パンプキンデイズ
時刻は二十時三分前。
住宅街にほど近い小さな通りに面したコンビニの一角、夜空に見立てた黒の布地を背景に、オレンジと紫、鮮やかな原色のポップが踊る棚の前で、日向は独り立ち尽くしていた。
今日が何やらの祭りの当日であることを知ったのは、日の半分をとうに過ぎ、じき西の空が赤く染まり始めさえしようかという時分になってからだった。
「日向さん、トリックおあトリート!」
部室のドアを開けた途端、見事なまでのカタカナ英語とともに両手を目の前に突き出してきたのは、部内でもひときわ賑やかな後輩だった。
「……おー」
満面の笑顔と向き合って数秒、浮かれたポーズのままの相手にひと声返して横を行き過ぎようとすると、待って待ってと慌てる腕に引き止められる。
「薄い! 反応が!」
せめてツッコミだけでもと請われ、練習前の気合いが音立てて抜けていくのを感じながら、解説、あるいは助け舟を求めて周りを見回すが、先に来ていたチームメイトたちからは苦笑が返るのみだった。仕方なく隣に視線を戻し、自分より少し身長のある後輩の頭上に揺れる珍妙な物体を見て、ひとこと落とす。
「とりあえず全力で殴りたい」
「えー! なんでですか! 日向さんの好きな猫っすよっ」
「こんなむさくてごつくて可愛くないにゃんこはこの世に存在しないっつーかしなくていい」
「色々ひどい!」
日向さんなら気に入ってくれると思ったのに、と背を丸めて嘆いている後輩の頭には、作り物の猫の耳が乗っていた。小さくて可愛い女の子ならまだしも、厳つい男子バスケ部員が着けたところでプラス効果など皆無であり、でかい体にミスマッチこの上ない。
「そもそもなんでそんなアホな格好してんだよ」
「ハロウィンですよハロウィン」
ロッカーに向かいつつ問えば、後輩は意味なく胸を張ったポーズで答え(これにより外見の残念レベルはさらに上がった)、
「というわけでお菓子ください」
トリックおあトリート、とカタカナ語を発して、また両手をこちらへ差し出した。
悪戯かお菓子か。仮装した子どもがそんなことを言いながら街を練り歩く祭りが、海の向こうにはあるらしい。ごく一般的な知識を行動にかけ合わせてああそれかと納得はするが、ごく一般的な日本人として、「あるらしい」程度の知識に留まる行事に、備えなどしているはずもない。
「いや、ねーよ」
「なんでもいいんすよ。アメでも煎餅でも」
「なんもないって」
世の中にはアメだのガムだのを常に携帯して切らさない人間もいるようだが、あいにく日向はそうした人種ではない。言いつのる後輩に淡々と返すと、そうすか、と相槌が打たれ、
「じゃあ、イタズラということで」
言うなり、やにわ背後から伸びてきた腕が、日向の胴をがしりと掴んだ。ぎゃあと声を上げるよりも早く、指が脇をくすぐりだす。
「こちょこちょー」
「ぶっ、おま、……は、ふははははっ、やっ、……やめんかダァホ!」
思わず振り回した肘が背後の腹に突き刺さり、ごふぅ、と芝居じみた声を漏らして後輩が床に崩れ落ちる。周りから爆笑が起きて、茶番はひと段落となったようだった。
「……これで今日ここまでの戦果はアメ一個、ガム一枚、チョップ三発に回し蹴りと肘鉄一発ずつか……」
「完全に収支マイナスじゃねーか」
どうやら部室に来る人間全員に試みているらしい。ふらふらと立ち上がる後輩に呆れの息を落としつつ、どうりで妙に人が多いはずだ、と周りの先人たちにならって観客に回ることに決めて、手早く着替えを済ませた。
その後、茶番劇はベンチに七個目ののど飴が並んだところで後輩の心(と部分的に体)が折れて終幕した。季節柄急に気温が下がり、風邪が流行りはじめたところで、至るべくして至ったオチと言えなくもない。まあ当人としては道化役をやり切ったということで、主将に一本背負いを決められつつも満足げな様子ではあった。
そうした戯れも密度の濃い練習で一度忘れ、清々しい疲労感を背に仲間たちと別れの手を振り交わして、帰路。コンビニの明かりをふと目に止め、何か買っていくかと店に入って三歩目のところで、数時間前のやり取りを思い出した。
店員の力作だろう、華やかに飾りつけられた棚に、主役のカボチャを始め、栗やら芋やらといった「秋の味覚」を押し出した大小の菓子とデザートが並べられている。前面に踊るHappy Halloweenの文字と、例の決まり文句。
なんとなく前に足を止め、派手なディスプレイを見やる。日向自身は今日に至るまで別段気に留めてはいなかったが、世間的にはそれなりに認知された行事ではあるようだ。とはいえ、同じく海の向こうからやって来たクリスマスほどのメジャーさではない。よほどの暇人か、今日の後輩のようなイベント好きの人間でなければ、へえそうか、程度で済ませてしまう一日だろう。
そうまで考え、なら、と思考がひとつ先に進む。
なら、あの男はどうだろうか?
そう心中に唱えて思い浮かべるのは、これから向かう部屋の主であり、高校時代からのあれやこれやを経て、この夏からオツキアイなぞを始めるに至った相手であるところの男の顔である。
果たして、あの天然ボケ男は今日の祭りを知っているだろうか? 知っていたとして、乗ってくるだろうか? 乗ってきたとして――
(……オレは、菓子を買っていくべきなのか?)
湧き上がった問いとともに、場面は冒頭へと戻る。
海の向こうにはハロウィンという祭りがあり、その祭りには、バケモノに扮した者が人に菓子か悪戯かの二択を迫る、という意味不明な約束事がある。
(そのぐらいは、さすがにアイツも知ってるだろ)
いくら度を越した天然ボケとはいえ、頭が悪いわけではない。むしろ学業レベルの点で言えば日向など及びもつかないぐらいの差があるのが実情だが、それはまあ、この話にはどうでもいい。空気を読む力は部分的に大きく欠落しているものの、周囲を見渡す目は確かで、やや「知恵袋」的なところに偏るきらいはあるが、それなりに物知りでもある。ハロウィンという行事そのものを知らないとは思えない。
ならば残る問いはふたつ。今日がそのハロウィンの当日だということを認識しているか。そうと知っていた場合、実行してくるか。
前者に関してはこちらで判断しようがない。日をまたいで積極的に憶えているということは考えづらいが、このぐらいの時間になればどこかで情報を得ている可能性も低くない。そして後者に関しては、正直わからない。あえて言うなら五分五分である。
木吉鉄平という男は、一見常に朗らかで鷹揚でのんびりとした気のいい人間のようであり、そういった面も実際にあるのだが、そこで聖人君子のように思って接すると必ずどこかで一杯食わされる、油断ならない策士の横顔を持つ人間でもある。日向自身、あの何も考えていないような柔和な笑みに、出会った当初から何度騙されたかわからない。当人に悪気や含みはなく、いつも素であるからなおさらタチが悪い。
加えて、お祭り好きとまでは行かないが、何に対しても「楽しんでこーぜ」が信条の男である。たとえば今から十分ほどのち、ドアを開けた先に突然カボチャおばけかオオカミ人間にでも扮した大男が満面の笑みで手を広げ、例の文句を唱えてきたとしても、驚き呆れこそすれ、意外、とまでは思わない。そして単なる想像図だが、あの男の頭に乗ったネコミミならぬイヌミミはやたらにしっくり来る。
(ふ、……あ、いや、別になんとも思ってねぇし)
全然面白くもかわいくもねぇしそもそもオレ猫派だし、と誰も聞いていない弁明を胸に唱えながら、棚へ向き戻る。
今日の祭りにおける菓子は代価というか、予防線のようなものだ。数時間前の後輩とのやり取りでも、どちらがイベントとして正解だったかはさておいて、アメの一個でもあればあの「イタズラ」は免れていた。
そうして、立ち戻って考える。万が一、知っている、実行してくる、と事が進んだ時に、仕掛けてきそうな「イタズラ」について。後輩がした程度のささいな悪戯ならさして問題はない。が――。
『お前、大学生にもなってしょうもない悪戯してんなよなー』
『いーじゃねっすか。みんな盛り上がってたし。オレだってできたらかわいいミニスカ魔女と二人でイロっぽいイタズラしたりされたりしたかったっすよ! でも無い袖は振れないイナイ彼女とデートはできない……』
『オレらの心までえぐること言うなよ……』
部活終了後の部室で、別のチームメイトと後輩が交わしていた会話。後輩のお一人様事情はさておき、健全な男子学生として、その発想というか妄想はごく正常なものであると思う。加えて、そういうもんか、となんとなく納得と感心を覚えてしてしまったのは、世のカップルというものは、クリスマスだのバレンタインだのといったわかりやすいイベントのみならず、本来は関係がないはずの祭りでさえ、自分たちのものにしてしまうというところだった。
イロっぽいイタズラ。頭のネジをひとつふたつ飛ばしたような響きの言葉が、この棚を目にした途端、頭の中に浮き上がってきた。
ミニスカ魔女になってくれる彼女はいないが、普段から真正直な犬の耳と尾が見えるような大男はいるのだ。告白されて、よろしくと返して、それから両手に余るほどの回数を二人きりで会って、あまつさえ、年内には二人暮らしを始めようと現在進行形で家を探してさえいる。この関係を恋人と言わずしてなんと言う、といった相手がいて、しかも今これからソイツの家へ向かうところなのだ。無論、泊まりの前提で。後輩の言葉でさほど心をえぐられなかったことに、逆に少々複雑な衝撃とこそばゆさを覚えた日向だ。
ともかく。ソイツが今日がハロウィンだと知っていて、実行してきた場合。わざわざ仕掛けてくるからこそ、くすぐる程度の悪戯を企図するはずもない。外面は悟った聖人のようでも、中身は日向と変わらない健全な男子学生である。さらに言うなら普段からスキンシップを好む人間だ。「イタズラ」が頭のネジをふたつみっつ飛ばしたようなものになる可能性は高い。
そこで、予防線である。なんのことはない。回避策として、菓子を買っていけばいいだけだ。
けど、と思考が止まる。
買っていけばいったで、イベントを意識していそいそと準備していったようで、決まり悪いうえに日本男児として何か情けない。
と言って、今日をそうした日と知りつつ何も持たずにいけば、まるで「イタズラ」を期待しているようで、これまたなんともこっ恥ずかしい。
詰まるところ問題は自身の気の持ちようであり、胸底のへたれた部分が顔を出しているだけなのだが、当人には色々な矜持との天秤にかかるそれなりに深い悩みである。
今日この時ほど自分が日頃からアメだのガムだのを携帯する人種ではないことを悔やんだことはない、とまで思い詰めたところで、ふと、背中に強い視線が突き刺さっていることに気付いた。そっと顔を振り向かせると、店員がレジの中から微妙な表情でこちらを見ている。華やかなイベント棚の前で、男ひとり微動だにせず立ち尽くしていれば、まあ無理もない反応だ。
沈思に落ち込んでいた頭を振り立て、不自然ではない程度にそそくさとその場を離れて、当初の目的であった酒類の冷蔵棚の前へ移動する。安いビールと酎ハイの缶を二本ずつ掴み出すと、入り口でカゴを取ってこなかったので両手がいっぱいになってしまった。手を出せない菓子の棚をもう一度横目で見やってから、半ばやぶれかぶれの気分でそのままレジへ向かう。キャンペーンの文字に飾られたレジの向こうで、店員が安堵したように表情をゆるめていた。
「ありがとうございます。お会計が六百――」
◇
いつもの道をいつもの一・五倍ほどの時間をかけて歩いたが、そもそもの距離が短いので、十分もかからずに家に着いてしまった。
木吉の住む学生マンションはオートロック式ではないため、ひとり黙々と階段をのぼって廊下を進み、もはや馴染みとなったドアの前に立つ。ひと月前まではここでインターホンを鳴らしていたのだが、今は代わりに肩にかけたバッグに手を伸ばす。内ポケットから取り出すのは、このドアを開けるための合鍵だ。
ルームシェアの話が決まった翌日、引っ越すまで使ってくれ、と渡された、いまだキーホルダーも付けていない真新しい鍵を手にするたび、なんとも言い表しがたい思いが胸に湧いてくる。むずがゆさや気恥ずかしさが大部分を占めるが、それのみに終わらない、ぼんやりと熱を持った感情。深く考え始めれば羞恥が進むだけなので、あえて言葉にはせずにいる。
オレも大概だ、と小さく肩を落としつつ、また延々立ち尽くしているわけにもいかず、ひとつ覚悟の息を入れて、穴に差し込んだ鍵を回す。錠の外れる音はかすかだが、独り暮らしの狭い部屋にはそれなりに響く。大まかな時間の予告もしてあるので、部屋主はすぐ日向の来訪に気付くはずだ。
もう知ったことか、来るなら来やがれ、と捨て鉢気味に開いたドアの向こうからすぐさま飛んできたのは、弾んだ音の横文字ではなかった。
「よー日向お疲れ。すげーいいタイミングだったな」
今ちょうど飯が炊けたとこだ、とのんびりした声が続く。その頭にはかぼちゃの被り物も、イヌミミもとい狼の耳もない。
「ん、どうした?」
「……あ、いや」
不思議げに呼びかけられ、ドアを開けた姿勢のまま固まっていた日向は慌てて玄関の中へ足を進めた。後ろ手に鍵を閉め、靴を脱いで台所に上がる間も警戒を解かないままでいたが、木吉は棚から茶碗を出しながら調子外れに鼻歌など口ずさんでおり、普段と変わった様子は全くない。
(とりあえず会っていきなりの線はなくなったか)
とは言え油断は禁物とこれまでの色々を思い返しながら、気付かれない程度の距離を保ったまま横をすり抜け居間へと踏み入る。いつもの場所に下ろしたスポーツバッグが床でがちゃりと固い音を立てた。
「そうだ、酒」
十分前の買い物すら一瞬頭から抜け落ちているとは、なんとも情けない話だ。さすがに動揺し過ぎだろ、と相手のごく普段通りの様子も手伝って少し緊張を解きつつ、引っ張り出したコンビニの袋を手に台所へ戻った。
「ビールと酎ハイ買ってきたから、冷蔵庫入れとくぞ」
「ああ、サンキュー。あとでまとめて請求してくれな」
「おう。……あ、あとこれ」
言って、味噌汁を碗に注いでいる木吉に一・五リットル入りの緑茶のペットボトルを示す。
「なんかコンビニのくじで貰ったから、やる。つーか置いてかせてくれ」
重くて持って帰る気にならん、と言えば、ああと笑いが落ちてくる。
「あそこのコンビニよくやってるよな。なんか、五百円? あ、七百円以上で、とかだったか」
「ハズレなしはいいんだけどよ、普通五百ミリだろ。こんなでけーのいきなりくれても困るわ」
明らかに在庫処分とおぼしき中小メーカーの緑茶を小さな冷蔵庫に押し込み、隣に立ち上がった流れで湯気を立てる碗を両手に受け取って、居間のテーブルに置いた。いつもならこの往復で支度をするのだが、まだ警戒心が残ってしまってなんとなくそばへ戻れず、用事のある振りをして携帯をいじる。ちらと目線を上げると、機嫌良さげな横顔が見えた。と言ってもそうした穏やかな顔が基本形のような男なので、腹の中までは今ひとつ読み取れない。
木吉はチューナー内蔵のPCをテレビ代わりにしているが、あまり積極的には点けない。音楽を流す習慣もなく、部屋は概ねいつも静かだ。食器の鳴る音だけを聞きながら、持っているだけの携帯を片手にテーブル奥の定位置に座り込んで、しばしぼんやりと待つ。手持ち無沙汰ではあるが、息苦しい時間でもない。木吉は日向がハードな練習を終えてから電車を乗り継いでやって来ているのをわかっているので、手伝いを強要してくることはない。むしろ普段はお前は座って休んでてくれよ、と苦笑とともに諭してくるほどだ。
(……なんか、こう)
思考があらぬ方向へ流れかけ、はっとして首を振り立てる。今のはやばいパターンだ。合鍵云々と同じ、主に自分が居たたまれなくなる方面で。
「なんだ、虫でもいたか?」
「や、別に……」
首を傾げて問われ、白米の盛られた茶碗を受け取りながらなんでもないと答える。気付けばテーブルの上には相変わらずの不揃いな食器群がぎゅうぎゅうに並べられていた。どうやらこのまま何事もなく夕食の流れである。
(余計な心配して損したか? つってもこいつのことだからな……)
気を抜くと何が飛び出してくるかわからないと、あくまで用心を続ける日向をよそに、寒くなってきたなぁ、と向かいに腰を下ろしながら、木吉はのんきな声で言う。
「やっぱ引っ越したらすぐに炬燵買おうな。あんまりでかくなくていいから、布団のちゃんとしてるやつ」
「いいけどよ、炬燵を家の中心にするとマジ堕落するぞ」
「絶対そのまま寝ちまうもんなぁ。だから独り暮らし始めた時は諦めたんだが……今度は、日向と二人だからな」
すげー楽しみだ、と言って浮かべた、背景に花の咲いたような、あふれる嬉しさを隠さない満面の笑みに、日向は茶碗に伸ばした手を止めて思わず息を呑んだ。
「お、お前はどうしてそう……」
臆面もなくというか屈託なくというか、どうしてこうも簡単に幸福を全開で示してのけるのか。その理由として名を出される当人としては、照れくさいことこの上ない。
「ん?」
「……いや」
わかってはいるのだ。自分が意固地なタチで、逆に必要以上に表に出せずじまいになってしまっているということは。だがこちらだって、本当はその想いに違えることなど。
「オ、オレ、も……」
一瞬前までの警戒や用心も忘れて、早まった鼓動の勢いのまま告げかける。
「オレも、たの」
「あっ、そうだ、忘れてた!」
一大決心の言葉をあっさりとさえぎり、木吉が勢いよく立ち上がる。喉元まで出かかった声を半開きの口の中に留めおいて、日向は台所へ駆け戻る長躯を呆然と目で追った。一瞬後、首から上に一気に血が昇る。やり場のない憤りと舞い戻ってきた羞恥心とで叫び出したい気分だった。
頭を抱えた日向の耳に、恋人の希少な態度を見逃したとは知らない木吉の能天気な声が聞こえてくる。
「あれー、おかしいな、どこに置いちまったかな」
「……何捜してんだよ」
剣呑な声音に気付く様子もなく、いやなぁ、と楽しげな言葉が返った。
「いいものがあるんだ」
「いいもの……?」
嫌な予感がする。
忘れたはずの警戒線を引き直し、しかし今更ほかに何をすることもできず、ただ身構えて待つ。
(いやいやマジお前空気読めよメシ食い始めるところだろ菓子とかイタズラとか言ってる場合じゃねーだろ、っつかちょっといい雰囲気になってたのにそれを雲散霧消させてまでお前、いやいい雰囲気って別にそういうアレじゃなくていやじゃあ何って言ったらそういうアレ的なところがないでもないかもしれねぇけどだからって別にオレはまあどうでもいいんだけどにしたってとにかく空気読め)
呪詛のように唱えつつ内心はただ動揺を極めているだけであり、あった、と「いいもの」の発見を知らせる声が届いた瞬間、丸めた背が思い切り跳ねた。
「そうだそうだ、レンジで温めっぱなしだった」
「レンジ?」
こいつレンジでイヌミミあっためてんのか、寒いからか、ともはや完全に決めつけて身を固めていると、つま先がこちらへ返り、一歩の広い足を進めて戻ってくる。思わず目をそらして俯くと、とん、とテーブルに何かがぶつかる音がした。
「ほら日向、いいもの」
呼びかけられ、ゆっくりと目線を起こす。見上げた顔はいつもと変わらない笑みで、ジャックランタンの面もなければ、狼男の耳もなかった。視線がかち合い、鳶色の目が不思議げに瞬く。
え、と声こぼして、今度は先ほど音の聞こえたテーブルの上に視線を下げた。大きな手とともにそこにあったのは、鮮やかなオレンジ色の。
「……かぼちゃ?」
「ああ」
と言っても、それは目と口のくり抜かれた面やランプではなく、ハロウィンにつきものの菓子ですらなく。
「昨日バイトに行ったらさ、沢山作り過ぎたからお裾分けだって」
日向にも食わせてやろうと思って取っておいた、と前へ差し出されたのは、深皿に盛られた、鮮やかなオレンジ色のかぼちゃの煮つけだった。
「先に少しつまんじまったんだがすげー旨いぞ! 独り暮らしじゃ煮つけとかなかなか作らねーから、たまにこういうの食べたくなるんだよなぁ。向こうに帰るときはいつもばあちゃんに頼んで……日向?」
湯気の立つ皿を見つめたまま黙り込んだの頭上に、気遣わしげな呼びかけが落ちてくる。それを合図のように、ぶはっ、と日向は勢いよく笑いを吐き出した。
「おま……煮つけかよ! ふっ、な、何が出てくるかと思ったら、かぼちゃはかぼちゃでもこっちとか、そりゃレンジだよ、いくら天然でもミミはあっためねーわ。あれこれ悩んだオレが……ふ、はは、はははは、やべー、止まんねー。ふはははは、腹いてぇ」
ハロウィンと言えばかぼちゃだが、かぼちゃと言えば野菜で、野菜と言えば普通はくり抜いて飾るものではなく料理して食すものである。その実例を目の前に示された途端、沸き立っていた頭が一気に冷えた。そうして冷静になって振り返れば、ここまでのあれやこれやがあまりにも滑稽で、しかもたどり着いたオチがオチで、ツボにはまりこんだ笑いがあふれて仕方がない。
「日向、どうしたんだ?」
「はははは、やめろ、真剣な顔するな、ふはっ、余計おかしい」
眉を寄せる木吉をよそに、身を丸めて笑い続ける。発作のような爆笑がどうにか治まったのは、それから丸一分以上経ってのことだった。
「あー、笑い死にするかと思った……」
練習後並の疲労感とともに深い息をつき、引きつれた呼吸を落ち着かせる。変なところに力が入ってしまい、肋骨のあたりがキリキリと痛んだ。
「何がなんだかさっぱりわからねーんだが」
「いや、ちょっとな」
首をひねる木吉を気にすんなと曖昧にごまかす。まさかお前がハロウィンにかこつけて何かしでかさないかと警戒してた、などと正直に答えられるはずもない。
木吉はまだ少し気にするそぶりを残しつつも、それ以上追及してくることはなく、
「まあ、冷めないうちに食べてくれ」
言って、事の発端となった煮つけの皿をもう一度前へ示した。
「おう。……つっても、今気付いたけど箸がねーわ」
「え? すまん。割り箸持ってくるな」
再び立ち上がる長身を見上げ、まあ、と冷えた頭を改めて巡らせる。
(よく考えりゃ、うちの部員でも憶えてるやつのほうが少なかったのに、こんなじじくせーやつがハロウィンで浮かれるとか考えづらいよな)
まさかオチとして煮つけが出てくるとは思わないが、海の向こうからやって来た由来も知らない祭りにはしゃぐよりは、だ。こうして狭い部屋で小さなテーブルを挟んで向き合って、なんの変哲もない夕餉に箸を進めながら、バスケやら大学やらの話でもしているゆったりした時間のほうが、よほどそれらしいというか、望ましいというか、なんというか。
(別に、ハロウィン自体はどうでもいいし)
祭りが素通りされようが、所帯じみた付き合いだろうが構いやしないのだ。互いに構えず、何かをダシにしてわざわざ盛り上がる必要もないような、自然体で過ごせる相手だからこそ、
「好き、なんだしな……」
ほろり、静かな部屋に声が転がる。
あ、やばい、と思って口をふさいだ時には、胸の中で唱えたはずの言葉はもう相手の耳に届いていた。
ぱたりと軽い音を立てて床に落ちた割り箸と、その向こうの脚を辿って見上げれば、呆気にとられた顔がこちらを見つめている。慌てて弁明の言葉を紡ぎかけ、いや待て、どうせこいつのことだから、と藪蛇を突く前に考え直す。が、ふらりと振り出された長い足は、テーブルの前に止まる代わりにその横を抜け、日向の座る側へと回り込んできた。
あ、やばい、と再び気付くも、やはりもう逃げるには遅い。
「ちょ、なんでこっち来るんだよ」
「いやー、だってあんな顔であんなこと言われたらさ、男としてこう……」
「そこはアレだろ、『かぼちゃがか?』とかお約束のボケをするところだろ!」
「……え、この状況でそんなずれたこと言い出すようなやつがいるのか?」
「お前だよお前!」
傍らに膝をつかれて思わず後ずさるが、後ろはすぐに棚と壁である。あわあわとしているうちに手が差し伸べられ、指先がそっと耳横の髪を梳いていく。
「メ、メシが冷めちまうだろっ」
「そっちは後ですぐあっため直せるけど、日向のお誘いは逃すと次が遠そうだから」
「誘ってねぇ!」
確かに少々恥ずかしいことを口走ってしまいはしたが、お誘いなどというものではない。断じてない。
なんでそうなるんだと荒げる声にもひるまず、だってなぁ、と木吉は変わらず穏やかに言う。
「今日の日向、妙にオレのこと気にしてそわそわしてるからさ。挙動不審でなんか可愛いなぁ、って思ってたら、いきなり好きとか言うし」
「ぐっ」
初めから態度の不自然さはバレバレであったらしい。気まり悪さに俯かせかけた顔を、長い指に支え止められる。じっと覗き込んでくる薄色の瞳の中に、かすかな熱が揺れていた。
「たがも外れちまうよ。十日ぶりだぜ?」
「……う」
そうなのだ。十月の終わりは予定が合わず、顔を合わせるのも、実は声を聞くのでさえ少し間が空いていた。明日も午後から用事があり、休日とは言えないのだが、それでもまだ時間の隙間にはなっているからと、家を訪れることを決めた。
「本当は日向が来たらすぐにがばーって行っちまおうかとも思ってたんだが、ちょうど飯が炊けちまったからなー」
「おま、本気でグッドタイミングだったんじゃねぇか」
けろりと言う木吉に呆れの眉を寄せるが、あまり強い文句も吐けなかった。実際の話、自分だって全くの平常心とは言えやしなかった。本当に何事もなかったのなら、コンビニの棚の前であれほど悩みはしない。たとえ今日の祭りの約束事を知っていたとして、あれほどこの男の言動に気を配ったりはしない。
詰まるところ、ハロウィンという日にかこつけて浮かれていた、と言うか、浮き立っていたのは、自分のほうなのだ。予防線だのなんだのと言いつつ、しっかりそれを意識して、まあ何かあるならあるでやぶさかではない、などと考えていたのだ。
(仕方ねぇだろーが。オレだって)
少し時間ができたからと、遠い道のりをいそいそとやって来てしまうぐらいには、この男に惚れ込んでいるのだから。
「日向」
十日ぶりに聞く低い声が鼓膜を揺らし、背を震わせる。高校時代から何度も日常的に耳にしてきた声のはずだ。いつからこうして中に含まれた情まで意識するようになってしまったのだろう。
顔がさらに寄せられ、額がぶつかる。眼鏡をかけたままでも視界がぼやけるのは、あまりにも相手との距離が近いからだ。
「きよ、……んぅ」
名を呼び返す前に唇が重なり、吐息ごと声を呑まれた。幾度かついばむように触れ合わせ、そっと離れる。一度視線を交わしてから今度は身体ごと引き寄せられ、胸深くに抱きしめられた。
「……なあ」
「ん?」
「お前、今日がなんの日か知ってんのか?」
ゆるやかな心音を聞きながら問いかければ、え、と声が落ちる。
「いや、え? 誰かの誕生日とかだったか?」
返ってきたのはそんな間の抜けた答えで、とぼけている様子でもない。結局、この男はそもそものところから今日という日に気付いていなかったのだ。
「なんの日なんだ?」
「なんの日でもいいんじゃね」
「え?」
世のカップルという人種は、本来は関係がないはずの祭りでさえ、自分たちのものにしてしまうらしい。
しかし少なくとも今回については、自分とこの男にそのあたりのことは当てはまらなかった。きっかけこそハロウィンにつきもののかぼちゃだが、同じくハロウィンにつきものの洒落っ気や茶目っ気はどこにも見当たらない。
多分、それぐらいがちょうどいい。砂糖やらバニラやらをどっさりと使った洒落たデザートなどより、少し所帯じみた、かぼちゃの煮つけぐらいの気取らない甘さが、自分たちにはきっと似合いだ。
「んー、なんの日だったかな」
「だからもういいっつの」
「なんの日にしてももう止めらんねーんだが」
「……止まれとは言ってねぇだろ」
ダァホ、と落としたいつもの悪態は、やに下がった憎たらしいほどの笑みと、二度目のキスであっさりと受け流される。
会計が半端だからと言い訳してレジ横から追加し、バッグの隅に隠し込んだ小さな栗羊羹の出番は今夜のところはなさそうだと、結んだ唇を苦笑とともにほどいて、甘い舌の誘いに応えた。