。


 次の廊下はさほど長くは続かず、すぐに三枚目の扉が前に現れた。
 今度は何があることやらと気構えながら取っ手を回し、押し開ける。先と同じように開けた空間であったが、扉が正面にひとつしかない点、そしてそれが初めから肉眼で確認できた点が大きく異なっていた。円形の部屋の壁に、扉に代わり提げ灯が一定の間を置いて取り付けられている。
 ゆっくりと足を前へ動かしながら、視線を巡らせる。部屋の中央まで進み出て、誰もいないようだ、と決めかけたその瞬間、
「っ!」
 咄嗟に剣を抜き放ち、レイは風を裂く音とともに飛来した物体をかろうじて弾いた。逆側に飛びすさり、誰何の声を上げる前にその正体を見た。
 確かに人の姿はなかった。そこにあったのは、黒い柄と刀身を持つひと振りの剣であった。人の背丈ほどもある大剣が、柄を上にしてレイの正面に音もなく浮かんでいる。もはや驚きにひたる猶予もなく、もう一方の剣を抜いて構える。それを見計らったかのように黒い大剣はゆっくりと刀身を起こし、切っ先をレイに向けた。しばしの対峙の後、揺れる灯かりに閃きを返して刃が翔んだ。
「くっ」
 打ち出された突きを重ねた双剣で止めるも、その鋭さに足が踏み耐えきれず、後ろによろめく。大剣はすぐに刃を戻し、二撃目を放つ。レイは立て直しの完全ではない体制のまま剣の鍔に噛ませて刃を受け止め、翼を広げて押された勢いのまま後ろへ身を離した。息をつく間もなく大剣はレイを追う。
 速い――。
 大構えの武器は振りの隙が大きく、攻撃を見極めて慎重にさばきさえすれば、手数の多いレイの双剣のほうが有利に立つ。だがそれは相手の動きがこちらより劣っていることを前提とする話だ。速さは同等。剣圧は完全に上回られている。刃を交わすことこそかろうじて成せるが、繰り出される斬撃を受けるたびに腕に痺れが走り、剣を取り落とさないまでも、目方の軽いレイの身体は後ろへ弾き飛ばされてしまう。何より対ずるのが剣身だけときては、相手の呼吸も次の動きも読むことができない。力を紡いで放った雷光は刀身に斬り弾かれて一瞬の牽制にしかならず、柄と刀身の継ぎ目を狙った剣撃もやすやすと受け流される。
 明らか過ぎるほどの力の差がありながら、黒い剣は決定的な一撃を放ってこようとはしなかった。時に強く時にゆるく振り下ろされる剣の閃きの中に余裕の笑いが浮かんでいるようにさえ見え、情けない、とレイは唇を噛んだ。剣の鍛錬を再開したのはごく最近のことで、相当に腕がなまっているのを自覚してはいたが、これではまるで子どもが稽古をつけられているようだ。
 と、そこまで考えて、ふと場の違和感に気付いた。
(……いや、違う)
 違和感がないから、奇妙なのだ。
 攻撃を控えて大剣の動きを注視する。振り下ろされた剣が刃を返し、流れるように下から斬り上がる。切っ先が一足一刀の間を取って鋭く翔ぶ。大胆な動きを見せながらも基本を揺るがせない、まるで隙のない「奇妙な」剣さばき。レイは疑念を確信に変え、ぴたりと正対して双剣を構えた。黒い大剣も動きを止める。
 しんと、張りつめた空気が鳴る。宙にまっすぐ起きた大剣の先がつうと降り始め、水平に静止したと確かに認める間もなく、風音とともに突きが繰り出された。当たれば岩壁をも砕くだろう鮮烈な一撃にひるむ代わりに、レイは強く床を蹴り、自ら前に跳び込んだ。
 服地の裂ける音と金属が打ち合わされる音が同時に鳴り、細く鮮血が上がる。痛みに顔をしかめながらすれ違った身を素早く返し、構える。賭けの的中を、腕の痺れと眼前の景色が語った。浮かぶ黒の大剣の元、無空に見えながら確かな感触を得た箇所に、力込めたレイの剣の跡がひと筋、淡い光を放っていた。
 大剣は刀身を下げ、そのまま構えを戻さなかった。しばしの間があり、
「うむ、良い剣だ」
 短く声が落ちるのに次いで、黒い刃の後ろ、傷の走る空間が歪み、がちゃりと重い金物の音を立てて、声の主が姿を現した。
 全身を固めた重厚な黒色の鎧の中に、それを着ているはずの生身はない。しかし虚ろの手甲は確かな人の動きを見せて握る大剣を背の鞘に納め、小脇にかかえた兜を甲冑の上方に乗せた。指当てが胸の傷をたどり、感心の声が発せられる。
「度胸もある。良く視たものだな?」
 レイは鎧の騎士にならって双剣を納め、言葉を返した。
「あんまりしっかりした剣さばきだったからな」
 大剣の動きは熟練の戦士のものだった。ただひと振りの剣の動きではなかった。もし剣それのみに意志があったのならば、突きの後に刀身を一度引くことなくそのまま次の斬りを放ったであろうし、雷光は弾いて防ぐのではなく平たな身でかわすだけで済んでいたろう。レイの長剣の強さがその刃の靭さに敵わないのだから、間合いは考えず攻撃をくり返すだけで良かったのだ。だが交わした剣は、大剣の妖しを相手にしているのではなく、あたかもひとりの剣士と仕合っているかのごとき型となった。
 なるほど、と空の兜が頷く。
「あんたは――」
 今度は自分の問いを紡ごうと口を開いたその時、後方から拍手の音が届いた。振り向けば、山羊の角の男と、初めて目にする半人半蛇の姿の女が、レイが通った扉の前に立っていた。目が合うと、笑ってこちらへと歩を進めてくる。
「お見事。将軍の胸に傷がつくなど久々に見ましたよ」
 場にそぐわぬ朗らかな声が鳴る。
「……今度は本物だな?」
 怪訝の表情でレイが言うと、頭に角を頂いた『山羊の王』・フレッグは頷きを返し、先ほどは失礼、と言って頭を下げた。隣で半蛇の女がくすくすと笑いを立てる。その濡れた音は先の間の女たちが発していたものと同じで――しかし身に宿している力はぼろ布を被っていたあの老婆のものだ。
「本当に綺麗な鳥だこと。罪な方ね、将軍。そんな子に傷を負わせて」
 レイの左腕に開いた傷を示し、言う。『将軍』と呼ばれた鎧騎士はうむ、と首肯し、レイに身を向けた。
「まさか防御を捨てて胴を狙ってくるとは思わなかったものでな。止め損ねた。すまぬな、天のいとし子」
 あっさりと渡された詫びの言葉にレイは目を瞬かせ、別に、と首を振る。
「かすった程度だし、もともとあんた、手加減してたんだろ」
 悔しいが、認めざるを得ない。本気で相手をされていたなら、突きの間隙を縫って斬りを放つどころか、初手から勝負になっていなかっただろう。訊かずともわかる。この鎧騎士も半蛇の鬼女も、冥府の王なのだ。
 これぐらいすぐ治る、と治癒の真言を紡いで手をかざすが、傷口がふさがる気配はない。眉寄せるレイに、女が語る。
「ここは闇が深すぎるわ。天の術は消えてしまう」
「そうか」
 ならまあいいか、とすぐに手を下ろしたのがおかしく見えたのか、女は笑いながら言葉を続けた。
「名乗っておきましょうか。私はキシュナ」
「儂はオーヴェンダーク。オーヴェンだ。名よりも将軍の位で呼ばれることが多いが」
「……レイシス」
 おそらく知っているのだろうと思いながらレイも短く自分の名を告げ、
「なんの真似なんだよ、これは? ……いや、いい」
 訊ねかけた言葉を、それより、と途中で切る。代わりに床へ目を落として一度足で蹴りつけ、荒げた声を放った。
「てめぇヴァルナード! 出てきて説明しやがれ!」
 数瞬の沈黙。一縷の疑いも持たず睨めつける視線の下、レイの足先の影が揺らめき、波を起こしたかと見えた次の間には、伸び上がった黒い衣が長身の男の姿を傍らに作っていた。
「……気付いていたのか」
 虚眼の奥の赤い点光を意外の色に揺らし、影の王が声を落とす。
「自分の影にずっと潜り込まれてて気づかねぇやつがいるかよ。ふざけんな。一体何がしたいんだよお前らは? 試すようなことばっかりしやがって……」
 レイの憤りの言葉が終わる前に、円形の広間に三様の大笑が上がった。目を丸くして傍らの顔を見つめると、声上げるまでには至っていないものの、ヴァルナードも口の端に笑いをこらえている。
「締めのつもりだったが、最初から解かれていたというわけか」
 声ににじむ喜色に、また何か失敗をしたのかと己の言動を振り返るが、思い当たるところがない。わけのわからぬまま、なんなんだよ、と舌に乗せかけた言葉が、首すじに当たった寒気に凍りついて消えた。びくりと肩をすくませ、後ろを振り返る。正面の壁に貼りついた、入ってきた物とは別の黒塗りの扉が開き、奥から闇が流れ出している。今までに通った道とは比べものにならないほどに、深く濃い闇。
 反射的に後ろへ引きかけた身を、背に回った影の衣にとどめられた。困惑の表情で傍らを見上げるレイの頬を長い指がついと撫で、静かにその背を押した。闇が広がり、視界が黒に染まった。

 身を包んだ翼を開き、伏せた目蓋をゆっくりと上げる。扉も、灯かりも、四人の王の姿もない。一切の闇の中に、レイは独り立っていた。
 いや、独り、ではない。
 この闇は空間であり、そして存在でもある。黒の間の主、冥府の最も力ある者。
 その姿を探して首を巡らせるまでもなく、かの王はレイの目前に姿を見せた。全ての光を消し去る深い暗黒の中に、その暗黒をすら通して玉色に輝く双眸が、大きく静かに開いた。
「っ……」
 怖い。
 胸がただひとつの強烈な感情に支配され、全身がかたかたと震えを立てる。傷付き朦朧として、影の王の衣に包まれていた時には感じなかった、感じることができなかった、圧倒的な力。玉色の眼に映る己の姿が、ただひたすらに小さく思えた。
 声を発することもできず、ただ緑赤の玉眼を見上げるレイの頭上に、
『怯えずとも良い。天の子よ』
 低い声が鳴り落ちた。
『ここまでの道を見ていた。幼いが、大した力よ。天の主が隠しただけのことはある』
「……やっぱり、試したんじゃねぇか」
 揺れの宿る音ながら、レイは心を奮い立たせて声を返した。言葉を交わすことができるなら、まだその存在を実のあるものとして受け入れられる。得体の知れぬままにしておくほうがより恐ろしく思えた。
 ぞんざいな返事を気にした様子もなく、冥府の王は言葉を続ける。
『試した、と言うならそうやもしれぬ。今宵は最も闇深い朔の夜。その間に我が懐まで歩かせたのは、あの者たちの企てでもあろう。己が力のみで黒の門を叩く証を得たと同じことだ』
「……一人でここに来られるってことか?」
 問いに、うむ、と低い肯定が鳴る。なんでそんな、と疑問を発しかけ、ひとつ思い当たって口を閉じた。レイに興を寄せ、まるで遊び愉しむようにして前に立ちふさがった王たち。その意図するところは明らかに――
「これからも遊ばれに来いってことかよ」
 もはや憤りよりも呆れが先に立つ。塔の住人たちが四王を称して口にした「変人」の言葉を改めて思い出した。
『ここは冥府の核。全ての闇の源』
 肩を落としたレイの上に、また声が響く。
『天の子よ。闇は恐ろしいか?』
 問われ、一考をすぐに流し、ゆっくりと頷いた。
「怖い。ものすごく。……今は、闇だけじゃなくて、もしかすると光も怖いかもしれねぇ。俺にはどっちも強すぎて、掴みきれない」
 なんだか気弱になっちまったよな、と語りかけるでもなく呟く。闇が蠢き、静かに言葉を紡ぐ。
『無用の恐れは愚だ。だがそなたの荷は世を知る者の代価の畏れ、そして世を知る者の智。天の子、四つ羽の鳥よ。短きにせよ永きにせよ、この昏き地に身を置くなら、その心のまま生きることだ。塔からここまで歩き来たように、闇にも光にも惑わず真を見ることだ。その強き翼を失わぬようにな』
「あ……」
 朗と語られる言葉に、レイは不意の懐かしさを覚えた。身を包み胸に染み入るゆるやかな言葉。音こそまるで違うその響きは、しかし確かに父なる天主の姿を思い出させた。
 そして、その声は――
『また来るがいい』
 思考を割って短い言葉が落ち、黒の空間が揺らぎ始める。レイは小さく頷き、闇に向かってほつりと言った。
「あんたの声、……ヴァルナードに似てるな」
 玉色の眼が揺らめく。
『いや』
 影が、我に似ているのだ。
 笑いの混ざったような響きが返るとともに、やわらかな感触が頭に落ち、次の瞬間には、深い闇も玉色の瞳も眼前から消え失せていた。
 ぼうとする頭を振り立て、焦点を目の前の事物に合わせる。円形の間。小さな灯。閉じた黒塗りの扉。
「黒の間はどうでしたか?」
 フレッグの問いにはっきりとしない意識のまま眉を寄せ、
「なんか知らねぇけど、……頭を撫でられた気がする……」
 返した言葉に、四人の王が再び笑いを上げたのは語るまでもない。


      ◇


「まだ機嫌が直らんのか?」
 肩をいからせて黙々と歩くレイにヴァルナードが問う。
「直してたまるか」
 足をゆるめずつんけんと返す。強く振り出される靴音が床に荒く響き、何事かと壁の向こうから隙間を逆に覗き込まれる始末だが、レイは構わず廊下を前に進んだ。
「もうお前ら絶対信用しねぇ。揃いも揃って人で遊びやがって」
「別に遊んでいたわけではないが」
「似たようなもんだろ」
 独力で黒の間を訪れさせようというなら、初めからそう言えばいいではないか。言えなかったのだとしても、人を茶化すような手を尽くす必要がどこにあったのだ。
「そう言うなら、その茶化した相手に稽古を頼むことはなかったように思うがな」
「……いいだろ、別に」
 玉眼王が去って四人の笑いが止み、口を尖らせながらもレイが始めにしたことと言えば、『鎧の王』・オーヴェンに剣の鍛錬に付き合ってもらえるかと掛け合うことだった。からかわれるのがわかっていながら、結局腰を落ち着けていられない自分は、これから足繁くこの道を通うことになるのだろう。
「そうなると思ったから、なるべく先延ばしにしたかったのだが」
 ぽつりと言い、ヴァルナードがレイの肩口に手を伸ばす。
「玉眼王が治したようだな」
 大剣に裂かれた服地は破れたままだが、その下の皮膚には一すじの傷跡も残っていない。頷き、ふと浮かんだ言葉を投げる。
「お前さ」
「うん?」
「玉眼王の息子とかなのか?」
 はたとレイを向いた虚眼が怪訝に瞬く。
「お前が自分に似てるんだとか言ってたぜ」
 言うと、少しの間の後、血の縁はないと言葉が返り――だが、と続いた。
「もし親縁であったなら、伯父と甥といったところだな」
「……え」
 目を開いて隣の顔を見上げる。ヴァルナードは小さく息をつき、
「もし血の縁があったなら、の話だ。天主とお前も人や獣で言うところの親と子とは違うだろう。それよりもさらに遠い。力の質や存在としての近しさがその程度ということだ」
 そう言った。
「お前が、甥?」
「ああ」
「……似合わねぇ」
 率直な感想にそうだな、と笑いが返る。
 本当に似合わない、と胸の内でくり返しながら、それでも、とレイはぼやり思う。
 確かに、似ている。
 ただ聞けば違うはずの声も、ただ見れば重ならないはずの姿も、そう、確かに近しい。自分とはまるで存在を異にする、大いなる闇と影。
「どうした?」
 足をゆるめて静かになったレイの顔を覗くようにして、ヴァルナードが問いかけてくる。
「いや。小せぇなって思ってさ」
 身にまとう光も、背に負う翼も、――己全てが、その力の前では小さく弱い。
 ふと笑ったヴァルナードに頭を撫でられる。
「……やっぱり本当の親子なんだろお前ら。つーか子ども扱いするな、どいつもこいつも!」
 そんなちっぽけな自分を、この男はいともたやすく我が影の中に呑み込んでいるのだ。全く腹立たしいことこの上ない。
 だから決して口になどしない。あの闇の王の声が男に似ていると思った瞬間に恐怖が薄らいだなどと。
 自分がその低い声を好きだと思うようになっているなどと、決して言ってやるものか。
 決意を固める廊下の先、黒塗りの扉の向こうから、待ちくたびれた塔の住人たちの賑やかな声が聞こえてくる。


Fin.
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