ねこのこころと秋のそら



「温泉に行きませんか」
 と、そんな突拍子もないことをごく当たり前のように、ごく平然とした顔で言ってきたのは、三年ほど前に森を巣立った半神の若者だった。
「……温泉?」
 箸を宙に止めたまま、横からあれも食えこれも食えと久方ぶりに出会った後輩の世話を焼いていた日向が、その言葉をくり返す。はい、と歳若くも前途有望な宿り者――黒子は、やはり事もなげな調子で頷いた。
「温泉行きたいの? 黒子」
 小金井の問いに、
「あ、いえ、僕ではなく」
 一度首を振り、戻した視線で正面、すなわち向き合って座る木吉の顔を見つめて、
「お二人で、行きませんか?」
 そう言う。
 お二人。この場合、自分とともにそう丁寧な語でまとめられるのは、おそらく場に一名しかいない。共に膳を囲む仲間たちの視線を受けつつ、当の二人で問い返した。
「俺と日向で? 温泉?」
「どういうことだよ」
 怪訝な二対の目を受けてたじろぎもせず、実は、と黒子は説明を始める。
「紅葉(もみじ)峠と呼ばれている土地はご存知でしょうか」
「ああ。誠凛の北にある山だな」
「先日、そちらに立ち寄ったのですが」
 三年前の戦が終わってからというもの、各地の宿り者たちと交誼を結びながらの漂泊の旅を続けているという黒子だが、この夏はそのうちの一人を訪ね、北の陽泉で過ごしていた(暑さを避けたかったのが半分だろうとは日向の指摘だ)。秋が深まるに従って南へ足を進め、今日の「里帰り」に至る途中にその山に寄り、土地の惣領に当たる神霊と知り合ったという。
「僕が誠凛でお世話になっていたことを話すと、とても歓迎して頂きまして」
 なんでも、あの戦の前後、戦火に見舞われ土地から焼け出された者たちを誠凛で多数受け入れたことが、いまだ非常に感謝されているらしい。今は戦の傷もほとんど癒え、その異名の由来である紅葉も見頃を迎えており、主神の二人に直に礼を述べたく、ぜひ湯治がてら足を運んでもらいたいと言伝を預かったのだと黒子は語った。
「湯治なぁ」
 確かに、あのあたりは良い湯元として有名で、寄合いと称した清遊と骨休めの用で神々が足を向けることも多い土地である。さてどうかと半身の反応を窺うと、やはりと言うべきか、難しげな顔が浮かんでいた。
「話はわかったけどよ、主神が揃って自分の土地ほっぽり出して、ゆっくり温泉つかってるわけにもいかねぇだろ」
 責任感の強い彼らしい、至極もっともな意見である。しかし、と横からそれに反駁を入れるのは、木吉よりも周りの仲間たちのほうが早かった。
「いいじゃん! 行ってきなよー」
「ひと月もふた月も離れるわけじゃなし、大丈夫だって」
 けどな、とさらにひとつふたつ渋る言葉を重ねるが、どう見ても形勢不利だった。留守の間は自分たちが請け負うから、と口々に言われれば、意を曲げずに粘るだけ仲間たちを信頼していないということになってしまう。この意固地で単純な同輩の操縦など皆とうにお手のものであり、日頃気を張りがちな歳若い主神をたまにはのんびりさせてやろう、という気遣いも共有されていて、おまけに今回は言伝を預かった黒子の面目も加わるのだから、要するに日向には頷く以外の道など初めからなかったわけである。
 結局、その気になれば半日で駆けて戻れる距離、という地理の良さも後押しして、長くとも五日までという条件で誘いを受けることに決まった。頼もしい仲間たちに感謝しつつ、楽しみだな、と笑いかければ、愛しい黒猫はほんのかすかに赤くなった顔を隠すように、ぷいと大げさにそっぽを向いてみせた。


      ◇


 使いの往復で訪問の日取りはすぐに決まり、十日も経たぬうちに、後を任せた仲間たちに賑やかに見送られて郷を出た。森を出発してしばらくはしつこく難色を示していた日向だったが(主に出がけに贈られた「じゃあ夫婦水入らずでな」という言葉への反発が原因である)、秋晴れの下をのんびりと歩くうち、務めを抜きにした遠出もたまには悪くない、という気分になったらしく、国境に至る頃には平生の調子に戻り、少し上機嫌の気配さえ見えた。
「向こうの主神は随分長いんだろ?」
「ああ。俺よりずっと年上の爺ちゃんのはずだよ。手紙では何回かやり取りしたんだが、実際に会うのは初めてだな」
「この前の戦は運が悪かったけどよ、何百年もうまいこと回ってる土地だし、どうせだから色々見て回らせてもらって、いいところは盗んで帰りてぇな」
 よし、と気を入れて頷く日向の横顔を目を細めて見つめる。この努力の君の隣で責務一切を忘れることはなかなか難しそうだが、それでも平素よりはずっとのびのびとできるだろう。今日から五日、風光明媚な土地で愛する伴侶とゆったり過ごす時間を思い、笑みを深くする。
 そうこの時は、まさか事がとんだ方向へ転ぶなどと、夢にも思っていなかったのだ。
 秋の空とは穏やかに見えて、裏に嵐の気配を隠しているもの。生きものの心もまたしかり。いつか誰かに聞いたそんな言葉も、思い出すのはもう少し先のことだった。


「いや、いや、良くいらしてくださった。戦の頃はうちの者が色々ご厄介になりまして、挨拶もできず忝いことでしたな。ようやくご招待が叶いまして喜ばしき限りです。ほんの心ばかりのおもてなししかできませんが、どうぞおくつろぎを」
 峠に着いたのはすっかり夜も更けた時分であったが、土地の主は二人の訪れをずっと待っていたと見え、到着するなり丁寧に歓待の辞を述べた。いかにも好好爺然とした柔和な態度の老人であったが、長年に渡り土地を仕切る者の如才の無さも、その言動の端々から感じ取れた。
 庵のような拝殿で初めの歓迎を受けたのち、老爺はこちらへ、と言って二人を外へ手招いた。木板の敷かれた道を少し行くと、峡谷の手前に小さな家が建っている。
「お客人用の離れでしてな。ご逗留のあいだはどうぞご自由にお使いなさってください。湯は寝間を出たところでいつでも使えます。お食事は時間になったら運ばせますので」
 案内された中は、小ぢんまりとしながらも嫌みのない装飾と調度が揃った過ごし良さそうな空間で、自分たちが居する誠凛の本殿とも近しい雰囲気があった。
「今晩の夕餉はどうなされますかな」
「途中の茶屋で食べてきたので」
 時間としてはもう寝るだけといったところだ。明日はぜひ土地の名物を味わってほしいと言い、老爺はそこで離れを辞した。
「なんか至れり尽くせりだなぁ」
「こうまでして貰うとちっと気が引けるよな」
 とは言えなかなか良い時間を過ごせそうだと嬉しく感じたのは互いに同じで、心弾ませつつ少し家の中を見分する。――と、
「うわ、すげぇ」
 寝間に入った日向が驚きの声を上げた。なんだろうかと背を追うと、外へと開かれた戸の下に数段の木の階(きざはし)があり、降りて至る谷側へ少し下がった地面から、白い湯気が立ち上っているのが見えた。
「すぐ外が温泉なのか」
 正真正銘いつでも湯が使える環境だ。外に面してはいるが、四方から目を浴びぬよう、木と竹の柵壁で囲われている。それでも周りの山を一望できる作りになっており、陽のあるうちに入ればさぞ紅葉の眺めも芳しといったところだろう。
「寝床出ていつでもすぐ風呂ってことは、湯使ってから即なだれ込めるし、間を置かねーで風呂で二戦目に……」
「おい」
 ぶつぶつと呟きつつ思案する木吉に、横から冷ややかな声と視線が刺さる。
「よその土地だからな。わかってんだろうな」
 明日は朝からこのへん案内してもらうんだぞ、と釘を刺され、苦笑して頷いた。
「でもちょっと一緒に風呂つかったり、一緒の布団で寝たりとか、……それで、最後の日ぐらいは少しゆっくりしてみてもいいだろ?」
 二人っきりなんだから、と傍らへ低く囁けば、一度きゅっと唇を結んでから、
「……まぁ、な」
 あくまで目をよそへそらしつつ、ごく小さな声で言う。憤ってと言うよりは明らかに弱って寄せた眉がいとけなく見えて心を震わせ、いつまでも純情な幾十年の番いの肩を抱き、ほの赤く染まった頬へ、愛を込めて口付けを捧げた。


 翌日も朝から爽やかな陽気で、妙に張り切って早起きしていた日向と小さな口論を起こした(「よぉ、朝風呂気持ちよかったぞ。お前も入」「えー! 一人で入っちまったのかっ? う、裏切られた……」「だって起きてこねーし」「朝から日向の可愛い耳と尻尾を洗ってやって流れでいちゃいちゃする計画が……!」「おいどこで立ててたそんな計画」)以外は概ね和やかな一日だった。主神の老爺を始め、土地の獣や地霊たちの案内で戦火の跡やその他の名のある地所を見て回り、あれこれと話を交わすうちに時間は過ぎて、気付けば日暮れを迎えていた。
「色々見られて良かったな。戦で駄目になっちまったものもだいぶ直ってるみてーだったし。まだ少し木とかは元気がない感じだったけど」
「ああ。しかしあの爺さん物知りだな。さすが年の功っつか、やり手って感じだわ。狸かなんかっぽいよな……お前と同じ匂いがする」
「なに言ってんだ日向、俺は狼だぞ?」
「はいはい」
 離れへ帰って今日の感想を言い合っていると、主殿から小使いが食事の膳を運んできた。てきぱきと準備がなされた彩りゆたかな夕餉に、揃って感嘆の声を漏らす。さすが主神自ら胸を張るだけあり、秋の食材をふんだんに使った見事な料理の数々である。
 各地から人を呼ぶにはこのぐらいでなくては駄目なのだろう、と頷き合い、寝間のととのえまで終えて去る小使いを礼と共に見送って、箸を取り手を合わせた。

 見た目にふさわしい味の備わる料理に舌鼓を打ち、感動を述べ交わしつつ箸を進めていたが、ややあって、日向から返る言葉が妙にぼんやりとし始めたのに気付いた。こちらの語りかけへの反応が遅れがちになり、普段の良く通る声が少しこもって聞こえる。
 慣れない土地を一日歩き回って疲れてしまったのかと、心配を覚えて手元から顔を起こした、ちょうどその瞬間。箸を宙に浮かせたままやはりどこかほうけた様子で座していた日向の身体が、ぐらり、大きく横へ傾いだ。
「日向っ!」
 膳を蹴立てる勢いで前へ踏み出し、咄嗟に差し伸ばした手は、すんでのところで床へ倒れる身体を支えることができた。力の抜けきった様子の身を腕に抱き、焦りながら呼びかける。
「日向、大丈夫か?」
 伏せかかった目蓋が睫毛を震わせてゆっくりと持ち上がり木吉に視線を向ける。ひとまず安堵して、どうしたんだと訊ねかけるより先に、
「にゃぁん」
 ゆるく開いた唇からひとつ、猫の声が上がった。
「……へ?」
 思わず間の抜けた声を落とし、見つめ返す。日向は獣の性の濃く顕れた金緑の眼でじっとこちらを見上げ、うぅ、と小さく喉にうなりを立てた。
「きよしぃ」
 あつい、と舌足らずに言いながらも、より腕深くへ身を寄せてくる。
「ひゅ、日向っ?」
 明らかに様子がおかしい。丸めた身体は確かに熱を持っており、息もやや荒い。そもそも、食事の最中に箸を投げ出してまで身を近付けてくるなど、普段の真面目な彼なら考えがたい行動だ。
「ふみゃ、んにゃん……」
 甘やかな啼き声をこぼし、木吉の着物に指絡め、熱っぽく潤んだ瞳で見つめてくる。胸の奥では「俺の嫁さんがこんなに可愛い!」と大樹の上から日の本全土に向けて遠吠えを上げたい衝動にかられつつ、なんとか冷静を努めて原因を探った。
(具合が悪いわけでもなさそうだし)
 むしろ頬が上気し血色は良く見える。酩酊に近い状態に思えるものの、酒は一滴も呑んでいない。ほかにこうした態度に憶えがあるとすれば盛りの時期だが、今は秋である。ほかの猫がどうかはともかく、日向が盛りを迎えるのは春のみのはずだ。
(猫……)
「んにゃぁ」
 いつの間にか黒毛の耳と尾が顕現し、ぴるぴるひよひよと愛らしく揺れている。猫の酔い。そう、もうひとつ憶えがある。ほかの生き物にはまるで効かないが、猫族にのみ正体を失くしたような反応を示させるものと言えば。
 腕伸ばし、膳から皿のひとつを取って鼻を近付ける。鋭敏な嗅覚に、種々の食材の奥深くに混じる独特の匂いが確かに感じ取れた。
「マタタビか……」
 どうやら間違いない。過去にも幾度か騒動の種となっているその植物は、ほんのわずかな量でも覿面に効果を表すのだ。ことに、普段は堅い性格と言っていい我が黒猫どのは、その匂いの力に大層弱いようで。
「きよし、はやく……」
 何を早くか、だなどと、この声と目を受けて訊くまでもなく、雄の心がぐさぐさと矢ぶすま式に射られる。初めの騒動の折にはまだ気付かなかったが、このマタタビという代物、ただの酔いではなく、どちらかと言うとあっちやらそっちやらの方面にある情を呼び起こすらしく、何をきっかけにしても顛末は概ね同じものになるのだった。
 ころころくるくると喉を鳴らしている日向はもはやすっかりそちらへ心が傾いてしまったようで、しきりに木吉の懐へ身をすり寄せてくる。
「きよし……」
「うううううう」
 初日の夜に無体をしないと少々勿体ぶって宣言した手前、あっさり覆すわけにも行かず、全身の理性を総動員して堪える、のであったが、
「んにゅ」
 膝に乗り上がってきた猫が甘えかかるように首へ接吻をくれ始め、紅い舌がちろり、喉仏を這っていった瞬間、もともと極小の砂を必死に水で固めて建っていたような理性の楼閣は、音すら立てず爽やかに崩壊した。
「日向っ、愛してるぞ……!」
「うみゃん」
 嬉しげに尾を立てるしなやかな身体をがばりと腕に抱き上げ、次の間へ続く襖戸を開け放つ。表の湯の泡鳴りがかすかに届く閨の中には、広い五幅(いつの)の布団に枕がふたつ、きちりと並んで番いたちを待っていた。


 翌日、朝の主殿の廊下で惣領の老爺を呼び止めた木吉は、昨夜の食事の見事さを賛じつつ、さりげなく訊ねかけた。
「なんだか、少し変わった匂いが」
 ええ、と老爺は心得顔に頷き、
「木天蓼の酒でしょう」
 と答えた。
「もくてんりょう……」
 大仰な響きではあるが、なんのことはないマタタビの別称だ。やはりと頷く木吉へ老人は事もなげに続ける。
「実を酒に漬けておくと独特の風味が出ましてな。様々なものに用いますよ。このあたりの名物なのです」
 お気に召して頂けたのなら何より、と柔和に笑む老練の神に、木吉は合わせて笑いを返すことしかできなかった。
 足早に離れへ帰り、布団を被って蓑虫のようになっている日向へ今聞いた話を伝えると、まじか、と悲壮な声が返った。マタタビの酔いは悪酒のように後へ尾を引くものではなく、本人の記憶も全てとまでは行かずも大部分が残るようで、起き抜けから非常に居たたまれなげにしている。
「日向が猫だって伝えておけば良かったな」
 百年来の土地神である木吉が狼の神体を持つことは近隣の国でもそれなりに知られているが、日向の神体は本人が表にしたがらないこともあり、まだ知る者が少ない。木吉の対の主神だということで同じ狗族と思われていることも多く、今回はそれが仇となったようだ。
「事情を話してその酒を使うのやめてもらうか?」
 名物と言うからには、放っておけば今日の食事にもきっと使われているだろう。実や葉など、目で見てそれとわかるものであればまだ避けようもあるが、調味に使われてしまっては仕様がない。さすがに不憫に思って問いかけると、日向はたっぷりの沈黙を置いてから、首を振った。
「土地の自慢のもんなのに、悪いだろ……。良かれと思ってしてくれてんだし、断れねぇよ。飯も残したくねーし」
「けど、また酔っ払っちまうぞ?」
 悪いが俺は日向にあんなにじゃれつかれたら我慢できん、と正直に言う。当人も色々と文句や言い訳の立たないところがあると自覚しているのだろう、一晩で宣言を破った木吉を責めることなく、ただ神妙に身体を丸めている。そうして、
「……酔わなきゃいいんだろ」
 そんなことを言い出した。
「俺が我慢すりゃいい話だろ、要するに」
「我慢できるのか?」
 あの様子でどこかに「我慢」を挟んでいる気配など微塵もないが、日向はがばりと布団から起き上がり、拳を握って宣言した。
「やってやろうじゃねぇか。あんな木ぃひとつに負けてたんじゃ、誠凛の主神の名折れだからな。普通だろうがちっぽけだろうがなんだろうが、猫族なめてんじゃねえぞ!」
「マタタビに弱いから猫なんだと思うが……」
「我慢してやるっつってんだよっ。いいか木吉、誰にも何も言うんじゃねぇぞ。俺はぜってぇ無事に耐えきってみせるからな!」
 と、そんな強大な敵に立ち向かうようなやり取りがあったのが午の間際。体力の回復した日向と散策へ出て、外で取った昼食にはマタタビは使われていなかったようで何事もなく過ごし、離れへと帰った夜、いざ懸案の夕餉との対峙となった。弓を引き的に向かう瞬間ほどの集中と気合いを見せた日向は、黙々と箸を進めて「敵」をたいらげ、結果見事に――

「ふにゃあぁーん」
「やっぱりなー」
 見事に――撃沈した。
「気合いと根性だけじゃやり過ごせねーこともあるみたいだなぁ日向」
「んみゃー?」
 狗族が興奮したときに尾を振ってしまうのと同じようなもので、自分の意思で止めようとして止められる本能ではないのだ。これを耐えねばほかの何かや誰かが害されるであるとか、そうした緊迫の状況でならともかくも、知らない土地とはいえ日常の延長である今この場で、そうした本能に抗えというほうが無理な話である。
 かくて見事な酔っ払い猫と化した日向は、長い尾をぴんと立ち上げ、期待に満ちた瞳で木吉を見つめてくる。笑って腕を差し伸ばすといそいそと近付いてきて、するり、胸元に納まった。指で顎を捕らえて上向かせ、濡れた唇に口付けを落とす。
「んぅ、ん、……もっと、」
 きよし、と熱い吐息と共にねだってくる日向は、平素の凛然とした佇まいが嘘のように、淫奔で蠱惑的だ。酒によって官能が限界に高められてしまった身体は、わずかな接触にも背をびくびくと細く震わせる。
 まさに君子豹変ならぬ猫豹変と言ったところだろうか。素朴で可愛らしい猫が、しなやかな艶持つ豹へと変わる。いや、豹もマタタビに酔ってしまうのなら、その喩えも何かおかしなものではあるが。
「ん、ちゅ」
「どっちも我慢できなかったってことで、おあいこな」
 酔った相手を手篭めにしてしまうのも少々気が引けるのだが、とは言え、マタタビの酩酊は一晩続くものではない。早ければ一刻も経たないうちに目が覚め始めることもある。そんな少しの時間でもこうして愛らしくねだられては我慢が持つはずもなく、あれやこれやと情を交わすうちに、目が覚めた日向ももはや止めようのないところへ心身が達してしまっており、結局はそのまま睦み合いが続く。とどの詰まり、マタタビはきっかけに過ぎないのだ。
 そうしてまた、秋の夜長は甘く更けていき、翌朝、猫は布団で羞恥に丸くなるのであった。


「ちょっと早いが、もう帰らせてもらうか? 日向」
 亀のように少しだけ布団から覗いた頭を猫の耳ごと撫ぜながら、問いかける。本当は今日明日ともう二泊して五日目に帰途につく予定であったが、これではさすがに滞在の気が進まないだろう。
 日向は前日のように長い黙考の間を置き、布団に顔を伏せたまま、ほつりと答えた。
「……お前が嫌だってんなら、帰る」
 思わぬ言葉に、俺? と訊き返した。
「いや、俺は別に嫌なんかじゃねーぞ」
 むしろこんな良い雰囲気の場所で、あんなに愛らしい恋人の姿を見れて僥倖に近い、というのが本音だが、当人が弱っているのにそれは……、と、そうまで考え、ふと気付く。
「ってことは、日向は嫌じゃねーのか?」
 ぴくり、猫の耳が反応する。また少しのだんまりを挟んで、くぐもった声が聞こえてきた。
「……そりゃ、マタタビはとんだ予想外だけどよ、いい場所だし、これでもまだ昼からなら色々見て回れるし、飯はまぁ、味は旨いし……。酔うと、俺、あんなんなっちまうから喜べはしねー、けど、どうせお前しか、いないし」
 二人っきりだから。訥々と、言う。
「迷惑かけんのも、じゃれついちまうのも、お前しかいねぇから、お前なら、別に、その……二人きりなら、誰にも知られねぇんだし、たまに、は」
 いい、と、最後の言葉はほとんど息の中に消え入りかけていた。
 凍り付いたような沈黙が過ぎ、もぞりと布団が動いて、不安げな目が覗いた。
「けど、やっぱ、俺あんなんだし、お前が嫌なら」
 言い差すのを遮り、ぐいと掴んだ身を無理やり布団から引きずり出して、力の限り腕に抱きしめた。
「わっ、おい、苦し……」
「嫌なわけないだろっ。日向、好きだ。愛してるぞっ!」
「っ……な、な」
「予定通り泊まろう。昼はあちこちのんびり歩いて、夜は沢山いちゃいちゃしような」
 二人っきりなんだからな、と勢い込んで言うと、腕の中の恋人は顔をあますところなく赤くして、もごもごと何か反駁したげに口を動かしたあと、しかし最後には、
「……おう」
 耳を恥ずかしげに少し寝かせ、尾をもじもじと揺らしつつ、そう、いじらしくさえ見える仕草で頷いたので、以来この紅葉峠に、あまりの景観の良さに興奮した大きな狼が、山の上から「俺の嫁さん世界一可愛い!」と高らかに遠吠えしたという逸話が残ったとか、残らなかったとか。


      ◇


「お世話になりました」
「いやいや、なんのお構いもできませんでな」
 五日目、見送りに付き合ってくれた老爺と街道の前で別れの辞を交わした。
「あの、離れを、結構散らかしたまま出てきちまって」
「いえなに、お気になさらず」
 気まずく言うのに、朗らかな笑いが返る。腕の中に身を丸める黒猫の背を撫でつつ苦笑いし、再度礼を言った。
 あのやり取りのあとはまさに交わした言葉のまま、遠慮呵責なく本能に従い過ごした。酔った恋人をぐずぐずに蕩けさせ、酔いが覚めてからもなお甘く睦み合い、もちろん閨のすぐ外の温泉は幾度も大いに活用した。決めて一日目は翌日の外出もあってまだ抑えがついたが、二日目はマタタビの効きもそう深くはなかったにも関わらず、互いにたがが外れてしまったのか、二人きり、の言葉を後押しに春の宵もかくやというほど盛り上がってしまった。お陰で今日は共に寝坊し、日向などは人の姿も取れず今再び夢の中だ。これはどう慌てて繕ったところで、何があったか隠せたものではない。
「そうそう、こちらをお土産にと思いまして、ただの饅頭ですが、どうぞお持ちください」
 何から何までと恐縮しながら竹皮の包みを受け取り、さらに数言を交わしていよいよの段、老爺は言った。
「しかし、あなたがたの里が羨ましい。あのように豊かな森があるのも、お二人の若さと睦まじさがあってこそなのでしょうなぁ」
「いや、でも」
 ほかの仲間たちにも助けてもらっているので、と言い差したのをやんわりと切り、続けていわく。
「いやはや、まさかにここまでの力とは思いませなんだ。今年の夏の寒さでは冬を越せぬ草木がいくらあるものやらと憂えておりましたが、お陰で皆よき春を迎えられそうですな」
「……え?」
 何やら妙な謂いを聞いたように思い、疑問の声を漏らすが、問いを言葉にまとめる前に場は締められてしまう。
「おっと、無駄話であまり長々お引き留めしてはいけませんな。それでは、御内儀どのとお仲良く」
 またいつでもいらっしゃい、ときびすを返して去っていく姿を呆気にとられて見送りながら、残った言葉をその場で少し考える。生命を司る大樹の神と、命を育む陽光の神。確かに自分たちの深い交誼は、我知らず周りに恩寵という名の影響をもたらすことがある。加えて思い返せば、一日目と二日目で違う閨の用意も、夕餉にしか香らない木天蓼も、そもそもの始まりである黒子への言伝も――
「ああー……」
 木立の角を曲がる小さな背に、老獪な狸の尾が見えたようであった。
 

 うにゃ、と身じろぎをして日向が腕の中で目を覚ましたのは、それから四半刻ほど歩いてからのことだった。
「悪ぃ、すっかり寝てたな……」
 猫手で顔を洗いながら、失礼なことしちまった、と言う。自分が代わりをし、向こうも了解済みだから大丈夫だと笑って応え、峠を降りきるまではこのままでいるよう勧めた。無理に歩いてもかえって遅れるだけなのがわかっているのだろう、そうする、と反発なく頷きが返る。
 と、ぴくり、尾を揺らし、日向は共に腕に乗せていた竹皮の包みへ顔を寄せた。
「なんだこれ」
「ああ、爺ちゃんが土産にって」
 ふぅん、と軽く相槌しつつ、小さな鼻をひくつかせている。はたと気付き、さりげなく包みをもう片方の手に持ち替え、その身から離した。
「そうか、これ」
 なるほどと頷くのに小さな首が傾いだので、なんでもないと笑って返し、話題を変えた。
「日向、あの爺ちゃんは狸だったぞ」
「やっぱりか。お前そっくりだもんな」
「えー、俺あんなに皺ねーと思うけどなぁ」
 猫の心と秋の空。生きとし生ける者たちの情は、ふとしたことで移ろい乱れ、時に周りを巻き込んで嵐を呼ぶ。
 とは言えその嵐、苦しいばかりとは限らないのが、世の生きものの不可思議で興尽きせぬ趣深さ。
 穏やかに語り交わしながら、愛しの猫の甘い様変わりを次はいつ味わおうかと、見事な袖の下ならぬ酒饅頭を手に思案巡らせる、秋の日の幸福な狼どのであった。


―了―

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