ムツミウタ


 ひとしきり暴れ尽くしたのち、もはや脱出不可能と悟ったレイは、そのまましばし背を丸めてヴァルナードの腕の中に収まっていた。
 ゆるゆると髪や翼を梳く指のむずがゆさに耐えていると、不意に視界が揺れ、気付いた時には足が地面から離れていた。背を支える腕の感触に身を抱え上げられているのだと気付く。その体勢のまま危なげなく歩く男に、こいつ割と力強いよな、むかつく、などとぼんやり考えているうちに、ぽすん、と柔らかい衝撃とともに地面に降ろされた。塔で暮らすことを決めた日の夜に眠った、ヴァルナードの寝室である。
 広い寝台の真ん中に座り、状況を把握すべく思考を巡らせる間もなく、間近に迫った漆黒の瞳にぎょっとして身を跳ねさせる。継ぎかけた息ごと呑み込むように口付けられ、目を白黒とさせるレイの腰元で、金属の擦れる音がした。
「うわっ……、ちょ、何してんだよっ」
 慌てて顔を引きはがし、ベルトに添えられた手を掴んだが、既に留め金は外されており、そのまま服からするりと引き抜かれてしまう。
「私のことが好きだと言ったろう?」
「言っ……た、けど」
 訊ねかけられ、ぼそぼそと曖昧な声で返す。一から全て無かったことにしてしまいたい今日の出来事だが、事実は事実である。
「ならば問題ない」
 そうきぱりと断言して、ヴァルナードはレイの上着に手をかけた。肌着と一緒に裾をめくり上げられ、ぎゃあと悲鳴が漏れる。一体どこがどうなって問題ないと言うのか。一連の状況に対して理解が一歩どころか五歩も十歩も追いついていないレイにははなはだしく疑問であったが、手だけでなく寝台に落ちる影までも動員され、堅固に身を包む衣服を混乱の内に全て剥がされてしまった。
 狼狽しながら翼を前に回し、裸身を守るように包み込む。ぎしりと寝台が鳴り、ヴァルナードがこちらに身を近付けるのが羽の隙間から見えた。
(も、もしかしてこの状況って)
 そういう状況なんじゃ……、と、ここにおいてレイの頭はほんの少し事態に追いつき始めた。もしかしても何もなく、誰がどう見ても、経緯だけを聞かされても、ごく当たり前にそういう状況である。
 霞がかった頭にふと簡潔な結論がよぎる。つまり、まさに今からここで、自分はこの男に抱かれるのだ――と。
「う……うえええぇっ」
 裏返った叫び声を上げ、レイは咄嗟に脇に寄せられていた敷布を引き掴み、頭から被って、丸めた身を寝台に突っ伏した。本人としては完全に隠れたつもりだが、あまりの動転のために気が回らなかった翼が布をすり抜けてしまっているため、外から見ると白い塊の真ん中からぴょこんと四枚の羽が突き出た布団饅頭である。
 噴き出したヴァルナードの笑い声にも気を留めず、布団にくるまったまま、鈍い頭を必死で回転させる。
 寝台の上で口付けをして、裸になって抱き合って――それはひょっとして、すごく、ものすごく恥ずかしい行為なのではないだろうか?
 それこそやはり口に出せば大笑いされただろう今さらの認識であったが、思う当人は真剣そのものであった。戦場での凶事から、牢獄で、塔の地下で、数度に収まらぬ無体を強いられた身である。最後に触れられた日からだいぶ間があるとは言え、行為自体は初めてではない。だがそれらはレイにとってみれば災厄のようなもので、激しい屈辱を伴う行為ではあったが、極論してしまえば犬に噛まれたのと変わりない類の経験だった。
 が、今のこれは違う。それだけははっきりわかっていた。頭ではなく身体全体でひしひしと感じていた。半ば無意識に、勢いに任せてとは言え、自分ははっきりとこの男に好意を告げたのだし、男は初めて出会った時から信じがたいような言葉を幾度も投げかけてきている。つまり、今の自分たちは互いに好き合っているということに――
(な……ば、馬鹿じゃねぇの馬鹿じゃねぇのっ? 何考えてんだよ俺!)
 浮き上がった言葉に首を振り、身を震わせる。どうにかして否定しようと試みるが、常に己に誠直であるレイの心はそれを許してくれなかった。
 ――いっそ、影に呑まれてこのままここから消えてしまいたい。
 惑乱の渦に落ち込んだ頭が、ぽん、と布越しに撫でられた。力の抜けた手からゆっくりと敷布が引き抜かれる。
「どうしても嫌なら、と言ってやりたいところだが――」
 肩が返され、仰向けになった顔を漆黒の瞳に見下ろされる。言葉が続く。
「もう私もやめることができそうにない」
 すまんな、と落とされた静かな声は、天峰を渡る風のように穏やかに耳を撫でた。
 あ、と思わず声を漏らす。きょろきょろと逸らした目の端に、右胸の鎌の紋が映った。ゆっくりと手を寄せ、握り込むようにする。
「……好きに、しろよ」
 視線を外したまま、ぽつりと言った。
 勝敗はとうに決している。なんのことはない、自分はもう既に男の影の中に呑まれてしまっているのだ。
 ふと笑みを浮かべた顔が近付き、長い指に顎が上向かされ、唇が軽く重なりすぐに離れる。間近にある顔を見つめ、ああ畜生、と眉を寄せる。
 ……格好いい。
 絶対に口には出さないと誓いを立てていたが、そんなことを、これまでにも実は幾度かレイは胸に思っていた。
 レイの生まれ育った天界でも、誰それが美しいの、誰が見目好いのと、そんな話題が住人の口にのぼることはあった。確かに、世に並ぶ者なき美しさを持つという天使の同胞たち、ことに六つ羽の高位の天使たちは、清流のような金の髪といい、白磁のような肌といい、見る者を感嘆させずにはいられない完璧な美を備えていた。地界の画家はこぞって彼らの姿を絵に描きとめ、その麗しさを讃える唄を歌った。
 だがレイは、そんな彼らを間近にして育った故もあったろうが、天使の同胞のような優美で繊細な姿に焦がれることはなく、むしろ憧れを抱いたのは、地界に謳われる歴史や物語の中の多様な英雄たちだった。雄々しく強く、卓越の知性を宿す怜悧な眼をした猛き将たちの姿に、自分もこのようになれたらと幼い夢を膨らませたものである。
 ヴァルナードの容姿は、――それを初めに胸に浮かべた時、レイも思わず自分の目と思考を疑ったのだが――そんな幼き日の憧れに重なっているのだ。将と呼ぶほど骨太な身体ではないが、自分ではいまひとつ夢叶わなかったと思っているレイには、高い背も広い肩幅も鋭い瞳も薄い唇も、そっくり取り替えたいと思うほど充分に羨むべきものである。
 そんな男が目の前にいて、しかも自分を抱きたいなどと、けろりとした顔で言っている。これを天地のひっくり返るような事態と言わずして、何と言うのか。
 また惑い声を漏らしそうになった口をみたび塞がれる。開いた唇からやすやすと熱い舌が滑り込んでくる。
「ん、ふぅ……んん」
 吐息ごと舌を絡め取られ、唇を柔く噛まれ、ゆるやかな刺激に身体にぼんやりと熱が点っていく。
「んぅ」
 つと離れた唇が引いた唾液の糸がひどくいやらしいものに感じられ、レイは荒く息をつきながらヴァルナードを見返した。本人は睨み上げたつもりだったが、濡れた瞳に力強さはなく、見下ろす相手の笑みを深くさせただけだった。
「……もうお前、じろじろ見んなよっ……」
 自分の身体に劣等感を持っているわけではなかったが、そう立派と言えるものではないとも思っていた。他の同胞たちのように生まれつき細く可憐な肢体ではない。中性的と言える顔でもない。ならばもっと、誰が見ても雄々しい戦士と認めるような身体にしてくれれば良かったのだ、と実際に父なる天主の前で愚痴をこぼして、なだめられたこともあるレイである。こうして自分より明らかに体格のいい男に裸身を見下ろされるのは腹立たしいと同時に、ひどく、気恥ずかしかった。
 取り払った敷布を再びかぶろうとレイが手を伸ばす前に、かたりと音がし、寝室の明かりが落ちた。
「これでいいか?」
 薄闇の中、男の虚眼に浮かぶ赤い点光がちらちらと揺らめいて見える。そういう問題なのかとも思ったが、光の下に自分と相手の身体を見ているよりも落ち着きを得たのは確かだった。
 それより、と伸びた指にすうと頬を撫でられる。
「そろそろ『お前』から格上げしてほしいものなのだがな」
「え」
「私の名は教えたはずだろう? ……レイ」
 ひそりと耳に囁き込まれ、身体が内から震えた。
 確かに、自分から勝手に略称まで決めておいて、ほとんど名を呼んでいなかったのは事実である。だって呼びかけ程度なら「お前」で済むし、と心の内で言い訳したが、本当はなぜその名を避けるのか、知っていた。
 牢獄から連れ出され、初めて塔に来たあの日、薄暗い地下の寝台で初めて男に抱かれたあの日――毒に侵された身体を促され、レイはその名を呼んだのだ。その瞬間の、己のものとは思いがたい淫らにかすれた声が、さらした痴態が思い出されるような気がして、その名を口にすることができずにいたのである。
 だが男の言う通り、いつまでも名を呼ばずにいるというのもおかしな話であるし、たかが名前ひとつに怖じ気づくなど一人前の騎士が持つ悩みではない……と少々的の外れた勢いでもって、レイはその名を唱えることを決めた。
 わかったよ言えばいいんだろ、とひとつ息を吸って、音を舌に乗せる。
「ヴァル、……ヴァルナード」
 はっきり口に出したつもりが、声は小鳥が囁くほどのものにしかならなかった。だがわずかの距離しか置かない身の間に響くには充分で、子どもの成功を褒めでもするように頭を撫でられ、ふわりと口付けられる。唇は頬の傷をなぞって下り、ちゅ、と音を立てて首筋に吸い付いた。
「んっ」
 思わず息が漏れ、はたと口に寄せようとした手をヴァルナードの指に捕らえられた。いつの間に影で編まれた服が解かれたのか、むき出しの腕が重なる。
「ちょ、おいっ……あ、んん」
 抗議の声を上げる間にも舌と唇は快を与える点を探して肌をなぞる。鎌の紋の刻まれた右胸を舌でくすぐられて、寒気にも似た刺激がぞくりと背を這い上がった。
「少し深く刻み込み過ぎたかもしれんな」
 震える胸をついと撫で、そう呟きを落として唇が離れたと思った次の瞬間、胸の飾りを食まれて声が上がった。
「あぁっ……、ひぁ、ぁ」
 痺れのように身に走った快感に指を握り締める。唇を噛んで吐息が漏れるのを必死で抑え込もうとした。舌先に突端を嬲られ、長い指に脇腹を撫で擦られ、ぞくぞくと昇る震えと裏腹に、身体の底に熱が湧き溜まっていく。
「ん、んん」
 くぐもった声を立てながら、ちらと薄く開いた目で我が身を見下ろす。胸をもてあそんでいたヴァルナードの頭が起き上がり、薄明かりの中にレイの視線を捉えたのか、小さく笑みの息をこぼしてすっと身を下にさげた。
「あっ……!」
 不意に熱の中心を握り込まれ、細い嬌声が漏れる。
「熱いな」
 軽く開かれた脚の付け根に短く声が落ちた次の間に、勃ち上がった自身を濡れた舌に舐め上げられていた。
「ああぁっ、な、や、ふぁっ……」
 ぴちゃぴちゃと高い水音を鳴らして細い唇が熱を含み、舌が蠢く。あまりの事態に、レイは下肢の間に揺れる影すら視界に入れることができず、首を曲げて目をきつく閉じた。
 天上の清廉に包まれて育ち、手による自涜の行為すら知らなかった身体である。未知の刺激は強烈に過ぎ、レイは背を反らせて掌に収まらない高い喘ぎを口から漏らした。
「あ、あ、やぁ……、あ、んぅ」
 ああ、またあの声だ、と霧がかった意識の片隅で思う。勇壮を善しとし、部下を率いて戦場に剣を振るう天将にあるまじき淫らな弱々しい声。しかも今夜は毒に身を操られているわけでもないというのに、あの時と同じように、それ以上に、声が高くかすれて響く。
 激しい快感と羞恥に涙をにじませ、レイは熱い息の間からやめろ、とヴァルナードに制止の声を送った。
「それ以上やったら、ぶ……ぶん殴る」
 場にまるでそぐわぬ剣呑な言葉を落とすが、声を出すのがやっとなのだから起きて殴りかかれるわけなどない。だがヴァルナードは動きを止め、レイの中心から口を離して、
「好きにしていいと聞いたが」
 笑い混じりの声でそう言った。
「だから……。お前が、好きにしろって……」
 『抱く』とはそういう意味ではないのか、と含ませて返す。これ以上一方的に快楽を与えられたら、羞恥でおかしくなってしまいそうだった。
 だから、と繰り返すレイの精に濡れた屹立を、またゆるゆると指が撫で始める。
「うんっ……! おまっ、人の話を聞けっ……」
「聞いている。お前が愛らしいのは実に良くわかった」
「全っ然聞いてねぇじゃねえか! ……っ、……あ、あぁ、んく」
 反論は快感の波に呑まれた。速度を増し擦り上げられる自身がしとどに精をこぼし、下肢とヴァルナードの手を濡らしていく。
 一度達してしまったほうが楽だ、と声が落ちるとともに、ひときわ強く指を握り動かされる。
「あ、ああぁっ……!」
 弾けた熱が全身を渡り、レイはびくりと背を反らせてその手の中で果てた。


 くちゅり、くちゅり、と香油のぬめりをまとって抜き挿しされる指の立てる水音が、広い寝室に静かに響く。
 レイは腔壁が押し広げられる感覚に眉をしかめながら、じっと異物の侵入に耐えていた。身体の緊張を緩めるためにか、ヴァルナードは再びレイの首筋や胸に舌を滑らせている。蠢く指や舌が快楽の点をかすめる度に、ひく、と身が揺れる。
 と、二本三本と増えて奥をじっくりと解きほぐしていた指が全て引き抜かれ、ぎしり、寝台を鳴らしてヴァルナードが身を上に引き上げた。
 喉が鳴り、肩が震える。
「レイ」
 名を呼ばれ、寝台に沈み込んでいる翼がゆっくり撫でられる。伏せていた目を開き見上げると、額に柔らかく唇が落ち、そのまま耳元に寄せられた口から、低い声が注ぎ込まれた。
 ――お前の中に入りたい。
 その声の厳とした響きにレイはびくりと肩を縮めた。それは、黒の間で聞いた、あの闇そのものの姿の冥府の王の声に良く似ていた。
「恐ろしいだろう? 先に確認をしておくべきだと思うが……。私は影、お前のような強い光を抱く者の想像の及びも付かぬほど、昏く深い闇だ。私はお前を愛している。それはかけらの偽りもない。愛し慈しみたいと思っている。――だが、私はこの身の核から冥府の者だ。私の底には陰惨な慾が数え切れぬほどある。お前を抱き、組み伏せて、全てを我がものにしたいと思っている。お前を犯したいと思っている。私は、そうした存在だ」
 淡然と語り、最後にヴァルナードは短く言い落とした。
「お前が欲しい。嫌か?」
 しばしの沈黙が降りた。レイはヴァルナードの言葉を頭の内でゆっくり反芻した。今この瞬間、確かにレイは恐怖を覚えていた。
 だが、それは――。
「怖い、けど」
 ぽつりと声を紡ぐ。
「けどそれは、お前が怖いんじゃねぇと、思う。……そりゃ、少しはお前のことも怖いとは感じてるんだろうけど」
 抱かれること自体が怖いのではないのだ。そう、ただ。
「お前にされて、自分がどうなるのかが全然わからなくて」
 怖いんだ、と呟く。
 魔族に陵辱を受けた時も、地下でヴァルナードに交接を強いられた時も、自分がどうかなってしまうことはなかった。たとえ最中に快楽に呑まれたとしても、行為の前と後とで自分の中の何かが変わるようなことはなかった。ただ気を張って耐えていれば、それで良かったのだ。
 だが、今夜のこの行為は、自分の何かを変えてしまいそうな気がする。いや、それはもはや予感ではなく、変わってしまうのだろうという確信ですらある。
 怖い、とくり返し、しかし、レイはそれを拒絶しようとは考えなかった。
「けど……いいんだ。どっちにしろ、もう遅ぇし」
 今さら拒んだところで何にもならないとわかっていた。もう、このわずかな時間のあいだにも、自分が変わってしまったことが実感できている。
「だから、していい。……して欲しい。ヴァル……お前に、抱いてもらいたい」
 後で思い返せばきっとまた死んでしまいたくなるのだろうとわかっていながら、レイは揺らぎなくその言葉を口に出した。身の震えは消えないが、胸の震えは治まってきている。後悔はなかった。
 ふっと眼を細め、ヴァルナードが覆いかぶさってくる。脚が割られ、後腔に熱が押し当てられた。そのまま身が進み、中に突き入ってくる。
「んっ、んぅう」
 ぐと内壁を押し広げられ、息を詰めて激しい圧迫感をやり過ごす。
「きついか?」
「う、いぃ、から、……あ、あ」
 身に挟まれた昂ぶりを握られて吐息を漏らす間に腰が進み、幾度かの静止を置いて、最奥に達した。
「ん、んん、ふぅ、んっ……」
 中が完全に男に充たされている。異様な気恥ずかしさと充足感にぼうとしていると、ゆるく動かされた楔に熱の源が擦られ、ひくりと喉が鳴った。
「掴まっていろ」
 手を取られ、肩に導かれる。おずおずと力を込めて掴むと、一度腰が引き、ぐっと先の箇所を突き上げられた。
「あっ……! う、むぅ、んんっ」
 上がった悲鳴に思わず片手を肩から外し、口を塞ぐ。ヴァルナードが動きを止め、とんとん、と口に置いた手を叩かれた。
「う、声、が、出て」
「別に構わんだろう」
「だっ、て」
 恥ずかしいだろ、と声にすれば笑われるのが目に見えていたのでそこで言葉をつぐんだが、結局はその意が伝わったらしい。ヴァルナードは再び手を外して自分の肩に乗せ、
「何も問題はない。唄を奏でるようなものだ」
 聴かせてくれ、と言って笑んだ。
「う」
 言い返すことができず、ただ黙って曖昧に頷く。への字にした唇をなだめるようにちゅ、と口付けが落ち、律動が再開された。

「あ、やぁ、あぁ、んっ、や」
 抽挿に合わせて繋がりからぐちゅぐちゅと卑猥な水音が響き、もはや閉じることのできない口から甘い喘ぎが絶えずこぼれる。羞恥に耳を塞ごうにも、激しい動きに振り落とされぬよう手は既に肩を過ぎてヴァルナードの首裏と背にしがみ付く格好になっていた。
「あぁっ……あ、んぅ、ヴァルナード……っ」
 嬌声の間に、何かのまじないのように名前を呼ぶ。ヴァルナードはその度にレイの名を耳に囁き返した。
 誰かの名を呼ぶ声、誰かに名を呼ばれる声が、これほど甘やかに響くなどと考えたこともなかった。名を呼ばれ腰を突き上げられるたびに、全身を愉悦の波が刺し貫く。
「ヴァル、も、お、俺」
 がくがくと身を震わせながら限界を訴える。頷きが返り、熱を擦る手の動きが早まるとともに奥が強く深くうがたれる。
「ああああぁぁぁっ」
 背をのけぞらせてレイが極みに達するのに一瞬遅れ、締めつけられた繋がりから、最奥に熱い欲の奔流が注ぎ込まれた。


      ◇


 闇が深く落ち、一夜の星の巡りが半分を過ぎた頃、レイは寝台の端にしかめ面を浮かべて横たわっていた。
「そろそろ機嫌を直してもらいたいのだがな」
 背を向けた寝台の中央部からヴァルナードの声がかかる。
「うるさい。もうお前なんて知らねぇ……」
 好きにしろとは言った。それは確かなので、自分にも責任の一端がないとは言えない。
 だが決して、決して、腰が立たなくなるまでしていいという前提で口にした言葉ではない。
「明日起き上がれなかったらどうしてくれんだよ」
「ずっとここで寝ていればいいだろう」
 あっさりとした答えに、そういう問題じゃない、と眉を寄せる。日中からあれほどどたばたと騒いでおいて、次の朝に塔主の部屋から出てきませんでは、後で住人たちにどんなことを言われるかわかったものではない。
「こちらとしては寝る時間があるのを褒めてほしいものだが」
 あれだけ扇情的な姿を見せられて、というのがヴァルナードの言い分だが、もちろんそれを口にしたところで十倍の悪罵と反論が返るだけであるのは目に見えている。
 代わりに、とでも言うように、レイの身体は伸び上がった影に包まれ、はっと気付くとヴァルナードのすぐ隣に、しかも向き合った状態で引き寄せられていた。
「お前、人の身体勝手に動かすのやめろよなっ」
 むくれて言うが、抱き込まれた腕から逃げる余力はない。レイとて怒り心頭とまで行っているわけではなかったので、あぁもういい、とそのまま寝る体勢をととのえた。
 背に回った手に翼を梳かれ、頭を撫でられる。とやかくと言っても、指がこちらに気を遣って優しく動いているのはわかるし、抱きしめられた腕の中は心地いい。
 塔の参謀との初めの会話の折に、自分は気の毒ではあるが、不幸ではないと言われたのを思い出す。その時は何の感慨もなく聞いた言葉が、今は素直に信じられる。そう、不幸ではない。身に馴染まぬ闇深い土地で、このような安堵を得ようとは思ってもいなかった。決して不幸ではない。どころか――
 ことりと男の胸に額を寄せる。光を通さない影の身には、それでもぬくもりがある。
「……ヴァル」
「うん?」
 ――こうしてここにいられるなら、自分は今、幸せなのかもしれない。
 想いが声になったのかどうかわからぬまま、意識が眠りの淵に沈んでいく。
 男の腕の中に身をゆだね夢に落ち込みながら、自分がその顔に穏やかな笑みを浮かべていたのもレイは知らなかった。


Fin.
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