※背番号について、本作品では誠凛7番=エースナンバーで確定ということにしております。

 
清秋クロスロード



 おかえり、とかけられた言葉に、思わずドアの前で足を止めた。
 脱ぎかけた靴もそのまま、立ち尽くして数秒。一度ディスプレイに向き戻った顔が、訝しげにまたこちらを見やる。
「どうしたよ」
「え? あ」
 はたと気を戻し、狭い台所を抜けて部屋へと足を進める。机に頬杖をついた姿勢で、日向が口を開いた。
「どうせオレがいること忘れてたんだろ」
「いや、……いると思ってなかった」
「それが忘れてたってんだ」
 寝坊するからだタコ、と容赦なしに両断され、笑って頭を掻く。事実だけに反論のしようもなかった。バイトがあるのを忘れて昼まで寝てしまい、昨夜から泊まっていた日向を置き去りにする形で家を飛び出していたのだ。正確には忘れていたのではなく、帰ったと思い込んでいたのだが、出がけの確認も出先からの連絡もしていなかったので、結論としては同じである。
 すまん、と謝罪の言葉をかけるが、日向はさほど気にした風でもなく、おー、とだけ相槌を打ってまた前へ向き直った。以前から勝手に使っていいと伝えてある木吉のPCでブラウジングをしていたらしい。ウィンドウを閉じる前に一瞬見えたのは、家の間取り図のようだった。
「部屋探し進んでるか?」
「あー……、なんか迷走してきたな」
 見れば見るほど高望みが始まっちまって駄目だわ、と息をつく。
 七月の再会の日に語っていた通り、独り暮らしのための家探しを続けている日向だが、売り出しのシーズンをやや外れてしまっていることもあってか、なかなかこれという物件が見つかっていないらしい。
「いいと思ったところはやっぱ高ぇし、空き待ちだったりすんだよな。もうバストイレ別だとかは早々に諦めてんのに」
「このあいだの情報誌に載ってた三万のとこは?」
「あの間取りであの安さとか、どう考えたってワケあり物件だろ……」
 ぜってーイヤだ、と切り捨てる。想像だけで顔を引きつらせているあたり、怪談嫌いも筋金入りになってきたようだ。
「けど独り暮らしならちょっと気味が悪いぐらいは仕方ないんじゃないか? オレもこの前ベランダ出てるとき……」
「わーやめろバカ! 何普通に話に入ろうとしてんだダァホ! それ以上続けたら今すぐ出てってもう二度とこの家来ねぇからな!」
 声さえぎって騒ぎ立てるのに、それは困ると口を閉じる。息を吐きつつ、さすがにみっともなかったと思ったのか、日向はごまかすようにひとつ咳払いをし、
「いや、ともかく、どっちにしろ今日はそろそろ帰るわ」
 そう言って椅子を立ち上がる。え、と時計を確認すると、もう八時近い。ここから日向の家までは一時間以上距離があるはずだ。
「帰ったら遅いだろ。飯食ってかねーか?」
「や、昼も勝手に買い置きのカップ麺もらっちまったし」
「昨日ばあちゃんが送ってくれた漬物が着いたんだが」
「……次の給料日に米代入れます」
 ひと声で取りかけた鞄を床へ置き戻す日向に、決まりだな、と笑い、帰りがけに寄ったスーパーの袋を持って台所へ向かった。


「んー……やっぱ全然ちげぇわ。糠漬けはともかく塩漬けもウチのとは比べ物になんねーし……」
 売ってるやつより断然旨いよなぁ、としみじみとした声が落ちる。白米と味噌汁、レトルトを使った肉野菜炒めに、とりどりの漬物と、量はともかく男子学生の食卓に並べるには少々脂っ気の足りない夕餉だが、和食好きの日向にとっては、大盛りのラーメン一杯で済ませるよりよっぽどいい、ということになるらしい。特に、今賛辞を得たところの木吉の祖母手製の漬物は、初めにふるまった日から非常な好評だった。
 感嘆の言葉をくり返しながら旺盛に箸を進める様をほほ笑ましく眺めていると、視線に気付いた顔がこちらを向き、眉を寄せた。
「おい、何止まってんだよ。なんかオレだけがつがつ食ってるみてーじゃねぇか」
 お前に送ってくれたんだろ、と少し気兼ねしたように言うのに、いいんだって、と笑って返す。
「オレはいつでも食べれるんだし。このあいだ日向が褒めてくれたこと話したら、ばあちゃんすげー喜んでてさ。それで沢山送ってくれたんだ」
「そうか……なんか悪ぃな。礼言ってたって伝えといてくれ」
「ああ」
 誰であれ何であれ、自分のものを手放しで称賛されれば悪い気はしない。祖母のみならず木吉も自分の家の味を褒められたのは嬉しかったし、思わぬ余得のようなものだが、このお陰で日向と一緒に食事をとる機会が増えたことにも、内心こっそりと感謝をしていた。

 初日に泥酔して家主とともに転がり込んでから、次に日向が木吉宅を訪れるまでには、二十日余りの間が空いた。試験最終日に木吉の大学で会った日も、食事のあとそれぞれ自宅へ帰っており、その後夏季休暇に入ってからもなかなか予定が合わなかった。木吉のほうはさほど忙しくはなかったが、日向は合宿を含む部活動と、その隙間に詰め込んだバイトのため、ほとんど空き時間がないような状態だったのだ。
 せっかくの長期休暇に、と恨み言のひとつも言いたくなったが、先に日向の側から「夏までに彼女もできなさそうだったからヤケになって予定詰めてた」といったようなニュアンスで余暇のなさを愚痴るメールが来たため、自然と溜飲が下がった。上向いた機嫌のまま「それってもう少し前にオレと会ってたら予定空けといてくれたってことだよな!」と切り込んでしまい、その後携帯のアルバムに怒った猫の写真が一枚増えたのはまあ余談である。
「そうだ。礼と言えばな、今日、オレが教えてる子のお母さんからお礼言われたぞ。いい先生紹介してくれて友達が喜んでたって」
「マジ?」
「真面目ないいコで教え方も上手だって。さすが日向だな!」
「いや、正直まだ割といっぱいいっぱいなんだけどよ……そう言ってもらえてるなら、ちょっと安心するな」
 よかった、と面映げになごむ顔を、目を細めて見つめる。

 日向がこうして木吉の家に寄りつくようになったのは、バイトがらみのふたつの偶然がきっかけだった。
 日向はこれまでずっと自宅近くのコンビニで働いており、夏もそこでバイトを続けていた。が、八月の半ばに、上階の住居からの失火が原因で、その店舗が火事に遭ってしまったのだ。幸い怪我人もなく、全焼は食い止められたが、しばらくは営業再開が難しいということになった。一夜にして仕事場が無くなってしまったわけで、独り暮らしの費用を貯めていた日向にすれば弱った事態である。
 しかし捨てる神あれば拾う神あり、とはよく言ったもので、また別のバイト先探さねーと、とため息まじりの声を電話越しに聞いたその翌日、今度は木吉の仕事先で話が持ち上がった。木吉は去年から個人契約で家庭教師のバイトをしていたのだが、その教え子の母親から、友人の息子に社会科を教えてくれないかと頼まれたのだ。
 すぐに思いついて、生憎自分は時間的にかけもちができないが、適任の知り合いがいる、と伝えておき、その夜のうちに日向に声をかけた。子どもを預かる経験のなさから躊躇も見せていた日向だったが、条件の良さには惹かれたらしく、とりあえず会うだけ会ってもらう、と了承を唱えた。その後、話は首尾よく進み、月の下旬から家に通い始めてもう三週間が経つ。
 紹介した立場として初めだけ気にしてはいたが、心配はしていなかった。もともと真面目で面倒見のよい性格で、加えて社会科教師志望の学生、と来れば、教える子どもからはもちろん、親からも不満が出るはずもない。さらに、その家の父親がかなりのスポーツファンであったらしく、部活帰りの格好で訪れた日向が声をかけられる形でNBAの話題などで盛り上がり、今では夕飯に呼ばれることもあるというから、今日の話を待つまでもなく、評価が上々であることは知っていた。時給の点でも時間の融通という点でもそれまでと比較にならないほど環境が良くなり、日向自身満足しているようだ。
 唯一の問題としては、紹介元がこちらの大学の近所の家庭であったため、必然的に日向の家からは遠い通い先になってしまうということだった。それこそが「きっかけ」につながるのだが、つまり、次第に木吉の家が日向宅と家庭教師先を結ぶベースキャンプのような形になってきたわけである。昨夜日向が泊まっていったのも、約束をしてと言うよりは、事前に断りをもらって寝床を提供した、といういきさつが正確なところだ。そうするよう勧めたのは木吉からで、これもまたある意味で余得のようなものだった。煩わしさなどよりは、もちろん日向とたびたび会うことのできる楽しみのほうが何倍も大きい。つい遅くから缶ビールや酎ハイを開けて呑み始めてしまい、今日のように寝坊することがあるのは困ると言えば困るが。
「何にやにやしてんだよ、さっきから」
 つい考えに箸を止めてしまっていると、また怪訝な顔で指摘された。
「いやぁ、楽しいなと思って」
 こんな風に二人で飯食うのとかさ、とこちらもまた笑いで返す。
 間に挟むローテーブルは入居の際に購入してから使い続けているもので、部屋の広さにふさわしい程度の大きさしかないから、二人分の食事を並べるとそれだけでいっぱいになってしまう。おまけに食器も足りないので、整然とした対称性など微塵もなく、木吉は茶碗代わりに麺用の丼に米をよそっているし、日向が使っているのはコンビニでもらうのを貯めておいた割り箸だ。日によっては片手鍋が隅にそのまま鎮座することもある。
 なんとも混沌として狭苦しい、人によっては眉をしかめかねない景色だが、向かいに座っているのが彼だというだけで、色合いはまるで変わってしまう。それだけで、胸が弾むような心地になる。そんなことをごくかいつまんで語ると、
「つくづく幸せな脳みそだよな」
 そんな呟きだけひとこと返された。淡々とした声音はそれでも否定は述べず、すぐに視線をそらしても頬の色などごまかしようがないから、本当の感想はその上にはっきり浮かんでいるも同然だった。


 食後すぐに手分けして片付けを済ませてしまい、今夜は酒を出すこともなく、残りの時間にゆったり足を伸ばしていると、スポーツ誌に目を落としていた日向が、そういえば、と口を開いた。
「次の練習試合、K大でやることになった」
「へぇ、こっから近いな。いつ?」
「水曜の午後から。お前来れるか? 一度会わせろってまわりがうるせーんだよ」
 二階から人の名前絶叫してくれやがってから、といまだに根に持っているらしいひと月以上前の出来事を持ち出してくる。苦笑して答えた。
「いや、すまん。ちょうど大学の図書館でバイトが入ってて。夜には帰れるんだが」
「そうか。ま、仕方ねぇな」
「今度また声かけてくれ。オレもいつかは見に行きたいからさ。K大は結構強かったんじゃないか?」
「あー、まぁ向こうも最近は本戦出れてねぇみてーだけど。今までの実績で言ったらな」
 つってもこちとら胸借りるだけで済ませる気はねぇし? と勝ち気に笑ってみせる。
 日向の通う大学はあまり運動部の活動が盛んではなく、どちらかと言えば学業優先の伝統らしい。バスケ部にしても公式の大会での成績は芳しくなかった。が、人数は少ないながらここ数年のチームには活気があり、短い練習時間を工面して良い雰囲気で勝利を目指しているという。
 そこに入部した日向は、何しろ「創立間もない新設校を全国制覇に導いた主将」である。大きな期待とともに迎えられ、高校時代の経験をもとに選手としてもサポート役としてもチームを盛り立て、今では部の中心の一人になっているようだ。無論、強豪と渡り合えない歯がゆさはあり、色々と難しいことも多いが、成長に貢献できるのは嬉しい、誠凛の頃とはまた違った意味でいい刺激になる、と語るまっすぐな目は、あの当時に隣で眩しく見つめたものと寸分変わってはいなかった。

「試合頑張ってな。明日は練習か?」
「おー。早朝練だぜ」
 この時期は体育館の予約が戦争だ、と笑って腕の時計を確かめるのを見ながら、そっと後ろに近付く。
「だから今日はそろそろ……っ?」
 言いかけるのをさえぎって横から肩を引き寄せ、顎を捕らえて、半開きの口にキスを落とした。凍りついたような一瞬の間のあと、力いっぱい胸を押し戻される。
「なっ……、い、いきなり何すんだてめぇっ」
「帰るって言われる前に先手でしちまおうと思って」
「アホか!」
 怒声が飛ぶものの、真っ赤な顔では今ひとつ迫力に欠ける。一回だけで終わるつもりが、その様子に逆に惹かれてもう一度頬に口を寄せた。
「バカ、だから帰るって……」
「五分だけ」
「だけ、じゃね……っ、ん、」
 咄嗟に引き結ばれた唇を上から覆うように口付ける。ゆるく啄むようにして重ねては離れ、ほどけた隙間から覗いた紅い舌に自分の舌先を少しだけ絡めてから、指とともに顎の線を伝って下りる。震える首筋を辿り、浮き出た鎖骨に行き着いて肌の窪みを濡れた舌でくすぐると、びくりと肩が揺れ、頭に無言の拳を落とされた。
 痛い、と漏らしたものの実際は大した強さではなかったが、ここが境界と見ておとなしく引き、愛撫を続ける代わりに背に腕を回して抱きしめる。わずかに身が跳ねたが、今度は制止の手は来なかった。
「お前な……」
「スマン」
 肩口にこぼれた呆れ声に謝罪を返しつつも、腕の輪はほどかない。日向も顔は上げないながら暴れ立てず中に納まってくれており、こうした戯れ自体を嫌がっているわけでもないことはわかっていた。夜遅いのは確かで、せっかくの時間に少しのんびりし過ぎてしまったな、と残念を覚える。
 恋人としての付き合いを始めてふた月。こうして腕に囲い、キスを交わすのはそれなりに日常のこととなった。九月に入った頃には一歩進んで、互いの肌に触れ合うようになった。延べた布団の上で向き合い、手の中に性器をすり合わせて昇り詰めるまでの、疑似的な行為も遂げている。が、その先の、言わば「本番」にはまだ至っていない。知識と準備のなさに加え、隣室の物音で壁の薄さに気付いた日向から泣きが入ったのが、ちょうど先週のことだ。木吉自身はあまり気にしなかったが、無理強いをして押し通そうとまでは思わず、そのままなんとなくうやむやになっている。
 短い髪に指を差し入れてそっと頭を起こさせ、眉間にほど近い額の上に口付けを落としてから、離れる体温を惜しみつつ抱擁を解く。悪態もなく視線をよそへ運ぶだけにとどめるのが、自分と同じ気持ちの表れだといい、と思った。
 
 
「じゃあ、気をつけてな」
「ん」
 玄関先で短く別れの言葉を交わし、廊下を歩いていく後ろ姿を見送ってから、ドアを閉める。本当は時間の延長を兼ねる意味でも駅まで送っていきたかったが、初めの申し出の折に子ども扱いするな、と不興を買って以来、ついでの用事がある時だけにとどめている。
 ドアチェーンを掛け、いつもの所作でノブまで手を下ろしたところで、ふと、気付いた。
(そうか、鍵が無かったから)
 一本しかない鍵を自分が持っていってしまったから、開け放しで無人にならないよう、家に残ってくれていたのだ。特に文句も言われなかったところを見ると、用事もないから適当に自分のことでもして待っていればいい、程度で終えてしまっていたようだが、申し訳ないことをしたと反省する。そういえば合鍵を渡してないんだよな、とも改めて思った。来る時は必ずなんらかの形で連絡があり、出る時にも一人か自分と連れ立ってであったから、あまり意識していなかった。
 次に会った時にもう一度謝ろうと決めつつ、言ってくれてもいいのに、と少し複雑な気分も浮かんでくる。前の彼女などは、付き合ってひと月もしないうちに合鍵をねだってきたものだ(結局渡さずに終わったのは、それとない催促に振られる間際の友人の指摘で初めて気付いたからだった)。まあ、こうしたことの早い遅いに正解と言える基準などないのだろうけれど。
(少しだらだらしちまってる、のかな)
 部屋へ戻って床にごろりと寝転がり、考える。だらだらしていると言うのか、ずるずる来ていると言うのか。あまり納得したくはないが、きっぱりと否定もできない。
 もともと友人同士で、三年に及ぶ密度の濃い付き合いを経たうえで、今の関係に至っている。だからこそ初めから非常に気安いし、今さら少々のことで互いへの理解がぶれることはない。だがだからこそ、改めて俎上に乗せず、素通りしている何やかやもある。これもそのひとつで、仲の深浅で線引きがされているのではなく、逆に、踏み越えるべき線が引かれていないからこその状況なのだろう。おそらく日向の中には、木吉の家の鍵を自分が持つという発想が、そもそも存在しないのだ。
 好き合えていて、恋人と呼べる関係であるのは間違いない。さすがにそこに自惚れはない。少しずつ確かに交誼も進み、日々は楽しく喜ばしい。
(不安とか不満とか、全然ねーんだけどなぁ)
 想い人である以前から、同性の親しい友人だった。そのことが、さまでの気がかりになるとは自分でも考えがたいのだが、なんとなく喉に小骨が引っかかったような、問題とまでは言えない問いを残した気分でいるのは確かである。
 とりあえず今度合鍵を作って渡そうか、と思い巡らせながら、さざ波のように寄せるまどろみに任せて目を閉じた。


      ◇


「倦怠期ってどんな感じなんだろうな」
 ぽつりと落とした言葉に、隣で本の背を押し込みかけていた指が止まる。機械のような直線的な動きで顔がこちらを向いて、え、と単音を漏らした。
「……ケンタッキー?」
「倦怠期」
 言葉をくり返すと、うわ聞き間違いじゃなかった、と動揺混じりに言って、まじまじと見上げてくる。棚に半端に刺さった本がぐらついていたので、横から手を出して奥へ収め直した。
 夏季休暇最後の週半ば、先日の会話の通りに日向はバスケの練習試合に向かい、木吉は友人と大学の図書館に来ていた。夏季休暇中に入ってきた書籍の整理のバイトで、月曜から三日間だけの臨時雇いだ。今日は最後の作業として、管理用チップを貼付し終えた本の書架収めをしている。図書館特有の静謐な空気の中、いきなり何、という返事も当然の状況ではあった。
 自分でもまとまりのない思考を頭の中で組み替えつつ、問いを重ねて返す。
「彼女と付き合ってどのぐらいだっけ?」
「一年半ぐらいだけど……。え? 倦怠期ってオレの話?」
「いや、違うけど」
「じゃあお前の話?」
「うん」
「え?」
「ん?」
 まさに寝耳に水、といった顔に見上げられ、数秒の沈黙ののち、あ、と気付いた。友人が半笑いの表情で声を落とす。
「聞いてないですよ」
「言ってないと思う」
 肯定を戻せば、うん、まあ、とぎこちなく認めた。
「……試験前から気配はあったと言うか、でもそのころ聞いた話と今の発言とを組み合わせるとちょっとあれってなると言うか」
「迷惑なら無理に聞いてもらうことはないんだが」
「いや、正直お前のそういう話興味あるから違和感はスルーする」
 で、倦怠期だって? と書架に向き戻りながら話を促してくる。どこまで察しをつけられているのかはわからなかったが、気遣いに甘えつつ口を開いた。
「オレがって言うか……今の感じが倦怠期ってやつなら、何かしたほうがいいのかとか思って」
「具体的にどんな感じなんだよ」
 問われ、数日前の小さな気がかりを思い起こしながら、具体的なやり取りや関係性はぼかして説明をする。うーん、と友人は考え込むように首をひねった。
「それは倦怠期とはだいぶ違う気がするけどなー。飽きた、とかマンネリで嫌になった、とかじゃないの、倦怠期って」
「だよなぁ」
 嫌になるはずなどないし、この先飽きが来るとも思えない。少なくとも自分のほうは、それぐらいに惚れ込んでいる。
「何が引っかかるのか、自分でも良くわからないんだよな」
「友達付き合いが長かったんなら、実際少しだらだらするぐらいは仕方ないんじゃね?」
 オレも大学入る前からの知り合いだけど、お互い空気みたいになることはある、と語る。それは別に悪いことじゃないと頷き合った。
「まぁ確かにそういうのがずっと続くと倦怠期ってやつになるのかもしれないけど。それこそマンネリ解消っつーか、なんか普段と違うことしてみる、ぐらいしか対策思いつかないな」
「そうか……セックスしたらなんか変わるかな」
「ちょ、真面目な顔でいきなりの剛速球やめて」
 直接的な単語に吹き出しこわばった顔が再びこちらを見上げ、
「え、付き合って二か月経つんだよな。……シてないんだ」
 やや気まずげに言うのに、ああ、と頷いた。
「まだペッティングまでなんだよな」
「やめて昼下がりの図書館で爽やかにやめて。あと言葉のチョイス若干どうなの」
 この三十分そこらでお前のそっち方面の印象だいぶ変わっちゃってんだけど、と言いつつ嫌悪感を覚えている様子ではなかった。木吉のほうも印象が違う、変わった、といった感想を述べられるのはそう稀なことでもないので、気にせずに言葉を続ける。
「とりあえず合鍵は渡そうと思ってるんだが」
「あー……まあそれはいいんじゃないの。そういう方面が重要なのは確かに間違いじゃないと思うし」
「でも壁が薄いからうちではシたくても駄目なんだ」
「とても生々しいですね……」
「せっかく独り暮らしなのにラブホって少し不経済だよな。宿泊だとバイト一日分ぐらい飛ぶし」
「やめて『やさしい会計学』片手にラブホの料金語るのやめて」


 心なしか顔を青くしつつも友人はしばらく会話に付き合ってくれたが、木吉の気がかり自体がはっきりとしていない以上、これと言った結論も出ず、場所が自習室の横に移って私語を交わしにくくなったこともあり、その場はなんとなく流れてしまった。
 全ての作業が終わった夕方五時過ぎ、タイミングを計ったように、携帯がメールの着信を告げた。
差出人:日向順平
件名:勝ったぞ
つっても二点差だし向こうのエースが
風邪で本調子じゃなかったみてーだが。
課題も収穫も見えたからまあ及第点だ。
今夜は合同で打ち上げ行ってくる。
 添付された写真には、試合終了後に撮ったのだろう、ユニフォーム姿でチームメイト達とガッツポーズをしている日向が写っていた。誰かに撮ってもらったもののようだが、自分自身の画像を送ってくるのは珍しかった。普段ならこちらがせがんでもせいぜい外した眼鏡の写真ぐらいしか届かない。
 文面では冷静にしているが、やはり真剣に競い合い掴み取った勝利はいつでも喜ばしいものだ。木吉の聞いた限りではこのところの試合で連敗してしまっていたようだから、盛り上がりもひとしおだろう。祝福とねぎらいの言葉をつづって返し、写真の中の満面の笑顔を見ながら、次は早めに日程を教えてもらってきっと見に行こう、と心に決めた。
 隣でこちらを眺めていた友人が、さっきメール来てたみたいだけど、とそれについて触れてきたのは、図書館を出た帰り道でのことだった。
「横から見ててさ、これ絶対倦怠期とかじゃないわ、と改めて思った」
 背景が花畑だった、と言う。そうかと頷くと、あと、と続けた。
「お前が気にしてるのは、なんか少し別のことなんじゃないかとも思った。だらだらしてるとか、ずるずる来てるとか、そういう感覚的なことじゃなくて」
「……そうなのか?」
「や、なんつーか、実はもっとはっきりした気がかりなんじゃないかと言うか……背景が花畑の割に、妙に真剣な顔だったからさ」
 自分では真偽のわからない指摘に、無言の目瞬きだけを返す。友人は頭を掻いて、ただの勘だからあまり深刻にしないでくれと語り、そこでちょうど駅への岐路に差しかかった。礼を言って別れた後も、家への道を歩きながらしばらくその言葉の意味を考えていた。


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