フロムマイディア



「木吉、最近なんかあった?」
 メールの送信完了画面を見届けて携帯を机の上に戻すなり、向かいに座った友人が訊ねかけてきた。
 テキストを開き直しかけた手を止め、ん? と首を傾げると、ペン先でぐるりと宙に輪を描き、
「お前って、もとからなんか背景にぽわぽわした花浮かべてる感じだけど、最近は特にお花畑的なものが見える気がするから」
 いいことでもあるのかと思って、と、そんなことを言う。
「あー」
 前半の喩えはぴんと来なかったが、後半の言葉には心当たりがあったので、肯定の意味で頷く。へえ、と問いが続いた。
「振られた彼女とヨリ戻ったとか?」
「いや、そこではないけど」
「だよなぁ」
 あっさりと打たれた相槌に目瞬きを返すと、だってさ、とまたペンを回して木吉の顔を囲み指してみせる。
「どう見ても『付き合ってる理由は断る理由がないから』の図だったし」
「あー……それはほんと申し訳なかったと思ってる」
「振られて正解?」
「振って正解、かな」
 まったく指摘のとおりであって、苦笑を返すほかなかった。告白も別れ話も相手からのもので、双方ほとんど痛手も残らないような短い付き合いだったが、こちらへの思い込みが多分にあったろうとは言え一時は本気で気持ちを向けてくれたのだ。それに返した自分の心のわずかさと来たら、今となれば平身低頭して詫びるしかない。
 とは言え、振られて正解、という言葉のほうも間違いではなかった。もしも別れる前にあの日の偶然が訪れて、自分の想いを改めて拾い上げたとして、実は三年以上前からそいつしか見えてませんでした、などと言えたかどうか。現金な人間とされてしまえばそれまでだが、後の憂いがなかったからこそ踏み出せた部分もある。

 かくて先へと踏み出した再会の夜、自分と「そいつ」であるところの日向順平は、物理的な帰着としては、翌日木吉の家で朝を迎えた。と、言っても色めいたことがあったわけではなく、おそらく互いに妙な部分のたがが外れてしまったのだろう、二軒目に飽き足らず高揚のまま三軒目までくり出し杯を重ね、双方酩酊状態でかろうじて終電の残っていた側の家に転がり込んだという顛末である。
 早朝、先に目を覚ましたのは木吉だったが、酒気のたちこめた蒸し風呂のような部屋の、テーブルから何から脇へ蹴倒された惨憺たる状態の床に、玄関を開けた勢いのまま倒れ込んだのだろう、大男ふたりが死人のように寝ている光景が目に入った瞬間には、さすがに閉口をした。服は当然家を出た時のまま、鞄は重ねて放り出され、靴の片方が廊下に上がりこんでいるという惨状の中、なぜか日向の眼鏡だけは棚の上にしっかり避難させられており、脱力が一周して感心すら覚えたものである。
 ともかくもと窓を開けて換気をし、目につく範囲のものを片付けた。顔を洗って部屋に戻ってきてもまだ日向は目を覚まさなかったので、改めて布団を広げ、その上にきちんと寝かせてやった。眼鏡がないからか、眉間の皺が取れているからか、少し幼く見える寝顔を眺めながら、木吉はひとつの決意を胸に固めていた。相手が憶えているにしろいないにしろ、昨夜交わした想いをなし崩しにするつもりも、うやむやにするつもりもなかった。
 そうして待つこと一時間のち、ようやく目覚めた日向の横に正座の背を伸ばし、おはようの挨拶に続けて、きっぱりと告げた。
『日向、好きだ。オレと付き合ってくれ』
 日向は半開きの目をこすりながら、ひとこと「おー」と声を返し、ふらつく足で立ち上がって部屋を出て行った。そして洗面所の戸が開き、閉じ、水を流す音と手を洗う音のあと、数秒家の中が静まり返り、戸がまた乱暴に開けられたかと思う間もなくどたばたと騒がしく駆け戻ってきて、木吉と同じ姿勢で正面に滑り込むように座った。寄せた肩と膝に置いた拳ががちがちに固まっていた。
『日向』
『わ、わかった』
 もう一度同じ言葉をくり返そうとしたのを制し、
『その、……よろしく、お願いしまス……』
 消え入るような声で呟いた、耳まで赤く染まった顔がたまらなく愛らしく見え、力の限りに抱きしめ二度目のキスをしてしまったのは、照れの極致の拳が来るとわかってはいても致し方ないことである。
 そんなわけで、晴れて「お付き合い」を始めるに至った自分たちだったが、その朝のうちに授業に遅れると言って飛び出していった日向を見送って以来、今日までの十日余りというもの、一度も顔を合わせていない。早々に仲が冷えた、ということでは無論なく、単純に二人とも試験期間に入ってしまったためである。世間的には暇な扱いの大学生と言えど、進級卒業のかかる単位の獲得には腰を入れて取り組まざるを得ない。
 とは言え、それから全く交誼を欠いているわけでもなく、
「なんかメール見てふにゃふにゃしてるのとは関係あんの?」
 と、いった状況のこの頃である。

「女の子から?」
「いや、これは……ほら、前の金曜の、店を頼んだときに会ってた」
「あ、高校の友達」
「ああ」
 頷くと、よほど「ふにゃふにゃ」していたらしい顔が気になるのか、どんなメールよ、と訊ねてくる。先ほど返信したメールの元を見返し、まあこれならいいかと携帯を前へ向けた。友人は画面を覗き込んですぐにふはっと笑いを吐き、
「……ごんぶとだな」
 そうひとこと感想を漏らした。
 表示したのは文章ではなく添付されていた画像で、近世史のテキストからとおぼしき、名もなき農民の絵を写真に撮ったものだ。良くある絵巻物の図なのだが、横に「腹減った」とぞんざいな吹き出しが飛んでいるうえ、農民の眉毛が黒ペンでこれでもかと太くされている。眉と言うよりほとんど食卓の焼き海苔である。
「高校って、バスケ部の仲間とか?」
「ああ。主将だったやつなんだ」
 それぞれ自分のノートに視線を戻しながら、話を交わす。文化部一辺倒で、木吉や誠凛バスケ部の名はもちろん、高校スポーツ界全体に全く無知識であったらしい友人は、青春って感じでいいよなぁ、としみじみした声音で呟き、続けて言った。
「で、その主将が眼鏡なわけか」
「……なんでわかったんだ?」
 思わず顔を上げれば、いやいや、と笑いが返る。
「そのメールにその落書き返してたら、誰でもそう思うでしょ」
 指差す先には、先ほどのメールに写真を添付した小さな絵。豪快にずれた眼鏡と、「オレも」という吹き出しを木吉の手で書き足された、人物の肖像である。
 勉強中にお前が写真撮ったりメール送ってたりするの珍しいなーと思って、と語る友人にそうだなぁと相槌しつつ、手元の携帯を見下ろす。


 始まりは、木吉の送った一通のメールだった。
 玄関前での慌ただしい別れから三日。居酒屋での会話で互いにすぐ試験期間に入るのを知っていたこともあり、次の約束はもちろん、その他の連絡も一切交わしていないことを不安には思っていなかったが、一種の欠乏感と言うのだろうか、ふとした一瞬に、かすかな物寂しさを感じるようになった。それは昔の出来事を思い出す景色を見た瞬間であったり、もしあいつが隣にいたらきっと何かの反応を示すだろうな、と思うような場面に遭遇した瞬間であったりした。数か月に渡って会わない日を一年以上も普通に続けていたというのに、成就した途端にこれなのか、と人間の心の単純さに感じ入るとともに、“大学生の日向順平”の生活について、店で話に乗せた以上のことを、今の自分はほとんど何も知らないのだ、と改めて気付かされた。思い出すのも想像するのも、高校の頃の彼の姿だった。
 人の少ない早朝のキャンパスでそれに出会った時も、その困惑とも焦燥ともつかない気持ちがふっと顔を覗かせた。夏の暑さが不意に身を鎮めた心地よい風の吹く朝で、一限が始まるまで、と木陰のベンチに腰掛けていたところに、脇の繁みから一匹の猫が這い出てきたのだ。
 猫は木吉に気付いても逃げる姿勢を見せず、逆にベンチを前に回り込み、投げ出していた足にじゃれるように近付いてきた。伸ばした手で首元を撫でてやれば、もっととばかりに身をすり寄せてくる。もともと動物に好かれるたちなのか、昔から良くあるたぐいの出来事だったが、今はなごむよりも先に、猫好きでかつ本人もどこかそれに似ている人物の顔が思い出されてしまい、苦笑が漏れた。
 そうして、そうだ、あいつに見せてやろう、と思った。少しずつ胸に溜まっていく気持ちと、一瞬の思いつき。始まりの理由はしいて挙げればそんなところだった。
宛先:日向順平
件名:おはよう
大学で猫に会ったぞ。
早起きは三文の得だな!
 何枚か撮ったうちの一番いいアングルの写真を添付し、簡単な文章とともに送信する。完了画面を見届けてから猫に別れを告げて立ち上がり、さてどんな反応が返ってくるだろうか、と期待膨らませながら教室へ向けて歩き出した。
 返信があったのは二限の授業のさなかだった。気になって机の上に出していた携帯をすぐに取り上げ、目にした内容がこれである。
差出人:日向順平
件名:Re.おはよう
部のOBから差し入れもらった。 
泣いて羨ましがれ。
 妙にとげとげしい本文の下に貼られていたのは、和菓子の名店の号が入った包みと、数量限定で売り出され、手に入ったら奇跡とさえ言われる、知る人ぞ知る一品として名高いどら焼きの写真だった。う、と思わず声が漏れる。
 木吉としては、猫好きの日向のことだから写真を見たら喜ぶだろう、と単純に想像していたのである。まあ素直にそうとは言わないにしろ、何か彼らしくわかりづらくわかりやすい、相応の反応があると思っていたのだ。
 が、当人はこちらの思う以上に好きをこじらせていたのか、猫が足にじゃれつき、撫でられて目を細めている図を送られて、「自慢された」と受け取ったらしい。はるか明後日の方角から放り込まれたその応えをさすがに予想してはいなかった。お陰で授業が終わるまで腹の虫が鳴きやまず、まわりの注目を浴び続ける羽目になり、日向の(一方的な)逆襲は見事に成功したと言えるだろう。


 結果こそ珍妙なやり取りに終わったものの、懲りた、とは思わなかった。むしろまったくの逆だった。こうしたメールの行き来が新たな日々の習慣に加わったのだ。
 交わすメールは実に他愛のない内容のものばかりだった。数もそう頻繁にではなく、日にせいぜい一度か二度、送って返しての一往復か、長くても二往復で終わる程度のやり取り。初めのメールを下敷きに、その日見つけた妙なものであるとか、なにげない道端の風景、食事の写真など、大小さまざまな画像に短いひとことを添えた形式が多かった。
 初めの三日までのメールは全て木吉から送ったものだったが、次第に日向の側から送られるメールも増えた。たとえば、こんなやり取りがあった。
差出人:日向順平
件名:バッシュ
バイト代入ったから明日買いに行く。
どっちにするか迷ってる。
 寝る間際の時間にそんな文章とともに送られてきたのは、ショップのチラシを撮影したとおぼしき、日向の愛用するメーカーの二足のバッシュが並んだ写真だった。形はほぼ同じだが、細部のデザインとカラーリングが異なり、それぞれに違った印象を受ける。
 少し考えてから、返信をした。
宛先:日向順平
件名:オレも新しいの買いたい
新モデルかっこいいな!
オレなら左かな。
 その夜はそれだけの会話で終わり、携帯が新着メールを知らせたのは翌日の午後だった。「買った」とだけ書かれたメールに添付されていたのは、箱に詰めた紙から覗く、真新しいバッシュの写真。チラシの右側に写っていたデザインのものだった。すぐに返事の文を作って送る。
宛先:日向順平
件名:オレなら左だったけど
やっぱり日向には
そっちのほうが似合うよな!
 やがて一分も経たないうちに、「テメェやりやがったな次は憶えてろ」という剣呑な文章と、牙を剥いて今にも飛びかかってきそうな猫の写真が送られてきた。
 日向は肝心なところで人の言葉に左右されるような人間ではないから、きっとその時も最終的には自分の目で見て決めたのだろう。そのことは隠して、お前が薦めたのとは違うほうにしてやった、と(木吉にしてみればいささか妙な理屈で)ふんぞり返るつもりが、同じ意見だったと知って面食らったらしい。多分に照れもあったのだろうし、あいつアルバムに「猫」っていうフォルダ作ってせっせと画像溜め込んでるんだろうなぁ、と思うと、怒気にひるむより先にほほ笑ましさを覚えた。


 二人そろって本来はそう筆まめなタイプの人間ではなく、高校時代に送り合ったメールと言えば、立場上、事務的な連絡が大部分を占めていたから、ほとんど用件のないようなやり取りは新鮮でもあったし、何より楽しかった。日々の些細な習慣の中に彼の名がある。それは取りも直さず、今の互いの存在が、日常の一部になったということだった。同じ学校に通う生徒ではない、同じチームの仲間ではない彼が、それでも伸ばす手の届き得る存在として、いつもこの心の傍らにいるということだった。
 気付けば困惑は胸の中から消えて、入れ替わるように、穏やかな思慕の念が一日一日積み重なっていった。もっと早く近付きたいと急く気持ちもないではなかったが、何しろそうして一足飛びに距離を詰めてしまって以来、三年以上の長きに渡って温め続けた想いである。今はわずかでも確かな変化に感じる喜びのほうが強かった。メールはその目に見える証のようなもので、互いの指に結び直した新しい糸を、自分はもちろん、日向の側からも、切れないように離れないようにと大切にしてくれているのが嬉しく思えた。送るのも返すのも、二人だから成せることなのだ。

 まあなんにせよ幸せそうでいいんじゃね、とあまり踏み込まずに頷いてくれた友人と別れ、帰宅したその夜、提出の迫ったレポートを書いているところに、また携帯が鳴った。
 表に返したディスプレイの表示を辿ってメールを開くと、差出人にはなじみの名前、本文には前置きも何もなく、三、四行の英文が書かれている。少し複雑な構文の混ざった、ビジネス書から抜いたような文章だ。なんとなく出元に察しをつけながら、ちょうど机に出していた辞書を使い、適当に訳して送ってみる。
「いまだに駄目なんだな」
 帰国子女の後輩を妙な英語で怒鳴りつけていたこともあった、と思い出し、ふっと笑いがこぼれた。今も、眉間に深い皺を寄せて、ぶつくさと言いながら机に向かっているのだろうか。
 一通また一通と届くメールが溜まるにつれ、頭に浮かぶ日向の姿が、少し色あせた思い出の中のそれから、同い年の大学生の姿へと少しずつ塗り変えられていく。変わらないものもあれば、変わったものもある。あれほど近く並び立っていたというのに、知らなかったことが山ほどある。少しずつ少しずつ、この手の中に、この心の中に、彼と分かち合うものが、彼という存在が、増えていく。
 最近交わしたメールと、その向こうにあっただろう様々な表情を穏やかな気持ちで思い浮かべていくうちに、ふ、と思考があの日の夜に行き着く。そっと唇を離したあとの、赤みの差した頬と、少し困ったような、しかし確かに同じ想いの宿るはにかんだ笑みが鮮明に思い出されて、やばい、と机に顔を伏せた。音立てて天板にぶつかった額の痛みは、騒ぎ始めた胸の鼓動を鎮めてはくれない。
 急いているわけではない。が、不安がないことと、まったくなんの不足もなく満ち足りていることとはまた別なのだ。人間の(ことに、健康なハタチの男子学生の)心はいつの日も単純で面倒で、贅沢だ。
(あと三日)
 ちらりと視線を上げてPCに表示された今日の日付を確認し、最後の試験日までの時間を数えて息をつく。自分の思いがけないこらえ性のなさも、この十日で初めて知ったことかもしれない。
 目下の課題となったレポートの完成は、一分後、「むかつく」とたった四文字の理不尽きわまる言葉が返ってきたことでどうにか頭が冷え、事なきを得た。続くやり取りはなかったので、送った訳文を日向が自分のノートに書き写したのかどうかはわからないままだった。



 三日後。
 最後に控えた試験は週に一度きりの六限の科目だった。最終日にこんな時間まで残らなきゃならないなんてついてないな、などと話しながら教室へ向かう。
 日向には二日前の夜、違う話題のついでに今日で試験が終わることを知らせておいた。特に何を催促したわけでもない文章だったが、日向も自分の予定を教えてくれた。いわく、「オレは明日終わる。明後日は午後から他校で練習試合。楽しみだが身体なまり過ぎてる」。つまるところ、今日の今日で会うのは難しいということだ。
 まあ仕方ないよな、と今日はまだメールの行き来がない携帯を鞄にしまい直し、明日以降に改めて声をかけようと決め、目前の試験に臨むべく教室の戸を抜ける。いつものように一番後ろの席へ向かって階段を中腹までのぼったところで、まだ人のまばらな教室に、ひとつ、声が通った。
「ねえ見て、すごい夕焼け!」
 反射的にそちらへ集まった注目を追うように、木吉も足元に落としていた視線を上げ、窓を見やった。おー、と隣で友人が感嘆の声を漏らす。
 燃える夕陽に染め上げられた空。ゆるやかに流れ行く雲。赤に橙に紫に、にじみ移り変わる色相のうつくしい、見事な黄昏の絵。
 窓の向こうに広がった、昼が夜へと転じる一瞬間の情景に、強烈な既視感が湧き上がる。波が打ち寄せるように、あの日、あの時を思い出す。暮れ行く陽に染まった静かな病室で、彼が拾い上げてくれた小さな心が、ことことと、胸の奥で揺れを立てる。
「木吉?」
 呼びかけに我に返り、そうだ、と思い直す。もうメールを送るまでの間はないかもしれないが、今撮らなければ消えてしまう。
 この夕焼けを、あいつにも一緒に見てほしい。
 焦る手で鞄の中をかき回し、つい今ほどしまい込んだ携帯を指先に見つけた瞬間、その下から振動が伝わった。何も今このタイミングで、と歯がゆくも思ったが、表示されたメールの差出人の名を見れば、開かないわけにもいかない。
差出人:日向順平
件名:(無題)

 一瞬、誤って送信したのだろうかと思った。これまで、件名のないメールや文章のみのメールはあっても、まったくの空白のメールが届いたことはなかった。サイズの大小によるのか、いつもなら本文の下にそのまま表示される画像も、ファイル名だけが貼り付いている。
 首をひねりつつ、添付された画像を開く。読み込みを示すプログレスバーがゆっくりと伸びていき、端まで行き着いて、画面が切り替わる。あ、と声が漏れた。
 広げた掌の上に現れたのは、窓の向こうに浮かぶ絵と寸分違わぬ、夕焼けの空だった。
 ずくりと心が跳ねる。それは痛みに良く似た、けれども限りなく優しい、幸福な動揺だった。同じ空を見上げていた。同じ相手を思っていた。今この瞬間、確かに重なった想いとともに切り取られたのだろう、手の中の鮮やかな景色を、強く握り締める。
 忘れられない空の色が、また新しい意味を加えて、もう一度、自分と彼との思い出になる。

 弱さに定評のある涙腺のネジがゆるみかけるのを、友人からの二度目の呼びかけでなんとかこらえ、一番窓ぎわの席に座った。写真を表示させたままの画面と、窓向こうの空とをもう一度見比べて、ふと、気付いた。寸分違わぬ画。それもそのはずだ。見えるものが完全に同じなのだ。方角も、写り込んでいる建物も――そうまで考えて、がたりと椅子を蹴立てて立ち上がる。まさか、まさか。
 三度目の呼びかけには振り向かず、窓に飛びつき開け放した。写真の端には赤レンガの壁が写っていた。見たことがあるどころか、それは今目の前にある図書館棟そのものだ。暮れなずむ視界に目を凝らす。二階の高さから見下ろす人の群れの中に、果たして、その姿はあった。
「ひゅーがぁーっ!」
 不意の大音声に人の流れが一瞬止まる。ひときわ大きく肩を跳ねさせて、彼がゆっくりとこちらを振り向く。大学名の入ったジャージに大きなスポーツバッグ。あの頃とは違う。けれど見誤るはずもない。
「練習試合、うちの大学とだったんだな! オレ、次で終わりだから、良かったら一緒にメシ行こーぜー!」
 窓枠から身を乗り出し、運動部仕込みの声を張り上げた。唖然とこちらを見上げる顔にぶんぶんと手を振れば、同じジャージを着た幾人かが、なんだなんだとまわりに集まり始める。それはこちらの教室でも同様だった。瞬く間に注目の的となった日向は、顔を写真の空に負けないほど真っ赤に染めて、視線から逃れるように図書館棟のほうへと駆け出していった。その姿が完全に死角に入ってしまうまでを見届けて、席へ戻る。
「……眼鏡の主将?」
 隣で顛末を見ていた友人の問いに、おう、と笑って頷いた。

 おそらく、当初の日向の思惑では、練習試合が木吉の大学であることをわざと黙っておき、試験の終わりを見計らって教えて驚かせてやろう、ということだったのだろう。だが種明かしの前にあの夕焼けを見て、その瞬間の自分と同様、衝動的にメールを送り寄こしてしまったに違いない。まさか、すぐ隣の棟、ほとんど真上の教室に、送った先の当人がいるとも知らないで。
 悪ふざけの詰めの甘さが逆にらしく思えて、くすくすと笑いを噛んでいると、また携帯が鳴った。
差出人:日向順平
件名:何してくれてんだこのボケ
てめぇのせいで死ぬほど笑われた。
鉄心の名前出しまくって説明してやる。
ざまぁみろ。

七時半まで食堂の一階にいる。
一分でも遅れたら帰るからな。
 読み終えてすぐに教授がやってきてしまい、返信はできなかったが、どちらにせよ日向はちゃんと待っていてくれるはずだ。これは先ほどの木吉の誘いへの返事なわけで、一往復はひとまず終わっている。
 一通ごとに、一日ごとに、想いが積み重なっていく。言葉を届け、受け取るごとに、より強く、より深く、好きになる。人の心は単純で、思った以上に果てがない。
 始業一分前。問題と解答用紙の束が回り、お定まりの試験の注意事項が言い並べられていく。黒板に大きく書かれた途中退室可の時間は試験開始から三十分後。どうせ授業で聞いたことを答えるだけの、毎年傾向の変わらないペーパーテストだ。見直しの時間を余分に見ても、七時までには充分終わる。

 お前がくれるものなら、ほんの数文字の言葉でも嬉しい。
 だけどやっぱり、そろそろ顔を見て話したい。声が聞きたい。
 もっともっと沢山のものを、これから二人で分け合っていきたい。

 一秒でも早く愛しい恋人のもとへ駆けつけるべく、始め、の声を少しだけフライングして、ペンを取った。


-fin-
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