こねこねた
こねたその1・若緑のころ
「あ、リコねーちゃん」
その日、泉乙女のリコが森深くの神殿へ向かって歩いていると、空け地に出たところで横からぴょこりと小さな黒ねこが現れました。
「あら日向くん、こんにちは」
リコは森に暮らす精霊ではありませんが、古馴染みの森の主人から術や勉強の先生を頼まれて以来、この見習い神さまと親しく付き合っています。俺の家族になったんだ、と小さな子どもたちを紹介された時には大変おどろいたものですが、今ではリコも姉弟のように二人と仲良くしていました。
こんにちは、とお辞儀をしたちびねこの日向は、もじもじとしっぽをいじる仕草をしてから、思い切ったように顔を上げて言いました。
「えっと、ねーちゃん、ケッコンおめでとう」
「あら、知ってたの?」
「木吉に聞いた。伊月も知ってる」
「そう。ごめんね、言うのが遅くなっちゃって」
森に来るのは久しぶりで、今日はちょうどそのことを子どもたちに教えるつもりでいたのです。木吉はリコに懐いている二人には言いづらいと気にしていたので、もう知っているというのは少し意外でした。
「となりの国に行っちまうの?」
「ええ」
「そっか」
いつもの様子で頷きますが、耳の先はしょぼんと折れています。話せていなかったことを心苦しく思いながらも、寂しがってくれているのは少し嬉しく感じてしまうリコです。そんなに遠くない場所で勉強も今までどおり見に来れるから、と教えると、ほんと、と目をきらきらさせるので、思わず手を伸ばして小さな頭を撫でました。少し恥ずかしそうにしてから、こちらを見上げて訊ねてきます。
「木吉に用か?」
「ええ。本を持ってきたの。家のほうにいるかしら」
「さっき見たときはいたぞ」
頷いて答えた日向が、あ、と何やら気付いたように声を漏らして、ぱたぱたと手を振ってリコを呼びます。
「なあ、リコねーちゃん」
「なあに?」
「あの……、あのさ」
しゃがんで傾けた耳へ小さな手を寄せて、そっとささやかれた思わぬ言葉に、リコは目を丸くしてこねこの顔を見つめたのでした。
「おーリコ、久しぶりだな」
小使いの木霊に案内された奥の部屋で、森の主・木吉は文箱の中身を整理していました。床に広げられた手紙の束を踏まないように歩み寄って、抱えていた風呂敷包みを開きます。
「頼まれてた本、持ってきたわよ」
「ああ、ありがとう。散らかってるが適当に座ってくれ」
差し出した綴本を木吉が受け取ると、ちょうど木霊がお盆にお茶を乗せてやってきて、てきぱきと座布団を準備してくれました。
お礼を言って座り、お茶を一服かたむけて、ふうと息をついてから、ねえ、と切り出します。
「鉄平。あなた、日向くんと何かあった?」
「え?」
「さっき外で会って、すごく気になることを言われたんだけど」
「気になること……?」
くり返すのにひとつ頷いて、そのときの面映げな、そして少し自慢げな言葉を再現します。
『あいつのひざの上、おれのなわばりにしたから、ねーちゃんも乗ったらだめだからなっ』
「――って」
「日向にひそひそ話してもらったのか……羨ましいな」
「ええそれはもう可愛かったわね。でも今の問題はそこじゃないわ」
斜めにずれたいつもの言葉を受け流して、
「あの日向くんが突然こんなこと言うなんて、何かあったとしか思えないでしょ」
ぴしゃり指摘すると、確かにと思うところがあったのでしょう、木吉は苦笑を浮かべました。
三年前からお前なんかとずっと木吉に毛を逆立たせていた日向ですが、一年もたたないうちにこのとぼけた森の主人にほだされて懐いてしまったのは、はたから見ても明らかでした。初めの頃の態度と意地っ張りな性格のために素直にそうとは言わずにいても、根が正直で嘘のへたな子なので、まるで隠せていないのです。それはそれでほほえましいのですが、先ほどの言葉はさすがに聞き流してはいられません。
じとりと見つめるリコの目から視線をそらすこともなく、はは、と木吉が笑います。
「心配しちまって可愛いなぁ。俺がそんな馬鹿ことするわけないのに」
「向こうには相手がいるだろ的な意味で? 俺の膝はお前のだよ的な意味で? あいつなんか膝に乗せようとしたら命がいくつあっても足りないだろ的な意味で?」
「ははは」
早口の問いを笑いで濁す木吉に息をついて、ともかく、と話を戻します。
「何かあったんでしょ? 嫁にもらってやるとか言ったんじゃないの?」
「いやぁ、リコには敵わねーなあ」
「まさか当たりなの……」
さすがにこれ以上のことは、と思っての問いに否定が返ってくるどころか、木吉はそのさらに上の答えを口にしました。
「日向のほうから、嫁になってやるって言ってくれたんだ」
俺たちだけの秘密のつもりでいたから内緒にしてくれな、といつにも増してゆるんだ表情で言います。強い神さまにはとても見えない目じりの下がりきった顔に、冗談でもなんでもない何かがあったのだと悟ってしまったリコは、細い肩をかくりと落としました。
「将来あの子の結婚式の日に『実はリコ姉ちゃんが俺の初恋の人だったんだ』って照れながら打ち明けてもらうのが夢だったのに……」
「あー俺もそんなようなことは思ってたなぁ」
でもよく考えたら本人をもらえたほうがずっと嬉しいし、と悪びれなく言うので、もう文句をつける気力もわきません。
「いい鉄平、いくら日向くんから言い出したことでも、まだあんなちっちゃな子なんですからね。滅多なことにならないようにしてよ」
「わかってるって」
「まさかあんたが光源氏なんて考えるとは思わなかったわ……」
忠告もしっかり気に留めているのだかいないのだか、にこにこと答える様子にもう一度深いため息を落とします。すると、ぽつりとこぼした言葉に木吉がふっと笑みを収めて、なあリコ、と呼びかけてきました。
「木霊たちも話してて気になってな……訊きたいことがあるんだが、いいか?」
「……なに?」
真剣な表情につられるように姿勢を正して問い返し、
「その、『光源氏』ってなんなんだ?」
すぐにそれを後悔して、しまったいらんこと言った、と額を押さえる泉乙女でした。
リコが訪れてから五日後の夜。手紙の整理も終わってすっきりとした部屋の入り口に、ひょこ、とこねこが顔を出しました。
「お、日向。もう風呂入ったのか?」
「……おう」
書見台に向かっていた木吉がすぐに気付いて声をかけると、戸口から顔を半分のぞかせたまま頷き、そわそわした様子でこちらをうかがっています。くすりと笑みを噛み、
「そんなとこで立ってたら冷えちまうぞ。ほら」
おいで、と手招きすると、一瞬駆け出しかけてからすぐあっと気付いたように足をゆるめて、気は進まないけど、といった表情まで用意してゆっくりと歩み寄ってきます。逆に意識しているのがはっきり伝わってくるのですが、あれこれ言うと拗ねてしまうのがもう木吉にも良くわかっていましたので、そばに来るのを黙って待ちました。
「本読んでんの」
「ああ」
少し迷う顔を見せたので、頷きながら書見台をどけて、前を空けてやります。長いしっぽをぴんと立てているのは、何かをねだるときの合図です。そして、このこねこの最近のおねだりは、いつも同じ、ほんのささいなことでした。
「おいで、日向」
呼びかけると、一度しっぽを揺らしてから、差し出した手に沿って、つい先ごろ自分のものだと決めた「なわばり」に上がり込んできます。口を難しげにへの字にしたままですが、これは怒っているのではなく照れてしまっているだけのようでした(そうと気付くまでに何度かややこしいやり取りがあったのは言うまでもありません)。まだまるみのある頬がほんのり赤くなっているのを目を細めて見下ろしながら、左脚の上にちょんと座ったねこの小さな背を腕で支えて、もう片方の手で台から取り上げた本を開きます。
「なに読んでんだ?」
「昔の貴族の話だよ」
「ふぅん」
戦記物語の好きな日向にはあまり興味がわかなかったようで、すぐに下へ目を戻してしまいました。手元には木吉が背から回したオオカミのしっぽがあって、それをもしょもしょといじっています。
ぼさぼさにしていたのをだらしないと注意してきたのが始まりで、仕方ねえからおれが毛づくろいしてやるよ! といかにも恩を売ってやってるんだぞといった顔で言うのですが、ねこの習性なのでしょうか、ふわふわと豊かな毛がすっかり気に入ってしまったらしく、こうして膝に乗っている時の決まりごとのようになっていました。今では毛づくろいなんていらないぐらい、むしろ、あまり熱心にいじるので逆にくしゃくしゃになってしまうぐらいでしたが、自分のしっぽを抱き込んで満足げにしている様子が可愛らしいので、させるままにしています。
しばらく二人そのまま自分の仕事に集中して、やがて本の一章を読み終えた木吉は、毛を揉むのに夢中になっている日向に静かに問いかけました。
「――なあ、日向」
「ん?」
「俺の嫁さんになってくれる話だけど、いつごろがいいかな?」
「えっ」
こちらを見上げた日向が手をぴたりと止め、目をまんまるにします。
「な、なんだよいきなり」
「早めに決めちまったほうがいいかなって」
延ばす理由もねーし、俺としては早いほうがいいと思うんだが、と言うと、ぽふん、とゆで上がったように顔を赤くします。
「あの、でも」
「ん、嫌か?」
「い、いやじゃねぇけど、おれまだチビだし、立派になってねぇし……それに、ねーちゃんが『庭の沈丁花より背が大きくなるまでは結婚できない』って言ってたぜ」
「お、先手を打たれてたか」
さすがリコ、と笑います。それは嘘だと言っても、そうしたところでの信用は(少し悲しいことに)木吉よりリコのほうがずっと上なので、話がややこしくなるだけでしょう。
「じゃあ、沈丁花より背が高くなったら結婚しような」
「え、あ、でも、あの木も、そんなにでっかくないだろ。あれでお前と並ぶとすげー弱っちく見えそうでやだ。おれ、もっとでかくなるし」
「んー、どのぐらいになったらいいんだ?」
庭の沈丁花も五尺ほどの高さはあります。それぐらいなら、と思いつつも訊ねると、
「お、お前と同じぐらい……」
「それは困るな!」
「早っ」
なかなか難しい答えが返ってきたので、すぐさま却下しました。日向は今の体格から言っても木吉ほどまでは大きくならなさそうでしたし、もしなったとしても、だいぶ間のありそうな話です。
なんだよ、と不満げに頬をふくらませるのをなだめるように笑いかけ、
「弱っちいなんて誰も思わねーさ。嬉しいことは早いほうがいいだろ? 俺は日向が嫁さんになってくれるのがすげー嬉しいから」
そう言うと、日向はにゃ、とねこの声を漏らして、抱えたしっぽの中に真っ赤な顔をうずめてしまいました。そのまま、もにょもにょと呟くように言います。
「ちょっとぐれーなら、早くしてやらねぇこともねーけど……」
「そうか。楽しみだな!」
にこにこと返せば、だぁほ、と小さな声がしっぽの中にこぼれ落ちてきましたが、照れ隠しなのはもちろん知っています。なにしろ根の正直で素直な子なのです。木吉が突然こんな話を始めることになったのも、ひとつはそれが理由でした。
五日前、実に気の進まなげな顔でリコが教えてくれたのは、古い物語の主人公の名前でした。さっそく木霊の持っていた草紙を借りて読んでみると、どうやら幼い少女を拾って理想の女性に育て上げようとしたのを、日向を拾った木吉と重ねての彼女たちの指摘であったようです。
(あんまり参考にしたい話じゃねーけどなぁ)
ひとりのお嫁さんを大事にするオオカミとしては、やたらに移り気な主人公の行動はとても理解できないものでしたし、幼い頃の憧れや、理想の恋人の姿を追っているということもありません。
しかし全く感じるものがなかったわけでもなく、これは、と思うところもありました。それは華やかな主人公の、むしろ失敗談として語られている部分で、この光る君はうかうかとしているうちに、自分が気にとめた女性を何度か横から取られているのです。そうした場面を読みながら、もし、と木吉は考えてみたのでした。
もし、このこねこを誰かに取られてしまったら?
日向は利かん気が強く、誰にでもすぐに親しむような子どもではありませんでしたが、一度気を許した相手はとても大切にして、深い信頼を寄せています。いい意味でも悪い意味でも大変まっすぐな性格をしていましたので、そんな真正直なところを好ましく思う一方で、木吉は少し心配もしていました。警戒心が強いようでいて、少し悪知恵の働く大人にはすぐにだまされてしまいそうな気がしたのです。日向自身は見目の良い親友の伊月のことを気にかけているようでしたが、危なっかしいという点では伊月より日向のほうがずっと不安なところがありました。
できるだけ早いうちに、自分のこねこなのだとみんなに知らせてしまわないと、どんな不埒な大人が出てくるかわかったものではありません。
「……木吉?」
「ああ、すまん」
思わず背に回していた腕に力が入ってしまい、やっとしっぽから起こした頭を横へ傾げて見上げてくる日向に、なんでもないと笑って返します。
(ちゃんと守るから、大丈夫)
ほかの誰かに、なんて想像したくありませんし、もちろん渡してしまうつもりなどほんのわずかにだってありません。
木吉の様子を気にしているのかぴこぴこと落ち着きなく動く耳ごと、小さな頭を撫でてやると、日向は気持ちよさそうに目を閉じ、木吉の胸元に寄りかかるようにして、くるくると喉を鳴らしました。そうです。こんな愛らしいこねこの姿を、いったいほかの誰に見せてやれるというのでしょう?
この話は教訓として考えよう、と決めつつ、リコや木霊たちが語ったような意味についても少し考えてみます。物語の主人公は幼い少女を憧れの人に重ねていました。木吉もそうして日向を自分好みに育てようとしているのか、というのが、彼女たちの問いだったわけなのですが。
(俺の好みって言ってもなぁ)
これまであまりそうしたあれこれを意識したことがありません。じゃあ、と別の方向から、日向がどんな青年に、大人に育っていくのかを考えてみます。
ぶっきらぼうで、口が悪くて、いつも怒っていて、だけどそれはまっすぐで優しい心の裏返しで。意地っ張りで強がりだけれど、ちょっと臆病なかわいいところもあって。口うるさいぶん面倒見が良く、木吉の見過ごしがちなところにすぐに気付いて、仕方ねぇな、などと言いながら少し嬉しそうにも見える様子でいつもいろいろ手伝ってくれます。早く大事な仕事ができる立派な神さまになろうと頑張っているのが良く伝わってきました。
「うん。そのまま育ってくれな。日向」
「……は?」
うんうんとしきりに頷く木吉に首を傾げる日向は、少し眠たげな顔をしていました。なんでもないと答えた木吉を怪しいと疑ってくることもなく、丸めた手でこしこしと目をこすっています。
「もうこんな時間か。そろそろ寝ような」
「んー」
「寒いから一緒に寝るか?」
「また湯たんぽ代わりにする気だろだぁほ……」
あくびとともに言いながら、手はこちらの着物をきゅっと掴んでいるのですから、「仕方ねぇからなってやる」ということなのでしょう。もう夢の中に入りかけているのか、むにゃむにゃと鳴き声まじりに呟いているのがかわいらしくて、思わず額にちゅっと口を寄せてしまいます。
あ、こういうことするとまた何か言われちまいそうだな、と思いましたが、でも今は俺たちしかいないし、すぐ嫁さんになるんだし、と頷いて自分に「可」を出しました(きっと昔馴染みの泉乙女が聞いたら半日ほどの説教に見舞われるに違いありません)。
「きよし……」
「ん?」
すっかり力の抜けた小さな身体を腕に抱えて立ち上がると、ふにゃりとした声で名を呼ばれました。
「おれ、早く立派になる、から……」
とろとろと言って、すぐ寝息を立て始めます。
「うん。待ってるよ」
昔語りの浮気者のように目移りなどしたりしないから、あせらず伸びやかに、大きくおなり。
祝福を込めてもう一度額に口付け、ひとつ奥の寝所へ向かいながら、いやでも、と考えます。
(日向をあせらせることは全然ねーけど、あんまりゆっくりでも困っちまうな。やっぱり根回しだけは早めに……沈丁花の木霊には急に気まぐれ起こして伸びたりしねーように頼んどかないと。そういえばこのあいだ挨拶に来た若い山猫のやつ、日向のこと妙に気に入ってたみたいだったよな。隣から越してくる話は断ろう。あーそれにしてもちょっと危機感がなさすぎるよなぁ。まあ俺にだけなら全然いいんだけどな。膝にもずっと乗ってきてほしいし、一緒に寝たいし……。うん、そこはそのまんま育ってほしいよな)
自分でも気付かないうちにくだんの主人公と同じ道を行きつつある主神さまですが、残念ながら、それを指摘できそうな人はここにはいません。
「今からくっつくのに慣れちまえば大人になっても……」
「うにゃ……きよしぃ」
たった一人にご執心なぶんより根が深いかもしれないオオカミの心などつゆ知らず、その大きくてあたたかな腕の中で、こねこは今日も幸せな夢にまどろむのでした。
めでたしめでたし?
こねたその2・こねことしっぽとオオカミと
ぽかぽかと日差しのあたたかなある日の昼下がり、木吉は日向と並んで(と言いますか日向が座っていたところに横から加わって)縁側に腰かけていました。
大人のように眉間にしわを寄せて、うなりながら算術の本とにらめっこしているのをほほ笑ましく見ていると、ふと、後ろに垂れた長いしっぽに、弓の練習の帰りに付けてきたのでしょうか、草の切れ端や毛のような細かな葉っぱが絡んでいるのに気付きました。普段はねこらしく自分のしっぽは自分できれいに大事にしている日向ですが、今は宿題にされたという本のことで頭がいっぱいなのでしょう。
――いつも毛づくろいしてもらってるし、今日は俺がきれいにしてやろうかな。
そう軽い気持ちで決めて、横から伸ばした指が触れたとたん、
「にゃっ」
おどろきの声がこぼれ、小さな肩と一緒にしっぽがぴょこんと跳ね上がります。おっと、と木吉はとっさにそれを手の中に捕まえました。
「こーら、暴れると毛づくろいできねーぞ?」
横へ振り立てて逃げようとするのをなだめるように撫でると、今度は急にへにゃりと力が抜けます。それを自分の手に乗せて、あいにく櫛はありませんでしたので、日向がしてくれるように毛の流れに沿って指で梳き始めました。木吉のようにふわふわと豊かではありませんが、いつも大切に扱っているだけあって、つやのあるきれいな毛並みです。
「あー結構奥まで絡んじまってるなぁ。また近道して茂みを抜けてきたんだろ」
そんなことを語りかけて、思いのほか触り心地の良いしっぽをするすると撫でつつ、絡んだ草葉を取ってやります。指でくすぐるようにするたびしっぽが震えて、ふーふーと日向が弾んだ息をしているのですが、毛づくろいに集中している木吉は気付きません。
「毛が黒いから葉っぱが目立っちまうんだな」
「うぅ」
「んー、棘みたいになっててなかなか」
「ひゃ、みゃう……」
「あ、これオナモミだな。日向、知ってるか? こいつはこうやって生き物の毛にくっついて、自分の行けない場所に運んでもら……日向?」
「ふにゃぁっ、だぁほぉ……」
いつの間にか本に顔をうずめてしまっている日向に呼びかけると、力のゆるんだ木吉の手から、しっぽがばっと取り返されました。
「く、くすぐってーんだよ、だぁほ! 自分でやるから、もう、やだ、さ、さわんにゃ……」
叫ぶような初めの勢いをすぐにしおれさせて、もにょもにょと言いながら見上げてくるこねこの顔はこれ以上ないぐらい真っ赤で、目には今にもこぼれ落ちてしまいそうに涙が浮かんでいます。えっ、とおどろいて声を飲み込んだ胸の奥で、心臓がどきんと大きな音を立てて跳ね上がりました。
「あー、えっ、と、すまん……」
頭をかきかき謝る木吉に、日向は本をほうり出した手にしっかりしっぽを抱え、ぷいと背を向けてしまいます。首の裏側まで赤くなったその様子は、怒ってしまった、拗ねてしまったと言うよりは――
いかん、と考えを中断し、木吉はたぶん似たように赤くなっているだろう自分の口元を押さえました。日向は混乱がてっぺんに達してしまったのかぐすぐすと泣き始めていて、すぐに膝に乗せてなだめてやりたい気持ちもあるのですが、いくらも間を置かずにまたあの顔を見てしまったら、自分でも何を言うか――してしまうか、わかりません。
泣きべそこねこと我慢のオオカミのおかしな無言の時間は、知らん顔のお天道様が西の空へ傾き始めるまで、それからしばらく続いたのでした。
後日。木吉は森を訪れた聡明な泉乙女さまに相談を持ちかけました。
「なあリコ、真剣な話があるんだが聞いてくれるか」
「その出だしは嫌な予感しかしないけど聞くわ」
「俺はな、日向と伊月を拾ったときに、もし無理やり手を出そうとするような馬鹿な奴がいたら、この手でくびり殺してやるって誓ったんだ」
「指ごきごき言わせながら物騒な告白するのやめてくれない」
「二人が可愛いから心配だったんだ」
「まあそれは仕方ないわ。可愛いもの」
「くびり殺すだけじゃ足りないかもしれない、腹をやぶって内蔵を引きずり出すぐらいでもいいかもってな……」
「気持ちはわかり過ぎて聞かなかったことにしたいぐらいわかったから、次からもう少し結婚前の乙女に気を使った表現にして」
「それでな、リコ。頼みがあるんだ」
「なによ」
「こんなこと考えたくはないんだが、もしこの先、俺に何かがあって」
「……ええ」
「どうしても敵わねーで負けちまって」
「ええ」
「日向がでっかくなる前に無理やりなんかしちまいそうになったら、俺の顔面を原型がわからなくなるぐらいまで殴ってでも止めてくれ」
「……ねえ、やめてよね」
「さすがに自分で自分の腹わたを引きずり出したくはねーからな……」
「ほんとにやめてよね?」
完。
※二十年後ぐらいのifなお話。別名・そのまま育っちゃいましたパターン
※前後の展開は(さっぱり考えてないので)お好きにご想像ください。
こねたその3・たとえばこんな未来の話
「うん、確かにこの方法なら、気付かれずに屋敷に入り込めるかもしれねーなぁ……」
「はい。しかし僕らではその前の段階までが難しくて」
「関所を抜けて近付くまで手を貸してほしいってわけか。それはいいが、きついのは中に入ってからだぞ」
「ええ。覚悟しています」
「危ねぇのはセンコクショウチだ、です」
深い森の奥に建てられた人家のような神殿の一室で、火神と黒子は森の主であるオオカミと向き合っていました。都への道の初めの関門として、どうしても手にしなければならない鍵。そのための助けを求めてこの神域を訪れたのです。数日の滞在を経て、いざと夕食の席に本題を切り出し、部屋に呼ばれてもう一刻あまりが過ぎる頃でした。
「そうだな……」
床に広げた地図と屋敷の見取り図を眺めて考え込んでいる神狼の木吉は、おだやかな性格ながら、知恵も力もある神だと評判でした。相棒と二人、息をひそめて次の言葉を待ちます。
と。
「お、やってんな」
廊下側の戸が開き、顔を覗かせたのは、神殿の住人のひとり、神猫の日向でした。少し腰高でぶっきらぼうな態度の神さまでしたが、若い自分たちを心配してくれているようで、話を打ち明けたときに一番真剣で気遣わしげな顔を浮かべたのも彼でした。どうやら自分も相談の席に加わろうとやって来たようです。
「ちょうどいい、日向。一緒に見てくんねーか」
「おーよ」
木吉の呼びかけに頷き、こちらへ歩み寄ってきます。ちょうど二人と木吉のあいだ、戸に近い位置に座布団が敷かれていたので、まっすぐそこへ座る――かと思いきや、なぜか素通りしてぐるりと後ろを回り込んでいき、
「え……?」
あれ、と思っている間に、当たり前のような仕草で腰を下ろしたのは、二人の横ではなく正面、胡座をかいた木吉の膝の上でした。
「こいつが例の地主の屋敷か」
「ああ。この朱で書いたのが予定の道なんだがな……」
木吉の手にした地図をのぞき込み、二人は何事もなかったかのように話を進めています。何が起きているのか理解できず、火神は口をあんぐりとさせてその光景を見つめました。日向の身体は背から回った木吉の腕の中にすっぽりと納まっていて、実に自然な画にさえ見えてしまうのですが、していることは明らかに不自然です。どれほど親しい仲なのかは知りませんが、会って数日の客の前で、誰かを膝に乗せたり乗られたりするものでしょうか? ちらりと隣に目をやると、さすがの相棒も大きな目をさらに丸くしてそれを見つめていました。
「なんだ、どうした」
二人の様子に気付いた日向が、怪訝な顔で訊ねてきます。
「いや、なんで、膝に……」
そんな顔をしたいのはこっちだと思いながら、単語だけでなんとか質問を口にすると、そりゃあ、と日向は当然のことを語るような声を置き、拳に立てた親指で自らを指して、
「こいつの膝は俺の縄張りだからな!」
どやああああ、と音の出そうな顔でもって、そう言い切りました。
「――それで、この関所だけどよ」
数秒の余韻もなく真面目な話に戻っていく場に、えええええ、と火神の内心の叫びだけが響きます。ナワバリ? 膝が? Why? いくつもの問いがぐるぐると頭の中を回りますが、答えてくれる声はありません。見れば、木吉は腕のみでなく前へ寄せた尾でまで日向の身体を抱き込んでいて、「このねこは俺のもの」と力いっぱい主張していることだけは良くわかりました。
助けを求めるようにまた隣を見ると、ちょうどこちらを向いていた相棒と目が合います。黒子はこくりと頷き、続く話をさえぎって、おもむろに口を開きました。
「……日向さん」
「ん、なんだ? ……膝ならやらねぇぞ」
右膝空いてるように見えるけどこっちも俺のだし、と良くわからないことを言う日向に黒子ははいと静かに答えて、
「大丈夫です。トラ火神君の背中が僕の縄張りです」
どやああああ、と先ほどの日向に負けないぐらいの有無言わせず感をまとって言い放ち、頼れる相棒を期待とともに見つめていた火神の心をまた混乱の渦に投げ込むのでした。
「そうか」
「はい」
「で、話を戻すけどな」
「ええ、そこは脇道がありまして――」
またしても何もなかったように元の空気を取り戻す部屋の中、火神だけが立ち直れずに三人の会話を呆然と眺めます。一度こちらを見やった木吉がくすりと笑いを漏らしていたのですが、あまりの衝撃で気付けません。
(え、俺が知らないだけなのか? この国ではこれがフツーなのか?)
幼い日の夢を叶えた黒ねこの尾がオオカミの腕に甘えるようにくるりと巻きつき、異国帰りの若者に日本文化への盛大な誤解を与えながら、森の夜は静かに更けていくのでした。
完。