初めに気付いたのは夜の湯浴みの折だった。その時はおやと少し首を傾げた程度に終わり、特段にものを思うでもなかった。
 それから一日経ち、二日経ち、――七日も巡らぬうちに。
 朝目覚めてすぐに寝床を見下ろすのが、レイの日課となっていた。


「……まただ」
 布団をめくり上げて寝台を確かめ、ぽつりと声を落とす。敷布に指を滑らせて触れた一枚を取り上げ、注視するでもなくぼんやりと眺めた。裏表と返し、また指を開いて敷布の上に離す。
 ふわり、風をはらんで揺れ落ちる白。
 一枚二枚にとどまらず布の上に重なり積もる、白地の寝具よりもなお白いそれは、見誤りなき天使の――レイの背に負う四翼から抜け落ちた、羽。緩慢な所作で手を動かして掃き集めると、敷布の上にやわらかな羽毛の山ができる。我知らず、眉が深く寄る。
 世に誉れ高い美しさを持つ、精巧な細工とすら見える天使の翼とて、紛れもなく生者のものであるのだから、鳥のそれと同じく抜け落ち生え変わることがないわけではない。ことに幼い天使の翼が大人の翼に変わるときには、元の綿毛のような羽はいちどきに落ちる。だが、それはその一時のみのことだ。レイが成年してから百余年を過ぎた今日まで、これほど多くの羽が一度に、しかも何日も続いて抜けたことはないし、そんなことがあるという話を耳にしたこともなかった。
 ――なら、これはなんだ?
 幻でも思い過ごしでもない。確かに羽は落ちている。ただわかるのは、これが平生のものではない、確かな異常をはらむ事態であるということ。沈黙とともに見つめる羽の重なりは、視線の熱に崩れ融けることもなく、淡い光をまとってそこに在る。
 しばしその場に立ち尽くしてから、レイはきびすを返して寝室を出、居間の暖炉に火を熾した。薪の上に炎が立ち昇った頃合を見計らって寝台へ戻り、落ちた羽を両手に抱える。
 ほうっていてもいずれ土や風に還ってしまうものではあるが、人の出入りのある部屋に置いておくことは難しく、それこそ窓から投げ散らしてしまうこともできない。暖炉の前に膝をつき、ためらいなく投げ入れた。羽は一瞬強く燃え上がり、すぐに黒い炭となって崩れていく。
 ひとつ息をついて立ち上がったちょうどその時、音立てて部屋の戸が開き、三人の小さな住人たちが並んで現れた。
「レイ、いつまで寝てるのーっ、って。なァんだ、起きてるじゃない」
「せっかく寝起きに奇襲をかけようと思ったのにねぇ。きしし」
「……あのな、ノックと同時に戸を開けるのはノックとは言わねぇんだよ」
 ため息とともにこぼした言葉に、まぁまぁと手応えのない笑いが返る。
「火、入れたの? 今日は随分冷えるものね」
 肩を落とすレイ越しに暖炉へ視線を向け、雪が降りそうだってヌグマ様が言ってたわ、とソランが語った。
「そうか」
 半身を返して眺める窓の外にまだその兆しは見えないが、冥府の長者が言うのならば確かなのだろう。この頃の寒さであれば降らないほうが妙にも思えていたが、この地の天候は晴れも雨もだいぶん気まぐれであるようだ。
 あたたかいお茶でも飲もうと促されて暖炉の火を消し、食堂へと降りる途中の階段で、ジュジュがふと思いついたように口を開いた。
「そういえばヴァルナード様ってば、また朝からいないのよ。ホントに何忙しくしてるのかしらね。レイ、ナニか知らない?」
「俺が知るかよ。そういうのはヌグマのじいさんあたりに聞いた方が早ぇんじゃねぇか? でなけりゃイザエラさんとか」
「聞いたけど、上手くはぐらかされちゃって教えてくれないんだもの」
「お前ら口が軽そうだからな」
 ひどい、と不服の声を上げる少女たちを横目に、ぼんやりと銀髪黒衣の男の姿を頭に浮かべる。
 あの奇妙な夜が明けてから数日、何の障りも響きも残さず、塔の刻は主の態度と等しく悠然と過ぎている。長者二人の外出の機会は変わらず多いものの、特段慌ただしくしている様子でもない。もっとも、以前からの住人たちに言わせれば、それだけでも非常に珍しい状況ではあるようだが。
「じゃあゼルグにでも聞いてみろよ」
「もう! 興味ないんでしょレイってばー!」
 口を尖らせるのに、先程のお返しとばかりにわざとらしく笑ってやる。
 それきり話は脇へと流れたが、レイとて全く興味がないわけではなかった。気ぜわしい小さな住人たちには敵わないとは言え、人並みに――人並み以上に、生真面目な天使長たちを慌てさせる程度には、未知のものへの好奇心は幼い頃から強く持っている。
 だが冥界の、こと王と名のつく者たちとその周辺の事々に関しては、興味を覚えこそすれ、それをことさらに追求しようとは思わなかった。雑談めいたやり取りの中でさえ、理解至らないことはそれこそ呆れるほどあり、踏み入れば踏み入るほどその感慨が深まるのは想像に難くない。
 何より今は、レイ自身がほかの何かに心を傾けていられる状態になかった。
 想い巡らせる間にも寒さは深まり、予告の通り、ひるを過ぎた頃から雪が降り始めた。


 食堂のバルコニーに出て手すりに肘をつき、外を眺める。低く垂れ込めた灰色の雲からしらしらと雪が揺れ落ち、遠い地面に音なく積もっていく。
 レイの生まれ育った天宮の周りは、天主の力の及ぼすところなのか、比較的あたたかな土地であったが、少し山のほうへ下れば冬は一面雪であることも珍しくなかった。幼い日、自らの翼で暖を取りながら、兄たちを相手にやわらかな雪の野の上で遊んだことを憶えている。
 空の気まぐれな冥府においても、冬は雪が多いのだという。深く積もる場所もあるのだろう。一面が雪に覆われる日もあるのだろう。何か不思議な心地がした。冥府の雪の色も、天界のそれと変わらない。混じりけのない白。折に触れて住み人たち自身が語るように、それはこの地の色ではなかった。それは、遠い天の都の色。天使の翼の色だった。
 身に寄せた翼をそっと指で梳く。今はまだ、降り積もる雪のごとく途切れず羽が落ちるようなことはない。だが先はわからなかった。今はまだ、見た目にも触れた感触にも羽が減ったとは感じられない。己の意に従って動き、飛翔の力もある。だが先は――わからない。何もわからなかった。
 塔主やその参謀に訊ねてみようかと思ったこともあった。幾千年を生きた王ならば、知の探究を糧とする魔術師ならば何かを知っているのではないかと、口を開いて声を紡ごうとするたびに、喉からは別の言葉が滑り出た。
 ――何故か?
 音にならない問いは白い息に変わり、雪に紛れて落ちていく。

 そのまま半刻あまりが過ぎ、いつまで出ているのかと業を煮やした少女たちに無理やり塔の中に押し込まれたが、ほかにすることも見つからず、漫然の心地で塔の階段を上り始めた。途中、もはや聞き馴染んだ声を耳にし、追って上げた視線の先に見えたのは、レイが雪を眺めている間に戻ったらしい塔主と絵姿の魔術師だった。
 外界へ繋がるとおぼしき戸の前に立った二名がこちらを向き、それに何か声をかけようと口を開いた、その一瞬。
 がたん。
 声は舌を上ることなく、代わりに石と木の擦れる硬い音が奇妙にはっきりと聞こえ――そこから先は、全ての感覚が鈍重に引き伸ばされて身に届いた。
 床から靴が浮き、身体が後ろに投げ出され倒れていくのがわかった。手も足も翼も動かなかった。遠い意識の彼方で自分の名を呼ぶ声が重なって聞こえ、魔絵が身を大きく傾け、黒衣の男の脚が動くのが見えた。
 緩慢に過ぎ行く知覚の中で、赤い点光が揺れ、漆黒の瞳が驚きに見開かれるのが、見えた。
(何やってんだよお前――驚いたり、叫んだりして、そんな似合わねぇこと)
 沈む意識に笑いを流す。
 ここ数日は珍しいことばかりが起こるものだ、と余所事のように思う。無論それは、自分が知る限りにおいての珍しさではあったが。
(わかってるんだ。大切にしてくれてるのは)
 そう、わかっている。心を砕かれ、庇護されている――愛されているのは、わかっている。
 だが。
 だが、それは。
(なぁ)
(なぁヴァル、もし俺が、)
(もし、俺の羽が――)
 背を不形の力に支えられ、差し伸ばされた手に腕を掴まえられ、力の抜けた身体がぐいと上に引き上げられるのを感じると同時に、思考の糸は途切れて深い闇の中へと沈んだ。


 次に目を覚ましたのは、自室の寝台の上だった。
 ゆっくりと目蓋を持ち上げた次の間、ぼやけた視界に姿が映るよりも早く、耳元で少女の高い声が上がり、塔の住人たちが周りに集まってくる音が聞こえた。
「もォ、あんまり心配かけないでよね!」
「いきなりだったからびっくりしちゃったわ。大丈夫? レイ」
「顔が外の雪みたいに真っ白になってるねぇ」
 口々に投げかけられる言葉に、ぼんやりとした意識のまま、ん、と意味の乗らない声を鳴らして返す。翼の住人たちの後ろからヌグマが進み出、これこれ、とたしなめるように言った。
「起きたばかりの者の周りでそう騒ぎ立ててはいかんよ。気分はどうじゃの、レイ」
 訊ねかけられ、手足に力を伝えて身を確かめてみる。
「だるくて、上手く体が動かない……ぼーっとする」
 感じたままを伝えると、ジュジュが眉間に皺を寄せ、
「だから早く中に戻るように言ったのにィ。雪見てて風邪引くなんて、子どもじゃないんだから」
 強い口調でそう言い落とした。
「風邪……?」
「そうよ。もォ、今日はじっと寝てなさいよね!」
 全くもう、としばし小言をくり返してから、それでも気を遣ったのだろう、ヌグマに促されて小さな住人たちは部屋を出て行き、入れ替わりにイザエラが皿の載った盆を手に現れた。
「お加減はいかがですか? レイシスさん。あたたかいスープを作りましたから、大丈夫そうなら少し召し上がって、ゆっくり休んで下さいね」
「ん。ありがとう」
 小さな礼にほほ笑んでイザエラは階下へと去り、また少しレイの具合を訊き確かめて、安静にの、と念を押してから、ヌグマも続いて部屋を出て行った。
 扉が閉まる音を聞いてから、一人レイのそばに残ったヴァルナードが寝台に寄せた椅子に腰を下ろした。つと手が動き、敷布から覗く翼に伸びる。
「っ」
 ひくりと喉を鳴らし、意図するより早く、重い手に力を込めてその指を振り払った。ぱし、と軽い音がし、怪訝に瞬く目がかち合う。
「あ……」
 自分の手を見つめ、悪い、と呟くように言った。
「その、驚いて」
 まるで筋が通らないことはわかっていたが、他に言葉が見つからなかった。ヴァルナードは構わん、と追及なく口の端に笑いを浮かべ、引き隠した翼の代わりに頭に手を伸ばし、枕に埋まる短い髪をゆるやかに撫でた。指が滑り、額に触れる。
「熱があるな」
「……そうか?」
 確かに身体が熱いような気もするが、感覚が鈍く、自分でもしかとはわからない。だが髪を頬を撫でる男の指がいつにも増して冷たく、心地良く感じられるのは、きっと言葉どおり熱があるということなのだろう。
 そのまま寝てしまいそうなところを促されて薬湯を二口三口腹に流し入れ、また布団に潜り込んだ。
「……風邪って」
 身を横たえ、ぽつりと声を落とす。短い相槌が返る。
「俺、五十年以上引いてないぜ、風邪なんか……。冷えるからって、少し外に出てたぐらいで、こんな早く……」
「慣れない土地だ。疲れが出たのかも知れんな」
「そうかな……」
「ああ」
 揺らぎのない言葉にそれ以上声を継ぐこともせず、意識が落ちるのに身を任せた。
 閉じた目蓋の裏、白い雪がふらりふらりと舞い落ちていくのが見えた。雪は寄り集まって翼となり、融けて光となり、やがて、消えた。


      ◇


 言いようのない寒気に目を覚ました。
 熱を持っていたはずの身体が布団の中でがくがくと震える。部屋は深い闇に包まれており、夕刻を越えて既に夜が落ちているようだった。
 布団の下で縮めた身をさらに翼で包み込むが、身の内から昇る寒気は治まらない。
「ヴァル……?」
 細い声で姿の見えない男の名を呼ぶ。ふっと部屋の隅のランプに小さな火が灯り、かすかな足音とともに長身が寝台の横に現れ、椅子に腰を下ろした。
「どうした?」
「わかんねぇ、けど、すげぇ寒い……」
 遠くでかすかに薪の爆ぜる音が聞こえることからすると、火は点いているのだろう。それでも耐えることのできない寒さに、衝動のまま寝台から上体を起こす。よろめき傾いた肩がふわりと支えられ、翼の上から背にかかった敷布ごと抱き寄せられた。抗わず震える手でぬくもりを求め、黒衣の胸元にすがる。
 幼い頃は、力有る天使の身では考えられないほどこうして熱を出して寝込むことが多かったように思う。やんちゃをし過ぎなのだと天使長たちを呆れさせながら、それでもその度しっかり看病をしてもらった。身体が弱ると心も弱るのだろう。子どものことでもあったから、人恋しくなってぐずっては、夜に泣きながら兄を起こしてしがみついていた。
「……ガキみてぇ」
 幼い日の自分を今の自分の姿に重ね合わせて、ふっと笑い混じりの息をこぼす。
「お前といると、俺、自分がいつもちっせぇ子どもみたいに思うよ」
「実際に随分な歳の差だろう?」
「そうだけど」
 それは間違いのない事実だが、きっとそれがためだけではない。
 気が落ち着いたからか何か術でも施されたのか、寒気は数分で去り、身の震えも止まった。そっと促され、礼を言って布団の中に戻る。
「もう夜だな」
「ああ」
「雪、まだ降ってるか?」
「そのようだな」
 そうか、と返し、ほつりと続ける。
「まだ、もう少し降ってるといいな」
 薄明かりの中で赤い点光が瞬き、小さな笑いとともに、もし明日すぐに治っていても、はしゃいで雪遊びをしたらまた寝込むぞ、と声が落ちた。
「んなことしねぇよ、馬鹿」
「なら何故だ」
「別に……大した意味はねぇけど」
 ただ、雪が翼に似ていると思ったから。
 雪がやめばその時は本当に、翼が全て落ちてしまっているのではないかと、そう思ったから。
「……出かけるのか?」
 小さく訊ねかけると、目がかすかに開いて首を傾げられたが、否定の言葉はなかった。
「時計」
 見たから、と決まり悪く思いながら続ける。まるで外出を咎めているようだ。
 ヴァルナードは伸ばした手をレイの肩にぽんと置き、
「お前が寝るまではいる」
 目が覚めるまでに帰る、と笑った。
「ん」
 ならもう少し起きていよう、と子どもじみた考えを抱くが、頭にかかった霧はそれもさほど長くは許してくれないようだった。
 何故か、なんて。そんなのは単純だ。
 不安だから。怖いからだ。
 小さな子どものように、深く強く、不安を感じているから。怖くて仕方がないからだ。
 ――だって、俺は鳥なんだろう?
 翼を失えば、もう飛ぶことはできない。
 飛べなくなることが怖いのではない。悲しいだろうとは思う。空を翔けるのは好きだが、それは全てではない。
 だが、翼を失くした鳥は――きっともう、鳥とは呼ばれない。
 なぜ翼が落ちるのか? わからない振りをしていただけだ。わかりたくなかっただけだ。こうして倒れてやっと、心が現実と向き合い、今日までずっと胸の奥底に抱え込んできた言葉を露わにしていく。
 翼を失うのが怖いわけではない。鳥でなくなることが――清浄の地を離れ、天の理に背を向け負の心に囚われて、堕ちて天の者としての力を失くし、天使でなくなることが、怖いわけではない。

 だってお前、言ったじゃないか。美しい翼だって。
 言ってたじゃないか――自分の、白い鳥だって。
 なぁ。もし俺の羽が全部落ちて、天使じゃなくなっても、ずっと――

 雪がやまなければいい。
 雪がやむまでは、それまではきっと、世に誉れ高い白翼を持つ天使でいられるから。
 不安や恐怖に胸を痛めることなく、冥府の影の王の白い鳥でいられるから。


      ◇


 明け方に雪はほとんど吹雪のようになり、普段は雄々しくそびえる岩山を見渡す『鎧の王』の城の外廊からの眺めも、荒れ狂う白い風の中に隠れていた。
「酷い風ですね」
 景色とも言えない景色を虚眼に映して独り立つヴァルナードに、廊下の向こうから現れた山羊の王・フレッグが歩み寄り、声をかける。
 半身を向けた影の言葉が返る前に、フレッグはその手の中にある一枚の羽に目を留めた。雪よりもなお白い白が、黒衣を背に淡く光を発している。
「それは、彼の?」
 指差す先を視線が追って頷き、
「――暖炉の中に焼け残っていた」
 言って、ほう、と興味深げに息を鳴らした同輩に説明の言葉を続けるでもなく、ふっと影の中に羽を包み消す。また足を数歩進めた山羊の王が、長身の隣に立って横からまじまじとその顔を見上げた。
「どうかしたか」
「ああ、いえ失礼。実は、息のあるうちに一度は同輩のどなたかの『らしくない』顔を見られないものかと思っているんですが」
 今度も駄目なようだと思いましてね、と笑う。
「まぁ、本当にそんな事があれば一体何が起きていることか、というわけですが」
「それでも今の一番の当てが外れて残念だというところか」
「否定は致しません」
 ふたつの異なる色のため息の向こうで、吹雪はわずかな笑いの顔も覗かせず、山肌を滑り岩を叩いている。
「何か変わりはあったか?」
 目を風に向けたまま訊ねるヴァルナードに、フレッグは重々しく首を振って答える。
「目立つ動きはまぁないと思いますが、この天気では目も耳もなかなか利きませんのでね。不本意ながらしばらくは静観です。とりあえず、雪がやむまではね」
「そうか」
 吹きすさぶ風を背景にしてしばし流れた沈黙を、問いが断つ。
「やまなければ良いと、思っていますか?」
 深い闇を抱く眼がちらと横を見、
「否定はしない」
 短く答えた口とともに閉じた。

 それでもいつか雪はやむのだ。
 深まる寒さと、天の子の心のような一面の白を大地に残して。


to be continued...
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