春のことごと



一.菖蒲精

 黄昏の迫る外廊の向こうに人影があるのを見て、綾女(あやめ)は送る足を止めた。
 沈む陽に染まる白の狩衣を着た男。少々の身の丈の高さのほかはごくありふれた立ち姿ではあるが、この社殿において、生き目に映るものの姿など、さまでの意味を持ちはしない。ことに種々の貴顕の集う今時節には、齢幾百のやんごとなき神が、頬の赤い童子の姿で滔々と弁を奮う様なども、ごくありふれた景色のうちに入る。
 ゆえに、綾女はその凡庸を捨て置かず、再び足を進めてこちらへ背を向けている男に歩み寄っていった。もとより幾ばくかの不審もあった。神々の顔寄せの初日である。主たる外客は皆ひとところに身を集めているはずであった。
「もし、いかがなされました」
 伸ばす手が触れぬほどの場所から静かに訊ねかけると、人影ははたとして振り向いた。ややまなじりの切れ上がった眼が特徴の、しかしやはり凡庸と言える見目をした若い男である。これ以前の憶えもなく、初めての客であろうと思われた。
「私(わたくし)、この宮にて皆様のお世話をさせて頂いております、綾女と申します。顔寄せにいらした御方では?」
 先んじて名乗り、問う。近くでうかがえば、男に邪な気は感ぜられず、紛いなき真の神霊と見えた。ならばなおさらに、この場に独り立っているのは奇妙である。
 綾女の疑念を承知してであろうか、男は少しのためらいをにじませてから、答えた。
「その、俺はそっちじゃなくて、……離れへの道を探してたんだ。部屋に戻ろうと思って」
 濁りのある言葉だが、綾女はすぐにその意を察し、頭を下げた。
「申し訳ございません。失礼をお伺いいたしました」
「いや、しょうがないよ。俺みたいのじゃな」
 手を振る男の袖先で、勾玉と珠石を連ねた御統(みすまる)がきゃらりと鳴る。何やらの封じの装具と見え、それにも少しの妙を感じたが、腕を降ろすとすぐに手首ごと狩衣の下に隠れたので、しかとはわからなかった。いずれ、仕えの宮人である綾女が詮索することではない。相手が離殿に寝床を取る客ならば、ことさらに。
「離殿はこの廊下をまっすぐに行きまして、ふたつ目の角を右、次を左に折れると渡りの廊がございます。ご案内いたしますわ」
 道を示す手振りとともに歩き出せば、ありがとう、と礼を言って後ろを付いてくる。霞一枚ほどの興を覚えながらも綾女は我が務めを果たすべく、不言不語で男を先導した。


 この年、天の主の膝下なる神宮にて、幾十年かぶりの神々の会合が催されることと相決まったのは、厳寒の冬が明けきらぬ時節のことであった。喜ばしき芽吹きの頃に顔寄せとは、さぞ善き席になりましょう、と言う者もあったが、永く神宮に仕え、数多の神霊の世話役を務めた綾女の胸には、一抹の不安があった。
 春。それは新たなる命が地に満ちる、確かな喜びの季節である。なればこそ、各地の主たる神々には、我が地から十余日も離れるのを厭わしく思う者もいるだろう。かてて加えて、彼らの中には、自らその命の賑わいに心を投ずる者もある。
 本殿から渡りの伸びる離れ屋敷は、神宮に仕える霊たちのあいだで花殿とも謳われる。音や香りの一切を内へ閉じ分ける術の張り巡らされた、いささか手狭とも言える部屋には、まさしく「花」が咲き誇る。神宮を訪れる客たちが連れた、うつくしき高嶺の花たちだ。各々に色輝く蜜を身にして、主の寵愛を待っている。
 我が威を誇示するかのごとく、堂々と愛妾を囲い来る神々にまつわる放談は、若い女官の精霊たちが好む噂のもっぱらの種であり、局(つぼね)がそうした話で持ちきりになることもあった。あの御方はいつもいつも違う妾さまを連れていらっしゃる、だの、この人は先にいらした時には別の方に囲われていたはず、だの、確かに快いとは思えぬことごとも見られるようだったが、と言って、彼らが咎め立てられるいわれはない。一口に神霊と言っても様々な性を持ち、獣の魂の強い者は多情こそを平生の態度とする。かたや器物を根とする神の中には、全く色事を解さない者もある。互いに理解の上であり、それぞれの個の信条と心情がどうあれ、異なる性を持つ者を面と向かってそしるような輩はいない。我が地のくびきを断ち、世俗を離れた自由の場で存分に伸びをするようにして、獣たちは一瞬の花を愛でる。
 そうして命咲き乱る春の陽の下、幾十、否、幾百年ぶりかの盛大な会合の日を迎えた神宮の離殿は、まさに色さまざまの花で彩られた。術により不可視のものとされた艶めきと、音のない睦言の賑わいは、真なる超俗を誇る神宮においても一種異様の場となっている。その中へ戻ると語った男の顔を、綾女は今初めて見たものであった。早朝より神宮へ集い始めた柱の花たちの案内を務めたのは綾女とほか幾人かの女官であったが、その中には姿がなかったようだ。もっとも、人目を避けて入殿する者も稀とは言えず、それだけであればさほどおかしな話ではない。
 綾女の興を引いたのは、男の見目であり、態度であった。高嶺の花の綽名のとおり、彼あるいは彼女らは、いずれも一見してこれやという麗しさを誇り、主に与えられた豪奢な衣裳を身に着けていた。が、男は不器量ではなけれど特別に人目を集める容貌でもなく、装いもごくありふれた普段着に見え、「花」とはいささか喩えがたい趣であった。また、反対にと言えようか、相応にと言えようか、他の花たちが身にまといつかせるどこか取り澄ました高飛車な空気も、男は持っていなかった。威光ある神の寵者なりと、屋敷の従者など鼻にもかけぬという態度の者も多く過ごす離殿において、男が綾女に示した言動はなかなかに珍しいものと言えた。
 この先でございます、と渡りの廊を示した時にも、男は丁寧に礼を述べてから別れの手を上げた。きゃらりと手首の石が鳴るのを聞きつつ、綾女はまっすぐに伸びた狩衣の背を、この場では稀な好もしい気分で見送った。


 本殿の局に戻ると、早速女官たちが噂話に花を咲かせていた。常なら過ぎた口があればたしなめの声をかけもする綾女だが、今日はあの狩衣の男のことを知る者がないか訊ねてみようかと、皆の輪に足を進めかけた。すると、場に向けて言葉を放る前に、横合いから呼びかけてくる声があった。
「綾女姉さま、ご覧になりました?」
 そう言って隣へ立ったのは、年若い山吹の木霊であった。少々気と口の強いところがあるが、働きの良い妹分は、眉を少し吊り上げて言葉を続けた。
「春ですもの、妾を連れるなとは申し上げません。でも、五人も六人もというのは、さすがに過ぎるというものではございません? 私、お妾さまたちが少しお可哀想で、せめてと良いお部屋にご案内いたしましたのに、着いた途端にあれこれと文句ばかり! 主さまがどれほどに貴い方かは存じ上げませんが、あんまりですわ」
「まあ」
 先の自分の思いを辿るようで笑みも漏れたが、それでもお役目はお役目と、なだめにかかる。
「教えておいたでしょう。色々な方がいらっしゃるのですから、自分の考えひとつで決めつけてはなりませんよ。もちろん、小使いだからと言って邪険にされるのはあまり感心もできないけれど……お務めなのですから、少々のことは我慢なさいな」
「わかっています。けど……」
 なお口を尖らせるのに、部屋の中から声がかかる。
「拗ねてるんですよ、綾女姉さま。その子、自分が良い方と思ったら、お妾さまがいらしたものだから」
 くすくすと笑われて、若い精霊は頬を赤くした。
「あら違うわ。私、もっと目は吊ってるほうがいいって言ったでしょう」
「でもずっと見てたじゃない。背があって、まみえが凛々しくて、でもお優しそうで素敵って。離れに足を向けられた時のあなたの顔ったら!」
「もう、よしてちょうだい!」
「あら、私は隣にいらした方のほうが好みだわ。少し幼い顔に蒼のお召しが良くお似合いで」
「その方と口争いをしていた御方も、確か狐神さまだったと思いますけれど、妖しげで目を惹かれましたわ」
 畏れ多くも神々の品定めでにわかに騒がしくなった場を、ぱんと手を打って収める。
「気晴らしのお喋りも良いけれど、ほどほどにして皆お役目を忘れずにね。皆様はご自分の里を十日も離れてはるばるいらしているのだから、せめて屋敷の中は過ごし良いようにして差し上げましょう」
 はいと上がる返事に頷き、問いかけに答えながら、狩衣の男の話を訊き損ねたことに思い至ったが、忙しさに取り紛れ、やがて忘れてしまった。



二、それ

 流れ来た蜜の匂いに、「それ」はゆるりと眼を開いた。
 「それ」は神の宮の中で生まれた者であった。在り始めてしばらくは、善きものでも悪しきものでもない、ただ生くるばかりの命であった。「それ」に幸いであったことに、宮の中には「それ」を害する者はなく、優れた器なる身に周りの神気を吸い上げながら、いつしか力有る霊と呼べる者となるまで、気ままに長らえることができた。しかし「それ」に不幸であったことに、あまりに世俗を離れた場所で長じた命は、ひどく穢れに弱いままに育てられていた。ほんのわずかな傷が血肉と心を黒く染め上げるほどの、もろい魂を抱えていた。
 神宮の門が開かれた朝、「それ」は巣穴の中で眠っていた。続々と集う神々の列を「それ」は直には目にしなかったが、魂はその存在を感じ取っていた。神々は己も知らぬうちに我が地で受けた種々の穢れを門の周りに散らしていった。なんということもない、人里に交じって暮らす者であれば穢れとさえ呼べぬほどの、ありふれた業や欲心。その全てが、まどろみの中にある器に引き寄せられ、吸い込まれていった。にわかに心が騒ぐのを感じ、「それ」は目覚めた。甘い、頭の痺れるような種々の香りが、どこからか漂ってきていた。
 「それ」は強い渇きを覚え、巣穴を這い出した。鋭敏な感覚を持つ舌を使い、あたりを探る。胸を沸き立たせる芳香は、門を通ってはひとところへ向かって消えていった。「それ」は、生まれの地の有様を良く知っていた。誰が訪れ、何が催されるのかを知っていた。我が渇きを満たすための行いの危うさを知っていた。しかし、渇きはとどまることを知らずに湧きあふれ「それ」の全身を浸し、理性を黒く塗りつぶしていった。「それ」はもはや〝それ〟などと十把一絡げに言い示されるべき純朴な野の生き物ではなく、深い欲心に囚われた一匹の邪なる妖しであった。
 毒の混じる唾液を口から落とし、全身を滾る熱と渇きに震わせつつ、しかし妖しは今はその機ではないことを理解し、叢に身を潜めたまま待った。力有る者たちと別たれた花の蜜香を如何様にすすろうかと知恵を巡らせながら、神々の集う社殿と、芳香の吸い込まれた離れ屋の様子を二股の舌を出し入れして捉え、じっと待っていた。



三、菖蒲精

 顔寄せの初日を差し障りなく終え、翌日の昼半ば、今度は本殿の片隅の外廊で、綾女は一人の男に行き会った。
 男はまるで濡れ縁に腰掛けているかのような風情で外へ足を垂らせて廊下の木板に座り、中庭を眺めていた。灰茶色の髪に黒の直衣装束を着けた男は、やはり客神の一人であるようだった。会合の休憩の間なのだろう。先ほど社殿の中心のあたりでも、部屋を出た者たちのさざめきが聞こえていた。
 男は廊下を曲がってきた綾女にすぐに気付き、自ら声をかけてきた。
「あなたはここの宮人だな。ちょっと訊いてもいいか?」
「はい。なんなりと」
「向こうの木蓮の隣に植わってる赤い花は、なんて名前なんだ?」
 言って、前を指差す。大きな御手だこと、と胸に感心を漏らしながら、綾女は答えた。
「あれは、まだ名前がございませんの」
「名前がない?」
「昨年、西国へ行かれていたお客様から御土産にと種を頂きまして、今年咲いたばかりなのです。撫子に似た仲間なのだそうですけれど」
 そう説明すると、なるほど、と男は頷いた。
「どうりで見たことないと思った。でも綺麗だな。八重の花が周りに良く映えてる。もし木霊がいたら声をかけてうちにも仲間を呼べないか訊こうと思ったんだが、そんな若いんじゃまだいないか」
「もしよろしければ、株をお分けいたしましょうか?」
「いや、うちのはちゃんとした庭じゃねーから、俺とかが勝手に作っちまわないほうがいいんだ。全部木霊任せにしてる」
 あなたも木霊だな、と問われ、はいと答える。そう言う男からも、草木の霊の気配が感ぜられた。しかし妙なことには、落ち着いて静やかな力は明瞭に樹木のそれを想わせるのだが、同じほどに、躍動する生き物の気配もが、その魂から感じられるのであった。
 何処の里から、と綾女が訊ねかける前に、男が「とてもいい庭だな」と賛辞を寄こしたので、ありがとうございます、と腰折って礼をした。
「でも、これだけ花があると世話が大変だろうし、見習おうにもうちじゃちょっと派手すぎるな。やっぱりずっと暮らすならゆっくり落ち着けるほうがいい」
「左様でございましょうね。こちらはお客様にお見せする庭ですから」
「ああ。けどそうか、いないのか……残念だな。珍しい花を見せてやりたかったのに」
 ほつり誰かを指して言うのに、里の御方ですかと確かめると、ああ、とほころぶような笑みが返った。
「一緒に暮らしてる嫁さん。……って呼ぶと怒られちまうけど。花とか良くわからねーし柄でもない、って言うんだが、あの花は似合う気がするな」
 いかにも幸福げに語る。よほど良い仲なのだろうとほほ笑ましく思いながら相槌し、自分も御内儀さまにお見せできず残念だと答えた。
「あの花はここにしか植わってないのか?」
「どうでしたかしら……庭師に確かめなければすぐにはわかりかねまして、申し訳ございません」
「ああ、大丈夫。……ここまでだとちょっとな」
 何やら呟いて考え込むようにする男に、何か、と問いかけたが、
「いや、なんでもない。ありがとうな。みんな部屋に戻り始めたみたいだから、俺もそろそろ行かねーと」
 首を振って言い、廊下に脚を戻して立ち上がる。手と同様に、丈も見上げるほどの大きさであった。
 それじゃと去る直衣の背に礼を送りながら、やはりただの樹木の神ではないようだと先の推量を深めた。綾女には感じ取れなかった社殿内の神々の動向を、男は神体とする何かの知覚で掴んだのだろう。
 とは言え、とまた推を巡らせる。よしんば魂の根が獣混じりであったにしろ、おそらくその歩合はさほどのものでないのだろう。血の多い種でもないだろう。春のただ中、あれほどに穏やかな気をしていられるのだから。
 そんなことを考えて、客人のために庭師を探してから午後の務めに勤しんでいた綾女であったが、その夜、思わぬ景色を見ることとなる。
 夕餉の席が散会となり、それぞれに当てられた部屋へ神々が戻っていくのを見送る中、ぽんと横から肩を叩いてくる者があった。見れば、昨晩言い争っていた山吹の精ともう一人の女官である。
「ね、ほら。あの方ですよ」
「ひどいわ。やっぱり見間違いじゃなかったのね」
 くすくすと笑う横で、山吹が拗ねたように口を尖らせている。前を示す指を追って見やると、その先にあったのは、灰茶色の髪と黒の直衣の背であった。今日の今日で見誤るはずもない。昼に話をした男神である。男はすれ違う神々と挨拶を交わしつつ、少し大股にも見える足でその間を抜け、明らかに本殿の客間ではなく、離殿へ続く道へと向かっていた。
「まあ……」
 また揶揄と反論のかけ合いを始める二人を横に聞きながら、綾女も思わず意外の声を漏らした。あれほど里の御内儀さまを想われていたようだったのに、まさか離れへ妾を囲ってらっしゃるとは?
 やはり何事も見かけによらぬもの、と感嘆しながら、庭師に聞いた花の話のためにその背を追うことはせず、もうひとかたの「花」へ向かって足を急がせる男の姿を、ただ黙って見送った。



四、妖し

 妖しは渇きに耐えかねていた。甘い蜜香に目覚めて二度の夜が過ぎ、三度目の日暮れが迫っていたが、これという機はなかなか巡ってこずにいた。あと少し、と己に言い聞かせる声に、もう待てぬと反駁が上がり始めていた。妖しは餓えていた。渇きは欲心を滾らせ、飢えは邪なる力をさらに身に引き寄せて、いつしか、そのかたちを変え始めていた。長大なばかりの胴に手足を得、なだらかにうねる肌に起伏と体毛が生じ、全身を覆う鱗は手や顔にまだらに残るのみとなった。今や妖しは、求むる花どもと同じ姿になっていた。
 裸に寒さを感じた妖しは、風で庭に落ちて肥やしとなりかけていた衣を身に巻きつけた。これでは叢の中でも目立つだろうと、そのまま縁の下へ這い進もうとしたところで、ふと、気付く。社殿の内では夕餉の支度をする宮人のせわしない足音がいくつも響いていた。何やら手のかかる席になるのか、常より数が多い。対して、例の離殿はと言えば――
 妖しは頭を返し、新たに得た手足を使ってのそりと身を起こした。これぞ機なりと全身が叫び、震えた。底のない渇きを癒すべく、緩慢に、しかし一切の脇目も振らず、歩を進める。ぱたぱたと涎が地面に落ち、下草を毒に焦がした。
 妖しにとって幸いであったことに、宮人たちの不手際から、目指す離れの堂は、部屋で主を待つ花のほかは、まさしく全くの無人であった。さらに幸いなことには、外界との隔絶をもたらす術により、中の様子は――たとえ厄災の影であっても――容易に外に漏れ伝わらぬようにされており、本来花を護るための壁ともなるそれは、しかしこの地、この場に生まれた妖しの魂を、穢れ果てたといえ拒む力ではなかった。
 二股の舌で鱗の残る唇を舐めずり、妖しはぐびりと喉を鳴らした。いま少しでこの望みを、慾を達せられる。その一心に酔い、中の宮人と客どもの動きを測りながらも、まっすぐに、惑いなく足を進めた。
 妖しにとっての不幸であり、また誤算であったのは、ほんのひとつの差であった。常ならば艶やかなるも儚げに咲く花々の中に、この年この日、懐に鋭い棘を、否、閃く爪と牙を隠した獣がひとたり、紛れていたことであった。


 離殿にもぐり入るのはいかにも容易であった。妖しは神宮の中の様々な抜け道を知り、また壁や木を這い登り、細い隙間を抜ける身体を持っていた。もはや自在にふたつの姿を行き来しながら、術に囲われた離れ屋の壁の内に入る。途端に、むせ返るような芳香に包まれた。込み上げる熱にくうと呻きつつも、かろうじて残る理性で踏みとどまり、積年に得た知恵を使って、一計に取りかかる。今のこの身を支配するのは渇きであり飢えであり、本懐を遂げた先を心より案ずるほどの余地さえ欲望に塗りつぶされていたが、生ける者の本能はまだ死と痛みを恐れた。
 身に巡る毒血を牙へ集め、刻々と高まる妖気に混ぜ合わせて、新たな毒を生む。霧のごとき細かな粒として中空へ吐き出されたそれは瞬く間に離れ屋敷の内を渡り、やがて中の花々も異様のにおいと気配で変事を察し始めた。が、気付いた時には、ほとんどの者が身の自由を奪われていた。生き物の手足に痺れを生じ、意思を損ねさせる、力有る神の術に等しい業であった。
 妖しはもう身をひそめようともせずに、堂々と歩いて廊下を抜け、蜜のより濃く香るほうへ足を進めた。花はどうにか異様の元から遠ざかろうと、離殿の奥へと逃げていくようであった。妖しはあえて本殿に近い側から上がり込んだので、主人のもとへ助けを求めに行きおおせたものはまだなかった。さらには、よしんば誰かが本殿から駆けつけてきたとしても、厚く立ち込めた毒霧が、しばらくはその足先をためらわせるはずであった。
 しゅるりしゅるりとそれ自体がひとつの生き物のように動く舌が、横手に残るものの存在を妖しに教えた。足を止め、閉じ切られた格子戸をにわかの動作で突き倒す。ひっ、と細い悲鳴が聞こえた。部屋の隅にうずくまっていたのは、銀朱の地のあざやかな衣裳をまとう女であった。濃く紅を引いた顔は蒼白になりながらも華やかに美しい。妖しはぎゅるりと喉を鳴らし、細く尖った双眸に初めの獲物の姿を定めた。
 一歩、二歩と部屋へ足を進める。声なく身を震わせる女の前に立ち、その着物に手を伸ばしかけた瞬間、ばん、と先の己の立てたような騒がしい音とともに、隣に続くふすま戸が倒れた。その向こうに、狩衣装束の男がひとり、ぜいぜいと肩で息をしながら立っていた。
 まさか本殿から人が来たのかと一瞬焦りを生じるも、脚をよろつかせる男の様子を見て、すぐに憂いは打ち消された。明らかに毒が回っている。真の神と見えたが、息危うく、柱に掴まって立つのがやっとという風情であり、捨て置いても害はないと思われた。事実、こちらへ振り出された足は一歩で膝からぐらりと折れ、狩衣の男は崩れるようにその場に座り込んだ。
 軽く一瞥をくれ、女へ向き戻る。時間にも己の慾にも猶予はなかった。なぜ客神が今この離れ屋にいるのかという疑問すら湧かなかった。ただ目前の花に惹かれ、我が舌でその甘露を貪るべく、ずるりと前へいざった。
 と、今度こそ指が届くかという瞬前、空を斬る音がひょうと飛び、軽い衝撃とともに背から妖しの頭を突いた。ぼろ布の肩を滑り落ち、畳の上に転げたのは、錐状の寸鉄であった。邪魔立てするなと振り向き激昂しかけて、妖しは息を止めた。
「……よぉ」
 床へ座り込んだまま、ゆるり、男が口を動かす。細い唇が弓なりに弧を描き、尖った花の弁のごとく笑みを刻んだ。女が紅を差したよりもなお紅く濡れ光るその様に、目が吸い寄せられる。
「なぁ、怯えるのを無理やりに犯すなんざ、面白くもねぇだろう……?」
 うそりと紡ぎながら、男は緩慢な動作で腕を持ち上げ、手首に巻かれた輪を口に咥える。気味良い音とともに切れた糸から、大小の石が抜け落ちて畳へ散らばった。瞬間、部屋へ広がり渡った香気に、妖しは目を見開いた。長い黒毛の尾が男の背に現れ、何かを誘うように揺らめく。まといつく蜜香が見えるようであった。
 男はこちらを上目に見つつ、するりと狩衣の緒をほどき、単衣の衿を崩して首元を露わにした。上気した頬を煽ぐ手をそのまま唇に寄せ、紅い舌を覗かせて、指先を軽く含んで舐め上げる。こもる熱を逃がすように吐息を落とせば、また甘く花が香り、それはあたかも毒気のごとく、意思を縛め、心を捕らえた。主客の転倒が起きたのも知らぬまま、妖しは繰られた人形のようにぎこちなく立ち上がり、男へ向かって足を踏み出した。飢えと渇きが極点へ達し、ただ貪り喰らうことのみを望んで吠え立て、芥子粒ほどに残った理性をも、手の届かぬ場所に散らした。
「来いよ、ほら……」
 甘くねだる声で男が呼ぶ。しなやかに体(たい)をくねらせ、脚を開き、啼き乞うてみせる。金緑に光る双眸が、慎ましい花のそれなどではないことに妖しは気付いたが、もはや抗う術などなかった。高まり続ける己の慾にも、男の放つ凄絶な色香にも。
 脚先に立ち、香気を深く吸いこめば、ずるり、人の皮膜が一枚はがれ落ちる。男の身体に覆いかぶさりながら、妖しは本性混じりのまだらな姿に変容した。しゅうしゅうと息を吐き、牙の間から先の割れた舌を長く伸ばす。この無様な変貌は、偶然にも、妖しにとって幸運であった。その一瞬、とろりと熱揺らすばかりであった男の眼にひとひらの驚愕がにじみ、へび、と唇がわななくようにその名を呼んだ。そうして、手の中に忍ばせていた術こめた寸鉄を、震えた指先が床へと取り落とした。
 妖しは男の企図を察せられないままであったが、本能が機を教え、落ちた鏃を追い床へ伸びた手を我が手で抑え込んだ。もう一方の腕で肩を突き、背を畳の上に転ばせ、縫い止める。男は衝撃をこらえてこちらをきっと睨み上げてきたが、それですら、春の狂宴の微々たる飾りとしか感ぜられなかった。男の色香は触れた指を焦がさんほどの熱を孕み、ひたすらに雄の慾を恋い誘っていた。
 だが――妖しは気付いていなかった。もはや己の幸運も尽き、あざなえる縄のごとき因果は後に断罪を残すのみであったことに。
 男の恋うものはこの世にふたつとてなく、その唯一を身近くに感ずるからこそ、誘いの熱がいや増していたことに。
 ア、と艶めいた声漏らして顔を背ける男の首すじへ、割れた舌先が触れかかろうかというその刹那。突如として、妖蛇の頭は宙へ引きずり上げられた。そしてまた一瞬後、骨も砕けよとばかりに、床へ激しく叩き落とされる。悲鳴の声すら失くし、しゅうと苦痛の息のみを吐き出して、蛇は白い闇の中へ気を手放した。



五、交錯

 騒然となった場を切り分ければ、いくつかの演目に収まった。まず、毒に倒れた花々と、それを助け起こす主たちの場。妖しの侵入を許した不手際と、その始末を慮する宮人の霊たちの場。ただ何事かと顛末を覗きにきた観衆の場。そして、いち早く異変を察して毒の霧晴れぬ離殿へ飛び込み、妖しを剛腕で打ち倒した神と、その手に抱かれて熱に震えている者の場。
「お身体の具合が……? すぐ薬湯を」
「ああ、ええよ。こっちは気にせんとき」
 女官たちのまとめ役である精霊が進み出て言うが、半ば阻むように止められる。その向こうで、黒猫の耳尾を持つ男が、床に座り込んだままあえぐように傍らを呼ぶ。あたりに香る甘い匂いを少しでも閉じこめようというのか、その身体はほとんど敷布で覆い隠されていた。
「きよし……」
「ん。すぐだからな」
 かたかたと震える身体を抱き、数瞬前の憤怒の姿が嘘のように、直衣の男は胸にすがる猫を優しくなだめてやっている。そこへ蒼の法衣を着けた狗神が戻り、男へ呼びかけた。
「お前らの部屋、とりあえず毒気は祓ったぞ。今日はもう戻れ。御統の珠は俺らが拾っとく」
「すみません。手間かけて」
「かめへんかめへん。後で返してもらえばええんやし」
「てめぇはんな時に貸し借りの話なんざしてんじゃねぇよ。……日向は大丈夫か?」
 歩み寄りかけた狗神を手で制し、
「あまり見られたくないと思うので……」
 申し訳ないと頭を下げる。そうだなと頬を掻いて狗神も自ら脚を引いた。
「あ、でも落ち着いたら話してやってください。……俺も、今日はあんまり優しくしてやれそうにねーから」
 ほつりと言って、猫を腕に抱えたまま立ち上がり、礼を示しつつ離殿の奥へと去っていく。後を見送る神がひゅうと口笛を鳴らした。
「目ぇ血走っとったなぁ、鉄心」
「あれはあれで難儀だな……」
 語り交わす足元で、床に散った宝珠が灯明の火を照り映し、飢えた獣の瞳のごとく煌めいていた。



六、神狼

「ふぁ、あっ、んぅ……っ」
 灯りの落ちた閨に、甘く猫の啼き声が響く。ぴちゃり、音立てて舐り上げれば、屹立はなお固く張り詰め、解放を求めて蜜をこぼす。
「イイか? 日向……」
「んっ……やぁ」
 下肢に埋めた口で意地悪く問うても、いつもの文句は返らない。なお高く揺れる声、湧き立つ香気。清かでありながら、ことさら淫靡に胸誘う春の夢。
 その離れ屋が、花と呼ばれる者たちのための場であるのは知っていた。だからこそ躊躇した。なぜこの季節なのかと、初めは辞去の返事を出そうとも考えたのだ。本来、他国との渉外は日向の役目だが、春に心身を融かす番いを独り行かせるなどもってのほかであったし、森へ残して十日あまりも留守にすることも考えられなかった。ならばと言って勧められたのが、この離殿の部屋である。
 冗談ではない、と思った。無論、他の神々の考えを否定しようとまでは考えないが、狼を神体とする自分にとって番いは唯一最愛のものであり、花などと言って我が真の伴侶を忘れ移り気に遊ぶなど、到底理解しがたい行いである。そうしたものと同列に見られるのも厭であったし、何より日向をそんなところに置いておきたくはなかった。
「もうこんなにぐしょぐしょだ。すぐ入っちまいそうだな……」
「っあ、やっ……きよし、も、イきた……」
「うん、もう少し我慢な」
 懇願をさらりと撥ね、泣き濡れの性器の根を締めるように握ってやると、ひ、と悲鳴じみた声が上がる。常ならば悪罵の落ちる場面であるが、日向はふるふるとかぶりを振り身悶えるばかりであった。その従順の様に慾を煽られながら、表面は努めて冷静に、身を暴く手を進める。溢れた精を潤滑油に後孔へ手を這わせると、情交に備えられた身体は馴らすまでもなくその指先を受け容れ、奥へと誘った。

 話を受けようと言い出したのは日向だった。迷い悩んだ末の結論であったろう。会合の地に赴きながら、熱を抱えて部屋へこもっていなければならないという事態は、大いに屈辱と感じられたろう。だが、まるで普段のやり取りと反対に、眉寄せる木吉へ笑いを浮かべて彼は言った。
『寝太郎がようやく起きましたっつってうちの大神サマのボケヅラもいっぺん外に披露してやれるなら、花にでもなんにでも化けてやるよ』
 返す言葉がなかった。ただその身を胸に抱きしめ、すまないとありがとうをくり返すしかなかった。
 そうして今日、見事に婀娜なる花へと化けてみせた黒猫を、今自分は煮え滾つ憤懣と愛おしさのふたつを胸に、閨の床に組み敷いている。
「んぁ、あっ……!」
「っ、く」
 開いた後座に性急に雄を押し当て突き入れると、日向はびくりと背を反らせて達した。引き締められた胴にぱたぱたと白濁が落ちる淫猥の画を喉鳴らして見つめる。
「挿れただけで達っちまったのか? やらしーなぁ」
「は……ぁ、っあ、きよ、しぃ」
 蕩けた瞳でこちらを見上げ、もっと、と律動を誘うように脚を揺らめかせる。応えて腰を使いながら、ちりと頭の奥が焼けるのを感じた。
「もしあの蛇がすぐ乗ってこなかったら、そういうことも言ってやるつもりだった?」
「あっ、やぁ、んっ」
「ひどいな。お前の番いは俺なのに」
「ふぁ、あっ……!」
 問いかけながらも執拗に快楽の点を突き、身を甘く苛む。返る答えは全てわかっていたから、あえて言葉の形で聞かずとも良かった。ただ、ぶつけたかった。
「お前に触っていいのは、俺だけなのに」
 慟哭に似た呟きに金緑の眼がきゅうと細り、こちらへ腕が伸ばされる。引き上げて背へ回させ、上体を倒して抱き込むようにしながらより深く奥を穿つ。弾む息とあえぎを呑むように幾度も口付け、名を呼んだ。人の言葉を忘れたように、日向はただ甘く啼き続けていた。


 見下ろす目がふっと開いたのは、そろそろ夜が白みかけようかという頃だった。
 ぼんやりとした視線で一度隣を探すようにしてから、ぴくりと猫の耳を立たせ、枕辺を見上げてくる。布団にも入らず座した木吉の姿に一瞬怪訝を浮かべてみせるも、問いはなかった。
 目を合わせたまま沈黙が行き来し、やがてそれすらも尽き、木吉はほつりと言葉を上らせた。
「……なに考えてる?」
「……腰が痛ぇなって」
「あとは?」
「脚も痛ぇわ」
 再び沈黙。一度首を振り、また訊ねた。
「そのほかには?」
 ひとつ間を置き、小さく答え。
「なんか枕元にちょうどいい座椅子があるなと思ってる」
 お前は、と返され、
「ちょっと寒いから、膝の上に猫でも乗ってこねーかなと思ってる」
 いらえる。またひとつの間があり、次に場に重なったのは、笑いの息の音だった。
「しょうもねぇな」
「まったくだな」
 くつくつと苦笑を交わしながら、布団を這い出してきた身体を腕の中へ迎える。するりと膝上に納まった猫の額へ軽い口付けを落として、ごめんな、と囁いた。
「何が」
「苛ついて、ひでー抱き方しちまって」
「苛ついてた自覚はあるんだな」
「そりゃ、お前がほかの皆を助けようとしてああしたのはわかってるけど……嫁さんがほかのやつ誘ってるところ見て、何も思わねーほうがどうかしてるだろ」
「だから嫁はやめろっつーの」
 いつもの反駁をし、ふっと吐息して続ける。
「俺も、お前が嫌がるのはわかってたんだよ。だからお前は怒っていい。謝る必要もねー」
 なんで苛ついてたのかわかりません、なんてほざき始めたらはっ倒すけどな、と言って、頭を首元へ預けてくる。それを手に包み込むように撫で、嘆息とともに返した。
「……そんな風に言われたら、また俺つけ上がっちまうぞ」
「だーから、そんぐれーでちょうどいいんだよ、てめぇは」
 普段うぜぇぐらい押しが強いくせにそういうとこマジでなんなの? ときっぱり断じつつ、口元は愉快げに笑んでいる。つられて笑いつつ、万感込めて言った。
「ほんとに、お前がいないと駄目だな」
「連れてきて良かったろうが」
「ああ」
 まったく、いつになっても敵わない。この尽きることを知らぬ幸福ばかりには。
「御統、直さないとな。心配で出られねーし。笠松さんが拾っといてくれるって言ってたんだが」
「部屋にも術がかかってるし、別に一日ぐらい平気だろ。笠松さんたちには世話かけちまったな……つか、次すげー会いづれぇ」
 どんな顔をすればいいのかとそれだけが気にかかるようだが、木吉はやはり壊れた腕環が不安だった。外れた時の反動が難とは言え、春の色を隠す封じの装具がなければ、この猫の香気はどの花よりも甘く心を誘うというのに、当人はまるで自覚していない。
 陽が昇ったらすぐに受け取りに行こうと決め、それまでは我が懐にしかと閉じこめていようと、背を抱く腕の力を強めた。



七、菖蒲精

 騒動明けて翌日、一時は動揺に包まれた宮も昼過ぎには元の静穏を取り戻し、初めから何事も起きていないかのごとく、神々の顔寄せが再開されていた。平生から我が里で大小の騒ぎを治めている長者たちである。過ぎてしまえばまあ大したことでも、という顔をしている者がほとんどではあったが、神宮の中で妖しが生まれたことはそれなりの椿事と言え、今日の論議の題目にも挙がったようであった。
 打ち倒された妖しは、浄めの術を施されてすぐに尋常の蛇に立ち戻り、力も記憶も失せた様子で門の外へと放たれた。もはや霊とは言えず、やがて「それ」とも呼ばれるような名を持たぬ野の生き物として、尋常の死を賜るであろうと思われた。
 さてその夜、綾女は離殿の奥で、騒ぎを治める一の労者となった者たちの姿を見た。どちらも前日までに廊下で行き会った、若い土地神である。誠凛という東の地から共にやってきたのだと、今日の昼、綾女は直衣を着けた長躯の神狼から話を聞いていた。
 二人は先の日に直衣の男がしていたように、庭に面した廊下に並んで腰かけており、綾女は思わず笑みをこぼした。それは昼に男へ教えた場所で、社殿の外れのほかにもうひとところ、あの八重咲きの花を植えた庭であった。
 なにを語っているものか、静かに笑い合う二柱の神は、大小の影をひたりと寄せ、夜風に毛をそよがせる尾がそばへ触れては、からかい遊ぶようにその先を絡め合い、傍目にもごく睦まじい一対に見えた。事情を聞いてさえもどこか面映ゆく感じる様子に、これを見ればあの気の強い妹分も、悋気を働かせるより先に仕方ないと納得しよう、とおかしく想像する。
 寄り添う対の神たちの様子をほほ笑ましく眺めるうちに、直衣の男の腕が狩衣の肩を抱いてさらに我へと引き寄せたので、これ以上の出歯亀ははしたないと、綾女は静かにきびすを返してその場をあとにした。春半ばまで続く会合である。また話す機会もあるだろう。
 それにしても、と昨日の騒ぎを思い起こし、考える。自分の推量は、全く的外れのものであったようだ。確かにあの長躯の神は、故郷にそびえるという大樹の化身である一方、歴とした獣でもあったのだ。蛇を打ち倒した一瞬を綾女は遠く後方から見ていたが、五間ばかりの間をおいてなお空気が震うのを感じるほど、激しい怒りであった。番いを腕に抱き、誰にも何にも渡すまいと威嚇を発する姿は、まさしく猛る巨狼のそれであった。そして、情を求めて振りまかれる香気に血を滾らせる、愚直な雄の姿でもあった。
 やはり何事も見かけによらぬもの。ことに、世に新たな息吹のそよぐ春のことごとは、永く此岸に在る魂すらも興を覚え騒ぐほど、鮮やかな驚きに満ち満ちている。
 此度の気まぐればかりは感謝をしたものかと笑みながら、しかし次の時節よりは、恋しい者の居場所に気をもむ神々の無きよう、一瞬の花ではなく一生の伴侶のための離れ屋を設けるべきであろうと、天の主への上奏について考えを巡らせた。



八、神猫――幕終

 布団に身を丸め、日向は新たに術のかけ直された腕環の上に嘆息を落とした。もう過ぎたこととは言え、まったく不甲斐ない。元の体調の所以もあるにしろ、毒を自ら浄めることもできず、あれしきの動揺で事を仕損じるとは。全て愛すべき命のはずであるのに、よくよく蛇というものが苦手になってしまう。
 知らぬ土地での会合。真に正直なところを言えば、やはり気は進まなかった。自分の無力を痛感するようで、部屋にあっても居たたまれない。廊下に出れば他の住人たちの不躾な視線が気にかかる。そのうえ、少しは人目を避ければいいものを、あの開け広げな男はその日の顔寄せが終わるなりいそいそとこちらへ戻ってくるので、後で解かねばならない誤解がいくつも生まれていることだろう。
 それでも、と、淡く光る石を眺めて思う。
 共に行くことが決まるなり作って寄こした装具。過日のオロチの折さえかくやというほどの激しい怒りと、閨でぶつけられた滾つ熱情。そのどれもを、喜ばしく受け入れる常春の心が確かにこの胸にある。
(俺もだいぶあいつに影響されちまってんのかな)
 どこか悔しくもあるようで、それ以上に心地よい。共に在らねばと思うのは、自分も同じだ。
 ばたばたと、長躯の脚が廊下を大股に進んでくる音が聞こえる。一日の労をねぎらい、欲深くも優しい狼の腕へ飛び込んでやるべく、浮き立つ春の心に笑み落として、黒猫はしなやかに布団の間を抜け出した。


―了―

NOVEL MENU