ラブ・ウェイト
その日の夕刻、北米大陸所属の超人たちによる合同トレーニング会場の一角が、何やら熱気ある盛り上がりに沸いていた。
一日のメニューを終えてシャワールームで汗を流し、帰宅の途に着きかけていたペンタゴンは、廊下の途中でその賑わいを聞きつけ、おや、と思うままそちらへ足を進めた。見れば、ガラス張りのトレーニングルームの一室に先に上がっていたはずの仲間たちが集まり、何か、あるいは誰かを囲んで笑い騒いでいる。
「何をしてるんだい?」
「お、新たな挑戦者だぞ」
入口近くに立っていた仲間に訊ねかけるなり、そんな言葉とともに腕を掴まれ、ドアの内側へと引き入れられた。視線が集まり、輪の中から声が飛んでくる。
「よしペンタゴン、俺たちのカタキを取ってくれ!」
わっと同調の歓声を上げる人波の中に道が開き、あらわになった前方の場に見えたのは、小さな競技台と、その傍らに立つ長身の超人、カナディアンマンだった。こちらを向いた顔がにっと得意げな色に笑い、拳を上げてみせる。逃げる理由もなく歩み寄っていくうちに、おおよその状況は飲み込めた。
「ああ、アームレスリングか」
「第七回異種北米チャンピオンシップだぜー」
競技台の後ろで仲間の一人が発した説明に、「ただしテリーマンを永久欠番とする」だの「八回じゃなかったか」だのと囃し声が続く。そうした反応がすぐに起こる程度には、恒例、とまでは行かずとも充分に馴染みのものとなったイベントだった。厳しい特訓の合間の息抜きと称し、大抵はその場の思い付きで開かれる仲間うちでの小さな競技会。体を使うものから頭を使うものまで競う内容は様々で、優勝者が食事代を得る、あるいは最下位が罰ゲームを課されるなど、他愛ない賭けが付属することも多く、いつもかなりのエキサイトを呼んでいる。
「よーし、やろうぜペンタゴン」
どうやら今日は勝ち抜きのアームレスリング大会が開かれたようで、目下カナディアンマンが連勝を続けているらしい。指名を受け、ペンタゴンは両手を上げて答えた。
「私とキミじゃ勝負にならないだろう」
あっさり宣言してしまうのも少々情けない話ではあったが、組む前から勝敗の見えた対戦になることは明らかだった。普段の試合のリングの上でなら、もちろん誰に対しても弱気に出ようなどとは思わない。しかし、こうしたほぼ腕力ひとつが勝ち負けを左右する競技となると、いささか話は違った。敏捷性や制空力なら大概の相手に遅れを取らない自信があるが、一方で単純な力の面ではやや平均に劣るとも理解している。かたや、相手は体格もパワーもここに集まった仲間たちの中では指折りのレベルの超人だ。ごく単純なルールの競技であるだけに、少しの気合いや根性のたぐいでは差をくつがえせない。実際のところ、過去に幾度か手合わせしたこともあるが、いずれの折も大敗を喫していた。
みすみす賭けに負けるだけというのも、と渋ってみせると、心得たような頷きが返り、
「もちろん、ハンデ戦さ」
いかにも誇らしげに言う。そうして語られた今日のいきさつによれば、通常のトーナメント戦でカナディアンマンが圧勝したため、何か番狂わせが欲しいと、「一戦ごとにハンデを広げていき、勝つごとに相手へ何かを要求できる。ただし負けた時点でその権利は全て放棄、勝者の要求を聞く」という追加試合が提案されたのだという。
「ちょうど十戦目だから、ここまでにするつもりだったんだ」
「じゃあ私がトリってことか」
これで部屋へ入った際に飛んできた「カタキ」という言葉にも合点が行った。周囲にはペンタゴンよりこの競技に適性のあろう仲間も多数いたが、ハンデの小さいうちに勇み足で挑戦して負けてしまったのだろう。おのおのなんらかの支払いがプールされており、ペンタゴンが勝てばそれが全て破棄されるわけだ。
この状況でさすがに背は向けられないな、と期待を負うことに決め、よしやろうと前へ踏み出る。やんやの喝采を浴びながらルールの説明を受けた。勝負は一度。十回戦目のハンデは「挑戦を受ける側が相手の手首を握る」とのことで、なるほど相当なアドバンテージだ。しかしもともとの力の差を考えるとこれでも五分か、まだ勝ちの目のほうが薄いかといったところだろう。
「勝った場合の注文は?」
問うと、カナディアンマンは少し考えの間を置いてから、不意に目を輝かせて言った。
「……よし。オレが勝ったら、ペンタゴン、お前のファンクラブの女の子をオレのファンクラブに勧誘してもらおうじゃないか」
「え? しかしキミのファンクラブにだって……ああ……」
思わぬ言葉へ首を傾げて返しかけ、相手の表情の必死さに気付いて先を呑む。不憫な事情を含むあれこれでこのところ公の場での活躍に恵まれない彼のファンクラブは、特に移り気でシビアな女性層において、以前よりだいぶん数が減ってしまっているようだと耳にしたことがある。周囲からも同情混じりの声が飛んだ。
「あー、女の子が減るとつられて男も減っちゃうんだよなぁ」
「そこまでやるかって感じもするが、まあわからないではない、か……?」
「お前んとこ女の子多いんだし、いいんじゃない」
「うーん」
確かに男女比で言えば女性が多いのは事実で、それに対して害のない冷やかしを受けることもあるが、だから減って構わないというものなどではないし、自ら別のクラブへの勧誘を行うのもおかしな話だ。とは言え、ファンの存在が励みになり、如実に減れば落胆してしまう気持ちは理解できる。
「まあ、紹介ぐらいなら」
「頼むぞ!」
拳を握る相手へ頷きを返し、今度は自分の要求を訊ねられて、
「そうだな……じゃあ私が勝ったら、ここにいる全員に明日のランチをおごる、でどうだい」
そう答えると、四方からなお大きな歓声が上がった。もとより不利は承知なのだから、少しぐらい露骨に味方を増やしても構わないだろう。俄然ペンタゴンひいきに傾いた場の空気を笑いつつカナディアンマンも了解し、競技台を挟んで両者あいまみえた。
「レディ――、ファイト!」
決められたハンデにのっとって利き腕を組み、ジャッジ役を買って出たローデスの合図で双方ひと息に力を込める。そうしてすぐに、ペンタゴンはある種の違和感とも言うべき事態に気付いた。
(勝てる……?)
大きなハンデがあるという以上に、手首にかかる負荷が軽く感じられる。まさか手加減をされているわけではないだろう、と半信半疑になりながらも、無論こちらが力をゆるめる考えはなく、そのまま一気に腕を倒した。最後に一瞬の抵抗を感じたが、形勢は変わらず、クッションの上に赤色の手の甲が落ちる。
「そこまで、勝者ペンタゴン!」
勝ち名乗りのあとの歓呼の声を受けて、ようやく実感が湧いた。負けを予期していたなどということはないが、それでも意外なほど苦のない勝利だった。負けたカナディアンマンの側も驚きの表情を浮かべている。
「腕を鍛えてたのか?」
「いや、特には……キミがなまったんじゃ?」
「まさか」
しきりに首をひねってみせるが、負けは負け、というわけで、周りは早速翌日のランチの注文をまとめ始めている。よくやったと笑って肩を叩かれれば満更でもない心地だった。
「明日は休みだろ、ペンタゴン。祝勝会にでも行かないか」
ざわつきの中、数人からジョッキをあおる仕草とともに誘われたが、少し考え、やめておく、と辞する。
「今日はまっすぐ帰ろうって気分だな」
そう語ると、相手にしたり顔が浮かんだ。
「さては、例の誰かと約束か」
「え、相手いるのかよ。あんなにキャーキャー言われててなおかつ?」
「名前も顔も明かされてない噂の年上の恋人な」
「いや、何も予定はないさ。のんびり休もうと思っていただけで」
やいやいと好きなように勘操り始める仲間たちを笑って受け流しつつ、けど、と続ける。
「……うん、それもありかもしれないな。だいぶ会ってないし」
わざとらしく言ってみせれば、これまたわざとらしい悲鳴と冷やかしが巻き起こり、この幸せ者めともみくちゃにされながら、回ってきたランチの注文受付に、いい気分だからまけておく、と五十個のハンバーガーをオーダーした(カナディアンマンからはそれでも多いと悲痛な声が上がった)。
喧噪がやまないうちに帰宅の旨を告げ、揚々と歩き出す。外はすっかり暮れており、星のまたたく空へ翼を広げて舞い上がれば、冴えざえと澄んだ空気が身を包んで、勝利の高揚をやわらかに鎮めていった。確かに悪くない気分だった。残る時間は短いながらも、いい一日になる予感がした。
そんな予感がしかと形を取り始めたのは、しばしゆったりとした速度で宙を進み、我が街の上空に差しかかった時だった。
不意に捉えた呼びかけに応じ、羽ばたきを止めてその場に静止する。呼びかけの主は内なる自分で、つまりは単なる直感と言って間違いではなかったが、今夜は誤認と一蹴せず素直に聞く気になった。そして、その判断が正しいと証明されるのもすぐだった。
「あれは……」
見下ろす道の上、行き交う人波の中にひとつひときわ目を引く影。身の丈を除けば周囲から格別に浮き上がる背格好ではないが、自分がその姿を見逃し、また見誤ることなどあり得なかった。再び胸が高ぶり始めるのを感じながら、翼たたんで一気に降下する。
「ブラック!」
投じた呼び声より先に相手はこちらへ気付き、優々たる動作で振り向いた。その前方に風巻いて着地するや、周囲に軽いどよめきが起こったが、構わず正面へ歩を詰める。
「よう、ペンタゴン」
「久しぶり! いつこっちに?」
声弾ませたペンタゴンの問いに、親類にして朋友の悪魔超人・ブラックホールは「ついさっきな」と短く答え、従弟の舞い降りてきた空を見やった。
「どこかに出るところか?」
「いいや、帰るところさ」
「ならこいつは無駄にならずに済んだな」
言って軽く持ち上げてみせた袋は、独特の細い方形と記された店の名で、すぐに中の酒精の存在とその行き先を教えた。腕広げて歓迎を示す。
「ワォ。本当にいい日だな。キミのほうから会いに来てくれるなんて」
我が家までいくらも距離のない場所と、先ほどの口振りでは、早合点ということもないだろう。明日一番にでも訪ねにいこうと考えていた相手が自ら出向いてきてくれたのだから、これは確かに喜ぶべき事態だ。
ブラックホールははしゃぐペンタゴンに調子を合わせることもなく、行くぞ、と相槌代わりのひと言を発し、さっさと元の方向へきびすを返した。ああと応えて隣へ歩を進め、並んで歩き出す。
行き違う人間たちの視線がちらちらと投げかけられるも、わずらわしく感じるほどではなかった。ここに暮らしてそれなりの日が経つペンタゴンはもちろんのこと、こうして時おり現れるブラックホールの姿も、今は街の風景に馴染んで見られ始めているようだ。一般に敬遠されがちな悪魔超人ではあるが、彼個人は多量の血を見せるようなあからさまに残虐なファイトスタイルではないし、普段の態度が粗暴なわけでもない。もちろん、ペンタゴンのタッグパートナーであるという事実、そして次第に知られ始めている血縁も、受けるまなざしの軟化に一役買っているらしく、今では商店の主人などに従兄は元気かと声をかけられることすらあった(いつも上物の酒を求める彼を単純に良い客と見なしているのかもしれないが)。
時にファンだと言って声をかけてくる者もおり、そこは悪魔らしく適当に受け流してしまうので、もう少しサービスしてやったらどうだと軽く意見することもあるが、何にせよ、親愛なるパートナーが周囲に受け入れられているというのは悪くない状況だ。
(大事な親類でタッグパートナーでっていうだけじゃなく、大切な恋人でもあるんだって言えたらもっと嬉しいんだけどね)
この関係ももうひと月ふた月程度のものではないが、いまだ相手からは固く黙秘を命じられていた。自分としては公表してしまっても全く問題ないと思っているのだが、うっかり口を滑らせればこの意外にシャイで真面目な従兄に特大の雷を落とされることは目に見えているため、今は「顔も名前も知られていない年上の恋人」の正体が明かされた時の仲間たちの驚きを想像して楽しむだけにとどめている。
そんなことを考えながら上機嫌に歩を進めていると、何をにやついているんだと隣から不審げに問われたので、
「キミがそこにいるから当然だろ」
と真正直に答えて肩すくめられたが、気にせず笑ってまた歩くペースを速めた。
◇
せっかくの酒がもったいない、とピザのデリバリーの提案を却下されたため、途中のレストランでテイクアウトしたフレンチでの夕餉となった。乾杯の言葉とともにかちりとグラスを合わせ、久方ぶりの正餐に口を付ける。買い求めてきた当人の言葉通り、土産のワインはその値にふさわしい良い味わいだった。
「今夜はまた馬鹿に浮かれてるな」
グラスを傾けながらしばし他愛ない世間話や近況の報告に興じ、いくつ目かの話題が終わったところで、改めて、といった風情でブラックホールがそんな指摘を口にした。
「そりゃあもちろん……」
「オレのことはいったん脇に置け」
途上でのやり取りと同じ答えを返しかけるも、即座に手振りさえともなって払いのけられる。つれないな、と笑いながら、まあこの相手が言うなら事実その通りなのだろうと、内心で指摘を認めた。
地球の一般的な生物と並べば自分たちは確かに異相であり、かつ互いのあいだにもはっきりと差が存在するものの、周りのように「何を考えているかわかりづらい」などと思って相手の顔を眺めることはない。疎遠の時期もあったが、それでもなお長い親戚付き合いだ。喜怒哀楽が顕著とは言えないブラックホールの態度の変化でさえ苦もなくこちらへ伝わるのだから、いわんや我が(従兄が常々言うところの「昔からわかりやすい」)態度をや、である。目の前の存在を脇に置いたとしても、まだ明らかに浮かれて見える、ということなのだろう。
とすると、と考えればいくらもなく思い当たる事実があったので、頷き答えた。
「実は今日、金星を挙げてね」
「金星?」
「ああ。合同トレーニングの時に――」
闘技にまつわる語にすぐ興を示す様子をおかしみつつ、いきさつを語る。仲間たちとの恒例行事の説明から始め、つい数刻前の対戦の結果を教えて返った感想が、
「毎度毎度ガキっぽいことをやってるな。お前らは」
そんな手厳しいひと言だったので、いかにも彼らしい、と、憤るよりはやはり笑ってしまった。
生きるか死ぬか、喰うか喰われるかの思想のもと生きる悪魔にとっては、ペンタゴンたち正義超人の穏やかな習慣や振る舞いが、稚気帯びた遊びや馴れ合いに感じられることもままあるらしい。述べたあれこれを辛辣に斬られ、それにまた自分が意見を重ね、といったやり合いは、こうして語り交わす時のお約束のようなものだった。
何を話しても主張はおおむね平行線で終わるが、だからと言って、やめよう、避けようとは微塵も思わなかった。行く道を違えた事実ははるか昔に認めた。相容れない考えへ意見はしても、頭ごなしに否定するつもりはない。暗い夜闇の下を歩む彼の身を案じることはあっても、厭わしく思うことなどない。ブラックホールの側にしても、ペンタゴンの言葉に対し、冷やかしの域を越えるほどの悪罵を唱えはしなかった。互いへの理解を前提とした戯れ、じゃれ合いのようなものなのだから、歓迎こそすれ、忌避する理由はないのだ。
今度も常の「お約束」にのっとり、ペンタゴンは笑い収めぬままブラックホールの揶揄に反駁をした。
「合間の息抜きも大事だろう。キミたち悪魔だって、三百六十五日訓練の日々、なんて言ってる割には、こうやってふらっと遊びに来たりするし」
「……適切な休養は鍛錬のうちだ」
「私たちのも似たようなものさ」
まあそれはともかくとしても、と方向転換をして言葉を続ける。今回の話に関しては、議論より先に望ましい反応があった。
「せっかくパートナーが勝利の報告をしたんだから、細かいことは言わずに祝ってくれてもいいんじゃないか? 散々パワー不足だなんだと言われてきたけど、私は成長期だってまだ終わってないはずだし、これから伸びる兆しかもしれないぞ」
熱込めて訴えれば、
「ほーぉ。そりゃ何よりだな」
軽い相槌が打たれ、ああこれは信じていないな、とすぐに察する。まだ自分がこの年上の従兄の胸までも背丈のないような昔日の頃、子どもにありがちの大げさな話をぐずらせない程度にあしらってしまおうという時に、彼はこうして常より少し高い、そして少し優しい声音で応えたものだ。それは非常に魅力的な声だったが(だからこそ何度見事にあしらわれたか知れないのだが)、せっかくの喜ばしい報告を流されてしまうのは面白くない。
「もっと真剣に褒めてくれよ、ブラック」
こちらも大げさに子どもぶった声でねだってみせるも、さすがにあからさまと見えてほだされてはくれず、はん、と薄く笑われた。
「勝ちは勝ちでもハンデ戦だろう。おまけに相手がそんな弱小超人じゃあな」
「弱小はひどいな」
カナディアンマンは本来仲間うちでも上位の戦績を持つ、れっきとした実力派であるはずなのだが、やはり近年の不振が外からの目に大いに影響しているらしい。特にブラックホールは、過日のタッグトーナメントの折に彼が「弱小超人」呼ばわりされた挙句、場外であっけなく倒されてしまった場面を目の当たりにしているため、そうした印象がより強いのだろう(とは言え、あの大会は自分たちも早々に敗退してしまっているので、初戦で優勝タッグと当たった事情を差し引いてもあまり誇れたものではないのだが)。
「確かに最近の彼の成績は芳しくないが、パワーに関しては本物だぞ? あのロビンマスクと対戦したときも力では引けを取っていなかったし、この前だって……」
こうなればなんとしても賛辞を得てやろうと、意地半分で対戦相手を持ち上げる。初めは気のない様子でいたブラックホールだったが、少々盛った評価を積み上げていくうちに話へ集中を見せ始め、ペンタゴンの言葉が終わるや、おもむろに口を開いた。
「……わかった」
「お、わかってくれたかい」
「そこまで言うなら今度はオレと
闘れ」
「あれ? 私が聞きたかった言葉じゃないな……」
力説の甲斐のない唐突な要請に少々脱力してしまったが、我が身をもって成長を測ってくれようということかと思えば、それはそれで僥倖の申し出と言えた。
「じゃあ、食事が済んだら一戦しようか?」
「ああ」
頷くなり手にしたグラスの中身をくっと一度に干してしまった従兄の様子に笑いを噛み潰しながら、自分も会話を収めて手元の皿へと向き戻った。
食器を全て片付け、平らになったテーブル越しに、さてと向き合う。事前の確認はなかったが、ブラックホールは当然の態度でまずハンデについて触れた。先の対戦での「手首を握る」というハンデを口に出して確かめ、ならば自分はその条件に加えて左手、つまり利き手でない側でやってやろう、と言う。
「オレのほうが左右の力の差があるからな」
「お前はどうせ右だろうが左だろうがどっこいどっこいだからな、ていう風にも聞こえるけど」
飛翔姿勢のバランスを考えて筋量などが大きく偏らないよう心がけているため、事実その通りではある。別の部分で少々の違和感を覚えたものの、軽く感想を入れつつ、意見まではせずに了承した。
純粋な腕力のみを比べるなら、ブラックホールよりもまだカナディアンマンのほうが上だろう。先の結果から考えれば勝機は十分にある。だが、それをあえて口にしてハンデを減じる気にはならなかった。「弱小超人」に劣るものか、とまたひとくさり反論があるのは目に見えているし、ブラックホールは力そのものよりその使い方に優れた技巧派のファイターだ。単純な競技とは言え、油断はできない。
たかが力量比べと軽んぜず、侮ってくれるな、と大きなハンデに対する不満も述べずに、そうしたことへつらつらと思い巡らせる理由が、さらにもうひとつ。
「ブラック、どうせなら賭けも同じにしないか? 『勝った側が相手へ好きなことを要求できる』」
指立てて提案する。いくらの間もなく答えが返った。
「乗ってやろうじゃないか。あとで言い訳するなよ?」
「そっちこそ」
挑発の笑みを向け合い、天板に肘をついて競技の姿勢を取る。こいつが床に落ちたら合図だ、とブラックホールがどこからか取り出したコインを器用に右手に構えた。
了解の頷きに数秒の静寂が続き、やがて独特の金鳴りとともにコインが高く打ち上げられる。そして次の音が床を叩いた瞬間、ふっと息を吐いて力をぶつけた。
「くっ……」
前の試合とは逆の意味で思いがけない抵抗の強さを感じ、立て直そうとほんのわずかに手を動じさせた隙を逃さず、ブラックホールが一気に力を強める。そのままわずかにも押しとどめること叶わず腕が倒れていき、終わってみれば実にあっけなく勝負はついていた。
「カカッ。口ほどにもないな」
「あれー……」
じんと熱持つ左腕をさすりながら、不可解な心地で首をひねる。あの勝ちひとつで簡単につけ上がっていたわけではないが、にしてもあまりに手応えなく負けてしまった。
「まさかカナディに手を抜かれたってこともないだろうし……」
ぼそぼそと落とした呟きに、もしそうなら大恥だな、と返る言葉はあくまで容赦がない。
「まあ、そんな奴のことはどうでもいい。賭けはオレの勝ちだな。とりあえず肩でも揉んでもらおうか」
言いつつ椅子に横向きに座り直し、すぐ支払いをさせようという気らしいので、ちぇ、とこぼしながらも席を立ち、その背の後ろへ回った。広い肩に手を置き、マッサージを始める。
「ご褒美もらおうと思ったのに」
「力でオレに勝とうなんざ十年早い」
「十年前からずっとそれだものな」
どれだけ鍛錬に励んでも、歳の差ばかりはいかんともしがたい。世に出でた瞬間から存在した九年のハンデを埋め、少しでも近付いてみせようと、幼い日の自分はそれは懸命にこの背を追いかけたものだ。
「……そういえば昔もよくキミにこんなことさせられてたな。『腕に力がつく』なんて言われて」
騙されたとぼやけばブラックホールはおかしげに笑い、騙しちゃいない、単にお前が成果を出せなかっただけだ、などとうそぶく。
「あの頃はまだ可愛げもあったんだがな。いつの間にやら口の回る生意気なガキになっちまった」
「それだけ成長したのさ」
「どうだか」
「キミにタッグを組ませるぐらいにはなったろ? 少なくとも」
歳の差は無論のこと無くならず、志す道も別れたが、それでもなお、かつて遠く追いかけた背は、今こうして手の触れる場所にある。
「意外に大きくなかったのもわかったしなぁ。私に身長を追いつかれた時のキミの顔と言ったら……いたた」
「無駄口叩いてないでもっと力を入れろ」
手の甲をつねり上げて続きをさえぎってくるので、はいはいと笑って命令に従った。気にせずの態度を装っているが、背丈が並び、さらに抜かれるに至ったことはそれなりに大きな衝撃であったらしく、いまだ気軽に話題にさせてはくれない。
(結構プライドが高いんだよな、ブラックは)
そんなことを考えて、ペンタゴンはふと、ある問いとその答えに一どきに思い当たった。直前のマッチのきっかけになった会話と、突然の要請。そして違和感のよぎったハンデ。理由を「そこ」に求めれば、全て辻褄が合う。
(そうか、そういうことか)
じわじわと堪えようなく笑いが浮かんでくる。顔の見えない姿勢でよかった、などと思いつつ、どうにか表情を引き締められるようになるまで待ってから、言葉を発した。
「あの頃はさ、本当に大きく見えたな。強くて、物知りで……憧れだった。キミが大好きだった」
眼下の頭が自分の肩越しに振り向き、訝しげにこちらを見上げる。
「もちろん、今も。キミを好きじゃなかったことなんてないだろうな」
笑って付け加えたが、当たり前のごとく、と言うべきか、物問いたげな怪訝の気配はより濃くなった。
こうした微細な変化が読み取れるのだから、機嫌の良さだけでなく、その逆を察することももちろん造作はない。食事の途中、ブラックホールは確かに不機嫌を覗かせた。おや、と思うひと間のうちに平静の態度が戻り、発されたのも不平ではなく例の唐突な要請であったため、ことさら訊ねはしなかったのだが、彼の心証を損ねた所以が、今遅れて理解できたようだ。
「自慢じゃないが、私は結構一途なほうなんだ」
なお怪しみの色を増す無言の問いに応え、だから、と核心に近付く。
「キミの背が実はそんなに大きくなくたって、もし仲間の誰かに力で負けていたって、今さら私の一番でなくなるなんてあり得ないから、安心してくれよ、ブラック」
「は?」
思わず、といった様子でこぼれた予想通りの反応に笑み深め、
「妬く必要なんかないぞってことさ」
「……頭でも打ったのか」
さらに一歩踏み込んだ言葉を続けると、呆れより困惑の響きの強い声が返った。まさか、と否定するほどの理解にそもそも至っていないのだろう。
ふとよぎった違和感の正体。相手の実力を試すことが目的の試合なら、本来はハンデなど要らなかったはずだ。一方的では面白くないからと理由を付けるにしても、こちらが有利になり過ぎてしまっては、力が伸びたという主張の証明にならない。今の一戦で証明されたのは、ことアームレスリングの試合にかけては、ブラックホールとペンタゴンとのあいだに相当の力量差があるという事実であり、従って、夕刻にペンタゴンが破った相手と立ち合っても、おそらくブラックホールは勝利するだろうという事実にほど近い推量である。
どうやら自分は、親愛なるパートナーからお褒めの言葉を頂戴しようと思うあまり、本末転倒にも、賛を得るべき当人以外の人物のことを少々持ち上げ過ぎたらしい。
「キミが彼に……はは」
「何を言いたいのかはわからんがその笑いの理由がろくなもんじゃないことはわかるぞ」
「いや、だって」
その人物に対する複数回の軽視の言葉を聞いたあとでは、なおさら滑稽感が増すというものだ。天下の悪魔超人が、「弱小」相手に
嫉みを見せるなどと。
純粋に色めいた嫉妬と言うよりは負けず嫌いが生んだ対抗心なのだろうが、それでも彼が、おそらくは長年の関係に刷り込まれた無意識のうちに、「従弟からの評価」を気にかけているのだろうことには変わりない。高いプライドの根拠のひとかけに自分の名がある。光栄の限りではないか。
不審げにこちらを見上げながらも、ブラックホールは迂闊に問いを寄こそうとはしなかった。色それぞれの沈黙の応酬のうちに何かを気取ってか、途中で無表情に努め始めたらしく、ペンタゴンにもその胸の内が推し量れなくなる。
やがてなにがしかの言葉を発しかけ、それを呑んだ気配のあと、改めて声が落ちた。
「……あんまり自惚れてるんじゃねーぞ。ガキ」
「ふふ」
わざとらしく崩した口調へ再び笑みを返し、肩に置いていた手を前へ進めて、後ろからその上体を腕で巻き締める。リングの上であれば逃げを打つべき体勢だが、振りほどかれるや否やなどという危惧は抱かなかった。たまの休みにわざわざ足を運んできた恋人の思惑を取り違うほど鈍感ではない。この状況を自惚れずして、ほかの何を自惚れろというのだろう?
「おい、マッサージはどうした」
「続きはベッドの上でがいいんじゃないかと」
「はっ、エロガキが」
「ガキガキ言わないでくれよ。私はもう子どもじゃないぞ」
黒い肌の艶めかしい首筋に頬を寄せ、知ってるくせに、とささやけば、ペンタゴンの頭を乗せたまま、広い肩がくつくつと愉快げに揺れた。
「態度と図体がデカくなったのは認めてやる」
「いたっ」
額を打たれて思わず起こした顔の前に、ついと指が差し出される。
「中身まで認めてほしけりゃ、せいぜいそれらしくエスコートしてみせな」
からかうように落ちた声は常よりやわらかく、しかし確かな甘さも含むだけ、適当なあしらいの音ではない。揺れる胸をひとまずはなだめ、この手に引かれて歩いた日もあった、などと思い返された子どもの記憶を隅に押し込めながら、仰せのままにと笑って長い指を我が手に取った。
◇
ふっと目が覚めたのはまだ夜明け前の時刻だった。普段の反射で寝返りを打ちかけ、間近の気配に気付き、その存在ゆえの状況に思い至って、すんでで止まる。幸い、傍らに落ちる静かな寝息に乱れは生じていなかった。
そっと首を動かし、隣に横臥する恋人の姿を見やる。今は相手が寝ているので、湧き上がる幸福感が顔に出るのをこらえはしなかった。泣く子も黙る悪魔が人の腕の中で無防備に寝ているなどと、仲間の誰に言っても容易に信じさせられる光景ではないだろう。名を出して自慢できないのは惜しいが、独占していると見るなら悪くないと言える。
しばし寝顔を眺め、さらに懐深く抱きしめてから二度寝に入ろうと考えたが、下になった右腕は痺れて動かなかった。上腕に相手の頭を乗せた、いわゆる「腕枕」の姿勢でいるための現象で、ある意味では慣れていた。異次元の一族の体質上、ブラックホールの身体は同じ体格の常人の四倍近い質量を持ち、穴の開いた頭部も例外ではない。
だから、というだけではないのだろうが、常々この体勢で寝ることを拒否する従兄を、常々あれやこれやとなだめ押し切って、ペンタゴンはこのいかにも恋人同士らしい寝姿勢を勝ち取っている。同じベッドの端と端で寝るむなしさに比べれば、片腕の痺れなど何ほどのものでもない。
左腕で抱き込めばいいことだ、自分には翼もあるし、とその両方を相手の背へ回しつつ、ふと、気付く。
(左……そういえば、いつも私がこっちに寝てるんだな)
枕になるのは常に右腕だ。近頃では朝の痺れも痛みも随分ましになってきている気がする――
「そうか!」
我なく声上げ、上体を跳ね起こす。枕から振り落とされたブラックホールが今度はさすがに目を覚ました。
「ペンタ……?」
半覚醒の様子で惜しげに伸べられる手を甘さとは無縁の動作で掴み、わかったぞブラック、と勢い込んで言う。
「キミの頭がちょうどいいウェイトになって、知らないあいだに右腕に筋肉が付いてたんだ。だから右でやったカナディには勝てたのに、キミにはあっさり負けてしまったんだな。次はキミとも右で……いや、どうせだから左も鍛えたいな。翔ぶときのバランスが悪くなるし……うまくいけばあの夢も……よしブラック、ちょっと位置を替わってくれないか? 今日から左で腕枕するから」
一気にまくし立て、前のめりにさえなって見下ろした従兄は、それと真逆のごく緩慢な動きで身を起こし、胡乱げにペンタゴンを見つめた。ぼそり、眠気混じりの低い声が発せられる。
「……左がなんだって」
「右の力が強くなったみたいだから、均等にしたいんだ」
「……ほう」
「昔からの夢なんだよ。キミをこうやって両腕に抱いて空を飛ぶのがさ。それには左右どっちも強くないとな。空中姿勢も重要だし……それに」
「……それに?」
「色々シたあとで腰の抜けた恋人をベッドからバスルームまで軽々と運ぶ、っていうのは男のロマンじゃないか」
憧れるよなぁ、と一人しみじみと頷くペンタゴンは、目の前の存在に慣れ切っていたのが仇となり、言葉連ねるごとにその気配の重々しさが増していくのに気付いていなかった。
「……まだ陽も昇らない時間にいきなり飛び起きやがった理由はそれで以上だな」
「え、ああ、うん」
軽い音で認めると、わかった、と平坦な声が挟まり、
「その馬鹿正直と長い付き合いに免じて正拳は勘弁してやる」
「え?」
一音以上の問いを発する間もなく、痛烈な衝撃とともに目の前を五芒ではない星が飛び、かくてペンタゴンの予感した「いい一日」は、正確には半日もたずに幕を下ろしたのだった。
数日後の首尾報告において、「腕の中で寝ている恋人を夜中に突然起こして『キミの頭重くてウェイトトレーニングになるね! 利き腕鍛えたいから場所替えて!』と頼んだら顔面に見事な手刀を喰らった上せっかくの休日を前にその場で帰られた」と嘆き述べられた証言に、リア充爆発しろと呪詛よろしく唱える者こそあれど同情を寄せる者はなかったが、そんな気の回る仲間たちも、アメリカ超人界きってのモテ男が長年に渡り焦がれているらしい年上の恋人が、時同じくして「昔は本当に可愛かったのに……」「いつもオレのあとをぽてぽて付いてきてな……」「いつからあんな感じになっちまったんだ……」と魔界の仲間にこぼしている四次元の悪魔であるなどとは、露ほどにも予想できていなかった。
end