※企画小説『たまぴよ。』設定のお話です。レイがちびですのでご了承の上お読み下さいませ。
 ※特定の時系列設定はない……はずでしたが、なんとなく『翼の誓い』後かもしれません。

 
さがさないでください。


 ほわ、と小さなあくびが寝室に落ちる。
 もぞもぞと布団をのけて縮んだ身体を寝台の上に起こしたレイは、寝ぼけまなこをこすりつつ、すぐに傍らから部屋全体までを見回しにかかった。広い部屋にゆったりとした広い寝台。その上に、小さな四つ羽の天使がぽつんとひとり。
「またいないー」
 不満の声とともに、ぷくり、頬を膨らませる。
 この部屋の主であり塔の主である『影の王』、幼い天使の憧憬を一身に受けているヴァルナードは、レイが寝床に入り眠りに就くまでは傍らにいるが、朝目を覚ますと先に起きて寝台を降りてしまっていることが多かった。生来長時間の睡眠を要さないヴァルナードにすれば、子どもの寝起きに合わせると横になったまま暇を持て余す時間が長過ぎるのだが、無論そんな事情にレイの理解は届かず、ただ独りきりにされているのが不満で、口を尖らせて抗議をし、そのたびにころりとはぐらかされているこの数日である。
 今日も寝台にヴァルナードの姿はなく、どうやら隣の居間にも不在のようだ。きっともう下に降りてしまっているのだろうとレイはもう一度頬を膨らませ、ヴァルなんてもういいや、と声にしてこぼしてから、鳥が来ていないかと寝台の上の窓を振り向いた。
 薄い布帳の向こうに鳥たちはおらず、代わりに、既に高く昇りかけた陽を返して光る物があった。
 寝台の頭部、窓下の棚には、時計などの調度のほかに幾つかの細工物が置かれている。その中の石細工のひとつに布帳から漏れ入った陽が当たり、輝いているのだ。深い黒一色の石でひときわ精巧に作られたそれは、馬をかたどった彫像であった。
「あ、ゼルグだ!」
 思わず声を上げる。まさしく、それは影の王の乗騎、黒の焔馬ゼルギオンだった。レイはぼんやりと昨夜の就寝間際の光景を思い返した。うとうととして良く見てはいなかったが、ヴァルナードが何かの包みを開いて中の物を取り出し、棚に載せていたのを憶えている。きっとこの真新しい細工がそれだったのだろう。
「いいな。かっこいい」
 レイはつい数瞬前までの立腹も忘れ、自分の顔ほどの大きさの石細工を目を輝かせて見つめた。腕利きの細工師にあつらえさせたのだろう繊細な彫りの像は、後脚で立ち、焔のたてがみを後になびかせ、今しも天に翔け登っていくかのような焔馬の姿を見事に顕している。雄々しく美しく、そして強い力を持ちながら小さな自分にも優しく接してくれるヴァルナードの愛馬がレイは大好きだった。
 もっと近くで見たい、と寝台の上に立ち上がり、棚に身を寄せる。そうして、陽光の映るつややかな石の背を撫でようと手を上げた、その時だった。
「あっ」
 小さな足がやわらかい枕の上に乗ってよろめき、倒れまいと伸ばした手が棚の天板を滑る。指が台座に触れたのを知って声を上げた時には、もう遅かった。
 ――がしゃん。
 硬い音が響きもせず部屋に鳴る。
 窓辺から放り出された焔馬の像は、床の上で呆気なく砕けていた。
 しばし、時がぴたりと止まったままにして過ぎた。
 呆然と床を見つめる幼いレイの理解がゆっくりゆっくり事態に追いつき始める。口をぽかんと開いたままぎくしゃくとした動作で床に降りた。大小に砕けた黒石に、もはや元の精巧な細工の面影は微塵もない。
 壊してしまった。
 真っ白になっていた心に、混乱が押し寄せる。
「ゼルグ、こわしちゃった……」
 呟きに返る音はひとつとてなく、小さな声はただ砕けた像の残骸の上に散り消えた。
 成す術ない無残な光景に、レイはつい数日前に塔の老魔術師とともに読んだ、ある幼児向けの本のことを思い出していた。物語の半ばで、大きな屋敷に仕えていた少女が主人の大事にしていた食器を落として割ってしまい、怒った主人に捨てられてしまうのだ。
 割れてしまった皿を描いた挿絵と、目の前の光景がひとつに重なる。この石細工について昨夜のヴァルナードは何も語らなかったが、愛馬を象ってわざわざ作った物だ。ゼルギオンはとても大事にされている。今は砕けてしまったこの美しい石細工も、きっととても大事な物のはずだったのだろう。
「どうしよう、おれ、どうしよう……」
 皿を割ってしまった少女を見つけた主人は、激しい剣幕で怒鳴り声を上げ、もう顔も見たくないと少女を突き放した。もしこれが見つかってしまったら、自分も――
 やだやだ、と首を振り、慌てて砕けた破片に飛びつく。床に膝をつき、不安に震える手で懸命に石のかけらを組み合わせようとするが、数十に散った破片を元の通りに直すなど、子どもでなくとも不可能な試みである。
 捨てられてしまうという恐怖と混乱で胸がいっぱいになり、大きな瞳に湧き上がった涙がこぼれ落ちそうになった時、
「レイー、まだ寝てるのー?」
 いつまでも降りてこない子どもを案じたのだろう、蝶の羽の少女の呼び声が階下から近付いてくるのが聞こえた。
 はっとして立ち上がり、おろおろと辺りを見回して、目についた自分用の小さな掛け布を寝台から床に引き降ろす。そうして、砕け散った石の破片を端から両手ですくい、広げた布の上に集めた。尖ったかけらがいくつも指に刺さったが、激しい動転の中にある今のレイには痛みを理解する余裕もなかった。
 目につく破片の大部分を集め終えたところで布を端からくるくると巻き、余った部分を紐のようにして首の後ろに背負う。寝室と居間を走り抜けてそっと廊下に顔を出し、ソランがまだ階段を上りきっていないのを確かめてから、裸足のまま全速力で廊下を駆け、同じ階の空き部屋へ飛び込んだ。

 それからしばらく、暗い部屋の隅で石の破片と格闘していた。
 寝台の上に残っていた布団の膨らみにレイがまだ眠っていると思ったのか、ソランは首を傾げながらも再び階段を降りていった。が、また少しすれば、今度はきちんと子どもを起こすために他の住人たちと連れ立ってやって来るだろう。そうなる前にこの事態をどうにかしなければならない。
 埃の積もった床に座り込み、手の中で石のかけらをかちゃかちゃと鳴らしながら、レイはもう耐え切れずに涙をこぼしていた。嗚咽をこらえて懸命に像を直そうとするが、破片はさらに割れて散らばり、状況は悪化するばかりだった。
「……なおんない」
 かけらを布の上に落とし、くすんと鼻を啜る。一すじの光に必死にすがっていた幼い心も、もはやこの過失を取り戻すことはできないと悟り始めた。
 どうしよう。
 少女を捨てた屋敷の主人の激しい怒りを思い出す。
 像を直すことができないのなら、他に何をすればいいのか。見つかれば捨てられてしまうと信じ込んでいるレイの頭の中を、塔の住人たちと読んだ物語がくるくると回る。本の中の小さな主人公たちは、こんな時どうしていただろうか。
 物語が巡るたびに道が前に現れたが、レイは結局そのうちのひとつしか選ぶことができなかった。
 しおれた小さな翼で肩を包み、ぽろりとこぼれた一粒を最後に、涙で濡れた顔をぬぐう。石片を中心に集めて布をもう一度袋状に巻き、引きずって部屋を出た。
 廊下には誰の気配もなかった。足音をひそめて横切り、ヴァルナードの部屋に戻る。寝室から靴を取ってきて履き、服についた埃をぱたぱたと払い落とす。居間の机に置かれていた焼き菓子を二枚だけ取って懐に入れ、壊れた石細工を包んだ布袋を背負い、最後に部屋を振り返ってもう一度小さく鼻を鳴らしてから、レイはとぼとぼと廊下を逆端の扉へ向かって歩き始めた。


      ◇


 冥府の核、全ての闇の根源たる漆黒の中、冥界の至高の王は意識を遠く広くたゆたわせていた。
 闇の地に吹く乾いた風が力の波を押し流してゆるやかに気を巡らせ、その中で幾つもの生と死が紡がれていくのを、捉えるままに捉え、感ずるままに感じる。全てを我が内にしながら全てを我がものとすることなく、ただ把握の網を広げていく。
 と。
 世の起こりより続く存在の循環の中に、ふつり、ごく小さな異がよぎった。
 意と力を集め戻すうちに、黒の間へ続く道を何者かが歩くかすかな音と気配が近付いてくるのを感じ取る。その存在は非常に小さく、普段この闇の間に集う力有る者たちでないことは容易に知れた。しかし、直に接したことのない者でもない。
 捉え難い小さな力が姿を見せる前に、それが何者であるのかを先に理解した。慮外の来訪にふむ、と意識を鳴らす。かの者の訪れ自体は思いがけぬと言うほどのものではない。しかし、今この時にとは。
 ――さて、何用であろうか。
 深い闇の中に沈んだまま、興味半分で待つ。
 ほてほてと深淵の地にそぐわぬ軽い音を響かせながら、その足には長いだろう道を歩き来た者の姿が、ひょこ、と黒の間の口に覗いた。
 濃い闇の下、淡い光をまとっているように見える白の衣装は、予想に違わず異界の鳥のものであった。故郷を離れ、『影の王』の庇護のもとに暮らしている四つ羽の天使、レイである。
 本来は百幾歳かの成年者だが、今はある珍事から幼い子どもの姿になっている。それだけに、この来訪が妙だった。鳥を寵している影も、塔に住むほかの目付け役も傍になく、たった独りで黒の間へ訪れるなど、果たして何事があったのか。子どもの住まう塔に意識を伸ばしてみるが、特段の変事は感じられない。
 客がある時に浮かべる灯かりも今は失せている。前を見通すことのできない一切の闇に逡巡を見せてから、それでもレイはゆっくり黒の間の中心へ足を進め始めた。きょろきょろと辺りをうかがう様子を見ると、誰かを探しにきたものか。
『天の子よ、何用か?』
 そろそろと近付く子どもの頭上に短く問いを放り、明かりを灯す。瞬時に雛の羽を総毛立てたレイは、驚きが過ぎたのか、硬直した足を滑らせて後ろへころんと転がってしまった。
『怯えずとも良い』
 子どもに無理を言いなさるなと茶々を入れる者もなく、常の低い声を響かせ、冥府の王はその名の所以である玉眼をゆるやかに開いた。灯かりを得て色薄れた黒の間の奥の、それでも光の届かぬ深い闇の中に、ほかり、緑赤色に輝く二つの玉が浮かぶ。
 転げて尻餅をついたまま、ぎょくがんおう? とレイが呟く。
『うむ。そなただけでやって来たのか』
 子どもは問いかけに立ち上がってうん、と頷き、
「みんな、いないの?」
 首を傾げた。
『生憎、今はそなたの遊び相手は誰も来ておらぬ』
 答えると、そっか、と肩を落とす。共にしおれた羽の上に、何やら布の包みを背負っている。ただ塔の外の王たちを遊び相手に求めてきたというわけでもなさそうだった。
 ともかくも、このまま放っていればまたひと騒動が立つことは想像に難くない。
『独りで来たのなら、すぐに帰らねば塔の者たちが案ずるぞ』
 己で行きたいと告げてから来たのなら、こうして独りでいることはないだろう。黒の塔からの一本道にさしたる障害はないとは言え、外界よりは安全であるというだけに過ぎない。塔の住人たちは子どもが何も言わずに住みかを出たのをいまだ知らないか、やっと不在に気付き始めたばかりといったところであろう。
 玉眼王の言葉に、レイはますますしゅんとして、弱々しく首を振った。
「おれ、かえらない」
『ほう』
 意外な言葉に声を鳴らすと、レイは泣きたいのをこらえるようにきゅっと顔を歪め、
「おれ、ヴァルのだいじなものこわしちゃって、どうしてもなおせなくって、……だから、とうから『いえで』してきたんだ」
 ぽつぽつと、言った。
 家出。幼い子どもの口から転がった思いがけない言葉を、意識の中にくり返す。
 縁の繋がりの薄い冥界ではまず聞くことから珍しい言葉だが、一般の意味を取れば、それは出ていく側の者が後に残す場に何か憂憤を抱えた果ての行為である。今の説明はどこか理屈が通らない。
『その大事な物とやらを壊したと、誰かに伝えたのか?』
 問うと、また小さく首が振られる。とすれば何か諍いがあったわけでもない。妙なこともあるものと考え巡らせていると、レイがぽつりと言った。
「こわしたの見つかったら、おれ、すてられちゃうもん……」
 玉眼を瞬かせて子どもを見つめる。冗談をこぼした様子でもなく、幼い天使は大きな翠碧の瞳に涙さえ浮かべている。だから、『いえで』してきた、と語る拍子にその涙がぽたりと闇の間の床に落ち、遂にレイはふぇ、と嗚咽を漏らし始めた。
 捨てられてしまうからその前に家出をした――なんとも奇妙な行動だ。どちらにしたところで結果は同じである。だがなるほど、この異界の雛鳥の心を探るにはわかりやすい。ふたつの事象の間のわずかな違いを、子どもは嫌ったのだ。
 静かに思考を流しながら、ひくひくとしゃくり上げるレイに力を伸ばす。ふと顔を上げ、近付く闇にまた驚き転びかけた小さな身体を努めてゆるやかな所作で宙に支え上げた。レイの手から包みがこぼれ、がしゃ、と布の内にくぐもった硬い音を響かせて床に落ちた。
 するりと傍に引き戻した不定の闇の腕の中、レイは一度目を丸くし、次いでこわごわとした様子で辺りを見回した。涙は止まったが、今度は身をかちりと固めてしまっている。形の判然としない闇に抱き上げられ、すがるものなく宙に浮き上がってしまっているようで落ち着かないのだろう。
『ふむ』
 ひとつ低い声を鳴らし、異形の身をうごめかす。
 レイが大きな瞳をさらに大きく開いて見上げる目前、強大な力が渦を巻き、収縮を始めた。黒の間全体に霧のように伸びていた闇が一点に向かって集まり、ゆっくりと実体を造っていく。いかな腕利きの細工師にもまとめ上げることのできない大いなる闇が、この世に何より精巧な生者の肉体を象った。
「やはり影のようにはいかぬな」
 何百年ぶりかではな、と子どもを支えていない側の手をかざし見る。上げたその腕先こそ黒の異形から完全な人の形に収まりきらずにいるが、逆側の手、頭から足先まで、冥府の核たる闇の王の身体は、元の長大な輪郭を微塵も感じさせない、すらとした人姿に変じていた。
 わぁ、とレイが感嘆の声を漏らす。
「そなたにはこの姿のほうが話しやすかろう」
「うん。ヴァルみたい」
 その言葉は異形から人の身を造る行為自体にも当てはまるものだったが、子どもが漏らした感想は、そうして今自分を抱きかかえている人姿についてのものだろう。
 長身に細身の黒の衣裳。身の回りに浮かび漂う闇色の衣。いずれも『影の王』の絵を象るに特徴的な像である。漆黒の髪の色、虚眼を持たない緑赤の双眸の色こそ異なるが、顔の造りもヴァルナードの面立ちが少し齢を重ねたような、良く似たものであるはずだった。
「うむ。影が我に似ているのだがな」
 以前、元の姿の青年に対しても教えた言葉を繰り返す。レイはぱちくりと目を瞬かせ、
「ぎょくがんおうは、ヴァルのお父さんなの?」
 そう問いを落とした。
「定かな血の繋がりはない。だが、あれがこの地、この世において最も我に近しい存在であることは確かだ。あれが在り始めたのも、この黒の間であった」
 闇と影。ごく近く重なり合って在るもの。形を転じてもその根となる性が変ずることはない。良く似た質を持つ者が同じように身をそのまま具象に現せば、良く似た姿になるのは自明の次第でもある。
「ヴァル、ここで生まれたの?」
「うむ」
 涙をすっかり忘れた顔で、へえぇ、とレイは興味深げに頷く。いまだ塔の主に強い親愛を寄せるこの様子を見るに、本当に望んで塔を離れたのではないことが事もなくわかる。
「影の話は良いとして、そなたはこれからどうするのだ?」
 そう改めて問いを戻すと、途端に子どもは腕の中でしょんぼりと気勢を落とした。
 塔からは出なければならない。しかし塔の門の外、見知らぬ外界に出ることは非常に危険だと強く言い含められているはずだ。そうなれば、わずかな外の知り合いを頼るほか残る術はない。が、そうして望みを託して来たのだろうこの場に、いつも自分を構ってくれる王たちの姿はなかった。
 おそらくそんな経緯だろうと立てた推量に誤りはなかったようで、レイは返す答えを探して俯き、悲しげに眉を寄せている。その瞳にまた水が張りかかるのを見て、冥府の王はふと息を鳴らした。
「ふむ。……では、天の子よ。我が下で暮らすか?」
 ほぇ、と気抜けた声を漏らし、レイが顔を上げる。『影の王』と良く似た薄い唇に良く似た笑みが浮かび、言葉が続いた。
「我ならば影がどう探そうとそなたを隠してやれるがな」
「……ぜったい、ひみつにする?」
「うむ」
 頷くと、目がきょときょととし、決心と逡巡の間で心がくるくると動いているのが見て取れる。もう一度音なく笑いを鳴らし、小さな手に静かに力を与えてから、頃合いを計って子どもの白い額にそっと唇を近付けた。
 と。
 ――ぽす。
 薄い無機質な感触が、レイの額と冥王の口元を覆った。
 わあ、と暴れるレイと対照に、ごくゆるやかな所作で上体を元の姿勢に起こす玉眼王の視線の先、黒の間の口に卒然と人影が現れている。戯れをさえぎった衣を引き戻し、かつかつと靴音を響かせて歩いてくるのは、黒の塔の主、『影の王』・ヴァルナードその人であった。
「……ここにいたのか」
 落ちた静かな声にレイがぴゃっと羽を逆立て、器用に玉眼王の身体を回ってその背にすがり隠れた。
 自分にすこぶる懐いていた子どもの反応と、冥王が人の姿を取って先のような行動を見せた状況に強い不可解を感じたのか、ヴァルナードは珍しくはっきりとした怪訝を顔に浮かべ、問いの視線を寄越した。
「鳥は、そなたの『大事なもの』とやらを壊して家出をしてきたそうだ」
 ありのまま答えると、背中からだめだめ、と声が上がる。レイはするりと背から足を滑り降り、抱き上げられた際に落とした布の袋に向かって駆け出したが、それに気付いたヴァルナードの腕が先に包みを拾い上げていた。
 がちゃ、と硬い音が鳴り、広げられた布から砕けた石のかけらが覗いた。レイがぴたりと足を止めて身を固め、その場に立ちすくむ。
「これは……」
 ヴァルナードがその原型を判ずる前に、ごめんなさい、と泣き声が上がった。
「ヴァル、ごめんなさいっ……! おれ、ヴァルのへやの、ゼルグのおきもの、お、落っことしちゃって、こわれて、なおんなくて。ふぇ……す、すてられちゃうって」
「捨てる? 私がお前をか?」
 問いかけにぐしゃぐしゃになった顔が頷く。
「だから、『いえで』、したの」
 ヴァルナードは聞けば聞くほど不可解と言いたげに眉をひそめつつ、膝を折って子どもの目の高さに近付き、お前が塔を出れば元も子もないだろう、と先に玉眼王も浮かべた奇妙を口にした。レイはしゃくりあげながらヴァルナードの顔を見つめ、
「おれ、ごめんなさいって、ちゃんとあやまりたかったけど、ヴァルにすてられるの怖くて、おこられて、き、……きらいって言われるの、いやだったから」
 切れぎれの声でそう語り、あとはごめんなさい、ごめんなさい、と謝罪と嗚咽をくり返すのみになった。
 ふっと、二人の王の漏らした息の音が重なる。
 捨てられて塔を出ることと、自ら『家出』をして塔を出ることの違いは、塔の主に会うか会わないかの違いだ。子どもが何より恐れていたのは、捨てられることでも失敗を叱られることでもなく、何より親愛を寄せている大人にもう要らないと突き放され、面と向かってお前など嫌いだと言われることだったのだろう。
 しても、光の地の鳥とは、なんと微細な心に生まれついていることだろうか。
 冥府の厚顔な者どもではこうはなるまいと笑いながら、ヴァルナードが泣きじゃくるレイの身体を腕に抱き上げる。レイは嗚咽を鳴らしながらも顔を上げ、涙で赤くなった目をぱちくりとさせた。
「怯える必要はない。天の者には敵わんが、石ひとつで人を捨てるほど私も無恥に生きてはおらん。ましてお前を捨てることなどない」
「……ほんと?」
「ああ」
 頷き、ふわふわとした子どもの髪を撫でながら、そう泣くな、となだめる。強い騎士になるのだろうと言われ、レイははっとしてすぐさま涙を袖でぬぐった。
「――して」
 落ち着いたレイを腕の上に据えてゆっくりと立ち上がり、ヴァルナードが再び問いの視線を黒の間の主に寄越した。
「何か」
 ほかにあったのか――ほかにしたのか、と虚眼の中の赤い点光が語る。
 眼は似ておらぬな、とゆるり思考を流してから、答えた。
「手の傷を治しておいた。まだ来たばかりだ。ほかにそなたが見た以上には何も」
 見た、とするより見ていると知って見せた、とするほうが正しいことは相手も問う前からわかっていただろう。重なる追求もなく、石の破片に傷付いていた子どもの手を確かめるのみで問答は終わる。
「清かな光よ。世の者がはやすも道理であろうな」
 ましてそういとけなき者であれば。落とした言葉に、先の戯れへの意趣返しを含んでであろう、まさに、と息混じりの肯定が返り、黒衣の胸にぴたりとくっついていたレイが不思議げに翼を揺らして首を傾げた。構わず、言葉を続ける。
「幼き生とは危うくも興深いものだ。天の子よ、また来るが良い」
「うん」
 レイは誘いに頷き、ふと気付いたようにヴァルナードの顔を見上げ、
「ね、ヴァルもおれみたいに小さかったの? 小さいときにここであそんだ?」
 そんなことを言った。
 唐突な問いに、ヴァルナードがまた眉をひそめて一体何を話していたのかと玉眼王を見る。玉眼王は人の身を崩して不形の闇に融けながら、代わりに返じた。
『ふむ。世の者はすべて今のそなたのように在り始めたばかりの幼き日を持つものだ。無論のこと、影にもその日はあった。遥か時の向こうのことになる。その頃は影もまだそなたのように愛らし……くは、まあ全くなかったが』
 世に生まれ立つこと幾千年の影の虚眼が、大きなお世話だ、と語っていた。


 ヴァルナードの腕に乗せられて塔への道を進みながら、レイはまだ完全には晴れきらない心のまま布の包みを両手に抱えていた。
 怒っていない、捨てはしないと言われて安堵したものの、自分の失敗でヴァルナードの物を壊してしまった事実に変わりはない。しゅんと頭を俯けていると、ぽん、と横からやわらかく手を乗せられ、声が落ちた。
「お前が気にかかるのなら、その像はすぐに直す」
「なおるの?」
 驚きとともに見上げると、ヴァルナードはあっさりと頷き、問いが重なる前に足を止め、包みを開けるようレイを促した。
 かけらがこぼれ落ちることのないよう、静かに布を開く。現れた破片は床に落とした時よりもさらに細かく砕け、元の通りに直るものとはとても見えなかった。どうするのだろうと考えていると、するり、袋の上に影が伸び、やがてその内からぱらぱらと細かな石片が落ち始めた。
 それが寝室の床に残った像のかけらであることをレイが理解できていない間に、ヴァルナードの口の中で低く呪言が編まれる。強い魔性を帯びた黒石の破片が術式に応えて淡く光を放ち、それぞれに浮かび上がる。
 ぽかんとするレイの顔の前で石のかけらはゆっくりと着実に組み上がり、見る間に雄々しい焔馬の姿を取り戻した。最後のかけらが空へ振り上げた前脚の蹄を造るまで、わずか十数秒のことだった。
「……わぁ」
 ころりと布の上に落ちた像を受け止め、レイが驚嘆の声をこぼす。
「先に言っておくべきだったな。次からは、物を割ったらそのまま人を呼べ。私にはただの細工よりお前の手の方が代えがたい」
 そう言っていつの間にか怪我が治っていた指を包む大きな手があたたかく、うん、と顔をほころばせて応えてから、レイはもうひとつ気にかかっていたことを告げた。
「あのね、ヴァル、おれ、ゼルグにもあやまりに行きたい」
「……ゼルグにか?」
 こくりと頷くのにそれ以上の問いもなく、転移の影が巻き上がって視界を包んだ。
 地面に降ろされ、厩舎に踏み入ると、影の王の乗騎・ゼルギオンはすぐにレイに気が付き、蹄を鳴らして嬉しげに呼びかけてきた。ちょこちょこと小走りに近付き、正面に立って、両手に抱えた石細工を示す。
「ごめんね、ゼルグ」
 開口一番に謝罪を告げ、ぺこりと頭を倒すと、ゼルギオンは黒い目を瞬かせ、はてな、とばかりに首を傾げた。
「あのね、さっきおれ、ゼルグのおきもの、落としてこわしちゃったんだ。ヴァルがなおしてくれたけど、ばらばらになっちゃって……。ごめんなさい。ゼルグはだいじょうぶだったよね。いたくなかったよね?」
 ごめんね、とくり返す。
 幼い子どもに謝られる理由についてはほとんど解釈できぬままであったろうが、その素直な気持ちは確かに理解したのだろう、賢い焔馬は木戸の上から首を伸ばして顔を近付け、鼻先をレイの頬に優しくすり寄せた。
「くすぐったいよー」
 後方、気配に集まってきた住人たちが、探し回っていた子どもと黒馬のじゃれ合う様子を眺めて安堵の息をつき合う、それなりに平和な塔の一日だった。


      ◇


 二日後。
 伸びをしながら起き上がった寝台に、予期していなかった黒衣の背があった。
「ヴァル、おはよう」
 既に起きて寝台に腰掛けていただけのようだが、それでもそばにいてくれたことが嬉しく、布団の上を膝でいざって隣まで進み、朝の挨拶をする。ああ、と言ってレイの頭を撫でるのとは逆の手に、紙の包みが乗っているのが見えた。
「それ、なに?」
 訊ねると、
「今しがた届いた」
 短い答えとともに包みが開かれる。取り出されたのは片手に収まるほどの小さな石細工だった。純白の輝石で彫られた像は、美しい鳥の形をしていた。
 目を輝かせるレイの前に、ひょいとその像が差し出される。驚きの視線を受けてヴァルナードはふと笑い、
「これはお前だ」
 そう言った。
「おれ?」
「ああ」
 おれ、とりじゃないよ、と言うが、ヴァルナードは像を差し出したままでいる。
 はねがあるからかな、と首傾げながらも内心で頷いたレイだが、焔馬の像よりも繊細な造りに見えるその石細工へ喜んで手を出すことはできなかった。今の子どもの心には、物を落として壊してしまうことが「お化け」よりも恐ろしかった。
 また頭上で小さく笑いが鳴った。
「これは落としても割れん」
 そう作らせたからな、と言う。
「ほんと? ぜったい?」
「ああ」
 常の調子で肯定され、レイはそっと鳥の細工を受け取った。広げた翼の一枚一枚にまで手の凝らされた像に、ふわりと淡い光が灯ったように見えた。
 窓下の棚に置くよう言われ、破顔してうん、と大きく頷く。前の失敗を挽回する大切な仕事を任されたようで、弾む心を内に抑えつつ、慎重に足を送って窓辺に寄り、差し込む陽の下にそっと置く。冥府の薄い陽光のもとにも白石の鳥は活き活きと輝いて見えた。
 置いたー、と報告を上げながら走り戻ると、ヴァルナードはまだ手の中を見下ろしていた。隣から覗き込むと、先ほどの紙包みから出てきたらしい、もうひとつの包み。
「もういっこ作ったの?」
「いや、頼んでいない」
 言葉を交わしつつ開く紙の中から、今度は黒の石肌が覗く。
 それは一見、前のものより形大きな、二羽目の鳥だった。しかし精巧に鳥を模されていた一羽目と違い、どこか異容をはらんでいる。
 ヴァルナードが判じる前に、レイが声を上げた。
「あ、それヴァルだ!」
 そうでしょ、と自信たっぷりに言う。
 台座に悠然と立つ大鳥の翼は、生きた鳥の羽を模しながら闇まとう黒い異形の衣のようにも見える。鋭い鉤爪の先の地面が波打ち、鎌の大刃のごとき風を周りに立ち昇らせている。細い嘴を閉じ、黙して前を見据える異形の黒鳥の左眼には、赤く光る石片がはめ込まれていた。
「……得意先への贔屓御礼と言ったところか」
 笑いの息をつきつつ、ヴァルナードは影の鳥を窓辺に置いた。
「いいなー。おれもそういうかっこいい『とり』がいい」
「私には無駄な飾りのない鳥のほうがうつくしく思えるがな」
 そうかなぁ、と首をひねっていると、階下から二人を呼ぶ少女たちの声が聞こえてきた。
「ともかく、家出はもうやめておくことだ」
 言い残し、ヴァルナードが寝室の戸口へ向かって歩き始める。
 レイは二日前の自分の様々な「かっこよくない」姿を思い出してあーあ、と羽をしおれさせてから、寝台を降りてヴァルナードの後を追う前に窓辺の棚を振り返った。
 奥に黒毛の焔馬が天を昇り、手前に白の鳥が翼を広げ、その横手、少しの間を挟んで異形の大鳥が立っている。光を映し返す黒の輝石と、光を受け纏う白の輝石、それぞれにうつくしく見えた。
 ヴァルナードが寝室を出たのを確かめてから、幼い天使はもう一度静かに窓辺に寄り、白翼の鳥の台座をそっと押し滑らせ、黒の鳥の傍らにこつん、と添わせた。


Fin.
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