sweetness1.5


 一体何がどうなってこんなことになってしまっているのか、レイにはさっぱり理解できなかった。
 くるみのパンを詰めたかごを手にヴァルナードの部屋へ向かったときには、意図も意識も充分はっきりしていて、少し浮かれてさえいたほどなのに。
 抱き寄せられ抱きしめられて、あれよあれよという間に腕の中、今はもう寝台の上に寝転がされている。全くわけがわからなかった。

 ちょっとした遊び心、ちょっとしたいたずら心だったのだ。この男がものを食べている姿を間近で見たいと思った、ただそれだけ。
 もちろん本人には決して決して言わないが、レイはヴァルナードが食事をしているところを見るのが少し(そう、あくまで「少し」)好きだった。まず珍しい、ということがひとつ。そしておそらく、男の身体の部位の中で、口元が格好いいと感じていたから(むろん「少し」だ)、というのがもうひとつ。いつもは不遜な笑みを張っている薄い唇が整然とものを咀嚼し飲み下している、そんな様子に円熟した男性的な大人が感じられて、羨ましいと思っていたから、かもしれない。
 剣の稽古から戻ると、イザエラがこれからパンを作るのだと準備をしていた。そこでレイはひとつ趣向を巡らせた提案をし、パン作りを手伝うことにした。昨日ヴァルナードが新しい本を何冊か仕入れたことは知っていた。おそらく、今頃はその読破に忙しくしているはずだ。その合間の手慰み(口慰み、と言うべきか)に間食をする可能性は充分にある。そんなことを考えながら、揚々と塔の最上階の部屋へ向かったのだ。
 すると、男はパンを一度受け取って興味を示しはしたものの、口に運ぼうとはしなかった。それどころか、様子を盗み見るはずの相手が逆にこちらへ目を向けており、ばったり視線が合ってしまった。机に置いた最初のパンは手付かずで、レイはと言えば、相手に食べさせるために持ってきたパンを空腹のまま自分で随分減らしてしまっている。
 気恥ずかしさを誤魔化しつつ、無理やりパンを顔の前に押しつける。数言のやりとりがあって、やっと食べさせられる、と思った次の瞬間から、なんだか奇妙なことになっていた。
 喰っていいのかと問われたから、いいと答えたのだ。レイにとって「甘いにおい」がして「喰う」ものといったら、この場ではパン以外にあり得なかった。当たり前ではないか。
 だが、なんか違ったらしいのだ。

 そして、場面は冒頭に戻る。
 広い寝台に倒れた身体を立てた腕に両側から挟まれている。見上げる頭上には黒衣の塔主の不敵な笑みがある。百歩譲って考えても、いわゆるソレの体勢である。ソレってつまりアレである。
 ――詐欺だ。
 自分が初めに企てを巡らせていたことも忘れて、きっぱりと思う。
 俺はただ、パンを喰わせにきただけなのに。こんなの詐欺だ。
「しかも結局喰ってねぇじゃんっ」
 ばたばたと暴れながら声を上げる。
 この期に及んでまだパンにこだわっているのが可笑しかったのだろう、ヴァルナードは服を脱がしにかかっていた無遠慮な手を止め、くっと笑いを立てた。
「そんなに喰わせたかったのか?」
「だからそのために持ってきたって言っただろ!」
 あせりと苛立ちを込めて言うと、笑みのままやれやれと息が落ち、
「そこまで言うなら、喰わせてもらおう」
 言葉の次の間に、宙に浮かんだ影の中から何かがころりとレイの手の中に降ってきた。
 慌てて受け止めたそれは、かごに放置されていたはずのくるみ入りのパンの切れ端だった。目を見張る暇もなく、数口分の小さなかけらを握った手が長い指に捕まえられる。そうして、ぼうとして動かせない手を自分の顔に引き寄せたヴァルナードの口が、ぱくりとパンを噛み取った。
 そのまま、男はレイの手の中のパンをゆっくりと食べ始めた。この上なく異様であるはずの状況を微塵も気にかける様子なく、薄い唇がゆったりと開き閉じしてやわらかな生地を食む。歯のあいだに薄く覗く舌が、奇妙に紅く濡れて見える。
 その様を呆然と見詰めるレイの胸に去来したのは、達成感ではなく深すぎる混乱だった。
 違う。違うんだ。
「お、俺が思ってたのは、こんなんじゃ……」
 こんな、倒錯じみた、妙に――妙に卑猥さを感じる行為では、断じてない。断じてなかった。
 最後のかけらを咀嚼し飲み下したヴァルナードが呟きに愉快げな笑いを浮かべ、もうパンの残っていないレイの手に、つっと舌を滑らせた。
「ぎゃっ」
 上げた悲鳴にも構わず舌は指をそろりと舐り、唇が爪先を食む。
「や、ちょ、おいっ……ひゃ」
 濡れた感触がゆっくりと手首から掌を辿って指先へのぼると同時に、ぞくぞくと背を寒気が這い上がった。
 寒気? いや――熱、かもしれない。
「レイ」
「……うー」
 名を呼ばれ、恨みがましく男の顔を睨み上げる。笑みを消さない唇が手を離れ、ゆるやかにレイの口元に降りた。
 悔しい。わけがわからないうちに、多分また負けている。
 悔しいが、嫌なわけではない。湧き上がる熱を、早まる鼓動を、本当に嫌っているわけではない。胸を騒がせている感情の中には、きっと喜びもあれば、期待もあるけれど――もちろん、そんなことは秘密だ。
 相変わらず一切のにおいを持たない男の舌は、それでもまだかすかに甘かった。


Fin?

(2までの連作予定でしたが凍結中です。申し訳ありません……)
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