Sweet dreams, Baby.
駄目だ、と廊下の向こうから耳馴染みの声が聞こえ、出久は扉を挟んで立つ尾白と鏡映しの動作で首を横へ向けた。大きく良く通る声の主とその相手は、どうやら角を曲がった先のエレベーターのあたりに立っているようで、姿は見えないが、おおよその状況の予想はつく。
「誰か怒られてるのかな?」
「上鳴はさっき下でテレビ観てたけどな」
さらりと具体的な名前を出した尾白に笑い、しかしあり得る候補だな、と内心頷く。この階で、どころかクラス全体で、声主の彼――眼鏡のA組委員長から日常での説教を受ける回数が突出して多いのは、まさにいま名の挙がった、気はいいが少々迂闊な生活態度の目立つ彼だろう。尾白も同じ三階メンバーとして現場を何度も目撃しているらしく、常日頃のことと、もはやあまり興味もなさそうだ。
「それじゃ本ありがとう。必要なところをノートにまとめさせてもらったらすぐ返すから」
「ああ。別に急がなくていいよ。もう俺も頭に入ってるし」
さすがだね、と笑って手を振り交わし、きびすを返してエレベーターへ向かう。さて正解は、などとクイズ番組の司会者気分で角から顔を出し、予想外の取り合わせを見て、思わずその場に足を止めた。えっ、と漏れ落ちかけた声を慌てて手の下に押しとどめる。
「ゆうべも話したろう。駄目だって」
「ひと晩考えたけどわかんねえ。なんで駄目なんだ。そんな深刻になるようなことなのか?」
「何度言われても、無理なものは無理だ」
廊下の先に立っていたのは、聞こえた声からその佇まいまでを思い描けていた飯田と、まるで予想の範囲外に名のあった轟だった。部屋ではなくエレベーターのドアを挟んで向き合い、何やら話し交わしている。それも想像していた委員長としての説教ではなく、言い争いに近いような、穏やかならぬ様子だ。
(飯田くんと轟くんがケンカ? 珍しい……)
二年に昇級してからもふたりはずっと(有難いことにこの自分も含めて)仲の良い友人同士だ。先の戦いでは同じ戦場に配置され、それぞれの力を最大に活かし合わせた窮地急行劇を成し遂げて、ますます親しみを深めていたように思う。
ともに自意識がはっきりした人間のうえ、少々、だいぶ、かなり、天然なところもあるだけに、異なる意見の述べ合いや、珍妙な言葉のすれ違いを生じさせていることもあるが、これもまた揃って根が優しく穏やかなふたりなので、険悪な状態に陥っている場面はほぼ見たことがない。飯田の説教にしろ、せいぜいが「毎日蕎麦ばかりだと栄養が偏るぞ轟くん」だの、「早く髪を乾かさないと風邪を引くぞ轟くん」だの、「こんなところで寝ていると身体を痛めてしまうぞ轟くん」だのといった、同級生への叱責というよりは、心配性の母親がせっせと子どもの世話を焼いているような、他愛ない注意ばかりだ。
首傾げて眺める先で、ふたりの掛け合いがやや早口に続く。
「初めから諦めちまうなんて、お前らしくないぞ。絶対って決まったわけじゃねぇだろ」
「そう言って先週もその前も、今月に入ってからずっとじゃないか。ほとんど決まっているようなものだろう。……部屋に戻るから、手を離してくれ」
「いやだ。俺は納得できてねぇ」
「轟くん」
自室に向かおうとする飯田を轟が引き留めているという状況らしい。エレベーターの中から掴まれた腕を無理やり振り払えずにいるあたり、飯田も決定的に気を損ねてしまってはいないようだが、このまま長引かせないほうが良さそうな気配だ。とても優しい二名ではあるものの、爆発までの導火線が双方あまり長くないことも知っている。
ええい、と足を踏み出す覚悟を決めたその時、
「……頼むよ、轟くん。俺だって君を
嫌って言ってるわけじゃない。ただ迷惑をかけたくないだけなんだ」
いつも溌溂とした声がワントーン落ちて、つられるように場の空気がやわらぎ、そして揺らいだ。またすんでで身を止め、様子をうかがう。
「俺は迷惑なんて思ってねえ」
「だがいいことではないだろう。このまま続けば俺は君を駄目にしてしまうし、俺自身も駄目になってしまう……」
「飯田」
俺は後ろ暗い気持ちなしに君と一緒にいたいんだ、と語る声はごく真摯に響き、前のめりになっていた轟も気勢を落ち着けて、エレベーターを降りつつ、掴んでいた腕をそっと離した。自由になった飯田はしかしその場を去ってしまわず、目を床へ逸らして、ふたり立ち尽くしたままでいる。
困り果てたのは出久である。衝突寸前という雰囲気ではなくなったが、今度は別の一触即発を感じさせる何かが場に醸し出されてきている。クラスの女子、特に芦戸や葉隠あたりが騒ぎそうな、妙にしっとりした何か。戦争終結からこっち、ふとした弾みでふたりのあいだに香るようになった何か。ふわふわとやわらかで掴みどころのない、それでいて飯田の常飲する柑橘飲料のように甘酸っぱい何かが、今ほとんど目に見えるような濃度でそこにある。出ていかなければ部屋にも共有スペースにも戻れないが、この濃すぎる空気の中をまっすぐに突っ切る度胸は、悲しきかな、古馴染み称するところの〝クソナード〟の自分は持ち合わせていなかった。
(えっ、ていうか飯田くんも轟くんもいつの間にそんなことに……?)
確かにそうした「何か」の兆候は表れていたが、これまではまだ笑って見て見ぬ振りできる範囲だった。変化に最も疎いままでいるのがおそらく当の本人たちという状況下、少々の困惑に当てられつつも、さらりと流して隣にいられる程度だった。だが今のやり取りは、出久の認識を一歩も二歩も踏み越えている。このままを続けること、次へ進むことを思い悩んでいるかのような会話だが、つい先ごろまでは、そのはるか前段階、スタートラインにすら気付いていなかったようなふたりだったはずだ。
冬休みのあいだに何かがあったのだろうか。寮制と外出規制が緩和され、復興活動も一時休止となった年末年始、出久も他の雄英生たちの多くと同様、休暇のほとんどを昨年はほんの短い期間しか帰ることのできなかった実家でゆっくりと過ごしていた。しかし大戦の余波でいまだ超多忙だという大所帯のヒーロー事務所を家族が抱える飯田と、実家は雄英近郊だが色々の事情で里心の薄い轟は、さすがに大晦日から三箇日にかけては帰省しつつも、休みの大部分を寮で消化したらしい。
「何か」に進展があったとすればその期間だろう。いやしかし、新学期に顔を合わせたふたりに特段の変化はなかったように思える。やけに距離が近いと思えば、はたとそれに気付いてまたやけに離れ、それでもそわそわと相手を気にかけるそぶりを見せる二名に、今年も明けて早々もどかしい、と笑った記憶さえあるのだから。
――と、思い巡らせるのに集中して、足が一歩前に出てしまっていたらしい。顔をこちら側へ向けていた轟が気付き、名を呼びかけてきた。
「緑谷、いたのか」
「えっ、緑谷くん?」
飯田も驚き顔で振り向く。反射に飛び上がりかけたのをどうにかこらえ、角から進み出ながらわたわたと頭を下げた。
「ご、ごめん! なんだか話し込んでたみたいだったから……」
陰から盗み見してしまっていたことへの弁明を述べたつもりであったが、そこまで口にして、むしろまずいと気付く。これではついでに盗み聞きまでやりましたと白状したようなものだ。
おそるおそる頭を起こして見やったふたりの顔に不快の色はうかがえず、話を聞かれて困った様子も浮かんでいない、どころか。
「いや、こちらこそ申し訳ない。公共の場で騒いでしまって」
「道塞いで悪ぃな。……なあ飯田、ちょうどいいから緑谷にも付き合ってもらって、どっちの言い分が正しいと思うか聞いてみねぇか」
「む、そうだな。こうなれば公平な第三者に実地からの審判を仰ぐのが最善手かもしれない。緑谷くん、突然ですまないが、これから少しばかり時間を頂戴できないだろうか!」
「ええっ?」
あれよという間にまるで思いがけない方向に会話が発展して、いっそう泡を喰った。
ほかならぬ親友(と自分がこの言葉を使うのはまだ少し気恥ずかしく感じるものの)ふたりの頼みとあらばできる限りに応えたいとは思うが、なんの実地であるのか、果たして第三者が付き合っていいものなのか、大いに疑問と不安がよぎる。いやいや駄目でしょ普通に考えたら、と、「何か」の中に自分が組み入れられる想像すらできず、たじろぎ数歩あとずさった出久の様子と、携えていた本を見て、飯田がおっと、と言葉を続けた。
「ひょっとしてこれから読書の時間だったかい? もちろん緑谷くんの予定を優先してもらって、こちらのことはまた日を改めてのお願いでも全く問題ないんだが」
「あっ、いや、これは尾白くんから今借りたばっかりで、次の護衛術の演習までにまとめればいいから……」
うんそうなんだごめんね、とでも答えれば当座はしのげたというのに、つい素直に首を振ってしまった。嘘をつかないふたりとともにいると、向き合う側の口からもなかなか嘘が出てこなくなる。
この流れで時間があることを示唆すれば、もはや頼みを了承したようなもので、そうか、と揃って笑みを浮かべられてしまうと、やっぱり無理ですとはとても言い出せない。ふたりともやわらかくなったなぁ、などと入学当初の頃をしみじみ懐かしむ現実逃避に走る間に、話は着々と進む。
「では緑谷くん、これから轟くんの部屋に集合ということでお願いできるかな。俺は一度部屋へ戻って荷物を取ってくるから」
「頼んだぞ緑谷。そのまま本読んでてもいいけど、お前も一回戻るか? 英語の宿題よくわかんねぇとこあるっつってたろ。まだなら一緒に見てやるから勉強道具持ってこいよ」
「は、はい……、……え、勉強?」
やや早口なふたりの勢いに流されるまま返事をしてから、幾度目かの予想外の語を聞いたことに気付き、こぼれた声に疑問符がついた。斜め方向へ突き抜けた発言もしばしばの愛すべき天然二名は、出久がおうむ返しにした予想外の語――ごく常識的一般名詞を聞き、つい一分前まで言い争っていたとも思えないシンクロ具合で左右対称に小首傾げてのち、ああ、とこれまた揃ってあっさりと頷いた。
そういえば今年に入ってから来るのは初めてだっけ、と轟の部屋に入ってすぐに気付いたのは、前回の訪問時からの大きな変化、部屋の中央に鎮座した炬燵が所以だった。リフォームされた和室に似合いの冬の風物詩は、一年次の文化祭後には既に持ち込まれ、男子棟のちょっとした交流スポットのようになっていたが、昨年は復興支援活動で寮を空ける日が多かったこともあり、設置が延び延びになっていたらしい。
冬休みに入ってようやく出したという経緯を聞きつつ、部屋主を挟む並びでそれぞれの辺に座を占める。言われるままにやって来たはいいが、いったい自分がここで何を、飯田いわく〝審判〟すれば良いのだろう、と戸惑い半分でいると、向かいに座った飯田が「さて」と仕切りの声を発し、改めて語りかけてきた。
「わざわざありがとう、緑谷くん。たぶん何が問題かすぐにわかると思うから、少しの時間よろしく頼むよ」
「あ、うん」
「すぐかよ。信用ねぇな」
反射的に頷いた出久の横から轟が口を挟む。またぞろ喧嘩(のような何か)の再開かと焦りかけたが、形よい唇を尖らせる様は不機嫌というより子どもじみた拗ねの態度のように見え、そうさ、あっという間だと思うぞ、と、こちらは妙に頑なに言い重ねる飯田へもそれ以上の反論はせず、黙って自分の前のスペースに筆記用具を並べている。
どうやら本当に勉強を始めるらしい、とまるで理解につながらない理解のみを得て、出久も形だけ身の回りをととのえた。ふたりに倣って開いたノートの上でペンを握るも、意識の配分は手元に一、親友たちのおかしな様子に九だ。入寮以来幾度となく開いている席だが、とても教科の不明点を教え合うなどといった建設的なことができる心境ではない。
ふたりと一緒で居たたまれないなんて思ったことなかったなぁ、と今日までの親交を感慨深く振り返ってしまいながらの、かすかな胃痛を感じる時間は、しかし幸いにと言うべきか、それから二十分さえも続かなかった。
「……」
「……」
「……」
穏やかな息の音だけが鳴り渡る部屋の中、示し合わせたごときタイミングで同時にペンを置く。沈黙の応酬と視線の交差ののち、先のふたりの再現のように完璧に揃った動作で隣を見下ろし、感心混じりと呆れ混じり、二様の声を続けて落とした。
「ほんとにあっという間だったね……」
「だから言ったんだ。もう」
多少気を遣った出久に対し、飯田の声は普段とほとんど変わらない音嵩で発されたが、横目に眺める鮮やかな紅白はぴくりとも反応を示さなかった。ゆらゆらと頭が前後に揺れ始めたかと思う間も数秒、吸い寄せられるように天板の上に倒れ突っ伏した轟は、もはや完全に眠りの中に落ち込んでいるようだ。ひょっとしてと訊ねかける。
「冬休み中ずっとこうだったの?」
「ああ。こうして炬燵にあたっているとすぐ寝てしまうんだ。ひとりの時はそっちの座卓も使っているそうだから普段の勉強には支障ないようなんだが、人がいると必然的に一緒に炬燵に入るだろ? 一度寝付くと少し声をかけたぐらいでは目覚めてくれないし」
それに、と振り出す手で自分の側へ向いた轟の顔を指し示し、飯田はぐっと歯を食いしばるようにして言う。
「見てくれこの健やかな赤子のような寝顔を。こんなの無理やり起こせるはずがないだろう……!」
「はは……」
なるほどようやく本当の理解に行き着けた。せっかく勉強の場を開いてもすぐに寝てしまう、それも同席の人間がいるせいでとなると、真面目で責任感の強い飯田に看過できる状況ではないだろう。聞けばエアコンだけ点けて炬燵は消さないかと提案しても、お前の脚に良くないだろうと言って、どうしても頷いてくれないのだという。
「彼も好きこのんでさっさと寝ているわけではないのだろうし、毎回初めに今日は寝ないようにする、と宣言してくれるんだが……結局この有様のうえ起こせもしないのでは、もはや邪魔をしに来ているようなものだよ」
はあと息つき、頭とともに前へ投げ出されていた轟の手を上から指でとんとんと叩いて、
「ほら轟くん、今日は緑谷くんまで来てくれているんだから、しっかりしたまえ」
そう呼びかけるが、声も動作もあくまで穏やかで、寝た子を起こすどころか、より深く寝入らせてしまいそうに思える。轟はほんのわずかに身じろぎをしたものの、案の定覚醒の兆しは見せず、むにゃりと寝言のような音を漏らしながら、触れ起こそうとする指を逆に自分の手の中に握り込んでしまった。ふぐぅ、とみぞおちを突かれたような声が飯田の口から漏れ落ちる。
「ほんとに赤ちゃんみたいだね……」
これは飯田くんも「駄目」になっちゃうな、と近頃はクラスのリーダーの役柄を越え、日増しに父性と母性を伸ばしているようですらある世話焼き委員長の心情に納得を深めて呟くと、幼児しぐさの衝撃に耐える渋面がほどけ、その顔にふっと翳りが差した。
「……こんなに幼いことをするのに、手は全く赤子のようではないんだ」
またひどく荒れてる、と、握られた手を見つめてぽつりと言う。やわらかに触れ返す指は、角張った見目かたちこそこの場の三名の中で最も武骨だが、攻撃や個性の発動に使われない分、傷や荒れはおそらく最も少ない。
しかし、そんな事実をただ語ろうとしているわけでないことは、浮き立たない声音と表情ですぐにわかった。勉強にならないから、子どものようで起こせないから、ただそれだけが、親友との稀な口論にさえ至った飯田の憂いの原因ではない。
「飯田くん。もし何か気になってることがあるなら、僕で良ければ聞くよ」
赤い目がはたとこちらを向く。かすかに浮かんだ動揺は数瞬でほどけ、苦笑に変わった。
「君はいつだって頼もしいな」
ありがとう、と轟が起きていればまた唇を尖らせたやもしれない賛辞とともに頭が下げられて、いつもは滔々と流れるように自論を弁じる口が、ひとつひとつ言葉を確かめながら、ゆっくりと話し始めた。
「先ほどは冬休み中ずっと、と言ったんだが、実は少し違うんだ。休みに入って緑谷くんたちが実家へ帰ったあと、炬燵を出したからと誘われて、去年のうちに二回……いや三回だったか、同じように部屋に邪魔したんだが、その時は特に何もなかったんだ。勉強も普通にできたし、轟くんも眠そうには見えなかった」
「そうなんだ。何かきっかけがあったのかな」
「だと思うんだが、そうすると、帰省しか思い当たらなくて……」
ふたりともに大晦日に帰省し、年が明けて三日の夜に寮へ戻って、その翌日からこの「駄目」な癖が始まったらしい。
轟の寝顔に再度目をやり、すぐに逆側の自分の手元へ視線を戻して、なおためらいのひと間を置き、飯田は言う。
「彼の家はずっと複雑な事情を抱えていただろう。彼はそれにまっすぐに立ち向かって、自分の力で乗り越えていたし、俺もそばで見届けさせてもらった。戦いのあとも彼は変わらず強く立派に振る舞っていて、晴れやかに見えて、きっともう他人が横から口を出したり、うるさく気にかけたりすべきことではないのだろうと、理解できた。……それでも、思わしいことが全てなくなったなんてことはないに決まっているし、この先も色々なことを受け止めねばならないと、彼も覚悟を決めていたはずで」
訥々と語り、自分の言葉の整理のなさに気付いたようにそこで一度声を止めて、ふるりと首を左右に振り立ててから、続ける。
「実家にいるあいだに何かあったのは、時期的にも間違いないと思う。悩みが生まれて、それを打ち明けられずにいるのかもしれない。夜に考え込んで寝不足になってしまっているのかもしれない。俺に相談しようとして部屋へ呼んでくれているのに、話すことができずにいるのかもしれない」
俺にできることならどんなことだって力になりたい、と語る声は、その意気の頼もしさに反する響きをにじませ、眠りの中の相手へは届かず、ただ場に落ちて消えた。
「そう思うのに、こうして彼が寝てしまうのが、俺がまた役に立てないことの表れなんじゃないかと、彼が俺にそんな力を期待できないからじゃないかと、怖じけたことを考えてしまって……いざそれを訊き確かめる踏ん切りがつかずに、いつも強く起こせないでいるんだ」
「……そうだったんだ」
「緑谷くんが一緒なら話してくれるのではないかと思って、つい勇んで巻き込んでしまった。俺の弱気がもとで申し訳ない」
またしても頭を下げられ、慌てて全然平気だよと手を振りながら、今度こそ事の底の底までの納得を得た。やけに頑なで険のあった飯田の態度は、轟に対してのものではなく、そうした自分の不甲斐なさに対して向けられていたものだったのだろう。
飯田が轟の理解者であろうと努めていること、可能な限りに支えようと努めていることは傍目にもわかる。事実、周りはとうにその成果を認めているし、あの戦いでも君は立派にやり遂げたじゃないか、役に立たないだなんて、と出久も一瞬感じたものの、直前の言葉で思い直した。おそらく飯田は、轟の家の事情が不可抗力で世間へ知れ渡るまで、自分がそれを全く知らず気付かずで過ごしていたことを、ずっと気に病んでいたのだ。だから今度の悩みも打ち明けてもらえていないのではないかと、そう思ってしまっているのだ。自分ではなく、先に事情を知っていた出久であれば、と。
しかし出久が轟家のしがらみを知っていたのは、オールマイトと自分の関係に端を発した、父親と格別に関係の悪かった頃の轟の思い込みと張り合い、そこからつながる一連の出来事のためで、言うなればほとんど偶然のなりゆきのようなものだった。決して飯田が特別に轟からの期待や信頼を欠いていたためではない。もしそうしたきっかけがなければ、轟は出久にもほかの誰にも、家庭のことを打ち明けてはいなかっただろう。
「飯田くん、あの――」
そう思って口にしかけた言葉を、中途で喉の奥にとどめる。今さらそんなフォローを受けたところで、飯田の悔いは消えないであろうし、今まさに生じている憂いも軽くはならないだろう。
「本当の赤ん坊なら、つらいことや哀しいことがあってもすぐに忘れてしまえるんだろうにな……」
こちらの挙動不審を気に留める様子なく、飯田は氷炎に荒れた轟の手を慈しむように握り直す。まるで本当の家族に向けるようなあたたかみに満ちた声と慰撫を与えられて、眠りに逃げ込んでいられるはずもないように思えるのだが――などと考えたその時、天板の端に伏せていた飯田のスマートフォンが短く振動を起こした。咄嗟に取り上げた端末の通知表示を見て、おや八百万くんだ、と呟きつつ操作が続けられる。副委員長の名が出て、人との会話中にそちらを優先するということは、何かクラスの用事のようだ。
「急ぎ?」
「いや、そこまでではないようだが、通話だと込み入りそうだな……緑谷くん、轟くんが寝てしまっているままですまないが、少しだけ席を外させてもらえるだろうか。三十分もかからないと思う」
「もちろん大丈夫だよ」
「ありがとう。ちょっと行ってくる」
早回しの言葉とは裏腹の慎重な動作で轟の指を一本一本丁寧に外して、携帯ひとつを手に飯田は部屋を出ていった。
残された空気が一段と冷える、と感じたのは、出久だけではなかったのだろう。ドアが静かに閉じられて一分も経たないうちに、んん、とくぐもった声が天板の上に転げ、微動だにしていなかった身体がもぞつき、紅白がゆらりと起き上がった。こちらに驚きはなく、それを示したのはむしろ目覚めた当人のほうだった。
ここで狸寝入りだったとかじゃないのが轟くんらしいよなぁ、などと思いながら、ひとまず口閉じたまま、続く挙動を眺めた。色違いの瞳が一度こちらを見て、また逆隣りの空席を凝視し、正面に戻ってぱちぱちと数回瞬いてから、やにわに炬燵布団をめくり上げて、身体ごと中を覗き込む。
「いや、さすがにそこにはいないよ」
思わず指摘する。緩慢に起き戻り、〝A組一のモテ男〟にあるまじきもそもそとした動作で座り直した轟は、再び出久のほうを見つめて、硬い表情で口を開いた。
「飯田、出ていっちまったのか」
「うん」
「……そうか……」
「あ、でも、クラス委員の用事で行っただけで、すぐに戻るって」
直前の飯田の憂い顔が頭に残り、一度は淡白な受け応えをしてしまったものの、こちらも予想以上に悲壮感漂う反応があったため、意地悪くもなり切れず即座に言葉を付け足した。そうか、と少し気勢が戻る。なんともはや、わかりやすい。
「駄目になるって、寝ちゃうってことだったんだね」
こっくりと轟が頷き、言う。
「お前が一緒だったら大丈夫じゃねぇかと思ってたけど、やっぱ駄目だった」
先の飯田と似たような思惑を語って、気付いたら落ちてた、と息ついてみせる。
「勉強進まねぇとかは別にあとでなんとでもなるけど、部屋に呼んでんのこっちなのに、ほったらかしで隣でぐーすか寝られて、飯田が怒んの当たり前だよな」
あいつ呆れてたろ、と確認の問いを受けて、今度は迷わず首を振った。
「廊下で話してた通りだったよ。自分が邪魔になっちゃってるって」
「……んなこと思ってねぇのに」
轟の言い分も廊下で口にされたものと変わっていない。前提の言葉があれこれ省略されていたため妙な思わせぶりを感じ、深読みを起こしてしまったが、当事者たちにとってはごく真面目な会話であったのだと、ここにもようやく合点がいった。
浮かない横顔を眺めて考える。単純と言えば単純な話だが、互いへの気遣いに根差した問題であるだけに、自発的な解決には時間がかかってしまいそうだ。しかし他人が横から口を出すのはどうだろうか、ふたりの思いやりを無碍にしてしまうのではないか――ぐるぐると悩み、ええいと腹をくくった。余計なお世話はヒーローの本質。敬愛する師から教わり、親友と贈り合った言葉を励みにして、口を開く。
「飯田くん、轟くんのこと心配してたよ」
「心配?」
首傾げる轟へ、飯田が語った気がかりを、彼個人の憂いや悩みはなるべく隠して端的に教えた。幾度か驚きの反応も交えつつ、轟はいちいちに頷きながら真面目な顔で聞いていた。
「そうか。気ぃ遣わせちまってたんだな」
「家でのこと話しづらいようなら、無理にとは言わないんだけど……」
「いや。別に話しづらいってことはねぇ。つーか、話すことがねぇ」
嘘じゃなく、と言い重ねられるまでもなく、その声や顔にごまかしの気配はうかがえなかった。
「家ではやることなくて単に暇してただけだった」
「でも寝ちゃうようになったのは年明けからなんだよね。やっぱり何か理由があると思うんだけど」
「理由……」
記憶をたどるように視線を上へ、下へ、もう一度空白の席へとさまよわせたのち、
「家帰って、部屋に炬燵出した」
ぽつりと言う。
「それで癖が付いちゃったとか?」
「いや、家では寝てねぇ。寒かったから」
「炬燵を出して、寒い……?」
「おう」
はてはて、と要領を得ない話の向かうところを考える。妙な物言いが飛び出てくることたびたびではあるものの、いつも真剣で含みのない轟の言葉は、不思議に人の関心を引いて倦ませない。飯田のやつ、と今度は不在者の名前が出てきて話が炬燵から遠ざかる気配を見せたが、茶々は入れずに続く言葉を聞いた。
「俺のことすげぇ甘やかしてくるだろ」
「そうだね」
それはそうだね、と深々同意する。友人間に持ち出すにはいささか不適当な言葉かもしれないが、轟が率先して使うならこちらとしては否定する理由もない。むしろ自覚があったのだなと少し意外に思っていると、帰省中にそれに気付いたのだと轟は語った。
「家にいるとすげぇあれこれ気ィ遣われてるなと思う。別にだからどうしたいってんじゃねぇし、今さらそれがおかしいとかおかしくないとか言わねぇけど、何があるかわからねぇから、炬燵出しても部屋でのんびりしようって気にはならなかった。それで気付いた。飯田もお母さんとか姉さんみたいなこと良く言ってくるけど、それは気遣われてたんじゃなくて、甘やかされてたんだなって」
不意に言われれば首を傾げてしまっていただろう言葉を、今日の〝実地〟を通じてなんとなく呑み込めたように思った。気遣うも甘やかすも他者へ好意を向けての行動だが、相手がどう感じるかを重んじるだけ、受ける側にも物思いを促し得る前者と、する側の勝手が強い分、受ける側の変化や自省はまるで慮の外の後者、とでも分けたものだろうか。それこそ片や対大人、片や対赤ん坊の態度と言えるかもしれない。
「今回のことみたいに凄く気も遣ってくれるけど、お世話はもう癖とか性分っていうのかな、したいからしてるって感じだよね、飯田くん」
「だろ。だから、なんつーか……やっぱ気付いたら落ちてた、みてぇな。色々注意されても世話されてもなんも気にならねぇぐらい、あいつが隣に座ってんのすげぇ自然に感じてたし、居心地良かったんだなって思った」
それで、とようよう結論を導き出しかけた声が、かちゃりとかすかに鳴った戸の音で絶えた。ノックを省略したのは寝ている轟に配慮してのことであったのだろうが、一歩踏み入ってすぐそれが不必要だったと気付いたらしい飯田は、あ、と気まずげに声を落とし、後ろ手に閉めたドアの前で足を止めてしまった。
「い……」
「飯田」
慌てて身を乗り出した出久より、轟の呼びかけのほうが早かった。ぎっと固い動きで手を上げ、飯田がその場で応える。
「ああ、起きたんだな、轟くん! やはり緑谷くんに来てもらって良かった」
「お前がいねぇから起きた」
「うん、そうか」
無理に張ったことが明らかな声は端的な返事にすぼみ、じゃあ俺はこれで、と勉強道具を置いたままきびすを返しかねない空気さえ湧き上がったが、出久の動揺の言葉を先んじて、轟が再び呼んだ。
「待て飯田、そうじゃねえ。そっちじゃねぇから、話聞いてくれ」
「……俺が聞いてもいいことかい?」
「お前たぶん勘違いしてるから、聞いてほしい」
勘違い、と小さくくり返し、うかがうような視線をこちらへ向けてきた飯田に、出久も赤べこのごとく首肯を送った。轟の結論はまだ聞いていないが、今まさに生じているだろう「自分が離席したから彼は起きて悩みを打ち明けることができていた」という思い違いに関しては、確実に正さなければならない。
重たげに足進めて隣へ座り直した飯田を二色の瞳がしげしげと眺め、ひとつ大きく頷き、言う。
「飯田、俺はやっぱ駄目じゃねぇ」
「うん……?」
「お前がいるせいで寝ちまうわけじゃねぇ。だからお前も駄目じゃねぇ」
中座していたためなおさら唐突に聞こえるだろう言葉に、飯田は首を横へ傾げたままそうなのかと相槌した。相手の言葉を素直に聞いて素直に判断する、というふたりの良く似た性質は、対話の継続には概ねプラスに働いてくれる。
「正月に家帰って部屋に炬燵出しても、お前が横にいねぇからなんか物足りねぇ感じがして、ずっと寒ぃなと思ってた。なんもすることなかった。寮戻ってお前に会って、またこうやって並んで炬燵あたったら、今度はやけにあたたかくて、眠くなった。あたたかいと寝ちまうだろ」
「うん、まあ、深部体温が下がるからな……」
「仕組みは良く知らねぇけど、お前といるとすげぇあったかくなる」
単に眠くなってるわけじゃねぇ、と、小さな、しかし確かに重要なはずの線引きを強調して語る轟の横顔はごく真剣で、怖いぐらいに整っている。
彼に憧れる生徒の一人や二人、五人や六人簡単に転がしてしまえそうなまなざしを正面から受けながらも、慣れが高じてか、何かしらの防衛反応が働いてか、学術方面に思考を持っていかれてしまったらしい飯田は、おののきもせずにまた首を傾げた。
「どうしてだい」
「わからねぇ」
いやわからんのかい、と出久は見つめ合うふたりのあいだに胸中から委員長ばりの手刀を入れた。もしやこの場で「何か」が進展するのでは、自分こそこのタイミングでじゃあ僕はここでと部屋を出ていったほうが良かったのでは、などとどぎまぎしてしまった心を返してほしい。
声にできない抗議をよそに、ごく素直で真面目な対話は先へと続く。
「寝不足では」
「寝れる時は八時間半寝てる」
「俺たちの歳では寝過ぎなぐらいだな……その、何か悩んでいたりとか、俺に話せないこととかがあったり、」
「なんもねぇ」
「何もないのに身体に変調が?」
「変調ったって、あったかいだけだぞ。炬燵入ってんだしおかしくはねぇだろ」
「うーん……」
「たぶん家より寮のほうがもう慣れちまってんだと思う。こっちでお前といるほうが自然だと思うし、落ち着くし、安心する。一回帰ったら余計にそう感じたから、あったかいのも余計に感じるようになったんじゃねぇか。余計、っつっても悪いわけでもねぇし」
「そうか、寮暮らしも一年半近いものな……俺も正月に実家で寝て起きたら天井が違うと思って混乱してしまったりしていたし、多少なりと体感に影響することはあるかもしれない。こちらに戻って君の顔を見たらなんだかほっとしたから、同じようなものだろうか」
「じゃねぇかな。色々当たり前になってたのが急になくなったら、不安に感じるだろ」
「なるほど」
いやなるほどかなぁ? と頷き合うふたりのあいだにB組委員長ばりの裏拳を入れるも、やはり心中での挙動にとどまったため伝わりはしない。相手の言葉を素直に聞いて素直に判断する性質は、おおよその場合はプラスに働くが、時たま話がとんでもない方向に転がり出して止まらないという事態を招くこともある。
「炬燵と俺の組み合わせが寮を連想させて、無意識の比較を招いているとか?」
「かもしれねぇ。お前がそこにいるとのんびりできるつーか、ゆったりするっつ―か、すげぇあったかくて、気付くと落ちてる」
「ふむ」
賢いのに賢くない会話、とぼちぼちこの妙な関係に気付き始めているクラスの誰かが評した掛け合いを片耳で聞き流しつつ、今度は拳は収めたまま、「落ちてる」か、と感慨のみを胸の中で唱えた。
轟自身は眠りに落ちる、はたまた何かしらのマニアやオタクが事あるごとに発する、沼に落ちる、深みに落ちる、といったような意味合いで口にしているのだろうが、人が人との関係を深めていく途上で、気付かぬうちに落ちてしまうものはほかにもある。そうした方面の知識などからっきしな出久でさえ察せられる情動に、他人を見る目も自身を顧みる目も決して節穴ではないふたりがたどり着けていないのは、もう岡目八目の典型と言うしかないのだろうか。
少しだけでも疑問を持ってみてほしいと願う外野の心も知らず、秘めていた憂いが否定されてすっかり落ち着いてしまった様子の飯田は、ううむ、と新たな懸念に眉を寄せた。
「寝不足や悩みごとでないのは良かったが、結果的に寝てしまうのではな……やはり邪魔になっていることに変わりないのでは」
「邪魔じゃねぇ。どうしても気になるんなら、炬燵はしまう」
「せっかく出したのにか? まだ寒いだろう」
「お前に駄目なやつだって呆れられるほうが嫌だ」
「呆れたりしないよ。君につらいことや哀しいことがないなら、俺はそれでいいんだ」
「飯田」
思わず、といった声で名を呼んだ轟へ面映ゆげに頷きを示し、A組の誇る強く優しく常時フルスロットルな委員長は、とうに道をそれた車輪をなおも前へと転がしていく。
「轟くん、ひとつ提案なんだが……次回から勉強の時は俺の部屋に来ないかい。君の部屋より狭くなってしまうけど、不要なものは片付けてできるだけ綺麗にしておくから。ここには特に用事がなくて、寝てしまってもいい時に邪魔させてもらうことにして」
「用がなくても俺が寝ちまったら退屈じゃねぇか?」
「本でも読んでいるから大丈夫さ。今の話を聞いたらむしろ嬉しいよ。君が安心して眠れるのなら、寮の代表として毎日だって呼んでくれていい」
「お前俺のこと甘やかしすぎだろ」
「そうだろうか」
それはそうだね、と深々同意する。みたび心の内で、のつもりがうっかりゆるんだ口から飛び出させてしまっていたが、今は互いしか見えていない二名の耳には入らずに済んだ――かと思いきや、中身はともかく声はしっかり届いたらしく、赤に
碧に銀灰、とりどりの目が揃ってこちらを向いた。座ったまま飛び上がりかけたのをどうにかこらえ、一時間前に廊下でも同じ滑稽を演じたこと、自分がとある使命を負って(負わされて)この部屋に呼ばれたことを思い出した。
あ、と飯田が慌てた声を発するも、あくまで友人をないがしろにしていたゆえの反応で、個性非稼働にして甘酸の実じみた空気を香らせていたためではない。残念ながら。
「すまない緑谷くん! せっかく来てもらったのにふたりだけで話を進めていた!」
「いや、だいじょぶです……むしろ僕は無視してもらったほうが」
「お前も次から飯田の部屋でいいか?」
「二人が風邪を引かないよう事前にしっかり暖房しておくから安心してくれたまえ!」
「友情があたたか過ぎる……」
いっそ眠っているあいだに話を終えてしまってほしかったが、あいにく人の部屋で熟睡できる肝の太さは持ち合わせていない。まっすぐな親友たちの瞳を直視できずに視線を逃がすと、今度は炬燵の天板に置かれた飯田の手の上に当たり前のように重なる轟の手が目に入り、わあ、ともはや拳も声も出ずに天を仰いだ。ここへ至っても双方あらゆる情に無自覚でいるのでは、「何か」が次のマスへ駒を進めるまでに、果たしてどれほどの時間がかかることだろう。
「どうした緑谷くんぼんやりして。気分でも悪いのか?」
「いやもうなんか一周回って楽しくなってきたかも」
「お前いつも夜遅ぇから寝不足なんじゃねぇか」
「む、研究熱心は素晴らしいが、身体に良くないぞ! よし、では次回の暇な日には早めに轟くんの部屋に集まって、俺が二人の睡眠を見守ることにしよう!」
「それは謹んでご遠慮します」
「なぜだい?」
「なんでだ?」
ふたりとも相手に駄目になってて、邪魔なのは僕だからです――と正直な〝審判〟を告げられるのも果たしていつになることやら、お互いの安眠のためにもできるだけ早くあってほしいと、小首傾げる親友たちに努めてあたたかく微笑を返す、春待ちわびる厳冬の午後だった。
おしまい。