想夜
目を覚ました瞬間に最愛の人が腕の中にいるというのはなんと幸せなことだろうと、この冬の初めから飽かず幾たびも、尽きない想いを噛みしめている。
ふと目蓋を上げて見やった時計の針は、夜の三時を指し示していた。
ぼんやりした頭のまま寝返りを打ちかけて、頬に触れる部屋の空気の冷たさとは対照の、間近のぬくもりに気が付く。自分のものではない体温。視線を下へずらせば、半身を横へ向けた胸元に、黒髪の頭がうずもれるようにして寝ていた。
呼び差した名をすんでで呑み込み、見下ろす。この冬からの同居人であり、また目下の(願わくば一生の)恋人である青年は、木吉の身じろぎに気づいた様子もなく、穏やかな寝息を立てている。自然と笑みが漏れるのを感じながら、眠りを妨げぬよう注意してその背にそっと腕を回した。
日向との二人暮らしを始めてひと月と少し。馴染みのない道にも部屋の家具の位置にもとうに慣れ、新居は順調に「我が家」となっていた。時間をかけて探した物件にともに満足していたが、ルームシェアという体裁上、別にせざるを得なかった寝室は、リビング(2DKであるので正確にはダイニング)の居心地を優先して部屋を決めたこともあり、やや狭い。ならばいっそと開き直って購入したダブルロングサイズのベッドは木吉の部屋をほぼ占領してしまったが、そのぶん寝心地は上々だった。世間的には充分長身の部類に入る日向と、その基準のさらに上を行く体格の自分が並んで寝ても、まだ縦横が少し余るほどだ。日向のベッドは標準のシングルサイズのものなので、必然的に、共寝をしようと思えば選択肢はこの部屋以外にない。
が、今現在について言えば、そうと決めて並び寝ているわけではなかった。今夜少し早めの床に就いた時間には、家には木吉ひとりしかいなかった。ミーティングとその後の呑み会で遅くなるから、と出がけに語っていた日向は、日付が変わる頃になってもまだ家に帰っていなかったのだ。互いに無駄な遠慮や気兼ねはしないこと――同居初日に交わした約束のとおり、無理に相手を待つことはしない。「おやすみ」の声を交わせないのは本音を言えば寂しいが、朝になれば一番に「おはよう」を言えるのだ。一時の残念でその幸福に手ずから水を差す必要はない。
そんなわけであるから、今のこの状況は多少唐突なものではあったが、木吉はおやと思いつつ特別に驚きはしなかった。理由としては単純で、今夜が初めてのものではなかったからだ。
始まりは忘れもしない、入居五日目の夜、正確には六日目の朝だった。なぜ細かな日付を憶えているかと言えば、やはり単純な話になるが、「初めて別に寝た日の、さらに次の就寝起床時」であったためだ。三日目までは初めから木吉の部屋で二人寝をした。待ちに待った恋人との同居であるからして、無論、ただ寝たのみに終わってはいないが――ともかくも連休をそうして満ち足りて過ごし、四日目はさすがに、と確認し合ったわけではないがそれぞれ本来の自分の寝室で寝た。
明けてその翌日は、本格的な冬の到来を感じさせる、底冷えのする一日だった。特に夜は陽が落ちてから急に冷え込み、雲が出れば早くも雪が降るのではないかとさえ思わせた。折しも日向は練習試合で郊外と言うには少しばかり深く山のほうへ入り込んだ大学へ遠征をしており、夕方、試合の感想の倍近い文量で寒さについての感想が綴られたメールが届いた。
その晩、それぞれの部屋の戸の前でおやすみを言うまでは前日となんら変わらなかった。だが――翌朝、木吉がふと目を覚ますと、すぐ隣に恋人が身を丸めていたのだ。
今でこそおやと思うだけで済むが、その時はもちろん非常に驚いた。記憶を必死にたどったが、確かに一人で布団に入ったし、日向を部屋へ連れ込んだ憶えもなかった(願望がどうであったかはまた別の話だ)。つまり、と結論付けて絶句していると、動揺の気配に気付いてか、日向も目を開いた。ぼんやりした視線がやがて木吉の顔に焦点を結び、見る間に血の色が首から顔へせり上がり、そこからは弁明の嵐である。
とにかく寒かった。レポート用紙二枚ほどの量に及んだ日向の言い分を総括すると、そのひと言に尽きるようだった。あまりに泡を食った様子であったため木吉もそうだなわかったと頷いてやったが、それが全てと納得するほど短い付き合いではない。日向の側にしても同様で、本音を読まれていることには当然気付いていただろうし、そこで開き直りもしたのだろう。だからこそ二度目以降があって、かついまだ続いているのであり、ことさらの指摘は愚の骨頂である。
とどのつまり、彼はこちらのベッドの寝心地がお気に召したらしい。木吉は単純に喜び歓迎した。そこに自分の存在という要素が含まれないと思うような浅い付き合いでも、もはやなかった。
以来、三日目までは木吉が声をかけて誘い、それからは互いに何を取り決めずとも、週の半分以上は部屋の前ではなくベッドの上でおやすみの言葉を交わすようになった。寒いからな、と日向は意固地に理由を付けていたが、そうした前置きはもうほとんど癖のようなものなのだろう。なんだかんだと言っても布団の中で身を抱き寄せる木吉の腕を拒むことはなかったし、今夜のように寝る時間がずれれば、自分からやって来てくれることもある。
自他ともに認める練習バカである日向は習慣的に朝が早く、大抵は木吉より先に目覚めている(前述の出来事にしても、本当は気付かれる前に出ていく心づもりであったところをうっかり寝過ごしてしまったらしく、詰めの甘さは相変わらずのようだ)。逆に帰宅は部活の関係で遅いこともままあり、さらに木吉が寝付きが良く熟睡するたちなので、先に寝ているところに入ってきた気配はあるが、目を覚ますと既にいない、という日もあった。ますます猫じみてきたな、と初めは笑いもしたが、いくらもしないうちに、そんな可愛らしいだけのものではないと思い知る。
ある夜、たまたま眠りが浅かったのか、日向が部屋の戸を開けて入ってくるところで目が覚めた。そういえば初めてのことだと思いながらなんとなく声をかけず、そのまま気配をうかがう。日向は足音を忍ばせてベッドの横までやって来て、木吉が寝ていることを確認するように少しその場で佇んでから、眼鏡を外してヘッドボードに置き、そろりとベッドへ上がった。風が入らないように布団をほんのわずかに持ち上げ、シーツとの間に身体を滑り込ませる。常から特段騒がしい人間ではないが、こんな静かでゆっくりとした動きもできるのか、などと埒もない感想を抱いて狸寝入りを続けていると、手に何かが触れた。どうやらそれは日向の指で、木吉は横向きの体勢で上になった腕を空いた側へ投げ出すように寝ていたのだが、その腕をさらに木吉自身の胸元から離そうとしているようだった。
なんだろうと思いつつ薄目も開けず、なされるままにしていると、やがて手が止まり、気配が一度布団へもぐったかと思った次の瞬間、まさしく猫のようなしなやかな動作で、するり、腕と胸のあいだにできた隙間にあたたかな身体が入り込んできた。湯上りの石鹸の香りにぎくりとした木吉の身の揺れにも気付かず、日向はもそもそと納まりの良い場所を探すようにし、やがて肩口に顔をうずめて寝入る姿勢を定めたようだった。
すぐに聞こえ始めた寝息に、急激に早まった鼓動に気付かれぬよう祈っていた木吉は、ようやくこわばった身の力を抜き、日向の後ろにかかった腕で改めてその背を抱いた。いつもの体勢と言えばそうなのだが、よもや先に寝ている腕の中に自分で入ってきてくれるとは思いもしなかった。
――寒いから、うん、寒いからなんだよな。
そう、もはや形ばかりのものでしかない理由を必死に胸にくり返したが、一度上がった熱はなかなか治まらず、翌朝、寝不足で真っ赤になった目をそもそもの元凶に指差して笑われることとなった。
あれからだいぶん日も経ち、互いに動じることはなくなった。残ったのは、穏やかで幸福な日々の習慣だ。傍らに存在を確かめるたび、幾度でも、この限りのない幸せに酔いしれる。
顎先をくすぐる短かな髪をそっと撫でると、ほのかな洗髪剤の残り香がした。今ではもう少しも煽られないと言えば強がりになってしまうが、寝付けなくなるまでではない。肌に触れ、熱を求め合う狂おしいひと時も、ただ寄り添い過ごす穏やかなひと時も、ともに代えがたい大切な時間だ。
少しだけ身を離し、寝顔を見つめた。普段より表情が幼く見えるのは、眼鏡を外しているからだろうか、或いは、もはやトレードマークにも近い眉間の皺がほどけているからだろうか。何ともなくそんなことを思って、以前にも同じ考えを巡らせたことがあるのを思い出した。あれは確か、去年の夏、にわか雨に降りこめられて偶然の再会を果たし、泥酔して独り暮らしの木吉の部屋へ転がり込んだ翌朝のことだ。思えば、あれが日向と同じ部屋に二人きりで寝た最初の日であったのかもしれない。厳密には隣り合って寝倒れていただけであり、同衾とは言いがたいが(そもそも布団すら敷いていなかった)、あの日を境にして、彼との関係に明確な名が付けられたのは確かだ。
あれから自分たちは変わったろうか? 変わったとも言えるし、変わっていないとも言える。極論すれば、高校の時分からさえほとんど変わっていないとすら言ってしまうこともできる。いつから始まり、どのようにして育ったのか判然としないほど身深くにあるこの心は、己を己と成すものの重大な一部のように、さも当然といった声で想いを語る。
ともすればほんの少しの弾みで胸からあふれ、分別なく暴れ立ててしまいそうな未熟な心を、いつも日向は呆れながら笑って受け止めてくれる。お前はバカだと息をつきながら、それでも大切なのだと平素は鋭い目を優しく細めて、痛みも弱さも分け合ってくれる。いつからか、すまないと謝るより先に、ありがとうと感謝を告げることを覚えた。欠けた心ごと受け入れるからこそ、優しさも幸福も、倍にして分け合えると知った。
(……いかん)
鼻の奥がつんと痛むのを感じ、慌てて唇を噛み、眉間に力を入れて、にじみかけた涙をこらえる。もともと涙腺を締めるネジの弱い自覚はあるが、ここで泣いたとすればさすがに笑い話だ。
と、少しだけ鼻を啜った音に気付いたのか、腕の中の身体がもぞつき、ん、とくぐもった声とともにゆるやかに目蓋が上がった。胡乱な瞳が下、正面とさまよい、やがてこちらに視線を向ける。
「起こしちまったか?」
寝ぼけているならそれ以上覚醒させないようにと、声をひそめて問う。背を撫でても髪を撫でても起きなかったのに、泣きかけた気配で目を覚ますなど、気恥ずかしくも少し自惚れてしまう。
「……何時?」
「三時だ。まだ起きなくて大丈夫だぞ」
「んー……」
頭を撫でるとわずかに頷き、とろとろとまた目を閉じかける。
「……日向、キスしていいか?」
不意に湧き上がった想いに押され、声を強めるでもなく、静かに訊いた。いきなりなんだと怒られても構わなかった。耳に届かず寝られてしまったらそれでも良かった。
胸元で小さく首が傾ぎ、また少し目蓋を開いた恋人から、んん、と鼻にかかった音が返る。了承なのか拒否なのか、はたまた疑問なのかと判じかねているうちに、ふらりと上がった日向の手が木吉の肩をゆるく掴み、それを支えに、ぐっと枕側へ身を引き上げるようにする。そうして、
「ん」
「え」
間の抜けた声の一瞬の応酬のあと、やわらかな感触が伝わる。ちゅ、と濡れた音を立てて唇を離した日向は、それに対して何を述べるでもなくまた布団へもぐり直し、木吉の胸に頬を寄せて、おやすみ、と呟いた。
「お、おや、すみ……」
返す言葉がぎこちなくどもる。揶揄の笑いの代わりに、すぐ二度目の眠りに落ち込んだらしい静やかな息の音が聞こえてきた。
ああ構わない。潔く前言撤回しよう。まだまだ動じることはある。想いに底が見えないのだから、それはある意味で当たり前のことなのかもしれない。知らない景色の中も彼と隣り合って歩けば、忍耐や狼狽さえ幸福の一部だと気付く。
「お前にはいつも参るなぁ……」
色々な意味で、と笑って胸に独りごち、間近の髪の隙間に口付けを落とす。
これほどに物思う夜も久々だ。そもそも、こんな半端な時間に目が覚めることが珍しい。思わぬ吉事といい、寒さの厳しい夜に傍らに感じる体温は、人の心をやわらかくするのだろうか。
さて暖かくなったら今度はどんな理由を付けようか、と愛しい人との次の季節に思いを馳せながら、今夜は交わし損ねたはずのおやすみをもう一度腕の中にささやいて、静かに目を閉じた。