この声に翼を


「遠駆けに行くか?」
 そろそろ一日の陽が沈もうかという頃、また朝から出かけていたヴァルナードが、塔に帰るなり戸口の向こうからそんな問いをレイに投げかけてきた。広間に半身だけ覗かせた姿をきょとんとして見返すと、
「わずらわしい用もようやく済んだ。気晴らしに出かけようかと思ってな」
 ゼルグの背に乗りたいと言っていただろう、と言葉が続く。
「あ……乗りたい。行く」
 即決して答えた。ゼルギオンに乗りたいというのももちろんだが、もとより外出の機会を断る理由はない。塔で住人たちと話を交わし、本を読み、ついこの頃再開させた剣の鍛錬に精を出し、という一日もそれなりに楽しくはあったが、じっと腰を落ち着けているのはやはり性分に合わなかった。
 では門で待っている、ときびすを返したヴァルナードを追っていそいそと立ち上がるレイに、塔の小さな住人たちの声がかかる。
「あら、出かけるの?」
「お空の下だと開放的な気分になるからねぇ、きしし」
「そうそう。気をつけなさいよぉ。アナタってば肝心なところで気が抜けてるんだから」
「何がだよ……」
 言葉の意味はわからずとも、何がしかのからかいが含まれているのは伝わる。息をついてひと睨み返してから、それでも半ば反射のように腰に提げた双剣の存在を指でもう一度確かめ、階段へと向かった。
 門の外、ヴァルナードの傍らに立つゼルギオンは既にその背に広い鞍を付けていた。レイの姿を見止めていななく焔馬に早足に寄り、首を撫でてやる。
「持つか」
 あぶみを確かめていたヴァルナードが顔を上げ、握った手綱を示した。
「あ、いや。実は馬ってあんまり乗ったことがないんだ。練習すればすぐ慣れるとは思うけど、とりあえず今日はいい」
 下手なやつに引かれてもゼルグがわずらわしいだろ、と辞する。
「そんなこともないと思うがな。まあ、ならば私が手綱を取るが……どちらに乗る?」
「え」
「前に乗ったほうが視界はいい」
 言って鞍の前部を軽く叩いてみせるのに、ああそうか二人乗りって、と首をひねった。確かに、ゼルギオンの足並みに合わせて前方から迫る景色を見るのにも心惹かれるが、背に翼を負う自分が前に乗るのは邪魔であるように思う。羽を身の内に隠せないことはないのだが、空を翔けるなら万が一を考えて翼はすぐに使えるようにしておきたい。
 それに、とさらに思考を巡らせて眉寄せる。自分が前に座ってヴァルナードが手綱を取るということは、手綱を取る手に後ろから抱き込まれるような格好になるのではないだろうか。想像するとそれはどうにも居たたまれない姿勢であるような気がした。
「……後ろでいい」
 ぽつりと言葉返したレイの顔と数秒の沈思に何を見たのか、ヴァルナードは小さく笑いながら頷いた。

 一度駆け始めてしまえば、前後関わらず充分に乗り心地を愉しむことができた。自らの翼で飛ぶのとはまた違う、揺れや風が身に近く伝わる疾駆の快さがあり、障害物のない平野で地を駆ける時に感じる激しい生動には胸が躍った。
 塔に帰ったら明日すぐにでも乗馬の練習をしようと心に決める。二人分の重さをものともせず駆ける焔馬と、その手綱を自在に操る黒衣の騎手の姿は、(それを本人に伝えようとは決して思わなかったが)非常に颯爽と様になって見えた。我が手で馬首を取って意を伝え、一体となって駆けられたらどんなにか心地いいだろうと考えながら、前の背に呼びかける。
「なあ、どこに行くんだよ」
 遠駆けという言葉はどこか特定の目標を定めるものではないが、手綱は明らかな意志を持って動いているように見えた。陽は既に山向こうに落ち、夕闇に染まった空を野をゼルギオンの脚が迷いなく駆けていく。
「着けばわかる」
 ヴァルナードは首を軽く振り向かせてひとこと返し、それ以上は続けなかった。短い言葉には問いの答えを隠すことを愉快に思っているような響きがある。そりゃ着けばわかるだろうよ、と思いながらも口にはせず、レイはまた黙って翼の間を過ぎる風と規則正しい揺れに身を預けた。


 丘陵を超え、峡谷を抜け、塔をはるか背の彼方に残してどれほど駆けた頃か、地上に降り幾度目かに入った森の道の途中で男はゼルギオンの足並みをゆるめた。目的の場所に着いたのかと、体を傾けてその肩越しに前をうかがう。
 やにわに視界が開け、歩みを止めたゼルギオンの背の上でレイは呆然とその光景に見入った。森を抜けた先に広がっていたのは、一面に白い花の咲き乱れる広い草原だった。
「……すげぇ」
 隠された答えに素直に驚くのは少々不本意ではあったが、確かにそれは感嘆の声を漏らさずにはいられない情景だった。四方を取り巻く森に円形に切り取られた草原と、その上にさえぎる物なく浮かぶ紫紺の空は、絵画のためにあつらえられたかのごとき見事な調和を成し、大気さえも穏やかな透き色に染め上げているように見えた。
 ヴァルナードに続いてゼルギオンの背を降り、草原に数歩足を進める。風がゆるやかに吹き渡り、草の敷布にさやりと波を立てる。緑の葉とともに揺れる花は、この地にしか咲かないものなのだろうか、目にしたことのない種である。薄く華奢な花弁はひとつの萼≪がく≫に十枚に満たず、大輪を誇る艶やかなものではないが、地からまっすぐに立ち上がる姿は凛としてうつくしい。
「冥界じゃないみてぇだな」
 これまでにレイが見た冥府の姿は、どちらかと言えば乾いて色のない景色ばかりだった。黒の塔のまわりも緑の少ない砂地である。戦場とした魔の荒野ほどに澱んだ風を吹かせているわけでもなかったが、どこか気をゆるめることのできない、張りつめた空気が常にこの闇深い地を取り巻いているように感じていた。
 しかし森に切り取られたこの地には、そのような息詰まる気配はない。草原を渡る風もひそやかに鳴る葉ずれの音も、全てがやわらかに身の横を過ぎた。
「冥府にもうつくしい地はある」
 ゼルギオンの轡を外してやりながら、ヴァルナードが言う。
「前の持ち主が森を削って館を建てる素振りをしていたものでな。魔晶と引き換えに買い取った」
「じゃあここ、お前の土地なのか? ……はは。お前、花とか全然似合わねぇ」
 笑って言うと、悪びれもせずに、前の持ち主はもっと似合わなかった、とうそぶく。
「それにどちらかと言えば私よりもゼルグの気に入りの場所だ」
 ぽんと首を叩かれてひとつ胴震いをし、ゼルギオンは軽い足取りで二人の横を抜けて草原を歩き出した。それを追うでもなくレイもゆっくりと足を進めていき、ちょうど草原の中心のあたりまで来たところで草の上に腰を下ろした。
「うん、そうだな……俺も気に入った」
 後ろについた腕で身体を支え、目を伏せて深く息を吸い込む。土と草のやわらかな感触と風に吹かれて寄せる花の慎ましやかな香りが心地いい。目蓋を上げて仰げば、冥界には珍しい雲のない全くの晴天の夜が頭上にまるく浮かんでいる。濃紺の海に揺れる星の無数のきらめきは、草原に咲く白い花の姿をそのまま鏡に映し取ったかのようだ。
 広いな、と口の中で呟く。
 実際には塔の高みから見る空のほうが広いとはわかっていた。だがこうして空け地の中心から見上げる空は、目に映るそれよりもなお遠く広く、木々の囲いを越え、彼方まで続くことをありありと感じさせた。
 沈黙が落ち、風鳴りだけが静やかに草原を包む。レイは上体を反らせたまま腕を上に伸ばし、星を掴むようにゆっくりと指を曲げた。手は風をすら捕らえることなく、空のまま握られる。届かない、と胸の中になにげなく漏らした言葉が、不意に鋭い棘持つ蔦と化して、心に絡みつく。
 自問自答をする前に、静黙を破って低い声が落ちた。
「例の天魔の大戦だが」
 先ごろ、天界の軍の勝利に終わったそうだ。
 簡潔に鳴った言葉にレイははたと手を戻し、数歩後ろに立つヴァルナードを振り向いた。軽い頷きとともに声が続く。
「黒の間に集う者の報せだから確かな話だろう。魔族は完全に天との境を引き上げたということだ。天の軍にも損害はあったようだが、まあ魔族どもはその十倍もやられていることだろうな」
 またしばらく戦はないだろう、と言い落とすヴァルナードの顔を呆然と見つめる。
「……そんなに、大きな戦いがあったのか?」
 戦が続くにしても、それはあの荒野での激突の前に天峰に入り込んだ少数の魔族たちとの戦いだと思っていた。その掃討にあたる天兵たちの無事をずっと案じてはいたが、よもや両軍にそれほど多数の被害をもたらすような大規模な対峙が起きていようとは考えなかった。根拠のない想像ではない。聖境が築かれた以上、天魔ともどもに、それを越えた行き来は不可能なのだ。
 ヴァルナードはレイの言葉に含まれた疑問を汲み取ったらしく、詳しいいきさつは知らんが、と置いてから、
「天主の結界は今は解かれていると聞いた」
 そう口にした。
「――なんで」
 ゆるりと首を振る。一度築かれた聖境の解放には、幾十日に渡る鎮呪の儀と、それに見合う大きな力の行使が必要とされるはずである。自然にその効力が薄れるに任せても問題のないところを、なぜそうまでして戦が続けられたのだろうか?
 理解至らず眉寄せるレイの後ろで、ヴァルナードが語る。
「私が魔界の牢獄を訪ねた時にも、戦場にはまだ天使の骸が打ち捨てられていた。結界の向こうに立つ天界の者たちも幾人も見かけた」
 よほど腹に据えかねるものがあったのだろうな。落ちた言葉を追うように、風が一条、翼の間を音立てて過ぎた。
「そうか」
 短く相槌し、投げ出していた足を寄せ、ゆっくりと立ち上がる。遠くで草を食んでいるゼルギオンの姿を見つめ、もう一度頭上の紫紺の空を仰いで、
「ここは、冥界っぽくねぇって言うより」
 天界に似てるんだ、と声落とした。
 幼い日、兄たちの手に引かれて訪れ、鳥や獣たちと遊んだ草薫る天峰の高原に、この景色は、吹く風の穏やかさは、良く似ている。
 世界の全てが自分を優しく包んでくれていた。戦も知らず、剣も知らず、魔界の荒野もその深淵の昏い地も、何も知らなかった。生を愛し理を尊ぶ父と翼の兄弟たちと共に、ずっとあの静かな世界で暮らしていくことを信じて疑わなかった。
 弔いの戦を開くことを彼らはどんな想いで話し、父なる天主はどんな想いでその決を下したのだろう? どれほどの被害が出たのだろうか。経験の浅い若い兵たちは無事に家に帰ることができただろうか?
「みんな、俺のこと死んだと思ってるだろうな」
 その弔いの鐘は、自分の名の上にも鳴らされたものだ。今は全てが遠く、この手の届かぬ場所にある。
「別れ際に色々馬鹿なこと言ったから、親父や兄貴たちは俺が恨んでると思ってるかもしれない。俺が故郷を詰って死んだかと、思ってるかもしれない」
 己が言葉で己が心を切り裂きながら、語るのをやめられなかった。指を強く握り締め、震える唇で声を紡ぐ。
「そんなことないって、伝えられればいい。俺は無事だって、伝えられればいいのに。生きて、こうして自分の足で立ってるって」
 我知らず頬に流していた涙が横からついと指でぬぐわれ、そのまま背に回った腕に抱き寄せられた。抗わず黒衣の胸に顔をうずめる。
 背の翼がもうこの身を故郷へ帰すことができないのなら、せめて想いだけでも運んでほしい。恨んでなどいない。彼らがどれほど自分を愛してくれていたか知っていると。あの穏やかな世界で、数え切れぬほどの優しさに包まれて育った日々は、本当に幸せだったと。
 この声に翼があれば、何よりも先に教えたいのだ。今こうして故郷を遠く離れてさえ、自分は決して不幸に生きてはいない。昏い世界にも星は浮かび、故里に良く似た草原がある。帰る部屋があって、親しく話せる仲間がいる。
 どうか知ってほしい。今の自分には、心弱った時に抱きしめてくれる腕があると。
 少し強引で勝手だけれど、偽りなく想いをくれる唯一の存在があるのだと――
「……悪ぃ。有難う」
 そっと胸を押して離れ、袖で強く目をぬぐう。
「もう弱音は吐かない。きりがないもんな」
 過ぎた日にいつまでも心を寄せていることはできない。胸を張って前を向いていればいい。今自分が立っているのは天峰の空の下ではなく、冥府の地の上なのだから。
 背を支えていた腕が離れ、すと髪を梳かれる。額に軽い口付けが落ち、
「帰るか?」
 続いた声は常となんら変わらず、今はそれが助けに思えた。
 頷き、では行くかとゼルギオンに合図をかけ、森の道へ身を翻した黒衣の背を追ってゆっくり歩きながら、その袖口を後ろからつんと掴む。足をゆるめたヴァルナードが自分の肩越しにこちらを振り向いた。
「ガキの頃、良くこうやって兄貴たちの服のすそ掴んで歩いてた」
 ほっとくとどこ行くかわからないから、掴まされてたんだけどな、と笑う。
「いつまでも腕掴まれて強引に引っ張られてるんじゃシャクだから、……俺が掴んで歩いてやる」
 それは傍らの男とこの地へのひとつの宣言であるとともに、ひとつの心との決別でもあった。薄い唇がふっと笑みを形作り、
「私としては指を取ってもらいたいものだがな?」
 言うのに、うるさい、と声を尖らせながら、袖を掴んだまま歩を進める。そうして森に入る直前に、これが最後と決め、後ろに首を返した。風渡る野を見つめ、雲のない空を仰ぎ、また戻す。
「なあ」
「うん?」
「帰りは、前に乗ってもいいか?」
「ああ」
 声を交わしながら、ただ前だけを見て歩いた。ゆるやかな足取りに合わせ、さよなら、と胸の中に唱える。
 さよなら。
 俺はもう、振り向かない。
 音のない別れの言葉に囁きを返すように、背で草並がさやさやと鳴った。


Fin.
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