※統合前のサイトにて当シリーズ連載中に実施したアンケートに基づき、色物ネタ(幼児化)をテーマに書いた作品です。完全にコメディですのでどうぞゆるい気構えでお読みください。

 
たまぴよ。


 そういえば今日はまだ姿を見ない、と気が付いてから、ある朝の塔の静謐が破られるまでの間は、わずか四半刻にも満たなかった。
「ちょっと来てヴァルナード様! たいへんっ!」
 ばたばたと騒がしい羽音とともに部屋に飛び込んできた少女の声が、主塔の最上部に響き渡る。
「どうした」
 小さな住人たちのかしましさは今に始まったものではない。また常の騒ぎだろうと目も上げずに訊ねた塔主の袖を、横からジュジュがぐいと引っ張る。
「本なんて読んでる場合じゃないわよぉヴァルナード様! 大変なんだったらー! みんなもう集まってるから、ヴァルナード様も早く来て!」
 まくし立てるように乞われ、問いを諦めて住人たちの気配を探れば、確かにひとところに固まっている。首をひねりながら腕の上のジュジュごと移身した先は、広間や食堂ではなく、側塔の最上部、先ごろ新しく用意した部屋の前だった。廊下に立っていたイザエラが気付き、こちらへ身を向ける。
「ヴァルナード様」
「何かあったのか?」
 問うが、ええ、と首を傾げるばかりではっきりとした答えは返らない。おいで下さい、と早々に手招かれ踏み入った部屋には既にほかの三人の後ろ姿があり、二種の翼と平たな絵の身体を窮屈に寄せて、寝室の奥の一角を取り巻いていた。もはやそこに何があるか――誰がいるかはほとんど決定項である。
 だが、そうとわかって住人たちの後ろから事態を覗き込んだヴァルナードも、さすがにその光景を予想してはいなかった。
 わずかに瞠目して見つめる先には、目下(そしておそらく今後変わらず)塔の主の最愛の存在である四つ羽の天使、今朝ただ一人姿を見ていなかった塔の住人・レイの姿があった。どこからどう眺めても、それに間違いはなかった。
 だが、今寝台の上に身を丸めて眠っているのは、いつもの溌剌とした青年ではなく、どこからどう眺めても――あどけない寝顔をした、幼い子どもだった。


「これ、レイよね」
「レイじゃの」
「……小さいわねぇ」
「……小さいのぉ」
 静まった空気の中に見たままの呟きが流れる。
 首から下の全身が上着の中にすっぽりと埋もれ、あとの衣服は全て脱げ落ちてしまっている。天使の象徴である背の白翼は、数こそ二対四枚と元のままだが、雄々しい大鳥のそれから、ふわふわとした羽毛に覆われた雛鳥の羽に変わっている。一夜のうちに自分の身に起こった劇的な変化もまわりの驚愕も知らず、小さな鳥はいまだすやすやと夢の中だ。
 しばし黙って寝台を見下ろしていたヴァルナードが、ちらと翼の住人たちに首を向ける。すぐに意を察した声が返った。
「もー、違うってば! そんな『また今度は何を仕出かした』みたいな目で見てー!」
「なかなか降りてこないから起こしにきたら、その時にはもうこうだったの」
「取り替えたんじゃないからねぇ。だって取り替えたなら、鬼になってなきゃならないんだからさ」
 深い冥府の地の住人とは言え、高位天使の優れた護身の力を破ってその身に変化を及ぼすなど、ジュジュたちには試みたところでまず不可能な業である。やいやいと上がる否定に先に反応を返したのは、ヴァルナードでもその参謀でもなく、寝台の上の小さな天使だった。
「んー……」
 服の下から聞こえたかすかな声にはたと言葉が止まり、再び全員の注目が子どもに集まる。翼をゆるくはためかせ、上着にくるまった身体をもぞもぞと動かし、ふぁ、とひとつあくびをしてから、レイは寝台の上に小さな体を起こした。寝ぼけた仕草で目蓋をこすり、顔を上げ、次の瞬間、四枚の翼をびゃっと逆立て、目を大きく見開いてその場に硬直する。
 眠りから覚めると、あたりを取り囲み自分をまじまじと見下ろす姿が六つ。あまつさえ揃いも揃って異形の者とくれば、このぐらいの幼い子どもとしては無理からぬ反応ではあるのだが、幼い子どもの時代など記憶の彼方である住人たちの理解は到底そこまで及ばない。誰も声を発せられない奇妙な沈黙の中、ぽかんとした表情が見る間に歪み、翠碧色の大きな瞳にじわりと涙が浮かび始めたのを合図に、混乱が場を襲った。
「ちょ、ちょ、ちょっと、泣いちゃうわよっ」
「と言うより既に泣いているだろうこれは……」
「冷静に見てる場合じゃないってばっ」
「怖くないよぉ、なんて言っても嘘だよねぇ。ケケ」
「イ、イザエラ、なんとかするんじゃ」
「あらあら」
 右往左往する住人たちの前、もはや本格的にぽろぽろと涙をこぼしている小さなレイの頭や肩をイザエラがあやすように撫で、大丈夫ですよ、と穏やかに声をかける。ひくひくとしゃくり上げながらも、幼い天使は懸命の様子で顔を上げ、震える声を紡いだ。
「……だれ……?」
 かすかな言葉に少女たちが顔を見合わせる。
「私たちのことわからないの?」
「記憶まで子どもになっちゃったってことかねぇ」
「ふむ」
 ひとつ声を鳴らし、イザエラに代わって正面に立ったヴァルナードが、膝を曲げてレイと目線を合わせる。異容の瞳に覗き込まれてまたびくりと肩を縮めたレイだったが、伸ばした手で翼を梳かれるとやや落ち着きを取り戻した。
「自分の名が言えるか?」
 問うと、きょとん、と目瞬きが返る。
「難しく訊いてもわからないんじゃないかしら。ね、お名前はー? だって」
 横から口を挟んだソランの言葉に、なまえ、とくり返し、
「レイ」
 そう答えた。
「私の名前はわかるか」
 続く問いに子どもはまじまじとヴァルナードの顔を見つめて考え込むような素振りを見せたが、今度は首が横に振られた。
「……退行しているのは肉体だけだな」
「でも今、ヴァルナード様のコトわからなかったじゃない?」
 立ち上がったヴァルナードの言葉にジュジュが首を傾げる。ヌグマがあいだに口を入れて答えた。
「まるで知らぬ様子ではなかったよ。これぐらいの子どもの頭では、自分の名前程度しか思い出すことができんのじゃろ」
「本当に子どもの時代に『還って』いるなら、まず同胞の姿を探しそうなものだ。身体につられて精神も幼くなってはいるが、頬の傷もそのままということは、時間の逆行が起きたわけでもないな」
 天界にいた時分に戻ったのではなく、現在のレイが肉体的な若返りを起こしただけだ、と結論づける。当のレイはわけのわからぬ様子ながら既に泣きやみ、きょろきょろとヴァルナードたちのあいだに視線をさまよわせている。
「言われてみれば、驚いただけでそんなに怖がってるわけじゃないみたいね」
「でもどうしていきなりちっちゃくなっちゃったのかしら? 若返っただけって、それだけでもやっぱり大変なことに変わりはないわよぉ」
「そうじゃのう。しかも今日は確か――」
 言ってくるりと平板な身を返したヌグマに、イザエラが口元に戸惑いを浮かべて頷く。
「ええ……昼過ぎまではいられるのですけれど」
「えっ、イザエラ様、出かけちゃうの?」
「どうしてもしばらく里のほうに用があって」
「そんなぁ。イザエラ様抜きでこんなちっちゃい子の面倒なんてみれないわよぉ」
 ぶかぶかの服に埋もれるようにして寝台の上にちょこんと座っているレイは、赤ん坊とまでは行かないが、人の見目どおりに言い表すならば、生まれてまだ数年の幼児といったところに見えた。生死の循環の間の長いこの地では、子どもを見ることそれ自体がまず相当に珍しい。力の強い存在であるほど生まれてすぐに独力で暮らすのが普通で、子を養う者のほうが稀であるというところに、幼い頃から大切に大切に育てられたであろう天の子ども。――どれほど大変な事態が、もはや声にして確認するまでもない。
 再び凍りつく空気の中に、ヌグマが案を述べる。
「う、うむ。しかしまだこのままと決まったわけではないからの。原因がわかればすぐに戻るやもしれん」
「原因って言ったって、心当たりあるの?」
 遠い地の出身であるレイは、冥府の騒ぎを避けて生活の中心を完全に塔に置いている。塔での寝食に原因がないのだとすれば――と、思考を巡らせながらも行き着く画はそれぞれ変わらず、
「……私は公爵の館を訪ねてくる」
「では儂は女王の城へ参りましょうかな……」
 黒の間に集う、強大な力を遊び心に費やし続ける王たちの顔よりほかにないのであった。
 では早速、と塔主と参謀がきびすを返して扉へ向かいかけると、
「ちょ、ちょっと! どこ行くのレイっ?」
 それまで退屈げに大人たちのやり取りを眺めていたレイが、二人の後を追ってぴょんと寝台を飛び降りた。
「おれもあそびに行くっ」
 ぺたぺたと素足で駆け出すが、布の余りに余った服ではいかにも無理な動きで、五歩も行かないうちに足が床に引きずった裾を踏みつけて、身体が前のめりに投げ出される。
 あっ、と住人たちと子どもが共に上げた声が消えるより早く、ひょいとその肩をヴァルナードの手が支えて腕に抱き上げ、そのままつかつかと歩を進めて肘掛け椅子の上に小さな体を下ろした。ほっと安堵の息が場を包む。
「ほほ。レイ、儂らは遊びに行くわけではないんじゃよ」
「でもおれも外に行きたいー」
 ヌグマの言葉にむうと口を尖らせている。気性は子どもの自分から変わっていないらしいとヴァルナードは笑いをこぼした。
「外はお前には危ないな」
「……つまんない」
「まずその服では動けんだろう。イザエラ、頼めるか」
「ええ。出るまでに何着か仕立てておきますわ」
 ほほ笑むイザエラにでは頼むとくり返し、なおも不満げな顔をしているレイに視線を合わせ、言葉を続ける。
「ひとまずここで大人しくしていることだ。暇ならそこの三人が相手をする」
「なんか勝手に遊び要員にされてるわよ」
「でもほかに役に立たないから否定できないよね」
「私もヌグマも戻るまでそう時間はかからん。そうだな、帰ったら馬で遠駆けに連れて行ってやろう」
「ほんと? 約束する?」
「大人しくしていたらな」
「わかった!」
 ぱっと顔をほころばせて頷くレイの頭を撫でてやり、ヴァルナードはヌグマに出発の声をかけて颯爽と部屋を出て行った。
 後に残る妙にやわらかな空気の中、
「……お父さん?」
 主の耳に届けば影に呑まれかねない呟きがひとつ、ぽつりと部屋に落ちた。
 かくて、黒の塔の子育て奮闘記は幕を上げたのだったが、原因と対処もはっきりとしていないこの時は、まだ誰もそうと気付いてはいなかったのであった。


      ◇


「いーい、レイ? アタシがジュジュで、こっちがソラン、こっちがギィ、よ」
「ジュジュと、ソランと、ギィ?」
 以前にも交わしたやり取りだと思いながらも、その時は「ふぅん」で済ませたレイであったので、素直にくり返された名にジュジュたちは手を打ってはしゃぎ立てた。
「ちっちゃいとイイコねェ。……大きくなってもレイは割とイイコだけど」
「本当にボクらのことわからないんだねぇ」
「でも可愛いわー。目がおっきくってほっぺたがふにふにしてて。もー、私がもうちょっと大きかったら、ぎゅーって抱っこしてあげるのに!」
 面倒など見られないと言いながら、半刻も経たないうちに小さな子どもの魅力に夢中になっている住人たちである。そも、主のヴァルナードはもとより、塔の住人たちもみなあのまっすぐな青年に好意を寄せていたのだから、少し若返ったところで特段の変わりはない。
 当のレイはと言えば、まわりで少女たちがきゃあきゃあとはしゃぐ理由もわからず、やや置いてけぼりの状態のまま、上着の袖と裾を切って簡単に仕立てた服にくるまり、きょとんとして椅子に座っていた。ここが身にまるで馴染みのない場所ではない、ということはうっすらとわかっているのだが、明確な記憶にまでは至らない。教えてもらった名(先ほど出て行った銀色の髪の男はヴァル、絵姿の老爺はヌグマ、顔にヴェールをかけた女性はイザエラと言うらしい)も、なんとなく聞き覚えがあるようには感じつつ、ただそれだけである。
「ねー、あそんで」
 でも知っているひとなら「えんりょ」しなくていいんだろう、と子どもの頭なりに考えて、幼い羽をぴよぴよと動かしながらねだってみる。天界の毅然とした兄たちですら理性を揺さぶられたその言葉に、まして芯から遊び好きの少女たちに否やのあろうはずがない。
「いいわよー。でも何して遊べばいいのかしら?」
「危ないことはできないしねぇ」
 ギィの言葉に三人頭を寄せて考え込む。派手な遊びをして万が一階段から落ちて怪我でもするようなことがあれば、それこそ主の帰った時にどうなるかわかったものではない。
「……部屋からは出さないほうがイイんじゃない」
 黒い影の力に思いを馳せながら、ジュジュの言葉にほかの二名が深々と同意の首肯をする。
「じゃあレイ、ご本読む?」
「よむ」
 こっくりと頷くレイにじゃあそうしようと決め、しかし何しろ小さな身体の少女たちのことであるから、一人で子ども向けの大きな判の絵本を持ち出すのは、いくら蔵書室の階がふたつしか離れていないとは言えなかなか骨である。
 と言って、
「じゃあボクが取ってこようか。きしし」
「絶対変な本持ってくる気でしょ……」
 と、そうした流れでジュジュとギィの二人が部屋を出たが、それからいくらも経たないうちに折悪しく――とその瞬間にはわかっていなかったのだが――階下から人を呼ぶイザエラの声が届いた。残ったソランが応えの声を返す。
「はあい。今行きまーす。……どうしようかしら、レイ、一人でも平気?」
「へいき。おれ赤ちゃんじゃないもん」
 赤ちゃんじゃないけど、子どもよね、とでも言えばまたむくれさせかねないので、はいはいと頷く。
「じゃあすぐ戻るから、大人しくしててね」
「うん。いってらっしゃい」
 小さな手を振るレイに「もー可愛い!」とひとしきりときめきの声を上げてソランは部屋を去り、幼い天使はぽつんと独りきりになった。部屋に静けさが落ちて、途端に退屈が訪れる。
「つまんないー」
 子どもにとっての「すぐ」などほんの数秒である。丸い頬を膨らませて数度足を揺らし、それ以上の我慢を諦めたレイは、ぴょこんと椅子から飛び降りて何か面白いものはないかと部屋を歩き回り始めた。
 と。
 こんこん、と小さな音が届き、レイは背の大窓を振り返った。目にしたものに顔をほころばせる。
「とりだ!」
 ぱたぱたと慌ただしく駆け寄っても、窓辺に止まった数羽の鳥は驚き飛び立つことなく小さな天使を眺めている。それもそのはずで、彼らはレイの歌を聴くために繁く塔に通っている馴染みの鳥たちであった。隅に残るかすかな記憶と、本当の子ども時代に天界で友としていた鳥との思い出がないまぜになり、幼いレイの頭はその瞬間「本を読む」ことも「大人しくしている」こともすっかり忘れ、「とりと遊ぼう!」と決めていた。
「ちちち、おいでー」
 呼びかけながら、よいしょ、と窓枠によじ登り、ガラスの向こうの鳥に手を伸ばす小さな子ども。それだけを見ればなかなかにほほ笑ましい光景ではあるが、そうして寄り添うのは、紛うかたなき塔の最上部の大窓である。しかしわあと叫んでその身体を抱きとどめる大人もそばにはおらず、掛け金のかかっていなかった窓は、かたりとあっけない音を立てて外へ開いた。
「あ、あいた!」
 もちろん「危ない」ではなく「やったぁ」という想いで声を上げて、レイはためらいなく窓枠をまたぎ、外に張り出した外壁の上に身体を降ろした。大人では肩幅に足を広げて立てるかどうかという狭い足場だが、小さな子どもが座るぶんにはさほど問題ない。そのまま這う要領で手足を使い、窓の開いた反射に少し先へ飛び去った鳥を追って進み始める――が。
 ぱたん。
 ひゅうと風が壁に吹き付けた拍子に、頭上で軽い衝撃が起き――顔を上げると、またもあっけない音を立てて、窓は内側に閉まっていた。
「あ……」
 幼い頭でもさすがによろしくない事態が起こったのは理解できる。狭い足場で身を返して窓に寄り、背伸びをしてガラスを押すが、外開きの窓はわずかに動く様子もない。伸ばした手のずっと上に取っ手が付いているが、それを引き開けるために飛行を持続する力は、レイの小さな翼にはまだ無かった。
「とじこめられちゃった……」
 正確には閉め出されたのだが、その事態を実際に口にしたことで子どもはパニックに陥った。ガラスをかりかりと懸命に引っかいてみるが、無人の部屋に何が起こるはずもない。
「あかないよぉ」
 どうしようどうしよう、と一瞬前までの高揚も忘れ、幼い心が急激に焦りにとらわれ始める。
 この窓は自分には開けられない。それはわかっている。しかしレイは、だからじっとして人を待とう、とは考えず、ここにいても駄目なのだから、どこか別の場所から中に入らなきゃ、と決めた。昔さんざん天使長たちから言い聞かされた「迷子になったらじっとしていなさい」という言葉は、そもそも「迷子になった」と自覚しない性質だったので守ったことはない。
 とにかく入り口を探そう、と困った決心をして、レイは自室の窓から遠ざかり、外壁をそろそろと横手へ進み始めた。端から見れば命がいくつあっても足りない光景はしかし、幸か不幸か、長くも続かなかった。
 あ、と声を上げ、手足の動きを止める。
「いきどまりだ……」
 塔の角にあたる部分を曲がっていくらも行かないうちに、外壁の張り出しは途切れてしまっていた。窓も足場も手の届く場所にはない。行くことも戻ることもできず、レイはぺたんとその場に座り込んだ。もうどうすることもできないとわかった途端に、「大人しくしているように」と言われていたのだと思い出す。
 おれ、言うこときかなかったからとじこめられちゃったんだ! どうしようどうしよう、だれもおれが外に出たこと知らないし、言うこときかない悪い子だって、だれも探してくれないかも。もう一生もどれなくって、このままずーっとここでひとりぼっちかも……!
「やだぁ……」
 本当に一番に心配すべきはこの高さから落ちてしまうことなのだが、小さなレイにとっては「ずっとひとりぼっち」という寂しさのほうがずっと耐えがたかった。ただならぬ様子に鳥たちもそばを飛び去り、離れた場所から子どもを眺めている。
 ふぇ、と嗚咽を漏らしかけるが、ぶんぶんと首を振り、口を結んで我慢をする。
「おれ、男だから泣かないんだもん……」
 強い「きし」はりっぱじゃなくちゃいけないから、こんなことで泣かないんだ、といつ諭されたのか自分で決めたのかもわからない、しかし現在のレイも強く胸に抱いている矜持を発揮して、ぽろぽろと涙を流しながらも声を上げるのを耐える。
 本当は大きな泣き声を上げれば誰かしらの耳に届いてすぐに駆けつけてきたかもしれなかったが、そんなことには思い至らず、幼い天使は小さな翼で身体を包み、膝を抱えて心細さに震えていた。


 その頃。
 イザエラに呼ばれた用事を終え、部屋の前まで戻ったソランの目前に影が巻き上がり、ヴァルナードが帰宅を告げた。
「あ、お帰りなさい! 公爵様、なんて言ってた?」
「それとなく確かめたが、今回は関わりがないようだな。レイの様子はどうだ」
「相変わらず、戻る感じはないけど」
 今ね、本を読んであげようと思ってたの、と経過を聞きながら、念のためと少女が外からかけていった錠を外して扉を開け、――三たび、空気が固まる。
「……ええっ、レイっ! ちょっとどこ行っちゃったのっ?」
 ソランが声を上げたのとほぼ同時に絵本を抱えたジュジュとギィが戻り、ぽかりと空いた椅子を見て驚愕の叫びを重ねる。ばたばたとひと回り部屋の中を探すが、雛の羽を背に負った子どもの姿は影も形もない。部屋の下を離れて塔の角を曲がっていたレイは、まさかと窓から外を見やる目も届かない死角に入ってしまっていた。
「ヴァ、ヴァルナード様……」
「今捜している」
 そろそろと主の顔をうかがう三人の声を手で制し、ヴァルナードは塔に巡らせた力で天使の気配を探った。普段なら容易に居場所を掴める異端の気も、身体とともに小さくなってしまっているのか、なかなか捉えることができない。そうこうとするうちに先に意識に入り込んできたのは、雛鳥の気配ではなく、塔に近付く翼――鳥のものではない、骨と皮でできた巨大な膜翼の気配だった。
 説明もなくふっと影に融けたヴァルナードを見送り、部屋にぽつりと声がこぼれる。
「塔から落ちてたりしたらボクたち首が飛ぶかもね」
「怖いこと言わないでっ!」
 あり得ないこととは言えない恐怖を胸に、どうか無事でありますようにと、自らのためにも祈る少女たちであった。

 外壁から鳥が騒がしく飛び立つ。数瞬遅れてレイもひゅうと風を裂く音に気が付き、顔を上げ、目を見開いた。
 塔よりもさらに高く浮かんだ空から、人の数倍もの体躯があろうかという巨大な怪鳥がまっすぐに降下してくる。目指す先は間違いなくレイの座る外壁と見え、反射的に羽を広げるが、混乱に震える子どもの翼の力では、逃げるどころかただ飛び立つことすらままならない。もはや叫びを上げることもできず、きゅっと目をつぶり、身を固める。風音が近付き、鋭いくちばしが紅い舌を見せて開かれ、耳元で激しく物のぶつかる音が響いた。
 衝撃はなかった。
「……?」
 おそるおそる目を開き、レイは息を呑んだ。ほんの鼻先の間に鳥のくちばしがあり、血走った眼がぎょろりとこちらを向いている。が、開いたくちばしはそれ以上の動きを見せず、奥から嗄れたうめき声が漏れ落ちていた。わけもわからず固まったままでいると、横から伸びた腕にひょいと身体を抱き上げられた。
「大丈夫か?」
 低い声に視線を上げると、銀髪の男の顔があった。よくよく見れば、男の足元から伸びた黒い影のようなものが、怪鳥の身体を巻き締めて壁に押さえつけている。
 呆然と頷くレイにそうかと返し、ヴァルナードは影に巻き上げた魂喰らいの凶鳥へ向き直る。天使の力を我が餌にせんと襲いかかったのだろう。許しがたい業だが、子どもが外に出たのはその行動力を軽んじた自分の落ち度でもあり、幼い雛鳥にむげに処斬の画を見せるのも気の進む話ではない。
 ――消えろ。
 送り込まれた昏い思念と強大な闇の波動にギャァと声を上げ、ゆるんだ影の衣から抜け出した凶鳥は、羽ばたきも強く王の居城を逃げ去っていった。
「……いつかお前のお守りの者はさぞ幾度も肝を冷やしただろうと言ったが」
 まさか自分がその立場になるとはな、と息をつき、まだぽかんとしているレイを腕に抱いたまま、部屋へと移身する。小さな天使の姿を見止めて、翼の住人たちがわっと周囲を取り巻いた。
「もぅレイってば! どこまで心配させるのよー!」
「首が落ちるか残るかの瀬戸際だったよぉ」
「どこもケガしてない? ごめんね一人にして」
「いたいーやめろよー」
 無事の確認に身体をもみくちゃにされ不満の声を上げながらも、放心状態は脱したらしい。落ち着きを確かめてすとんと床に降ろしてやる。
「ここよりも広間に置いてやるか」
「そのほうがお互い健康に良さそうねェ……」
「じゃあすぐ行きましょ。ほっとしたらお茶が飲みたくなっちゃった」
「お咎めがないうちにね。きしし」
 口々に言って部屋を飛び出ていく住人たちが忘れた本を手に取り、やれやれと扉に向かうヴァルナードの服を、後ろからつんと子どもの手が引いた。
「どうした」
 安堵の色もない曇った表情を覗き、問う。顔を俯け翼をしぼませて、見るからにしゅんとした様子のレイは、黒衣の裾をきゅっと握ったまま、
「……約束やぶって、ごめんなさい」
 消え入りそうな声でそう言った。
 騒がしい少女たちはともかく、言葉の少ないヴァルナードを見て怒らせてしまったと感じたのか、それともこのまっすぐな気性の鳥のことだからけじめを付けようと思ったのか、どちらにしても、住人たちよりよほど早くからこの存在に情を寄せている塔の主にすれば、ただ愛らしく映るだけである。
「確かにその点は褒められないが」
 言って、ぽんと小さな頭を撫でてやり、
「お前が無事なら私はそれで構わん」
 これも前に言ったがな、と笑む。レイはぽかりと口を開き、その顔を見つめ返した。普段であれば余裕ぶっていて気に入らない! と評される笑みは、しかし実のところ嫌われてはいない、どころか少し羨みさえ覚えられていた大人の表情なので。
 「強くて格好いい騎士」に憧れる小さなレイには、それはそれは輝いて見えたのだった。


 その後、遅れて塔に戻ったヌグマが『蛇の女王』・キシュナは城では身が捕まらず、夜を待ち、折良く決まっていた黒の間での会合の際に確かめるしかないようだと報告した頃には、レイはすっかり塔に身を馴染ませていた。
「ていうか、馴染み過ぎだよねぇ」
「あーあ、結局ヴァルナード様にイチバン懐いちゃうんだもの。つまらないわよね」
「儂のいない間に一体なにが……」
 他の住人たちが愚痴をこぼし、ヌグマが呆然とするほどに、幼いレイは全身からヴァルナードへの好意を発していた。
 乗馬の誘いを「約束をやぶったから」と子どもらしからぬ律義さで断った後も、そのそばを離れることなくつき従い、立てば立ち、座れば座り、歩けばその足の後ろをちょこちょこと懸命に追っていく。長身を見上げる大きな瞳はきらきらと憧憬に輝いている。
 レイにしてみれば、それが本来の自分の恋情を元にしたものであるとは知らず、だからして隠す必要も感じていない。好意を表している自覚もないままに「ヴァルはつよくてかっこよくてやさしい!」という想いでただ純粋にふるまっているだけなのだが、慕情を表に出そうとしない意地っ張りな青年の姿を思い起こせば、この状況は顎が外れんばかりの落差である。
 「優しい」のはお前さんだからで本当はおっそろしいよその人……と教えてやりたく思う外野だが、命は惜しいので口には出さない。
「ヴァルナード様も遠慮なく可愛がっちゃってェ。あんな顔してたらレイが騙されちゃうじゃないのよね」
「でもほんとに可愛い……カルガモみたい」
 まさに刷り込みされた雛鳥のごとくヴァルナードに親愛を寄せているレイは、今はソファの上で本を開いている膝の上にちょこんと座り、ふわふわと翼を撫でられて顔をほころばせながら、中身のわからないページを真似をして覗き込んでいる。
「夜は黒の間に行って下さるかのぉ……」
 大変ほほ笑ましい光景に、よもやずっとこのままに留め置かれまいか、と不安を漏らしたヌグマの言葉を、すぐに小さな住人たちが横から否定する。
「まさかそれはないよぉ」
「そうよねェ。だって」
「……だって、ねぇ」
「うむ……とほほ……」
 ――だって、できないし。
 瞬時に一致を見た暗黙の言葉は、やはり命が惜しいので声にはされなかった。


      ◇


 その夜。ヴァルナードのそばを離れない子どもの様子と昼の騒ぎを鑑みて、レイも黒の間へと連れ行くことが決まり。
「出かけるの?」
「あまり気は進まんがな」
「四王さまっていう、ヴァルナード様と同じぐらい偉い人たちのとこに行くのよ」
「ヴァルの友だち?」
「そうねェ……随分クセのあるお友だちだけど」
「なんか心配ね。玉眼王さまに会うのはちょっと怖いけど、私たちもついて行っちゃ駄目かしら」
「うむ、そのほうがいいかもしれんのぉ……」
 かくして、既に幼い天使を中心に生活が回り始めている塔の住人総出の参殿となることも同時に決まった。

 黒の間に巻き上がった影に、先に顔を揃えていた三人の王は、示し合わせたかのごとくまず現れた人の数に首を傾げ、そして次に、同輩の足元に身を寄せた小さな四つ羽の鳥の姿を見つけて驚きを表した。
 闇の根源、大いなる冥府の王の居所に、かつてない奇妙な沈黙の間が流れる。
「……少し来ないうちに随分と縮んだように見えるな」
「実際に縮んでいるとしか見えませんよ将軍」
「可愛らしい姿になったこと」
 まじまじと注がれる視線が自分に向けられているものだと気付き、レイはぴゃっとヴァルナードの脚の後ろに身を隠した。
「何があったのです?」
「それはこちらが知りたくてな。女王」
 ふうと息をついてキシュナに虚眼を向け、
「うちの者を実験台に使うのは遠慮願いたいのだが」
 言うと、まあ、と蛇の女王・キシュナが心外の面持ちを見せて肩を揺らす。
「聞く前に決めつけるなんて酷いことね。少なくとも今回は、なんの悪戯もその子にはしてないわ」
「しかしほかに心当たりがないのだがな」
 美貌の鬼女は、冥府にその名を馳せる妖しの薬師でもある。こうした騒ぎの発端となるにふさわしい妖薬の力を疑うのはまあ無理からぬことと、横で聞く鎧の王と山羊の王も同意の頷きを寄せた。
「信用のないこと。確かに蠍沼の夫人にせがまれて若返りの妙薬を作ってはいるけれど、薬を持ち出したことはないし……」
 そこまで語って、あら、と何事か気付いたように声を漏らす。
「そういえば、二、三日前に材料の花をここへ持ってきていて、香りを気に入っていたようだから、余る分をお土産にあげたのだったわ」
 でも材料になるのは蕾を煎じた部分で、香りを嗅ぐぐらいで効果があるとも思えないのだけど、と続けるキシュナだが、塔の住人たちにはその時点でおおよそ原因の検討がついていた。
「ゆうべのお茶……」
「入れたわね。広間に飾ってあった薔薇の花」
「半分くらいは自業自得かもね。きしし」
 香茶を淹れたイザエラの手でか、カップを用意したジュジュたちの手でか定かではないが、それが女王からもらった花とは知らず、レイの分にだけ飾りに蕾を浮かべてしまったのだろう。誰にも屈託なくふるまうのはいいが、警戒がないのも考えものだと嘆息を落とす。
「……今回は仕方がないが、今後そうした少しでも毒になるような物を持たせるのはやめてくれ。こちらの身が持たん。――これはどうすれば治る?」
「正しく作った薬ではないからそうは続かないわ。十日もすれば効果をなくして元に戻るんじゃないかしら。やれないことはないけれど、無理に治すのもなんでしょう?」
 清浄の世界で生まれ育った天使には、冥府の薬は効き目がきついようだ。それが最善だろうと頷きを返し、速やかに帰る素振りを見せたヴァルナードの影の衣を、ひょいと山羊の王・フレッグの手が引きとどめる。
「なんだ、公爵」
「十日はなかなか長いですね」
「少しな」
 にこやかな笑みで言うフレッグから不穏な気配を感じ取れていないのは、もはやその言葉の矛先のレイのみである。
「二日交代ではどうですか」
「……『どうですか』に至る意味がわからんのだが」
「あら、抜け駆けはずるくてよ、公爵」
「そんな子どもを見るのは何百年ぶりだろうかな。どれ、儂も乗らせてもらうとしよう」
 フレッグに続いて身を乗り出すキシュナと鎧の王・オーヴェンの言葉に、だから来たくなかったのだとヴァルナードは眉間に手を当てた。

「……始まっちゃった」
「レイ、とりあえずこっちに避難するんじゃ」
 突然の事態に驚きながら、レイは呼び声に従い、四王を遠巻きにする塔の住人たちの輪の中にとてちてと身を寄せた。
「こうなると思ってたのよねェ」
 先ごろより構い続けていた若い鳥のさらに幼くなった様を、いついかなる時でも興に飢えている王たち――無論ヴァルナードを含めた四人の王みな――は、それはいたくいたくお気に召したらしい。
「死神どのの住まいでは子育ては大儀では? 従者の方も不在と聞きましたが。私の館なら世話人が大勢いますよ」
「あら、公爵の家は男手ばかりじゃなくて。無骨者たちに囲まれていては可哀想だわ。うちには気立ての良い女が何人もいてよ」
「都育ちの鳥に性は関係なかろう。十日ばかり問題はない。無理なく暮らすには子どもが最も愛する者のもとにいさせるのが最善だと思うが?」
「はは。大した自信だな、影の。だがあの若者のこと、剣の師のほうを取るやもしれんぞ」
 ……ちょー大人げない。
 三たび口には乗らなかった共通の思いとともに、何千年も生きているはずの――そして冥府で十指に入る実力者であるはずの王たちの騒動の種である小さな天使を見つめる。当人はきょとんとして、しかし何やら争っているのはわかるのだろう、不安げな顔でけんか? と問いを上げた。
「喧嘩っていうか、半分ぐらい遊びだよねぇ」
「レイがどんな人が好きかって言ってるのよ」
「すき?」
 ソランの言葉にことりと首を倒して、
「おれがすきなのはねぇ」
 ――つよいやつ。
 嬉しそうに漏らした声は、あ、しまった、と思う間もなくしっかり四人の王の耳に入っていた。
「……そういえば真剣に手合わせをしたのは何百年前でしたかね?」
「穏やかではないな。――やるというなら相手になるが」
「ふむ。白兵ならば誰にも後れを取るつもりはないぞ?」
「ま、気が早い人たちね。……この場で全て決めるのではないなら、館のお茶に気を付けなさいな」
 ふっと場の空気の色が変わり、塔の住人たちが肩を縮める。
「ちょ、ちょっと、本気?」
「こりゃもっと離れたほうがいいよぉ」
「ヌグマ様、止めてー!」
「いや、しかしさすがに本気では……やられんといいのう。とほほ」
 オーヴェンが黒の大剣を抜き、キシュナが六臂を顕わにし、フレッグが翼持つ獣頭の魔人に化身し、あまつさえ主人であるヴァルナードもが影の異形に姿を変え始めている光景を見れば、たとえ化かし合いの延長めいたやり取りとわかってはいても、力ない言葉が出るのは無理もない。
 ていうかあんたら、いくら力を誇示するためでも子どもが泣くわ! と声を張り上げられる者は、惜しいかな一人とていない黒の間の夜である。
「ヴァルどれー?」
「あの真っ黒いの……って見ちゃ駄目だってばレイ!」
 結局大人げない威嚇のし合いは、ふらりと現れた玉眼王がヌグマに経緯を聞き、『では我も参加するとしようか?』と声投げたことで終結したのだが、その言葉は参謀たちの心に「もちろん本心じゃなかったはず……」とひそやかなしこりを残したのであった。


 夜も更け、さすがにいささか疲れたと本を手に寝台に横になっていると、低い位置からこつこつと戸を叩く音が聞こえた。
「開けて構わんぞ」
 声を投げると、そっと扉が開き閉じる音に次いで、小さな足が一歩一歩近付いてくる気配がする。そうして寝室の入り口にちょこんと姿を見せたのは、確認するまでもなく、白い服に身を包んだ幼い天使だった。見ればなにやら硬い表情を浮かべ、両手に自分の部屋から持ち出したのだろう枕を抱えている。
「どうかしたか」
 上体を起こして訊ねる。レイは枕を抱えたまま数歩ちょこちょこと部屋の中に足を進め、少しためらいを見せてから、
「ヴァル、……ここ、おばけが出るってほんと?」
 ひそりと声を落とした。
 慮外の言葉に返す言葉を探していると、きゅうと幼い顔がさらに歪む。
「あのね、ジュジュたちがね、おばけたくさんいるって……」
「……なるほどな」
 本を読めなかった代わりに寝る前に話をしてあげよう! と住人たちが勇んでレイを部屋に連れて行ったところは見たが、どうも冥府の寝物語は天の子にはいささか刺激が強かったらしい。
「その程度で怯えていては強い騎士にはなれんぞ?」
 そもそも先ほどまで触れ合っていたこの塔の住人からして異形揃いである。死霊程度で怯えていては、なお昏い自分の存在は何ほどと言うのだろうか――とおかしさ半分でそう口にしたが、「つよいきし」にこだわるレイには衝撃が大きかったようで、ぴっと広げた羽をすぐにしおれさせ、うん、と俯き帰る素振りを見せた。
「レイ」
 その小さな背を笑って呼び止める。どこまでもまっすぐで律儀な鳥。まったく愛しくて仕方がない。
「ここで寝るか?」
 声に振り向き、持ち上げられた敷布を見て、レイはぱっと顔を輝かせてぱたぱたとヴァルナードの寝台に走り寄った。よいしょ、と持ち込んだ枕とともに寝台に上がった子どもをそばに寄せ、自分も身を横たえる。
 頭を撫でられて目を細め、ひとしきり喜んだあと、あっ、とレイは気付いたようにヴァルナードの顔を見据え、口を開いた。
「おれ、おばけ怖くないんだからな!」
「そうか」
 笑って返すと、うん! と布団の中で大きく頷き、
「だから、大きくなったら、ヴァルみたいにつよくてかっこいい『きし』になれる?」
 真剣な面持ちでそう言った。
「私は騎士ではないが」
「でも、つよくてかっこいいもん」
 よほど昼の騒動が心に残ったのか、続けて言いつのる。
 子どもとは言え、これは紛れもなく現在の心と記憶も身に宿している「レイ」なのだから、その言葉は――どれほど本人の表層にあるか定かではないが――青年のレイの中にも確かにあるものなのだろう。こうして聞くのはいささか反則じみているが、喜ばしいことに変わりはない。
 なれる? とくり返すレイに、そうだな、と相槌を打ち、
「お前は成長したら、強くうつくしい騎士になる」
 そう答える。
「うつくしいってなに? かっこいいじゃないの?」
「まあ似たようなものだ」
「んー……」
 納得の行かない様子ながらも、翼を撫でられる心地よさにレイはうとうととし始め、いくらも経たぬうちにヴァルナードの腕にこてんと頭を預けて眠りに落ちた。
「……いずれにしても」
 小さな耳に唇を寄せ、子守唄のように囁いてやる。
 ――お前は私の、愛しい鳥だ。
 姿が変じてもなんら変わりはない。初めて心底から得たいと思った、強くうつくしい光を抱く唯一のもの。他の何者のためにもこの身を離そうとは思わない。
 回した腕をせばめて抱き込み、額に軽い口付けを落とすと、小さな身体が身じろぎをし、もにょもにょと寝言でヴァルナードの名を呼ぶ。
 その仕草を愛らしく思い、と同時に、
「……十日は長いな」
 ため息とともにそう呟いたのは、影の王の名誉のためにも何卒ご内密。


 そんなこんなで大小の数え切れない騒ぎを起こし、十日後。
「レイーっ、一緒に本読みましょうよ!」
「カードがいいよねぇ。きしし」
「あら、レイはアタシと歌の練習するのよね?」
「聞きたい昔語りがあれば儂がなんでもしてやるぞい」
「遠駆けに行く約束がまだだったな? レイ」
 普段の倍、に収まらず五倍にも十倍にも自分を構おうとする奇異な住人たちの行動に眉を寄せ、
「……イザエラさん、ちょっとこいつら気持ち悪ぃんだけど……。なに、なんかあったのか?」
 ちょうど里から戻ったイザエラに訊ねかけるも、返るのは意味深な笑みばかり。
「ちょっとレイ! 遊ぶの遊ばないのー!」
「なんなんだよもう。勘弁してくれよ……」
 何も憶えていない四つ羽の青年は、むずがゆさに頭をかきながら、ただただ困惑を深くするのみであった。


Fin.
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