深影しんえい


 ふと目を覚まして見上げた時計の針は、まだ真夜中の刻限を指していた。
 昔から眠りの深いたちで、普段ならば就寝の途中で起きてしまうようなことはない。首を傾げつつレイは寝台を降りて窓に寄り、布帳を分け開いた。外界は深い夜に沈んでおり、時計が狂ってしまったわけでもないようだ。
 布団に戻る気にもならず、そのまま壁に寄りかかってぼんやりと外を眺めた。形の判ぜられない月が薄雲の隙間から地上を照らしている。前に月の齢を意識したのはいつだったろうと考え、『公爵』の館からの空の帰路、車の後部から見上げた満月を思い出した。
 あれからもう随分と日が経っている。月が半分は巡っただろうか。冥府の時の感覚は曖昧で、指折り数えなければ暦さえ忘れてしまう。揺るがしがたい問いを抱えたまま、それでも確かな平穏と共に日は過ぎ、変わったことと言えば塔の同居者ではない友人が一人増えたという程度。
 ゆるく吐き出した息が硝子戸に曇りを張る。結露の上に斜めの十字を描き、すぐに掌でひき消してきびすを返した。寝室を出て廊下への戸を開き、水でも飲みに行こうかと階段に進めた足を、窓向こうに主塔の影が映った位置で止める。
 ――今日も帰らなかったな。あいつ。
 二日前に独りでふいと出かけたきり、昨日今日とヴァルナードは塔を留守にしていた。レイがこの部屋で暮らし始めて少しのあいだも何やら忙しい素振りを見せていたものだったが、その時は日を超えて塔に身を置いていないようなことはなかった。そもそも慌ただしい物事を厭う性格の主人にしては、ここ数月の外出の多さは非常に珍しい、とジュジュたちも訝しげな様子で口を揃えている。
 まあ、何してるのか聞いたところでわからねぇんだろうけど。
 思い落とし、足を一歩踏み出した瞬間、
「……っ?」
 ざわりと身に寄せた異質な空気に、翼を広げて跳び退がる。素早く目を巡らせた周囲には何者の姿もない。
 だが確かに――居る。
 反射に腰に手をやり、剣がないのに気が付く。舌打ちを落とし、警戒をゆるめず部屋へと走り戻った身体が、前方から強い衝撃を受けて跳ね飛ばされた。
「なっ……?」
 身固めた背は壁に衝突することなく、中空に止まった。翼で止まったのでも、浮いているのでもない。何かに手足が絡め取られ、脚が下がった仰向けの状態で宙に支えられている。
「離せ!」
 姿のない「何か」に向けて怒声を放ち、唯一自由になっている翼をばたばたと強くはためかせる。と、大気が再びざわめきを立て、見慣れた部屋の光景が異容の揺らぎに包まれた。いびつな空間の広がりが徐々に収縮し、不定の霞のようなものが視界を覆う。虫の翅を指で摘まむように、翼が両側から閉じまとめられる。
 継ぐ言葉なく呆然と目を開いていると、すうと風が動き、首筋を冷たい刺激が滑った。
「うんっ……」
 思わず息を漏らしてしまってからはたと気付いて口を塞ごうとするが、手は体側から動かない。きつく唇を噛んで首ねじり、目を下に向けると、靄の中から形定まらない幾条もの紐が陽炎のように立ち昇り、さながら獲物を捕らえた軟体の生き物の触腕のごとく、レイの手足を巻き締めているのが見えた。
「っ……ん、あっ」
 驚愕とともに呑んだ息が喉の奥で掠れた艶声に変わる。数条の触手がゆるい夜着を身からずらし、外気にさらされた白い肌の上を滑り始めた。やめろ、と落とす制止の声も強くは響かず、歪んだ靄の中に消える。
 部屋全体、身体全体が眼前の不形の存在の虜となっていた。嫌悪よりも強い困惑と恐怖にこわばらせる身の中心を触手に絡め取られ、びくりと背が跳ねる。軟質とも硬質ともつかない奇妙な、しかし確かな感触に下肢を巻き擦られ、震える心とは裏腹に身体は快の反応を返してしまう。
「やめっ……う、んぅ、あ、ぁ……」
 ゆらゆらと蠢く触手が頬の古傷をたどって首を、鎖骨を滑り、胸の突端を食む。肌蹴た夜着の裾から入り込んだ別の触手の先が分かれ、背を脇腹を抱くように撫で下ろしていく。逃れようと宙に縛り付けられた身をよじる間にも、下肢に伸びた不形の腕はレイの昂ぶりを包んで根元から擦り上げ、暗い部屋にくちゅくちゅと水音を響かせた。
 人の身では到底感覚の追いつかない幾箇所からもの異形の責めに、わけのわからぬまま身の内の熱が快感に押し上げられていく。噛み殺しきれない吐息と嬌声が唇の隙間からこぼれ、まなじりを涙が伝う。
「く、ぅ……」
 くぐもった声と共に熱が爆ぜ、レイは仰け反った首をそのままがくりと宙に預けた。弛緩した身体の上を這う触手はなおも動きを止めず、巻き上げた下肢を左右に割り開く。
「や、嫌だっ」
 確かな意図を持って動いている異形の次の行動に気付き、頭を起こしてもう一度脱出を試みるが、どう力を入れてもまるで身は自由にならない。もがくレイの上に靄が覆いかぶさるように近付き、精に濡れた後孔に冷たい物体が押し当てられた。
「嫌だ……やめ、」
 恐怖に震える喉から絞った息が最後の音を紡ぐのを待たず、ずるり、異形が門を割って中へ入り込む。馴らされていない秘所にさほどの痛みも与えず細く侵入した触手は、奇妙な質感を保ったまま腔内で膨張し、ゆるく蠢いた。
「あっ……!」
 快楽の元を直接押し上げられ、高いあえぎとともに、縛められた身体が跳ねる。
 嫌だ、と目を瞑り固く閉ざそうとする心に反し、最奥から与えられる快に馴れてしまった身は、挿入の圧迫から無意識に苦痛を除き甘美の熱を探そうとする。つうと頬を滑った涙を合図のように、一度静止した触手がまた動きを再開し、抽挿を始めた。
「んぅ、あ、ぁあっ」
 下肢を激しく揺さぶられ、奥を突き上げられ、己の厭わしい嬌声に耳を塞ぐこともできずがくがくと身を震わせる。快感と混乱に涙をこぼしながら、霧に落ちかけるのなんとか掴みとどめる思考に、揺らぎがよぎった。

 ――ノ、物ダ――

「え……?」
 はたと目を開く。頭に張った白い霧を払い、感覚を澄ませる。

 私ノ白イ鳥――全テ、私ノ物ダ。
 誰ニモ渡サヌ。誰ニモ何ニモ、決シテ――

 深く昏い思念。闇の奥底から響くような、低い声。
 確かに、知っている。
「……あ」
 震える唇で声を紡ぐ。
「ヴァ、ル」
 ひたり、異形が動きを止める。部屋全体を包んでいた不定の靄がさらに収縮し、半ば実体を持った黒い闇に変質していく。
「ヴァル……お前、なのか?」
 どんなに抗っても抜け出すことのできない強大な力を持った昏い存在。塔に拒まれることなく先へ回り、レイの歩を遮った異形。全て合点が行く。もはやほかの名を考えることはできない。絶えだえ息での問いを落とし、眼前の闇を見つめる。
 闇はざわりと大気を震わせて伸び上がり、異形のまま、しかし先より確かな質量を得た、人の上体に近い形をレイの頭上に造った。その顔と思しき部位に、ゆらり、赤い点光が開いた。
 かすれる声で、ヴァル、と再度名を呼びかける。半身を倒すように闇が――影が近付き、ゆらりと伸びた黒の衣に濡れた頬を拭われた。
「……ん」
 目を伏せ、近付く影を受け入れるように首を反らす。口に冷たい感触が落ち、力なく開いた唇の間から入り込んだ無形の異物に舌を嬲られる。
「ん、ぅ……はっ、ぁ」
 異容の口付けの間に下肢の繋がりがゆるく蠢き、再び律動を始める。レイはひくりと鳴る喉から小さく声を発した。
「っ……ヴァル、ん、手、を」
 体側に固められた手に意識を込め、自由な指先で影の衣を叩く。
「暴れ……ないから、手……」
 みなまで言う前に縛めがほどかれ、肩から下がだらりと落ちる。横から伸びた影に引き導かれ、異形の背に腕を回してはあと息をついた。

「あ……や、ぁ……あぁっ」
 激しさを増す抽挿に揺さぶられながら、そっと目を開く。
 半身と翼を無防備に預け、ぐちゅぐちゅと淫らな音を響かせて異形と交わる今の自分を、自ら影にしがみ付いて欲を受け入れ、耐え得ぬ愉悦にむせび泣いている自分を故郷の父や兄弟たちが見たら、一体なんと思うだろう。眉をひそめて罵られるだろうか。それとも憐れまれるだろうか。どちらであっても自分は否定する言葉を持たないし――意味も、もはや持たない。
 よそを向いた意識を叱るようについと顎を上向かされ、口付けが深くなる。たどたどしく舌を絡ませて応え、全身を包む影の愛撫に震えるうちに、混濁した脳は他を顧みる余裕を失くし、今ここにある己と相手のことしか考えられなくなる。
「はっ……ヴァル、……ヴァルっ……」
 過剰な快楽の波に翻弄されながらあえかな声で影の名を呼び、影はそれに応えて昏い力をなお濃く深くし、白い肌に声なき所有の言葉を刻み込むように熱を貪る。
 幾度目かの極みのあとレイが意識を飛ばしても、黒の異形はしどけなく宙に落ちた白翼の天使の身体をしばし抱いたままでいた。


      ◇


 ん、と小さく息を吐き、身じろぎをした腕が衣擦れの音とともにやわらかな布を滑る。
 髪が何かに――人の指に撫で梳かれているのを感じながらゆっくりと目蓋を上げると、ぼんやりとした視界に銀髪の男の顔が映った。霞がかった思考を呼び覚まそうと目瞬きをくり返していると、問いより先に目前の薄い唇がふと歪み、
「寝ていて構わんぞ」
 まだ夜だ、と低い声を落とす。馴染んだ音と笑みの色にあ、と無意識の言葉を紡ぎ、レイは明瞭な思考を取り戻した。二人並んでなお敷布の余る寝台。周囲の闇に目を凝らさずとも、ここが自分の部屋ではなく、目の前の男――塔主ヴァルナードの寝室であることがわかる。
「……やっぱり、お前だったんだな」
 ほとんど確信していたことではあったが、改めて答えを前にするとやはり奇妙な感慨がした。身は清められており、服も新しい物に替わっている。異形を顕わにし、部屋ひとつを包み込んでいた強大な影の力は、人の姿をした男の身の内に納められている。全身に重く残る疲労と気だるさがなければ、全て夢だったと言われても信じてしまえそうだった。
「驚かせてすまなかったな」
 落ちた言葉にまったくだ、と返してやろうかとも一瞬考えたが、茶化すようでもない声音と髪を梳く指の穏やかさとに言葉がつぼんで消える。代わりに腕に乗せられた頭をずらして顔を見上げ、
「何か、あったのか?」
 そう訊ねた。
 赤い光を宿した虚眼が一度瞬く。数瞬の沈黙のあと、
「――少し気が立っていてな」
 短く答えが返り、それ以上は続かなかった。
 レイもそのまま問いつのることなく、心の内だけで疑念をくり返した。
 出会って数月というもの、ヴァルナードが苛立ち、気を立たせている姿など見たことがなかった。常に悠然と構え、たとえ怒りを表す時でも余裕を崩すことなく振る舞っていた男が、人の相を崩して力を顕わにし、ましてひと言の弁もなく、焦燥すら感じさせる熱を無理やりにぶつけてくるなどと、にわかには信じがたかった。一年にも満たぬ付き合いではあるが、それでも先の出来事は、非常に珍しいものだったのではないかと思える。
 一体なんだったのだろう。二日塔に帰らなかったことと、何か関係はあるのだろうか。
 首を傾げながらも心は己に向き戻り、

 私ノ物ダ――

 熱の奔流に呑まれかき乱される意識の中確かに捉えた、あの昏い思念を思い出す。
 「物」。この地での偽りない己の分。
 それをことさらに口にし、自分を完全な所有物のようにヴァルナードが言うのは、出会った日以来久しく、わずか二度目だった。以前ならば物扱いするなと憤っただろうその言葉を聞いた瞬間、レイは困惑を得る一方で、自分の胸が陶酔にも似た想いに満ちていくのをも感じた。何を考えているのだと叱咤の念を紡ぎながら、確かな喜びに触れるのを止められなかった。
 翼を震わせてそっと男の胸に寄ると、腕が応えて背に回り、懐の中に深く抱き込まれる。
 何がきっかけだったのかもう憶えてはいないが、ここしばらくのあいだ、なんの示し合わせをするでもなく、数日に一度こうして男の部屋で寝るのが習慣になっていた。組み敷かれ抱かれる時もあれば、横になってただ雑談めいた話を交わし、そのまま腕の中で眠りに落ちることもある。
 肌を重ねるのにはまだためらいも羞恥も強く感じるが、本当は人と触れ合うのは嫌いではない。抱き締められるのも、髪や翼を撫でられるのも、――口付けも。
 本当に、父や兄たちになんと叱られるだろう。天の者とはまるで力を異にする強大な負の存在に、これほど強く執心を抱いているなどと。この腕のあたたかさに、心地良さに身を預けていられるのなら、刹那の「物」であっても構わないと。今この瞬間所有されていることに、その言葉に確かな喜びを感じただなどと―― 一体、なんと思われるだろう?
 幼い頃から言い聞かされてきた天の理を外れ、父や兄たちの期待を裏切って、申し訳なく思う。昏い感慨に、浅ましい想念に囚われる自分を、情けなく思う。
 それでも。
 ヴァル、と囁くように名を呼び、広い胸に頬を寄せる。
 白と黒。隔てられた世界の、遠い遠い存在。いつか、失うのかもしれない。
 それでも。それでも、今は。
 ぐっと目を瞑り、懸命に身の震えをこらえる。
 男の腕がいつもより強く己の背を抱き締めていることに、レイは気が付かなかった。


to be continued...
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